献金の自由主義について


明主様御教え 「算盤と能率」 (昭和26年12月26日発行)

「(一部のみ引用) そうしてここで私の事を少しかいてみるが、私は宗教家に似合わぬ算盤を忘れない主義で、何よりも私のやり方をみればよく判るであろう。

教修にしろ、御守にしろ、色々な会費にしろ、一定額を決めるようにしている。

それで出す方も宗教にあり勝ちの思召などの面倒臭さがないから気楽であり、

ただ除外例として任意の献金は受けるが、これも強請はしない方針になっている。

このようなやり方は恐らく今までの宗教には余り見られないところであろうが、

これがいかに本教発展の有力なる要素となっているかは言うまでもない。」




明主様御教え 「幸運者を作る宗教」 (昭和28年6月10日発行)

「(一部のみ引用) ところが我がメシヤ教は、精神的救いと共に物質的にも救われる。

むしろそれ以上といってもいい程である。本教が数年の間に現在見るごとく、

各地に地上天国や美術館等を造営しつつあるのもことごとく信者の寄付金である。

しかも本教は最も搾取を嫌い、自発的寄付を方針としている。

にもかかわらずこれ程の大規模の事業を経営するとしたら莫大な基金を要するのはもちろんで、それが集ってくるのは、実に奇蹟である。

これにみても信者の懐(ふところ)が楽であるからである。

しかも一時的ではなく、多々益々増えるのであるから、金銭上の心配などした事はない。」




明主様御教え 「悪銭身に着かず」 (昭和24年6月25日発行)

「(一部のみ引用) 今一つ知らなければならない事は、昔から宗教上の建物が、火災のためよく灰燼(かいじん)に帰する事がある、

浄財を集めて建築された清き社寺や殿堂、伽藍等が焼失するという事は不可解に思われるが実は理由がある、

というのは、その基金を集める場合無理をする、例えば信徒または末寺に対し一定の額を定め強要する事があるが、これは自然ではない、

信仰的献金としては本人の自由意志によって任意の額を決めるのが本当である、

気持よく献納する事こそ真の浄財になるのである、今一つはその建造物を利用する上においても神仏の御心にかなうようにすべきで、

間違った事をしたり、汚したりするような事があってはならないに関わらず、そうでない場合火の洗霊を受ける事になるのである。」




明主様御教え 「神と悪魔」 (昭和18年10月23日発行)

「(一部のみ引用) 又 金を上げれば病気が治るというような神様も邪神である。

何となれば、金を上げれば病気を治すという事は一種の交換条件であって、

いわば神対人間の取引のようなもので御利益を売る訳であり、実に浅間しき限りである。

これらは正神は聴届け給う事はないので正神は、人間からの報酬や条件などに関わらず、無我愛に救わせ給うのである。

右のごとく、金銭を上げさして、幸に病気が治ればいいが、反対に不幸な結果を来す事も往々あるから、そうした場合一度上げた金銭は決して返還しないのである。

ちょうど、品物を売買の場合前銭をとっておいて約束の品物を渡さないのと同様であって、

これらは神様を看板にして行う一種の詐偽的行為といっても差支えなかろう。

しかるに、こういう目に遭った場合、相手が神様であるから、後の祟りを恐れて泣寝入に終るというのが常態である。

故に、これを奇貨として布教師等が病人の懐を絞るという行為を見受けるが、

実に赦すべからざる罪悪で、世人はかような事に騙されぬよう大いに注意すべきであろう。

従って、世人が心得おくべき事は、神仏を信仰する場合、顕著な御利益があり、いかに考えても、神仏の御加護に違いないと思われるような事があった場合、

その感謝の誠を捧げるという意味で金銭又は品物を上げるのが本当である。」




明主様御講話 「本教に寄付の強要はない」 (昭和10年6月21日)

「いずれ、本部の地所の候補地もおよそみつかりました。

なぜおよそかと言いますと、まだ金を出して、こちらのものにならないからで、約一万坪ばかりありまして、

金さえできれば、いつでもこちらのものになるようになっているんであります。

それも、他の宗教のように、みなさんから寄付を強要するなどということはぜんぜんなく、ぜひ出さしていただきたいという方はお断りはいたしませんが・・・

すべて神様のことは、どうか出さしてくれと言うて出すのが本当であって、

いくらいくら出してくれと金高まで書いた奉加帳を門並を持ってまわり歩くなどは間違っているんであります。

それはいままでのやり方で、既成宗教へいくと、どこどこまでも伸ばさねばならぬと、非常に迷信的の宗教のため、苦しみ悩む人がたくさんできる。

それはなくさねばならない。

それは信仰の病気で・・・

それで、病気治しを願うとき、その病気は治してやるからいくら出せ、などいうのは、実に恐るべき迷信で、こういうことは断然なくしてしまわなければならないのであります。

そういう方法は、あらゆる宗教にあるんであります。


観音様のほうは実にうまいもので、これは、いま発表はしませぬが、それについてこういう標準があります。

いまここにある人があって、ある宗教へ入ったとすると、その宗教へ入ったときと入った後と比べてみればいい。

その宗教に入ってから病人がなくなり、体が丈夫になったかということ、また財産が減ったか増えたかを見ねばなりませぬ。

もしか、財産が減ったか、またつぶれたかとしたら、その宗教は本当のものではないのであります。

なんとなれば、本当の宗教は病貧争をなくするんでありますから、

貧のほうへ接近させるのは本当の教えではない
のであります。

そういうふうに見るのが一番判りやすいのであります。

まず信仰に入って財産が増えたか減ったか、あるいは、商売が衰微したかどうかをみればいい。

もしか少しでも財産が減ったなら、それは迷信だと断定して差し支えないのであります。


ところが、観音会には決してそういうことはないのであります。

もしあればこういうことは言えません。

しかし、特に使命のある人は、一時商売をよさなければならぬから、大きい家に住んでいたのが、小さい家に一時入るようなことがあるのは、特にしかたがないと思っていただきたいのであります。

観音会のほうの博使や医者ができても、ほかの既成宗教の役員や布教師ですと、いくら成功しても、生活はキリキリいっぱいであります。

けれども観音会はそうではないので、すべてが無理がなく、相応の理で身分階級も当てはまるので、博使以上になると、家も門構えの家に住むようになるのであります。


既成宗教を見ますと、ちょうど「一将功成り万骨枯る」という状態で、これはあらゆる宗教に当てはまると思います。

本部は馬鹿に太くなって、御一統はすばらしい豪奢(ごうしゃ)な生活をし、信者は切り詰めた生活をしているのであります。

それはたいへんにいいように思われるんです。

それはたいへんに間違っているということは、すべて階級があるので、ある程度の階級はなければ相応しないのであります。

すべてのそういう種々な、いままでの欠点や、いままでの間違ったことを、本当の治ったやり方になってくるのであります。

そういう新しい形式、新しい文化が生まれるんであります。」




明主様御講話 「本教は搾取しない」 (昭和10年12月11日)

「次にこれは話しておかなくてはならぬことですが、

観音会はある種の宗教のごとく、搾取はしないことに前からなっている。

よく信仰によると、金を上げろ、金を上げなければ罪はとれぬと、ある物をみな上げなければならぬというので、結局餓死線へ行かなければならぬことになるのがある。

観音会はそうではない。


しかしここに大いに問題がある。

観音会が発展するについて、本部が狭くなったので、家を造らなければならぬ。

その金は、銀行が背景でたくさんあるわけでもなく、政府から来るわけでもない。

やはり信者の誠から出なければならぬ。

で、本当ならば私のほうで黙っていて、信者さんのほうから自発的に出したいと出されるのが本当であります。


例えば、病気なら病気としても、もはやほとんど生命のないところを、観音様にいただいた人がたくさんあります。

また、病院へ入れば五百円千円もかかる病気でも、百分の一くらいの入費で、医者ならば再発ということもあるが、再発もなくすんだ人もあり、

また、いままで医者のほうの支払いが、月々二、三十円くらいずつ払っていた人が、

観音会へ入ってからは、そういう支払いもしなくてすむようになったような人もずいぶんたくさんにあります。

そういう人達も医者に払う半分くらいは上げるのが当然のことなんであります。

ところが、実際を暴露すれば少なくとも医者に支払う金の三分の一さえ上げる人もないのであります。


観音行はすべて当然のことをすることなので、この病気が治るにはこのくらいの費用はかかるべきものだから、

このくらいは出すべきものだというのは当然のことで、当然のことをすれば金は余るほど入るんであります。

治療代さえ払えばいいと言うんだが、でも、これはわれわれの手数料として支払われるので、

治ったということに対し、当然のことしても、当然の半分でもよい出すべきで、

仮に、御神徳を貨幣に換算するのも変ですが、その価値にしても、観音様から価値にして百円くらいのものをくだされば、それに対し十円も上げる人はたいしたもので、

ある信仰によると、最初金を上げれば病気を治してくれる。

観音様はそうではない。

最初に病気を治し、生命を助けてやろう、その後でお金を上げるなり、お礼するのは任意にしてある。

で、これは最初に治してくださるんだから、搾取(さくしゅ)とは違う。


も一つ信仰に入ると、だんだん商売が繁昌する。

また、いろいろな御利益もあり、思わぬ金が入ったりする。

そして御利益いただき、それではこれだけ上げようという人はほとんどない。

しかし、観音様のほうは強制的なことはお嫌いですから、なんともおっしゃらぬ。

ですから、観音行をすれば金などは余るくらいになると思うのであります。

いままでのある信仰は、いままである財産なら財産、これを上げろと言う。

観音様はいままでのものは上げる必要はない。

新たに儲けさしてやるから、その儲けたものから上げろというわけですから、財産の減るということはないのであります。


搾取的のものは非常に悪いが、観音様は銀行からいくらでも無限に出すわけではないから、やはり金はいる。

こういった金銭上のことを言ったことはありませんが、たまにははっきり言っておく必要があると思ってお話したのです。

金銭について疑問に思ったり、迷ったりする人もありますし、お話するんですが、

仮に、みすみす死ぬべき人が助かったなら、一生涯尽くすというのが本当なんであります。

世の中の人の心はそうなっている。

観音行は当然のことをするんで、当然のことを世の中の人がすればいいのであります。

当然のことをする人が少ないとすれば・・・


観音様に救われ、ある程度観音様に上げないと罪になる。

そうして、それがせっかく向上しようとする妨げになる。

それではいけないからやむを得ずいくぶんでも上げるように言うかもしれませんが、その点をよく認識されたいのであります。

いままでの宗教は、ごく上等で二百円使って百円のお礼をいただく。

しかし観音様は、一円のものを上げるとして、百円の御利益をいただくのであります。

御利益の価値を貨幣に換算するとは卑しいことですが、そういうわけになる。

それで九九円はいただくことになる。それではあまり安すぎるのです。

これはついでですから、本当に救われるために、も少し出しなさいと言われるかもしれませんが、あまりにもたれてもいけず、搾取されてもいけない。

程よくすべてがいいというところに落ちつくのが本当であります。


最近ある信者の方で、この方は非常なある事情で金の御用をしなければならない関係のある方で、いったん死ぬところを助かって、そのとき家庭の事情があって金をお上げして尽くすことができなかった。

それを、少しも痛まず、それだけの御用をさせるために、その人の家を、二、三千円の相場のものを一万四、五千円に売られたんで

一万円というものは、ただでもらったようなものなんですが、

これは観音様がそうされたもので、私のほうでその一万円を借りることになった。

一カ年間五朱の利息で、支払うように観音様からお知らせがあった。

銀行に預けても三分三厘の利息なのに、それを五朱で借りる。

その利で元金もふえるんですから、本当いえば、一万円差し上げねばならぬ事情があるのを、そういうふうにしてすましてくださるのです。

そういう特別の方でありまして、実に大慈大悲の御心と思うのです。

そういう具合ですから、金銭問題について、迷われている方がありましょうが、ほぼこれでお分かりのことと思うのであります。」




明主様御垂示 「御報恩の仕方 (金銭の御用)」

信者の質問
「神への感謝報恩は物質のみでは本当でないと思われます。

精神的の行ないまたは御奉仕等、いかにあるべきでしょうか。」


明主様御垂示
「物質を提供する事はすでに精神が出来てる訳である。

上げたくないのに強制的に上げるのは、浄財にならぬ。

それは金に汚れがあり、光がなく、永遠の生命はない。

感謝報恩の場合、無理してはいけない。

本来の使命逸脱せぬ事。」




明主様御垂示 「義理で献金しても神様は喜ばれない」

信者の質問
「一般の人で観音様の有難いことを多少知りつつも、いざ金銭物質のことになると「ハタ」と行き止る人・・・」


明主様御垂示
「これも「有難い、じっとしてはいられぬ」と言って上げるのが当り前である。

義理の考えで上げるのは観音様は喜ばれぬ。

上げない人は、そのまま何とも思わぬのがいい。

いずれは大いに御用したがる時もある。アッさり言えばよい。」