自己犠牲の否定について


明主様御教え 「大光明世界の建設」より (昭和10年2月4日発行)

「それで、今日までの宗教を観察してみると、どれも完全な教えはなかった。

例えてみますと仏教でいう大乗と小乗であります。

小乗とは利己的信仰で、大乗は利他の信仰のように解釈しておりますけれど、この解釈はまだ本当じゃないのですが、

仮りにそういうものと仮定しても実は小乗も大乗も間違っているのであります。


今日の小乗的信仰とは個人の利益、

つまり自分が安楽に暮らせばいい、自分の家族一族が倖せに暮せればいい、社会とか国家とか人類とか、そういうものには一切関心をもたぬ、

世によくある家内安全、無病息災、商売繁昌などと拝む有難信仰がありますが、これが即ち個人本位の信仰であります。


次に大乗的信仰と称するのは全然これと反対で、社会とか、国家とか、世界人類とか、そういう大きいことを対象として、自分のことを無視するのであります。

兄弟親子と別れ、家庭を犠牲にしても世のためにつくすというのであります。

これは一応甚だ立派なように見えます。

なるほど大きい救いのために、自己を犠牲にしてやるということは、大変悲壮であって、立派であるが、

やはりこれも真理から言って間違っているのであります。

ただ特殊の場合止むを得ぬ事情に際会した時を除く外、平常滅多にあるものではないのです。


それで小乗でもだめ、大乗でもだめだということは明らかであります。

しからば一体どうすることが本当なのかと言えば、それは小乗にもあらず大乗にもあらず、また小乗であって大乗であるということであります。

それはある場合には小乗で行き、ある場合には大乗で行く、その時と場合、また人によっていろいろに変化することであります。

例えば暑い時は単衣物を着、少し涼しくなるとセルを着、袷衣を着、寒くなれば綿入れを着るというようなわけで、

対象、環境によって、即ち時所位に応じて変化すること、それが本当なのであります。


それですから、小乗的信仰、利己的信仰では到底人類は救われないはずで、利己が衝突して争いとなり、それが大きくなれば戦争となるのであります。

と言って、大乗的信仰の一身を犠牲にしても、世界人類のためにつくすということは、ちょっとも間違っていないように見えますが、

こういう信仰や、こういうやり方で、各時代に多勢の人がさんざんやってきたのでありますが、

今日まで理想世界が実現しなかったということは、だめだということを明らかに証明しております。


その理由を言うよりは、結果を見たら一番判ることと思うのであります。

現在でもそういう型の宗教を見た時、実に悲しむべく悲惨な感じがします。

世界人類のため、すべてを犠牲にするのは結構だが、自分自身が行き詰ってしまうから、

ついには親子兄弟親戚にも迷惑をかけ、家庭は不和になり、周囲の人達からは排斥されて、「孤独に陥りつつも」なお、

これも神様のためだ、皆神の試練だと言って、

そうなればなるほど、ほとんど意地づくにさえなってきて、

やっていく。そうすればするほど、なおなお周囲から誤解され排斥されて、二進も三進も行かなくなり、

こちらが救うというよりは、かえって人から救われなければ、食ってゆけないようになって来る。

こういう型があらゆる宗教にみえるのであります。


これでは天国ができるものではありません。

世界が天国になることは、先ず世界を構成している単位を考えれば判るのであります。

それは結局人間であります。

世界は人間の集合体で国ができ、国は市町村からなり、市町村は家からなり、家は個人からなっています。

ですから単位である個人が救われねば、世界は救われるはずはない
のであります。

したがって、個人の利益のみ主とする小乗的信仰も間違っておれば、

個人を犠牲にする大乗的信仰も間違っているんであります。

つまり両方ともよくなり、全体が救われなければならないのであります。

個人が救われ、完成しなければならないのであります。

一軒の家が世界の型とすれば、一家が天国になって、救われて世界は救われるわけであります。


今までに、そういう説はあるにはありましたが、到底実現はせないものと、あきらめられていたのであります。

それは、その開祖なり、その宗教なりに力が足りなかったためであります。

今後、いよいよ観音力によって、それが必ず完成することになったのであります。

それで、これを最も判りやすく言えば、病と貧と争いのない世界、病貧争のない家庭ができることであります。

病貧争は、小三災たる飢病戦と同じことでありますが、病貧争と言ったほうが何だかピッタリすると思います。

これが絶滅するんであります。

果してそれができるか、必ずできるんであります。

観音様を信仰すれば、絶対にできるんであります。(後半省略)」




明主様御講話 「貧乏になる宗教は偽物」 (昭和10年6月21日)

「いずれ、本部の地所の候補地もおよそみつかりました。

なぜおよそかと言いますと、まだ金を出して、こちらのものにならないからで、約一万坪ばかりありまして、

金さえできれば、いつでもこちらのものになるようになっているんであります。

それも、他の宗教のように、みなさんから寄付を強要するなどということはぜんぜんなく、ぜひ出さしていただきたいという方はお断りはいたしませんが・・・

すべて神様のことは、どうか出さしてくれと言うて出すのが本当であって、

いくらいくら出してくれと金高まで書いた奉加帳を門並を持ってまわり歩くなどは間違っているんであります。

それはいままでのやり方で、既成宗教へいくと、どこどこまでも伸ばさねばならぬと、非常に迷信的の宗教のため、苦しみ悩む人がたくさんできる。

それはなくさねばならない。

それは信仰の病気で・・・

それで、病気治しを願うとき、その病気は治してやるからいくら出せ、などいうのは、実に恐るべき迷信で、こういうことは断然なくしてしまわなければならないのであります。

そういう方法は、あらゆる宗教にあるんであります。


観音様のほうは実にうまいもので、これは、いま発表はしませぬが、それについてこういう標準があります。

いまここにある人があって、ある宗教へ入ったとすると、その宗教へ入ったときと入った後と比べてみればいい。

その宗教に入ってから病人がなくなり、体が丈夫になったかということ、また財産が減ったか増えたかを見ねばなりませぬ。

もしか、財産が減ったか、またつぶれたかとしたら、その宗教は本当のものではないのであります。

なんとなれば、本当の宗教は病貧争をなくするんでありますから、

貧のほうへ接近させるのは本当の教えではない
のであります。

そういうふうに見るのが一番判りやすいのであります。

まず信仰に入って財産が増えたか減ったか、あるいは、商売が衰微したかどうかをみればいい。

もしか少しでも財産が減ったなら、それは迷信だと断定して差し支えないのであります。


ところが、観音会には決してそういうことはないのであります。

もしあればこういうことは言えません。

しかし、特に使命のある人は、一時商売をよさなければならぬから、大きい家に住んでいたのが、小さい家に一時入るようなことがあるのは、特にしかたがないと思っていただきたいのであります。

観音会のほうの博使や医者ができても、ほかの既成宗教の役員や布教師ですと、いくら成功しても、生活はキリキリいっぱいであります。

けれども観音会はそうではないので、すべてが無理がなく、相応の理で身分階級も当てはまるので、博使以上になると、家も門構えの家に住むようになるのであります。
 

既成宗教を見ますと、ちょうど「一将功成り万骨枯る」という状態で、これはあらゆる宗教に当てはまると思います。

本部は馬鹿に太くなって、御一統はすばらしい豪奢(ごうしゃ)な生活をし、信者は切り詰めた生活をしているのであります。

それはたいへんにいいように思われるんです。

それはたいへんに間違っているということは、すべて階級があるので、ある程度の階級はなければ相応しないのであります。

すべてのそういう種々な、いままでの欠点や、いままでの間違ったことを、本当の治ったやり方になってくるのであります。

そういう新しい形式、新しい文化が生まれるんであります。」




明主様御講話 「滅私奉公はいけない」 (昭和27年1月1日)

「それから、すべての信仰的の考え方ですけれども、

やっぱり今と同じように、自分も良し人も良し、人も良し自分も良し、というのでなければいけないですね。

よく、戦争時分なんかも、滅私奉公なんて言いましたが、あれはいけない。

極端ですね。滅私と言うのは、自分を滅すというんだからね。

自分がなくなっちゃ、奉公なんか出来ない。

しかしあれは、私を滅するという・・・私利私欲をなくするというんでしょうが、これもやはり極端です。

だから、伊都能売式にいえば、人も良し自分も良し・・・これでなければ続くものではない。

自分だけが犠牲になって人は良い、という事はいけないし、

人を押しつぶしても自分が良く、という事もいけないですね。

両方が良くなければならない。

そんなうまいことができるかというが、出来るんです。

むしろ、自分が良ければ人も良い、というのが出来やすいんです。

今までは知らなかったんですね。

大本教のお筆先にこういう事があった「人良かれの信心でないと、神の気持ちにかなわぬぞ」人良かれ・・・これはうまい言葉ですね。

それから「今の世は、自分さえ良ければ人はどうでも良いと言うむごい心になり居るから・・・」とある。

ですから、大本教では「我良し信心」というのがありますね。

これはもちろんいけないですね。

私の信仰雑話にある通り、自分が幸福になりたければ、人を幸福にする。

どこまでも愛ですね。

他人を幸福にするという・・・これが欠けていてはいけない。

これが伊都能売になる。

自分を捨てて人ばかり良くするというのも極端で、

自分さえ良ければ人をぶっつぶしても良いという・・・これも極端です。





明主様御垂示 「他人を救うため犠牲になるのは本当でない」

信者の質問
「人間が自己以上に人を愛することが出来ると考える事は自己欺瞞となるでしょうか。」


明主様御垂示
「結構である。これは本当の信仰の考え方である。欺瞞ではない。

しかし、自分を滅しては何にもならぬ。

他人を救うために犠牲になっては本当でない。滅私奉公である。そこが決められぬ事である。

自らが良い信仰の見本を見せ、先で賛成させるのがいい。

他人を助けて、自分は不幸になるのは本当でない。」




明主様御垂示 「自己を滅してしまってはオジャン」 (昭和23年12月28日)

信者の質問
「慈悲は正義の裏づけが必要と存じますが、左の項目において慈悲と正義との関連につき御指示をお願い申し上げます。

キリストの「人若(も)し汝の右の頬を打たば左をも向けよ」との無抵抗主義に・・・」


明主様御垂示
「これはいいでしょう、これくらいの心持ちなら間違いはない。

これがいいんだがなかなかできないんですよ。

大本教祖の出口なお刀自は人が金を貸してくれと言えばすぐに貸してやる。

先方が借金を返す人かどうかには頓着せず、また金を貸したことも忘れてしまう人でした。

しかしこんなことは現実問題としては無理です。

個人ならまだいいが、殊に国家の間では成り立たない。

領土を半分とられて、「ではこっちも差し上げます」・・・というわけには行きませんから。

だから、キリストが言ったような心持ちでいて、臨機応変にやって行けばよろしい。

戦時中、滅私奉公ということがよく言われたが、これは嘘で、私を滅してしまってはオジャンです。

滅するのではなくぎせいにするのならいいですが」




明主様御垂示 「贖罪はあるが本当の犠牲はない」 (昭和23年12月8日)

信者の質問
「世間には、夫婦や親子等の間で、ある人が他の人のために犠牲になることがしばしば見られますが、

このような「人間関係の犠牲」という事はどのように判断し、行動致すべきでございましょうか。右、御教示御願い申し上げます。」


明主様御垂示
「犠牲・・・夫婦親子・・・抽象的ではっきり言えぬ。

贖罪はあるが、本当の犠牲はない。

犠牲になるのは、その人に犠牲になるべき資格があり、信仰があれば早く片付くまでである。」




明主様御垂示 「神の試練はない」 (昭和24年1月8日)

信者の質問
「いままでの夜の時代のいろいろな人生の苦しみは、ただ夜の世界だから苦しみがあったというばかりではなく、やはり神様の人間に対する試練としての苦しみもあったと考えてよろしいでしょうか。

さらに昼の世界においても人間を向上せしめ、深み、うるおいをつけるため神の試練としての苦悩、悲哀、・・・例えば恋愛における失恋の苦しみのように・・・もなんらかの形で存在するのでしょうか。」


明主様御垂示
「神の試練ということは本当はないのです。

人間のほうでそういう理屈をつけたんです。

神様が人間にいいものを授けようとするとき、容物が汚れているのでまずその容物を掃除してくださる、そのときが苦しみなのです、だからそれが浄化なのです。

そしてそれがすんできれいになればいいものを神様が与えてくださるのです。

だからそこで人間は、「あああの苦しみは神の試練だったのだ」というふうに考えるのです。・・・

また、失恋の苦悩といっても、恋愛というのが一つの執着なんだから、結局、自分で勝手に執着して苦しんでいるのです。(笑声)だから問題ないですね。」




明主様御垂示 「神の試練というのは人間の側の解釈」 (昭和24年9・10月)

信者の質問
「不幸や災難を受けるということは神様がその人やその家の罪をお許しになるためでしょうか。あるいは試練を与え給うものでしょうか。」


明主様御垂示
「罪を許すんではなくて罪を尤めるんですよ。

だから、アベコベですね、これは。

神様のほうだって罪を許すわけには行かないんですよ。

しかしね、人間はだいたい自分で罪を作って苦しんでるんですよ。

だから、馬鹿なもんですね、人間ってものは。(笑声)

不幸ってのは人間が自分で作って苦しんでいるんですよ。

そりゃあ、先祖の罪ってこともありますがね。

しかし、先祖と言ったって結局は自分だから、やはり自分の罪ですよ。

なぜって、先祖は自分かあるいは自分の父母とか兄弟と言った肉親ですからね。・・・

試練を与えるのは神様がその人をお使いになるとき、汚れを取り除くために浄めてくださる、それが苦しみなんで、

それを人間のほうで、「ああ、あれは神の試練だったのだ」というふうにいい解釈をするんです。

まあ、これはいい考え方ですが、そういうふうに言えますね。」




明主様御教え 「幸福の家」 (昭和10年9月15日発行)

「本会下付の観世音の御神体は、観世音菩薩の御直筆であると言ってもいいのである。

故に御奉斎をすれば、その御神体から、光明を放射するのである。

これは、その家の幾人かは必ず拝するのである。

その光りの色は、プラチナのごときあり黄金の光りもあり、紫の光りもあって、初めて拝した人の驚きは一方ではないのである。


一家に不幸があり、病人が在るというのはその家の霊界が暗いからで、暗黒程悪魔の霊が跳躍するのである。

霊界が暗いという事は曇があるからである。

曇があるという事は、その一家に、祖先以来の罪穢が溜っているからである。

よく暗い家というが、それは人間の霊感で判るからである。

この一家の曇りが、御神体から放射する光りによって解けてゆくのである。

日に日に暗(やみ)が解けて明かるくなってゆくのである。

故に今まで不幸な事があったり、思う様に行かなかったそれらが、

不思議にも反対になって行くそれは悪魔が光りを恐れて退散するからだ。

御奉斎して、半年も経てば病人が無くなるという不思議さは、体験者でなくては信じられない事である。

今まで、こんな大きな力を与えてくれる宗教は、断然無かったという事は言えるのである。


これまでの宗教は、高価過ぎた、犠牲が多過ぎた。

罪障消滅に金と時が、余りにもかかり過ぎた
のである。

我 観音信仰においては、わずかな時と、僅な金で、絶大な御神徳を恵まれるという事は実に驚くべき事である。

故に、今直ちに奉斎する事だ、それで、万事は解決する。

ちなみにこの世界は物質界と空気の世界と霊の世界と三段になっている。

三界とか三千世界というのはこれを言うのである。」




明主様御垂示 「家庭を破壊する信仰は間違い」 (昭和24年9月25日発行)

信者の質問
「夫が本教のお仕事に理解なき場合、大乗的に考えて夫に相談せず種々な御用をさせていただいておりますが、

小乗的にみれば悪と思われるようなことを押しきってやっている場合、

やがては行き詰まりや衝突が起るかと思い不安を感じておりますが、今後いかにしたらよいでしょうか。」


明主様御垂示
「これは極端である。

いいには違いないが大乗的に良いことでも夫婦の円満を欠くのはいけない。

夫に知れてもたいした悶着の起らぬ程度に常識的に臨機応変にすればよい。

以前天理教の信者であまりに夫と合わぬので布教師の先生に相談したところ、

あなたは神様と夫とどちらが大事かと聞かれ、神様が大事というのでついに夫を捨て生き別れたが、

その後腕の病で治らず私が治していまは本教で一生懸命やっている。

いくら信仰でも家庭生活を破壊するのは社会秩序が乱れるから間違っている。」