日本人の島国根性について 2
明主様御講話 「日本人の封建性」 (昭和29年1月2日)
「メシヤ教の方はいよいよ大いに世界的に認められるという時期が非常に近寄ってきているのです。
というのは、熱海の地上天国は会館と水晶殿はこの秋にできます。
そうして美術館の方は来年秋になりましょうが、来年はぜひできるつもりです。
そうするとだいたい完成することになります。
しかしそれでおしまいではないのです。熱海の方も、後まだまだだいぶ広くなりそうです。
なにしろ神様の計画はドエラク大きいのです。奥が知れないと言ってもよいくらいです。
そうすると熱海の地上天国というものは、日本は勿論そうですが、世界的にも大きな話題になると思います。おそらくまず世界始まって以来ないものなのです。
それでこの間のアメリカの人・・・婦人ですが、ニホン・タイムスの記者で美術評論家でそうとう有名だそうです。
その人が世界的の美術館を見て歩いて、イタリアのヴァチカン、フランスのルーヴル、それと箱根美術館を見た感じが、ちょうど同じだ、その他の美術館は大きいばかりで、一種の美に打たれると言うか、なんとも言われない気持ちはない。
世界でこの三つだと言うのです。そしてもう一つの箱根美術館の特長は、美術品を見て、遠くを見れば自然の山々が見える。
これは世界の美術館で他にはない。また庭園の人工の美を合わせてあるということは特殊な美術館だ、ということを言ってました。
その時は夫人のみだったのですが、その後主人公と一緒に来ました。
箱根はしまっていたので熱海だけを見せましたが、主人が言うには、熱海の地上天国のことを書こうと思ってきたが書けない。
だから自分は実地に見ろということを書くつもりだ。批評ということはとてもできないと言うのです。
それほど雄大な、アッとするようなもので、たいしたものなのです。
この間も言ったとおり、日本の西は奈良、京都という文化都市で、それから東は箱根、熱海の地上天国ができてからの文化都市と同じ意味だということを言ってました。
そういう意味で、だいたいアメリカに大いに紹介するということを言ってました。
奥さんはニホン・タイムスの社員で、主人公はNHKの英語放送を担任している人です。
それから「NHKの会長の古垣という人はここに来ましたか、どうですか。
来ないのはどうもけしからん。これだけのものを紹介しないということはない、行って話しましょう」と言ってましたが、話したそうです。
会長は「今度ぜひ見に行く」と言っていたそうですから、いずれ来るでしょう。
それから「外務大臣はどうですか」と言うから、「外務大臣はまるっきりそういうことはありません」と言うと
「これだけのことをして、将来たいしたものをしている。それを外務大臣が知らないということは実に不思議だ」と言ってましたが、実際アメリカのああいった人はすばらしいものです。ですから私とよく話が合うのです。
ところが日本の新聞記者ときたらぜんぜん違うのです。
それで、その人が「日本の新聞記者はどうだ」と言うから、「日本の新聞記者はここを見て、メシヤ教のやつはなかなか金儲けがうまいなと考えるくらいだ」と言ったのです。
それで、金儲けがうまいというその奥は、とにかく戦後の人心の混乱にうまく乗じて、迷信を巧みに押し売りして金をあげさせるというその手腕は実にたいしたものだという、そういう感心の仕方です。
「アメリカのあなた方は、これだけの丸いものとしたら、大きな目をもって見るが、日本のジャーナリストは小さな目で見るから、部分的にしか見えないので正確な批判はできないのだ」と言ったのです。
その点においてジャーナリストに限らず、日本の多くの人は、まだまだ島国根性と言いますか、封建性が残っていると言いますか、見方が小乗的で小さいのです。
これが今もって分かるのは、忠臣蔵を芝居でもラジオでもやってますが、十二月十四日が討入りの日ですから特にやってましたが、それは聞いたり見たりする人が多いからです。
そうすると日本人の思想がだいたい分かるわけです。
私はお祭りの余興のときにも、すべて忠臣蔵をやってはいけないと言ってますが、あのくらい間違っていることはないです。
話は横道にゆきましたが、とにかく四十七人の人間が一生涯の生命を犠牲にして仇討ちをやるのですが、そうすると、それを非常に讃美するのです。
あの時代ならそれでよいかもしれませんが、今そういうことが行なわれるとしたら、いったい人間はなんのために生まれてきたかということです。
そうしたからといって、国民や社会に幸福のためにどれだけ役にたつかということです。
それで日本人の思想の中から一番に抜かなければならないのは仇討ち思想です。
仮に親が殺されると、伜(せがれ)が親の仇討ちのために一生を犠牲にして仇を討つ。
そうすると討たれた親の伜がまた仇討ちをする。そのまた伜が仇討ちをする・・・ということになり、せっかく人間として生まれたその命を、親の仇討ちのために犠牲にしてしまうのです。
それが少ないならまだよいが、それがだんだん多くなると、人間は仇討ちのために殺し合い、生命を犠牲にするということになります。
そのことを考えてみると、非常に悪いことが分かります。
ただ、あの時代はよかったのですが、それも本当によかったのではないので、小乗的善です。
その時代の大名とか将軍という主権者が、政権を維持するためですが、大名は自分の勢力と、そういったそうとうな地位、権力を維持するために忠義という道徳を作ったのです。
そうして命を犠牲にするまでに、大名の不利益をやろうという者をやっつけて、政権を維持するそのための精神を作る、その手段としての武士道ですから、武士道というのはけしからんものです。
それからまた大和魂というものはとんでもないものです。
だいたい日本があれだけの敗戦になったのも、大和魂のためです。つまり大和魂を看板にして、それを利用して国民をあれほどの目に遭わせたのですから、とんでもない代物です。というのは、やっぱり小乗的精神だからです。
そういう意味において仇討ち思想というものはとんでもないものです。」
明主様御講話 「新聞・役人・政党も我利我利亡者」 (昭和29年1月25日)
「二、三日前に聞いた話ですが、ニホン・タイムスのエリス・グリリというアメリカの新聞記者が、この間日本の大新聞の記者を数人集めて、メシヤ教というのでなく、私の宣伝をしてくれたのです。
その人は四年前に日本に来てずっと滞在し、最近日本に土地を買って家を建て、畳住まいで、日本人と同じ生活をしているのだそうです。
どうして日本をそういう具合に好きになったかというと、やはり世界中いろいろな国に行ってみたところが、日本人が一番すぐれているというのです。
他の国の人間が持たないすばらしいものを持っている。それを自分は発見した。だから一生日本研究で終わるつもりだということを言っているのです。
その時に日本の新聞記者に対して「自分は今まで日本人の偉い人にいろいろ会ったが、メシヤ教の岡田茂吉が一番偉い。それをなぜ新聞に書かないか」と言ったのだそうです。
そうすると新聞記者はヘドモドして、その中で朝日の記者が「あれはおもしろくないことがある」と言うのだそうです。
内容は聞かないが、たぶん裁判のことだろうと思うのです。有罪になって執行猶予中だという、そういうことだろうと思うのです。
他にはないのだから・・・。そうするとグリリという人は 「そんなことがなんだ。それは人間だから、大きな事業をする人は、なにか少しは法に引っ掛かるようなことをするのは、やむを得ない。
けれどもあの人のやっている事業の百分の一くらいのものではないか、そんなことは問題ではない。
とにかくあれだけのことをやって、病貧争絶無の世界、地上天国を造るという、これほど大きな事業があるか。おそらく世界でもまだないだろう。
とにかく自分が日本に来て、日本人の偉さということを、あの岡田という人によって初めて発見した。
それを新聞に書かないということはないではないか」と言って、大いにやったそうですが、痛快だったわけです。
そういうわけで、つまりいつも言うとおり、日本人のああいうジャーナリストというのは、とにかく目玉が小さいので、大きいものを見ることができないのです。
全体的に見ることができないで、局部的に見るのだからしようがないわけです。
結局ナンダカンダ言っても、日本人の目のクリ玉の小さいということが、日本の発展を阻害しているわけです。
日本を伸びないようにしているわけです。
仮に自然栽培にしても、立派な成績を、農業者や農事試験場の役人が見ながら、それを取り上げようと考えないのです。
いかにしてこれを非難して、拡がらないようにしようか、押さえつけようか、ということに一生懸命です。
でなければ、もし自然栽培が天下に知れたら、農学者などの自分の説が一ぺんに壊れてしまいますから、それがつらいのでしょう。
それから農林省の役人はクビの問題になるでしょうし、とにかく国家社会とか世界人類ということより、ただ自分の利益ばかりを考えているのです。
それからまた、そういうことに対して、大新聞などは自然栽培を大いに紹介しなければならないわけですが、そういうことはないのです。
そのくせ朝日などは調査しているのですが・・・。
しかしそれをやると肥料会社の方が大変なのです。致命的打撃になります。
だからして肥料会社のほうなども、しかるべく・・・箝口令(かんこうれい)ではない、緘筆(かんぴつ)主義もやっているのではないかと思います。
彼らの頭というのは自己の利害ばかりを考えているわけです。
これは新聞や学者ばかりでなく、政治家でもそうです。
我党我党で、社会党などの講演にしても、ほとんど理屈のないところに理屈をつけて、苦しまぎれにただ政府のやり方を非難して、自己を離れての本当に国家や多数国民のための利益ということは少しも考えないのです。
実に露骨に自己の利益しか考えないようにやってますが、ああいうことは決してごまかされるものではないですから、あれを聞いて、心ある人はそのさもしい心を見抜きます。
ですから再軍備反対ということも、徴兵適令期の青年とか、あとは爺さん婆さんという連中だけが賛成するのです。
彼らのさもしさというものは実にかわいそうなくらいです。
けれども時の問題で、もう遠からずそういうのがみんな改心せざるを得ない情勢になってきますから、別にたいした問題ではないのですが、そういうようなわけなのです。
特に日本人などが、ほとんど幸福な人間というのはないので、不仕合せな人間ばかりが蠢(うごめ)いているようなわけです。」
明主様御講話 「日本人は目玉を大きくせよ」 (昭和29年1月26日)
「ついこの間、例のエリス・グリリというアメリカの新聞記者の人が、東京都内の主な新聞の記者を呼んで、私の宣伝をしたわけです。
それを聞きましたが、だいぶ痛快なことを言ってます。「君らはメシヤ教の岡田茂吉というのを知っているか」「知っています」・・・
ところでこの人は四年前に日本に来て、東京に土地を買って家を建てて、畳住まいで、日本人と同じ生活をしているのですが、日本がとても好きで、一生を日本で暮らすつもりでいるのです・・・。
「四年前から日本に来て、日本人の偉いという人にみんな会ってみたが、岡田茂吉というこの人より偉いというのはいないではないか」と言うと、「あの人は偉いところもあるが、欠点もある」と言うのです。
たぶん先年の裁判事件らしいのです。
執行猶予中で・・・「どうもその点は」と言うと、グリリさんは「そんなことがなんだ。あの人のやっている仕事を見たら、そんなことより百倍も国家社会のためになることをしているではないか。
君らはなぜそれを大いに書かないのだ」と言うと、返事ができなくてヘドモドしていたそうです。
今の、欠点があると言ったのは朝日新聞の記者だそうですが、はなはだ痛快な話です。
「岡田という人のやっている仕事を知っているか」と言うと、「本当には知らない」「それは病気、貧乏、争いをなくして世界の地上天国を造るというのだから、これほど平和的に偉大なる仕事はないではないか。
それは世界にもまだないかもしれない。それを日本にいながら、新聞記者がそういうことを知らないということは、君らはそれでよいのか」と、さんざん言われたそうです。
それでグリリさんの言うことには「私はあの人の建設という仕事を見て、あとは二、三時間会って話をしただけで、実によく分かる。
それを君らは日本にいて、新聞記者でいて分からないというのは、それでよいのか」と、随分やられたそうです。
その通訳をした人は、始終私の所に来る浮世絵専門の人で、英語がなかなかできるので、一週間に一回ずつ外国人に対して浮世絵の講義をしているのです。
それから放送局の古垣氏もよくやられているようですが、今度来るそうです。
それから丹羽文雄氏ですか、前に小説の「蛇と鳩」を書いて新宗教を・・・。
ここで映画でもやりましたが、かなりメシヤ教を目標にしたらしいのですが、私の方で抗議を言ったので、それであの時には立正佼成会を中心にして「南無妙法蓮華経」をやっていて、メシヤ教の方は一場面出したくらいです。
それからずっと栄光を配ってます。今度来るとか言ってました。
そういうようなわけで、どうしても分からなければならないように追いつめられつつあります。
なんとしても熱海の地上天国ができあがることと、自然栽培が国家的の問題になるということになって初めて「ではやっぱりそうだ、じっとしてはいられない。
大いにメシヤ教を、岡田茂吉という人間を研究しなければならない」ということになるわけですが、それまでにはまだ一、二年の暇がいるでしょう。
それもだんだんそういうようになりつつあるのは、大変結構と思います。
もっとも予定通りになるわけですから、それでよいのですが、なにしろメシヤ教というものは、どっちかと言うとあんまりすばらしすぎるのです。
そこで分かりにくいのです。というのは、アメリカの人などはかえって早く分かるのです。
というのは、目が大きいからです。日本人は目玉が小さいから大きい物は見えないのです。それについて書いてみました。
(御論文「再びジャーナリストの考慮を望む」)
これを読んだらいささか痛いだろうと思います。
今話したアメリカの新聞記者の見方に対して日本の新聞記者の貧困さは、実際あきれるほどです。
日本の新聞記者というものは、まだ封建の殻から抜けきれないのです。
指導者たるジャーナリストがまだそういうような封建的頭脳があるから、日本の政治でも社会でも実にはっきりしないのです。
現在一番悩んでいる国家経済にしても、実に危機を叫ばれているくらいなのです。
今日本で一番肝腎なことは、もっと国民の目の玉が大きくなることです。
あんまり小さなことばかりに囚われているのです。
政治界などを見ても、あんまり小さな問題をコセコセしすぎるのです。
政治の争いにしろ、特に社会党などはそうです。
問題の良いとか悪いということは、とうにそっちのけになっていて、ただ自分の言い出したことは、是が非でも良いように思わせようとするのです。
一番滑稽なのは再軍備問題です。もうここまで来て再軍備に反対したところで成功するわけがないのです。
国際情勢から見て、アメリカは日本のある程度の軍備を要求するし、それから日本の国家としても、これだけの舞台で兵隊がないという国は世界中にないです。
この間のアメリカの副大統領の話にも、台湾でさえ・・・蒋介石は別の意味がありますが・・・その軍備は、日本が今度軍備するよりも、とうてい追いつかないほどできつつあるのです。
そういうことにしろ、世界中見まわしたところ、社会党の言うような、軍備なしですむわけがないのです。
それでいて、今もって一つになることを、御苦労様に方々講演したり、鈴木茂三郎などが怒鳴ってますが、哀れなくらい低級です。
それをまた新聞などがまじめに書いてます。これは書かなくてもよいのです。
書いてもなんにもならないのです。あたかも、バスに乗り損なって、バスがドンドン向こうに進んでいるのに、まだ追いかけているようなもので、追いつくわけはないです。
その判断がつかないのですから、不思議と言いますか、あまりに日本の社会が低級すぎるのです。
それもこれもジャーナリストの頭が今読んだような具合だからです。」
明主様御講話 「日本のジャーナリストは器が小さい」 (昭和29年1月27日)
「この間、例のアメリカの新聞記者でエリス・グリリという人が、日本の主な新聞記者を呼んで私の宣伝をしてくれたわけです。
その時に「メシヤ教の岡田茂吉というのを知っているか」「よく知っている」
「あの人のことを新聞に大いに書かなければならないが、どうして書かないのだ。われわれが見て、日本で岡田というあの人ぐらい偉い人はないではないか」と言ったのです。
そうすると「偉いかどうか分からないが、いろいろ欠点がある」というわけで、たぶん静岡裁判やなにかのことを話したらしいと思います。
そうすると「それくらいのことがなんだ。あの人がやっている仕事は、その百倍ぐらい大きいではないか。
そんなことは問題にならないではないか」と言ったので引っ込んでしまって、目を白黒していたそうです。
「私は日本に四年前に来て、日本人のいろいろな偉い人に会ったけれども、岡田茂吉ぐらい偉い人は日本にいないではないか。
だから君たちは大いに書かなければ駄目ではないか。
なにしろ病貧争絶無の世界という、地上天国を拵えるというのだからして、世界平和の建設事業だ。
これほど大きな抱負でやっている人は、おそらく世界にないだろう。
しかも着々と実行に移している。そうしてあの大仕掛けないろいろな地上天国を造っているということだけでも、すばらしいものではないか」と言っていろいろ話したそうですが、実に痛快だったという話です。
その通訳をした人は信者で、浮世絵専門にやっている人で、英語はかなりできるのです。
そういうことがありましたが、アメリカのそういう人から比べると、日本のジャーナリストはあまりに小さすぎるのです。
あるいはしかし、日本では今まではそれでよかったのかもしれません。
つまり私の方が大きすぎるために、日本の新聞記者では理解ができないのだろうと、私はそういうふうに思ってます。それについて書いてみました。
(御論文「再びジャーナリストの考慮を望む」) 」
明主様御講話 「今の日本人の風潮は物を大乗的に見ないこと」 (昭和29年2月5日)
「これはたいてい分かったような話ですが、どうも、政治家ばかりでなく、今の日本人の風潮と言いますか、物を大乗的に見ないのです。
つまり小さいことばかりに囚われるのです。
このごろはアメリカの新聞記者がなかなかメシヤ教を注目していて、いろんな批評を聞くのですが、その見方が実に当たっているのです。
日本人はとても足下にも寄りつけません。ですからして、地上天国などができるのを非常に待っているのです。
そうして、できたらさっそくこれを世界的に知らせようというのです。
ところが日本の新聞記者というのは、そういう考えはぜんぜんないのです。
もしメシヤ教を注目するとすれば、「なにかアラはないか」「なにか攻撃する種はないか」と思うぐらいだろうと思います。
それで他のいろんな新宗教やなにかの有様を見ると、メシヤ教もそれとたいした違いはないと思って、本当に見ようとしないのです。
見るというよりか、むしろ想像です。だからそれに対して、日本の新聞記者のそういう点があんまり冷淡なので、アメリカの人の方が憤慨してます。
結局アメリカの方がこのメシヤ教の事業に対して早く分かりゃしないかと思います。その方が早く発展しますから結構です。
大本教のお筆先に「灯台下は真暗がり、遠国から分りて来るぞよ」というのがありますが、ちょうどそういうようなことになるだろうと思ってます。」
明主様御講話 「日本人は色をつけたがる」 (昭和29年4月6日)
「それから今度来たハワイ通信の中にちょっとおもしろい一齣(こま)がありますから、読ませます。
(ハワイ通信 十八)
これは英語教修の時のことです。四十人ばかり英語教修をしたのですが、その中に十人ばかりアメリカ人がいて、その中の一人で、将来非常に働く人らしいです。
その人のいわく「明主様が八人目の聖者に当たられる」というのです。
この「八人目の聖者」ということは古くから伝説にあるのです。
八人目というのは仏教の方では釈尊だということを言ってますが、釈尊は七人目というわけです。
それは仏教の方でお釈迦さんに値打ちをつけるために言ったのだろうと思いますが、この人の言うことが合っているわけです。
それから四、五日前に例のグリリ夫妻が、駐留軍の機関紙の星条旗(英語で言うとスターズ・アンド・ストライプス)の主筆で、陸軍大尉相当官を案内してきました。
私はちょっと会うつもりだったのですが、話がおもしろくなって、だいぶ長く、一時間以上になりました。
その際大いに共鳴して、今度は司令官の夫人を連れてくると言ってました。
それからグリリ夫妻もだんだん熱心になってきて、今度は大いにメシヤ教のために働かれるというわけで、それには日本語ができなければいけないと言って、最近日本語を始めたのです。
この人はいまに非常に大きな働きをすると思ってます。
いずれロックフェラー氏とかカーネギー氏を、日本に来たついでに寄るというのではおもしろくないから、わざわざメシヤ教の地上天国を見るべく呼ぶというようなことを言っているそうです。
そういうような具合で、なかなかおもしろいと思ってます。
アメリカ人の間ではそうとう有力な人のようです。なかなか信用もあるようです。
そういったアメリカ人がだんだん増えてますから、いずれアメリカの方が先に、メシヤ教と私のことが分かるのではないかと思ってます。それについて書いてみました。
(御論文「迷信非迷信」)
なおその時のいろいろな話の中に「美術館のあれだけの品物を集めるには、まず五十年はかかるだろう」と言ってました。
「実際にはどのくらいかかったか」 と言うから、私は「戦後ボツボツ集め始めて、本当に集まった期間はまず三年だろう」と言ったところが、びっくりして「とても信じられない。それはどういうわけだ」と言うから、
「どういうわけと言えば、奇蹟と言うよりしようがない。
つまり神様がそうされたということより他に言いようがない」というように言ったのです。でも、はっきりは分からないのです。
そこで私が言ったのは「とにかく集まるということは、やっぱり金が集まらなければ品物は集まらないのだ。
それで金はどうして集まったかというと、医者に見放された病気や死ぬような病気が治る結果、そこで感謝のあまり金を献げるというために金が集まって、これだけの美術品が買えたのだ」と言ったのです。
それで側から阿部さんが「なにしろ今までと違って、一人対一人ではなくて、明主様のお書きになったものを懐に入れると、だれでもそれで病気が治るという、そういうように信者がキリストと同じようなことができるのだから」と言ったので、これも驚いたのです。
「自分は今まで世界の偉人のことを聞いたり、会ったり、歴史によっても、キリストや釈迦と同じだとか、あるいはそれに近いとか、そういうようなことを言ったという人のことを聞いているが、キリスト以上だというような、そういう大きなことを言う人はなかった、明主様が初めてだ。これは実に驚いた」と言うのです。
だからそういう方に対して批評はできないと言うのです。
なぜなれば「もし明主様のような人を批評するとしたら、自分が同格か、それ以上でなければ批評はできない。しかし人間の方は下なのだから、ただ事実を認める以外、批評は不可能だ。批評するのは間違っている」と言ったのは、さすがに米国のジャーナリストだと思いました。
実にありのままを正直に表現することが、日本人はあんまりそういうふうには言わないのです。だから実によいと思うのです。
どうも日本人はそういう場合にも、なにか色をつけたがるのです。
日本のジャーナリストの色たるや、すごい色をつけます。自分よりも下のように言うのです。ちゃかすのです。
「岡田茂吉ナンテなんだ、メシヤ教ナンテなんだ。あれは時局に便乗してうまく儲けた」というような、軽蔑したように見るのです。
だから米国のジャーナリストと日本のジャーナリストとの見方は天と地の違いさです。
一方は「それほどの人は批評はできない」と言い、一方は、批評どころではないので「オレより下だ、あれに瞞される奴はヨッポド間抜けだ」と言っている、そのエラがり方との違いさはたいへんなものです。
だからそうなると、失礼ながら日本のジャーナリストは、やっぱり豚に真珠としか思われないです。
日本の文化程度の低さというものは実に困ったものです。汚職問題が起こったり、いろいろな変な、社会がゴタゴタして、テンヤワンヤなのはあたりまえだと思います。」
明主様御講話 「日本のマスコミはメシヤ教を茶化した目で見る」 (昭和29年4月7日)
「それから一週間ばかり前に例のアメリカのグリリ夫妻が、駐留軍の星条旗(スターズ・アンド・ストライプス)の主筆の人を連れてきて、いろいろ話し合ったのです。
私は五分か十分ぐらい会うつもりだったのですが、話をすると、話がばかにおもしろくなって一時間以上話をしました。
私は近ごろときどきアメリカの人と話をしますが、話が実によく分かるのです。
間に通訳が入っていながら、日本人と話をするよりもよく合うのです。
ちょうど私の考えとアメリカの人の考えが一致しているのです。だから両方でうなずき合ってます。
ところがどうも日本の新聞記者と話をしていると、先方で分かったのか分からないのかということがよくありますが、アメリカの人はイエス、ノーでやってくるからはっきりしてます。
また先方でも、一、二回会うと非常に共鳴して、信者でなくても、私に対する一つのファンみたいになってしまうのです。
その時もいろんな話がありましたが、その話の中で印象に残っているのは、グリリ夫妻が言ったことで「美術館の品物を集めるには、まず五十年はかかるだろう」ということから、「どのくらいかかったか」と言うからして、
「戦後ボツボツ集め始めて、本当に集まったのはまる三年ぐらいなものだ」と言ったところが、
驚いて「どうしても分からない。その理由を聞かしてくれ」と言うので、「理由というよりか、奇蹟で集まったのだ」と言ったのですが、それが分からないのです。
しかし、霊界における作者やそういう人たちが骨折って、メシヤ教に、御用をさせてもらったというように説くと、これは信者でないとちょっと分かりにくいですから、
一番分かりやすく言おうと思って「つまり集まるのも、集まったということはつまり金の力だ。その金が集まったということは、医者から見放された病人や、死ぬばかりになっていたのが助かるというようなことで、その感謝の気持ちでみんなが金を献げた、それが集まって買うことができた」というように説明したのです。
そこで阿部さんが「というのは、弟子や信者が病気を治すことができるという、これが非常に大きなものだ。
一人対一人ではないので、治す人を作るということが、今まで例がなかった」という話をしたので、
また非常に驚いて、「自分は今まで世界でのいろんな偉い人を見たり聞いたりしたことは随分あったが、みんな、つまり一人対一人か、あるいはただ教えというようなわけで、釈迦、キリスト以上という人の話は聞いたことがない。
ところがキリストぐらいの奇蹟をやる弟子を多く作るということは、おそらく見たことも聞いたこともない。
そういう点において実に驚いた」というようなことを言ってました。そこでやっぱりアメリカの人らしいことを言います。
「明主様をどうこうと批評はできない。もし相手を批評するとしたら、相手と同程度かそれ以上の人でなければ批評はできない。
ところが明主様は人間よりずっと上としたら、ただそれをありのまま感じるだけのことで、批評ということはできない」ということを言ってましたが、これは非常に正直な言い方です。
日本人はあんまりそういうふうには言わないのです。
言わないどころではない、テンデ考え方が違ってしまっているのです。
日本の新聞記者とすれば、まず「メシヤ教という、岡田という奴はなかなかだ。戦後の混乱状態に便乗して、うまく大勢を瞞しやがって、金を儲けて、こんなものを造るナンテ、これは怪物だ、腕のある奴だ」というように思うでしょう。
下から上を見上げるような言い方は決してしないです。新聞雑誌を見ても分かるとおり、ちゃかしたような、愚弄したような見方をします。
それはちょうど新聞記者自身の方が「メシヤ教の岡田という奴より上だ、だからオレの筆の先でいい加減に書くだけの人間だ」というように見ているわけです。
だからアメリカの人との違いさというものはたいへんなものだと思います。そのことを書いてみました。
(御論文「迷信非迷信」)」