善悪の真諦について 2 (善悪は時所位で異なる)


明主様御垂示 「善悪は時代によっても違う」 (昭和23年6月8日)

信者の質問
「御浄め(註 浄霊のこと)により善人と思われる人が助からぬ場合があるのに、まったく悪人としか思えぬ人でさえも助かる場合がありますのはいかなる理由でしょうか。」


明主様御垂示
「人間が見て善人とか悪人とかきめるのであって、神様がご覧になると違うんです。

小乗で善人でも大乗で見れば悪人になることがたくさんありますよ。

なぜなら本当の善人は少ないのです。

ふつうの善人とは意気地なしでしょう。

世のため神のため大いに働きのあるのは悪人に見られがちです。

大善は小悪を伴い大悪は小善を伴う。

その場合小悪の面を見ると悪人に思えるのです。

例えば私のこの道が発展すれば医者は私のことを悪人呼ばわりするでしょう。

これはしかし、しかたのないことです。

なぜなら悪人のすることの邪魔をしている。


善人といってもいろいろあります。

意気地のない善人や、功利的に人の信用を得んとする善人もある。

こんな善人には悪への憤激がない。この悪に対する憤激はなければならないものです。

が、これがあると悪人に見られがちです。・・・

善悪というものは時代で異なるのです。

いまから見れば、忠君愛国なんかはたいへんな悪ということになります。

非常な間違いです。

日本が忠君愛国をやり、中国人や朝鮮人もそれぞれ支那や朝鮮のために忠君愛国をやったらたいへんなことになります。

よくいわれた皇道なんかも共産主義より下です。

なぜならロシアヘ行って皇道を宣伝しても広まりはしないが、日本に共産主義は広まっているんですから。

忠君愛国や皇道は小乗の善であり、世界的に見れば悪です。

一国や一民族がよくなるのでは悪です。

世界中の全部の人がよくなるのが真理であり、全人類が幸せになることでなければ駄目です。

御浄めで生命が助かるか否かはいろいろと原因があるのですよ。」




明主様御垂示 「善悪は時代によっても違う」 (昭和24年4月20日発行)

(註 上記御垂示と同一内容)

信者の質問
「浄霊によって善人と思われる人が助からぬ場合があるのにまったく悪人としか思えない人で助かる場合がありますのはいかなる理由でしょうか。」


明主様の御垂示
「一般に人間の眼からみて善人悪人を決めるが大いなる間違いである。

これは神様からみると往々異う場合がある。

「信仰雑話」にあるごとくすべて小乗と大乗とあってこれによって見方が違う。

人を観る場合大乗的にみなくてはいけない。

善人と言っても本当の善人は極めて少ないので、

ふつう善人というのはたいてい意気地なしで、

概して働きのある人は多く悪人に見えるものである。

神様の御眼からみれば善人といっても役に立たぬ人間はこの世の穀つぶしで一種の悪人である。

大善をする場合は必ず小悪を伴うもので、これはしかたがないのである。

その際小悪のみをみると悪人としか出見えない。

また悪人からみれば善人は悪人である。

要するに簡単に善悪を決めることはできない。

善悪はまた時代によっても違う。

忠君愛国思想も民主主義の現在では悪になる。

要するに全人類平等に幸福にすることでなくては本当の善ではない。」




明主様御講話 「善悪は時間により変化する」 (昭和15年11月9日)

「いままではずいぶん複雑していた。

統一とは非常に簡単になることである。

いままでは西洋医学のごとく分裂したため、非常に複雑になった。

その時代にも金持ちはある。

私有財産はどこまでもある。

これを撤廃するとせば、ロシアと同じようになる。

ただ決算は公開されるから、富豪はだれがいくらとったかすぐに分かる。

今日では公開されてもよく分からぬが、もっとはっきりする。

この組織になれば判るから、全部私有することができなくなり、社会事業とか、労働者の娯楽などのために使うこととなる。

また全般的に非常に良心的となり、いい社会になる。

分裂すること、換言すれば破壊すること。

善はまとまること。

対照的にいえば善悪に分けていい。

悪は善になることもあれば、善が悪となることもある。

これは時間的の関係で、時間により変化する。

そのときの状態に付して善悪にする。

どっちも必要があるのであって、またどっちか勝ち負けはある。」




明主様御垂示 「正義や悪は時代によって違う」 (昭和23年12月28日)

信者の質問
「孔子の正義を貫く行動の弱さがその生涯の不遇を招き、中国民族を弱くしたのではないでしょうか。」


明主様御垂示
「孔子のため中国民族が弱くなったとは言えないでしょう。

孔子の道徳で中国は救われたんですよ。

いまでも「論語」の影響はたいしたものです。

日本でも西洋文化が入る前までは「論語」によってどれくらい稗益されたかは判りません。

孔子なんかは決して弱者ではない、強者ですよ。

思想の力というものは強いものです。

その点から言えばマルクスも強いですね、共産主義を今日ほどに発展させたのだから。・・・

共産主義にもいいところがあります。

もし共産主義がなかったら資本家や地主はどれくらい他の人々を苦しめ悪いことをしたか判りません。

ただ共産主義が天下をとっては困りますが・・・
 
四、五年前までは楠木正成や吉田松陰なんかはすばらしい正義だったのですが、いまではそれは戦犯のごとく悪なのです。

だから正義とか悪とかは時代によって違ってくるのです。

従って時代によっても変わらない孔子やキリストの教えはたいしたものです。」




明主様御垂示 「大乗と小乗によって善悪の見方が違ってくる」 (昭和23年12月28日)

信者の質問
「日本観音教団におきましても、あらゆる不正に対する正義感が根強いほどいくたの犠牲に耐え、喜んで地上天国建設のお手伝いができるのではないでしょうか。」

明主様御垂示
「この不正に対する正義感というのを見ると、正義が不正であり、不正が正義であることがよくあるんですよ。」


信者の質問
「例えば、医学の不正に対する正義感ということはいかがでしょうか。」

明主様御垂示
「それは小乗です。なぜなら、第一、私の道が発展するのはだれのためですか? お医者さんのためですよ。

医者が病人をよく治さないからこっちが光るのです。・・・

だからそういうふうに大乗と小乗とによって見方が違ってくるのです。

また、こいつは悪い奴だと思っていても時期が来てすばらしく働くこともあるんです。

強羅の観山亭なんかも、以前、玉川の上野毛に家を建てようとしたのを○○という人が妨害して建てさせなかった。

それでその材料を運んだのでできたのです。

あのときは私も一時癪(しゃく)に触りましたが、後になってみればかえってありがたいくらいです・・・」




明主様御垂示 「神様ですら位により善悪の判断基準が異なる」 (昭和23年9月18日)

信者の質問
「御讃歌中に「凡人(ただひと)の眼には善しとし映る事も神の御旨に適はぬ事あり」と拝見いたしますが、お道の者としてどんな点に注意すべきでしょうか。」


明主様御垂示
「人間の眼では異なる。

共産主義だって人間には正しいと思われても神様はそうは思われない。・・・

ところが神様にもいろいろあり第一等の神だと共産主義も要るし、第二等の神だと共産主義はいかんということになる。

ふつうのことでも人間が見て善いと思われることでも神様から見ていけないことがたくさんある。

いま戦犯として裁かれている人々も戦争中はみんな「自分はいいことをしているのだ」と思っていた。

だからいつだか罪の有無に対してみんな揃って「無罪」を主張していたのです。

「自分は罪を犯したのだ」とは考えない。・・・

神と人との分かれ目は大乗と小乗です。


例えば日本だけよくなって、他の国々はどうなってもよいとの考え方は小乗であり悪です。

人類全体が幸せになることでなければ悪です。

私は戦争中「忠君愛国」なんか一度も言ったことはない。

なぜなら日本人が「忠君愛国」でその相手の朝鮮人、中国人も「忠君愛国」だったらたいへんなことになる、幸い彼らがそれほど忠君愛国ではなかったからまだよかったのです。・・・


勿論、時と場合により大乗より小乗のほうが必要な時もある。

が、そういうときでも大乗を本として小乗を考えたらいいのであり、常識を基準にして判断したらいいのです。

ここに大乗と小乗の融合ができるのです。

小乗は縦であり大乗は横ですから、縦横合一ができあがるのです。


先日ミズーリ艦上調印記念日のマッカーサー元帥の書簡の中に「東西文化の融合する所が日本である」とあったがその通りです。

みんながつけているバッジの真ん中の赤は日本を表わし、そこで縦と横が合一している形を表わしているのです。・・・


箱根という所は東西の分かれ目であり箱根の中心は神山です。

だからこの早雲寮も神山の上に建てるべきであるが、そうも行かないからここへ建てたのです。

で、これにも縦横合一の意味があるのです。

また以前の玉川上野毛も東京(縦)と横浜(横に開ける)の中央だった。・・・

今度は熱海に家を作り次に小田原に作るがその次は別府に作ろうと思ってます。

あれから先は外国になりますから。

また、今度東山荘の中に洋館を建てそこで私は洋風の生活をしようと思ってます。」




明主様御垂示 「一切を二つに分けると真理は陰陽相対的に異ってくる」 (昭和24年5月22日発行)

信者の質問
「真理について御教えを願います。」


明主様御垂示
「真理はその人の見方と立場によって異う。

神からご覧になるのと人が観るのと違うし、神でも上中下の位があるから、

下位の神の見らるる真理と、最高の神の見らるる真理とはまた大いに違うのである。

人間が真理と信じていることで、神から見て逆理のことも往々ある。

森羅万象の一切とその動きは真理ならざるはない。

なんとなれば万有全体の上に座す神としてはその全体が御自分の物であるからである。

また一切を二つに分けると、その各々の真理は陰陽相対的に異ってくる。

その二つのものがそれからそれへ、いくつも分かれるに従ってそれぞれ異ってくる。

要するに小さく考えるのと大きく考えるのとでも異ってくるのである。

人類社会における真理、それはどうしても正しいことを基本にしなくてはならない。

宇宙の真理とても善を主に動いているからである。

もし悪を真理とするとすれば人類社会はすでに崩壊し、いっさいは滅亡していたはずである。

そうならないで現在のごとく栄えているのは、少しずつでも正が勝っていることを証拠立てている。

これによってみても、善が栄えるのが真理であるということに帰着するのである。

しかしながら人類社会に善なるもののみで、悪なるものがなかったならば、今日のごとく文化は発達し得なかったのである。

悪があって善の活動を妨げたり苦しめたりすることによって善の力を強め、その進歩を促進せしめたのである。

以上は大乗的な説き方であって、ある程度覚りを開いた人に説くのは差し支えないが、小乗的な人にはその真意は解し難く、誤解を招くおそれがあるから注意すべきである。」