真の宗教について
明主様御教え 「真の宗教が有るか?」 (昭和11年7月1日発行)
「そもそも宗教はいかなるものであるか、又その目的は何か、まずこの点から検討しなければならないであろう。
人間がこの娑婆に生きて居る時、誰もが体験するところのものは、余りにその目的意志と相背反することが多い事実である。
又思わざる災厄や不幸や罹病等、人力では免れることの出来ない諸種の苦悩の発生である。
釈迦の生病老死と云う免るゝ訳に往かない確定的の四苦さえもある。
それ以外死後の不安も忘るゝ事の出来ない一つである。
これらに対し人間の限りなき欲求は、あらゆる苦悩を免れんとする以外に、その実体を見極めようとすることになるのは無理のない話である。
十八世紀以前の人類は、この解決を全部宗教に求めようとしたのである。
しかしながらその時代までのあらゆる宗教といえどもその解決は遂に与えられなかったのである。
故にその真理を把握しようとして、求道者達が血の出る様な難行をしたであろうことは、歴史によっても想像し得らるゝのである。
それ程の事をして獲得したものは何か、それは単に『諦め』の二字でしかないのである。
人間がいかに欲求してもいかに真理を探り当てようとしても、それは到底無益であると云うことを知る境遇以上には到達しないので、それが悟りを得たと云うのである。
故にその悟りの境地こそ覚者であり、最後の到着点で、彼岸のそれであると思ったのも無理は無いのである。
彼の釈尊といえども、ある程度の真理は把握し得たに違いないが、実は絶対までには到達しなかったと思うのである。
ナザレの聖者イエスといえども、絶対は把握し得なかったことは勿論である。
その他マホメットも空海も親鸞も日蓮も、そうであったに違いない。
何となれは彼らの遺した事蹟の価値から云っても、充分看取し得らるゝのである。
そればかりではない。今日の宗教家が唱え又行って居るそれを見るが善い、ことごく古聖賢の流れを絶対無二の信条として居ながら、そのいずれもが宗教までに到って居ない事である。
ある者は道徳を唱えて居り、ある者は教化事業を宗教の全部と錯覚して居る。
又ある者は宗教は理論と思って居る。
はなはだしいのになると科学と哲学とで宗教を説こうとして居る。
又社会事業に専念して居ると云うのが、実際であるに見ても、それは宗教的ではあるが、真の宗教ではない。
しからば真の宗教とはいかなるものであるか、それを説いて見よう。
しかしまずこれを説くに当って、その根幹とも言うべき条件を示して見る。
一、真理の具現 二、偉大なる目標 三、過現未の透観 四、神力又は仏力の顕現 五、光明の示顕 六、現幽の利徳 七、天国的生活 八、治病の可能
右の条件を全具して居るものが真の宗教であるが、その中の一箇条にてもあれば、それだけの宗教的価値はあるが
事実現在の宗教のほとんどが、恐らく零であると云ってよいと思うのである。
そうして右条件の一つ一つについて略説して見よう。
一、真理の具現とは、天地自然の運行、万象の流転と、一切の生成化育の実相行姿そのままであって、
例えて言えば、人は人としての道を行じ、又人は生れながらその各々の天職使命があり、階級も厳として定って居るのであって、
それを知りそれを実行することが、人としての真理の具現であり、それに依って永遠の歓喜と栄とを得、安心立命を得らるゝのである。
しかるに今日はそれを教え、それを行ぜしむる力ある宗教がないから、
人々は迷蒙におちいり、知らず識らず他の範囲を犯し、みちに外れ道を失い、その極争や混乱を生むのである。
これらは独り個人に限らず、社会も階級も国も世界も、ことごとくそれに漏れないと云う実状である。
この時に当って宗教者なる者が、天地の真理をわきまえないから、人を教ゆる力もなく感化する徳も無いのである。
又これについて仏典もバイブルもその他の聖典も、実は真を説き、実を誨(おし)えて居ないのであるから、人として知る事が出来ないのも致し方ないのである。
何となれば、もしいずれかの聖典に真実を説いてあったなら、今日のごとき苦悩と混乱との時代は実現しなかったはずであるからである。
又真理が全具現されたならば、多数人が今日のごとく病に罹り易く、天寿を全うするものが暁の星のごとく寥々(りょうりょう)たるはずがないのである。
これらに依って見ても、この一箇条さえ現在の宗教中に有して居るものは無いのである。
二、偉大なる目標とは、世界万民がこれに向って、仰ぎ拝み崇敬するにおいて、真の智慧と力と幸とを得られ、絶対安心の境地に在らねばならない事である。
そうして血の出るような難行や苦行的の、自力は必要が無いばかりか、真の神霊としては喜ばれ給うはずがないのである。
そうしてその目標である神仏に大なる力があれば、いかなる願い事でも正しければ、容易に肯かれ給うからである。
又 力のある神仏とは万能力を有せられ給うからである。
万能力を有せらるゝは最高の御神格を具有せられるからである。
この故に難行苦行をしなければ、利益を恵まれないと云う事はそれは人間自身の力を必要とするからで、
要するにその目標神の力の不足を、人間に補わせられるを意味するもので、
それはその目標神が第二流以下の神である訳である。
全然自力を要求しないで、大きい利益を無限に賜わると云う目標神は、今の宗教のどれにも有り得ないことは実際の事実である。
三、過現未の透観
仏教においてはよく過去現在未来を云々するが、どうも真に不徹底である。
昔から三世通観などゝいうけれども、過去と未来とに向って明確に実相を説示したものはないのである。
過去といえどもただ単に漠然たる仮定説的で、現代人を満足せしむる価値は無いと云ってもよい。
真に三界の深奥を明かにし得るものは無いのである。
そうしていかなる宗教といえども、善悪の根本すら徹底的に説破したものは、絶対に無いのに見ても明かである。
それはなぜであるかと言えば、既存宗教のほとんどは、その開祖が第二流以下の神仏である関係上、主神の最奥の経綸が解るはずが無いのであるから、止むを得なかったと云うべきである。
未来に到っては勿論具体的に徹底説示したものは無かった。
ただ漫然と簡単に予言はされて居る。
それが仏教の弥勒の世、基督(キリスト)教の天国来、天理教の甘露台の世その他である。
要するにそれだけであって、それ以上の説明はなし得なかった事は致し方なかったであろう。
四、神力又は仏力の顕現
既存宗教のいずれを見ても神力仏力の顕現は、開教当時それぞれ若干あったのは事実であるが、大なる力、それは無かったのである。
故に人類は真の神力なるものは、未だ知らないのである。
しかるにいよいよ観世音菩薩が救世的大偉力を発揮され給う時となったのであって、これは人間の想像を絶するのである。
今後それが如実に具現し、世界万民に福祉を給与され給う実際を仰ぐより致し方ないであろうが、今日ただその片鱗を観る事は出来るのである。
それは今現に行われつゝあることで、それはいかなる人でも、病気治療の術を、一週間の講習を受けたゞけで、二、三十年間専門的に修練した医学博士の、何十倍もの治病能力を得られると云う事だけを見ても、その偉力を想像し得るであろう。
そうしていかなる宗教といえども、人類からの病苦を抜除し得る力がないならば、それは絶対神力あるものではない。
絶対神力がないとすれば、勿論最高の神の宗教ではない。
第二流以下のそれであることは勿論である。
これに依って見ても現在までの宗教は真の宗教としての価値はないので、ある期間中における仮定的存在であった事が判るであろう。
五、光明の示顕
本来神霊は肉眼に見得るものではないが、霊界においては想像出来得ない程の大いなる光と熱とを放射し給うもので、その御神姿は崇高善美なる人間と同一の御姿である。
そうしてその御本体から放射され給うところの、その光と熱とは余りに強烈である為めに、常に水霊に依って包まれ給うものである。
本来真の神とは火のカと水のミを称して神と云うのである。
火水の御働きをされ給うからである。
故に火の働きばかりではカミではない。
水の御働きばかりも神ではない。
火水一致して初めて大神力が顕現されるのである。
しかるに今日まで諸々の神が地上へ示顕されたが、それはいずれも一方の御働きであった。
それが為めに神力と云うものが示顕されなかったのである。
何となれば物質においても火と水合致によって動力が起るので、その動力によって機関の活動が起るのである。
又草木においてさえ太陽の光と太陰の水とによって、生成化育すると同一の理である。
しかし大神力は火と水との外に土の精が加わるのであって、それを称して、三位一体と云うのである。
この三位一体の力によればいかなる事も成し遂げ得らるゝと云う絶対力なのである。
この力が現われた時、初めて人類は更生し、歓喜と幸福とに満ちた理想世界は出現するのである。
本当の意味から云えば、今日まで出現された神も仏も、その光は月光のそれであったので、太陽の光は未だ顕現されなかったのである。
月光のみであった期間を夜の世界と云うのである。
しかるにいよいよその時が来たのである。
太陽の光が顕れたのである。
それが東方の光である。
私の描いた御尊像から光明が放射されると云うことは、それの一部を示されるのであり、
又 私が病気治しをする場合、手や指から種々の光が出るので、それを肉眼で見た人は幾人もあるが、それらもそれである。
これを以て見ても既存宗教には、未だ光明の示顕は無かったと言い得るのである。
六、現幽の利徳
既存宗教においては現幽両全の利益あるものは無いのである。
その多くは未来の利益を標榜して居る。
彼の仏教信者が如来を信じて、未来の浄土を目標とする結果、現世利益を軽視して居る事や、
基督教信者が天国を夢みて、現世における苦悩をどうすることも出来得ないから、それに甘んずる哀れな実状や、
天理教などの信者が病貧に喘ぎながら、当にもならぬ甘露台の世の幻影を描きつつ、滅び行く惨状等に見ても、
それらの宗教が現世利益の無い事を証拠立てゝ居るのである。
ただわずかに天狗稲荷等の低級宗教に、現世利益が多少あるばかりではあるが、
これらは淫祀邪教の類(たぐい)であるから問題にはならない。
ただこれらの中に在って、昔から観音信仰のみが、現世利益の有ると云うことは、あまねく世人の知って居る所である。
しかしながら観音信仰が未来の利益も併あわせ得らるゝと云う事を、世間は未だ知らないようである。
仏者によっては未来の救は阿弥陀で、現世の救が観音であるとして居る者が多いのであるが、これらは真相が判って居ないからである。
勿論未来は阿弥陀であることは間違いはないが、観音は現世及び未来即ち現幽両界の救である。
これが自由無碍なるゆえんで、その言葉がそれを表わして居るのである。
ちょうどたとえて云えば、番頭は番頭だけの権能より無いが、主人は主人であって番頭の権能をも有して居ると同じ理である。
否 観世音菩薩こそは、神幽現の三位一体の権威と力とを具有し給うのである。
この故を以て、顕幽両全の利益ある信仰は、独り観音信仰のみであって、他には絶対に無い事を知らねばならないのである。
七、天国的生活
世間のあらゆる宗教は、即神即仏とか娑婆即寂光浄土とか、地上天国とか、甘露台の世とか云って居る。
これらは多く未来の理想世界であるとし、現在としての苦悩はどうしようも無いと、ただ忍苦、諦めのみに努力して居る。
その結果ついには苦悩を楽しむのが、信仰に徹して居ると云うようにさえなってしまったのである。
それは苦悩を排撃する事が出来ないので、苦悩に負けるのを満足するのであり、苦悩を肯定する事であり、
ついに苦悩を常態観とさえするに到ったので、いわば苦悩の奴隷になってしまったと云うのが実際である。
ちょうど病気を駆逐する事が出来ないから、せめて養生だけで現状維持のまま、一日でも長く生きようとする現代医学のようなものである。
これらは大いなる宗教的錯覚であって、真の宗教が生れなかった為めである。
真の意味から云えば苦悩を排撃する事である。
不幸を否定する事で、否 解消する事であらねばならぬ。
これに依ってのみ地上天国も、理想世界も出現するのである。
この意味において私が常に称える、病貧争絶無の世界と云うのは、これを指示したものである。
しかし人類は何千年もの間、苦悩の世界が続いたが為め、光明世界などゝ云うと絶対実現し得ない痴人の夢のごとくに想うのも無理はないのである。
しかしながら光明世界を建設せんとするには、天下り的に又は劇の暗転式に突如として成立つのではない。
一歩々々築き上げて往くのである。それが万物化育の法則であるから、この法則を外しては成立し得ないのである。
そうして一歩々々築き上げて往くと云う事は、まず我々自身が否我々の家庭から一歩ずつ築き上げて往かなければならない事である。
しかし今日までの宗教はいかに熱心にするといえども病貧争を絶無ならしむる事は絶対不可能で、それはその神仏の力の欠除のしからしめたところである。
故にそれら信者なるものは、常に苦悩に甘んじながら、漫然と理想生活を夢みつゝ次々に死んで行くのであって、
その幻影の実現が余りに遅延するに依る幾度とない失望は、誰しも興しつつあるのである。
八、治病の可能
既成宗教においては宗教的治病は不可として居るが、これ位怪しからぬ話は無いのである。
それは自己無能の糊塗でしかないのである。
宗教は科学以上の存在と自惚れて居るにも拘わらず、病気を治し得ないと云う事は、科学所産の医学よりも劣ると云う自白である。
科学以下の価値としての宗教これは宗教ではない。
まず宗教に似た論理ないし道徳でしかなかろう。しかしながら彼らはいうのである。
治病はしないが人の霊魂を救うのであると、しかしこれは立派な詭弁である。
魂が救えれば肉体は救えないはずがない。
何となれば魂と肉体とは別々の存在では決してない。
両者は融合一致して居るものであるからである。
たとえて言えば肉体だけで心魂の無い人体はない。
心魂だけで肉体のない人間もないのである。
これ位割り切った簡単なことすら盲目にされて居る。
次に新興宗教においては相当治療に専念し、又その効果も多少あるにはあるが、
これらも病気によっては治るという条件付のもので、
又その治病率も何パーセントの実績を挙げ得るかと云う事すら、明確に示されないのであるから、その効果は疑問たるものである。
そうして治癒しないものは、信仰が足りないとか、行が間違って居るとか云う言訳付のものであるにおいて、決して絶対力あるものではない事が解るのである。
実際 真の宗教治病力と云うのは、治癒力百%でなくてはならぬ。
そうして信仰が浅いとか、深いとか信ずるとか信じないとか云う条件付であってはならない。
信不信又は疑を持つ等は問題にならないのである。
いかなるものでも無条件で全治する程の絶対力がある事こそ真の宗教である。
故にこの条件に合致した宗教は、恐らく一つもないのである。
この点において現在の新興宗教の治病などは、まことに微力なものであるから、社会からインチキ視せらるゝのも止むを得ないであろう。
以上八項目に分ちて解説せる宗教の条件や価値に対して既成宗教中一のパスするものすら無いであろう。
否八項目中一項目さえパスする宗教も恐らく無いことは断言出来るのである。
これに依って観ても、未だ人類社会に真の宗教は出現しなかったことは明かである。
前述の理由に依て見ても世間宗教と云えば必ず迷信を連想するが、これは間違って居ないのであって、全然迷信の無い宗教は無いのが実際である。
実はあらゆる既成宗教は真の宗教が生れるまでの過渡的産物であり、仮定的に真理を説いたに止まるのであって、全く真理のごときものを説いたまでゝある。
仏教の真髄は真如であると釈尊の言ったことは、この真理のごときものであると云う意味と思うのである。
故に真の宗教が生れた暁、必然万教は帰一されない訳には往かないのである。
八宗九宗何十派等といって、蝸牛角上の争をして居ると云う訳は絶対の権威と神力とを有する一大宗教が生れなかったからである。
今や顕われんとする真の宗教が、いかに人類が未だ経験した事の無い歓喜と幸福とを与えらるゝ大威力あるものであるかは、事実によって万人が知り得るであろう。」
(註 蝸牛(かぎゅう)角(かく)上の争い・・・かたつむりの左の角にある国と右の角にある国とが争ったという寓話から小さな者同士の争い。つまらないことにこだわった争い。)