病気を治す宗教について 3


明主様御講話 「健康を解決し得るものでなくしては本当の宗教ではない」 (昭和10年4月11日)

「私は日本医学というものをこしらえることと、それから、宗教の本当のやり方、本当の考え方そういうものをだんだんと発表してゆくつもりなんであります。

で、なにが人間は結構であるかというと、まずなによりかより第一番に健康であることは、いつもお話することであります。

たとえ、いかなる結構な宗教や救いが出ようとも、人間を健康にする力がなかったら、決して結構な宗教でも救いでもない。

どんな偉い方でも、どんなにいい身分であっても、病気で苦しんでいてなにが結構と言えましょう。

どうしても健康を解決し得るものでなくしては、本当の宗教ではない。

何年何十年と信仰していても病気で早死にするものがありますが、それは決して本当のものではない。

だんだん観音会が進展して行くと、観音会には病気がない。

もしあれば、観音会を止めた人か、お邪魔する人かで、病人はないと私は断言するんであります。

これがだんだん拡がって行くと、病人のない団体ができるんで、おそらく世界始まって以来病人のない団体というものは、まだ聞いたことがない。

それで病人のない世となれば、貧乏の半分は解消するんであります。

いま貧乏の原因はほとんど病気で、病気のために稼げぬとか、病院は高くてなかなか治らぬ。

金持ちならいいが中流以下ではとてもかかれぬ。

重病などになると、まず長い間稼いだものさえも潰れてしまう。

少し重い大病などがあればたいていの身上だったらふっ飛んでしまう。

これは多くの人々のふつうの道程であります。

今日みなさんが稼いで貯金するのはなんのためかと申しますと、いつ病気になるか判らぬ。

病気になったそのとき病院へ入れぬようなことがあったらという心配からであります。

それで病気は金で治ると思うよりしかたがない。

一家に四、五人の家族があるとすると、たいていは何年目かに病人がある。

するといくら稼いで貯金をしててもすぐになくなる。

そこで、病気がなくなり健康であれば、貧乏になる大半は救われるわけであります。

で、貧乏が救われれば争いがなくなる。

たいていの争いは経済上の問題の場合が多いのであります。

ですから、まず病貧争の大部分は健康から解決できると言っても過言でないと思います。」




明主様御教え 「序論 人類救済の大本願」 (昭和10年御執筆)

「そもそも、人類の悩みは何ぞやというと、大体病貧争の三つに帰するであろう。

しかも、その三つの中において、病気の悩み程深刻なるものは蓋(けだ)しあるまい。

貧の原因の大方は、病気からと言っても過言ではなく、又、世上幾多の紛争はほとんど、経済問題に端を発すると言い得るのである。

従って、病気の根絶、病人の無い世界なるものがもし、出現するとしたならば、すべての悩みは解決すべく、真にこれこそ、人類空前の大福音でなければならない。

しかしながら、かくのごとき、釈迦基督(キリスト)さえ企及しなかった、大胆なる経綸は、到底、痴人の夢としか思われないであろう事は、無理からぬ事である。

それは、過去幾千年の歴史に捉われて見るからである。


しかしながら、その歴史なるものも、眼光紙背に徹すれば、諸々の聖賢、偉人、開祖等の予言に、来るべき地上天国、五六七の世、救世主の出現等は、明かに記述されてあるのを知るであろう。

ただ、その時が秘せられてあったまでである。

ここに、天の時来って、いよいよ、幾多の予言の実現は、目前に迫り来ったのである。

今や、大光明世界は建設せられんとするのである。

人類の不幸災厄は跡を絶ち、人は、半獣の殻を破って、真に万物の霊長たる域に、飛躍する時となったのである。

この二度とない、永劫に光栄ある大神業の根本経綸としての、日本医術なのであって、これ即(すなわ)ち、大聖観世音菩薩の大本願の顕現であるのである。」 (「日本医術講義録 第1篇」より)




明主様御教え 「主旨 岡田式指圧療法の原理と其目的」 (昭和10年御執筆)

「この療法の創成は、主神が、人類の最も苦悩とする病気疾患を根絶せんとなし給う御目的に出でたるものにして、

その御目的遂行の為表現仏たる観音の霊体を通じ、仁斎の肉体を活用させ、ここに、神人合一的大能力を発揮するに到ったのである。

この大偉業の神命を受けたる余は、爾来(じらい)、七年間、あらゆる病者に接触、研磨修錬を経、その間、観世音より、幾多の霊示を享(う)けたる結果、

従来の医学の、ほとんど夢想だもせざる治療成績を挙げ得たので、ここに、日本医学の新しき名の下に、人類救済の根本的大経綸を開始する事となったのである。

しかして、この療法は、何人が修得するといえども、余の許しを受くれば、その人の霊体を通じて発揮する観音力に依って、驚くべき治病能率を挙げ得るのである。」 (「日本医術講義録 第1篇」より)




明主様御教え 「病貧争絶無の世界」 (昭和10年9月15日発行)

「病貧争絶無の世界などと言えば、それは、理想であって、到底実現し得らるるものではないと世人はいうに決まっている。

しかるに、我運動は、その可能を確信して憚(はばか)らないのである。

しからば、病貧争を絶無ならしむる、その根本は、何であるかといえば、それは、何と言っても、病気の絶滅である。

まず、人が病気に罹るとする、その為の費用と職務につけない損失と、二重の負担は、病気が長びけば長びく程、いやが上にも累(かさ)んで、大抵の財産は失くなってしまう、

長年汗で貯めた貯金も費い尽し、親戚知人からは、借りるだけは借り尽し、去年まではいとも饒(ゆた)かに、平和に、楽しく暮していた家庭も、今は、見る影もない、ドン底に陥って終って、

貧と病苦に喘(あえ)いでいるという実例は世間余りにもすくなくないのである。

しかも、一人の重病者が出来た場合、その本人のみかは、その家族全体が無限責任を負わされる。

親戚知人は固より、時に依っては勤め先までさえに、大なり小なりの痛手を蒙らせるのである。

故に、病人だけが苦しむばかりか、四人も五人もの家族から、外部の者にまで打撃を与えるという結果は恐ろしい事である。

死ぬ程の病人が、二三人も続いたとしたら、まず万以上の財産家といえども、裏長屋へ引っ込むの止むを得ない境遇になるのは、数多くの実例が示している。


人々が貯蓄をするのに、二つの目的がある。

一つは、財産を造ろうとするものと、一つは病気の場合の治療費に充てる為とである。

前者は、積極的で、後者は、消極的であるが、この消極的貯蓄の方が、断然多い事は、誰でも知っている。


故に、貧乏の最大原因は、病気であると断定しても否定は出来まい、

次いで、争であるが、国と言わず、人と言わず、その最大原因は、経済上からである事も、又悉知(しっち)の事柄である。

故に、病貧争を絶無ならしむるとしたら、まず、根原である病気から解決付けてゆくのが本当の順序だ。

病気のない人間、これが先決問題である。

いかなる救いといえども、それより外にありようはずがない。

しかしてこれを実現する力こそ、観音力を措いて外に、絶対にないのである。

故に、こんな素晴しい事業は、釈迦、基督といえども、夢想だもしなかった事であって、これを信じ得る人こそは、未だ嘗(かつ)てない幸福者であると言えよう。」 (「病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何?」より)




明主様御教え 「世界的宗教は治病宗教なり」 (昭和11年6月18日御執筆)

「宗教による治病は不可であり、異端であるという論を多く聞くが、これ程不思議な事は無いであろう。

そうして、一方には反対にこういうのである。病気治療は医療ばかりではいけない、本来病気とは気を病むのであるから、精神が肝腎である。

病気によっては精神から治してかからねば駄目である、との論であって、右の二様の説は、同じ人の口から出るとは又不可思議である。

治病上、精神治療が必要であるならば、その精神治療は一体誰の役目であろうか。

まさか教育者でも学者でもあるまい。

どうしても宗教家より他に無いであろう事は明かである。

それは人間以上の力、即ち超人的力に縋る意味で、その力とは神仏そのものでしかないのである。

前述のごとき相反する矛盾を、平然といっている宗教家もすくなくないのである。

それでいて既成宗教の大部分は、これらの救済に頗る無関心である。

否無関心であるより、止むを得ないのであろう。

何となれば、その超人的力に縋らす事すら不可能である程に、無力になって居るからである。

それが為に、社会事業を経営しなければ、その存在の意義さえ無くなるので、病院を建設し、医学の力を藉(か)りて治病するの止むを得ない事実である。

しかるに医療では、容易に病気が治らないから、仕方なしに病者に対して、健康復活の希望は説けないから、病苦そのままで諦めさせようとする。

それが病苦に超越せよという美辞である。

そうして、安心立命が得られるというのであるが、実は余程の偉人か、精神変質者でない限り、到底凡人には困難であろう。

何となれば、元々精神と肉体とは別々の存在ではないから、病気の苦悩はどうする事も出来得ない。

病苦に超越せるなどという事は、実際言うべくして行い得るものではない。

恐らくそれを説く宗教者といえども、病苦に超越するよりも、病気が治癒して健康になった方が、どの位いいか比較にならないであろう。

しかるに新興宗教はこの点において、多少なりとも治病能力を有している。

もっともこれのみで発展したといってもよいのであるが、しかし、これら新興宗教においても、いかなる病気も治るという力はない。

限られたるある病気のみであって、治る病気もあり、治らぬ病気もあり、一旦治っても再発又は死の転機さえするものが往々ある実際を、常に見聞するのである。

しかし、医療よりは確かに優ってはいるが、絶対ではないから問題にはならないのである。

そうして、新興宗教の治病は自力を強要しないものはない。

あるものは、有る病気を無いと自力で錯覚させしめようとし、あるものは、病気は神の戒めとなし、自力による改悔(かいげ)によって治癒させようとする。

又、祈祷に渾身の努力を払わなければ治らないというのもある。それら種々の信仰的治病が、果して何程の効果ありやは、いずれも統計を示さないから正確さは知る由もないのである。


以上説くがごとく、既成宗教においては諦めと理論と社会事業を宗教的行事と誤認し、新興宗教にあっては、自力強要による治病を主としているが、その実績の統計を示さない以上、社会から迷信視せられるのも止むを得ないのである。

これら現代宗教を総括してみる時、全人類を真に救済すべき可能性あるものは、一も見当らないのである。

噫(ああ)、しからば世界人類を救済すべき世界的宗教の発生は無いであろうか。

そうして世界的宗教としては、いかなる条件を具備すべきであるか、今それを説いてみよう。

世界人類を救うというごとき広範囲の目的のものは、当然文字を解する文明人も、一丁字もないアフリカの土人も否食人種でさえ救う力のあるものでなくてはならない。

故に、文明人はいざ知らず、野蛮人に対しては理論や戒律は何ら役に立たない事で、彼らの知識相応に認識出来得るものでなくてはならない。

それは何かと言えば、偶像礼拝と治病のこの二つのみである。

世人は偶像崇拝と云えば、直ちに低級視するという妙な傾きがあるが、世に偶像崇拝でない宗教はほとんど無いであろう。

たとえて言えば、仏教における如来仏や観音、不動等その他帰幽してすでに形の失(な)い開祖もあり、基督(キリスト)教においては最も偶像崇拝を非難するが、

その実一部を除く外、イエスの油絵、十字架の形物等を拝ましている事で、基督教といえどもすでに野蛮人を救済するのにそれを用いている。

又、亜細亜の大半は仏教における観音仏や回教における、太陽や、アラーの神等の偶像が主なるものである事も人の知る所である。

これによってみれば、偶像礼拝は昔から、人類の大半が行っている事実である。

第二の治病も、日本は固より世界各国においては、一部は昔から行われているが、しかし、それらはほとんどが自力であって、人間の精神力によって治病されるので、決して他からの力ではない事である。

故に、この精神力を発揮するとしては、ある程度の理解を必要とする為、全然野蛮人では困難であるから、それらはいずれも世界的救済は行い得ない事は明かである。

これらの点について、医学はいかなる野蛮人でも、何ら脳力を要しないから、理想的ではあるが、治病力の薄弱はいかんともし難いので、勿論資格は無いのである。

この様に説いてくると、世界的宗教としては、どうしても迅速簡単にして、治病効果百パーセントの力を有(も)ったものでない限り、資格のない事は自明の理である。

この意味において、我観音会こそ、真に世界的宗教であると断言し得るであろう。」




明主様御教え 「観音運動は一切の病気治しなり 併而世の既成宗教家に斯文を呈す」 (昭和11年1月1日発行)

「宗教の真の使命は、病気治しである。

否、宗教の全使命が病気治しであり、それ以外には何物もないのである。

故に病気治しを行わない宗教は宗教としては無価値であるといえるのである。

しかしながらただ病気と言えば、人間の肉体的のみに解釈し易いのであるが、

実はそれ以外、あらゆるものに病気はあるのである。

ここにその真相を説いてみよう。


しからば、人間の肉体以外の病気とは、何ぞやと云えば、それは人間の思想にも病気がある。

即ち不純な思想の持主は思想の病人であり、社会的不安の真因たる諸々の不正堕落は、

この病的思想から胚胎された症状に外ならないのである。

即ち個人の集合による社会は、個人の病的思想によって、病的社会、不健康な社会相を現出するのは、当然な話である。

立憲政治の運用が国家の進運に伴わないのは、病的思想の保持者である政治家に、因るからであるのは言をまたない。

又不景気は、経済界が病体であるからであって、資金の偏重は血液の不循環である。

富が上層へのみ集注し、下層が欠乏するのは、血液が脳にのみ上騰して脚部が冷ゆる、逆上(のぼせ)的病状である。

又青年が、赤化のごとき不健全思想に感染する原因は、美濃部博士のごとく、学問至上主義に捉われて、

尊厳なる国体を無視したる学説を真理のごとく信じて、それを講説するからである。

しこうしてこれらの思想は不治な肺結核のごときもので

しかもこの結核思想病者はインテリ層に、割合多数あるらしいのであるから

現代青年が、これに感染するのはまことに困ったものである。

故にこれを私は思想結核病というのである。

その他国際間宗教界等、あらゆる方面においてそれぞれ大中小の難病に罹り、

それに悩まされて居らぬは無いという現状が、今日の世界及び社会である。


右に述べたるごとく、今日あらゆる人間苦の根本原因はあらゆる方面が病体であるからである。

さればその病患を治すべく、宗教家も為政者も、学者も教育家も智嚢(ちのう)を搾ってはいるが、

悲しいかな、未だその疾患の治療法を発見し得ないのみか

その疾患の原因すら、認識把捉し得ないという実状である。

のみならずその病患は益々重症に陥りつつあるのである。

既成宗教に在る当事者とその支持者達は、口を開けば、宗教は病気治しじゃないと誇らかにいうのである。

又いわく、病気に超越して安心立命を得させるのが真の宗教であると言うのである。

吾々はこの人達の頭脳を疑わざるを得ない・・・

なぜかといえば病気を治し得ないでどこに救いがあるか・・・

人間の病気を治し得ないでいかにして世を救い得べきや。

病苦に悩みつつ死の不安に晒されながら、安心立命の出来得る人がもし在りとすれば、それは世界中卿(けい)らのみである。

随って、病気を治し得ない宗教は止むなく理論で人を救おうとしている。

理論で安心立命を得らるるならば飯の説明だけで腹が満(く)ちくなるはずである。

予算だけで金持に成らなければならない。



本来宗教は、形而上のものであるから、神力仏力の活現でなくてはならない。

古来・・・仏陀はじめ各聖者も、各々それを如実に表わした。

即ち、霊を以て霊を救われた。

空海も親鸞も日蓮も決して物質的救済は行わなかった。

又そうしろとも言わなかった。

飽くまで霊的で精神的で能く偉大なる崇高なる人格を以て、

大衆を教化し死しての後、今もなお無言の感化を与えているという事実は、

既成宗教に携わる程の人は充分知り抜いているはずである。


社会事業は、決して悪い事ではない、

多々益々発展させなければならない事は勿論である。

しかしながら、社会事業その物は形而下のものである、

形而上のものである宗教が社会事業に専念するという事は適切ではない。

本来の使命を没却しているといわれても、一言の辞は無いであろう、

ただ、宗教の一部門として、社会事業を援助する位が、適当であろう。

故に、吾人をして、忌憚なく言わしむれば、既成宗教家諸君が病気治しも、霊的教化も行なわないとすれば、

その宗教は最早生命を失って居るので、宗教としての本質は無いのであるから、

宜しく宗教家の衣を脱却し、専門的に社会事業家に成るのが至当ではなかろうか、

そうして殿堂も伽藍も、社会事業の為に利用した方がどの位・・・国家社会にとって効果的であるかは、考える余地は無いであろう。

あえて世の既成宗教家諸君に・・・この文を呈するゆえんである。

従って、吾人の最後の目的は健康な肉体、健康なる思想、健康な国家社会、健康な世界たらしむる事である。

それが真の宗教の使命でなければならない。

故に重ねて言う、宗教の使命とは人間の霊肉の病気治しを基調として森羅万象・・・一切の病気治しである事である。」




明主様御教え 「序論 人類救済の根本」 (昭和11年5月15日発行)

「人類救済という言葉ほど、極めて大きく広い・・・又、温い響を与えるものは無いであろう、昔から、人類救済の為に尽した聖者賢哲は、無数であって、そのいずれもが多少の貢献と、相当の功績を遺(のこ)した事は、否めない事実である。

しかしながら今、私が言わんとする事程絶大な救の事業はあるまいと思うのである、それは何か、他でもない、人類から病苦の悩みを、除去しようとする事である。

いかなる人が、いかなる批判を下すとしても、病気を治すという事程、素晴しい救は無いであろう、宗教でも、医学でも、いかなる方法でもいい、病気を無くする事が出来れば、それは、未だ曾(か)つて地上に顕われた事のない絶大な功徳である。

飜(ひるがえ)って今日の社会を凝視してみる時、何と悲惨なる世相ではなかろうか、今仮に一人の難病者が出来たとする、大抵は入院をする、手術をする、少くとも、それに数百金は要するであろう、

それで全治すればよいが、なかなか治らない、遂に一年二年三年にも及ぶ時、最早、数千金を費消し尽されてしまう、

その際、子女なら未だしも世帯主である場合、勤先は馘(くび)になるのは、知れ切っている、

又、妻女である場合、家政婦か下女を、傭(やと)わなければならない、それやこれやで長年の貯蓄や積立金も費消し尽して、なお、病気は治らないという例は余りにも多いのである。

そうして病長びけば、生活の心配や、煩悶により、益々衰弱悪化するのは当然である・・・金は使い果し、職は失い、借金は出来、家賃は滞り、進退全く、ここに谷(きわま)るという悲惨な例は随所に見受くるのである。

そうしてこの場合、兄弟親戚知人等も連帯責任の止むを得ない場合が、往々あるのである。

又・・・その勤先の会社、又は主家に迷惑をかける場合もあろう、間接には、国家社会に対しての損失も蓋(けだ)し、すくなくはないであろう、

又万一の場合もあれば、本人のそれまでの教育費や、修業の損失も少くはないであろう・・・子女である場合・・・養育費の損失も、相当なものであろう。

従って一人の難病者が出来た事によっての個人的苦悩と社会的損失は、蓋し軽々ならぬものがある。

そうして、幸にして全治されたとしても、その時は既に、金は無し職は無し、債鬼には責められ、新に職業を求めようとするも、それは一大難関である。

又相当な資産家であっても、二三人の難病者・・・又は、死亡者を出す事によって酷い零落をした実例も、よく見るのであって、折角、大学まで入れた子息も、女学校へ通っていた娘も、涙を揮って、退学の余儀なきに至る事もよくある。

広壮な家から見窄(みすぼ)らしい家に、転落した気の毒な人も、幾度となく、私は見たのである。


これらの実例は、世間到るところに、今、有過る位であって、珍らしくもないのである。

故に当局も、社会政策上、これらを救おうとして、生命保険、健康保険、済生会、実費診療所等・・・相当な犠牲を払ってはいるが、容易に所期の効果は挙げ得ないばかりか、あるいは・・・漸増する傾向さえ見らるるのである。

これら今日、余りにも多数に起りつつある、不幸の原因は、そもそも何が故であろうか、それは一言で言えば、西洋医学の「治病能力」が、余りにも薄弱であるからと言えるのである、

医学がドシドシ迅速に病気を治してくれたら、それで解決して不幸にまでは到らないはずである・・・

又、この事について既成宗教においても、そうである、最早神力や仏力がないから、病気は更に治らない「治らないから」病苦のまま諦めさせようと努力するのみである。

そうしてそれが、正しい信仰と錯覚してしまっているという実に情ない状態になっている・・・故に、医学と同じく、宗教も解決してはくれないのである。


しかるにここに我療法による時、いかなる難症といえども、発病後直ちに、ツマリ医師に掛ろうとする時来るならば、それは容易に治癒されるのである。

まず、速きは二三回、重症でも十回以内と見ればよい、そうして、予後、ほとんど再発が無い事である。

従って・・・費用も時日も、実に僅少であるから、不幸者が出来ようはずが無いのである、これ程の「大医病力」が創成されたるに係わらず、今日まで・・・余りにも治らない西洋医学の現実性が、頭に染着いている現代人は、容易に信ずる事が出来得ない、

それらの人達へ対して本療法を受ける気にならせることは、療病よりも困難であるとさえ思う事が・・・よくある、

しかし、新しい運動には例外なく有るべき、困難事ではある事も、吾々は覚悟している。

とは言うものの難病苦が全癒されたばかりか、永久・・・不幸の発生が無いという・・・確信を得たところの体験者が、日に激増しつゝそれらの人々が自分と同じである、多数の不幸者を熱心に導くその事は貴い事で・・・何よりも喜ばしく思うのである。


次に最近、社会局の調査によれば、都会の小学児童の四割までは、結核性虚弱児童であるという、実に寒心すべき報告であって、国家の前途に対し実に由々しき大問題である、

しかるに、これらも、本療法を行えば、一ケ月以内の時日に依(より)て、生れ更った様な健全児童に変ってしまう事は常に実験しているところである。


故にもし、この驚くべき治病の事実が、一般に知れ弥(わた)った時、いかに大いなるセンセーションを起すであろう・・・それと共に、いかに多くの病者が殺到する事であろう、

随って、その時に応ずる為の治療士も養成しつつあるのである、無論、この療法が、世界的にまで発展する事は、火を睹(み)るよりも瞭(あき)らかであるが

「その時代」我「療病術の偉力」を知った・・・彼ら白人が、いかに随喜し拝跪(はいき)するであろう事は、今から、想像に難くないのである。 (岡田仁斎)」 (「明日の医術・新日本医術としての岡田式療病法」より)




明主様御教え 「観音力療病は何故治る乎」 (昭和11年2月17日執筆)

「古来、病気の原因については、宗教上からも医学上からも種々論議されて、今以て尽くる所がないのである。

宗教ではほとんどが罪穢説であり、医学では大体黴菌説である。

しかし、医学の黴菌説は、実際から言って疑問の余地が大いに在るのである。

何となれば、官民協力し、あれ程撲滅に努力しつつある彼の肺結核にしろ、所期の成績を挙げ得ないという事は、病原その物は黴菌以外にあるからである。

しかし、未だ発見されていないばかりである。

故に、いか程厳重な消毒を行うといえども、罹病する者は罹病し、別段、黴菌に介意しなくとも、罹病しないものはしないという例は、何を暗示しているのであろうか。

又、流行性風邪は、ほとんど全部の人間が侵されていると言ってよい位で、

この場合いかにマスクをかけ、含嗽(うがい)を厳重にする者といえども、斉(ひと)しく罹病する所を見れば、

黴菌罹病論は、病原の一部的説明ではあるが、断じて病原の全体を掴んだとは言えないのである。

それに引換え、宗教の罪穢説は、病原の本体を喝破したるもので、吾人といえどもこれに一点の異議は無いのである。

しかるとせば問題は、その罪穢をいかに払拭し、解消するかと言う事であって、これに依て肺結核の撲滅も、その他の伝染病もあらゆる病気の根絶も可能である事は理論と経験によって断言し得るのである。

しからば、その罪穢を解消する方法としては、いかなるものでありや、と言えば、ただ一つより有り得ないので、それは、神の御赦しのみである。

しかし、一口に神と言うが、神にも八百万あって、それぞれの役目を、分担管掌(かんしょう)され給うのである。

そうして、罪穢を赦し給う権能を有ち給う神は、天地間、ただ一柱より在さないのである。

それは、宇宙の支配者たる主の神にして、その主の神の表現神で被在(あらせ)らるるのが、畏くも天照皇大神様で被在らるるのである。

天照皇大神様は、独一真神にして、最尊最貴の御神格に被在らるるを以て、直接、人間への御救いの業は不可能の御事が神律なのである。

何となれば、人民とは余りに隔絶し給うが故である。畏多き例にはあれど、一天万乗の天皇が、御親(おんみずか)ら人民に対して玉手を染め給うの、不可能の御事と等しいのである。これにおいてか、洽(あまね)く、世界万民を救わせ給う御心の現れとして、救いの執行者を遣(つか)わされ給うたのである。

それが観音、阿弥陀、釈迦、基督(キリスト)、マホメット、その他の各聖者達である。

しかるに、それら聖者達が、今日まで主神より委任される場合、その時代とその地方とによって限定された事であって、それは主神の御意図であるから、止むを得なかった事である。


ここで吾々は、現代を凝視する必要がある。

それは、一切の機構が世界的となった事である。

しかるに釈迦も、基督も、マホメットも、あらゆる聖者の出現した時代は、未だ一切が世界的までには、到達していなかった事である。

故に、彼らの教や努力は、いかに価値があったとしても、それは、地方的であり、暫定的でもあった事は、止むを得なかったのである。

故に元々、地方的、暫定的必要から生れた宗教であるとしたら、今日のごとき、世界的の時代を救うとしても、それは不可能である。

力が足りないからである。

恰(あたか)も、一国の必要によりて生れた政治形体を、全世界に行うとしても、出来得ないと同じ訳である。

例えば、皇道は露西亜(ロシア)人には解せまい。ファッショは、亜米利加(アメリカ)には適すまい。

共産主義は日本には行い得ないようなものである。

この事に着眼の出来る人は、物象を真に観透す能力者である。

それ故に、一切が世界的にまでなった今日の時代としては、どうしても世界的救済力と、その宗教が発生されなければならない事である。

ただしかし、その時と所とが残された問題なのである。


ここでまず、その時から検討してみよう。

世界的救済がタッタ今出現したとして、時期は早過ぎるであろうか、という事である。それに対して、否、と言う人は有るまい。

なぜなれば、現実としての世界人類の苦悩の喘ぎは、最早一日も忽(ゆるが)せには出来ない現状である。

今にして世界的救済が生れなければ、人類の前途はどうなりゆくであろう。

あらゆる不健康な人間と不健全な精神と宗教の無力と思想の混乱を見るがいい。

又、欧羅巴(ヨーロッパ)と亜細亜(アジア)の動向を認識するがいい。

それは、有史以来類例の無い凄惨時代に向いつつあるではないか。

実に、これこそいわゆる世界終末の姿ではなかろうか。

そうして、それを喰止める力、その力の存在はどこにも見当らないのである。

これらによってみるも、最早世界的宗教が発生し、世界的救済が行われなければならないところの、時の条件は充分に具(そなわ)っていると見るのが至当である。

実に最早遅疑を許さないまでに、時は迫っているのである。


次に、所は、どこであろうか。これは即座に日本国であると言えよう。

それは、古典や聖者の予言を藉(か)りなくとも明かである。

何となれば、東洋の精神文化と西洋の物質文化とを余す所なく吸収し、咀嚼(そしゃく)し、(中略)しかも、国際正義を遵守(じゅんしゅ)し、常に平和と道義の為、努力を続けている国、それは日本を措いて他には類型が無い事である。

この点から観ても、所は日本である事に何人も異議は無いであろう。

故に、時は今、所は日本国に、世界的救済と宗教が生れたとしても何ら不思議は無いはずである。

しかして今や顕現すべき大宗教と人類救済の委任者は、一体無形の神であろうか、否仏であろうか、又は、有形な人であろうか、という事である。

無形の神や、偶像的仏体では、この大事業は到底成し得るはずがない。

何となれば、今日までの救済はそれであったが為に、ついに今日のごとき地獄的世相を実現して、どうする事も出来ない現状ではないか。

故に、真の救済力を発揮するには、人としての機関でなければ到底出来得ない事は勿論である。

そうして、その機関として選まれたのが、不肖(ふしょう)、仁斎の肉体である事である。

私は自称救世主の言葉は嫌であるが、右のごとく説明するより致方がないのである。

この意味によって、世界人類を不幸と苦悩の檻から、解放させる時が来たのである。

随って、悪魔の意図から出たところの不正堕落や、暗黒思想、極端に歪められた宗教、狂い切った人間の行為等、それら一切の罪悪の根原を打ち断り、本然(ほんねん)の正しさに還さなければならない。

と共に過去数千年間滞積の罪穢によって、最早動く事の出来ない万般の行詰りの原因である、一切の汚濁を根本から浄めてあらゆる不幸を除去しなければならないのである。

かくのごとく、救済を要する人類の数限りない苦悩の中で、何と言っても病苦からの解放こそ、最重要なる救いは他には無いであろう事である。

それが即ち、観音力療病法となって、まず現われたのであるから、他のいかなる療法も、較べる事の出来ない程の効果と力があるのは当然である。

罪穢を赦し給う権能を行使さるる御仏こそ、実に慈悲の権化とも言うべき大聖観世音菩薩である。

そうして、その救世的活動を仁斎の肉体を通して行わせられるのであるから、真の病原である罪穢の払拭されてしまう理由は、まことに瞭(あきら)かな事である。

その為にこそ、仁斎の肉体から不断に放射する霊光であって、それによって一切の曇は解消されてしまうのである。」 (「新日本医術書」より)




明主様御教え 「自然死と不自然死」 (昭和11年6月19日御執筆)

「そもそも、人間の死とはいかなるものであるか。これは説明するまでもなく生の断絶である。

生の断絶とは、その肉体が生存し得なくなる為で、ちょうど、樹木の枯死と同様な意味である。

死の原因として種々あるが、大体二つに分ける事が出来る。

一は自然死であり、一は不自然死である。

言うまでもなく自然死とは、天授の寿齢が尽きる事であり、不自然死とは、病死、変死、自殺等である。

そもそも、人類の本来から言えば、自然死で終るのが正当であって、不自然死は変調である事である。

しかるに、文化が進むに従い、自然死は益々減少し、反対に不自然死特に病死が増加するという事実は、まことに不可解至極である。

あらゆる文化が益々進歩発達しつつあるに対し、ひとり人間生命の問題に関してのみは、その逆であるという事はいかなる原因であろうか。

そこに何らか人間の気の付かない一大欠陥がなくてはならない。

という疑問が起るべきはずであるのに、人間は他の方面には実に限りなき欲求が働くのに、ひとりこの事に関してのみは頗る冷淡であるが、それは生命の問題だけは、どうにもならないと諦めて居るに過ぎないのであろう。

何となれば、現在までの科学でも宗教でも、この一事だけは絶対解決が出来ない事を、誰しも知って居るからである。

故に、他の事物はいかに発達しても、この点のみは自然の推移に委するの止むを得ないと言うのが現在であろう。

しかし、考えてもみるがいい。万能の神が、最高等動物である人間を造られ給うたる以上、

その人間の自然死が不自然死に比して余りにも少数であり、否、益々少数になりつつあるという事程、神の意図と相反する事象は無いであろう。

真に神は万能であるならば、どうしても、早晩人類本然の霊長的資格にまで戻さなければならないはずである。

勿論、人間生命の変調にそういつまでも黙視し給うはずはないであろう事である。

その事に想い及んだ時、主神の救済委任神で被在(あらせ)らるる伊都能売之大神即観世音菩薩が、人間の生命の延長即ち不自然死滅消をなさしめ給う事は、敢て不思議ではないであろう。

この事によってみても、人類が何千年待望していた光明世界、即ち病無き世界が、今や来らんとしつつある事を覚らねばならないと思うのである。」




明主様御教え 「生活改善と医療」 (昭和11年5月3日御執筆)

「近時喧しい生活改善の問題に対し、その最大重要事は、何といっても病気である。

二六時中無病息災であってこそ、改善のプランも成立つのである。

いかに改善の方法を立てても、一度重患者が出来れば、何もかも滅茶々々である。

そうして、病気なるものは全然予想が出来ない事柄である以上、これが解決は根本事である。

故に、どうしても絶対無病である事、万一病気に罹っても、短時日に治癒さるるという事でなくてはならないのである。

しからば、その様ないつも無病であり得るやという事であるが、それは絶対可能である事を断言する。

何となれば、私が創成した新日本医術に依る健康法を実行していれば、容易に病気には罹らない。

よし又、罹ったとしても、大抵は放置しておけば、自然に治るのである。

もし、よくよく治らない場合、本会治療士に治療を受ければ、いかなる病気も確実に治癒されてしまう。

これは、些(いささ)かの誇張も無い事実であるから、致し方がない。

故に、病気の懸念と医療費の項目は、必要がない訳である。

これによって生活改善は何ら支障なく、理想通り行われるのである。

一言にして言えば、真の生活改善は、本会員でなくては可能と言えない事を断言するのである。」