宗教事業と社会事業について


明主様御教え 「本教と社会事業」 (昭和27年8月27日発行)

「よく本教へ対して、メシヤ教は割合社会事業に冷淡だが、どういう訳かと訊く人があるが、これは実におかしな質問であると思う。

今それを詳しくかいてみるが、本来宗教と社会事業とは、似て非なるものである。

何となれば宗教は精神的救いであり、社会事業は物質的救いであるからである。

といっても実際を見れば、今日少し大きい宗教になると、そのほとんどは社会事業を経営しており、

それが一般常識となってしまっているくらいで、本教がそう見られるのも無理はないが、

しかしよく考えてみると、何程立派な宗教でも肝腎な宗教的救いの力がないとしたら、

止むなく第二義手段として、社会事業をやるより外意義はないであろう。

つまり社会事業によって宗教的無力をカバーする訳である。

しかしそうはいうものの現在のごとく救済を要する不幸な人々が、あり余る程出て来る社会としたら、

理屈はどうでも早急に大量に救わなければならないのはもちろんで、

その点からいうと宗教を背景とした方が効果的であるから結構といってもよかろう。

しかし本教に至ってはそういう宗教とは根本的に異っているので、その点詳しくかいてみよう。


それは何かというと、本教の方針は社会事業のごとき末梢的救いは、他の機関に委せておけばいいとして、

本教ならでは出来ない救いを実行するのである。

ちょうど犯罪者の取締りに対しては、警察も牢獄もなくてはならないと同様の意味が社会事業であろう。

つまり現れた結果を対象としての手段であって、言わば膏薬張にすぎないのである。

従ってどうしても犯罪の根本に遡って根原を除かない限り、真の解決とはならないのである。

ところがその本源が分らないためか、分ってもその方法が物質以外の、嫌いな宗教であるからでもあろうが、

相変らずの手段を繰返しているに過ぎないのである。

ではその方法とは、言うまでもなく人間の魂の入れ替えである。悪玉を善玉にする事である。

近頃医学でもよくいう病気になってからではもう遅い、どうしても発病しない内に方法を講じておくのが本当だ、つまり予防医学と同様であろう。


ところが本教は自由に魂の入れ替えすなわち魂を善化する事が出来るのである。

それが本教の浄霊法であって、何よりも本教刊行の栄光新聞の御蔭話を読めば、思い半(なかば)にすぎるであろう。

毎号病気、災害、貧乏から救われた幾多の奇蹟が満載してあり、一読驚異の外ないものばかりである。

しかもそれが日に月に漸増しつつあるので、近来は紙面の狭隘(きょうあい)に困っているのである。

もちろんそのことごとくが本人の手記になるもので、その感謝感激の情は涙なくしては読まれない程で、

中にはもし本教を知らなかったら、今頃は社会事業の御厄介になっていたに違いないと、述懐する者すら少なくないのである。

これこそ予防医学ではない、予防宗教である。

そうして吾々の理想とするところは、社会事業の必要のない社会を作るにあるので、これが実現されてこそ真の文明世界であろう。

ところが本著の説に従えば必ず実現するのであるから、いかに偉大なものであるかが分るであろう。


以上のごとく、社会事業を大いに必要とする不幸な社会としたら、現代文化のどこかに一大欠陥がなくてはならないはずである。

ではその欠陥とは何かというと、他にも色々あろうが何よりも本教のごとき驚異的に社会福祉に貢献している救いに対し、

政府も識者も知らん顔の半兵衛である。もちろん気付いてはいるのであろうが、

察するに宗教なるがゆえにという取るに足らない理由でしかあるまいから、これがそもそもの盲点である。

医師に見離された病人がドシドシ治る事実だけに見ても、良心ある者ならジットしてはおられないはずである。

それを精神作用くらいに片付けてしまい、進んで研究しようともしないのであるから、何といっていいか言葉はないのである。


ついでだから、本教が今度造った美術館についても一言したいが、これこそ立派な社会事業である。

それは昔からの名人巨匠が、苦心して作った日本の誇りともいうべき立派な美術品が、今日までは一般人には見られなかった事である。

ただ仏教関係のものが、博物館や京都、奈良等の寺院へ行けば観られるくらいで、

それ以外の国宝級な貴重な美術品など、貴族富豪の邸内深く秘蔵されており、

それも極く親しい者だけにしか観せないのであるから、つまり美術の独占であった。

ところが民主日本となった今日としたらゆるさるべくもない。

という意味で私はこの弊風を打破し、何人にも気安く自由に観られ、

楽しまれる美術館が必要と思い、長年念願はしていたが、

何しろ莫大な費用と、幾多困難な条件も伴うので容易な業ではない。

というのは政府でさえ以前からそのような計画はあったようだが、今もって手を染めないところをみても明らかである。

しかも個人や団体としてはなおさらそうであろうし、

そうかといって企業的には採算が採れるはずもないから、これも見込はあるまい。

ところが幸いにも私は宗教家である関係上、多数信徒の奉仕的援助も大いに与って、

ともかく実現が出来たので、喜びに堪えない次第である。

もちろん国としての欠陥を幾分でも補い得ると共に、現在最も必要な社会事業の一つとして、世間も認めざるを得ないであろう。

そうして今一つの重要な事は、本美術館は位置といい、環境といい理想的であるから、

これから増えるであろう観光外客に対しても、日本文化の優秀性を紹介する上において、相当な貢献が出来ると思うのである。」




明主様御教え 「宗教事業と社会事業」 (昭和24年5月25日発行)

「社会各方面を観る時、官と民による社会事業は種々あって相当社会の福祉に貢献しつつあり、

特に宗教を背景とした社会事業はより効果がある事ももちろんである、

ただしかし民間の力では届かないところの結核療養所(私設も幾分はあるが)や民政事業のごときは政府の力による外はない、

その他半官半民の赤十字、養老院、養育院、癩療養所のごときはいずれも社会の欠陥を補足している事は充分認め得らるるのである。


ところが今私の言わんとするところのものは宗教事業であって、これはいまだ余り聞かないところのものである、

例えば吾らが今行わんとする結核療養所のごときは従来試みられた事のない神霊による信仰療法を基礎とした科学を超越したもので、

これによって日本から結核を追放してしまおうという信念の下に今や着手しつつあるのである、

いずれは驚異すべき成果を挙げるであろう事も、今より予想し得らるるのである。


次に、無肥料農業であるが、これは再三雑誌や新聞に載せたから略すが無肥料で有肥料よりも驚くべき好成績を挙げ得る事で、目下数万坪の土地を開拓中である。


次に、日本美術の世界的進出を目指して目下計画中のものもある、

もちろん絵画彫刻はもとよりあらゆる美術工芸品や建築造園等に至るまで、

日本美術の海外紹介所ともいうべき、日本建築の粋を蒐めた建造物の設計中である、完成の暁は外客は無論であるが、

日本人自身も青い鳥の発見によって今更ながら驚くであろう。


以上のごとき事業の外未発表の諸々の企画もあるが、いずれも新機軸のものばかりである、何となれば吾らの主義とするところは既に前人の計画や実行に移したものは、その人に委しておけばよく、別に吾らが実行の必要はないからである。

もちろん、今後社会人類の福祉を増進すべき線に添うての種々の新企画を漸次発表するつもりである。


最後に社会事業の根本意義を書いてみよう、

社会事業とか慈善事業とかいうものは、なる程ないよりはマシであるが、

端的にいえば一時的救済であって、根本的永遠性のものではない


何となれば社会の敗残者、無縁故者、難病者等の生存を保障するだけで畢竟(ひっきょう)消極的救済であるから、

結局において国家の負担となり、マイナスであるからである。

ゆえに真の救済事業は積極的でなくてはならないが、実は今日まで言うべくして行われなかったのである、

それにはどうしても力ある宗教が当らなくてはならない、

これで真に救われたとしたら、第一本人の幸福はもとより、それに要する社会事業費も減殺されるばかりか、

今度は反対に社会に利益を与える人間になるから、一挙三得という訳である。


以上のような救済こそ、宗教の真の使命であって、すなわち吾らが唱える宗教事業である、

しかるに既存の宗教においては、遺憾ながら前述のごとく積極的救済が行い得なかったがため、

次善的に社会事業によって存在理由を標榜していたのである、

また当局も社会も、宗教は無力であるが、せめて社会事業を行うからとの理由で容諾しているというのが、今日の現実であろう。

ゆえに、本教としては、社会事業のごとき消極的救済は他の機関に委せて

積極的独自の救済をもって社会改善に役立つべき覚悟である、これを称して宗教事業というのである。」




明主様御教え 「社会事業と宗教事業」 (昭和27年3月5日発行)

「今日世間を見ると、社会事業と宗教事業とを混同している事に気が付かないようである。

もっともこれには理由があるので、それを今かいてみるが、

一例を挙げれば現在キリスト教始め、近頃は日本の既成宗教もそうだが、相当大を成しているものはいずれも病院を経営しているが、

これは全く信仰では病気が治らないからで、致し方ないといえば言えるが実は本当ではないと言えよう。

もし信仰の方が医学よりも病気がよく治るとしたら、何を好んで病院など造る必要があるであろうかは分り切った話である。

としたら忌憚(きたん)なくいえば、信仰よりも医学の方が勝っている事を表白している訳で、宗教よりも科学の方が上になる事になる。

としたら今まで拝んでいたその神なり仏なりを片付けてしまい、

その代りに神棚へ医師の写真を飾って朝晩拝んだ方がいい事になろう。何しろお医者さんは命の親だからである。


ところが本教に限っていかに膨大となっても、病院などは決して作らない事を明言する。

この言葉は現代人が聞いたら、大いに吃驚(びっくり)するであろうが、

言うまでもなく本教の治病力は医学よりも断然上であるからで、

私が医学革命などと常に口にするのも、そういう理由があるからである。


今一つ言いたい事は現在孤児院、養老院、救貧事業等色々あるが、

これらも私に言わせれば、膏薬張り慈善事業以外の何物でもないのである。

なぜなればそういう色々な不幸な人が出来るという事は、社会のどこかに根本原因があるからで、

その原因が分って、それにメスを入れるのが本当ではあるまいかと思うのである。

ところが遺憾ながらそれが分っていないので、どうしようもなく相変らず対症的間に合せ方法を採っているのである。


ところが本教はそれら一切の不幸の原因が分っているから、着々救いの手を拡げているので、

将来地上天国が造られるので、それが本教の使命でもあるから、

一時的流れを堰止めるような愚劣な手段はやらないのである。

もっともその必要もないからである。

右の事実を知らない人は、なぜ本教が社会事業に冷淡であるかを訊く事があるからここに弁明する次第である。」




明主様御講話 「米国のカトリックは立派な病院を作っている」 (昭和27年2月15日)

(御論文「社会事業と宗教事業」)

「それで、今度アメリカからの通信によると、アメリカでは現在カトリック教ですね。

あれが七割だそうですね。プロテスタントが三割・・・そんな割合だそうです。

ただ、始末の良いことは、アメリカ人は全部信仰心があるそうです。

日本人と違って、神がないと言う・・・そんなことはないそうですね。

ただ、アメリカ人の神様はキリストですが、ただそんな点は非常に始末が良いそうです。

無神論はないんです。全部有神論ですからね。

ただ、カトリックが勢力を得ている。カトリックは非常に固いんです。カンカンです。

で、カトリックは立派な病院を作っているんです。まあ医学一点張りでやっているんです。

いずれ、これを崩さなければならないんですが、たいへんな仕事です。

けれども時期が来れば、なんでもないんですよ、みんな頭を下げますからね。

ただ、時期がそうとう間があります。それは神様の方じゃ予定してますからね。

そんなような状態で、宗教が病院を経営するということは、良いことと思っているんですね。

それで、こんな論文を書いたんですが・・・先にも書いたことがありますが、とにかく宗教で病院をやるとすれば、俺の方は、神の力じゃ病気が治らないということを表白しているので、本当から言うとおかしなものです。

その宗教じゃ病気が治らないということを表白しているので、そこに気がつかないので、気がつかないということは、気をつかせる人がなかったんですね。

気をつかせる人がなかったということは、宗教で病気を治すということがなかったからで、そういうことを言えるのはメシヤ教以外に、まあないと言っても良いですね。」




明主様御教え 「宗教の使命」 (昭和10年9月15日発行)

「今日の宗教と名の付くものが、大部分は宗教本来の使命を、没却しているのは、困ったものである。

大宗教団の多くが、社会事業が、重なる仕事になってしまって、病院や養老院や、孤児院などを営(や)っているが、

本当の意味から言えば、これらは、都市の公共事業か、富豪の慈善事業の範囲である。宗教が社会事業を、行(や)ると言う事は、最早それは、宗教ではなくなっている。

又宗教は、教化事業でもない、教化事業は文部省あたりの仕事である。

又、宗教は、道徳でもない。倫理道徳は、教育家の任務である。

又宗教は哲学でもない。世に、宗教哲学などという言葉や、クリスチャンサイエンスや、神学なぞという言葉があるが実に、誤れるのはなはだしきものである。

宗教は宗教である。哲学は哲学である。科学は科学である。

宗教は、あらゆる分野の最高峰に、超然と立って、普く人類を救うべき最大権威と力を有って居るべきものである。

ただしかし、宗教の一部としては、教化も、道徳も、哲学も、科学も含まれている事は、否めない。

故に宗教は宗教としての、独自の使命があって、一切衆生の霊体を不幸から永遠に脱却さす事である。

教化や道徳や、倫理や哲学では一時的の救いである。

無量無辺に、魂を救う事は出来ないのである。」 (「病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何?」より)




明主様御教え 「膏薬張の救い」 (昭和10年9月15日発行)

「病気になっても、医者にかかれない人や貧乏で食えない人、可愛相な老人、孤児等を救う機関は、

益々、社会的に完備してゆく、救世軍は、慈善鍋で貧民を喜ばせる、

それらの事は、確に良い事だ、無いよりも在った方が、どれ程いいか判らない。

しかし、それら不幸な人達が、後から後から手の廻らない程出来るという、

その根元の浄化の方がヨリ重大な事ではなかろうか。

そこに宗教の使命がある。

警官の数は、人口の増加率よりも増えるそうだ。

裁判官はとても手が足りないので、出来るだけ早期判決を下す方針にしたという事だ。

監獄も、気狂病院も、どんどん建て増してゆく。

これらも社会情勢に対する、止むを得ない施設ではあるが、名誉ではない。


こういう社会の事象を観る時、宗教家として、安閑としては居られないはずだ、

それら社会悪の真因は、どこに在るのか一切の事は原因が在って、結果が在るのだ、

しかし原因よりも、その結果を救う事が、社会事業や、警察や裁判所の専門的仕事である。

あらゆる罪悪と不幸の原因は何か。

それは人間の魂である。

その魂を浄化してこそ、社会は良くなるのである。

宗教としての使命も、そこにある。

これこそ他の何物も企及(ききゅう)し難い権威であり、それが宗教の貴い存在意義である。

これを他所(よそ)にして、宗教の意義は無いのだ。


とはいうが、今日の宗教家も、相当活動はしている。

説教所、教会、寺院、布教師、教誨師、説教師など、幾十万か、数え切れない程ある。

それだのに、社会悪が、いよいよ益々増えるという事は不思議な話だ、

教化する者の、努力が足りないのか、怠けているのか、否、なかなかそうではない。

彼らは、教壇に、路傍に、個人に、声を嗄(か)らして努力している。

それだのに、期待する結果が得られないという事は、そこに、何かなくてはならない。

それらの難問を、悉(ことごと)く解いてしまう、力の宗教が、我観音会で観音運動である。」 (「病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何?」より)




明主様御講話 「宗教が社会事業をやるのは間違い」 (昭和10年1月11日)

「今夜の夕刊に大本教のことが出ていたということですが、

国体変革の証拠あり、建物全部を破壊して根絶する方針とか出ていたんですが、

これらも実に当然のことをしなかったためで、

なんと言っても宗教は人の心をよくするもので、それ以外には宗教としての使命はない。


しかるになんぞや、政治運動だの、国防運動だの、社会運動をするから、ぜんぜん宗教の埒(らち)外に出ているから、当然大鉄槌を喰うに決まっている。

当然のこととは、宗教は宗教としての使命がある。

商人は商人として、軍人は軍人としての各々するべきこと、すべからざることと判然とおのずから決まっている。

これ以外のことをやれば滅びるに決まっている。

今日の宗教は、社会事業をやっていますが、これが間違っている。

そういう社会事業の背景となることはいいが、それを直接するということはぜんぜん間違っている。


大きなことは、小さいことで一人一人個人個人よいことをすればよい。

良い個人がたくさん寄れば政治なども完全になる。

あえて政治などに嘴(くちばし)を入れなくていい。

政治は政治家がやる。

宗教は霊肉を完全にする。

それだけやればいい。


ところが人間を完全にするだけの力のある宗教はない。

精神が健全なれば、肉体は健全になるに決まっている。

行いが当然な行いをし、間違ったことをしなければ健全になるに決まっている。」




明主様御講話 「宗教は宗教以外のことをやるべきではない」 (昭和11年1月1日)

「よく、どうして大本教や天理教があんなことになったか聞かれるが、それは簡単なんで、

大本ならば、宗教でいながら国防運動や政治運動をしたからで、

ちょうど商人が株に手を出して失敗したのと同じわけで、宗教は宗教としての本来の使命がある。

その使命のことを一生懸命やればよい。

しかし、その使命を一生懸命やる力がないために、やむを得ず使命以外のことをする。

ちょうど既成宗教が社会事業するように、要するに、大本など力がないからで、大きなことをやろうと政治などに手を出したんで、ピシャッとやられた。


宗教は宗教以外のことをやるべきではない。またやられ得べきでない。

それは神様が許さぬ。

宗教をやる力がなかったら、やめたほうがいい。

そういう具合でやってると、いつかは駄目になる。


天理教はたくさんな金を取って、脱税などしたが、両方とも宗教の使命を知って立派にやれば世の人も認める。

間違ったことをしたからやられた。


それも夜の宗教ですから、以前は力があったけれど、

「東方の光」が出たために、太陽の光が出て月や星の力がなくなった。

それが判らず、なんとか挽回しようという足掻きのために、他のことに手を出し間違ったことをして、為すべからざることをしたんで、当然なことであります。

それに気がつかなかったのは、本当の精神がなく、そこに不純な精神があったからで、本当に人を救うという観音心によってやれば、なんら間違いはない。

今年から大いに宣伝し、また今年から大いに治療士も病気が治る力においてもいっそう強くなり、よく治る。

これは日がだんだん出て昇るほど光が強くなると同じことであります。」




明主様御講話 「ごまかしの世界」 (昭和10年2月11日)

「(一部のみ引用) 救世軍が年の暮れに鍋を出して、正月の餅を配ることをやり、また、不仕合せの者、罪人などを救うというが、

その根本にさかのぼり、不幸な者ができんようにするのを考えないで救うと思っても

根本から出ぬようにしなければ、これは根絶することもできず、いつまでやっても際限のないことになるのであります。

救うのも必要だが、このような不幸な者のたくさん出ぬようにするのが一番良いのであります。

社会事業は箆棒(べらぼう)だ、いっぽうで不幸な人を造り、それを救うのであります。

それが出ぬようにするのが本当なのだ。

これがごまかしの世界なのであります。」




明主様御垂示 「慈善事業について」

信者の質問
「慈善事業等に金を出す事は、動物愛護が、動物自身からはかえってよい結果にならないと同じになるんでは御座いませんでしょうか。」


明主様御垂示
「慈善事業は、慈悲の表われであるから結構である。

動機善で、結果が悪である。

慈善事業がなければ、不仕合せの人はもっと多くなる。故にもっと多い方がよい。

今の世には慈善事業が必要である。」