主義の限定的・相反的性格について


明主様御教え 「主義というもの」 (昭和23年9月5日発行)

「世の中の種々の思想や運動の動機として、何々主義と名づけて目的を達成しようとする現実は、あまねく人の知るところである。

しかるにこの主義なるものは、ある程度の成功はしても、究極において必ず失敗し、消滅してしまう事も常にみるところである。

これはいかなる訳であろうか。大いに考えなくてはならないと思う。


そもそも、主義なるものは必ず対照的のもので、敵と味方が対立する事になるから、闘争を生じやすい。

すなわち勝つか負けるかという結果になる。

万一勝ったとしても、次にそれに対抗すべき新しい主義がまた生まれるから、闘争の絶え間がない。

事実、近代においても次々生まれては消え、消えては生まれる種々の主義がある。

そのおもなるものにいわく、帝国主義、専制主義、全体主義、資本主義、共産主義、社会主義、自由主義、民主主義、保守主義、進歩主義、個人主義、積極主義、消極主義等々、数え尽くせない程である。

元来主義なるものは、限定的、排他的、独善主義的であって、その国家、階級、団体のみの利益を主眼としたものであるから、どうしても闘争の因を作る事になる。


この意味において、人類社会永遠の平和と栄えを望むとすれば、今日までの主義と異なるところの・・・

それは世思的、人類愛的のものでなくてはならないと思う。

近来米国において唱導され始めた世界国家や、MRA運動等は右のごとき意味のもので、

吾等と同一目的たる地上天国出現を目標としての運動とみるのである。」




明主様御教え 「本教と大道主義」 (昭和24年4月8日発行)

「今日世の中を見ると、ヤレ左翼だとか、ヤレ右翼だとか、否俺の方は左派でも右派でもない中道だとか言って騒いでいるが、

どうもある限られたる主義や思想を飽くまで固持し、それを貫こうとする結果、どうしても摩擦が生じやすい、

もっとも中には摩擦や争いを目的とするものもないではないが、これはまた別の話である。

終戦後国民の目標は言うまでもなく民主主義であるが、民主主義とはもちろん最大多数の最大幸福を目的とするものである以上、

自己の主義や思想を飽くまで固執するとすれば争いを捲き起こし最大多数の幸福どころか、反対に最大多数の最大不幸を招く事になる。

これは私が言うばかりではない、事実今日の世相をみれば遺憾なく物語っておりこの傾向はあらゆる面に表われている。


仮に政党を見てもそうである。

一党内に何々派などと主義主張を異にしたもの同志の摩擦がありややもすれば分裂解体などの危険が絶えず起ころうとしている、

何でも自己の主義主張に合わないものは直ちに敵と見るのであるから堪らない、

出来たばかりの内閣をすら倒そうと計画するかと思えば、僅か二、三ケ月経たばかりの内閣に対し、野にいた時の政策の実行を督促し空手形呼ばわりをする、

考えてもみるがいいいかなる大政治家といえども半年や一年で全部の手形を支払う事は到底不可能である事は判り切った話である、

このような訳で日本の内閣は頻々(ひんぴん)と代わって席の暖まる暇(ひま)もない、

この点フランスとよく似ている、彼の英国の労働党内閣が、最初一年くらい経た頃は意外に成績が悪かった、

日本ならば囂々(ごうごう)たる非難の声が揚がるべきに、さすが英国民の寛容なる、アットリー氏に委任して静まり返っていたのを吾らは不思議に思ったくらいである、

果せるかな、その後漸次好調の兆しを表わし、最近においては経済的にも非常に好成績を挙げているようである。

またアメリカを見てもそうである、同国大統領が任期四年であるからこそ思い切った政策が行なえるのである、

彼の第二次世界戦争に当って勝利を得、戦後といえども綽々(しゃくしゃく)たる余裕をもって欧州も東亜も救済せんとする偉観は全くルーズヴェルト氏が四回の当選によって十六年の歳月を閲(けみ)し、思いきった施策を行い、その宜(よろ)しきを得た事にもよるのである。

さきに述べたごとき日本の現状は、全く狭い島国根性が抜け切れないためであるから、まず何よりも日本人全体がこの際大いに寛容の精神を涵養(かんよう)すべきで、これが最も当面の喫緊事(きっきんじ)であろう。


本教の目標は、争いのない社会を作るとすれば何よりもまず自己独善から他を排斥する狭量を改めなければならない、

この意味において右にも左にも偏らず、中道にもこだわらず、あらゆる主義主張総てを包含し、一切をコントロールした世界思想ともいうべき高い大理想を掲げて進まんとするものである、吾らはこれを名づけて大道主義というのである。」




明主様御教え 「大乗と小乗」より (昭和23年9月5日発行)

「(一部のみ引用) 昔から大乗小乗の言葉がある。

もちろんこれは仏語であって、仏教においても相当くわしく説かれているが、

どうも納得出来得るような説は、私は寡聞(かぶん)のためかまだ聞いた事がない。

これについて私見をかいてみよう。


まず一口に言えば小乗は経で、大乗は緯である。

また小乗は感情であり、大乗は理性である。

小乗善悪を差別し、戒律的であるから一般からは善に見られやすいが、

大乗善悪無差別で、自由主義的であるから善に見られ難いのである。

これを判りやすくするために、二、三の例を挙げてみょう。


ここに一人の盗人がいる。夫を改心させようとする場合

小乗的行方でゆくと悪事を窘(たしな)めるべく説得するのであるが、

大乗においては、自分も一旦盗人の仲間へ入り、機を見て、

「悪い事をすると大して儲かりもせず年中不安に脅えておって詰らないではないか」というように話し、

悪を廃めさせ善道へ導くのである。

また親に従う事をもって孝の基とされているが、

たまたま自分は目的を立て、それを遂行せんとする場合、

親の許を離れなければならないが、親は不賛成をいう。

止むなく一旦親に叛いて家出をし、目的に向かって努力し成功してから、

親の許に帰れば親もその光栄に喜ぶはもちろんで、大きな親孝行をした事になる。

これを観察すれば、前者は小乗的孝行であり、後者は大乗的孝道である。

また国家主義民族主義等も小乗的善であり、共産主義も階級愛的小乗善である。

由来(ゆらい)何々主義と名付くるものは大抵、小乗善であるから、必ず行詰る時が来る。

どうしても大乗的世界的人類愛的で行かなくては、真理とはいえない。

日本が侵略主義によって敗戦の憂き目をみたのは、小乗的国家愛小乗的忠君であったからである。


以前日本で流行した皇道という言葉は、小乗的愛国主義であった。

何となれば、この皇道を日本以外の国へ宣伝しても、恐らくこれに共鳴する者はないであろうからである。

故に世界人類ことごとくが共鳴し謳歌するものでなくては、永遠の生命あるものとはいえない訳で、これが真の大乗道である。

由来何々主義というものは、限定的のものであるから、

他の何々主義と摩擦する事になって、闘争の原因となり、

遂には戦争にまで発展し、人類に惨禍を与える事になるので、

小乗の善は大乗の悪であり、大乗の善は小乗の悪という意味になるのである。


しかしここに注意すべきは一般大衆に向かって、初めから大乗道を説く事は誤られやすい危険があるから、

初めは小乗を説き、相手がある程度の覚りを得てから大乗を説くべきである。」




明主様御垂示 「主義と名がつくものがあれば、その反対が出る」 (昭和28年12月1日)

信者の質問
「資本主義、共産主義の二つの異なったものによって世界は二分し闘争しておりますが、

結局人間が地上を支配することが間違っている、神の下に・・・ということでありましょうか」

明主様御垂示
「そうです。」


信者の質問
「そうするとミロクの世というのは、神様のご意志はどういう方法で人間に伝わるのでございましょうか」

明主様御垂示
「それは資本主義も共産主義も、主義と名がつくものはなくなってしまうのです。

主義と名がつけば、そこに決めることになり、決めると闘争があるのです。

そこで決めなければよいのですが、決めなければよいというのでなくて、本当のことは決められないのです。

つまり資本主義があるから共産主義があるのです。

ですから共産主義は資本主義が作ったものです。

主義と名がつくものがあれば、その反対のものが出るわけです。

ところが主義というものがなければ、反対のものが出ようがないのです。

善人があるから悪人があり、悪人があるから善人があるのです。

ところが善人も悪人もなくなってしまうからなんでもないです。

つまり人間、あたり前のことをしておればそれでよいのです。

ちょうど薬をのむから病気が起こる。病気が起こるから薬をのむというわけですが、

病気がなくなるから薬もいらないというわけで、自然のままでピンピンして働けるわけです。」


信者の質問
「人間が物事を判断するについて、一つの体系があると思いますが」

明主様御垂示
「体系というのは科学的のですか。」


信者の質問
「どういうように考えたら、どちらにも偏らない、神様のご意志通りの判断ができますでしょうか」

明主様御垂示
「どういうことが善で、どういうことが悪かということは分かるでしょう。

分かればそれでよいのです。

何を善悪の標準にするかというと自己愛で、自己の利益のために人を苦しめ、人に災いを与えるということは悪で、

人を良くし、世の中を良くし、自己の利益は第二とし、他人あるいは社会を第一にしてやれば、それは善です。

ですからそれで分かります。

だからオレがやっていることは、これがために苦しむ人ができるか、楽しみ、幸福になる人ができるかということを判断すれば分かります。

人の食う物を取るなら、その人は食うことができないから、それは悪です。

そうでなくてごちそうをしてやるということは、人が喜ぶから善です。

簡単です。体系も何もありません。

あまりに簡単で分かりやすいことで、そこに定義や学問というものを作ることはないです。」


信者の質問
「社会の利潤ということは・・・」

明主様御垂示
「公平にやればよいのです。

これだけ働けばこれだけやる。

それからこれだけ賃金をもらっておれば、それに対してこれだけは働く。

というわけで、それは常識で考えても分かるから、それでよいのです。

だから屁のようなことをわざわざ難しくして、わざわざ苦しみを作っているのですから、実に情けない、馬鹿な、困ったものです。

その馬鹿さ加減といったらないです。

ところがその馬鹿げたことが分からないでまでに、人間というものは頭が悪くなっているのです。

というのは結局において、唯物教育によって、すべて物質で解釈をするというそのために間違っているのです。

唯心の、目に見えないものがあるということを無視したからです。


これは私の本に書いてあるとおり、半分しか分かってないのです。

けれどもそういう具合にしなければ物質文化は発達しないから、神様はそういう具合に分からないようにしたのです。」




明主様御垂示 「MRA運動」 (昭和24年3月16日)

信者の質問
「信仰雑話「主義というもの」中、MRA運動とありますが、これはいかなるものでしょうか。」


明主様御垂示
「教育文化運動とかいうのである。」

(註 MRA・・・道徳再軍備運動。1938年、フランク・ブックマンというアメリカ人学者が、「真の平和と民主主義は軍備ではなく、心の再軍備から」と、ロンドンでMRA運動を始める。現在は「心の活性化」といった呼び方に変わってNGOとして活動中。)