ミロクの意味について
明主様御講話 「大光明世界の建設」より (昭和10年2月4日発行)
「(一部のみ引用) 一厘の仕組が千手観音の御働きという事になるので、それについて面白い事がありました。
それはこの間、暮の二十三日に応神堂へ千手観音様をお祭り致しました、その二日目の事であります。
全然知らない人が偶然、一厘銭を持って来てくれたんであります。
その一厘銭は表に千手観音が浮き彫になっていて裏には千手観音と四文字出て居るのであります。
三四十年、古銭などを扱って居ったという道具屋に見せたところ初めて見たというて居りました。
これでみても余程珍らしいものだと思います、それは今申した様に千手観音様は一厘の働きであるという事を神様が小さな事に依って知らされたのだと思います。
この様な不思議は毎日あるのであります。
元来、観音様は御身体が小さくて非常な力が有るのであります。
彼の浅草の観音様が僅か一寸八分でもって十八間四面の御堂に住われ日本で第一の参詣者がある事でも判ると思います。
ここで ついでに申しますが観音様は一寸八分とか、十八間四面とかすべて十八の数でありますが、
これは五六七(ミロク)様が御本体が観音様でありますからです。
ミロクとは五六七と書きます。
五六七を合計すれば十八の数になります。
又 三六十八でもあります。
又 十は神であり、八は寄せると人と云う字になります、
ですから十八は神人という事にもなり又十八は十は結びの形、八は開く形ですから経緯結んで開くという意味にもなります。
一厘の力は小さくても非常な力であります。
いかなる悪魔の力も敵わないのでこの力で始めて全世界の一切が救われるのであります。
今度はこの力を以ってあらゆるものを日本文明に依って支配する事になるのであります。
今、世界を見ますと英米仏等が各殖民地を有し、沢山な国を支配しております。
又 種々の方面や物を征服しております。
霊的に見ますと日本も遂この間までは上下あらゆるものが西洋に支配されていました。
満州事変以前までは実にはなはだしかったのであります、国民の大部分が英国や米国、露西亜(ロシア)等の文物を崇拝し、これを真似んとして一生懸命でありました。
これらを見れば形は日本人であっても精神はスッカリ西洋に支配されて居ったのであります。
ほとんどあらゆるものが西洋に掌握されておったのであります。
それをこれから日本が握りかえすのであります。
千手観音様の御働きによって、そうなるのであります。
吾々はその機関に過ぎないのであります。
しかしこれは絶対の力によってそうなるのであります。
チャンとそう太初から神様が御計画なされて決っているのであります。
その事を吾々は全人類に向って知らせるのであり、世界全体をして東方に眼を向けさせるのであります。
これによって滅ぶべき文明危機に際する人類を観音様に救って頂くのであります。
そして風水火の大三災、飢病戦の小三災を絶無ならしむるのであります。
病貧争のない永遠の平和と栄え尽きざる大光明世界を建設するのであります。
この意味において今日の発会式は何千年来未だ無いところの重大な意義があるのであります。」
明主様御教え 「ミロクの真相」 (昭和10年9月15日発行)
「前項に述べたごとく、阿弥陀が月の弥勒であって、月光菩薩ともいわれ、釈迦は土の弥勒である。
この二大尊者が、その仏法を基本としての、伊都能売大神より委任せられたる、救世的活動は、すでに終りを告げている事である。
釈尊が、仏滅の世を予言せられた事は、今日において瞭(あきら)かになったのである。
日の弥勒たる観音が、二千五百年、秘仏として、隠身的救いを垂れ、阿弥陀釈迦の下位に甘んぜられ給うていたのは、なぜであったのか、それは、夜の世界の期間であったからである。
物的太陽が地球の陰に在って、月に光を与えつつ、黎明期を待たるるのと同一の理である。
故に、今日まで月の阿弥陀が輝いていたのは、夜の世界であったからである。
夜の暗さは、悪の活動に便である事を考えたら、今日までの世界の悪者横行の歴史は解るはずである。
今や黎明が来たのだ。太陽が、日の弥勒が出たのである。万界の暗を照破して、世界は、白昼のごとくならんとするのである。
その光の伝達機関として生れたのが、我観音運動である。
五は火であり、日である。六は水であり、月である。七は土である。
今日まで、七の弥勒たる、釈迦が説いた仏法を主とし、六の弥勒たる阿弥陀を次とし、五の弥勒たる、観音を、最下位としたのは、七六五の逆の順序であった。
釈迦が予言した、五六七(ミロク)の世は、仏滅後となっている。
しからば、その仏滅までが、七六五であって仏滅後が五六七である訳である。
故に、七六五は、五六七の逆である。
即ち、逆さである。言霊学上、釈迦はサカである。
釈迦の名も、この意味から出たのである。
日の国人(くにびと)が土を又月を拝むと言う事は逆である。
東から西を拝むと言う事も、同じ理である。
しかしながら、夜の世界であった期間は致し方がない。
我日の本人が、外国文化を謳歌し、外国の神仏を讃仰したのも、相応の理であって、止むを得なかったのである。
何の断りもなく、時が来れば、太陽は、東天静かに昇って行く、それは、物質的太陽であるから、誰人も見得るのである、が、霊的太陽は、悲しい哉、眼には視る事が出来ない、
しかしながら、時の力は、世界万民に判らせずにはおかない、誰が否定しようが、遮(さえ)ぎろうが、物質の太陽は大空高く、昇ってゆく(ごと)く、霊的太陽の光は日に輝きを増すのである。
何と素晴らしい事ではあろう。何千年間の夜が明けると言うのだ。
ここで、今一つ言わして貰おう、仏教の真髄は真如(しんにょ)であると釈尊が言われた、真如とは、真如の月の事である。
それは、悟りを得た瞬間、心の空は、皎々(こうこう)たる真如の月が照らすごとくだ、と、
しかるに、その真如の月は、今や、有明の月となって、西山に舂(うすづ)き初めたのである。仏教に力が無くなってゆくのはそれなのである。
釈尊は、五六七の世は、五十六億七千万年後だと言ったからとて、呑気に澄ましている仏者がある。
考えてもみるがいい、その時から、僅(わずか)二千五百年経った今日でさえ、これ程の娑婆の変り方である。
何ぞ、五十六億七千万年後などという想像だも出来ない、遠い世を予言をする必要が、どこにあろうか、これこそ全く、五六七の謎を秘められたのである。」 (「病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何?」より)
明主様御垂示 「五六七と檜」 (昭和23年6月13日)
「五六七、六六六、三六九も十八になる。十八は結んで開く。
木は日本の意味。日本は木と火の意。日本の神を祀るのは檜で造る。
檜を擦ると火が出る。昔から、檜は火事などでもとても燃えやすい。」
明主様御垂示 「五六七の語源」 (昭和24年5月23日)
信者の質問
「五六七をもって「ミロク」と読むことは大先生様(註 明主様のこと)が最初でございましょうか。」
明主様御垂示
「いや、これはお釈迦様が最初ですよ。
釈迦が「五十六億七千万年の後に弥勒になる」と言ったんですからね。それからですよ。」
信者の質問
「大先生様が、五六七を火水土というふうに初めておおせられたのでしょうか。」
明主様御垂示
「いえ、大本教で言ったんですよ。私も大本で教わったんです。細かい解釈は私がつけたんですがね。
だから、五六七の数字を火水土としたのは大本で、あとの解釈は私がしたというわけです。」
明主様御垂示 「五六七の語源」 (昭和24年8月)
信者の質問
「五六七の語源について御教えください。」
明主様御垂示
「これは私がもういろいろ書いてますがね。
まあ、重ねて説明すると、五は火、六は水、七は土で、それらの順序正しい世の中を五六七の世というんです。
で、夜の世界では五っていう火が隠してあったんです。
だからいままでは六七五、あるいは七六五だったんですね。
それが昼の世界になるにつれて五六七となるんです。
ちょうど日食のときの順序ですよ。
それで、まあこれは私何遍も言ったことですが、まだ聞いてない人のために言うと、ある日、お釈迦様が非常に憂鬱な顔をしておられた。
そこで阿難尊者が「たいへん御気分がおすぐれにならないようですが、なにかあったのでございましょうか」と訊ねたら、
「いや、私は仏は滅するということを知らされた。私がこう苦心して作った仏法も滅びる時が来るのかと思うとがっかりした」と言ったんです。
それから、法滅尽経を説き、弥勒出現成就経を説いたんで、仏滅後弥勒が下生して世を救う、それは五十六億七千万年後だと説いたんです。
ところが実際として、そんなに長い先を予言するなんてことはないし、本当にそれだけ先のことを予言するのだったら頭がどうかしてる人ですよ。
予言というものは数千年より上は無駄なんです。だからキリストが二千年後に再臨すると予言したのはちょうどいい・・・
ちょうどいいって言っちゃおかしいが、ま、人間が覚えてられるんですね。
だから、五十六億七千万年っていうのも数字を表わすためにそう造ったんだと思いますがね。
また、本当のことを言うのは具合が悪いんですよ、やはり「釈迦に提婆」で、悪魔が始終邪魔しよう邪魔しようとしてますからね。
実際、お釈迦だけじゃなくて、私にも提婆がいろんな手段で邪魔してますよ。
昨日なんかもやって来ましたがね。こんなのは何十年もやってるんですが、年々悪魔の力は弱まりつつあるんです。
以前にはそうとうやられたもんですが、年々神様の力が強くなってきたので、
今度も悪魔はそうとう大規模にやったけど、こっちにはいっこう影響がなかったんです。
現に、この間の晩(4月19日)は「社会悪は宗教によって根絶できるか」っていう街頭録音がAKから全国に放送されましたね。
あれは肝心な所は抜かれてるんですよ。
本当は観音教団のいい宣伝になっていたんですが、放送局のほうで観音教団の宣伝になってる所をみんな抜いてしまったんですよ。
悪魔が放送局に働いたんですね。
こんなふうに始終いろんなことで邪魔してますが、まあ、もうたいして長いことはないから、いまのうちにいい気持ちにさしてやればいいんですよ。(笑声)・・・」
大日本健康協会発会式 明主様御講話 (昭和11年5月15日)
「三六五日ということについてお話するが、一年は三六五日、何分何秒ということになっているが、
三六五日と定ってるところに非常に神秘がある。
今度できる光明世界の一つの暗示になっている。
三六五日だから、三・六・五、すなわち三六、ミロク、五は五大州、日は統一ゆえ、ミロクの前に五大州が統一さるることとなる。
三六は三六九を差す。本当書くと三六九と書くのが本当である。
三六九は合計十八となる。三六も十八となる。六を三つでも十八である。
三を二倍して六、三倍して九、三を三つ重ねる意味にもなる。
だから、結婚のときの三三九度もそういうことから出てる。
中国人の礼拝は三拝九拝という。
また、五六七も合わせれば十八になる。
昔から観音様の御命日は十八日になっている。
観音様のお堂は十八間四面になっている。
一寸八分ということもみなそういうわけで、ミロクということは完成世界の姿で、これは観音講座でお話したが、すべてが三段になる。
いままでは二段の世界で、一段足りなかった。
故に、今度はこれが三段になる、今度は二段が三段になる。
これからできる世界が三三ガ九。
いままでは二二ンガ四・・・ニシである。
故に、いままでは二千世界だった。
二が、西が支配したのはそういう意味からでもある。決して偶然ではない。
よく神道によっては二つずつ手を叩く、それはやはりそういう意味である。
観音会は三つ叩く、故に、今度は一段殖えるわけである。
その一段殖えるのが日本文化が加わることになる。
今日までの文化は月と地で、今度日が出て日が加わる。
日すなわち日本である。
いままでは日が下で地が上になっていた。
地がアジア諸民族、アフリカの原住民など、白人は月の系統の人種だから、いままでは月の文化と土の文化だった。
キリスト教は月の宗教だった。いままでは月と地だった。
数からいうと、月は六、地は七ゆえ、六と七であり、月と地・・・その上に日が乗るのである。
日は五である。それで五六七となる。
五六七をミロクともいう、すなわち完成世界である。
釈迦は五十六億七千万年と言った。
五六七とすると、あまりはっきりするから、十と億を入れたのである。
これはあまりはっきりしたのでは、経綸ができなかったのである。
それで、ミロク神とか、ミロク仏とか・・・そういうものが出るんでない。
ミロク菩薩は釈尊のときに出た。
で、ミロク完成世界の形は三三三となる。
も一つの意味は月の数は三五の月といって、三五の数である。
その三五へ日が一つ加わる、それで三六となる。
いま、まだ時期が早いから、その神秘はとけない。
もう一つ、三年ほど前の昭和八年、十五日と二十日の日に月が金星と土星を呑んだことがある。
これは、ミロクに関して神秘がある。あの日の月は四日月である。
三五の月は三日月をさすので、月そのものは三五で、月の一番照ってる(張ってる)のが、三五の十五の満月で、その三五の月へ四日月ゆえ三加わる。
一つ加わると日月ということになるのであって、金星と土星ということは、あらゆる物質ということになる。
この翌年に皇太子殿下お生まれになり、その御名には日月がついた明仁となった。
これにはよほど関係があると思う。
ミロクということは、だいたいそういう意味があります。」
明主様御講話 五六七教会小田原別院において (昭和23年)
「今日は五六七ということになっているが、その意味を話す。
箱根は五、熱海は六、小田原が七ということになってるから、どうしても、小田原にも本部ができなくてはならない。
そして順序であるから、箱根から先にでき、次に熱海、小田原の順序になるのであるが、その小田原にできる、
今日は第一歩と思うのである。
小田原は七になるから一番大きいものができる。
箱根が小、熱海が中、小田原は大で、これは神様が前から決めてやっているので、時期になるとちゃんとできるので、
人間が計画を立てる必要もないから、非常に楽なんであります。
強羅というのは言葉で解釈すると、五が火、ラは螺旋、渦巻で、火が渦巻になって拡がることである。
熱海のアタは、天ということ、アタマとかタカアマハラとか、ア行は天の行である。タカアマハラはみなア行である。
天 中界 地
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ア イウエ オ
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火 中 水
になる。言霊というものはそういうもので、その働きをする。いずれ言霊という一種の学問にする。
「ミ」 これは水であるから、熱海は天の水という言霊である。
小田原は、田は○に十、すべての中心、十は経緯結ぶ、箱根は経、熱海は緯、山は火、火をふく、海は緯である。
経緯結んで十になる。
原は広い平らなこと、人間でも腹というと広い平らな所である。
すると、○に十の字の広い所の小さい型ということになる。
原はまた土であるから、それで火水土となるのである。
今度は土の時期が来るのである。
私の仕事を始めたのは昭和三年で、三年から三年間が神界の経綸である。
六年目の昭和九年に、民間治療として麹町へ店開きした。それまでは大森にいた。
九年から十五年までは治療をした。
初めは宗教的にやろうとして大日本観音会をやった。
そして昭和九年の十月、不思議なことがあった。
観音会を始めたら宗教弾圧があり、当局では戦争準備として思想方面を取り締り始めた。
まず一番初めに、共産党を弾圧し、次に宗教に及び、新宗教、類似宗教と無差別的に弾圧し、それに引っ掛かってやめることとなった。
であるから元々宗教であった。そして九年から十五年までの六年間で民間療法の土台を築いた。
そして十五年にやめた。十六年から準備工作し、二十一年までの六年間で基礎工事ができた。
そして二十二年から家ならば本当の土台ができ、建前ができ、土台をつくことになった。
ところが疥癬でイキナリ苦しみイキナリ治った。これからが本当の仕事になる。
神幽現(六年、六年、六年)幽界は八衢(やちまた)、仏界になる。六年、六年、六年でちょうど十八年間になる。
幽界の経綸の時は非常に苦しんだ。
豚箱へは三度入った。最初は十一日間いた。警察ではイキナリ調べてもなんにもない。
「こういう宗教を調べると必ず婦人問題があるものだがない。あっても解らぬのかもしれぬが、まったく不思議だ」と言っていた。
結局、大山鳴動して鼠一匹に終わった。それから借金で非常に苦しかった。
それで十六年からズーッと楽になった。
このようにすべて決まっている。
前の仕事をすっかりやめて、専心神業に進んだのは昭和三年節分である。節分は意味があるが・・・
十八年はミロクである。ミロクは、五六七が本当のミロクの数で、バッジはその意味である。
赤は火○、青は水○、○十の字は小田原の田の字となる。
これから本当に力が出る。力は経緯結んで左進右返する字。
逆卍は力を四つ合わす字、仏教は右卍であるが、これは月であるからで、月は物質である。
ヒトラーは左 逆卍でいいが悪で行った。
黒は悪魔の色である。
夢などで黒い人間の形をしたものがイジメたりなどする。
黒いのは邪神である。
鉤十字 ナチスのは斜カケになってる。これは本当でない。
紅卍は紅い卍、先に観音会のは金逆卍をつけた。
金逆卍会を造ろうとして、弾圧されてやめた。
力というものは、チは霊、カラはカラダ、外殻、カラッポウということ、死人はナキガラという。
故にカラは体、霊は経、それで人間は肉体と霊とで活動することができる。
ヒトは、霊(ひ)が止まる。言葉でも文字でも、神様が造ったものである。
言葉は一つの鍵である。鍵で開けるのである。
は五 つなぐと大の字になり、大は人間の形、
六は
獣の形である。
七は、ナナで、ナル、土を略すと七になる。
キリスト教では、七日間で天地ができたという。
それで七日目に日曜を造った。ナルとか、まとまるということ。
五六七は火水土となる。
八はヒラク、数がたくさんということ、八百万(やおよろず)などと言って、たくさんということは八で表わす。
観音様の御本体は一寸八分が本当で、お堂は十八間四面で、毎月の命日は十八日で、経緯結んで開くのが観音様のお働きである。
であるから、これからは本当の観音様のお働きになる。
これについて本が出るから読まれよ。
観音様は鉱物でいうと金になる。
浅草の観音様の御本体は、金無垢の一寸八分であった。
いまは中途でなくなった。
昔は浅草町長昌寺に安置してあって、一年に一遍御開帳があったが、
長昌寺の坊さんが道楽で、いろいろなものを売り、質に入れた。私の曾祖父は質屋をしていた。
武蔵屋喜左衛門といって、近隣では有名であった。
そこへ観音様が来た。養子は人がよく、すっかり財産を潰し御本体を手放したと、私の乳母が話したことがあり、そういう因縁がある。
金は日本で、日本は黄金の国という、観音様は日本の仏、阿弥陀、釈迦は髪が縮れている。
大仏様は唐金で、観音様はお堂の中へお鎮めするのが本当で、外へ雨曝しにするのは嘘である。」
五六七教会発会式 明主様御言葉 (昭和23年11月1日)
「今度、いままでの観音教団から別れて五六七教会というものができたんであるが、名称は異っても内容は同じものである。
ただ観音様はだんだん進むに従って光明如来様になり、弥勒になられる。
ミロクというと・・・。
弥勒菩薩というのは釈迦の弟子にあった。
ミロクという名となると、神様になる。日月地大御神・・・。
そういう時期が来たんで、今度五六七会が誕生したわけである。
いろいろ神秘があるが、だんだん分かるようにする考えである。
弥勒は五六七、日月地、火水土・・・三位一体。
いままでの宗教でも他のものでも、二つの働きだった。
火と水の力というのが光で、光とか、光明如来というのは光の力である。
それへ土の力が加わらねば、本当に絶対力は出ない。
例えば、いままで観音様をお願いして、御利益はあるが薄かった。
痛い、苦しい、治してくださいと言うても、さて、すぐに治らぬ。
それよりは、浄霊すればすぐ治る。それは土の力が加わる。
土は人間の肉体力で、火は霊、水は体だが、液体で固体でない、漿液で、人間の体は七割が水としてある。
後三割が固体の肉である。故に人間の身体は火水土でできている。
死ねば霊は霊界へ、水分は急に蒸発するようなもので、水蒸気になって発散する。
亡骸(なきがら)は土に還元する。故に肉体は土とみてよい。
火と水と肉体を通して初めて力が出るのであるから利益がある。
故に五六七となると、あらゆるものに対する力が強くなる。
それであらゆるものができる。
今日まで、善悪として、悪の力が勝っていた、ある期間勝っていた。
そこで悪人や悪事が絶えない。いずれは知れるが、それまでの期間が長い。
それで一代悪いことをし通してすんでる人もたまにはある。
中には三十年、五十年経った後で分かる人もあって、悪いことと栄華をしている。
そこで俺も悪いことをして出世しようと思う。
それは邪神の霊が勝つから・・・
世界でも主義、何々主義というが、それによっても人類は幸福にならぬ。
いっぽうが苦しみいっぽうが良くなる。そういう主義によって苦しんだ。
悪がはびこって善いほう正直者が馬鹿をみるという言葉が出る。
原因は悪の発見が遅いということである。
悪の力が強く善の力が負けていた。
簡単に言えばそういうわけになる。
五六七という力は、非常に正しい善の力が強くなる。
ということは、悪の発覚が早くなる。
早くなれば悪いことをする者がなくなる。
今日悪をして明日見つかったんでは、悪いことはできない。
悪の勢力をうつのが根本である。悪のはびこるのは悪の暴露が遅いことになる。
いま、こういう教団があって、いい教えであると説くと、結構だと言いながらすぐに入ってこない。
周囲の者などは、そんな馬鹿なことがあるかという。
事実を見て感心してもそんな馬鹿なことはないという。
その人に憑った霊が囁(ささや)くための一時的の神経作用だと思う。
であるから、判ってて判らぬ人がたくさんある。
邪神界の霊がその人に憑ってる副霊に命令するようなものである。
善いことが判っていて躊躇するんで障りがある。
こんないいことを一遍に入るのが本当だと思うことが先によくあったが、
それではこちらの準備もできてないことと、いままでの霊界における火素の足らぬため、闇が多かったというため、障りがある。
五六七の力は非常な力で、そういう邪魔など、ドンドン排除する働きが起る。
そういう力でないと人類は幸福になれぬ。
文化が進歩した進歩したと言いながら、世界中苦しみきっている。
敗戦国日本の苦しみはありながらも、ヨーロッパに比べるとズッといいというのであるから、いかに人類は苦悩に喘いでいるかが判る。
われわれの目的は一階級、一民族の救いではない。
世界が苦しんでる、それをも救うべく、大いに五六七の力を発揮して、善い世界を造らなければならぬ。
祝詞にも、「国と国との境無く」とあるのはその予言である。
アメリカでは世界国家と言うが、その時期が近づいたのである。
それは悪の発見が早くなることである。
どういう世界かと言うと、二千年もかかって文化を築いたが、ともすれば悪が勝った。
二千年かかってこれだけ発展したが、今度は邪魔物がなくなる。
いままでは戦争準備に国力の大半を使った。国家の半分以上は軍備をした。そういう無駄がなくなる。
軍備に国力の大半を費やしたのを、善い物すべて平和的なことに使うこととなるから、非常に躍進が早い。
昼の世界になると、いままで千年かかったものが、百年でできる(今年、百年間の進歩の状態を書いた)。
政治、教育、経済など、あらゆるものが大いに変わる。
(いままで、未来記などあるが、突拍子もないことが多いが、いまの文化を踏み台として、確実性ある予想と進歩を描いた理想世界がそれが)
なぜ実現するかと言うと、悪が非常に少なくなる。
昼間の世界になるから、悪の発覚が早くなる。
霊界が明るくなり、秘密など少なくなるからである。
それかあらぬか、非常に暗闇のことが暴露された。
そして総理までも危ないほどだ。
罪悪が減ると、裁判や警察署など少なくなる。法律が減る。いま、法律の殖えるのを自慢にしているが、今日の議会は立法府である。それが廃法府になる。法律は非常に減る。
中国のある時代には法三章と言った。聖徳太子のころは十七条しかなかったが、それで秩序が保たれたので、それはあり得べからざることではなくできるわけである。
まったくいまは暗のドン詰まりである。その時代になると、刑罰は監獄や懲役でなく、汽車や船などの火夫がそれになる。
食糧は非常に増産となる。いまは八時間労働としているが、軍備のために四時間費やしている。
食糧も人間一人につき、年一石穫れるように造られている。
穫れないのは間違ったことをしている。
稲はできたときは、五粒から六粒しかできなかった。
粒多く、分稟が多くなればよい。
しかし無肥料の稲は折れぬから、いくら粒がなっても大丈夫である。
三六九は、宇宙あらゆるものの原則である。
産業利潤も三分するから、税金をとる要はない。
五六七会の誕生は、こういう理想世界を造る第一歩であると思う。」
明主様御講話 「現界の経綸は三六九」 (昭和29年3月27日)
「だいたい秋に完成のつもりでしたが、どうも秋では具合が悪いので、
神様の方では延ばして、来年の三月三日ということになりました。
三十年三月三日で、三、三、三というわけです。
ところがおもしろいのは、最初からそういうふうになっていれば、ああいう建築にしろ、大きいなにかを人間がやる場合には、
日を限ると、どうもそれに間に合わせればよいというので、いくら前から日限があっても、抜ける癖があるのです。
そうして日限間近になってからあわてるというので、これはだれでも知っているでしょうが、決まったようなものです。
そこで神様は、今度で二度延びましたが、そのために建築屋のほうは秋に間に合わせようというので、そうとう急ってました。
そうすると、ここでパッと延びると、今度はまたていねいにやるからして、こういうふうに延びたということは、品物をよくこしらえるという点においてよいのです。
ですから、その点神様はうまいなと思いました。
それで、三十年三月三日ということは、その数字に非常に意味があるのです。
今までのミロクというのは五六七の数字でした。
これは火水土です。これは根本的の条件です。
ところが現界の経綸は三六九、つまり三が三つ重なるという、こういうことになるのです。
これは前から決まっているのです。そういうことも私の方で書いてありますが、まだ時期の関係で発表しなかっただけです。
それで三六九になるのです。ですから社会も三階級になるのです。
上流階級、中流派階級、下流階級です。
勿論階級制度もそういうふうになるし、それからあらゆるものが三になるのです。
これは以前も話したことがありますが、各産業の経営も、資本家、技術者、労働者と、三つになるとか、
あるいは学校も、小学、中学、大学で、小学三年、中学三年、大学三年というように、やはり三六九になるのです。
ですからふつうは、義務教育は小学三年、中学三年の六年ですむわけです。
その他に特殊の目的で大学三年とゆき、やはり三六九になるのです。
あらゆるものがそういうふうになるのです。
そこで三六九は現界の経綸になるのです。
最初は二十九年十一月を予定していたのですが、それでは数字がぜんぜん合わないので、そこで三、三、三と、こうなったわけです。
来年の三月までに会館はできあがるし、それから水晶殿もできあがるつもりです。
これは確実に思ってよいです。
延びたということが、そういった建築とか、また庭にいろいろな木を植えたりする、そういう点においても、万事に非常に具合がよかったのです。」
明主様御講話 「釈迦は七の数字で支配される人」 (昭和29年4月7日)
「もう一つおもしろい、ちょっとしたなにがあるのですが、この間ハワイで英語教修をした時に、聞き手が四十人ばかりあって、その時に外人は十人ばかりだそうですが、
その中で最近信者になった、アメリカの人で、ちょっとおもしろいことを言ったのを書いてありますから、読ませます。樋口さんの報告の中にある一節です。
(ハワイ通信 十八)
今の「世界を救う聖者が八人目に出る」ということは、伝説にあるのです。
仏教のほうでは釈迦が八人目だということになっているのですが、それは仏教に都合のよいように作ったものです。
釈迦は「八」ということはないのです。釈迦は「七」で、七人目なのです。
というのは五六七のミロクとして、釈迦が七のミロクになるのです。
釈迦はどこまでも「七」の数字で支配される人です。
だからつまり「地」は「七」ですからして、地のミロクです。
私は伊都能売ですから「八」になるのです。
伊都能売というのは、数でいうと「五」「三」ですから「八」になるのです。
そして「八」という数字は富士山になるわけです。
ですから「八」という数字を書くと、富士山の形になります。
それで私は大和民族の宗家になるのですが、大和民族というのは、今の駿河の付近が発祥地なのです(本当は富士山の上なのですが)。富士山の麓なのです。
だから昔は富士山が本当の神様の山として、あそこの上にいまでも木の花咲爺姫が祀ってありますが、そういった意味で、私は富士山と非常に因縁があるのです。
それで静岡の裁判であっちの留置所に入ったときに大きな神秘なことがあったということも、そういう因縁なのです。
そうしてあのときも話したとおり、夢で、私が富士山に乗っかって景色を見るという話もしましたが、その時が私が生まれた、第二の誕生です。
そこで、出てから「散花結実」ということを言いましたが、花が散って実を結ぶで、「散花結実」ということは種が宿ったということです。
それから私の力とかいろんな、そういうことが違ってしまったわけです。
それからが本当に開けたわけです。ですからあの時にメシヤ教というものはすっかり壊れてしまったわけです。
もうこれで駄目だというくらいに見えたのですが、それが花が散るという形です。
それはその当時よく話しましたが、そういうようなわけで、今の八人目ということも合っているのです。」
明主様御教え 「奇蹟!奇蹟!」 (昭和24年5月25日発行)
「吾々は常に奇蹟には恵まれ通しで、知らず知らず麻痺状態になっている。
ところが今回吾々といえども撞着せざるを得ないような奇蹟が起った事を報告しよう。
それは三月五、六、七の三日間小田原市五六七教会本部において春季大祭がとり行われた時の事である。
その折りの参拝者二千五百有余名が神前へ捧呈した金額が合計五捨六万七千五拾円也であったのは、流石(さすが)に一同驚かすにはおられなかった。
五六七の下へ五十という数字は五は火であり、出ずるであり世の中へ出て燎原(りょうげん)の火のごとく燃えるという意であろう。
十は経緯結んで神となる文字である。
どう考えても奇蹟としか受取れない。
二千数百人が捧げる一人一人の誠は神様が命令されたとしか思われない。
それでなくては余りに偶然すぎ、実に神威赫々たる時となった事は一点の疑いない事と信ずるのである。
次は今一つの奇蹟であるが、それは本月月初め浅井会長から熱海教務所へ丈三尺六寸、白鳳時代の作と思われる木彫聖観世音菩薩の御尊像を献上された事についてである。
実に見事な彫像で国宝的のものである。
ところが、その運んだ自動車が静岡五六七の番号であった事は、見た人いずれも唖然としたのである。
しかもその時の自動車代は千八百円だったという事である。」
明主様御教え 「又しても奇蹟」 (昭和25年4月8日発行)
「去る三月二十五日は、五六七(みろく)大教会年次大祭の三回目の初日であったが、
当日の参拝者五百六十七人という数字が出たので、これを知って驚かぬ者はなかった、
神様は時々想いもつかない奇蹟を御見せ下さるので、
いかなる事でも自由自在な御力を揮わせられるのが分るので実に驚歎の外ないのである、
かような素晴しい神様の下僕たる吾らの多幸を思う時、感激せざるを得ないのである。
忘れもしない、昨年の五六七大祭三日間の玉串料五拾六万七千五拾円という数字が出たので、一驚を喫したのである。
由来、数字というものの働きはまことに軽視出来ないものがある事は、信者はよく知っている事であろう、
ついでだからメシヤの言霊を数字的に解釈してみるが
メシヤのメとはムで六である、シは四で、ヤは八であるから、合計十八になる、
十八は五六七、三六九とどちらも合計十八で、観音様の一寸八分も同様である。」
明主様御教え 「六韜三略の巻」 (昭和26年8月29日発行)
「昔から六韜三略(りくとうさんりゃく)の巻という言葉があるが、これには非常に神秘があって、この謎を解く人は今までなかったようである、
これを私からいえば、よく絵や彫刻にある観音様の御手に持たれている巻物に当る訳で、
これを持経観音の御名で古くから伝えられているが、
実は御経ではなく右のごとき神秘貴重なものである、
何となれば御経のかいた巻物などは、昔からどこにもあるのでそのように人間の手に持たれるようなものを、観音様とも云われる尊い御方が手にされるはずのない事は判りきった話である、
これは全く、仏滅後ミロクの世を御造りになる大経綸の、深い仕組をかかれたものに違いなく、
その文字はミロクの神様の御神示をかかれたものであって、
これこそ私が現在実行しつつある、多種多様の神業のプログラムで、私が見真実になった時、すでに明されたものである。
それについて、まず文字の意味からかいてみるが六踏(中国では六韜とかくが、この意味は六つの兵法という事になっているが、
私は特に踏の字を用いたのである)とは六合(りくごう)の意味も含まれているが
それは別として、ここでは分り易く示してみれば、
六の文字はいつもいう通り月であり、水であり、五六七(みろく)の真中であって、
ちょうど現在の世界、つまり夜の世界で、これを踏んで立つという意味である、
三略とは三つの計略ではなく、三つの経綸である。
すなわち五・六・七、三・六・九、上・中・下、経(たて)・緯(よこ)・伊都能売(いづのめ)という訳である。
この事について、私は面白い事をかいてみるが、
歌舞伎劇中の九代目団十郎の当り狂言であった歌舞伎十八番の中の、菊畑(きくばたけ)一名鬼一法眼(きいちほうげん)三略の巻というのがある、
これは有名だから大抵の人は知っているであろうが、まだ見ない人のためにザットかいてみよう、
彼の鬼界ケ島へ流された源家の重将俊寛が、島を脱出して窃かに京に上り、身を変じて軍略の指南をしていたところ、
相当世に認められるようになったので、平家から招かれ、今でいう参謀格となって仕えていたのである、
ところがたまたま牛若丸が虎蔵という偽名を使って奉公に入り込み、軍略を教わりながら豆々しく働いていた、
その時牛若丸は一人の智恵内という家来を連れ、智恵内を下男とならせ共に仕えていたが、
鬼一法眼に一人の息女があった、名を皆鶴姫といい、どちらも美貌であったからでもあろう、
御定まりの恋仲になってしまったのである、
そこで牛若丸はかねての熱望していた六踏三略の巻が、法眼の家の土蔵の中に隠されてあるのを知り、皆鶴姫にむかって盗み出すよう頼んだところ、
何しろ恋しい男の切なる希望とて、喜んで窃かに土蔵の中から持出して、牛若丸に渡したのである。
ところがこれには深い意味があったのだ、
それは元々鬼一法眼には深い思慮があった事とて、虎蔵の行動を知りながら見て見ぬ振りして、ワザと盗み出さしたのであった、
というのは法眼の腹の中は、どこまでも源家再興にあったからである、
という訳でこの法眼の深い心持を、団十郎の腹芸的所作でやったのだから、何ともいえない深みのある至芸で今なお私の頭に残っている、
劇の内容はそれだけであるが、これを宗教的にみると、仲々神秘が潜んでいるので、それを今かいてみるが、
私がいつもいう通り、義経は観音様の化身であったのである、以前私のかいた中に、艮の金神、国常立尊という神様が神代の時御隠退せられ、
霊界においては閻魔大王となり、現界においては観世音菩薩と化現され、慈悲を垂れ給い、一切衆生を救われたのである、
そういう訳で牛若丸の虎蔵とはすなわち艮で金神様の御名を秘されたものである、
そうして鬼一法眼は伊邪那岐(いざなぎの)尊の御役をされたのである、
鬼は岐であり、一は神の意味であるからである、
これについて以前私は義経に生まれ変ったのだと話した事があるが右の意味にも表われているであろう、
従って今日といえども伊邪那岐尊様から随分色々な事に御援けを蒙っているのでこれについての面白い話もあるが、いずれ機を見てかく事とする。」
明主様御垂示 「家紋の起源、松竹梅の意義」
信者の質問
「家紋の起縁について、また天神様の御定紋は梅鉢ですが観音様と御関係がありましょうか。」
明主様御垂示
「これも相当古い時代からある。
中古戦国時代の必要から起きたもので、その時代は系統や階級制度がやかましかった。
それらを紋によって表わした。戦の時の旗印などから起ったものと思う。
この戦国の旗印が一番最初と思う。
敵味方ともその旗印で判別し、また名誉の代表ともした。
徳川の葵の紋、豊臣の千成瓢箪、真田の六文銭これが起源である。
菅原道真と観音様とは関係ないが梅は兄の花である。
梅の紋は相通じている。兄の花・・・梅、木の花(姫)桜、観音様のお働きの上に意味がある。梅は五弁で五となる。
松竹梅は六七五・・・ミロクとなる。
故に梅はミロクの一番上である。火の働きになる。
観音様が火の働きをせられる時は、梅即ち兄の花、仏の働きになる時は木の花になる。」
明主様御垂示 「三月三日、五月五日の節句の意味」 (昭和24年2月18日)
信者の質問
「三月三日、五月五日のお節句の意味についてお伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「数から言うと五が男、三が女です。
五は火、三は水ですから、三月三日が女、五月五日は男になったのです。
だから「伊都能売」は五と三と書いてもいいのです、イヅは火、ミズは水ですから。
三五というと火が下になるから五三が本当です。」
信者の質問
「七五三などはいかがでしょうか。」
明主様御垂示
「七は土ですからこれは嘘ですね。七五三ではなく、五六七が本当です。」
明主様御垂示 「七五三はお祝いしなくていい」 (昭和24年6月7日発行)
信者の質問
「七五三のお祝と申しまして、子供を連れてお宮詣りをいたしますが、いかなるわけでございましょうか。」
明主様の御垂示
「本当の神様を締め出して、次の神様をお祀りしているのであります。
五、六、七が本当で、いままでは夜の世界であったため、
逆に七、五、三などのお祝いをしているのであります。
節分の福は内、鬼は外と言うのと同じことで、お祝いしなくてもよろしい。」
明主様御垂示 「七五三は本当の神様を締め出す意味」 (昭和24年4月20日発行)
信者の質問
「七五三のお宮詣りの意味を御教えくださいませ。」
明主様御垂示
「本当の意味から言えば間違いで「シメ」と読むわけで、本当の神を締め出して、次の神を迎え祝う意味が伏在している。
七=土、五=火、三=水となり、いままでは夜の世界だから順序を間違っていたとも言えるが、習慣上行なわれていることで、あまりとやかく言うべきことではない。」
明主様御垂示 「しめ縄は国常立尊を押し込めた意味」 (昭和24年5月25日発行)
「(正月についての御垂示) 松竹梅のおかざりは、松は六、竹は七、梅が五で、五六七になる。
故に本当は梅松竹と書くべきだが、松は一番位があるので松竹梅としたもので、やはりミロクという芽出度いことの予言でもある。
飾り七五三(しめ)縄の由来は、神代に国常立尊を艮(うしとら)へ押し込め、その系統の神々をも押し込め、ふたたびこの世に出られぬようにという意味でシメを張ったものだということになっている。
その他柊(ひいらぎ)はトゲトゲしているから悪魔除けの意味。
ぞう煮は尊の臓腑を煮て食うという意味で、小豆粥は血と筋を食う意味、また煎豆を撒くが、これは煎豆に花が咲いたら出よということなどで鬼門を非常に恐れた。
昔から良いことを反対に解したことはたくさんある。」