花による天国化運動について


明主様御教え 「花による天国化運動」 (昭和24年5月8日発行)

「本教の目標である地上天国建設というその地上天国とはいかなるものであろうか、

言うまでもなく真善美が完全に行われる世界である、

もちろん本教の生命である健康法も無肥料栽培もその具体化であり、

また浄霊法は肉体はもとより精神的改造でもあるが、

それとは別に人心を美によって向上さす事も緊要である、美については差当って今着手の運びになっている本教の新しい企画である、

それについてまず日本の現状をかいてみよう。


美とは大別して耳と眼と舌の領分であるが、耳の方は今日ほど音楽の盛んな時代はまずあるまい、

その原因としてはもちろんラジオを第一とし蓄音機、録音盤等の発達もあずかって力ある、

ところが眼の方に至ってはただ演劇映画等によるだけで洵(まこと)に心細い状態である、

もっと簡単に身近に時間の制限がなく美の感覚に触れるものが欲しいのである、なる程演劇や映画は眼を楽しませるものとしては上乗のものであるが、

時間と経済と交通等の制約がある以上全面的に受入れる事は出来ない、

ところが吾らがここに提唱するところのものは美の普遍化に好適である花卉の栽培とその配分である、

一般住宅その他の部屋に花を飾る事である、現在といえども中流以上の家庭には大抵飾られているが、

それだけでは物足りない、吾らの狙いはいかなる階級、いかなる場所といえども花あり、誰の眼にも触れるようにする事である。

事務室の隅に書斎の机に一輪の花がいかに一種清新の潤いを覚えしむるかはここに言う必要はない、

理想からいえば留置場、行刑場等にまでも一枝の花を飾りたいのである、

そうすれば彼ら犯罪者の心理にいかに好影響を与えるであろうかである、

このように人間のいるところ必ず花ありというような社会になれば現在の地獄的様相を相当緩和する力となろう。

ところがそうするには今日のごとき花の高価ではどうにもならない、どうしても非常なる低価で手に入れるようにしなければならない、

それには食糧生産に影響を与えない限り大いに花卉類の増産を図るべきである、これについて今一つの重要事を書いてみよう。


日本は花卉類の種類の多い事は世界一とされている、また栽培法においても世界の最高水準に達しているという事で、

彼のオランダ特産のチューリップなどが今次の戦争前越後地方に栽培され相当の輸出額に上っていた事や、

白百合が神奈川県下に生産され英米に輸出し、年々増加しつつあった事等は人の知るところである、

吾らの調査によれば米人などは日本の花卉に憧れ米国にない名花珍種を要望してやまないそうであるから、

今後は大々的増産によって外貨獲得の一助たらしめるべきである、

ところがこの事は案外今日まで閑却されていたが今後は大いに奨励する必要がある、

しかも輸出高に制限の憂えがない貿易品であるによってみても大いに嘱望の価値があろう。

以上の意味において本教団社会部においても今回熱海梅園から数丁隔たった地点に一万坪の土地を開発し日本におけるあらゆる種類の花卉を蒐集し、模範的花苑を目ざし、大々的栽培に取掛るべく目下勤労奉仕隊員数十名が努力中である。」




明主様御教え 「植物は生きている」 (昭和28年8月5日発行)

「私は庭の植木を手入れするのが好きで常に枝を切ったり形を直したりするが、

時にはうっかり切り損ったり切りすぎたりする事が間々ある。

また木を植える場合、場所の関係もあって、止むなく気に入らない所へ植える事もあり、

周囲の関係上、木の裏を表へ出したり、横向きにしたりするので、その当座見る度毎に気になるが、

面白い事には時日が経つに従い、木の方で少しずつ形を直すとみえ、

いつかはその場所にピッタリ合うようになるのは実に不思議で、

どうしても生きているとしか思えない。全く樹木にも魂があるに違いない。


この点人間が人に見られても、愧(はずか)しくないよう身づくろいするのと同様であろう。

これについて以前ある年寄の植木屋の親方から聞いた事だが、思うように花が咲かない時は、

その木に向って「御前が今年花を咲かせなければ切ってしまう」というと、必ず咲くそうである。

だが私はまだ試してはみないが、あり得る事と思う。

このように大自然はいかなるものにも魂がある事を信じて扱えば間違いない。

以前ある本で見た事だが、西洋の人で普通十五年で一人前に育つ木を、特に愛の心をもって扱ったところ、半分早く七、八年で同様に育ったという話である。


これと同じ事は生花にも言える。

私は住宅の各部屋部屋の花は、全部私が活けるが、少し気に入らない形でも、そのままにしておくと、翌日は前日と異って好い形となっている。

全く生きてるようだ。また私は花に対して決して無理をせず、出来るだけ自然のままに活けるので、生々として長持ちがするというように、余り弄(いじ)くると死んでしまうから面白くない。

そこでいつも活ける場合まず狙いをつけておいて、スッと切ってスッと挿(さ)すと実にいい。

これも生物と同様弄る程弱るからである。

またこの道理は人間にも言える。子を育てるのに親が気を揉(も)んで、何やかや世話を焼く程弱いのと同様である。

そのようにして活けるから、私が活けた花は普通の倍以上持つので誰も驚く。


一例として世間では竹や紅葉は使わない事になっているが、それは長持ちがしないからであろう。

しかし私は好んで活ける。三日や五日は平気で、竹は一週間以上、紅葉は二週間くらい持つ事もある。

また私はどんな花でも切口などそのままにして手をつけない。

ところが花の先生などは種々な手数をかけて、反って持ちを悪くしているが全く笑うべきである。」




明主様御講話 「花の生け方の革命」 (昭和28年3月15日)

「それからもう一つはそうとう先に行ってから本を作りますが、それは変わった本です。

私は始終花を生けていますが、自分でも良いなと思うのが時々あるし、見る人も褒めるのです・・・それはお世辞でなくです。

それで自分で気に入った花ができた時に天然色写真に写して、それを本に作ろうと思ってます。

というのは、近ごろは変な花がはやってきたのです。

それから、花にしても殺してしまうのです。

そのために形は良いが、うま味がありません。

それと、絵なら死んでいて、筆勢というものはないのです。


そこで私が生けるのは五分以内です。早いのは二分以内です。

それで花は庭で切ったのがいいですが、しかし花屋で買ったのでも、それを手にとってパッと生けるのです。

そのやり方が非常に良いのです。

また草物でも、何本もまとめておいてスッと生けるのです。

そういう生け方が今はないのです。

もっとも花の先生というのは一つの型を決めていて、近ごろはだいぶなくなってきましたが、

やはり流儀とか、その先生の一つの形のために、どうも自然を殺してしまうのです。

ところがそれでは本当のものではないので、要するにどこまでも自然の良いところを生かし、表現することです。

そういう一つの花の生け方の革命というものです。


それから花器との調和があります。

それからやかましく言うと、床の間の大きさ、壁の色、掛物にマッチしなければいけないのです。

そうして床の間全体が一つの芸術というものにならなければいけないのです。

私なども時々そういうことがあると、昔の名画でも見るような感じがします。

その代わり、上手な掛物でなければ駄目です。

絵もやはり本当の名人が画いた物でなければなりません。

というのは、花に掛物が蹴られてしまうのです。

ですからよほどの名人の物でなければならないのです。

それで絵は絵、書は書、それに花器と花がピッタリと合わなければならないのです。

ですからそういった意味で一つの花の芸術といったものですが、これはどうしても見せるよりしようがないのです。

そこで天然色写真を写す人間が、上手というほどではないが、工夫しているので、それにやらせようと思ってます。

これも事は小さいが、そういうことの一つの革命的のものです。

ちょうど世の中は逆になっていて、花に絵の具を塗ったりして人工的になってくるのを、私の方はその逆の、できるだけ自然的にするというのです。

やはり自然農法と同じ理屈になります。そういう本を作ろうと思ってます。」




明主様御講話 「その時の一番の花の盛りのその花を生けるのが本当」 (昭和28年3月16日)

「それから話は違いますが、大自然に対する草や木ですが、これがおもしろいのは、私は木の枝を切ったりして形を良くするが、それが一種の道楽なのです。

それでよく切り過ぎたと思うことがありますし、それから植える場所によっては、木には裏表があるのですが、

表が出せない時には裏を出すとか横を出すのですが、それは具合が悪いのです。

そうすると木の方で形を調えて良い形になるのです。

それから生け花でも、家の各部屋全部を私が一人で生けるのですが、ちょっとまずいなと思っても、翌日には花の方で良い形になっているのです。

そうかといって大体は、良く生かるのと悪く生かるのはしようがないですが、ちょっとした点は花の方で生きていて見良くするのです。

これは実に神秘なものです。

要するに大自然にそういった働きがあるのです。


とにかくああいう物にも魂があるということが分かります。

外国の誰かの説ですが「すべてああいう物を愛するという愛の心でやれば、

ふつう三十年くらいたたなければそれだけの大きさにならない物が、半分ぐらいでそれだけに育つ」ということを二、三日前のラジオで聞きました。

それでその人は長年の経験で木を愛するのです。投げやりにしないで、かわいがるのです。

愛すると育ちが非常に良い。

それでああいう物にまで人間の愛を感ずるというのは、たいしたものだということを経験上から言ってましたが、やはりそういう草木にも魂があると思っているのです。

植木屋がよく言うが、花が咲かない時には「今年花が咲かないと切ってしまうぞ」

また実がならないと「今年実がならないと切ってしまうぞ」と言うと、言うことをきくのだそうです。

これは熱海の森本という植木屋さんが言ってました。

ですからそれが事実とすれば、つまり人間の言葉の聞き別けができるわけです。

これは霊的に細かに言うとよく分かるので、なんでもないことです。


草木ばかりでなく、茶碗のような物でも、人間が愛すると違うのです。

よく粗相しますが、これはやはり器物に対する愛がないのです。

というのは、それを持った人間が愛すると、これに人間の霊がはいるのです。

それで霊がはいるばかりでなく、人間の形まではいるのです。

ですからアメリカの霊媒ですばらしいものですが、ある人が始終持ってますと、

それを霊で見ると、それを持つ人の年齢から姿からがすっかり分かって「今こういう物を持っている」と言ったりします。

ひどいのになると「昨日こういうことがあった。以前はこういう経歴だ」ということが分かるのです。

それで長く持っている物ほど強く印象されているのです。

これは私は、外国の雑誌に記録が出ているのを読みました。

そういうようで人間の感情でいかに影響するかが分かります。


ですから私の書いた文字を見ると、この文字から一つの浄霊をされるのです。

今私がいろんな本を出してますが、興味本位からでもなんでも読めば、それから浄霊されるわけです。

それは文句、つまり活字の並べ方に非常に影響があるのです。

とにかく私の書いたものを活字にしても、活字に霊が含まれるのです。

べつに私が印刷したものでなくても、誰がしたものでもそうです。

実に霊界というものは微妙なるものがあります。


それから私は昨日から始めましたが、生け花を天然色写真にとって、幻灯はわけないから幻灯にして、全国の各支部に写して見せようと思ってます。

とにかく私の生け方は革命的なものです。

花はこういうように生けるものだということの教えにもなりますし、

その花によって、見る人がいくらか浄霊されるわけです。

というのは、私が生ける花は自然の法に合っているわけです。

それから神の気を受けるわけですから、やっぱりいくぶん違うわけです。

花を習っている人もたくさんあるでしょうが、今は非常に間違っているのです。

もっとも昔からそうですが、特に最近は非常に間違っているのです。

絵の具を塗ったりしているのは、堕落も堕落、救うべからざる窮地に来ているのです。

それに対して私はいくらか憤慨しているくらいです。

ちょうど気がついたので、これからそういった花を生けて、そうしていずれはそれを画帖にするつもりです。

そうしてみんなに分けようと思ってますが、差し当たっては幻灯にするつもりです。

昨日は十ばかり写しました。

しかし私は早いですから、十作るのに一時間半くらいです。

それで本当言うと床の間の大きさと形と壁の色と、床の畳や板、それから掛物も絵とか字とか、その大きさとかにピッタリ合わせるのが本当です。

それがピッタリ合えば、見ていても実に気持ちが良いのです。

趣味がわくのです。

しかし花の先生でそこまで気がつくのは、少しは気がつきますが、たいていは外れてます。

そこで写真に写すのはそういう点が困難なので、花だけにします。


また花も四季によってみんな違います。

原則としてはその時の一番の花の盛りのその花を生けるのが本当なのです。

それが自然なのです。

季節外れの物に高い金を払って生けるというのは間違ってます。

時々お茶の先生が来てお茶の会をやり、家の女中にも覚えさせていますが、

よく季節外れな牡丹などを高い金を出して生けますが、これは嘘なのです。

季節の物をやるのがいいのです。

その花の一番の盛りで、人間で言えば油が乗っている時です。

そういうのを切って生けるのです。


それで花を生けるのに、花を切ってからひねくりますが、そのために花が死んでしまうのです。

ですからできるだけ早く生けるのです。

私の褒められるような花は一分か二分で生けた物です。

五分以上かかったら駄目です。

私はたいてい五分以内です。

五分以上かかる時は変えなければ駄目です。

それで木の枝を見て、それから花の咲き具合を見て、咲ききってはいけないし、つぼみではいけないし、これから咲こうとする時が一番良いのです。

それから切る長さも、長くても短くてもいけないので、具合良く切って、それにちょうど合うような花器を選ぶのです。


それから花器にも古いのと新しい物がありますが、新画を掛けた時は新しい物が調和します。

それから古い掛物の時には花器も古い物で、本当言えばその時代に合った物が良いのです。

それから花器には中国製と日本製とがあります。

ですから花や枝もそういうように合わせると良いのです。

それで中国の花器には梅などが合うのです。

やっぱり中国の感じがするような物が合います。

それから派手な場合と渋い場合といろいろありますから、そういうことをいろいろやると、なかなか簡単なものではないのです。

しかし、ひととおり覚えてしまえばなんでもありません。

そこでもういっそう詳しく言うと、掛物の絵なら絵が、花の方が下手ですと掛物の方が勝つのです。

そして花の方が非常にピッタリとうまくゆくと掛物の方が負けるのです。

そこに芸術の価値、芸術のレベルがあるのです。

だからそういう場合に、名画というものは、やはりその価値が良く分かるのです。

書でも同じです。上手い書というのでなくて、人格のある人が書いた書は、こっちがうんと気に入った花でも、それに負けないでしっくりと合うのです。

そういうのは今でも有名な書とか絵です。

そういうのはなんといっても宋元物と日本の琳派物です。

そういう物は、私がどんなに上手く生けても、掛物が負けないで合っているのです。

これは花を通じて見た絵ですが、こういうことは芸術の最高の理論です。」




明主様御講話 「生け花には出来るだけ花を使わない」 (昭和28年3月17日)

「それから宗教的の話ではないが、私は花を生けるのが好きで、始終各部屋みんな私が生けるのです。

それでお茶の先生が来て、家内始め女中などに教えてますが、その都度、茶席の花を私が生けますが、私の生け方はあくまで自然なのです。

今の花は、特に近来おかしいことには、ペンキを塗ったり変なことをしてますが、これはピカソあたりの影響を受けたのでしょう。

まだ、そう、はやりもしないでしょうが、だいぶ、はやりそうにみえているのです。

それも一時的のことと思いますが、そういうようで、なにしろ花の生け方の革命と言うとおおげさですが、革命的に知らしたいと思ってます。

それで私が生けたものを写真にとろうと思ってます。

一昨日、十ばかり初めて写させて、最初は天然色の幻灯で写して、全国的に支部などで写させるようにするつもりです。

それで私の生け方は早いのです。十ぐらいの花は一時間半ばかりで生けたのです。

それも、その間に庭を探して枝を切ったりしたのです。

大体原則としては、私のは五分以内です。


それで早く生けたほど良いのです。

そうすると花が生きているのです。

これはいじくるほど良いとしてますが、そうではないのです。やはりこれは作物に肥料をやるのと同じで、自然を無視するからです。

それで一番気に入った花は、たいてい一分か二分で生かったものです。

それは花を生ける前に、花器をおいて、その花器と花が合うように見きわめて、枝の長さを切ってパッと生けるのです。

それは最初からそうは行かないが、その気持ちでやると良い花ができます。

そういうようにして生かったものは実に良いです。

自然ですから花が生きているのです。

そういうようにして生けたのを、今度幻灯で写しますから見れば分かります。

なるほどこういう生け方が一番良いということが分かります。

これも一つの真理の具現です。


私はなんでも趣味があるのと、徹底して研究する主義ですが、

あれもよく見ますと、生けてから、まずいと思ったり、まずい枝があるが、一晩おくか数時間おくと、それがちゃんと気に入るようになってくるのです。

これはいじくった物では駄目だと思います。

花は生きているから、自分で体を調える働きが出てくるのです。

それをいじくられると、その働きが出なくなるのです。

こういうものを見ても、生きているのですから、そこがおもしろいと思います。


これは花ばかりでなく、木でも実にたいしたものです。

箱根の庭の木なども全部私が切るのですが、少し切り損なったり、切り過ぎたという時もほうっておくと、木自身で形を良くするのです。

それから場所によって、岩やなにかの関係で表が見せられないで、横とかで格好が悪いのです。

そうするといつかしら、前から見ても格好が悪くないように、自然に自身で調えるのです。

これはおもしろいと思いますが、確かに生きているのです。

それから松の木なども、上の枝をつめるということは良くないのです。

おもしろくないのです。

それで今碧雲荘にある枝を切ったのですが、そうすると、松の木はどうするかと思っていると、

その切り口が少しも見えないように枝が被さってきてます。

そういうようで、生け花もちゃんと自分でなおります。

この生け方を研究すると良いです。

第一早いです。

だから憶劫でなくて良いです。

今までの生け方は時間がかかるから憶劫です。

それから季節外れな物を高い金を出して買うということは、およそ馬鹿気たことです。

その花の、人間で言えば一番油の乗りきったところを狙って用いるのです。

それが一番良いのです。


それからもう一つは、できるだけ花を使わないことです。

これは私の一流ですが、私は実に花は少ないのです。

ふつう一杯くらいのを、私は三杯くらいに分けてやります。

できるだけ不必要な花や技を使わない方が効果が大きいのです。

だから少な過ぎると言う人がありますが、そういうのが良いのです。

ですからいろんな物を混ぜますが、それはおもしろくありません。

やっぱり花で絵を画くことと同じなのです。

そういうことは花の先生は教えません。

もっとも花の先生も知らないからしようがありません。

それで部屋の床の大きさから壁の色に合わなければなりません。

厳密に言うとそういうことになります。

それから掛物にも、書もあるし絵もありますし、古い物もあるし新しい物もあります。

それでおもしろいのは、古い掛物に新しい花器では合わないのです。

それから掛物が渋い物には、花器や花も渋い物をやるのです。

そうするとたいへん贅沢になりますが、そういうことはないので、花器でも安い物で良いのです。

それは使いようによるのです。

それこそドンブリの大きな深い物があったらそれで結構使えます。

もっともこれは勅使河原でやってます。

そういうようでなんでもかまわないのです。

それから花も、あえて花屋で買わなくても、自分の家の庭にあるのでもなんでも良いのです。

それで私が好んで使うのは竹です。

これは花屋では使いません。

これは枯れやすいというのですが、そんなことはないので一週間ぐらいは大丈夫です。

それで竹を切ってからパッとやると大丈夫です。

もっとも私のは指から霊が出るからで、その関係もあります。

それで竹でも切ってからパッと生けると良いのですが、いじくるから駄目なのです。

竹などはどこにでもありますからいいです。

それから熊笹を使いますが、これがまた良いのです。

これを五、六枚やって花を少しやれば実に良いです。

そういう話はいくらでもありますが、時間がないからこのくらいにしておきます。」




明主様御垂示 「生花を長持ちさせる秘訣」 (昭和28年10月1日)

信者の質問
「御神前のお花を見て思いますが、この前は笹でございました。

非常に水上げが立派なのでお聞きしましたところ、ただ切ったままとのことですが、

私共がやりますと、笹はたちまち駄目になりますが、どういう点が間違っているのでございましょうか」

明主様御垂示
「笹にもよりますが、この間のは寒竹(かんちく)です。寒竹はもつのです。

それから真竹といって大きな葉のは持ちません。それでも二、三日は持ちます。

そこで花の持つ持たないは、こういう関係です。

花を切ったらすぐに水につけるのです。

私は庭で切っていても、お供を連れて手桶に入れます。切ってから少しでもおくといけないのです。

それから持って来て活ける場合、パッと活けるのです。

いろいろひねくっていると弱るのです。

パッと切って、パッと生けると、それは持ちます。

私などはあんまり持ち過ぎて困ってしまうことがあります。

十日ぐらいたっても枯れないのです。

名前は分からないが、白くになった葉ですが、どこも枯れないのです。

ただどこか乾燥したような感じでした。

それで十日もたったので私も飽きてしまって、ほかの花を活けたくなったので棄てましたが、持ち過ぎるくらいなものです。

それで花はできるだけいじらないようにすることで、いじったら駄目です。

パッと活けるのです。そうすると持ちがよいです。」


信者の質問
「切られたことを知らないうちに活けるというような具合でございますわけで・・・」

明主様御垂示
「花は知ってます。花でも、切られれば痛いです。

そうしてまたそういうように活けた花はよいです。

四、五日前に紅葉を活けましたが、枝を二本切って、庭中探して一番良いのを切ったのですが、

大きな花生に活けたところが、切った寸法もちょうど合っていて、とてもよいです。

ですから本当によく活かったなと思うのは一分くらいです。

五分となると死んでしまいます。

その代わり枝を切るときに狙いをつけておいて、チョッと切ってパッと生けるのです。

そうするとすばらしいものです。

これは花屋ではできません。

しかし今は花屋でもなかなか良い物があります。

ですから花屋で買ったのでもよいから、適当な所から切ったらすぐに活けることで、

活けるときに恰好が悪いからと直していると死んでしまいます。

ですから直そうというときには止して、向きを変えるとか短くするというようにすると恰好が良くなります。

それを、決していろいろにひねくるということをしてはいけません。」


信者の発言
「そのパッとやるということがなかなかのことでございますので」

明主様御垂示
「だからやっぱり、始終美術館をみたり、絵を見ていると、そういう頭ができてきます。

やはり花で絵を画くのです。

花で筆勢みたいに見せるのです。

ですから私の花は誰もが褒めますが、つまり絵を画くのですから、絵心がなくては本当ではありません。

絵心ということは始終絵を見ることです。

ですから美術館はそういうことにも一つの効果があるわけです。」




明主様御垂示 「大花壇を計画中」 (昭和24年3月23日)

信者の質問
「気候と植物の関係について・・・」


明主様御垂示
「全体的に言うとね、気候なんてものにもいろいろあって、一年の半分は雨ばかり降り、半分は照ってばかりいる所もあれば、三寒四温の所もある。

いろいろ神様がおやりになってらっしゃるんで、なんにでも変化を作られたんです。

人種も同様にいろいろありますしね。

また天体でも、太陽、月、星とか地球とかを造られ、それが調和して発達して行くんです。

気候でもそれが違うとそこへできる植物もみんな違ってきますからね、まったく種々さまざまになるわけなんです。

そしてそういうことが神様の御経綸なんですね。

植物なんかも日本は一番種類が多いんですが、これは日本では四季が正確だからです。

あの俳句というのは春夏秋冬によってできるものですが、先に外国旅行から帰った高浜虚子が、外国では俳句はできない、

なぜかというと春夏秋冬がないからだ、と言ったそうですが、

ヨーロッパなんか割合に気候の変化が少ないそうですね。

なんでもドイツ人は二着くらいの服で一年中間に合うって言いますからね。

だから日本人はいろんな着物をいくつも持っていて贅沢だって言われるんですよ。

すべてにおいて日本には種類が多いんですね。

草木、魚介などあらゆる物に亙ってね。

だからいまによくなれば日本くらいいい所はないようになると思っているんですよ。・・・


このごろ私は花を研究してますがね、その種類の多いのには驚きました。

椿でも百四十種もあります。今度それをみんな買いましたがね。山茶花でも百種からありますしね。

梅なんかどれを見ても同じようで四、五種くらいかと思ったら、二百種もありますからね。

しかもそんな研究を徳川時代の人がやってるんです。

えらいものですね、ちゃんとその種類を一々書いてあるんです。

今度は花卉(かき)の栽培をしようと計画しているんです、そしてことごとくの花を網羅するつもりです。

日本の花をアメリカでも欲しがってますからね、これはたいへんな輸出になりますよ。

アメリカ人の好きなのに「八重のくちなし」ってのがありますが、この花の香りは非常にいいですね。

これは少ないんですが、私のほうでは殖やすことができますからね、大いにやるつもりなんです。

それから百合なんかも独特のものだし、「チューリップ」でもオランダに負けないくらいできるでしょう。

なんにでもたいへんな種類がありますからね、その中のいいものだけ栽培して、未だかつてない大花壇を計画中ですがね。

ですから野菜の栽培だけじゃなくていろんな方面でやってみようと思ってるんです。」




側近者の寄稿 「明主様の活花雑感」  IM (昭和25年12月25日発行)

(この稿は今夏八月寄書されたのであるが、都合上甚だ遅れた次第である)

「神徒諸士は、日光殿へ参拝の節、恐らく必ず御神前の床に常に新しい活花を見るであらう。

しかしこの生命躍動せる活花に魅入らるる如く観賞する人は、あるいは極稀ではあるまいか、もし心を留めて観る人ありとすれば、

それが多くは豪放大胆に活けられてはいるが、あの二間の神床によくマッチして、寸分の隙のない神技の冴えに打たれ思わず歎声を発するに違いない。

ところが実はこれこそ明主様が必す御手づからお活けになられるものである事を知る人は果して幾人あるであらうか。

申す迄もなく、この床は普通より大きく、しかも大広間の御神床でもあるから、活けらるる花卉も、よほど大きいものでなくてはならぬし、

又華美なものでも適合しないから、その屡々の取材撰択は凡手には極めて至難の業であらう。

ところが、それは明主様が神苑をそぞろお探しになると屹度適当なものが見付かる。

それも大して御苦心なさらす、頗る安易に選伐してお出でになるそうで、明主様御自身此事は「造苑の場合と同様、実に神秘である」と仰有っていた事を想出す。

というのは、折らるべき花でも木でも時も場所もすでにぴったり決っているという一事で、そこに深い神意の有する事が考えられ、選択そのものから、すでに神技である事が判るのである。


却説(さて)、これは余談に渉るかも知れぬが周知の如く人類救済のため、日夜寸閑もあられぬ明主様が、吾等の神殿の活花を、御自ら、常に新しくお活けになる。

その細いお心遣いには、ただただ驚嘆の外ないというよりは、あまりに貴い御事でもある。

それなのに、気が付いてみれば吾々は御参拝をした時、その活花にも無関心どころか、時によると塵一つにも心を用いていなかった事さえあるので、まことに蛆虫と評されても辭(ことば)なき次第である。

いつか熱海仮本部の広間入口の扉の引手がとれたまま数ケ月経った頃、これが明主様の御眼に止り、吾々本部員は大変御叱りをいたゞいて、

「神の御用に立たんとするものは何事にも気配り心配りが肝腎である」との御教えを賜わった事があるが、

吾々はそういう神経を、まるで○○でもあるかのように失ってしまっていた。

否、誠がないのである。という事は信仰をしていない訳になるので、全く情なさに気の遠くなる想いであったのである。

私は最近、時々お居間へ伺う時、まず床の活花に眼を引かれ、都度新たな活花芸術の変化を見せて戴くのである。

時としては拝見した瞬間、ハッとしてその美の力と、高い品位に打たれて、一種神秘な感情にさえ包まれるのである。

すると明主様はいとも簡単にお教え下さる。

「人はよく、これだけの花を活けられるには、よほど御苦心なされたでしょう、というが、私はちっとも骨折ってはいない。

何事でも骨折って、良いものが出来るものじゃない。

私は花を活けるんでも、最初からちょうどいい大きさに切って、一気に活けてしまうから、ちっとも時間も手数もかからぬ、捻ったり、いぢったりすると、もう花が死んでしまう。

つまり呼吸である。だから私の活ける花は、いつも生きているのである。

そしてどこまでも自然に生けなくてはいけない。

又、床や置物、掛軸花器などに、ピッたり合っていなくてはいけない」・・・と、これは普通人の頭脳では到底出来得べき事ではないと思った。

成程、そう承わってよくみれば、活けられた花も葉も茎も色も大きさも、寸毫の過僅なく、その各々が有つ美を、最大限に発揮されて、自然そのものの姿で息吹いており、

しかもなお、器物にも床にも置物にも、すべてのものに絶対といっていい程ぴったり調和し、生かし尽されて、

そのすっきりと高い品位を漂わして観る者の心に匂い通ってゆくのである。

私は一輪の花、一つの葉がもつ美がかくまで強力なものであるかを初めて知った。

そしてそれらの結合によって完成された活花の美が、部屋全体の表情をしっかり握って、美しい雰囲気を作り出しているような感じである。芸術の極致とはこれであろう。

それは単なる美ではない。真も善も混然として深く脈打っている。

これこそ、あらゆるものを生かす、神の芸術でなくて何であろう。


私はよくこの部屋に飽かすにお待ちしている。

それは無論、天国的環境にもよるが、この活花の美が心を捉えているせいもあろうと思う。

同行のS夫人は.数年間、優れた師について、活花にかなり造詣の深い方であるが、

最近に至って「自分の師の作品に低俗見るに堪えないものを感ずるようになった」と言われるにみて

「明主様のそれに接するうち知らず識らず、如何に審美眼が高められてゐるかが判る」と言っておられるが、全く共感に堪えぬ所で、

明主様はこの分野にも、新しい高度の美を創造せられつつあるを知る。

向後もまた花による美の世界を無限に開拓さるるであろう事は、想像もつかぬ素晴しい事である。

しかるに、活花の美しい生命は、瞬時の空間を占めるのみで、次々と失われてゆくのであって、まことに痛惜に堪えぬと思うのは私のみではあるまい。

もし明主様のこの貴重な御美技をかくも儚なく葬る事なく、永久に保存するを得ば、後世を裨益する如何に大なるかを思うのであるが、

その望みを果すは、優秀なる天然色写真による外ないであろう。

信徒諸士、この意味において是非とも有力なる利器を献じ、世界の美術史のページに、光輝を添えられたいと、至嘱に堪えぬ次第である。」




専従者の寄稿 「御活花の天然色写真成る」 百地超生 (昭和28年4月15日発行)

「春の大御祭三日目の夜、映画の前に明主様の活花の天然色幻燈写真を拝観さして戴けることとなった。

吾々が切望久しかった夢が思いがけず実現したと思うと胸おどるを覚えた。

映写の前に明主様は御親しく一同に向われて

「かねて研究さしてあった天然色写真がこの程漸く撮影出来るようになったので、

つい最近二十八種お活けになったのを試写させられた。

お住いでザッと御覧になったがそのうちお気に召したのは二種であった。

今晩は信徒諸氏にも一度見せておこうと思う」との意味のお言葉を賜わった。

やがて映写が始まるや「アア好いなア、きれいだなア」と讃歎の声がそちこちから期せずして沸き起った。

それは今まで世に見たこともない美にうたれた讃歌であり、何か突如美しい光の出現をみたような歓声である。

実に素晴しい名画だ、心の汚れも忽ちに洗われて高い芸術境に魂を引入れられる心地がする。

拝見しているうち段々妙味が判ってくる。

もっと拝見していたいと思う間もなく次々写真が差かえられてゆく。

全部で二十七枚あった由であるが十二枚位に思った程時間の経過の早きを感じた。

花弁の清らかな自然の美しさが、素晴しい神技によって自由無碍に駆使され、

しかも自然より美しく生かされて、豪放、清楚、華麗等々千変万化の趣を以て高く無い真善美は完全に現出され観者の心に映ってくる。

神技の冴えは得もいえぬ気品となって胸を打ち、高き芸術の匂いは活花全体に息吹き、花は生々として芳香を鼻辺に放つかと思われる。

美しい春の空、若木の木むれ、あるいは百花僚乱の花園、静かな池辺、緑の野山等々空間に形のない大自然も描かれている感じもある。

又天下稀覯(きこう)の名器が、実によく調和して花と一体となりむしろ花の美威に従うかにみゆる、いうに云えぬ神の芸術の貴さに思わず感涙さえ覚えた。

驚くべきことは、二十八種にも及ぶこれほどの名品は、僅か二時間半でなされたとの御事である。

そうすると御一作は四分余りと云う信じられぬ程の超スピードでなされた訳で、私はただ吃驚仰天吐息をつくのみであった。


私は、魂を洗われたような快い興奮のさめぬまま、次に上映された劇映画を鑑賞したが、

いつもあれほど興味をそそられる映画も、何か醜悪、不潔なものばかり眼に写ってまるで興が乗って来なかった。

そして終っても、矢張強く目に残って消えぬのは幻燈の御活花の姿であった。

現代映画がもっと清純な絵画美的要素に意を用いたらどんなにか楽しみを決め世人によい感化を与えることであろう。

そうして何れ二十一世紀の文明時代となれば、芸術と科学の進歩によって、絵画美も競うて採入れることとなり、

どんなに素晴しい映画が出現することであろうかと思ったのである。」