善悪の真諦について 3 (悪も必要)


明主様御垂示 「善人ばかりでは芝居にならない」 (昭和24年7月)

信者の質問
「入信しても邪神の虜となり、また熱心な信者でも邪神に引かれる傾向があるように存じますが、

このようなところでの教導師の心得について御教示をお願い申し上げます。」


明主様御垂示
「これはね、邪神に負けるとか、引かれるとかいうこの人の心が間違っているんです。

邪神かどうかってことは人間には判らないんですよ。

神様でないと判るもんじゃないんです。

だから、こんなことを言う人は神様の地位を冒してるんです。

つまり「裁いている」んですね。

キリスト教の「聖書」にも「裁く勿れ」ってあるでしょ、それですよ。

邪神が憑いてるかどうかってことは決して人には判らないんで、かえってそういうその人があるいは邪神かもしれない。

だからこんなことは絶対に言っちゃいけないし、また言えないんです。

こんな人は、自分の気に入らない人はみんな邪神にしてしまうもんですよ。

ところが邪神だなんて言われる人で、馬鹿にいい働きをする人もあるものです。

まただれが見てもいい人であっても、実は反対のこともありますしね。

だから神様でなければこういうことは判らないんですよ。


神様はいろんな人を使われますからね、芝居と同じようなもんで、善人ばかりでは芝居にならないんです。

そして、しんからの邪神と、邪神に憑かれている人とは違うし、

それから邪神の眷族というのも何十万、何百万となくいるんです。

つまり、主神の下に陰陽の神がこういうふうにあるんです(お煙草三本で、漢字の「人」のような形をお示しになられる)。

こっちが善で、こっちが悪ですね。

そうしておいて地上の経綸をなさるんです。

だから「主神に善悪なし」で善悪無差別、正邪一如って言いますがね、ほんとに正邪が判らないんです。

ところが、これいっぽうだけじゃまたいけないんで、

はっきりと厳しく、善をすすめ、悪をしりぞける面もなくてはいけない。

そこで観世音菩薩っていうお方は悪を咎めず、善悪無差別に救われるんですが、

観音様の御本体の国常立尊は絶対に悪は許さないんで、

閻魔大王ともなられて審判をされるという厳正至直な神様なんです。

つまり経(たて)ですね。

観音様の善悪無差別のほうは緯(よこ)ですよ。

そのいっぽうだけに片寄るとしようがないんです。

この二つの面がなくてはならないんで、時と場合、そして相手によって千変万化して行くんです。」




明主様御講話 「神様は善玉と悪玉の両方をこしらえている」 (昭和29年2月4日)

「とにかく今年から神様が表になったということは、確かなのですからして、

そこでメシヤ教というものは、今年から世界的に非常に知れてゆくわけです。

いわば、いよいよ舞台に上がったわけです。今までは楽屋でいろいろ支度していたのが、

いよいよ支度ができたので檜舞台に上がるということになるわけです。

やっぱり芝居と同じですから、序幕です。

これはお筆先にありますが、「今度は三千世界の大芝居であるから、悪の役もあるし善の役もあるから」というのがあります。

お筆先というのは実によく書いてあります。


というのは、今まで随分教団の邪魔をしたり、いろいろ良からぬ人が入ってきました。

ところがそういう人に 「あいつは悪い奴だとか、あいつはいけない」とか言いながらも、

結果においては、なかなか良い役をしてます。

それは悪い人間でなければできないような良い役をしてます。

だから本当に御苦労様と礼を言いたいくらいです。

これがちょうど、今言った、善の役と悪の役と両方こしらえてあるということがはっきり分かるのです。

もっとも芝居でも映画でも、ああいった脚本でも、善人ばかりでは芝居にならないので、

悪人に善人が苦しめられるという、そこに一つの脚色ができるのですから、

なるほど芝居という意味から見ると、悪の役も入り用だったわけです。

そういうようで、神様がやられることは実に深いです。


ですから「あの人はああいうことをしているから悪い、間違っている」ということは、とても言えるものではないです。

そう言っている人は、実はその人自身が悪いことをやっていて、

悪いことを言われている人は良いことをやっているかもしれません。


お筆先に「一生懸命、神のためと思い、間違うている事をしている人は、神も困るぞよ」というのがあります。

「これが神様のためだ、これが本当だ」と言って一生懸命にやっていることが、

案外神様のお邪魔になっているというわけです。

そこで人間、特に信者は、善とか悪とか決めることはたいへん間違っているのです。

また分かるものではないのです。

ただ、自分が良いと思うことをしていればそれで良いので、

人が善いとか悪いとか言う、それが一番危険なわけです。


なにしろ世界人類を救うというのですから、開闢(かいびゃく)以来ない大きな仕事なのです。

お筆先に「大きな器には大きな影がさす。だから器が大きくなければ神の仕事はできんぞよ」というのがあります。

よほど大きな器で、要するに大局的に見るというわけです。

「大乗の善は小乗の悪であり、小乗の善は大乗の悪である」ということはなにごとにもあります。

私はこの間も書いて、栄光に出ていると思いますが、

日本の忠君愛国の、天皇のため日本のためということが実は悪なのだから、

日本のため陛下のためのみを思うから大東亜戦争のようなものを起こしたのです。

その「ため」と思った結果、朝鮮も中国も、ほうぼうの国も、みんな酷い目に遭うわけです。

そうしてみると、我欲、自己愛という結果になります。

だから世界人類のためということが本当なのです。

私は最初から忠君愛国的のことはぜんぜん言わなかったのです。

どうしてもそれでは結局悪なのです。

そこで世界人類というところに目標をおけば、これは本当に正しいことなのです。

この小乗的考え方が非常に難しいのです。

そこで、神様のために一生懸命になっていて、実はお邪魔をしているということは、やはり小乗的のためなのです。

自分の小乗的頭で考えると、それはどうもいけなくなるのです。

ところが大乗的というのは、要するに結果です。

一人でも多くの人を仕合せにするというところに目標をおけば、別に難しいことはないので、分かるわけです。


自分の家族の者でも、亭主とか女房とか親父とか娘とか伜(せがれ)とかが、

どうも神様のことが分からない、いつも反対して困るということは、

ある程度は分からせたいと思ってもよいが、

あんまりそれに固執するということは、やはり小乗的考えです。

それよりか、他人、世間の人間を多く分からせたいと思うことが本当です。

そうして他人を一人でも多く救えば、その酬いが自分に来るからして、自分の家族でもなんでも分かるというわけです。

よくお蔭話に「どうも自分の伜が分からない」とか、そういうようなことがありますが、

これはまだ本当の線に入ってないのです。

だから自分の家族などは神様にお任せしておくのです。

そうしてどこまでも世間一般の人を一人でも多く分からせなければならないということです。

それもこれも、その人によって分かる時節がありますから、

ある程度までは一生懸命にやっても、

その先は神様にお任せするというようにしておれば、

かえって結果がよいので、早く分かります。

そこで、こういうことがあるのです。」




明主様御講話 「悪人も結果的に良いことをしている」 (昭和29年2月6日)

「それからジャーナリストに対する論文ですが、これはこの間書いたのですが、もういっそう徹底して書いてみたのです。

(御論文「再びジャーナリストの考慮を望む」)


とにかく問題は、変な新宗教がたくさんありますから、

どうもメシヤ教がそれに類似しているように思う、その点にあるのです。

ただ、他の新宗教とは違う、メシヤ教は別のものだということを認識させる、それが一番肝腎です。

それは神様も知りぬいていますが、時期が来て、熱海の地上天国ができることと、

自然栽培をする人がたくさん増えること、

ということで、「これは違う。なるほどメシヤ教はたいしたものだ」ということが分かるわけなのです。

それも間もない話ですから、そう気をもむことはいらないのです。

それがちょうど、さっきも話したとおり、節分から霊界が変わるのですから、

ちょうど言ったこととよく合ってゆくわけです。


実に、神様がやられることですから抜け目がないわけです。

それでお筆先に「今度は三千世界の大芝居であるから、善の役と悪の役と両方そろえてあるぞよ」ということがあるのですが、

これなどは実にうまいことを言われていると思います。

というのは、悪い役をしているものが、結果はたいへんな良い役をしているわけです。

これはよく知っているでしょうが、メシヤ教がこうして世の中に出て発展する一番の功労者は医者です。

もし、医者が片端から病人を治してしまったら、こっちは用はないのです。

医者や薬が病人を作って苦しませる、それだからしてこっちの発展する意味があるのです。

そうすると“医者はけしからん、薬という毒を瞞して服ませるのは、とんでもない話だ”と言っているが、

実はそれがため、メシヤ教によって神様があるということを分からせられるのですから、

本当は悪く言うことはできないのです。


人間の感情と見方・・・小乗的見方と大乗的見方があります。

ジャーナリストが分からないということは、やっぱり、結果から言うと必要なのです。

そこで分からない者や、誤解した者に対して、逆なことを見せるとびっくりしますから、

それがやはり一つの必要でもあるし、おもしろいことでもあります。

「メシヤ教とか言って、戦後の波に乗じて、うまいことを言って瞞して、

あれだけの金を集めて、シャクに障る」と言う奴が、

いよいよ地上天国ができて、見て、ウワッと言って驚くのです。

ですからそういうのを予期した者に見せるよりか、予期しない者に見せた方が、なんと言うか、張り合いがあるわけです。

大いに痛快味があります。

いつも言うとおり、人間は善悪は決められないということはそこです。

あれまでになるについて、随分悪い人間やいろいろな者がいろいろなことをしましたが、

それはイコールみんなプラスになってます。

だからそれをよくみると、世の中というものは実におもしろいものと思うのです。」




明主様御垂示 「神様は必要があれば悪人も馬鹿も使われる」 (昭和26年10月5日)

信者の質問
「資格者の中で、所属する中教会長が気に入らないというので、みんなを勧誘して替っていくという人がおりますが、どういうものでございましょうか」

明主様御垂示
「それは嘘ですね。それはまだ信仰に入っていない人ですね。

神様ということを信じていないからです。万事神様がやっているんですからね。

もし会長が悪いとしても付かなければならない因縁があるんですからね。

もし会長がいけないとしたら、つまみ出されるか、直されるかする。

人間が、ぜんぜんいけないというのは、神様の領分を犯している。

人間には善悪は分からないと書いてあるでしょう。

会長がいけないと言うのは信仰が分からないのです。」


信者の質問
「受け入れた会長も分かっていないということになりますのでしょうか」

明主様御垂示
「それは分からない・・・神様ではないからね。

あの会長はいけないとか言う・・・その人が分からないのです。

私などは、部下が間違っていても、間違っていると言ったことはないですよ。

神様に任せているから、もし間違っていたら出されるか、ひねりつぶされる。

人間の目には間違ったようでも、神様のほうからは、なにか必要があるんです。

○○という人が、そのようなことがあり、まあまあ神様がやっているからと言っていたが、

とうとう体が悪くなって病院に入って死んじゃいました。

そのくらいのことを、神様に力がなかったら信じないほうが良いです。

いま○○○にいる・・・あれを出さなければならないと言うが、神様がやっているので、

必要があれば神様がひょっとつまんでしまう。

まだ必要があるから、あのままなんです。

死んだというその人はたいへんな手柄をした。

良いことをしました。

私は今でも感謝してます。

良いことをしたが、これからは悪いことをするから止められた。

一時必要があった。

神様は深いんだから、人間の目で良いとか悪いとか分かるようでは・・・そんな神様ではね。

どんな悪い奴でも、どんな馬鹿な奴でもそのときは必要があって使われるんです。

たいてい、時が経つと分かります。


三千世界の大芝居で、悪役もあるし良い役もあるし、いろいろお役がある。

ですから、いろんな悪役もありますが、悪役もなければ芝居にならない。

善人ばかりじゃね。だから、なんだかんだいいながら発展していけば良いんです。

どうせ悪の世ですからね。

それからまた、邪神ですね。

邪神だって教団の中に入り込む。

信者全部を邪神が狙っています。

油断も隙もできないです。

それで、邪神のためにひどいことになる人がありますが、それは浄化作用です。

邪神にやられなければ浄くはならないですね。」


信者の質問
「発展の順調なころと現在の状態とは、たいへん邪神に乗ぜられているという感じがしますが、

浄化で浮いてくるという感じでしょうか。浄化の一歩前でしょうか」

明主様の御垂示
「浄化されてるんですね・・・邪神のためにね。

以前にパッといったのは、花が咲くんですからね。

ああいう風にはいきませんよ・・・実が成るんですからね。

堅実に着々といきます。なにしろ、神様のやり口は深いんだからね。

それも私がちょいちょい言ってますが、この次の論文かに、医者がメシヤ教を発展させているんだと書いてますが、

医学が間違っているから、我々が発展するんですからね。

医学が間違っていなければ、我々のほうに来ません。

医学が間違っているからメシヤ教が発展するんです。」




明主様御講話 「邪神も良い働きをする」 (昭和27年4月1日)

「私は今まで、あの人は悪い、気を付けなければならないと言われても、

やはりその人を使いもするし、会いもするし、いろいろやります。

やっぱり大局から見ると、何かお役に立つことをしているんですよ。

で、これは大本教のお筆先に「今度は三千世界の大芝居だ」ということがあるが、これはおもしろいことですね。

つまり芝居なんですよ。芝居というものは善人ばかりじゃ芝居にならないんです。

悪役がなくちゃね。善人が悪人に苦しめられるということが、一つの、狂言の筋なんですからね。

そういう点から言っても・・・教団には悪役はないんですが、

その人の考えが、良いと思って・・・信者のためだと思うんですね。

神様のためだと思うんですが、それが智慧が足りないために間違ったことを良いことと思うことがよくあるんです。

叡智ですね。

神様のためと思うが、そうじゃなくてお邪魔になることがあるんです。

叡智というものが必要なんですが、叡智というものはそうとうの修行しないと得られないんです。

また互いに言い合っていることに、話を聞いて見ると、どっちも合っている場合がある。

それも芝居の役としてやらせられているんですから、

だからさっきも言う通り、一番まずいのは決めることです。


よく、邪神、邪神と言いますが、あれが一番悪いですね。

これは口にしてはいけないですよ。

邪神だって良い働きするんだからね。

神様には必要なんです。

自分が邪神にならなければ良い。

人の邪神は気にすることはない。

大きにお世話です。

だから私は今度も書きましたが、人を邪神だということを言う人があるが、

それはその人が神様になるので、神様の地位を冒しているんだからね。

邪神と言われるが、言う人はたいへんなもんですよ。

神様の地位になるんだからね。

神様じゃない、人間とすれば、たいへんな冒涜ですね。

神様になっちゃうんじゃなくて、神様の上になるんだから、

この人は本当の邪神が憑いているということになる。

第一邪神か邪神でないかということは分かるものではないですよ。

狐が憑いているから邪神だと言うが、狐だって立派なのがあるんですよ。

もし必要がなければ、神様がなくしちゃいますよ。

必要だからあるんでね。

善悪を決めるということはなかなか難しいものですよ。

あいつは邪神が憑いていると思う。

そう思うことは良いが、あいつは邪神だから気を付けろと人に言います。

と、言うことが罪になる。

あの女は、俺は惚れた。

あいつは良い女だと、それだけは構わないです。

しかたがないですからね。

キリスト教では姦淫の罪になりますがね。

けれども手を握れば、そこで罪が発生する。

こういう話はいくらしてもきりがないですからね。

そのくらいにしておいて・・・。」




明主様御垂示 「邪神も大きな働きをしている」 (昭和26年9月8日)

信者の質問
「金の指輪をいただき、それをもらってから変な気持ちがすると言います。

霊の見える人に見せますと、霊的になにか憑依しているらしいとのことで、御神前の脇にお供えして置いてますが」


明主様御垂示
「良いです。眷族が憑いているんですね。実に活躍しています。

ですから、私が今度、神軍戦史というのを書きますが、最初からの戦いなんです。

私は始終戦っている。霊的の軍人なんです。

しかし、ぜんぜん・・・そういう邪神が無駄かと言うと、そうではない。

それが大きな御用をしている。


例えてみれば、日本がアメリカから、あんなにひどくやられた。

ところがアメリカのほうで、だんだん日本を助けるようになったという元は、ソ連なんですからね。

中共や、北鮮軍・・・あのためなんです。

だいたい、共産主義は人民が疲弊困憊(ひへいこんばい)する。それに乗じて宣伝する。

ところが、生活がそう困らないで、安定すると、共産主義の宣伝が非常に難しくなる。

特に日本は豊かな国で、日本がアジアで一番なんですからね。

ソ連は日本を共産主義にしてしまえば、アジアは共産主義にできると考えた。

今度の講和がソ連のお蔭ですからね。

ソ連は赤龍がやっている。サタンがね。

そうすると、日本を助けた元ですね。

「善悪(ママ)は糾(あざな)える縄のごとし」と言うね。

邪神だからといって・・・やはり大きな働きをしてます。

さもなければ、日本はどのくらい・・・まだまだどんなに困るか分からないです。」




明主様御講話 「悪に見える役はあるが、悪役はない」 (昭和27年4月15日)

(御論文「人を裁く勿れ」発表)

「これについて少し話をしますけれども、

大本教のお筆先に・・・あそこは立て替え立て直しということを言ってますが・・・

「今度の立て替え立て直しは世界の大芝居であるから、悪の役も善の役も、両方あるのであるぞよ」というのがありますが、

なかなかおもしろく言ってあるんです。

ですから、いろいろの役があるんです。

ところで、悪の役はないんです。

悪に見える役はあるんです。

ここが難しいところですね。

人間には悪に見えるが、神様にはそうではない。

人間には善に見えて神様にはそうではない・・・そういう場合もある。

で、人間が、あの人は善だとか、悪だとか・・・判るものではないです。

私自身がそうです。あいつは悪い奴だ・・・と言うが、

神様に御用があるんだろうと思ってますと、あんがいな御用をするんですね。


だから人間は上っ側を見ますから、中身は判らない。

上っ側で決めるんですよ。

そこが危い。神様は、中身も中の魂をも見抜かれるんですから、どうしてもしようがない。

そこで、人間は上っ側を見るから、形に囚われるんですね。

自分がやったことを、人はああいうふうに見るだろう、こういうふうに見るだろう、という。

そこがたいへんなことです。

そこで人間を相手にするな、神様を相手にしろと言うんです。

人間の気に入られるというのは必要ないですね。

神様の気に入られるんです。

ところが、どうも人間の気に入られようとするんですね。

それは、世間一般はそうなってますが、神様は違うんです。


そこで、よく他の信仰なんか、お金なんか寄付すると、何千何百円とか、何の某と、札を出しますがね。

私の方は、そんなことはぜんぜん・・・誰がいくら出したか判らない。

いくら出したといって、偉く思わせようというのは通用しない。

神様に見てもらおうということはあるが、人間を対象とはしないですね。

神様に見ていただく・・・それを対象にしますから、それが本当というわけになる。

だから考え方が、神様中心・・・神様だけに見ていただく、お気に入っていただく・・・これで良いんです。

そういうふうに思っていると、きっと御守護が厚いんですよ。

だからそれが・・・ちょっと今までのいろいろな習慣やなにかもあるので、難しいんですね。

その点ですね。


そうすると、あいつは悪いとか、あの教会は間違っているとかいうことは、口に出さなくなる。

思うことはかまわないですよ。

神様は想念の自由は許されている。

しかし、行動に出してはいけない。

大体その時の気持ちで、大いに興奮して言うが、

それを我慢して言わないと、きっとああ言わなくて良かったということがありますよ。

あいつは悪いと言うが、あとになると、たいてい後悔するものです。

これは信仰の急所ですね。

まあ・・・お説教になっちゃったから、このくらいにして止めます。」




明主様御垂示 「神様が人を使って教団の悪宣伝をさせることもある」 (昭和23年12月28日)

信者の質問
「利己的な人が悪宣伝、悪行為をなした場合、それを見逃してやってはその人に対し無慈悲でもあり、また一面社会的には悪の風習を助長することにもなると存じますが、これはいかがいたすべきでしょうか。」


明主様御垂示
「悪宣伝と言っても、神様が人を使って悪宣伝をさせているのかもしれないのです。

今度の税金問題でも、私は邪神の働きかと思って調べたところそうではなくて神様がやっておられることが判りました。

だからあれによりかえっていい影響があっちこっちで起きてきてるんです。・・・

だから信仰が深まるにつれてむしろ反対になってくるべきです。


また悪を助長すると言っても、それを人間が抑えたりすることはできないんです。

それよりも自分の悪、自分の間違いを訂正することです。

他人の悪を訂正することなんかできない。

人をどうしたいと希望することはいいが、行為によってどうする、ということはできないのです。・・・

物事にはやるべきこととやってはいけないこととがあるのですが、ふつうはやれと言うとやりすぎるし、やってはいけないと言うとぜんぜんやらない。


食物の味でもそうです。甘みが少ないというと甘くしすぎてしまい、甘すぎるというと今度はからくしすぎてしまう。ちょうどよくするのは難しいのです。

だからその物事の程度を考えてすることが大切なのです。それが智慧です。


神様にお任せするといってもやはり程度がある。

「人事を尽して天命を待つ」との諺(ことわざ)があるがこれがいいことです。

人間としてできること、すべきことをやってその先は神様にお任せすべきです。

だからそれは時所位に応じて変わってくるべきものです。

やはり実篤(さねあつ)の言葉に「神の如く強く神の如く弱し」とありますがいい言葉ですね。

神様だって強い場合もあり弱い場合もある。

観音様でも馬頭観世音は口から火焔を吹き目はランランと輝いてます。

が、これは畜生道を救うお働きを表わしているのです。

いろいろなことをうまく使うところに智慧があるんです。

一番効果のある方法がいいのであって、これをみつけるのが智慧です。」




明主様御講話 「脱税問題も神様の仕組み」 (昭和27年8月15日)

「これもちょっとおもしろく書いてあります。

(御論文「宗教と妨害」)

今読んだようなわけで、宗教として法人になって発足したのが二十二年の八月ですから、今年はちょうど五年目になるのです。

五年目でのこの発展ぶりというのは、例がないと思うのです。

そのころは・・・最初は「観音教」と言ったのですが、ほとんど世の中で知っている人はないくらいです。

それが、その翌年の秋、脱税問題が起ってから、知れ方は悪いのですが、とにかく知れるには知れたのです。

やっぱり、あれも一つの神様の仕組みなのです。

そんなわけで、良いことは知れにくいのですが、悪いことの方は悪事千里で知れるのが早いのです。

悪事千里なんていって・・・こっちは悪にされた方です。

そんなわけで、わずか五年でこれだけの発展をしたのですから、実にすばらしいものです。感慨無量というところです。

ですからこういうふうで後五年もしたら、無論世界的に発展します。

なにしろ世界を救うのですから、そのくらいの早さでいかなければとうてい駄目です。

そんなようなわけで、本当言うとこれからがおもしろくなるのです。これからが本舞台になるわけです。今までは楽屋で支度していたようなものです。やっぱり世界的にならなければ、本舞台ではないのです。

日本だけでは、やはり今までの・・・在来の宗教と同じです。

ところがメシヤ教は在来の宗教ではないと言っているのです。

宗教以上のものだと言っているのですから、世界的に飛躍するということがあたりまえなので、神様の方ではちゃんとそう決まっているのですから、いよいよこれから脂がのってくるわけです。時間が来ましたから。」




明主様御垂示 「明主様は悪い奴も利用される」 (昭和28年7月1日)

「どの病気でもそうですが、浄霊の霊力の強い弱いによって治る治らないということがあります。

その霊力というのは力を抜くほど強くなるのです。

ですから力を抜くことが大事です。

本当に力が抜けるようになったらたいしたものです。

あとはその人の信仰の深さによって霊力が強くなります。

ということは智慧証覚が根本です。

それから一つ注意しておくことは、慢心すると霊力はずっと少なくなります。

だから信仰にはいりたてで「自分なんかに、そんな、できやしない」とビクビクしているときには割に治るのです。

「もうオレはできて来た」と思うようになると治りません。

それはなぜかというと慢心だからです。

だからオッカナビックリの気持でやると治るのです。

そうかと言ってビクビクしてやるのがよいわけではないので、つまり大いに神様の道具にならせていただいたという謙遜です。

気持は、相手の病人は虫ケラほどでもないが、ごくつまらない人だというように思わなくてはならないのです。

これは偉い人だと思うと、こっちの霊力が負けてしまいます。

メシヤ教は他の宗教から見るとまるで桁が違っているのです。

その力をいただいているとしたら、世の中の人間は虫ケラのようなものです。

しかしそれを出してはいけません。

こっちは大いに謙遜しているのです。

そこが難しいと言えば難しいです。

例えて言えば、よく私などは世の中のちょっと偉い人などと話をして感心して聞いてますが、腹の中では信じてないのです。

それで相手はすっかり私を信用させてしまったと思って、それから自分の計画などを持ってくるのです。

それでこっちはそれに乗るような恰好をしていて、最後の九分九厘に行ったときにスルッと抜けてしまうのです。

そういうやり方が一番よいです。

そういう場合に先方は、明主様はすっかり自分の言うとおりになったから、

これは下にいる回りの者が自分に対して悪意を持っている、というように思いますが、それでよいのです。

ですから喰えない人間にならなければなりません。

よく喰えない人間と言うと悪い奴のようです。

しかし事実悪い奴は喰えないですが、しかし善人で喰えない人間にならなければ駄目です。

よく「酢でもコンニャクでも喰えない」と言うが、そういうようにならなければなりません。

悪人は善人を手玉にとると言うが、私は悪人を手玉にとります。

だから悪い奴を利用するし、また悪人でも大いに役に立つことがあります。

悪い人間で教団のためになった者はたくさんあります。

ですからよく「あれは評判が悪い」と言いますが、そういうことは何も思わず、挨拶するときは挨拶してますが、それで結構よい手柄をしてます。

つまりこっちにくるという人間は神様が必要があってよこすのだから、人間的判断をしたらたいへんな間違いです。

だからよく「あの人は評判が悪い、油断ができない、面白くない、そういう人間は教会に入れないようにしなければいけない」と言うが、そうではないのです。

そういう人間だからこそ、その人間を立派にするのが本当で、それには宗教の力が必要です。


東京のあるキリスト教会で、「少しでも間違った人は教会に入れない純真な人を選って教会に入れるということになってる」と、

そこの牧師からそういう話を聞いたので、私は「そういう立派な人間なら教会に入れる必要はないではないか。

悪いのを立派な人間にするのが宗教の仕事ではないか」と言うと、

「それは本当の理屈だが、私のほうはそうなっているのでしょうがない」と言ってましたが、それはたいへん間違ってます。

今までの悪人が跋扈(ばっこ)したひどい世の中では、悪人もやっぱり一つの道具としてあるのです。

それから中にはオワイ屋ゴミ掃除みたいな人間も社会には必要なのです。

ですからそういうのを嫌っているのはしょうがありません。

「悪は悪をもって制する」ということがありまして、警察とか裁判官というのはずいぶん悪いです。

悪人以上のようなのがいますが、しかしやっぱりそれも悪人をやっつけるにはそのくらいでなければ駄目だと思います。

ですから必要悪です。

信仰も大乗信仰と、小乗と中乗があります。

この使い別けがなかなか難しいのです。 (中略)


信者の質問
「先ほど中乗(ちゅうじょう)というお言葉をいただきましたが、

あの後もっと御教えをいただけるのではないかと思いましたが、初めてのお言葉でございますので」

明主様御垂示
「今まで言わなかったが、中乗が本当です。

大乗にあらず小乗にあらず、そうすれば中乗になります。

これが伊都能売(いづのめ)です。」