病気を治す宗教について 1
明主様御教え 「健康による天国化」 (昭和24年5月30日発行)
「キリストの一大予言である「天国は近づけり」との獅子吼(ししく)はもとより、
あらゆる宗教の目的とするところはより良き世界すなわち人間から苦悩を除き、歓喜に浸る生活の具現にある事は言うまでもない、
この一致した理想に対し、遺憾ながら現実は実現どころか地獄の境界から脱却するさえ前途遼遠の感がある、
洋の東西を問わず、昔から宗教、哲学、道徳、教育等によって懸命の努力を払っているにもかかわらず、
今もって何らの進展も見受けられないのが事実である、特に悲劇の根源とも目すべき人間の健康についての解決に至っては何ら見るべき進歩のないのは、吾らのみが言うところではあるまい。
この事については、我々は常に耳にタコが出来る程説いてはいるが、この問題に限って説き過ぎるとは思われない、何程繰返しても新しい感がある、
何となればこの健康問題が立派に解決されない限り、他のあらゆる条件が全部具現するとしても何らの意味をなさないからである、
しかるに今ここに本教によって完成されたところの信仰療法は人間のあらゆる病患を除去し、完全健康体に復す事が可能であるからである。
このような大発見は現代文化の水準を抜く事あまりにも高いため反って誤解を受ける事さえある、
ゆえにただ言葉や文章だけでは受入れ難いのは致し方ないのである、
ちょうど地上にある人間が屋根の上にいる人間の頭上が見えないのと同様であろう。
見よ、一切の悲劇の根源を探究する時、必ずそこに病患の原因を見出すであろう、
若くして結核に倒れる者、今や高等学府を出でんとする間際に同病に犯され、
しかもその親は唯一の希望を失い前途暗澹たる運命に投げ出される者、中年者にして事業半途に挫折したり、
ようやく基礎が成って大いに飛躍せんとする時、病魔のために進退難に陥る者等々、
数え上げれば社会到るところ悲劇の材料に満ちている、それに対して進歩せる医学も既成宗教も、相変らず努力は続けているが、
何ら光明を見出すどころではなく自分自身の保身すらやっとであろう。
このような悲惨極まる今日この世界に突如として現われたのが本教である、本教が尽くるところなき悲劇の解消にいかに大なる貢献をなしつつあるかは一度本教に入信し実体を把握した者は容易に納得がゆくのである。
しかるに、ある種の人は日本観音教団という新興宗教がまた出来た、どうせ迷信邪教の類に違いない、
そんなものにこの忙しい時間を割いて堪るもんか、そんな暇があったら映画か野球でも観る方がマシだくらいに片付けてしまうのがオチであろう、
もちろんジャーナリストといえども観方は同様である事は、彼らが筆を執る時、
新宗教批判の記事は定型的とまでなっているところの「終戦後人心の混乱に便乗し、インチキ宗教をデッチ上げ、無智な民衆を騙(だま)かしてうまい汁を吸うとは怪しからん」と言うに過ぎないのである、
これを吾々からみれば、ナンセンス以外の何物でもない。
そうしてパリサイ人共は中身に触れないで包んでいる風呂敷だけをみて中身までも見透かしたように独善観を振廻して得々としているが、
そのうちに自分や家族が病気に犯され入院したり、不幸に遇ったり、多額の財を費やしたりして相変らず地獄の生活から脱け出られない者も相当あろう、
そればかりならいいが、誤れる独我思想を言論機関を通じて一般大衆に呼びかける以上大衆は迷妄に陥り、
社会を暗黒に導くというその罪まことに大なりというべきで、これら唯物主義者等の行動が社会悪の減らない原因の一つに数えらるるのである。
この哀れむべき仔羊等に光明の出現を知らせ心の盲(めしい)を開眼し、救いの綱を投げかける事こそ吾らに課せられたる天の使命と信ずるのである。」
明主様御教え 「天国化と健康問題」 (昭和24年6月25日発行)
「本教が常に唱うる地上天国とはいかなる世界を言うのであるか、
と今更改めて言う程の事もない、御承知のごとく何回となく繰返しているからで
地上天国とは言うまでもなく、全人類の三大苦悩であるところの病貧争の三厄除去であって、
もちろんこの三災の主要条件としては病気の悩みである、
この意味において今神が人類を救わんとすれば、まず第一健康の解決から出発しなくてはなるまい、
健康なくして何の幸福ぞやというべきである、
もし健康を解決すべき力をもたないとすれば、いかなる宗教も科学も無用の長物でしかないといえよう、
何となれば貧も争も健康の解決がなければ成立つ訳がないからである。
本教が病貧争絶無の世界などというこの大言壮語は恐らく今日まで主唱した宗教も科学もなかったであろう、
しかるにそれを一枚看板とする本教として、絶対的確信がなければ言い得るはずがないではないか、
もし確信なくしてそのような大それた言を発するとすれば、
人類社会を欺瞞する大山師の類か、または狂人かの二者以外の何物でもあるまい、
そうしてこの二者のいずれかであるとすれば、例外ない程の短期間に十数万の入信者があるばかりか、
日に月に入信者が漸増しつつあるという事は、あまりにもロジックが合わない話ではないか。
ゆえにこの点を世の識者に充分考慮されん事を望むのである。
以上のごとき意味において本教が健康問題解決を宣言し治病第一をもって進むのである、
そうしてその実例を知らしむべく毎号光新聞及び地上天国に出来るだけ満載しつつあるが、
これを読む限りの第三者、特に当局はもとより学者も専門家も一応は疑念を起すに違いない、
何となればそのほとんどが有り得べからざる程の奇蹟であるからで、
それに対し為政者も専門家もそれぞれの機関を通じて綿密なる調査を必ず行うであろう事も予想され得らるるのである、
しかるにその結果としていまだ例のない問題発生の危険さえ含まれている、
それは多数のおかげばなしが真実であるか、ないかと言う事、
もし事実ありのまま、いささかの誇張や虚構もないとしたら一体どういう事になるであろうか、
問題が今日まで全世界の歴史上例のなかったゆえにこそ、容易ならぬ、むしろ見当さえつき得ない事態に立到るかも知れない。
しかし事実は飽くまで事実であり、真理は飽くまで真理である、
吾々としても何を好んでそのような重大問題を捲き起すべき渦中に自ら投ずる愚を行わなくてはならないかと言う事である、
しかし一歩退いて深く考うる時、かかる大事業こそ全く時期という絶対者の権威の発露であり
そこに真に神の大愛を認めざるを得ないのである、
おかげばなし中にある無数の実例をみても知らるるごとく重難病者の苦悩に喘ぎあらゆる既成療法を用いたにかかわらず、
ついに絶望の淵に陥った悲惨なる人々が本教浄霊を知って、
たちまちにして起死回生の喜びに遇い、感謝の言葉さえ見当らないという程の事実を、世人は何とみるであろうか、
もしこれを否定したり疑念を起すものありとすれば、それは実際に触れてみないからで、
もし徹底的調査を行ったその結果、事実に相違ない事を見極めたとすれば、
断乎として現在の世界苦の解決に向かって、本教の力を利用すべきが人間の道ではないか、
しかし万一にもこれを雲煙過眼視するとすれば、それはその人は人類愛の欠如しているか
または事情やむを得ない境遇にある人達か、または精神病者とみるより外、考えようがないであろう。
以上述べた論旨はあまりに忌憚なさ過ぎたとは思うが、
救世の神意を体して進む吾らである以上、洵(まこと)にやむにやまれぬ叫びである。」
明主様御教え 「恐怖を除く」 (昭和25年1月7日発行)
「吾々の目標とするところは、常に言うごとく人類救済にあるのである、
としたら、人類救済という事は一言にして言えば、人類社会から一切の恐怖を除く事である、
もちろんその最大なる恐怖としては病気であり、貧困であり闘争である。
右の三大恐怖の中その主座を占めているものは何といっても病気である、
病気の恐怖ほど常に人間を脅かすものはない、何人といえども一生を通じてこの不安から全く免れるものは一人もないといってもよかろう、
次に第二の恐怖としては貧乏であるが、その原因の大方は病気からであるのはもちろんで、
この病気の恐怖こそはいかに文化が進歩しても減らないのみか、むしろ増しつつあるとさえ見らるる事実である、
ところで今日病の原因はほとんど黴菌としているから黴菌の恐怖に至っては昔人(せきじん)には見られない程である、
それがため健康診断、各種の予防注射、レントゲン写真等あらゆる手段を講じつつあり、
それがため保健所や療養所、官私の病院や国立療養所、町医等々病患を防止するためのあらゆる施設は至れり尽せりと言ってもいい程で、
これらに要する莫大な費用と労力は計算の出来ない程で民衆の負担もけだし容易ならぬものがあろう。
次に貧困の恐怖であるが、この原因の最大なものは前述のごとく病気であろう、
これがため個人としての療病費の多額や、罹病中の職業の放擲(ほうてき)等による損害はもとより特に患者が主人である場合、不幸の結果は遺族の生活難は免れ得ないところである、
終戦後犯罪激増の大半はこれらの原因も大いにあろう、もちろんそもそもの原因が戦争のためもあるが、
戦争の被害は一時的で病気の方は永久的であるにみて最も深刻性がある。
次に戦争の恐怖もいかに大きな悩みであるかは、今現に世界人類が嘗(な)めつつある事実によっても明らかである。
というのは米ソ間の深刻な摩擦で戦争がいつ勃発するか判らない状勢にまで切迫している事である、
しかも原子爆弾という空前な恐るべき武器が表われた今日としては、もし第三次戦争が始まったとしたら、
人類の破滅は必至であるとさえ言う学者があるくらいだから想像に難からずで、今日人類にとってこれ程の恐怖はあるまい。
以上の三大恐怖の解決こそ人類に与えられたる一大課題である、実に今日までの人類はあまりにも苦悩の絶間ない世界であった、
この世に確かに神がありとしたら神の大愛はこのような世界をそう永く許容し給うはずはない。
必ずやこのような苦悩の時代は打切りとなって善美なる地上天国が生れなければならないはずである、
何よりもこの事を絶対確信している吾らは不動の信念をもって邁進しつつあるのである、
キリストの天国は近づけりと予言された意味もこの事でなくて何であろう。
以上の意味によって右の三大恐怖の解決こそ宗教の真の使命である事を痛感するのである。」
明主様御教え 「地上天国」 (昭和23年9月5日発行)
「地上天国という言葉は、何たる美わしい響きであろう。この言葉ほど光明と希望を与えるものはあるまい。
しかるに多くの者は、地上天国などという事は実現の可能性のない夢でしかないと想うであろうが、私は必ずその実現を確信、否実現に近づきつつある事を認識するのである。
ナザレの聖者キリストが「汝等悔改めよ、天国は近づけり」といった一大獅子吼(ししく)は、何のためであろうかを深く考えてみなくてはならない。
その教えが全世界の大半を教化し今日のごとく大を成したところの、立教の主たるキリストが、確実性のない空言をされ給う筈がないと私は思うのである。
しからば地上天国とはいかなるものであろうかという事は何人も知りたいところであろう。私は今それを想像して書いてみよう。
地上天国とは、端的にいえば「幸福者の世界」である。
それは病気、貧乏、争闘のない世界で、文化の最も高い世界である。
しからば今日人類が苦悩に喘ぎつつある、病貧争に満ちたこの世界を、いかにして天国化するかという大問題こそ、吾々に課せられたる一大懸案であろう。
しかも右の三大災厄の主原因こそは病気そのものである以上、まず病気を絶無ならしむべき方法が発見されなければならない。
次は貧乏であるが、これもその原因が病気が第一であり、誤れる思想と政治の貧困、社会組織の不備等も第二の原因であろう。
次に争闘を好む思想であるが、これは人類が未だ野蛮の域を脱し切れない事が原因である。
しからばこの三大災厄をいかにして除去すべきや、ということが根本問題であるが、この問題解決に私は自信を得たのであって、最も簡単なる事実をここに説き明すのである。
本教団に入信し、教化さるるに従い、心身の浄化が行われ、真の健康者たり得ると共に、貧乏からは漸次解放され、なお闘争を嫌忌するに至る事は不思議として誰も驚くのである。
そのほとんどの信徒は年一年幸福者に近づきつつある事は、無数の事実が証明している。
私は他の欠点を挙ぐる事を好まないが、いささか左記のごとき事実を挙げる事を許されたい。
それは信仰をしつつ難病に呻吟し、貧困に苦しみながら満足し、喜んでいるものがあるが、なる程これらも無信仰者よりは精神的に救われてはいるが、それは霊だけ救われて体は救われていないのである。
すなわち半分だけ救われている訳で、真に救われるという事は、霊肉共に救われなくてはならない。
健康者となり、貧困から脱却し、一家歓喜に浸る生活にならなくてはならない。
しかるに今日までのあらゆる救いは精神を救う力はあるが肉体まで救う力はなかった訳で、止むを得ず「信仰とは精神のみ救わるべきもの」とされて来たのであろう。
その例として宗教家がよく言う言葉に「現当利益が目的の信仰は低級信仰である」というが、これはおかしな話である。
何人といえども、現当利益を欲しない者は決してある筈がない。
また病苦を訴える者に対し「人間は宣しく死生を超越せざるべからず」と言うが、これもいささかか変である。
何となればいかなる人間といえども、死生を超越するなどという事は実際上出来得るものではない。
もし出来得れば、それは己を偽るのである。
この事について私は沢庵禅師の一挿話をかいてみよう。
禅師が死に臨んだ時、周囲の者は「何か辞世を書いて戴きたい」と紙と筆を捧げた。
禅師は直ちに筆を執って「俺は死にたくない」と書いた。
周囲の者は「禅師程の名僧がこの様な事をお書きになる筈がない、何かの間違いであろう」と再び紙と筆を捧げた。
すると今度は「俺はどうしても死にたくない」と書かれたとの話があるが、私はこの禅師の態度こそ実に偉いと思う。
その様な場合大抵は「死生何ものぞ」というような事を書くであろうが、禅師は何等衒(てら)う事なくその心境を率直に表わした事は普通の名僧では到底出来得ないところであると私は感心したのである。
次に、世間よく人を救おうとする場合、自分が病貧争から抜け切らない境遇にありながら宣伝をする人があるが、これらもその心情は嘉(よみ)すべきも、実は本当のやり方ではない、
何となれば、自分が救われて幸福者となっているから、他人の地獄的生活に喘いでいる者を、自分と同じような幸福者たらしめんとして信仰を勧めるのである。
それで相手が自分の幸福である状態を見て心が動く、宣伝効果百パーセントという訳である。
私といえども、自分が幸福者の条件を具備しなければ宣伝する勇気は出なかったが、幸い神仏の御加護によって幸福者たり得るようになってから教えを説く気になったのである。
地上天国とは、幸福者の世界でありとすれば、幸福者が作られ、幸福者が集まるところ、地上天国の実相でなくて何であろう。」
明主様御教え 「宗教と科学以上のもの」 (昭和28年2月25日発行)
「つらつら現代文明を検討してみる時、種々の欠陥があり、その最も根本的なものとしては、科学についての考え方である。
というのは衆知の通り、宗教家を除いたあらゆる人々は科学至上主義になりきっており、
いかなる問題でも科学によって解決されるものと信じ切っている事である。
ところが科学で解決出来ないものも大いにあるのであるが、科学一辺倒になった頭脳では、科学以外のものは全然見えないのである。
それは現在文化のレベルが余りに低いことに気が付かないからであって、
そのことさえ科学に眼(まなこ)眩(くら)んだ人間には、それが全然見えないのである。
そこで私はなるべく分り易く、大局からみての文明批評をかいてみるが、
右のごとく科学で解決出来ないものを、大抵な人は宗教に求めるのが常識となっているが、
さらばといって宗教で解決出来ないものもすくなからずあるので、
ヤハリ科学にもってくるという迷夢に捉われているのが大多数の人間である。
これを有りのままいえば、科学でも宗教でもある程度の力はあるが、
それだけでは一切の解決は出来ないところに問題がある。
その中での特に大きな問題としては戦争、病気、犯罪の三つであろう。
この解決に対して人類は何千年前から、いかに智能を傾け、努力して来たかは衆知の通りであるが、
今もって解決の曙光(しょこう)さえ見えないのである。
こうみてくると現在までの科学、宗教以上のXが出なければ、まず見込はない。
でなければ人間世界はいかに努力しても、いつまでもこのままの迷妄の世界が続くかというと、決してそうではない。
それは何かというと、右のXがすでに現われ、光明を放たれているのである。
驚くなかれそれが我 メシヤ教であって、これこそ人類待望の東方の光である。
というのは我 メシヤ教においては、現在世界に類例のない程の治病の力をもって、現に多数の不幸な人々を救いつつあり、
本教信者になった者は無論健康人となり、犯罪は出来なくなるし、戦争といえども絶滅する力をもっている。
それを如実に示すべく現在事実をもって示しつつあるのである。
いずれは世界の視聴を集めるのはもちろんであり、この力こそ今日まで地球の上に出現したことのないものであって、これこそ標題のごとく科学と宗教以上のものである。
しかも科学も宗教も一部のものとして包含されており、事物によって利用しているのである。
以上のごとくであるから、我 メシヤ教は現在の智識では、到底理解出来ない程の神秘偉大なるものであって、
強いて名をつければ救世力といってもよかろう。
従ってこの救世力を揮って、世界人類救いの業を進めてゆくのであるから、今後を刮目(かつもく)して見られんことである。」
明主様御教え 「私の抱負」 (昭和26年3月7日発行)
「去る二月十日、神田共立講堂において、本教講演会の際、私は出席出来なかったのでその趣旨を代読させたのが、左の通りのもので、聴きに行けなかった人のために、ここに載せるのである。」
「私は、今日ぜひ皆様に、御目に掛かるはずでありましたが、よんどころ無い事情が出来たので、喋舌(しゃべ)る代りとして、これを読ませますから、そのつもりで聴いて貰いたいのであります。
しかしこれは信者諸君よりも、まだ信仰に入っていない方々を目標としてかいたのであります。
御承知の通り、我 世界メシヤ教は、昨年の本日から新しく発足したものでありまして、その前は日本観音教団と言っていたのでこれも既に御承知の事と思います。
ところでこの二、三年来、急に新聞雑誌やラジオ等で、何や彼や騒がれた事も、大抵の方は御存知でありましょう。
しかし誠に遺憾な事には、パッと拡がったのはいいとしても、それが飛んでもない拡がり方なので、実は驚いているのであります。
というのは白を黒と見られ金を鉛とせられ、プラスをマイナスと言われたのでありますから、本当の事はいずれは判る時が来るとしても、
それまでの間世の中を救うという立派な仕事が遅れるとしたら、神様に申訳がないので、
従来刊行されている出版物宣伝以外、これからは直接耳からの宣伝も必要と思いますので、それで始めたのが、第一回の今日のこの会であります。
前置きはこのくらいにしておいて、さて今日世界を観る時どうでありましょう。
病気、貧乏、争いの三つの大きな災いによって、人類はいかに苦しみ悩みつつあるでありましょう。
日本だけに見ても、ヤレ結核、ソレ伝染病、イヤ何々というように、病院は満員ベッドは足りないというように、
恐らく現代人で表面は健康そうに見えても、一つも病気のないという人は、恐らく一人もありますまい。
そうかと思や税金苦、金詰り、物価高等で、いくら稼いでも稼いでも追付かず人間は何のために生まれて来たのか、これでは苦しみが人生そのものであると言えましょう。
また次の争いであるが、これは国内問題は別としても、今や世界を挙げて、空前な大戦争が始まろうとして、人類悉(ことごと)く戦々兢々(せんせんきょうきょう)たる有様であります。
この惨状をもし神様が御覧になるとしたら、余りの悲惨事に御助けになられなければならないはずであります。
そうでなければ、神様などはないと言われても、返す言葉はありますまい。
ところが神様はあります。大いにあります。
というのは世界人類を普く救わんがために、我メシヤ教が出現した事であります。
この意味において、神が有るか無いかは問題ではありません。
我メシヤ教の信者となれば手にとるごとくハッキリ判るのであります。
もし本教信者となって、その通りでないとしたら、社会を欺瞞する大罪人となるでありましょう。
そんな山師的の事は私は真ッ平御免です。自分の首を自分で締めるような、愚かな人間にはなりたくありません。
何よりももし本当でないものとしたら、僅か数年の短期間にこれほど発展するはずはないでありましょう。
ここで一言申したい事は、いかなる宗教でも、その初めは必ず世の中から誤解を受け、迷信邪教とされ、迫害や法難に苦しむものであります。
そうして今日世界で一番大きい宗教は、キリスト教でありましょう。
そのキリストは生前迷信邪教の本尊とされ、ついに十字架の刑までも負わされたのでありますから、この一事だけでも多くを言う必要はありますまい。
しかも昇天後僅か十一人の弟子が残って、ついに今日のごとき大を成したのであるから、キリスト教も決して迷信邪教ではなかったのであります。
それはとにかく、簡単に私の抱負を申し述べますが、私は神から与えられた大きな力をもって、何らの物質を使わず、見えざる霊をもって、しかも弟子を通じて、あらゆる病気を治しているのであります。
もちろんそれによって貧乏も解決されます。
それは貧乏の原因は、病気が主であるからであります。
また世界から戦争を無くす事も出来るのであります、と言ったら皆さんは、余りの大言壮語に唖然(あぜん)とするでありましょう。
しかしこれも本教に入って、実態が判れば、信じない訳にはゆかなくなります。
何よりも本教信者全部は、それを確信しているのであります。
と言っても入信当時は、例外なく疑っていた人達なのであります。
従って、実を言えば本教は宗教ではないのであります。
というのは宗教とはその名のごとく、宗祖の教えであり、教えによって人々を済度するのでありますが、本教はそうではなく、現実に救の業を行うのであります。
この事も昔からの各宗の開祖や、諸々の聖者が立派に予言してあります。
例えば、キリストのいわれた「天国は近づけり」、釈尊の弥勒(みろく)の世、日蓮上人の義農(ぎのう)の世、天理教教祖の甘露台(かんろだい)の世等も、この事でなくて何でありましょう。余り長くなるから、今日はこれで御挨拶に代える事に致します。」
明主様御教え 「舌に代えて」 (昭和27年3月19日発行)
「今回本教宣伝班が、山陽地方へ布教旅行について、私の原稿が欲しいというのでかいてやったのが、左の論文であって、ここに掲げる事としたのである。」
「私はメシヤ教々主岡田茂吉であります。実は皆さんに直接お話したいのでありますが、そういう訳には参らないので、残念ながら原稿にして読ませますから、そのおつもりで聴いて貰いたいのであります。
そもそも我メシヤ教は、名は宗教でありますが、単なる宗教ではなく、宗教はメシヤ教の一部なのであります。
というと大言壮語のようでありますが、決してそうではなく厳たる事実であって、これを具体的に言えば病貧争絶無の世界、すなわちこの世に天国を造るという一大事業であります。
そうして読んで字のごとく、病を無くし、貧乏を無くし、争いを無くすというのであるから、丸で夢のような話でどんな人でもそのまま信ずる事は出来ないでありましょう。
ここでまず人間誰もが共通している欲望でありますが、言うまでもなく幸福の二字でありましょう。
恐らく精神病者でない限りどんなに欲のない人間でも、幸福はいらないという人は一人もありますまい、
昔から宗教も、学問も、政治も、教育も、芸術も何も彼もその目的とするところは、人類の幸福にあるのは余りに分り切った話でありましょう。
ところがです、これ程進歩した文化時代になったにもかかわらず、果して予期した通りに幸福を得られたでありましょうか、
仮に今人間の一人一人に訊いてみても分る通り、俺は幸福だという人が、唯の一人でもあるでしょうか、実に危いものであります。
皆さん、この事実に直面して考えてみて貰いたい事は、これ程幸福追求のため、永い間一生懸命苦労して来た甲斐もなく、幸福どころではなく反対に不幸に取巻かれているのが今の人間の姿ではないでしょうか。
事実一般はいつ大戦争が始まるか分らないという不安、月給取りはこう物価が高くてはやり切れない、商人は金詰りの苦しみ、農民は肥料代、虫害、風水害に悩み、そのため我国は一カ年二千万石も不足し、輸入米の代金千数百億というのであるから大変で、
その他一般的税金の苦しみは御承知の通りで、かてて加えて一番厄介なのは病気の心配でありましょう。
恐らく病気程恐ろしいものはありますまい。何しろ一つよりない大事な命取りになるからであります。
右のごとくザットかいただけでもこのくらいで、どこを見でも不幸は山のようであって、幸福などは影も形も見えない有様ではありますまいか。
以上によってまず考えなくてはならない事は、一体全体人間には幸福というものは、未来永劫得られないものでありましょうか。
実にこれ程痛切な問題はないでありましょう。ところが神様の御目的はチャンと決っているのであります。
驚いてはいけません。
いよいよ幸福に満ちた世界を御造りになる時期が来たのであります。
そうしてその構想たるや今までの物質文化の面だけであった世界を、今度は精神文化の面をも急速に向上させ、両々あいまっていよいよ地上天国が出来るのであります。
これについて今一つの知らねばならない事は、今まで無神思想がはびこっていたので、
これは物質文化を発達させんがためのある期間であったのが、これが打ち切りになって有神思想になるのであります。
つまり無神有神の入れ換えになるのであります。そこで神様はまず幸福世界にするには不幸を無くす事が第一で、不幸の最大原因は病気でありますから、
人類から病気を絶滅し病なき世界にするのであって、これだけで目的は達せられるのであります。
ここで我メシヤ教の生まれた理由をお話しなければなりませんが、前述のごとく全人類待望の幸福な世界をお造りになるために、
主の神すなわち別の御名エホバ、ゴット、ジュース、天帝、仏陀、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)等で、大経綸をなされるので、その担当者として私という人間が選ばれたのであります。
そうしてまずメシヤ教という機関を造り、最後の救いを実行されるのであります。しかしこの事は昔からすでに偉い聖者達が予言されてあります。
彼のキリストの天国、釈尊のミロクの世、日蓮上人の義農の世、天理教教祖の甘露台の世、ユダヤ教のメシヤ降臨等々がそれで、これも世界に知れ渡っているのであります。
してみればこの大事業も来るべき時が来たのであって、今初めて私が唱え出したものではありません。
そこで前申したような、病気を根絶するため、本教は病気治しに最も力を注いでいるのであります。
博士から見離された病人でも、本教信者になれば、誰でも治す力を与えられるのであります。
この力こそ主神から私を中継ぎとして、信者に伝達されるものであって、これによって病無き世界は必ず実現するのであります。
皆さん、このような大きな事を堂々と言う私は、いかに確信があるかを想像してもらいたいのであります。
もしこれが少しでも偽りがあるとしたら、必ず暴露して大変な罪を作った事になり、世の中から葬り去られるのは必然でありますから、そんな馬鹿な事はまっぴら御免であります。
以上によって大体お分りになったと思いますが、要するに本教は幸福世界を造る大事業であるとしたら、世界は個人の集合体である以上、
まず個人個人を幸福にする事が先でありますから、その通り本教信者になれば一日一日幸福となり、天国的家庭が作られるのであります。
これこそ真の安心立命であります。そうして本教程奇蹟の多い宗教は、昔から類例がないとされております。
奇蹟の多い宗教程価値も大きいのでこの点からみても分るでありましょう。
まだ色々申したい事がありますが、余り長くなるから、今日はこれだけにしておきます。さようなら。」