広島市の原爆ドームが1915年、「広島県物産陳列館」の名で完成してから、きょうで100年となる。

 大正時代、周辺は市内一の繁華街だった。チェコ出身のヤン・レツルが設計したドーム屋根の洋館では博覧会や美術展がよく開かれ、市民に親しまれた。

 1945年8月6日、すべては一変した。上空600メートルで炸裂(さくれつ)した米軍の原爆は、十数万人の命とともに街を消し去った。

 爆風に耐えた廃虚は戦後、原爆ドームと呼ばれるようになる。96年には「Hiroshima Peace Memorial(Genbaku Dome)」の名で世界遺産に登録された。

 1万数千発の核兵器がある現代、原爆ドームが発するメッセージは重い。広島を訪れた国家元首級の要人は、2007年度からの8年間だけでも12人いる。この遺構の役割と、後世に引き継ぐ大切さを痛感する。

 あまり知られていないが、広島では戦後、ドームの撤去を望む声も強かった。「悲しみを思い出す」という理由からだ。

 だが被爆し、60年に白血病で亡くなった楮山(かじやま)ヒロ子さん(当時16)の日記が一石を投じた。「あのいたいたしい産業奨励館(原爆ドーム)だけがいつまでも、おそる(べき)原爆を世にうったえてくれるだろうか」

 感銘を受けた地元の子らが募金活動を始め、広島市議会は66年、保存を決議した。

 痛ましい記憶を呼び覚ます廃虚が、時代の流れを経て新たな使命を帯びたといえよう。

 世界遺産登録は国際的な論議を呼んだ。原爆を落とした米国のほか、中国も日本の戦争責任に言及し、賛成しなかった。

 それでも、日本が核廃絶を世界に訴えるうえで、原爆ドームを核時代の「証人」として発信し続ける責任は大きい。

 被爆者数は20万人を割り、直接体験を聴く機会は減る一方だからだ。見ただけで惨状がわかる遺構の存在は貴重だ。それは東日本大震災の遺構保存を考える上でも、示唆に富む。

 広島を訪れる修学旅行生はこの30年でほぼ半減した。一方、外国人は大幅に増えている。

 広島で被爆し、世界遺産登録に尽力した画家の故・平山郁夫氏は「原爆ドームを核兵器廃絶の一里塚に」と説いた。そのゴールはいまだ見えない。

 今月下旬には5年に一度の核不拡散条約(NPT)再検討会議が始まる。「核なき世界」を実現するため、私たち一人ひとりはどう行動すればいいか。原爆ドームを、そういう思索の原点にしていきたい。