お説教について


明主様御教え 「御説教」 (昭和27年8月25日発行)

「昔から宗教と名のつくものは、例外なく戒律が主となっており、それを御説教によって諭(おし)えたのは誰も知る通りであるが、

我メシヤ教に至っては、御説教が非常に少ないのは信者も知る通りで、

これに対し幾らかの疑問をもっている人もあるであろうし、

また未信者から訊かれた場合、その理由を話さなければならないであろうから、それをかいてみよう。

言うまでもなく宗教の目的は、改過遷善にあるのだから、それには魂の曇りを除る必要がある。

魂さえ清くなれば悪い事は出来なくなり、世のため人のために善を行う立派な人間になるからである。


それに対し耳からの教えによって、魂を清める手段が御説教であり、

目からと言霊からそうするのが、バイブルや経文、御筆先等であるのはもちろんだが、

本教は耳から目から、また言霊での清めもあるにはあるが、それらは従であって、主とするところは浄霊である。

何となれば五官を介して清めるのは間接的方法であって、見えざる魂に対っての体的方法であるから、効果の薄いのはもちろんである。

ところが本教浄霊に至っては、直接魂に対って霊光を注いで浄めるのであるから、その効果たるや到底外的の比ではない。

ちょうど病気の治り方と同様、他の療法を散々行っても治らない病気が、短期間に訳なく治るにみても明らかである。


右のごとくであるから、いつもいう通り本教は宗教ではなく、超宗教といってもいいのである。

そうして宗教とは読んで字のごとく、宗祖の教えであって、教えによって人心を済度するのが建前となっているが、

前記のごとく本教は教えは第二第三で、浄霊によって人を善化するのであるから、

第一手数も時間もかからずして、効果百パーセントという訳である。

実に宗教以上と云ってもあえて過言ではあるまい。

そんな訳で今は適当な名前が見当らないので、仮にメシヤ教と名づけたまでである。

これも今までにこのような素晴しい救いがなかったから名称もないので、また止むを得ないといえよう。

強いて言えば救いの光とでも言うより外に言葉はないであろう。」




明主様御講話 「お説教というものは宗教ではなく道徳」 (昭和28年2月15日)

「今度「救世教奇蹟集」という本を出すつもりで、その序文だけ書きました。

そして今まで発表しただけの奇蹟のすばらしいものを出します。

それで結局宗教の価値ということですが、つまり宗教ではたいした奇蹟はないので、宗教以上のものでなければならないのです。

宗教以上というとメシヤ教より他にはありません。

そこでメシヤ教では他の宗教にない奇蹟が現われるわけです。

今までの宗教でも奇蹟があるにはあったがごく少ないのです。

もっとも日蓮上人のような傑物になると顕著な奇蹟はあるが、一般信者にまではそれほど大きな奇蹟はありません。

しかしメシヤ教では、私の弟子がキリストがやったような奇蹟も行なうし、

他の宗教の教祖がやるようなことは、信者さんでも充分現わせるのですから、そこに違いさがあります。

だから奇蹟の顕著なことと多いことが宗教の値打ちです。


ところが既成宗教はそういうことがないので、だんだん理屈の宗教になっていったのです。

一般に対してはお説教宗教です。

大体お説教というものは宗教ではないのです。

それは道徳です。

「人間はこういう気持ちをもて」とか「こういう行いをしなければいけない」と言うが、

そういう道理を説いて心を良くするということであっては、本当は宗教より下のものです。つまり道徳です。

ところが奇蹟を現わすことができないから、そういうやり方でお茶を濁していたのです。

黙っていて立派な人間にするというのが本当の宗教です。

だから私の方では、あんまりお説教はやりません。

しかしそれも少しは結構です。ところが今までの宗教はお説教専門なのです。

また、「こういうように養生しなければならない」

「こういうものを食って、こういうやり方でなければ、人間は病気がなおって健康にはならない」というのでは本当のやり方ではないのです。

そういうのではしようがありません。

黙っていても、疑っていても健康になる、というのが本当のものです。

というのは、やはり宗教が持つ力です。

その力を現わしたものが奇蹟となるのです。

それで奇蹟は科学的にも説けるのです。

だから本当は奇蹟ではないのです。

よく奇蹟が現われると言うが、それはどうしても理屈がつかないので「ただ不思議だ」と言うだけです。

けれども本当は理屈がつくのです。


それで「いろんな不思議なことがあって命が助かる」ということは、正守護神がやるのです。

正守護神でも、信仰と霊的因縁によって力の強いのと弱いのがあります。

それからまた正守護神は一人ひとり人間を護っているが、その人間が徳を施し良いことをたくさんすると、その恵みが正守護神にも授けられます。

その人が良いことをするのは正守護神が蔭で手伝うからですから、正守護神もそれだけ御神徳を受けるわけです。

そうすると力を増すから、力が増すと、思うように助けることができるのです。

ですから奇蹟もたくさん現われるということになります。

だからこれは正守護神がやるのです。


ところが中には、正守護神で神格を得ているのがあります。

神格というのは、神様の位をもらった正守護神なのです。

そういうのはすばらしい力があります。

それからまたその人の系統によって、祖先が古くから産土神様に祀られている人は、その産土神様の力を分けてくれますから、

そこでその人の働きも大きくなれば、また奇蹟も大きくなります。

だからその関係が分かれば、奇蹟というのは不思議ではありません。

ただ目に見えないから奇蹟だと思うのです。きわどいところで、死ぬと思ったものが助かるということがありますが、

それは正守護神がやっているのですから、別に不思議はありません。

奇蹟集の序文だけを今読ませます。」




明主様御講話 「仏教衰亡の原因」 (昭和28年10月17日)

「それから今度「救世教奇蹟集」という本を出しますが、なにしろ奇蹟などというのはあまり知らないので、ようやくキリストの奇蹟ぐらいが宗教的奇蹟として知っているぐらいで、メシヤ教の奇蹟というのは想像もできないのです。

そこでこの広告文などもなかなか難しいのです。やっぱり迷信を鼓吹するというようにとられやすいのです。

だからそうとられないように、なるほどそういうこともあるかというように、注目されるようにしなければならないのです。

それで広告文の書き方もつまり信用されるようにして、それでは買って読んでみようという心を起こさせるというようにもしなければならないのです。

私は今まで書いたことはないが、これだけは一生懸命に書きました。

(「世界救世教奇蹟集 広告文」)


昨日改進党の早稲田柳右衛門という人と会食を共にしましたが、この人は今度東南アジアの方に行ってきたのです。

新聞ラジオにも出てますが、小金義照という自由党代表の人と二人、政府から選ばれてまわったのですが、二人ともメシヤ教の信者だということもよほど意味があります。

その人の話でインドには仏教信者というのはほとんどいないそうです。

全部ヒンズー教徒とイスラム教徒(フイフイ教徒)だそうです。

そして残っているのはビルマが一番だそうですが、あとはマレー、タイ、その周囲、それから日本、それだけだそうです。

ですから仏教はほとんどなくなったようなものです。

というのは、今読んだとおりお釈迦さんは奇蹟を行なわなかったということが根本原因です。

キリスト教がともかくもああして発展したのは、キリストは奇蹟を行なったからでしょう。

しかしキリストの奇蹟をとればあとはバイブル、つまりお説教です。

そこで神様はメシヤ教をつくって大奇蹟によって救うのです。

それで奇蹟奇蹟と言うが本当は奇蹟ではないのです。つまりこれが本当なのです。

今まで嘘のことばかりやっていたから本当のことが奇蹟になってしまうのです。

世の中が本当になれば奇蹟が本当のことで、そうなれば奇蹟とは言わなくなります。」




明主様御講話 「宗教は教えだけでは道徳になる」 (昭和29年3月6日)

「今度、今まで私の書いたものの中から選んで「メシヤ教の聖書」みたいなものを編集するについて、序文を書いてもらいたいというので書いてみましたから読ませます。

(御論文「救世教とは何ぞや 序文」) 

よく「メシヤ教にはまだ教義がない」とか言われるのですが、これは、つまり世間一般の宗教として見るから、その教義というものを考えるのです。

本当いうと宗教ではないのだから、教義などはいらないわけです。

だいたい「教義」という言葉がピッタリしてないのです。

教えではないのですから・・・。

教義というものは昔から、ほとんどの宗教にはありますから、随分立派な、よくできた教義がたくさんあります。

つまり教義というのは、教えの理屈ですから、教えでは人間は救えないです。


今度の静岡民報に私のことが続きものになって出始めましたが、あの中にちょっとうまいことがあります。

「自分は若い時分にキリスト教の聖書研究会で奇蹟について言い争い、どうしても奇蹟が信じられないというので、バイブルから奇蹟の所を全部消した。

そうして読んでみると、これは宗教書ではなく道徳書の方になった。

それが分かってみると、さっぱり興味がなくなって止めてしまった」ということがありましたが、それはうまいことだと思います。

つまり宗教というものは教えだけでは、やはり一つの道徳になるのです。

そういった道徳以外に、つまり理屈のつかない不思議なものがあるので、

それが宗教の根本ですから、その不思議、奇蹟が多いほど宗教としての価値があるわけです。

そうなると、宗教としての価値というよりか、むしろ宗教ではなくなってしまうわけです。

ですから教えはいらないわけです。


ここのところがなかなか難しいですが、ちょうど犯罪者が出ないように法律を作るということです。

法律を作るということは、「こういう悪いことをすれば、こういう罪になる、こういう刑罰を与えられる」ということで、

わずかに秩序を維持してゆくというわけです。

それから宗教の教えというものは「人間はこうすべきものではない」「こうしなければならない」と、箇条書になっているのが随分あります。

だいたいその元祖はモーゼの十戒です。「何すべし」とか「何すべからず」とか、

ということでは、やっぱり、法律のような肉体的刑罰はないが、つまり霊的刑罰、そういうものがあるわけです。

聖書にある「他の女を、どうしようとか思うということは、すでに姦淫の罪を犯している」というような、一つの霊的刑罰です。

人間は刑罰によって良いことをする、悪いことをしないというのでは本当のものではないのです。

ちょうど酒を飲むと毒だから飲まないようにしなければいけないと、一生懸命我慢するというのと同じです。

ですから、宗教とすればまだ低い所です。高い所ではないのです。

そこで高い宗教というものは、「そうすべからず」とか、そういった刑罰がなく、ただそういうことが嫌なのです。

酒なら酒を飲みたくなくなるのです。

それで、そういう変なことはする趣味がなくなってしまうのです。

悪いことやずるいことをするのは、やっぱり趣味なのです。

汚職事件などをする人は、ああいうことが好きなのです。

気持ちの良い、並の手段で金を儲けるというのよりか、暗い所でやるそれがおもしろいのです。

ということは、つまりその人の魂が本当でない、低いからです。

魂が低くなければそういうことはしないのです。

つまり動物的根性が多分にあるから、どうも明るい、人間的感情がごく少ないわけです。

やっぱり刑罰という檻がなくては危ないのです。

檻があっても、それを破っているのですから・・・。

ですから霊的に言うとずっと低いのです。

本当に言うと、世の中で言う政治家とか、肩で風を切っている偉い人は、霊的に言うと実に低いのです。

下等なわけです。そういうようなわけで、法律も戒律もなにもなくても悪いことをしない、悪いことに趣味が起こらない、

それで良いことをするのがおもしろいという魂になると、それが本当の魂です。

ですからウッチャラかしておいても悪いことをしないというので、

人が見ているから悪いことをしないというのではいけないわけです。

そういう人間を作るのがメシヤ教の本筋なのです。

しかし無論いきなりそういう立派な人間になれるわけがないから、教義というものも必要です。

しかし根本はもっと上の方にあるのだからして、そこで宗教ではないというわけです。

今までこういう上等なものは出なかったのです。

ところがそういった上等なものが出たのです。

だからそういった上等なことを分からせるには、なかなか簡単にはゆかないです。

「そういう馬鹿なことがあるものか」というわけです。

つまり浄霊をすると疑っても治るというわけです。

ところが先は理屈で来ますが、理屈の方が下で、こっちは理屈より上です。

それで、研究すればよいのですが、今までの理屈で分からなければ「駄目だ」と、今のインテリなどは見るのです。

実に難しいのですが、しかし本当に分かれば、これはまた理屈よりかもっと良いものだから、これは離せないということになります。」




明主様御講話 「奇蹟以外で神様の実在を信ずるということはできない」 (昭和28年3月7日)

(御論文「一、奇蹟とは何ぞや」「二、霊主体従」「三、霊と体」発表)

「この終わりのところが肝腎なのです。

今までの宗教・・・というが教えですが、教えだけでは力が弱いのです。

ところがメシヤ教は教えとともに事実を見せるというので、

これで人間は初めて神様は確かに在るということが分かり、

そうすると悪いことはできないということになって、これで本当の人間になるわけです。

それで神様は確かに在るということを見せるのは奇蹟なのです。

奇蹟以外で神様の実在を信ずるということはできないのです。

ところが今まではそういった奇蹟を見せないで、ただ「神は在る、在るから信じろ」と言うが、実際理屈に合いません。

そこで、本当に救われないのです。

このことでおもしろい話があります。

昨日聞いた話で、今度の大祭の余興にアザブさんがH(という人物)を頼みに行ったのです。

そうすると馬鹿に高いことを言うのだそうです。

それで「随分高いではないか」と言うと、支配人が「メシヤ教なんて泥坊みたいなことをして金を取っているのだから」と言ったのです。

ところがその人がそれから三、四日たって死んでしまったのです。」