書による救いについて
明主様御教え 「書について・日本美術とその将来(5)」 (昭和24年8月30日発行)
「私は絵と共に書も好きである。御存知の通り毎日数百枚の書をかく。
恐らく私の書く書の量は古往今来日本一といってもよかろう。
お守にする光の書は一時間に五百枚をかく。
また額や掛軸にする二字ないし四文字の書は三十分間に百枚は書く、
余りに早いため三人の男で手捌(さば)きをするが、仲々追つき得ない。
トント流れ作業である。
書道について私は以前ある有名な書家に習いたいと申入れた。
それは略字に困る事があるからで、それを知りたいためと言ったところ、その書家が言うには、
「先生などは書を習う事はやめになった方がよい。
なぜならば習った書は一つの型に嵌(はま)ってしまうから個性がない。
字が死んでしまう。
形だけは美しいが内容がない、
自分などはその型を今一生懸命破ろうとして苦心しているくらいだから、
先生などは自由に個性を発揮される方がよい。
字を略す場合など、棒が一本足りなかろうが多かろうが一向差支えない」と言うので、
私はなる程と思い習う事はやめてしまったのである。
絵画や美術工芸なども、古人の方が優れている事は定説となっているが、
書に至っても同様で、私は古筆などを観る毎に感歎するのである。
特に私が好きなのは仮名がきで、現代人には到底真似も出来ない巧さである。
もっともその時代の人は生活苦や社会的煩わしい事などないから、
悠々閑日月の間に絶えず歌など物したり書いたりして楽しんでいたためもあろう。
現代人で古人と遜色のない仮名がきの名手としては、尾上柴舟(さいしゅう)氏くらいであろう。
古人で私の好きなのはまず道風、貫之、定家、西行、光悦等であるが、
特に光悦の一種独特の文字は垂涎(すいぜん)措く能わざるものがある。
また俳人芭蕉の文字もなかなか捨て難い点があり、しかも芭蕉の絵に至っては専門家と比べても遜色はあるまい。
これによってみても一芸に秀ずる人は他のものも同一レベルに達している事が判るのである。
漢字では王義之(おうぎし)、空海等はいうまでもないが、
近代としては山陽、海屋、隆盛、鉄舟等も相当のものである。
何といっても漢字は文字の技巧よりも人物の如何にあるので、やはり大人物の書は形は下手でも、どこか犯し難い品位がある。
これについて霊的解釈をしてみよう。
書にはその人の人格が霊的に印写されるのであるから、
朝夕その書を観る事によってその人格の感化を受けるので、
そこに書というものの貴さがあるのであるから、
書はどうしても大人物、大人格者のものでなくては価値がないのである。
妊娠中の婦人が胎教のため、偉人の書を見るのを可としているが、右の理由によるのである。
ここで、私の事を書いてみるが、私の救の業としての重点は書であるといってもいい。
それは書が大いなる働きをするからで、この説明はあまり神秘なためいずれ他の著書で説くつもりであるが、ここではただ書道を随談的にかいたのである。」
明主様御垂示 「光明の御文字が白く浮き出した事例」 (昭和24年4月20日発行)
信者の質問
「光明の御軸を拝んでると床の左壁に光明の文字が白く浮き出します。そのわけをお教えください。」
明主様御垂示
「私の書いた絵や文字から光が出るのを見る人はたくさんある。
事実光が出るのである。
その文字の通りの光が出て光が文字の意味通りの働きをする。
この説明はいまの科学的頭では理解できない。
私が光と書いた紙を懐に入れると光の働きをして、それが腕を通って放射し病気が治る。
私が字を書くと私の手から光が筆を通って紙に印象されるわけである。
それは私の腹には光の玉があって、その光が手を通る、またこの玉は観音様から出る、観音様はまたその上の神様から出る。
私が大光明如来と書くと大光明如来の働きをする。
これはごく簡単な説明で詳しく説明するとまず霊界の構成から説明しなくては判らない。
この説明はいずれ著書でする、いまはこの程度で我慢してもらう。」
側近者の寄稿 「御言霊」 瓢箪 (昭和29年2月25日発行)
「明主様の何物にもこだわれぬ和やかな御態度から極めておうまかな御方であられようとは衆目の一致する印象であるが、
一面何事でも正確な推理によって動かす事の出来ぬ真実性をお認めにならぬ限りは、信じられぬほど緻密な用心深い御方でもあられたので、
最初御神霊から五十万年前よりの人類史や、御自らの御因縁、御使命等の御啓示を御受けになった時も一応邪神の策謀によるものではあるまいかとの懐疑的態度を以てひそかに綿密な検討を続けられたが、
その御神示の正しさを裏付ける種々の出来事が毎日のようにあって、ついにいかなる面から推理しても絶対に誤りない確信を得られた御由である。
これもその御検討中の期間における事であるが、ある時亀岡へ出口先生をお訪ねになった。
そして高天閣で先生と御二人きりになられた時、先生はコップの水を示されながら、
「明主様の御言霊は絶対の権威をお持ちになっており、あらゆる物がお言葉通りになる。
例えばこのコップの水に向い薬になれと命ぜられれば薬にもなる、
又山動けと仰せられれば山も動き、山枯れよと仰せられれば忽ちにして枯れるのである」と言われ、
流石に明主様も一驚せられたが、勿論それは御確信に当ることではあった。
「ミカエル起てば山河も動く」ということがあるが、先生は、明主様がミカエルに在すことを証示されたものであり、
それは神から知らされたままを明主様にお取次されたものでもあろう。
パイブルの冒頭にも「太初(はじめ)に道(ことば)あり、万物これによって造らる」とあるが、これは、造物主の言霊の権威を称えられたものでもあろう。
このイエスの教示と出口先生の示された例証にみても、明主様の御言霊は、少くとも造物主の造られた万物を自由自在にお変えになり得る程の神権をおもちになっていることになる。
勿論それは神を念じ天に祈って発揮されるような他力的なものではないことを意味している。
とすれば明主様は肉体をもたれた絶対の神様ということになり、その位の御力がなかったら第二の天地創造ともいうべき新文明世界建設の大業など実現の可能性は覚束ないことになろう。
明主様は元来、御救いの業に最も多く文字をお使いになっている。
文字は神様がお造りになったものであると承わるが、文字もまた明主様の御仕事を主なる目的として用意されたものかと思われる。
文字とは言霊を形象化されたものであり、言霊活動を代行し得るものであると言えよう。
本教における御神体、お守、御書体等は悉く明主様のお書きになった言霊文字であり、その文字の意味通り活動する神秘な生命体である。
それは言わば文字そのものが、光明如来となれ、光となれ、と御命じになる言霊通りの活物になったものであるという解釈も成立つであろう。
即ち、科学的にいう無機物であるべき墨蹟は、瞬時に人間や科学力にも勝る神力を発揮する有機物に変化されるからでもある。
かくのごとく、文字を以て絶対力を発揮される事実にみれば、言霊によって万物を自由にお変えになり得る事もまた当然である。
又言霊は想念と行、幽と物との中間である故に、言霊によって絶対力を揮われ得るとすれば、想念によってもあらゆる物を意のごとく遊ばし得る訳で、これをしも自由無碍如意の御力と申し上げるのであろう。
吾等は、大御業も世界も今日まで御言葉通り現実となり来った事実、そして物象となる速度の日に月に速かなる今の実際によってもかかる大御力をおもちになって、大愛と神智の御神意によって行使せられつつあることを信じて疑わぬ。
かくのごとく明主様の御言霊はいかに尊い権威をもたせ給うのであるかが拝察される。
毎月総本部において、時には中京、関西で御話給わることは、想念界言霊界をゆるがしていかに重大な意義あるかは諸神霊の願言などによっても窺い知らるる。
吾々が御参拝の都度、明主様を眼前に仰ぎ奉り、直接の御話を賜わる仕合せと光栄は過去の世紀に例しなく、今世にも遇い難い御恵みといわねばならぬ。
将来、御神業の進展につれて、直接の御言葉も容易に戴けぬようになることも予想される故に、今の内御参拝を怠らぬよう、私はいつも信徒諸士に話している。」
専従者の寄稿 随筆 書と宗教 EK (昭和26年6月27日発行)
「春季大祭の奉納演芸に出演した徳川夢声氏と、明主様が対談なされた際、談はたまたま書の事に触れた。
私の書は個性を活かす、一度、型に入るとその型が破り度くも破れない。
点や、棒が多くても、足りなくてもいい、個性を活かすそれが尊い、大要以上のような明主様の御話であった、その時、私はとんでもない所に点や棒があり、
そして、それが美事な調和となっている顔真卿の書が頭の中に浮び、明主様の特異な御書体の謎が解ったような気がした。
明主様の芸術は、絵でも造園技術でも、活花にしてからも、一度、型に入ってからそれを捨てて、独自の風格を創造したものと考えていたが、
夢声老との対談で、そうでない事が明らかにされたことは、私にとって大きな収穫であった、
御書体も、宝山荘時代から東山荘、そして現在と、この短かい年代にそれぞれ変化の妙が見られるのは、
明主様の御尊称が、大先生から明主様に成られた様に、御自身の御人格、御使命の自覚(不遜な評であるが)と規を一にしている様に思えるのである、
宝山荘時代やそれ以前の御書体には、鋭い気魄と言うか、覇気と言うか、そうしたものが微かながらも感じられるが、
現在の一見奔放と思える御書体から感じられるものは、ただただ人類に注ぎ給う愛の一字のみである、
明主様の御書体から滲み出る愛の深さは、明主様以外、専門の書家に求めても得られるものではない。
弘法大師が橘逸勢、嵯峨天皇とならんで、天下の三名筆と讃えられているのは童児も知る処であるが、
今なら、さしずめ明主様を第一人者に推す事に異論を挟む信者はあるまい、
それはさておき、後代の人から名僧高僧と仰められている程の人は、殆ど立派な書を遺している、
茶室に懸ける軸は古筆及び、坊さんの書に限られているのはどう言う理由に依るのか、私は不敏ににして詳らかにしないが、
茶道の指南からすれば、名利の執着から脱し、俗を捨て去った僧侶の高い精神と結び付くものがあるからであろう事は推測できる。
明主様は夢声老との対談の折、一休の字を御批評なされたが、私も友人の茶室で、一休の書を見た事がある、真贋は元より知るところではないが、
「生涯竿一貫」と書き流した茶懸の一幅をいいなーと思った事を今だに忘れない、書の良し悪しは解らないが、
あの字を朝夕眺め暮らしたら「生涯竿一貫」と脱俗、徹底した境地に近ずけるかも知れない、と思ったからであった。
茶と高僧の書とは、その精紳に共通するものがあるが、これは茶に限らず生花もそうであり、総ての芸術が極点にまで昂められ、
一致するものは、宗教的な、高い精神である、山岡鉄舟は剣と禅の妙機は一致する、とさえ言っている。
宗教と哲とは切り離せない関係がある、明主様が度々引用される大本教の御筆先は、教祖、出口直刀自が神の啓示を書いたものであり、
そこに見えざる神の御意志を表現する筆の力が認められる、印刷術が生れる以前における宗教の伝承は口伝と共に筆写に依って後代に伝えられた、
木版から活版と進歩した印刷技術は口の伝道より活字の伝道に重点が置き換えられ、
その教法弘通の速度を早めた事は、他の学問、文化の分野も同じである、
ペンであれ毛筆であれ書く人の個性と品性が言外に現われる書は単に実用を充すに留るものではなく、
精神さえ知らず識らずの間に現われるものである、この書と最も密接不離の繋がりが最も著しい宗教はメシヤ教であろう。
メシヤ教の大神力、奇蹟の元が明主様の御書体にある事は、遍く信者の知るところである、
片時も肌身から離さぬお守も明主様の御書体なればこそであり、斎き祀る光明如来様の御神体も欄間を飾る横額も、明主様の御書体ならでは奇蹟を生む大神力とはならない、
日常の生活に必要な物を無限に恵み給う、大黒神像の打出の小槌も、明主様の御開眼なくば打ち出してはくれない。
この様に、メシヤ教から書を離したら、宗教史上に比類のない救いの大業は、完成されるべくもあるまい
信徒の側から見ても、御玉串、所属教会、姓名を誌すに毛筆を以ってする、悪筆麗筆いずれを択ぶか、自から明らかである、
吾々が神と仰ぐ明主様が、書のみならず、凡百の芸術に深い御造詣があられるのであるから、
信者も芸術に関心を持ち、それを透して高い知性教養を身に付けて、み霊を磨くよすがにしたら、と、常々私は考えるのである、
少なくとも、書に依て大神力の御恵みを戴くメシヤ教徒は、他人一倍、書に対する関心を持ち、その眼を養い度いものである。
こう書いてくると、私は書について一つの見識を備えているように見えるが、私の悪筆は周知の事実である、
「書は姓名を記せば足り、又は意味を伝えれば足りる」と私は私なりに思っていたが、
これは実の処、悪筆、悪文家の負け惜みに過ぎない、どうせ字を書くからには、上手に越した事はなく、書家の草書も読めなくては、書の批評は成り立たない、
明主様の御書体に何かを感じられるのは、私も浅いながら、俗悪低級な日本映画以外の芸術を好み友人、知己に芸術家を持っていて、日頃啓発される賜であろうか。
事のついでに、書を知らぬ私の懺悔話をするが、明主様の御書体で、読めないものに再三ぷつかっている。
読めぬ位だから意味も解らない事は勿論である、例えば最近の御書体、散花結実の落款、明は読めるが、その次の一字が読めない、
ただ想像するだけであるから沁みじみ情けないと思う、読めない耻はこれ許りではない、
井上茂登吉先生も、達筆で流麗な字をお書きになるが、時々読めない字に巡り合う、止むを得ず文脈に依って判読している、
字を和らぬ己れの非を棚に上げて、先生、楷書で書いて下さい、と頼み度くなる事も一再ならずあった。
展覧会の季節になると、私は上野へよく行く、主に友人の絵や彫刻を観賞するのだが、
日展には五部として、書も出品されている、残念ながら読めない字が多く、興味、索然たらざるを得ない、
ただ知己である芸術会員豊道春海先生の事を見て、御老体の息災でいられるのを偲ぷだけである
豊道先生と言えば、これも字を書けない恥を思い出した、空襲たけなわの頃、先生の御息女が婚礼の当日、先生は私に、息女への祝いの俳句を書けと言って、
緋毛氈を敷いた大書院に招じ入れ、金泥の色紙を出した泰東書院を牛耳って、令名天下に遍き書家の前では如何に厚顔無恥の私でも筆は執れない、
両腋から冷汗、流れ落ちた事を、今もって昨日の様に憶い出す、絶対絶命、書くには書いたが、恥を書いた、と思う記憶は生涯去るまい
書を以って成り立つ、とさえ言える、この有難いお道に救われてから「書は姓名を記すに足る」の負け惜みは通用しない事を今になってようよく悟り、
今年小学四年になる吾子と机をならべて書を習う決心を固めた、少なくとも、明主様の御書きなされたものは全部読めるだけの文字を知り度く、
そして書三昧の境地に入れなくとも、書の持つ精神の深さに触れて、信仰を純化し、層一層自分を掘り下げてゆき度いからである。」
専従者の寄稿 「座談会巡りある記 明主様の書と絵に及ぶ」 EM (昭和26年9月25日発行)
「耳の宣伝が初まってから、講演会、座談会が各地で盛んになった。
自然農法を別として、東京都内や近県の座談会によく出席を求められるが、未信者へや宣伝と云う意味より、信者の集会であり、何か、心に触れる話を聞きたい。
と云うのが、その目的であるらしい。浄霊の有難さは絶対であり、身に泌みて知っているが、信仰を深める為に話を求める傾向が、近頃特に顕著である。と私は見た。
メシヤ教の真髄を掴み、信仰を深めるには、御神書をよく読むことに尽きる。
と断言出来るが、これを、もっと砕いて、謬ちなく敷衍(ふえん)することは実際にやって見て実に難かしい仕事である。
難しく困難であるとしても、信者が求めるなら、矢張り与えて協力すべきである。
と思い、自分自身の修業のためにも努めて出席しているのである。
生長の家から転信したある信者は、例祭に行って、法話のようなお話が無いので物足りない。
と云ったが、なる程、生長の家は、話以外に何物もないので、勢い講話には熱心である。
ところが、その話は、基仏神の三教を谷口流に解釈総合したものだ、と私は思っているが、一般の人はその言葉に眩惑され、満足しているからまあーいいようなものの、
ある会長は、私に、神を哲学的に説いて貰いたい。と云った。
哲学的に、と云う意味は解らないが、そうした晦渋(かいじゅう)、難解を極めた哲学的用語を使えば、学問的造詣が深いように思えて、解らなくても満足するのかも知れない。
神が哲学で説けるなら、私は神を信じない。と拒絶した事がある。
こうした座談会などの機会に、各教会を巡り歩いて見ると、いい点、悪いと思う事などが、いろいろと目に付く。
持ち前の無遠慮さで、歯に衣を着せずに、卒直に書いて、教えを乞いたい。
例祭の日に呼ばれて、当惑する事がある。
それは礼拝の順序が、それぞれ違う事と、祝詞、善言讃詞の奏上も、言葉の遅速が甚だしく、
肝要な、浄霊の方法もまた、甚だ違っているのは、どう云う訳であろうか。
道を信じる信者は非常に素直である。
勢い、直接指導する人の影響を受けるので、その人の癖でも、そのまま、真似るのではあるまいか。
総て、明主様の御教えに従い、本部のそれに倣うべきである。
教会に依っての相違は、こう云う点にも現われている。
浄霊に主眼を置くところ、霊研究に異常に執心するところ、この折衷でゆくところなぞに大別出来そうである。
例祭日か、浄霊日か分明せぬところもある。
これらの問題は、決して軽視すべきではなく、乱れる根本である。
と考えるが如何がなものであろうか。
厭なことを先にしたが、嬉しいこと、楽しい事はもっと沢山ある。
それは、信仰の篤い人に逢える事や、見るからに朴直な人の口から、誠の籠ったお蔭ばなしを聞いたり、指導者の並々ならぬ苦心を知って、頭下がったりする事である。
もっと楽しいのは、私の拙ない話であっても、疑問が釈(と)けたり、入信する決心が付いた。
などと、云われた時であり、その外に私個人の楽しみがある。
というのは、信者の家へ行って見ると、その人が入信したのは、何年前頃かが解るからで、
それは、御書体の筆蹟と、その意味で判断が付くからであるが、
古い信者は、春光、春暉、神風、金龍、金龍神、日月、五六七、救世、など、昨今はお書きにならない御書体が懸けてあるからだ。
そうした時代のものから、現今の大経綸、散花結実、短冊、色紙に至る迄、
空間狭しと埋め尽す程懸けてあるのは中教会、やや少いのは教会と、熱心な信者の順であろう。
御書体の歴史は、メシヤ教の歴史であり、それと共に歩いて来た、信者の歴史を物語っていて、興味深く、有難く拝見するのである。
床の間が、幾つもある恵まれた信者の家には、今は昔、明主様がお描きなされた、観音像の画幅が懸けてあったのも、私は、有難く拝ませて戴いた。
明主様の描がかれる画像は、粉本をどこにお求めになったのか、と思うことがある。
明主様の御画像は、日本の古来の画匠にもない独特の御創意であって、
あの御神像をつつむ円光は(霊衣と云うべきか)日本の画家のものではなく、
光背、光輪とも違うのであって、仏壇にお祀りしてある千手観音像と共に、明主様だけのもの、と拝察する。
余程以前、美術書で、求聞持虚空蔵菩薩像の一幅を見たが、それは筆者不明、時代は鎌倉中期と推定されるが、大白円光を描き、その中に端座する菩薩像。
その周囲は薄い墨で、明主様のお描きなされた円光が、描かれてあるのを見た記憶がある。
この虚空蔵菩薩像の粉本は中国伝来と伝えられているが、それ以外に例類のない、明主様独特の画像と拝察し、それを拝観出来た冥加は、座談会、出席の賜物である、と感謝している次第である。
座談会の記述が絵に及んだので、もう一つ明主様の御画像、巌上観音は、京都、大徳寺にある、南宋の画僧、牧谿の描いた、中観音、左右、猿鶴の珍らしい画材に、由来するのであろうか、などと、臆測を逞ましくしたり、
又、御書体の総てが、右書きであるのはどのような意味を持つものであろうか、などと私らしい愚かな考をしたりするのである。
要するに、明主様の御染筆の一つ一つが、いくら見ても珍らしく、有難く、そして、そうした古いものをお待ちの信者の方がうらやましく思い、
何故、その古い時代に自分が教団に入れなかったか、後悔の臍を噛むのである。」
書家の寄稿 「私の観た明主様の御書」 松林天上 (昭和26年5月9日発行)
「「森羅萬象蔵めて書の中に在り、書は萬物運行の基」といわれ、書はまことに結構なものであるが、
解らぬ人には馬に大神楽、猫に小判同様折角の逸品を眼前にして殆んど何の感興も湧かぬ気の毒な人もあるらしい、
ともかくその解らぬ人を今遽(にわか)に解かるようにして、共に談ずることは出来さうもないから、独り悦に入ることにする。
昨秋のある日、東京玉川の宝山荘に詩人が集まり詩会を催した時に、書道の大家で、松本芳翠先生もこの席に加わり、
御神前に掲げられた明主様の大額「日月」に目を留め、感嘆久しかったが「一体日月の如き字は、誰が書いてもそううまく書けるものではないが、これは実によい出来栄である」と称讃措かなかったものだ。
そもそも書の額等という物は折角かけて置いても、活眼を以て観賞してくれる様な人はそうざらにはないものである、
明主様の御手跡は随分数多く拝見出来る私であるが、今も小田原の救世教本部の御神前に掲げてある「救世」の大文字などの出来栄は、実に素晴しい物で殆んど神助の功があっての御作と、拝察している、
その他光新聞紙上で、折々拝見する明主様の近作は一入の光彩を放って、神技の域に到達しているものが多い、
これら名作の行方は私の知る所でないが、その所持者が、果して私と同様の観念を以て秘蔵していてくれるなら喜ばしい。
能書には昔から一字千金というたとえがあり、唐の懐素の千字文は千金帖と別名されて、その影本でさえも非常に貴まれて今日に及んでいる、
我国でも平安朝時代の名筆で、彼の寸松庵色紙や繼色紙の如きは一字千金は愚か、今日では一字二万金を以て目されている、
もし書聖王羲之の真跡でも、この世に存在していたなら果して如何なる高価を呼んだであろうか。
さて千古の名人の筆跡は別として、近代書家の字を一瞥して見るに、遺憾ながら見るべき物はほとんどない、
一体書家の書、詩人の詩、厨人の饌とは水臭い物の代名詞として知られているが現代書家の字は殊にしかりであって、私共の「書」といいたくない所である。
先年日展に出陳された、某氏の字などは例外ではあろうが、乾しスルメの足そのままの写実だ、作者はある宮さんの前で得々とこれは、熱海の海岸の気分だと説明したとか、ホン気の沙汰とは思われないが、
あのような駄作の前に果してなに人が、熱海の海岸を髣髴したであろうか、恐らく作者以外に一人もあるまい、
この様なのは水臭い域を遥かに越えて、醜悪の世界にと足を踏み込んだもので、無惨なる例外の一でしかない。
上に化するを風といい、下に習うを俗という、真面目な学習者はあの様なものを一見するだにすでに害がある幸に本教の信徒諸氏は明主様以外の書を見ないようにするのも、また鑑識眼を養う一法であろう。
書かんとすることは山程あるが、書論になりそうだから次の機会にゆずりたい。」
(註 松林天上氏は明主様が御書御揮毫にお使いになられた御印鑑を作っていた。)
書家の寄稿 「明主様の御書」 松林天上 (昭和28年9月16日発行)
「歌に秀でていられる明主様は又書においても非凡の天分を発揮せられている。
私はここ十数年来一日として明主様の御書に接しない日は無いのであるが失礼ながら近時の御手跡は遠く専門家の上にあられる。
私は昔から文字を上手と能書とに分けて見ている者であるが、即ち私のいう上手とは例えば彼の看板屋の如く又提灯屋や傘屋の如くに文字を書く職人のことで、
彼等は即ち所を得て初めて上手に書き得る者で、一度所が変れば似ても似つかぬ下手な字しか書けないものである。
故にその書いた文字にはその目的以外には殆んど無価値なもので勿論風韻だの含蓄だのというもののあろう筈はない。
紙なり板なりの上に浮んだところの記号以外の何物でもないのであるから見ていて直ぐに飽きてしまい、生命力のない物である。
一体書者自身が生命短かかれと念じて書くのであるから完成した日から一日一日と価値を減じてゆくのに何の不思議もない。
これは何故か、殆んど説明を要しない。
つまり、この種の筆者は書けば即ち最後の目的を達するわけで、率直にいえば代金を受取ればすべては終りでその翌日からは一日も早く亡びんことを希うという式なものであるからである。
ただそれが見たところをよくつまり上手にかけば代は余分に受けられるわけでかかる物に元来風韻だの含蓄だのというもののあろう筈はない。
この種の物を私はいわゆる上手と呼んでいるのである。
次に私のいう能書というのは前述のような物とは画然出発点を異にしている物である。
いくら長く見ていても見飽きがしない、のみならず初めは大した物でないと考えていた書が日増にヨサを感じて来て、果ては全く魅了されてしまう偉大な力を秘めている物である。
僅か一字か二字の作品でも五年十年はおろか一生涯見ても飽はおろか多く益しその有難昧が加わる一方となる。
かような作品を私は能書と呼ぶのである。
何故であろうかこれこそ口や文では形容できる様な簡単な物ではない。
問題はここにある。売れば足るという作品とは全く趣きを異にし作者自身が長期に渉る蘊蓄を傾けての魂の入った作品その人の全智全霊の写真だからである。
如何に偉い人でも一寸会った位ではその人の全人格を計るべくもないが、逢う毎に尊敬の念を増してゆく。
これと同様で書も一見した位では一寸見当がつかなくとも次第に妙味が湧いて来る、この人に対すると同様である。
造化の神は吾人に賢愚無差別の待遇を以てした。
外観的には殆んど変る所はないのであるがその内容に至りては上は釈迦孔子より下は乞食罪人に至る無限大の差をなすのである。
文字又然り等しく書いた字でありながらその内容に至りてはこれ又無限大の開きをなすのである。
しかしながら見る人の眼が又千差万別であるから折角の能書も時に平々凡々のただの字と見られる恐れもある。
「心ここに在らざれば看れども見えず、聴けども聞えず」というのである。
世にただの目程つまらぬものはないとつくづく痛感する。
読者諸氏は大方本教団の信者であるから大抵明主様の名作を奉斉して居られる筈であるが、この名作を眼前にしながら無為に終らせている人も決してないとは限らない。
このような不幸な人の為にとこの文を書いているのではないが、序だから言及した迄である。
つまり平眼にはダイヤも一片の硝子かけと異らず黄金も馬糞と選ぶところがあるまい。
神は吾々に同じ眼を与えた筈であるがその眼を生涯の中に見える眼として使うか、見ても見えない眼で一生を終るかはカカッてその人自身の心懸次第である。
文字は更なり己が心魂迄も善に導けば善に至る物を、それに努力しない人ほ憐むべき存在である。
活眼を以てすれば僅かに数字の明主様の字にも千万無量の教が含まれていることに気がつくであろう。
一目の観賞に依り長年の修業に勝るを会得をする事もできる。
明主様の抱懐される御意図も窺われよう。
益するところは尽くべくもない。これ観者をしてとこしえに飽かしめざるゆえんの一つである。
日一日と光を増し、有難味を加えて遂に千載不滅の偉容をなすものである。
幸に諸賢は大なり小なり必ずこの明主様の御書体を頂戴している者であるから、朝に千万無辺の教訓に接し夕に不朽の妙智を体得し明るく楽しくその日を送り迎えらるる諸氏は、以て仕合せとすべきであろう。
私は毎月各地に出張してその先々で明主様の名作に触れる事びを無上の光栄としている者である。」