経と緯について 1 (逆卍について)


明主様御講義 「伊都能売の大神様は左進右退」 (昭和10年7月15日発行)



昭和十年一月一日


「昭和とは日召和となる(平和)。日は天照大神のことであり、召は知食(しろしめす)という字(知召)。和は世界、又は大和である。十は結びである。





善と悪とを結べば悪はなくなるのである。

善を結んだ中心が則ち伊都能売である。

善悪を結んで火水(かみ)となる。


善悪結んで廻る十字の尖端曲りて「逆卍」となるのである。

善悪結ばれし時より、悪は消えて完全なものとなるのである。


伊都能売大神様の世則ち大光明世界が造られるのである。

宗教の卍は右廻りなるが、これが今までの右進左退の世すなわち悪の世界であったのである。

伊都能売の大神様は左進右退になるのである。」 (「観音講座 第一講座」より)




明主様御教え 「神と仏の字」 (昭和10年 観音講座 第三講座)

「仏はブツであり物質文明時代を表わす。

神の字は示偏に申と書いてあるが、申すと云う字は干支の申(さる)ではない、田の字の真ん中の経の棒が上と下へ抜け出ている。

そして田の字は○に十から起こった。

○に十とは、○は地球であり大地の事である。

十の字は経と緯の棒の結んだ形で、経は火で緯は水である。

火と水はカとミであるからカミとなる。

大地は神が主宰し給い神の世界である。

神は無始無終であるから上下の棒が貫いて無始無終を表わす。

右の意味を人類に示さなくてはならぬ。

人々に示す意味なのである。」




明主様御教え 「神と佛の文字」 (昭和24年10月8日発行)

「この二つの文字をあまり解釈したものはみないようである、

しかるにこの二つの文字くらい人間が尊敬し、憧憬するものはないのであるから、

一応知るべき必要があろう、その意味を私としての見解を述べてみる。


まず、神の文字は、示偏に申とかいてあるが、大抵の人は、この申の字が解し得ないようである、

これはサルではない、田の字の真中の経の棒が上と下へ抜けている、

そうして田の字とは、○に十から起ったもので、

○に十とは、○は地球であり大地である、十の字はいつもいう通り経と緯(よこ)の棒の結んだ形である、

経は火で緯は水で、火と水は、火(カ)と水(ミ)であるからカミである、

大地は神が主宰し給い、神の世界である、神は無始無終であるから、上下の棒が象徴している、

もちろん右の意味を人類に示さなくてはならないそれが示す偏である。


次に佛の字は人偏だから、人間の向上したものが佛である、

つくりの弗はフツまたはドルと読むがそれとは関係はない、弓の字を二本の経棒が貫いている、

元来弓の字は月の意味で、弓の形は半月で、俗にいう弓張月である、

仏教はいつもいう通り、真如の教えすなわち月の教えである、

それへ経の二本の棒は、十の字がトケた形である、仏の言霊はホドケで神は結びであるとは常に私がいうところである。

また二本の棒の別な意味は、仏教は経の教えであるから緯がない、経は霊で精神主義であるから、物質否定となる、

これが彼の禁欲主義となり山岳仏教や禅の修行等にも表われているのである。

以上で大体、分ったと思う。」




明主様御教え 「主の字」 (昭和24年9月3日発行)

「私は常に、順序を正しくせよと言うが、この順序をタッタ一字で表わしたのが「主」の字である。今この主の字を解剖してみよう。

上中下の横棒三本は天地人、日月地、五六七、神幽現という意味で、それを経(たて)の棒が貫き、一番上にヽ(ちょん)が乗っている、

これが正しい順序で、政治でも経済でも教育宗教でも一切万事この形でゆかなければうまく行くはずがないのである、

ところが、今日まであらゆるものは、大抵経緯(たてよこ)が別々で、

その最も大きなものは、経の東洋思想と緯の西洋とで、離れ放れであった、

ところがいよいよ時節到来、十字に結ぶ事になったのである、

すなわち主の字の真中が十の字であり、上下の横棒は天と地である、

つまり人間界は天地の中間であるから、人間界が十字に結ばるという訳である。

これが地上天国の実相で、すなわち十字の形の神の世界である、神という言葉もその意味である。

カとは火、ミとは水で火は経に燃え、水は緯に流れる、これが結んでカミという意味になるので、

神御産霊(かみむすび)、高御産霊(たかみむすび)という通り、神の御働きは結びである、

また仏はホトケでありホドケルであるという言霊であるから、ホドケている世界を、神が結ぶというのが、今や来らんとする神世界である、

キリスト教徒が胸に描く十字架もそれの暗示であり、

仏教の卍も同様の意味でただ仏教の卍は、十の字の一つ一つが枉(まが)っている、

これは十の字に結ばると共に廻転が始まるという訳である、

以上の意味によって政治も三段階でなければうまくゆかない、

上下を真中の十でしっかり結んで上下の棒を支えている、

という事は、中産階級が上層と下層との階級を調和させる役という意味にもなる、

そうして一番上に大統領または総理大臣が座って支配するという意味であるから、

主の形にすれば、何事も破綻なくうまくゆくのである、

会社経営でも団体運営でも理屈は同じで吾らが常に唱うるミロクの世の姿である。」




明主様御教え 「何故救世教となった乎」 (昭和25年3月20日発行)

「開教以来いまだ三年とは経たない観音教団も五六七教会も、今回統合して一つになり、

救世(メシヤ)教の名によって新たに発足する事になったのは、いかなる訳であろうか、

これは信者の誰しも知りたいと思うであろうから、ここにかくのである。

以前から私が始終言っている事は、神様は何事も型で見せると共に、型を行わせらるるという事である。

その意味においていつかは霊と体、すなわち経(たて)と緯(よこ)と結び、十字形になり、

それからが本当の神様の御働きになるという事である。

経と緯は火と水であるから、火はカであり、水はミで、カミの御働きになる。

また仏教は月であり、月は夜の光であるから、観世音菩薩は御仏である以上、

夜の月の御働きであるから、絶対力は揮い得なかったのは時期の関係で止むを得なかったのである。

従って、いよいよ昼の世界になる以上、仏の御働きはここに解消し、神の御働きとならせらるるのである。

それが前述のごとく救世教となった事はもちろんである。


右のごとく神の御働きとなったとしても、日本古来からある神道とは違うのである。

神道は日本の民族宗教で限られたるものである以上、万事世界的になった今日としては意味がなくなったので、

終戦後神道の影が薄くなったのも、それに外ならないのである。

という訳で、最高の神様は民族や国の差別などはなく世界全人類を救わせ給う事になり、実に有難い時となったのである。

ここにおいて適当な名称を冠せなくてはならない、とすれば、救世の名こそ最も相応しいが、救世教では漢字である以上、東洋的で面白くない。

そこでメシヤの振仮名を付けたので、これによって東洋も西洋も合せて世界的という訳である。

特にメシヤの言葉はキリストに相通じ、文化民族憧憬の名称たるにおいてをやでもある。

また聞く所によれば、メシヤと最後の審判とは密接な関係があるという事で、

吾らが常に唱える夜の終りと昼の初まりとの意味と同様であるのは意義実に深いものがある。


ところで、観世音菩薩が神の御働きとなるとすればどういう変り方になるかは、信仰者として最も関心事であろう。

それは度々言うごとく、善悪無差別的救いが無差別ではなくなり、善悪をはっきり立別けられるのである。

という事は善の御守護は益々厚くなり、悪には今までと異いいよいよ厳しく裁かれ給うのである。

この点を深く肝に銘じて進むべきである。

それには何よりも出来るだけ御神書を拝読する事である。

神様は、御理想である真善美の完き地上天国を造らるる以上、

心の穢れた間違った者を徹底的に是正されなければならないからである。」




明主様御講話 「逆卍について」 (昭和27年11月15日)

「それから私は今まであんまりはっきり言ってなかったので、

だんだん時節に応じていろんなことをはっきりさせていきますが、こういうことも知っておかなければならない。

今私がやっている仕事は伊邪諾(いざなぎ)尊の仕事なのです。

それで古事記にある「天の御柱を両方の神様が廻り合った」ということがありますが、

最初伊邪冊(いざなみ)尊すなわち妻神様の方が右まわりをした。

そうしたところが世の中がうまく行かなかったので、要するに失敗したのです。

そこで伊邪諾尊が「そうらみろ、オレが最初右まわりはいかんと言ったのに、お前が右まわりをしたからそうなったのだ。

こんどはオレが左まわりをしてやろう」というので、

天下が治まったということがあります。

というのは、右まわりというのは右進左退で体主霊従です。

それを伊邪諾尊様が左まわりにすると天下が治まったというのです。本当のやり方をしたのです。

ちょうど今の医学は右進左退ですから体主霊従です。右まわり医学です。

今度は浄霊という「霊」を主にするというのは左まわりです。

それで私がやっている仕事は伊邪諾尊の仕事です。


この間多賀さんの奥さんに天照大御神様が懸って、私のことを「主神様」と言ってます。

良いことがあって御祝いに来たのです。

「主神様に御祝い願いたい」と言ってきたのです。

最後に「主神様に御守護をお願いしたい」と言うのです。

これは本当に懸ったのです。

そうすると、天照大御神というと世の中ではたいへんな最高の神様のように思ってますが、

しかし天照大御神は伊邪諾、伊邪冊尊の子供になるのです。

これは神代史にもあります。天照大御神は伊邪諾尊の娘さんになる。

ですから分かりやすく言えば私の子になるわけです。

そこで天照大御神様は本当に人を救うという力はないのです。

それから月読尊も御祝いに出ました。

いずれ「地上天国」に出しますが、まだちょっと早いので正月のに出そうと思ってます。


それで月の神様と日の神様の両方でなければ救えないのです。

そこで日と月が両方ピッタリして出るのが光なのです。

光というのは、日も月も両方とも光はありますが、

本当の光の力というものは両方がピッタリ合わなければ出ないのです。

ですから私から出る浄霊の光も、そういった日と月の両方の光なのです。

そこで光明如来という名前も、「明」は日月ですから、日月の光というこれが本当の力になるわけです。

そういうわけです。

これはいろんなものに現われてます。

[逆卍]でもそうです。

仏教のはこういう卍です。

私の方で先に[逆卍]をつけたことがありますが、逆のまんじです。

仏教の方ではこういう[逆卍]を逆まんじといってますが、実は仏教の方が逆まんじです。

右進左退です。今までの逆まんじ[逆卍]というのが左進右退になってます。

だから仏教は月だということは、やはりそういうことです。

これはなかなかおもしろいと思います。

巴も、こういう(右まわり)書き方と逆のと両方あります。

これもおもしろいのです。三つ巴、二つ巴というのがありますが、

三つ巴は五六七が左進右退と、右進左退になっている。


それで言霊からいっても伊邪冊の「ミ」は女で、「ギ」は男です。

「イ」ということは人間ということです。

「イ」というのは「人」というのを縮めたものです。

「ザ」というのは「ジャシン」の「ザ」です。

字で書くと「邪」ですが、言霊からいっても、「ジャ」を縮めると「ザ」です。

やはり「蛇」ということです。

「ナミ」というのは「柔らげる」とか「和める」とか、女の柔らかさということです。

「ナギ」というのは「薙倒す」という非常に強い力です。

やはり「キミ」になるのです。

「キミ」という言霊もたいへんなものです。

「キ」というのは霊で、「ミ」というのは体です。

「キミ」というのは霊体ということです。

「キ」というのは精神です。心とか目に見えないものです。

「ミ」というのは水、女ですから、言霊からいうと伊都能売ということになるのです。

こういうこともだんだん書きますが、方角でも「キタ」と言いますが、「気が足りる」「気が満ちる」ということです。

それから「ミナミ」ということは「水のみ」とか、つまり女です。やっぱり陽陰、火水です。

こういうことも今度精しく書きます。」




明主様御講話 「霊主体従は左進右退」 (昭和27年11月17日)

「それからもう一つは、今私がやっている仕事は伊邪諾尊の仕事をしているのです。

というのは古事記にありますが「天の御柱を廻り合う」といって、柱をまわり合ったのです。

そうすると伊那冊尊は右まわりをしたのです。

それは右進左退です。右が進み左が退くのです。

ところがそのためにうまくなかった。

世の中が治まらなかったというので、とうとう伊邪冊尊様は、つまり夫神に助けを求められたのです。

そこで伊邪諾尊様が「そうらみろ、オレが最初右まわりではいかんと言うのを、お前があんまり言うからオレは許したのだが、

やっぱり左まわりでなければいけないのだ。

それではこれからオレがやってやろう」と、左まわりをしたのです。

やっぱり霊主体従です。

つまり医学が機械やなにかで治すというのは右進左退です。

それで浄霊で治すというのは左進右退ですから、伊邪諾尊様のやり方です。

それで伊邪諾尊が主神の代表神です。

ですから非常に力が強いのです。

それでこの間 多賀さんの奥さんに伊邪冊尊様が懸って「自分は非常に間違っていた。だからこれから大いにお手伝いする」というようなことを言われてました。
 

それから今世の中では天照大御神が一番尊い神様としてありますが、

天照大御神がこの間出られて私のことを「主神様」と言ってましたが、

「主神様がいよいよお出になってお慶び申し上げたい」と言って

「これからせいぜい御守護をお願いしたい」ということを言われてましたが、これは本当のことです。

これは神代史にある通り、天照大御神は伊邪諾、伊邪冊尊から生まれたとなってます。

ですからつまり天照大御神は私の子になるわけです。つまり長女です。


それからその次に生まれたのが素盞嗚尊です。

素盞嗚尊という神様は、私の本にも書いてありますが、物質文化つまりユダヤの祖先になるということにもなってますが、本当はそうではないのです。

そういっても良いのですが、とにかくイスラエルの民族というものは素盞嗚尊の子供ですが、それがユダヤになるのです。

そこで今日の物質文化というものはユダヤ文化です。

要するに素盞嗚尊が造られたものです。

そこでつまりキリストは素盞嗚尊の子孫です。

だからキリストは伊邪諾尊より生まれた神を祖先として、その後に生まれたのがキリストですから、

私の弟子がキリストと同じくらいの奇蹟ができるというのは当然なのです。

そういうことも細かく話しするとなかなかおもしろいのですが、だんだん書くつもりです。」




明主様御講話 「本当の力」 (昭和28年6月15日)

「それで、「力」ということについて話をしますが、今までの世界は本当の力というものが出なかったのです。

力といっても、それはいろいろあります。人間の力の「腕力」。

それから兇器を使ったりして大いに暴れるのは「暴力」。

それから馬の力の「馬力」。

それから今は「機械力」で、これが非常な活動をして世界的にいろんな文化を進歩させていますが、これも結構です。

ところが現代の宗教のような力は「微力」と言います。はなはだ弱い力です。

それから人間を大いに自由にしているのが「政治力」。

それから「金力」ですが、この「金力」というのがなかなか恐ろしいものです。

この金力を善が握れば結構ですが、今までの金力は悪の方が多いのです。

善もありますが悪の方が量が多かったのです。

この金力に私なども随分いじめられました。

それからいろいろ問題にされたり裁判所に引っ張られたり、言論機関が大いに圧迫したりするのは「権力」。

それから「経済力」というこれも、今までは良い方より悪い方に使った方が多いです。

そこで「金力」は「経済力」に付随してますが、「金力」というのは、たいへんな力を持っているのです。

ソ連が共産主義によって世界の覇権を握ろうとし、朝鮮戦争を起して、それをアメリカがくい止めましたが、アメリカのなんの力がくい止めたかというと「金力」です。

それは他にもいろいろありますが、そのもっとも根本的力と言いますか、それは「金力」で止めていたと言うか、「金力」で平和を維持したというわけです。

だから今までの世界では「金力」が一番力があったわけです。

それから戦争をやるのは「戦力」。その戦力を行使すると「破壊力」。

それからまた文化の力というものには、学問の力の「学力」。

その学んだ結果の智恵の「智力」。智恵にもいろいろありますが、これは前にも言ったから、今は言いません。

それから「智力」を応用して考える「思考力」。

それから「筆力」。筆の力ですが、これがまた恐ろしいのです。

今の世界は「金力」が主で、「筆力」がその次と言ってもよいと思います。

それから「宣伝力」。これもたいへんな力があるものです。

それから引く力の「引力」。

押さえる「圧力」。

まだまだたくさんありますが、大体そのくらいで分かると思います。


ただ、今までなかったのは神の力の、「神力」です。

ぜんぜんないことはないが、薄かったのです。

強く発揮ができなかったのです。

というのは夜の世界のため、つまり月の光は、光からいっても太陽の六十分の一ですから、よほど弱かったのです。

それがいよいよ時期が来て、今度は火の力、太陽の力になってきたのです。

それが昼間の世界というのです。

それで浄霊して病気が治るということは、太陽の力だからです。

今までは、メシヤ教のように病気を治すという力はなかったのです。

というのは月の力だからして、見らるるとおり、本当に病気を治す力はないし、

それからまた病気というものの根本はなにかということも発見されていなかったということは、力もないし光も薄いから、つまり見得ることができなかったのです。
 
それが根本だから、それが分かれば浄霊で病気が治るということは、わけなく分かるわけです。

それでメシヤ教の信者はキリストと同じような奇蹟は毎日のようにやっているということだけでも、その力たるやたいへんなものです。


それで今までは、宗教が本当に救うことはできなかったのです。

現在救われているのは各宗の教団の方です。

仏教にしても、仏教がその信者を救っているのではなくて、その本尊が信者から救われているのです。

これは別に悪口を言うわけではないので、事実を言っているのです。

というのは、闇の世ですと月の光だけでも結構なのです。

だから闇の夜道を歩いている人は、月の光によって、とにかく安全に歩けるというわけです。

そこにだんだん太陽が出てくると、月の光は薄れてき、ついにはなくなるというようなわけですから、

そこで霊界では非常に明るくなってきているから、月の光というものがもう駄目になったというわけで、それが現われているわけです。


だからして結局火の力を行使することは、私という者が出て、初めてその力を与えられたのです。

つまり「力」です。ところが「力」というものと「光」というものとは同じなのです。

つまり「火」と「水」の密合したものが「光」でありまた「力」なのです。

だから「力」という字はよくできてます。

経と緯、火と水が十の字に組むのです。

そうするとそこにズーッと曲線がつながって、跳ね返ってますが、とにかく文字というものは神様が造ったのですが、実によくできてます。

ですから文字と言霊が分かれば、宇宙のいろいろな神秘は分かるわけです。

私はそういったことを書こうと思ってますが、どうしても書けないのです。

やっぱり神様はどうしても、それを分からしてはいけないことがあるとみえます。

そこで経が先で緯が来て結ばり、曲がって、跳ね返っているが、これは左進右退のリズムが現われてます。

ですからさっき言ったとおり、この地上天国の模型が中心になって、左進右退的活動が始まるということは、これが真の力なのであります。

つまりメシヤ教というものは力の宗教と言ってもよいのです。

この力が本当の神力です。

経緯結んだ火と水の力です。

「カ」は「火」で、「ミ」は「水」ですから、「カミ」の力です。

この力を行使したという人は世界肇(はじ)まって以来ないのです。

それで言霊から言うと「シン」の言霊返しは「ス」になりますから「神力」は「主の力」とも言えます。

それでいつも「ス」は○にチョンと書きますが、チョンが火で、丸が水になります。

太陽の黒点はチョンになります。

学者はあの黒点を研究してますが、それは今言ったことなのですから、こっちは別に研究の必要はありません。

この太陽の黒点のチョンがたいへんなものです。

つまり宇宙の魂です。

果物なら種です。

それで今までの世界はチョンがなかったのです。

丸だけだったのです。要するに空だったのです。

それでいよいよ私が世界にチョンを入れるわけです。

この神仙郷はチョンなのです。ヽなのです。

その意味において非常に重要なわけなのです。

その始まりの今日は非常な意味があります。」




明主様御講話 「霊界で左進右退的活動が始まる」 (昭和28年6月16日)

「今までの宗教は力がなかったのです。

キリストにしろ釈迦にしろ力がないのです。

だから理屈はいろいろうまく説くが、実際の力がないから、本当に救えなかったのです。

というのは夜の世界ですから、今までの力は月の力ですから、ごく弱かったのです。

だから極楽や天国を造ろうと思っても、どうしても邪神に邪魔されて、思うようにゆかなかったわけです。

ところが今度神様は私にその力を与えられてますから、それはなによりも、弟子がキリストと同じような奇蹟をさかんに現わすのでも明らかです。

キリストを作る力ですから、それは大きなものです。それで力というものは霊体一致すると力が出るのです。

今までは霊体が一致しなかったのです。霊体一致ということは、火と水がチャンと結ぶと本当の力が出るが、今までは結ばなかったのです。

というのはキリストは緯の教えを説いて、釈迦は経の教えを説いて、離れ離れになっていて結ばなかったから力が出なかったのです。

ですから力という字は、経の棒を引いて緯を結んで十の字になっているが、結ぶと初めて力が出るのです。

そうして左進右退にまわり始めるのです。

ですから力という字は、十の字になって左進右退にまわるのですが、文字は神様が作ったのですが、実によくできているものです。

人間でも「人」という字が霊と体になってます。

もっとも今の人は逆で「入」の字になってます。そういうわけです。(中略)


そういうようで、力という字は、「チ」は「霊」で、「カラ」は「体」ということを言いますが、「空ッポ」ということです。

そこに「チ」「霊」がはいるので、生きた人間というわけです。そこで霊と体が組んで、初めて力が出るのです。

それでスというものは世界です。それで今までの世界というのはカラッポなので、まだ魂がはいっていなかったのです。

肝腎な中身がなかったのです。そこでお釈迦さんはうまいことを言いました。

「この世は仮の娑婆だ」と言いましたが、確かに仮の娑婆です。

本当ではない、一時の間に合わせというわけです。

私は「文明の創造」をいつか読んだことがありますが、「今までは間に合わせだ、本当のものではない」ということを書いておきました。

そこでお釈迦さんは「仏教は真如だ」と言った。

真如というのは真の如しであって真ではない、仮であって本当ではないというわけです。

仏教の方では「実相真如」ということを言いますが、これはあべこべで、「真如実相」が本当です。

実相とは本当の魂のはいったものを言います。

それで最初真如が出て、それがすんでから実相になるのです。

仏の世がすんでから実相世界、神の世界になるのです。

そこで大本教のお筆先に「今までは仏の世でありたが、仏力と神力は違うぞよ」というのがあります。

それで今までは要するに仏力、月の力です。今度は神力、神の力です。

それで神というのは、「カ」と「ミ」、「火」と「水」ですから、やはり経緯ということになるから、本当の力です。

ですからつまり仏力ということは本当の力でなかったのです。

それで佛という字が人偏ということは、これは人間の力です。

この文字はなかなか分かり難いですが、片方の弗という字は弓という字なのです。

弓に二本の棒を引いてあるのです。弓ということは月のことです。

よく弓張り月ということを言いますが、弓の形が月の形になるのです。

ですから弓をしぼるとやはり月と同じような形になります。

それから神という字は示偏(しめすへん)に申としてありますが、これは申ではないのです。

やはり○に十で、上下に突き通っているのです。

ですから経緯に結んで、これを世界に示すというわけです。

神というのは、どこまでも十なのです。

バッジの十もその意味なのです。」




明主様御講話 「無神論は緯、有神論は経」 (昭和29年1月6日)

(御論文 「浄霊は科学療法なり」 栄光 二四七号)

「今読んだ中で肝腎なことは霊と体です。

体にある毒素が霊に写って曇りとなるということは、つまり緯の作用であり、

それから霊の曇りを取ると、それが体に写って、体の毒素が出るということが経の作用です。

だからこの点をよく知っているとよく分かります。

それで緯に写る作用は、つまり体的であるからして、それでは解決はできないのです。

それから経は霊主体従で、霊さえ良くすれば体はきれいになるのだからして、病気は解決されます。

経の作用は霊的作用であり、それから緯の方は体的作用だから悪の作用であり、経の方は善の作用ということになります。


今の世の中は地獄の世の中ということは、緯の文明のために悪が発生するのです。

そして今まで経がなかったのです。

無神論というのは緯で、有神論というのは経です。

だから、つまり緯だけでは体的だから魂がないのです。

経は魂があるのです。

それで経というのは天から地軸まで抜けるのですから、これは大変な力です。

緯だけではそういった経の骨がないようなものですから、そこで本当の文明はできないわけです。

しかし緯がなければ物質文化は発達しない。

要するに経だけでは人類は世界に拡がらないです。

そこで経と緯と両方が必要なわけです。

だからごく昔は経の文化だったのです。

文化というよりも、経の働きだったのです。

それから神様は、物質文化を発達させるために緯の働きをされたわけです。

だからどっちも本当ではないから、経と緯を十文字に結ばなければならないので、それが本当の文明になるのです。

この経と緯を結ばせるのが私の仕事であるし、メシヤ教の仕事というわけです。

だからいろいろな仕事をやるわけです。

農業をやるかと思うと、美術館を造るというのですから、およそ反対ぐらいに違います。

そういうようなわけで、なかなか大変な仕事なのです。

非常に難しいようでいて、また非常にやさしいのです。

このことを知るにはどうしても既成観念があると、邪魔して分かりにくいのですが、

それを捨ててなんにも囚われないで考えてみれば、なんでもなく分かります。

話は学校の講義みたいになってしまいました。」




明主様御垂示 「逆卍について」 (昭和23年12月28日)

信者の質問
「釈迦の正義に対する弱さがインド民族をあのように弱くし、かつ仏教のすぐれた教えをもってしても人類が現在の程度にしか救済できなかったのではないでしょうか。」


明主様御垂示
「これはそうです。釈迦は・・・釈迦だけでなく、いままでの大宗教家はみんなそうですが・・・力がなかったのです。

それは勿論時期が来なかったからですが、力の根本は霊と体と両方結んだものです。

力という字も縦横が結んでそれが働きを起したことを表わしているのです。

それがこれからの時代なのです。

東西、縦横が結んで力になる、卍というのがそれですが、いままでの観音様も仏教も卍であり、右進左退でした。

ドイツのナチスは黒地にはすっかいの〔逆卍〕で、これは左進右退ではあるが黒地やはすっかいは悪魔の働きを表わしているのです。

これからは左進右退の〔逆卍〕になるのです。」




明主様御垂示 「左進右退の科学的説明」 (昭和24年2月8日)

信者の質問
「左進右退のリズムを科学的に説明する方法はございましょうか。」

明主様御垂示
「科学的というよりも団子などを丸めることを話したらいいでしょう。左から右へやれば丸まるが、右から左では丸まりませんから。」


信者の質問
「それはいままでの夜の世界でもそういたしておりましたが・・・」

明主様御垂示
「左進右退は霊界のことですから現界ではありません。現界ではいままでの夜の世界でも、またこれからの昼の世界でも丸めるためには左進右退が必要なのです。」


信者の質問
「毎日の夜昼でもこのリズムは違うのでしょうか。」

明主様御垂示
「ええ違ってます。日当たりなどは左進右退です。夜になって靄(もや)霧などが多いのは月が霊気を発散するからで、そのときは右進左退です。」




明主様御垂示 「力とは経緯を結んだ左進右退の活動」 (昭和24年6月13日)

信者の質問
「箱根の意義についてお伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「箱根のことは前によく言ったんですがね。・・・

日本は世界の公園になるのがその使命なんです。

そして日本の公園はやはり東西の真ん中にある箱根であり、箱根の公園は強羅で、ここは元日本公園と言ったんですが、その中心がいまの観山亭なんです。

ですから、ここから拡がって行って地上天国ができるんです。

ところで、観音様は経緯を結ばれるんです。

そして私はこの経緯を結ぶためにこの世に生まれて来たんですが、いままではこの経と緯が別々になっていたんです。

だからいままでの宗教には、仏教にしてもキリスト教にしても本当の力がなかった。

ところが、いよいよその本当の力が発揮される時期が来たんです。

だから私がちょっと書いた「光」という字の御守り様に人を救うだけの力がある。(中略)


力という字を見ても判るように、力ってのは経緯を結んで左進右退の活動なんです。

だからまた、東西文明が結ばれることなんです。

観音様が男であり、女であり、またどっちとも言えない中性だっていうのはその意味なんです。

そうすると、箱根から東が関東であり、西が関西ですから、関東と関西を結ぶ真ん中は箱根であり、その中心は神山になるんです。

この上の家を神山荘としたのはその意味であり、神山の前が早雲山でしょ、だからここを早雲寮としたんです。・・・

宝山荘も多摩川を距(へだ)てて、東京と神奈川の境になってるんです。

箱根ってのは、言霊から言うと、「ハ」は開く、火であり、「コ」は凝る、固まる、「ネ」は根本という意味です。

だから結局「火の固まりの本」ということになるんです。

そして箱根は火で熱海は水になり、その火と水が十国峠で結ばれるんです。

十国峠は十カ国が見えるから十国峠というんだって言われますが、本当は経と緯を十に結ぶことなんです。

箱根は夏涼しく、熱海は冬暖いんですが、それが十国峠を通るともう気温が違ってくるんです、神様はまったくうまく作られたもんですよ・・・」




明主様御垂示 「日は求心的、月は遠心的」 (昭和26年9月5日)

信者の質問
「新聞の論説に雄と雌というのが出ており、雄は左を上にして寝るとありましたが、

我々が手を握ります場合(組合わせる)は、拇(おやゆび)を右上のほうが気持ちが良いのですが、中には左上のほうが気持ちが良いと言う人もありますが」


明主様御垂示
「大したことはない。左ぎっちょという・・・あんなようなものです。

すべて、左は男なんです。左が霊です。

だから、言霊(ことたま)から言っても・・・「ヒダリ」「ミギ」でしょう。

「ミ」は体だからね。

「ヒダリ」というのは「タリ」といって「充分」ということですね。

だから、霊がいっぱいだということですね。充実していることです。

「ミギ」の「ギ」というのは、「技」ですね。

だから、仕事には右の腕を使う。

左は、使わずに隠居しているようだが・・・最も、上の人のほうが、あんまり労働しないですからね。

それから、左進右退といって、左が進み右が退くということですね。

一番分かるのは、炭団(たどん)や団子を作るのに、こう(左進右退)する。

こう(右進左退)すると壊れますね。不思議ですね。

理屈は同じですが、こう(左進)やると、ちゃんと丸くなるが、こう(右進)すると壊れる。

右進左退は逆だから壊れる。破壊される。

遠心的です。こう(左進)すると求心的です。

求心的は寄ってくるんです。遠心的は離れるんです。

それで、求心的が「日」の働きなんです。

「日」というのは「ヒク」というんですね。

これは天理教でも言います。

「月」は「ツク」といって遠心的になります。それで破壊される。

争いは「ツキ」「ツク」ですね。

「ヒク」「引き寄せる」これが平和です。

だから言霊と文字だけで解釈しても、ずいぶんいろいろなことが現われている。」




明主様御垂示 「逆卍が本当」 (昭和27年6月1日)

信者の質問
「法隆寺にまいりましたが、中門から左が五重搭、右が金堂になっております。

このように一列の線に並ぶのは、外国にもなく、文献にも遺跡にもございません。

五重搭は舎利搭で、金堂は本尊で、本尊は観音様でございます。

四天王寺式のほうは、お釈迦さんが一番偉いとしてあり、法隆寺式では対等の位置において拝んだ。

従って観音様が一番偉いという考え方から、そういう配置をしたと考えましたのでございますが・・・」

明主様御垂示
「そうじゃない。つまり法隆寺式は門から入って左が五重搭、右が金堂でしょう。

ところが観音さんを生んだのがお釈迦さんなんです。

お釈迦さんが親なんだからね。

それからもう一つは、親子という意味になるとお釈迦さんが上でいいんだ。

ところがこういうことなんです。

本当から言うと五重搭のほうが霊です。

あれは火だからね。火というのは経に高く、横がないんです。

金堂のほうは低くて横がある。水になるんです。

そこで門から入って右のほうに搭を建て、左のほうに金堂をやるのが本当なんです。

ところが仏教というのは逆なんです。体主霊従だからね。

そこで夜の場合は反対にする。

すなわち、入って左に搭を建て、右に金堂を建てたんです。仏教のほうは逆なんだからね。

卍だって、仏教はこういう卍です。

本当の[逆卍]はこういうナチス式の[逆卍]が本当です。それが根本なんです。

それが本当なんだが、仏教の時代にはそれではいけないんです。

本来観音様はお釈迦さんより位が上なんです。

けれども仏の時代にはお釈迦さんが上になる。

例えていえば、天皇陛下を産んだ人は天皇陛下より上になりそうなものだが、やっぱり天皇陛下のほうが上です。」


信者の質問
「救世(ぐせ)観音がございますが、たくさんの観音様の御像は、背面側面に手を入れており、

救世観音は正面だけで横、後ろに手を入れておりませんのは、他のは美術の対象でありますが、

これは美術の対照ではなく拝む対照と考えましたが・・・」

明主様御垂示
「それはそういうわけですね。それが本当です。」




参考 明主様御垂示 「世襲は経で自由は緯」 (昭和24年5月3日)

信者の質問
「光明世界における時所位は世襲的に一定不変のものでしょうか、あるいは、その人の曇りいかんによって変化するものでしょうか。」


明主様御垂示
「これは世襲的でもあり、世襲的でもないんです。

やっぱり働きにより、その働き相当の位を得るんです。

そうかって、だいたいは世襲で行くんです。

つまり世襲であって、しかも変化があるんです。それが本当なんですよ。

「五六七の世」は本当の世の中ですからそうなるんです。

どっちかに決めるっていうのはいけないんです。

経と緯の十文字ですからね。世襲は経で自由は緯です。

だから、差別があって自由があるっていう、それが本当なんです。」