病気を治す宗教について 2


明主様御教え 「事実は雄弁なり」 (昭和24年12月20日発行)

「本教が、短時日に異常な発展を遂げ、ますます教線拡大しつつあるという事は何がためであろうか、恐らくこのような例は宗教史上空前といえよう。

この世智辛い世の中に金を出し、暇を欠き、熱心な信仰を続けるという事は、何物かなくてはならない。

しかも政治家、博士、大学教授、代議士、上級官吏、有力実業家、初め中商工業者、勤労階級、農民等に至るまで

社会各層を網羅し、現在信徒数二十万に垂(なんな)んとする、事実だけにみても考えなくてはならないはずである。

右の事実に目を蔽い、何ら触るる事なく、独善的に迷信邪教と片づけて得々たる人も、

今日少なからずある事実で、これまた何を物語っているかであるが、

しかし、こういう人を一概に貶(へん)するのももちろん誤りである。

という事は、事実今日までの新宗教は全部といいたいほど、真の価値あるものはなかったからである。

それらはなるほど発展当初は実に華々しく、将来の大宗教を約束するかに見られるが、

年を経るに従い漸次活気を失い、龍頭蛇尾に終る事実は何人も知るところで、

今なお存続しているものは数種に過ぎないという実情である。


これらの実例が頭に滲みついている世人が、新宗教を迷信邪教として片付けてしまうのもむしろ当然ともいえよう。

ここで今度は本教について言わして貰うが、この場合一切の記憶を捨て白紙となり、無色の眼鏡を通して冷静にみられたいのである。

手っとり早い話はまず本教独特の浄霊の効果である。

この効果こそは宗教史上否人類史上前例がないばかりか、想像すら出来ない偉効のあるものである。

もちろん、理屈でも一人よがりでもない。生きた事実そのものである。

何よりの証拠は一人一人の体験によって感謝の溢れた報告が机上山なすのである。

これをおかげばなしとして、光新聞及び地上天国に満載している。


面白い事には、右の報告には宿所姓名を漏らさずかいてあるから、

当局はもとよりあらゆる方面の人々が、手紙または訪問して、事実が否かを調査する事もまた少なからずあるが、

今日まで一人も事実と違うと言って来た者がない、

もちろんおかげばなし中には死の宣告を受けた者、医師から不治を宣告されたもの、

現代医学では不可能と断定されたものが、完全に治癒する事はもちろん、

病気以外の奇蹟の実例も無数に、日々各方面に表われつつある等、

現代人の常識では到底信じ得られないものばかりである。

吾らが、病貧争絶無のいわゆる地上天国を実現し得るという、途轍もない理想も、この事実を知ったなら、その可能を信じざるを得ないのである。


ゆえに吾らが今現に行いつつある仕事は、実をいえば宗教とはいえない、

何となれば宗教といえば、ともかく既成宗教を連想し勝であるからで、本教の実態を把握しようとする場合、むしろ邪魔にさえなる。

すなわち本当をいえば、前例のない大なる救いの業である。

世界の大転換期に当って、この大きな救いが出なければ人類の危機を免れる事は困難であるからである。

したがって神は私をしてこの大偉業の遂行者として選ばれ給うたのである。

私は自分はメシヤだとはあえていわないが、将来メシヤ的力を神が私をして発揮せしめられるであろう事は今日言い得るのである。

しかしながら、昔からいかなる宗教といえども、ある期間世の誤解を受ける事は過去の宗教史をみれば判然としている。

私といえどもこの例にもれず、常に誤解するものもあるが支持するものが漸次増えつつあるのである。

ゆえに私はただ神の命のままに行動し、神に任せきって時の推移に従っているのみである。」




明主様御教え 「迷信邪教について」 (昭和24年2月28日御執筆)

「世間、迷信邪教というが、迷信邪教の一番はキリスト教である。

キリスト在世時代を考えればよく判る。

当時、迷信邪教と誤解されて、十字架にまでかかられた事実が物語っている。

それが時の経過によって、迷信邪教の汚名は消え、今日のごとく立派なものとなったのである。

宗教のほとんどは、生れた当時は迷信邪教視せられたものである。

日蓮も、親鸞も、法然もそうであった。

だから、実際、迷信邪教であるか否かは時を待たなければ確定は困難である。

本当の迷信邪教であれば必ず滅びる。そうでなければ必ず発展する。


今日、新宗教でさえあれば、十把一からげに迷信邪教というが、

なるほど本当の迷信邪教もあるが、そうでないものもあるべきはずである。

観音教団が迷信であるかどうか、徹底的に検討して貰いたい。

ところが、少しも触れない人々が尻馬にのって迷信邪教視しているように見える。

ゆえに、馬鹿らしくて返答のしようがない。

多くの医師から見放され、死の宣告を受けたものが起死回生し、立派な健康体になったものは、実に無数に上るのである。

また、不幸なものが幸福になったり、不良が改善された等々の、現実に社会に貢献しつつある吾々に対し、どこに迷信があり、邪悪の点があるか聞かして貰いたい。

一年有半にして、十万以上の信者が出来るという事は空前であり、何を物語っているのであろうか。

全く眼の前に見る顕著な御利益や、奇蹟によるからである。

民衆を侮る事の間違っているという事は、今回の総選挙がよく教えた。

ゆえに、本教の発展こそ、民衆の批判の正しい事を示していると思う。」




明主様御教え 「インチキの名を返上する」 (昭和24年11月19日発行)

「よく新聞などに新宗教を目してインチキという名を冠するが、もちろん本教もその一人であろう、

ところがインチキという言葉は社会通念からみるとマヤカシモノすなわち本物でないーという意味にとれるが、

これについて本教としてはどの点がインチキであるかを釈明する事も満更無駄ではあるまい。

本教も宗教である以上、信仰によって御利益を頂き救われ幸福者となるので、

それによって素晴しい発展を遂げつつあるのは言うまでもないが、

特に本教においては幸福の原であるべき病難を解消する事に最も力を注ぎ絶大なる効果を挙げつつある事実で、

これは自画自讃としても一点の誤りはあるまい、

とすればインチキなる名称は全然当らない事になろう、

そうして本教に救いを求めに来るものの大部分は重難病の末期のものばかりで死の一歩手前といってもいいのがほとんどである、

それが一転して快復に向かい、決定的死の運命から復活の歓喜を得らるるのであるから、

その感謝はどうしても熱烈なる信者とならざるを得ない事になる、

この結果本人はもとより近親者も知人も、驚喜の感激はいかなる反対を押切っても入信する事となるのは当然である、

しかも本人の発病当初から、本教の救いを求めに来る間際までに費やしたる療養費はもちろん、その苦痛と不安は想像もつかない程のものがあろう。

以上の事実によって厳正公平に検討するとすれば、その結論は何と下していいであろう、

とすれば確実に治る本教浄霊がインチキで治し得ない療法がインチキでないとすれば、石が流れて木の葉が沈むという訳である。

以上によって、吾らはインチキの名をここに返上するのである。」




明主様御教え 「一人対一人では駄目だ」

「昔からキリスト初め、幾多の聖者が現われ、人間救済に奇蹟を顕(あら)わし、

大なる功績を残したことは、宗教史上今なお燦(さん)として輝いている。

しかし、治病に当っては、一人対一人の治病能力を発揮した事実である。

しかるに右のごとく、一人対一人では多数の病者を救い得ることは不可能である。

彼のキリストにしても、盲目者を開眼させたり、跛行をたちまち立たせたり、

霊的病者に向って鬼を追い出して治したり、素晴しい奇蹟を顕したが、

前述のごとく、一人対一人の救いであったから、

当時、余り衆目を引がなかったのは止むを得なかったといえよう。

そうして右のような奇蹟は、本教信徒数万人が日々如実に顕わしつつある事実で、

しかも今後時の経つにつれて治病能力者は何万に上るか判らないのである。

とすれば、漸次多数者が救われることになろうから、将来、世界的大問題となることも予想されるのである。

右のごとく本教の病療法は素晴しい医学には違いないが、

吾らの終局の目的は、天国的理想世界を造るにあるのだから、肉体の健康のみでは本当ではない。

肉体の健康と共に精神的健康たり得なくてはならない。

いわゆる、霊肉一致の完全人間を作ることである。

このような完全人間の増加によって、ここに地上天国は形成されるのである。

いよいよ、天の時来って、艮(とどめ)の宗教として出現したのが本教であることは、右によってみても肯き得るであろう。

何よりの証拠は、本教に入信するや、ただちに誰もが奇蹟的治病能力を発揮し得る事実にみても明かである。」




巻頭言 地上天国25号 (昭和26年6月25日発行)

「我 メシヤ教は、病気治し専門のように思われているが、一般はただ病気とさえ言えば、肉体のみの悩みと思っているが、

この観方(みかた)は実は違ってはいないが、まことに小さい観方である。

もしそれだけとしたら、本教の病気治しは進歩した医学でしかない事になるが、これだけでは本教に対する全体的観方ではない。一部分の観方である。


飜(ひるがえ)ってよく考えて見て貰いたい事は、地球のありとあらゆるものの現在の姿である。

言うまでもなく、そのほとんどが不合理極まるものであり、本当のものは絶無ではないまでも、寥々(りょうりょう)たる有様で、

それがため人類の悩みは、いつになったら解決出来るか見当さえつかないのである。

これを一言にしていえば、世界全体が病気に罹っており、一つ一つの国もそれと同様である。

なるほど広い世界といえども、根本は個人個人の集りで成っている以上、

よく考えてみれば個人の病気が国に映り、それがまた世界に映るのであるから、世界が病体となっている訳である。

としたら、その逆に考えてみたら直ぐ分る。

すなわち個人が健全になれば国家が健全になり、国家が健全になれば世界が健全となるのであるから、

この理を充分知ったなら、本教のモットーである地上天国を造るには、これより外に方法のない事が分るであろう。

この理によって個人個人の病気を治すだけで、その大目的は達成せられるのである。

従って本教の批判者は、以上の道理を頭に入れて、冷静に観て貰いたいのである。」




明主様御教え 「ある客との対談客」 (昭和24年9月3日発行)

「貴教団のすべてのやり方はまことに我意を得ているが、ただ一つどうかと思うのは、あまりに病気治療に専念し過ぎはしないかと思うが、この点御高見を伺いたい。



貴君のそう思うのも無理はない。

既成宗教のやり方が常識となっている現代人としてそう見るのは無理はないが、

本当のことを言えば私のやっていることは宗教とは言えないかもしれない。

では なんであるかというと救いの業と言うべきであろう。

救いの業とは一言にして言えば病気を治すことだけで、ほかにはなにもないのである。

と言うとちょっと変に聞こえるであろうが、実はこうである。


みんな病気を狭義に解釈している。

病気と言えば人間だけと思っている。

ところが私は広義に解釈する。

すなわち病気とはひとり人間のみではない、社会も国家も世界も、現在はことごとく病体である。


例えば日本だけにみても、支配階級の苦悩は頭痛であり、上層階級の転落は脳溢血であり、悪思想の蔓延は肺結核で、心臓の悪いのは社会一般の不安恐怖である。

金詰まりは血行が悪く貧血であり、勤労階級の苦悩は手足の苦痛というように、国全体が病体であり半身不随で苦しんでいる。

世界も勿論同様であろう。

とすればこれをいかにして健康体になすべきやというのが、人類に課せられたる、少なくとも文化人に課せられたる大問題である。


ところが、キリスト教は別とし、今日までの宗教、道徳、法律などでは一時的苦痛緩和のカンフル注射くらいの効き目はあるが、全治させることは不可能であることは、現実が証明している。

この意味によってどうしても絶対的強力なる療法が生まれなくては、人類の不幸はますますはなはだしくなるばかりだ。

本数が生まれたのもまったく生まるべくして生まれたのである。

勿論広い世界といえども二〇億の個人の集団である。

とすれば、まず個々人の病気から解決してゆかなければならない。

それよりほかに有効な方法はあるまいからである。

初に私が言った、本教は宗教ではない救いの業というゆえんで、本教が最も治病に力を注ぐということも理解されたであろう。


なるほど、判りました。

と言って帰った。」




明主様御講話 「一番の急所は病気」 (昭和27年10月25日)

「それで今度の美術館の浮世絵展覧会を見ましたが、私の方で四点出しましたが、そのうちの三点は展覧会の圧巻でした。

数はたくさんありましたが、これはという物はいくらもありません。

勝れている物としたら、やっぱり私の方で出した物のうちの三点で、これは勝れています。

ですから京都新聞の社長と主筆、それから東京の博物館の浮世絵の主任、その人たちが非常に歓待してくれ、非常に感謝してました。

それで京都の新聞にもメシヤ教に関することが出てましたが、それといい、東京の新聞にも時々出ているものを見ても、メシヤ教に対する認識がよほど変わってきました。

それはみんな知っているでしょう。ですからしてもう一息というところです。

ほかの新宗教とのレベルの違いさが、まだちょっとくらいの違いです。

新宗教のうちではメシヤ教となってますが、あらゆる宗教のうちでもぜんぜん頭角を抜いているというところまでにまだ行ってないのです。

ただ割合にインテリの信者が多いことと、それから新宗教のうちでは一番しっかりしているというくらいの程度です。

これらも非常に早いです。今度京都に行っていろいろ、体的、物質的という面もそうとうあり、霊的からいっても非常に変わってきている。

昨年でしたが、しかも事件後でしたから、そういう点もありますが、二年そこそこで、まるで空気が違ってきました。

そういうこともだんだん早くなりますから、もう今後一年経つとよほどの違いになってくると思います。


一番の急所といいますか、これは病気です。病気はメシヤ教の浄霊・・・と。

メシヤ教でなければ治らないという空気が出てきたら俄然として発展します。

まだ時期がそこまで行ってませんから、それについていろいろやってます。

今日の東京日日を大体見てきました。

宗教と病気ということについての座談会ですが、各宗教からの医学博士が出席してましたが、メシヤ教からは岡田道一さんが出てました。

それでそういう宗教と医学について、世の中が関心をもってきたということは確かで、もう医者では駄目だ、メシヤ教の浄霊でなければ治らない、ということが社会に知れたらたいへんです。

神様が良い具合にやりますが、それが一番の急所です。

そういう意味において、今私は書いてますが、「アメリカを救う」というあれはほとんどできました。

アメリカは無論そうですが、日本人も大いに注目を払うだろうと思います。

アメリカを救うなんて、いったいどんなことを書いてあるだろうかという好奇心が起るのです。それについて、この前の次を読ませます。

(御論文 アメリカを救う「四、手術に就て 五、浄霊医術」)


いろいろの病気がありますが、そのうちで結核が一番肝腎なことなので、つまり科学的に説いたのです。

医学の方は科学的ではないのです。

医学の方は、なんというか、機械的、推理的といったものでしょう。

(御論文「結核」)


これを翻訳してます。そうして英文の方をアメリカに送るのですが、こういうふうに言ったらある程度は分かると思います。

日本と違ってあっちの人はその点は分かりが良いです。

どのくらい解るか分からないが、とにかく珍しい説だ、研究しようという人も出るでしょうし、反響はおもしろいと思います。

さっきラジオで聞きましたが、今年のノーベル賞はストレプトマイシンを発見した米国の医学者でワクスマン博士と言ってましたが、われわれから見ると実に情けない感です。

こっちはストレプトマイシンなんて、ああいうものをのませるのがいけないと言う。

それが ノーベル賞をもらうのですから、いかに世界的に逆になっているかが分かります。

ですからこれが分かったとしても、ノーベル賞受賞は合ってないかもしれないです。

なぜならばそんなチッポケなものではないからです。

新しいそういったものができなければ追いつかないです。

そうかといって今はノーベル賞以上のものがないから、そんなことは考える必要もないですが・・・そんなようなわけで、結論はまだ仕上がってませんから、ダブッている所があるでしょうが、ちょっと読ませます。

(御論文「結論」)」




明主様御垂示 「病気を治す宗教が一番高級」 (昭和24年12月27日)

信者の質問
「開拓に際して病気云々は言わず、ただ御利益を主として説明致しますがピンと来ません。

どういたしましたら信仰に入るようになるでしょうか。具体的に方法を御教え下さい。」


明主様御垂示
「開拓は、病気の事を言っていい。嘘を言うんでない。病気の治る事を言っていい。(医学の悪口は言わぬ)これが一番の御利益である。

病気が治り生命が完全になる。生命を戴く。これが一番高級な宗教である。

それを低級などというが、低級という言葉がそもそも低級である。

御利益が欲しいから信仰するので、商売して金が入らぬというようなものである。

(既成教は治らぬからこんな事をいう)

何でも常識で間違いないというのが本当である。

(今の世の中は理屈ばかりが多い)

人間は善い事をしなくてはならぬという誠が根本である。不正な事して・・・。

正しい手段でどんな善い事をし、治しても差支えない。

禁欲生活をいいとしているが(苦しむのは大変な間違いである。豪奢な生活をしているというが、そればかりを見、いい面を見ない。これが役人である)

人間はとかく悪い面のみを見ようとする。

しかし善い面を見なくてはならぬ。善ばかりという事は出来ぬ。

(またこういう事を考えなくてはいけない。自分が生きていて社会のため善悪どちらが多いかをみなくてはいけない)

(例えば無肥料は肥料会社からみれば罪になり、医学もそうである。「大の虫を生かし、小の虫を殺す」と昔から言う)」




明主様御講話 「結局根本は人類から病気を除けば良い」 (昭和27年11月1日)

「結局根本は人類から病気を除けば良いのです。

病気がなくなれば、精神的に悪を好まなくなります。

で、病気をなくすということは、病気の根本を知れば良い。

そういうことを今度の「アメリカを救う」の本に、分かるように書いてあります。

あれが分かれば、もうミロクの世の創造が始まるようなものです。

つまり今までは病気が必要だったということです。

しかしいよいよ病気の必要がなくなるのです。」