奇蹟を生む宗教について 2


明主様御教え 「救世教奇蹟集 序文 第一稿」 (昭和28年2月18日発行)

「今度左のごとき標題の著書を発刊する予定であるが、前もってその序文をこの欄に載せたのである。

救世教奇蹟集 序文

およそ昔から幾多の宗教が現われ、それぞれの使命を果しつつ、相当世の中に貢献して来た事は言うまでもないが、

それとても公平にみて大した救いの力は現わさなかったことである。

何よりも、これこそ絶対の信頼を払っても悔ないという程の価値ある宗教はほとんどなかったからである。

その証拠にはもしそういう立派な宗教が生まれていたとしたら、それによって万教は帰一され、

現在のごとく八宗九宗数知れない程宗教はないはずである。

遠慮なく言えば団栗(どんぐり)の背くらべとしか思えないのである。


とはいうものの、この世の中に初めから宗教なるものがなかったとしたら、これはまた大変な話で、

人間世界は獣の世界となっていたかも知れないからである。

とにかく宗教によって人間の我欲を制御し、堕落を食い止め、善人に希望を与え、社会の秩序を維持して来た功績は偉大なものであって、

最大級の讃辞を呈してもいいと思うのである。


しかしながら人類の理想である天国極楽世界は未だはなはだ遠く、

既成宗教の力では到底実現の可能性のないことは誰しも否めないであろう。

これを一言にしていえば、既成宗教の功績は世の中の地獄化を食い止め得たとしても、それ以上の積極的力はないといってもよかろう。

そこでどうしても、既成宗教以上の力をもった超宗教的のものが生まれなければならないのは自明の理である。

それが全人類の希望であると共に、その機運も近づきつつあることは吾々にも看取出来るのである。

それについて言わねばならぬことは、右に対する主神の経綸であって、

これは人間の眼には映らないが、霊的には着々として進捗しつつあるのである。

これこそ近き将来万人の眼にも映るようになるのはもちろんであって、この偉業の担当者として私は選ばれたのであり、

その機関として創立されたのが我 メシヤ教である。

しかしこのような空前の大偉業なるがゆえに容易に信じられないであろうが、

いかなる疑念も物的証拠を見せたなら、信じない訳にはゆかないのは言うまでもない。

それこそ本教独特の奇蹟である。

百の論議も一の事実にしかずで、我 メシヤ教の現わす素晴しい奇蹟がそれである。

恐らく本教くらい奇蹟に富んだ宗教は、古往今来未だ嘗(かつ)てないといっても過言ではあるまい。

何よりも一度本教に触るれば直ちに判るはずである。


もちろんこれこそ神の力の偉大さを示す何よりの証拠である。

およそ今日までの世の中を見ても神と名の付く神であれば、それ相応の利益を与えられた事績は史上明らかなところであるが、

それにも程度があって真に安心立命を得られる程の力ある宗教は一つもなかったといえよう。

そうして神にも大小高下の差別があり、位の高い神程力もそれに相応する以上、

本教に奇蹟が多い事と、それが素晴しい事は全く神格の高さを物語っているのである。

ゆえに信者の幸福の大きい事もそれに伴のう訳である。

従って小なる奇蹟、凡なる奇蹟はザラにあり、一般人が驚く程の奇蹟でも本教信者は日常茶飯事としか思っていない。

何しろ余りの奇蹟に割切れず、ただ唖然たるばかりのことが枚挙にいとまないのである。


では奇蹟はなぜ現われるかについて説明してみると、現代人の頭脳は学問と伝統的観念で出来上っており、

その中でも特に肝腎な医学においての大きな迷信は気がつかず、

絶対の信頼を払い常識にまでなっているのである。

これに対し本教浄霊法によれば、大病院や博士から絶対不治として見放され死を待つばかりの病人が、

たちまちにして起死回生的成果を挙げる事実に直面しては、ただ唖然として頭を下げざるを得ないのである。

また今一つの事実は本教出版物には医学の盲点を徹底的に暴露し、マイナス的存在としているにかかわらず、

それが十数年に及んだ今日といえども、未だ一人の専門家の反駁も詰問も出ないので、吾々は不可解至極と思うのである。


以上にみても分るごとく、本教の奇蹟は到底理屈のつけようがなく、

いかに疑い深い人でも事実の前には兜を脱がざるを得ないのである。

しかし本当をいえばこの世の中に奇蹟のないのが真理であって、

理屈のつかないのは理屈が間違っているからである。

何しろ欠点の多い人間の智慧や学問で作られた理屈であってみれば、それも致し方ないのである。

従って将来学問が大いに進歩したその時こそは、奇蹟の言葉はなくなるはずである。

そうして本教の奇蹟はことごとく神霊の力によるものであるから、無神論者にはなおさら分りよう訳がない。

そこで理屈で分らないものは何もかも奇蹟の一言で片付けてしもうのである。


以上の意味によって現在吾々の生活も仕事も、奇蹟に次ぐ奇蹟によって面白い程スムースにゆく。

時には奇蹟を予定する事さえあるくらいで、そういう時はたまには外れる場合もあるが、

後になって奇蹟が延びたため、却(かえ)って奇蹟は大きくなる事もよくあるのである。

そのような訳で万事予想以上に巧く運んでゆくと共に、

危いことも避けられ、面倒なことも奇蹟で解決されるという真の安心立命の境地にあるので、

全く吾々は奇蹟の生活を楽しんでいるのである。

理論はこのくらいにしておいて、今までに本教における無数の奇蹟の記録は埋めておくのは惜しい気がするので、これを一冊にまとめてこの著としたのであるから、

読者はこの生ける事実を充分熟読玩味すれば幸福の第一歩に入ったのである。」




明主様御教え 「奇蹟とは何ぞや」 (昭和28年9月10日発行)

「一体奇蹟なるものは、何であるかというと、もちろんあり得べからざる事が現実にある事をいうのであって、

それが理屈でも科学でも経験でも解釈出来ないところに、奇蹟の奇蹟たるゆえんがあるのである。

しかも常時ある訳ではなく、予期しない時と所に突如として起るので、よく偶然と間違えられ易いのは衆知の通りである。

また奇蹟は昔から信仰者に多いとされているが、そうばかりともいえない。

無信仰者にも往々あるにはあるが極く稀で、多くは見逃してしまうのが常である。

また宗教的奇蹟といっても、宗教によって大中小様々あり、多い少ないもあるから一様にはいえないが、

奇蹟が著しく、数も多い程、卓越せる宗教であるのは言うまでもない。


ところが我 メシヤ教に至っては、奇蹟の多い事は恐らく世界に例があるまい。

全く奇蹟の宗教といってよかろう。そうして社会一般の通念からいえば、

信仰心が強ければ強い程、奇蹟的現当利益に富むとされているが、

その点本教は大いに異っており、むしろ反対である。


というのは最初から神を否定し、何程疑っても必ず奇蹟が起るのである。

例えば医師から見放された重症患者が本教へ来る場合、疑ぐり抜いても効果に変りはない。

すなわち浄霊を受けるや忽(たちま)ちにして偉効現われ、愕然とするのである。

また本教信者に繋がりのある近親者なら、信仰がなくとも奇蹟的恩恵を受ける事もしばしばある。


では以上のごとき奇蹟の本体は何かというともちろん偶然は一つもない。

起るべき理由があって起るので、それをこれからかいてみるが、現代人に分り易くするため、科学の方式に則って説明してみよう。

まず科学上新しい発明発見をしようとする場合、最初理論科学が出来、それを基本として実験科学に移り、

実検の結果その裏付けとなるべき物的現象が現われ、初めて確認されるのである。

彼の湯川博士の中間子論にしてもそうで、氏の発見した理論科学の裏付けとなったのが、

一米国の科学者がたまたま宇宙線撮影の際、数個の核が映ったので、これが中間子と分り、ここに世界的発見となったのである。

ところが私はそれと同様どころか、むしろそれ以上で理論と実際とを同時に発見し把握したのである。

すなわち神霊理論科学とその裏付けとしての実証である。

それが本著に載せてある百二十の実例(省略)で、これが全部本人手記であるとしたら、何をか言わんやである。

ゆえに信仰は別としても、科学的に証明されたのであるから、

これこそ現代科学のレベルを遥かに抜いた最高科学といっても過言ではあるまい。

実に文化史上空前の大問題が提供された訳である。」




明主様御教え 「世界救世教奇蹟集 広告文」 (読売新聞 昭和28年10月30日発行)

「およそこの世に神は在(あ)るか無いかという事程、簡単にして難しい問題はあるまい。

という訳は昔から今日まで肯定派と否定派とが何程論議を闘わして来たか分らないが、今もって結論は得られないにみても明らかである。

これについて私としてもよく考えてみると、神が無いという方が当ってはいないかと思う。

なぜなれば目にも見えず、耳にも聞えず、手にも触れないからである。

従って誰にでもハッキリ分るところの唯物科学をもって唯一無上のものと信じ、絶対的信頼を払っているのが現在である。

ところが困る事には何程科学が進歩しても、割切れない問題が次から次へ出て来るので、科学のみでは到底安心出来ないがため、ある者は哲学へ、ある者は宗教へ、ある者は何々というように、何らか力強いものを求めてはいるが、

それを満し得る程のものはないので、人々は不安に怯(おび)えながら、希望なき人生を送っているに過ぎないのである。

なるほど文化の進歩は何もかも便利となり、政治も社会機構も改善され、昔とは比べものにならない程恵まれているにかかわらず、

右のごとしとすれば現代文明のどこかに気の付かない大きな欠陥があるに相違ない事が考えられる。


では欠陥とは何かというと、すなわち科学過信であって、特に智識人程そうであるから、何よりもこれに目覚めさせる事で、これが先決問題である。

といっても智性の進んだ今日、何事も学理第一主義になっているから、この誤った考え方を是正し奇蹟によって神の実在を認識させる事である。

従ってこれが一般に知れ渡るとしたら、ここに人類待望の平和幸福な世界実現は必然である。

また昔から奇蹟は宗教に付物とされているが、その中でも彼のキリストの奇蹟である。

これが同教発展の上にいかに大きな役目をしたかは、今日文化民族の大半が基督者であるにみても明らかである。

それに引換え彼の仏教が、現在見るごとき極東の一角にようやく命脈を保っているにすぎないのは釈尊在世中見るべき奇蹟がなかったからでもあろう。


また今一つの重要事がある。

それは昔から宗教、倫理、道徳、教育等々理屈をもって教化の方法として来たが、これもほとんど魅力を失ってしまった。

というのはいかに巧妙な理屈といえども、事実が伴わない限り、人心を捉える事は出来ない。

理屈だけで悪人が善人にはならない。理屈で幸福は掴めない。理屈通り医療を施しても病人は減らない。

というように人間は最早理屈不感症となっている(ただ医学のみはそれに気付かないだけの事だ)。

しかしこれより外に方法がない現在、ないより増しだくらいに続けているのである。

こうみてくると今日真に人類を救い得る力のあるものはほとんどないといってよかろう。

ところが驚くべし、この大問題を確実に解決出来る一大福音が生まれたのである。

これこそ人間が夢想だもしなかった超人間力、すなわち最高神の力であって、これが本教を通じて今や暗黒無明の世界をして、光明赫々(かくかく)たる世界に転化せしめんとするのである。

その唯一の方法が奇蹟であり、本教くらい奇蹟の多い宗教は未だ嘗(かつ)てないとされている。


一例を挙げれば一信者にして、キリストと同様の奇蹟を顕わし得る者すでに数十万に及んでおり、なお益々増加の傾向にあり、この事自体がすでに一大奇蹟である。

その実例百二十を載せてあるが、余りに超現実的なものばかりで、直ぐに信じ得られまいが、事実は飽くまで事実であり、全部本人手記のものである以上、

疑念のある人は本人に直接打(ぶ)つかって訊(き)くか、本教に来って直接検討されん事である。

以上によってキリストのいわれた天国も、釈尊のいわれた弥勒の世も神の準備はすでに成り、今や呱々の声を挙げんとするその直前が今日である。

ゆえに現在までの人類苦闘史は、その陣痛のためでしかない事が分るであろう。」




明主様御講話 「奇蹟というのは霊を知らせるという第一歩」 (昭和28年3月23日)

「今日は随分大勢ですね。人間というものはよく融通がつくものと思います。やっぱり弾力性があるのでしょう。

今日はお祭りですから簡単にお話しします。

今さら言うまでもありませんが、メシヤ教というものは、つまり大きな革命運動です。

一口に言うと世界文化の革命です。

いろんな間違った文化を革命するのです。

つまり間違った文化のためにいろいろな悩み苦しみが満ち満ちているので、

そのためによけいなことをして、よけいな金を使ったり骨を折ったりして苦しんで、世の中を悪くするので、今の文化は要するに愚かです。

吉田さんが「馬鹿野郎」と言ったのは、今の文化を言ったと言っても良いです。

確かに「馬鹿野郎の世界」です。

しかしこっちが言うのは吉田さんより大きいのです。

実に世界中が馬鹿野郎になってます。

それをもっと利巧になるように引き上げるという、これがメシヤ教です。

メシヤ教と言うと宗教ですが、引き上げるための宗教的の一種の手段です。

宗教という手段でやるというのが一番良いことと、

また、今までにない革命ですから、それよりほかに方法がないわけです。

だから宗教的にやるよりほかにやりようがないのです。

ですからメシヤ教としては、宗教というものを利用し、一つの手段としているのです。

従ってミロクの世になれば宗教というものはなくなるのです。

というのは、宗教の必要がないからです。

つまり医学がなくなるのと同じことです。

だからそれまでのメシヤ教です。

悪い世の中だから救うというので「救世」ですが、良い世の中ならば救う必要はないのです。

それはまた形が違うわけです。良い世の中をいっそう良い世の中にするというわけです。

今の世の中は、実は良いと思ってやっていることが逆になっているわけです。

薬をのんで病気を良くしようということが、反対に薬で病気を悪くするということになるので、どんなことにもそういうことがあります。

この間違えているというその根本はなにかと言うと、霊を認めなかったことです。


今度「救世教奇蹟集」という本が大体できあがりましたから印刷にかかりますが、二、三カ月先に出版の予定であります。

この奇蹟というものは誰がやるかと言うと、勿論神様がやられるのですが、

「ではなんの目的だ」漠然と「奇蹟だ、不思議だ不思議だ」と言って驚いているばかりが能ではないので、

やっぱりそういう奇蹟を現わすということは、神様の方の大きな目的がなければならないのです。

では、その目的とはなにかと言うと、霊を認めさせることです。

霊を知らせることです。

だから霊の方が分かれば、奇蹟という言葉はなくなるのです。

奇蹟ではなくてあたりまえのことになるからです。

しかし霊ということを認めないから、ああいう変わった、あり得べからざることがあるのです。

断崖から落ちて怪我一つしないとか、自動車や汽車に衝突して跳ね飛ばされても助かるという、

あり得べからざることは、つまり霊の方で助かるから、体の方は大丈夫なのです。

要するに霊主体従の法則です。

それは奇蹟によるよりほかに認めさせようがないのです。

大病人を浄霊してなおるのは、霊の力ということですから、霊を認めさせるというために、

神様は・・・神様が認めさせるわけではなくて、神様の方から言えばあたりまえのことをするのです。


ところが、今までの人間で霊を認めていない人はたくさんおり、

また霊を認めていても霊の働きを知らない人がほとんどです。

それは宗教家とか、そういうことに関心を持っている人は、霊の実在は分かっているが、

ただ霊が分かるだけのことで、ではどういう働きをするかというところまでは、まだ分かっていないのです。

ただそういった霊の力が現われた場合、物質的には実に不思議に思われますから、それで不思議だという、それに刺激を受けて考える。

そこで霊界があり、霊があり、霊の働きはこういうものだ、という説明を受けて、なるほどと思うということになるのです。

奇蹟というのは、霊を知らせるという第一歩です。


そういうことを、今度の「救世教奇蹟集」に書きました。

そうして実例として百例を挙げました。

病気以外のいろいろな奇蹟を七十、病気に関しては三十です。

病気の方は今までのいろいろな本に出てますから、少し減らして三十とし、合計で百例にして載せてあります。

今までに栄光に出た奇蹟を見直すと、実際、驚くべき奇蹟です。

私はその当時読んだが、ほとんど忘れてしまっているのです。

今読んでびっくりしているわけです。

ですからこれが本になって出れば、またたいへんな問題になるだろうと思います。

キリストの「歩行障害者を歩くようにした」とか「盲の目を開けた」ということが、

今もってキリスト教の方の一つのたいへんな自慢になっているのですが、

それと比べたら、今度の奇蹟集の奇蹟は何倍上か分からないくらいです。

これも勿論翻訳して世界中に出すつもりです。」




明主様御垂示 「奇跡即宗教」 (昭和26年9月1日)

信者の質問
「今日の御論文を拝聴させていただきまして、あれをお聴きして分からん奴はと思いますが・・・」

明主様御垂示
「そうだな、つまり邪神のほうで一番恐いのは神様のほうだからね。

どうしても神様はないという無神論を植えつけるのが一番の目的なのです。

そこで、無神論というものを人類に・・・一生懸命に植えつけるために二千年もかかっているんです。

つまり物質ですね。

病気を治せるというところを見せようと思ったんです。

それで一生懸命に・・・ユダヤは学者が多かったからね・・・やってきて、いまだにそれに瞞されている。

その奥には邪神の親玉がいる。

物質で治そう・・・病気を解決しようと、それいっぽうで進んできたのが医学ですからね。

だから屁みたいなことを、発見したと言っている。

ついこの間、癌の原因を発見したとか、なんとか出ていたが、原因を発見しなくてもいいんで、治してもらえばいいんです。

原因を発見してから治すというのですが、治ればいいんです。

ところが、原因を発見したと言って喜んでいるが、一つの遊戯に過ぎない。驚きますね。

あんなことをして無駄な金を使って、ありもしない頭を使って死んでいくんですね。それだけのものですね。」


信者の質問
「少し分かりかけましたらたいへんでございます」

明主様御垂示
「たいへんです。肝腎な・・・力のないもので、一生懸命解決しなければならないというのが、今の文明ですね。それを教える仕事です。

いろいろな法律を作るとか、一家が一生懸命やって・・・今もラジオの街頭録音で、現代の世相というのは・・・世相が悪いと文句を言っている。

親子心中だとか、家庭争議だとか、瞞し合うとかね。

政府の政治が悪いとか、教育が悪いとか、金がないからとか、いろんなこと言っているが、宗教ということを言った奴は一人もない。

一人、トルーマンもマッカーサーもキリスト教信者だといったが、もう少し言うかと思ったら、それでおしまいだからね。

それだけ、宗教というものは世の中から認められなくなった。

なぜかというと、力がないからです。

できたては力があったが、だんだん無力になった。

そこで信用がなくなったから、結局忘れられていった。

だからわれわれは、宗教が信用をされるようにするのです。

宗教の信用・・・信じさせるというのは奇跡なんです。

奇跡がなくて理屈だけだったら、道徳や教育と同じで、奇跡のある所に、理屈や教えで及ばないものがある。

それが奇跡だから、奇跡即宗教だ。

最初は多少あったが、今日ではなくなったから、宗教の使命がなくなったというわけで、それが長く続いたので、奇跡がないのが宗教で、あるのは迷信邪教となった。

すべてあべこべになった。

キリスト教のほうは、二千年経ってキリストが再臨すると言うが、このほうが現実的です。

仏教のほうは謎みたいに書いてあるが、そうしないと本当はいけない点もあるんです。

仏教の中で弘法大師は良いほうです。

極楽のほうですからね。

少しは地獄のほうに行ったかもしれませんが、早く上がった。

親鸞だとか、日蓮だとかは地獄に行っている。」


信者の質問
「高野山にあれだけのお寺を作ったというのは、政治的にも偉かったのですね」

明主様御垂示
「偉かったんです。

奇跡なら奇跡を、お互いに話し合うといい。体験のない人はないからね。

役員でなくて、会なら会で信者の人を集めてやっても良い。」




人類幸福の道拓けん 本紙一周年を記念して (昭和25年3月11日発行)

信者の質問
「本教の「おかげばなし」があまり多すぎるので疑念を持つ人が一部にあると聞きますが」


明主様御垂示
「いや、そうとう各方面で疑念を持って、あれを一々戸別訪問して調べた向きもあったらしい。

ところが全部が真実で、なんらの粉飾もないので、すっかりびっくりしている様子である。

こちらではあの「おかげばなし」が、あまりにも多く殺到するのでその処理に困っているわけで、

現在掲載しているのはホンの一部分で、大半は「ボツ」にしている。

そのため信者からなぜ「ボツ」にするかと苦情がきて弱っているところだ。

まさにあれは御利益の真実を告白する生きたバイブルであり、

先日やってきた毎日のある記者は「どれを調べても一つのウソもなく、まさにあれは二十世紀の聖書だ」と言っていた。

大新聞の記者はウソも書かないだろうし、お世辞も言わないだろうからネ。」




明主様御垂示 「世の中に偶然というものはない」 (昭和24年6月23日)

信者の質問
「世の中に偶然というものがないといたしますれば、およそ奇蹟というものも、なんらかの未知の原因を持つものと解すべきでしょうか。」


明主様御垂示
「無論、偶然なんてありませんよ。

原因はすべて霊界にあるんですからね。

奇蹟っていうのもいまに科学的に証明されるようになりますよ。

そしてそれをいま、私がしているんです。」




明主様御垂示 「自動車に衝突しても救われる原理」 (昭和26年5月1日)

(自動車の衝突についてのお蔭話の御報告あり)

「神様が霊に対して、もっと強い霊を注射するわけです。だから肉体が守られる。

H夫人が、電車が停電して動かないので、歩いたほうが早いと思って、歩いて橋の上まで来たとき、電車が動き出してきて、ぼっとなって落ちてしまった。

二丈くらいの所で、下がコンクリートなんです。

そこを、一度途中でひっかかって落ちたので、それで良かった。まっすぐに落ちたら一辺です。」