大乗と小乗について 2
明主様御垂示 「大乗はある程度悟りが開けてから」 (昭和23年)
「自力は小乗的信仰で経であり、他力は大乗的で緯である。
どっちも本当ではない。どっちが根本かといえば、それは大乗が根本である。
自力は自分の力であるから、宗教と縁が遠くなる。
本願寺派は六字の称名を唱うればいかなるものも救われるという。
これは悪い事をしなければ救われるという意でなく、悪い事をしても念仏を唱うれば救われるという事になる。
しかし泥棒をしても念仏を唱うれば悪い事が段々出来なくなるというのであろう。
親鸞は「善人尚もて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」という。
これは自暴自棄の者も救われるという訳である。
先に私は、キリスト教会の宣教師が善くない者があるから除名すると言った、これは変だと思った。
善い人間ならそれでいいが、汚れた人間や悪い人間を排斥すれば宗教の意義はなくなる。
悪い人間を善くするのが宗教の使命であろうに、これは変だと思った。
日本は封建的で経しか働かなかった。
小乗でも大乗でもない、伊都能売の働きとなる。
光明如来様がそれで、男でも女でもなく、男で女である。
経でも緯でもある。即観音行である。偏るといけない。
相手により説き方を違えねばならぬ。
であるから、大乗はある程度悟りが開けてからでなくてはいけない。小乗善では反って悪になる。
大乗はすべてを抱擁しなくてはいけない。故に両方の働きをしなくてはならぬ。
日本は東西文明の融合地点であり、それが日本の使命であるといったが、今迄両文明は別々になっていた。
これが結ぶ。これから本当の理想世界が出来る。
別々になると、どっちも悪になる。結ぶと本当に善になる。
その真中が真。真の言霊はスになる。これが大変なものである。」
明主様御垂示 「大乗で進めば必ず発展する」 (昭和25年10月15日発行)
信者の質問
「善悪と時節につきましてお伺い申し上げます。
時を待てという御論文の中に「神も時節に叶わぬぞよ」とございますが、
御布教の上におきまして、私どもが常識的に考えまして正しいことでも時節に合わぬため失敗し、間違ったことでも神様の御都合上、当分順調に行く場合があるように考えられます。
この点、信者としてよほど深く考えて現象を判断して行動せぬと、かつての日本政府に対する国民のごとき悲哀を味わわされることもあるやと思われますが、いかがなものでございましょうか。
また例えば集会所の発展せぬ場合など、なにか自分に間違いがあるからではないかと反省し、間違いを発見して行き詰まりが打開される場合もございますし、
うやむやのうちに打開される場合、いかなる態度でこれに臨むべきか、お教えをお願い申し上げます。」
明主様御垂示
「これは大乗と小乗の相違である。
一言にして言えば、小乗の善は大乗の悪であり、小乗の悪は大乗の善である。
従って、すべて大乗の考えで進めば必ず発展向上する。
大乗小乗については信仰雑話に出ているから、よく読みなさい。」
明主様御垂示 「大乗に悪はない」 (昭和25年11月25日発行)
信者の質問
「御論文に観音信仰は大乗宗教なりとございます。
「光明世界とは善人が栄え悪人の亡びる世界である」とも御教えいただいております。
大乗に則って信仰いたしますと、悪にそまりやすい凡人の常として、審判の時を乗り越えさせていただくべく、
御布教の面と日常生活の両面におきまして、なにを基準に善悪を判断いたすべきでございましょうか。御教えをお願い申し上げます。」
明主様御垂示
「大乗には悪は決してない。
小乗には往々悪があるから注意すべきだ。
ただ大乗は一時的悪に見られやすいだけであるが、結局は善になる。
大乗小乗については、私の著書に随所にあるから、注意してよく見れば会得できるはずである。」
明主様御垂示 「小乗の善によると結果の悪を生じる」 (昭和25年11月25日発行)
信者の質問
「私どもは、初め善いと思って行動したことが、結果において悪を招いてしまうことがしばしばあります。
私どもの行動判断の規準はなにに求むべきでしょうか。」
明主様御垂示
「それは小乗の善だからである。どうしても大乗の善でなくては、結果はよくない。
この大乗小乗の意味は、御神書の随所に書いてあるから充分読みなさい。」
明主様御垂示 「小乗善について」 (昭和26年12月8日)
信者の質問
「キリスト教の、女を見て色情を催したのは、姦淫と同じだ、ということがございますが、その時代はそうだったのでございましょうか」
明主様御垂示
「つまり、キリスト教の中にも大乗と小乗がある。
今の解釈は小乗善なんです。小乗善を説かなければならなかったわけなんですね。
小乗的人間は、やっぱり小乗善を説いてないと、大乗でばかりだと危ないんです。
しかし、思うのはしようがない。
それでなければ神様に苦情言って良い。
ああ、あいつは良い女だ。
ああ・・・という心というのは、神様が作ったので、そんなら神様がそういう想念を作らなければ良い。」
信者の質問
「東洋の道徳はみんな・・・」
明主様御垂示
「全部そうです。」
信者の質問
「将来の教育には、大した役はございませんので・・・」
明主様御垂示
「そうですね。半分の役をする。
だから私が、大乗と小乗で、真ん中が伊都能売だと言うんです。
経だから、緯がないからですね。
一番の大罪は間違った思想・・・間違って教えることです。
殺人行為というのは、一人対一人だからね。」
信者の質問
「天地間に逆らうということが・・・」
明主様御垂示
「そうですよ。しかし、ただそればかりじゃ、漠然として分からないですよ。天地間の・・・と言ってもね。」
信者の質問
「そういう所から、親鸞、日蓮という高僧でも地獄に落ちるということが・・・」
明主様御垂示
「そうですね。小乗善ですね・・・結局ね。」
信者の質問
「医学で、良いとしてやっているのは・・・」
明主様御垂示
「小乗善だからね。あれは小乗善までいかない。
あれは邪神の計画で・・・悪魔の計画です。
私は今書いてます。邪神がやって、人類の生命を掌握している。
人類を弱らせ、それからやる・・・というね。
小乗とか大乗・・・そこまでいってない。悪のほうです。」
明主様御垂示 「大乗と小乗」 (昭和24年10月27日)
親の言うことに従うべき場合と従わざるべき場合
信者の質問
「信仰雑話の大乗と小乗の項に『たまたま自分は目的を立て、それを遂行せんとする場合、親の許を離れなければならないが、親は不賛成をいう。
止むなく一旦親に叛いて家出をし、目的に向って努力し、成功してから親の許に帰れば、親もその光栄に喜ぶは勿論で、大きな親孝行をした事になる』と御座いますが、
観音様の信仰をさせて戴いて、親の反対する場合、前項のごとく大乗的にやってもいいでしょうか。
観音様は常識を欠いてはいけないと言う御教えでありますので、迷っております。
いかが致したら宜敷いでしょうか。御伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「臨機応変で、立派な親なら言う事を聞く。
分らない親の言う事を聞くと子供も良い仕事も出来ぬ。
出来るだけ理解さすようにして、親が困らぬようにして出るのもいい。
自分も親の心配を掛けぬ手段をとってやるべきである。
法律には従わねばならぬが、これにふれなくては良い事が出来ぬ場合もある。
ふれなくては救いが出来ない。
法律にふれたために人が困るならいけないが、それがために人が幸福になるから仕方ない。
戦時中、平和の話をすると法規違反になる。法規に従えば闇米は買えぬ。
これは小乗で、破って闇米を買う。これは大乗である。」
明主様御垂示 「大乗と小乗の使い分けは難しい」 (昭和28年6月1日)
「何でも神様にお任せすればよいということも真理なのですが、
やはり人間はできるだけ努力しなければなりません。
神様にお任せきりで努力も何もしなかったら、これもやっぱりいけません。
だからそこで大局において神様にお任せし、方針はどこまでも努力し一生懸命にやるということも必要なのです。
とにかくそこの使い分けです。
そこで経と緯の両方、大乗と小乗を使い分けるわけです。
大乗がよいからと言っても、小乗がなくてはならないが、ただ小乗のほうが主になってはいけないので、
大乗のほうが主になって、小乗のほうが従にならなけばなりません。
その使い分けに難しい所があり、言うに言われない面白味があります。
いつも言うが、今でも時々暑いと思うと寒い、寒いと思うと暑いので、
一日のうちに二、三度着替えることがありますが、
私はそれが一番よい陽気だと言うのです。
どっちかに決めたら悪い陽気だというのです。」
明主様御垂示 「大乗と小乗の使い分けは難しい」 (昭和28年7月1日)
「東京のあるキリスト教会で、「少しでも間違った人は教会に入れない純真な人を選って教会に入れるということになってる」と、
そこの牧師からそういう話を聞いたので、私は「そういう立派な人間なら教会に入れる必要はないではないか。
悪いのを立派な人間にするのが宗教の仕事ではないか」と言うと、
「それは本当の理屈だが、私のほうはそうなっているのでしょうがない」と言ってましたが、それはたいへん間違ってます。
今までの悪人が跋扈(ばっこ)したひどい世の中では、悪人もやっぱり一つの道具としてあるのです。
それから中にはオワイ屋ゴミ掃除みたいな人間も社会には必要なのです。
ですからそういうのを嫌っているのはしょうがありません。
「悪は悪をもって制する」ということがありまして、警察とか裁判官というのはずいぶん悪いです。
悪人以上のようなのがいますが、しかしやっぱりそれも悪人をやっつけるにはそのくらいでなければ駄目だと思います。
ですから必要悪です。
信仰も大乗信仰と、小乗と中乗があります。
この使い別けがなかなか難しいのです。」
明主様御垂示 「中乗が本当」 (昭和28年7月1日)
信者の質問
「先ほど中乗(ちゅうじょう)というお言葉をいただきましたが、あの後もっと御教えをいただけるのではないかと思いましたが、初めてのお言葉でございますので」
明主様御垂示
「今まで言わなかったが、中乗が本当です。
大乗にあらず小乗にあらず、そうすれば中乗になります。
これが伊都能売(いづのめ)です。」
明主様御垂示 「小さなことにも注意せよ」 (昭和28年11月1日)
「小乗大乗、あるいは大きい心小さな心と言っても、
本当に大きなことをする人間は実に小さなことに気がつかなければならないのです。
大きなことばかり考えて小さなことに気がつかないのは失敗者になります。
大きな考えを持っていても、非常に小さな考えも持っていなければならないのです。
結局小さなことに気がつかなければ大きなこともできないのです。
そこで大乗にあらず小乗にあらずで、一方に偏ってはいけないのです。」
明主様御講話 「献金について」 (昭和27年6月7日)
「それからもう一つは、人からいろんなことを聞きますが、それを正面(まとも)に信ずるということが、これがまた危ないですね。
だからいろんなことを聞いても、なるほど良い、しかしこれは神様の御趣旨に合っているかどうかということをまず考えてみて、
どうも神様の御趣旨に合わない点もあるようだという場合には、御神書を見るんです・・・読むんです。
そうするとたいていなことはどこかにありますから、それで判断をするということにしなければならない。
そういうことで聞違えることがよくありますからね。
最近こういうことがあったですね。
ある信者で、メシヤ教は天国を造るんで、家庭も天国にしなければならない。
そうするとお金は、つまり余ってからあげる。
あげても経済的に差し障りがないだけの金をあげる。
そうすれば金の苦しみがないから、それが本当のやり方だ。
苦しんで金をあげるということは、やはり一つの苦しみを作るのだから、それは神様の御趣旨に合わない。
昔からいう「信心は徳の余り」というわけですね。
それを聞いて、ある信者は感心したんですよ。
それがだんだん広がって・・・苦しんで金をあげるから、
だから家庭が天国にならないんだということにまでなった。
そうするとまた一方神様は今非常にお金が御入用だ。
人間は少しは苦労をしても神様の方にあげなければならない。
という両方の説が対立した。しかしどうも後の説が負けるんですよ。
最初の方が勝っていくんですね。どうもゴタゴタしているので、私が呼んでよく話してやった。
私の話はこういうわけです。最初の、家庭が困らないようにするということも合っている。
確かにそれに違いない。
それから、神様はお金はたくさん必要だから・・・はやく地上天国を造って救わなければならないので、
どんなことをしても金をあげなければならない・・・どんなに苦しんでもあげなければならない、ということも合っている。
両方とも合っているんだ。ただ大乗と小乗だ。
最初の方は小乗的考え方ですね。
後の方は大乗的考え方ですね。
じゃ、後の方は金をあげて苦しむかというと、決して苦しまない。
金をあげてそんな苦しむような神様だったら拝むのを止めたらいい。
だから試しにあげてご覧なさい。
苦しむようにあげてご覧なさい。
十倍になって返ってきます。
苦しむどころじゃない。
たいへんな金にだぶついてくる。
そう言ってやったので、両方とも・・・小乗的の方はよく解って、ついこの間、謝りに来ましたがね。
そういうことがあるんですよ。
ですからそういうことも心得ておかなければならないということを、今話したんですがね。」