普通レベルに面白かった。
何がやりたかったかなどは、監督本人に聞いても本当にそうかは解らないし、物語というのは勝手に解釈する自由があるから勝手に解釈する。
1順見ただけなので、見逃した伏線も多いのではないかと思う。TVシリーズとしては限界ギリ付近の情報のねじ込み方をしていて、2順以上見ないと掴み難い部分が多いと思う。監督自身もそう述べていた。それ自体は好みだ。
かつてのアニメはビデオ録画もままならない時代のものだったし、今は円盤(blu-ray)商売前提だから、複雑さが違うのはそういうもんだと思う。
さて。比較しても仕方が無いが、対象としてわかりやすいので1stガンダムと比べてみる。
1stのアムロは、社会と折り合いがついていない内向的な少年だったが様々な経験を経て居場所を見つける。
Gレコのベルリは、優等生であり上手く生きていけるが、複雑な状況に飲まれ苦闘し、一度その居場所から離れる事を選ぶ。
回帰する物語と旅立つ物語と見ることも出来るだろう。
別のアングル。
1stガンダムは、増えすぎた人類を宇宙に移民させて半世紀、宇宙移民者の自治権の拡大要求として始まる。
地球連邦政府に対し地球から最も遠い移民コロニーがジオン軍として独立戦争を開始する。
第2次世界大戦をベースにいくつかの戦争を色を濃く反映している。宇宙船間ヤマトは第2次世界大戦を日本の視点でリベンジするような屈折した内容であったが、1stガンダムで日本軍的要素を多く含むのは敵側のジオン軍であり、技術によって戦争序盤で快進撃をするが、終盤に生産力の差と内輪のバタバタにより決定的な敗戦を迎える。
主人公アムロは連邦軍のエースパイロットとして戦局に影響を与えるレベルで活躍するが、実際の戦争の勝敗はもっと大局的な部分で決している。
Gレコは、1stガンダムよりさらに後のお話。相当な戦争を経て、人口激減や食料難による人肉食も経験したらしいが、科学技術に制約をかけることで再度の繁栄を始めている。
人類の繁栄は、戦争を呼び覚まし、禁忌とされた科学技術の発展に手をつける。
キャピタルテリトリー、アメリア、ゴドワン、 他、複数の勢力がそれぞれの思惑で行動しており、また勢力内部でも一枚岩ではない。
戦争状況の元となった人たちは、すでに状況のコントロールをしていないし、主人公の属するグループは複雑な混成部隊となっている。
主人公のベルリは重要な人物ではあるが、大局に影響を与えない。
おそらく、1stもGレコも、当時の若者の気分を反映している。アムロもベルリもその時代の若者なのだろう。
アムロはオタク的なキャラクターだが人類の進化を示し、苦悶しながらも、現実への着地点を見つける。
ベルリは、非常に優等生的なキャラクターだが、いろいろ思うようには行かない。それでも前向きに生きる。
そういう描き方だと思う。
他。
Gレコでは、宇宙での生活や、組織、対人関係の複雑さを、ずいぶん丁寧に書く。
その代わり、世界の規模はかなりあっさりしている。
全編を通して、どれぐらいの人口が、どの程度の生活をしているのかが、イマイチつかみにくかった。
これは、戦闘行動を行っている組織がそれぞれ小規模しか書かれていないこと等も影響している。
位置関係、距離関係、規模、といったものがあまり明確に示されない。
1stガンダムは、映画版を経て、かなり大規模の戦闘の一局地戦であるという描き方を丁寧にしている。だいたいの世界の広さ、そこでの戦争の規模、主人公の位置づけが明確に描かれている。
どうしょうも無く大きい世界に、しかし適応していく話。みたいな。
Gレコは、話の規模は大きいのだがそこはボンヤリしている。わりと卑近な近しい距離の世界での葛藤のほうが大きい。つまりそちらにフォーカスした物語だったのだろう。そしてそれから距離を置くことを選ぶエンディングを迎える。
マスクとベルリが殺しあわずに距離を置く決着は、ロボットアニメにおいてはかなり珍しい落とし方だが、いいオチだと思う。
恵まれた環境にあったベルリが、困難な状況に置かれ、殺人も経験し、獲得したいものも獲得できず、しかし戦闘マシーンにもならず、腐らない。
日本で皆と別れ単身旅に出るベルリは、2脚歩行マシンで軽快に富士山を越えていく。
これも、大変な旅だったり重大な決断だったりという演出をしない、重くならないように、軽やかに。
マスクも屈折した身の上があり、行動もエキセントリックであったが、悲劇を直接迎えない。彼が悲劇を迎えるかどうかは今後の彼次第であろう。
1941年生まれの監督が、説教臭くならないように、若者になにを伝えるか。そういう事を考えたのではないか等と邪推する。
コイツを倒せばすべて解決、という悪役が居ない。物語の発端を作った男はすでに傍観者になっている。差別もその怨恨も原因ははるか過去であり解決はされない。戦争も揉め事も個人の手の届かない距離が原因で対処が出来ない。そんな状況でも腐らない。距離を置ける。
そういう生き方も出来るのではないか。みたいな切り口。
今の若者は十分に複雑で面倒な中に居るので、説教するわけにも行かない。
コレは、1st当時と、現在において、そのメイン視聴者たる若者を囲む問題の違いから、選ばれたドラマなのだと思う。
1stは、ラスボスと思われるデギンが既に隠居状態であり、ラスボス的ポジションとなったのはギレン(そもそも打ち切りでなければアムロとの一騎打ちがありえた)だが、彼もキシリアに撃たれ、キシリアもシャアに撃たれる。アムロ関係なし。
これは打ち切りの功名とはいえ、よく出来た物語だなと思っていて、ボスなんか本当のボスではなくボス的人物も直接倒す事無く、複雑な世界を表現しながらそれでもカタルシスを作っている。アムロのニュータイプ能力は仲間を生存させることに使われる。
Gレコが、ボス的人物が既にボス的役割を放棄しているのは類型としても、ボス的役割を誰も果たせない、皆がけん制はすれども実権を握れない、器でない、というのは、現代のエッセンスだと思う。
手馴れ出仕事をしていないのはとても良い。見るほうも正座視聴だ。
個人的な感想をいえば、自分は物語を詰め将棋のように楽しみたいクチなので、盤上のサイズと駒の距離がイマイチわかりにくく、駒の性能を覚えにくく、後から後から駒が増えるGレコは、最大限に面白いものではなかった。
これは、デザインの問題(勢力が解り難い)と演出の問題(位置関係が解りにくい)による部分が大きい。詰め込みすぎでハイテンポな物語自体は面白かった。平凡な物量を普通のテンポでやっても面白くなかったと思う。
この解りにくさが良い、みたいな言説も見たが、自分は解り難いことを解りやすく伝えて、これは解り難い事なのだ、と理解させるのが好ましいと思っている。
本来悩ませたい所で悩ませる為に、解りやすくしたほうがいい部分が解り難かったという印象だ。
勢力の解りにくさは、その服装、艦船、メカのデザインがわかりにくいことに起因する。じっくりみるとちゃんと差はつけてあるが、解り難い。帝国は丸い、ジェダイは四角い、ジオンは丸い、連邦は四角い、ぐらいのわかり易さを是とするか否とするか。
また勢力の数が多いので、それぞれの勢力への踏み込みが浅く、規模やバックボーンがわかりにくい。大きい勢力のはずなのだが、そこが動かす部隊、小隊は規模が小さい。みたいな表現が多い。
これは物語が世界全体よりも、ベルリ周辺にフォーカスされているので、物語として不要とされた部分だと思うのだが、将棋を指している最中、盤のサイズと相手の手駒が不明、的な解りにくさを感じた。
さらに、演出によって、情報がガチャガチャしている。
例えば、宮崎駿は映像作品での位置関係がとてもわかりやすい。大抵の場合上下の位置関係を使うし、平面状ならば一本道を使う。経験則として映像作品ではこれぐらいが限界と思っているのだろう。
富野も、Gレコ以外の映像作品では、位置関係を丁寧にやる監督だと思う(映像の原則―ビギナーからプロまでのコンテ主義 (キネ旬ムック)とか読むと特にそうだ)。
それでも勢力の数が多いので混戦になるとかなりわかり難いし、カメラの切り替えしが(えっそこでカメラ方向変えたら解り難い)という使い方が結構ある。(狙ってるようにも見えない)
こういうのは個人による。正解は無い。
監督自身がTV放送ではわかりにくかったのでblu-rayで云々という発言もしている。
解り難いから悪いというものではないので、好き好きだが。
web上などで「Gレコの面白さが解らない奴はバカ」的な言説がいくつか見られて結構不快だったが、まぁそれぐらい好かれる物語というのもたいしたものだと思う。
また、時間的余裕があったら1話から見直そうと思っている。
見逃していた発見もあるだろうし。
作品をどういう風に楽しむのも、受け手の自由だろう。
ザックリ感想なので、あまり丁寧にまとめない。自分が後で読み直す用。
わりと、ゲームや動画って、初見と2回目で感想が変わることが多くあって、その差異は知っておくと自分のヒキダシになると思っている。
自分は、逆襲のシャアなどは、初見の時はポカーンだったのだ。あれだけ説明過多でわかりやすく、それでいてアクションに溢れ、ケレン味もあり面白い映画でも、あのオチではポカーンとしてしまう。でも、ああいうオチだと最初から解ってれば、その面白さを充分に堪能できる。
逆シャアは2回目以降が面白い。みたいな。
はてさてGレコはどうじゃろね。
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