正義感について
明主様御教え 「正義感」 (昭和28年12月23日発行)
「今更こんな事を言うのは、余りに当り前すぎるが、実をいうとこの当り前が案外閑却されている今日であるから、書かざるを得ないのである。
それはまず現在世の中のあらゆる面を観察してみると、誰も彼も正義感などはほとんどないといってもいい程で、何事も利害一点張りの考え方である。
という訳でたまたま正義などを口にする者があると、時勢後れとして相手にされないどころか、むしろ軽蔑されるくらいである。
ではそのようにして物事が思うようにゆくかと言うと、意外にもむしろ反対であって、失敗や災難の方が多く、
それを繰返しているにかかわらず、これが浮世の常態として、別段怪しむ事なく、日々を無意識に送っているのが今日の世相である。
ところがこれを吾々の方から見ると、立派に原因があるのであって、ただ世人はそれに気が付かないだけの事である。
では一体原因とは何かと言うと、これこそ私の言わんとするいわゆる正義感の欠乏である。
というのは多くの人は絶えず邪念に冒(おか)され、魂が曇り、心の盲となっているため見えないのである。
これについて私は長い間あらゆる人間の運不運について注意してみていると、それに間違いない事がよく分る。
では正義感の不足の根本は何かというと、すなわち眼には見えないが、霊の世界というものが立派に存在しているのである。
そうしてその霊界には神の律法というものがあって、人間の法律とは異い厳正公平、いささかの依怙もなく人間の行為を裁いているのである。
ところが情ないかな人間にはそれが分らないためと、また聞いても信じられないためとで、知らず識らず不幸の原因を自ら作っているのである。
そんな訳で世の中の大部分の人は、口では巧い事を言い、上面(うわつら)だけをよく見せようとし、自分を実価以上に買わせようと常に苦心しているが、
前記のごとく神の眼は光っており、肚(はら)の底まで見透かされ、その人の善悪を計量器(はかり)にかけたごとく運不運を決められるのであるからどうしようもない。
ところがこんな分り切った道理さえ、教養の低い一般庶民ならいざ知らず、教養あり、地位名誉あるお偉方でさえ分らないのは、全く現界の表面のみを見て、肝腎な内面にある霊界を知らないからである。
それがため彼らはない智慧を絞って世を偽り、人を瞞(だま)す事のみ一生懸命になっており、これが利口と思っているのであるから哀れなものと言えよう。
その証拠には結果はいつも逆で、巧くゆかない事実に気が付かず、上から下までその考え方になっているため、犯罪者は増え、社会不安は募(つの)るばかりである。
従って今日の社会で何かやろうとしても、邪魔が入り、失敗し、骨折損の草臥儲(くたびれもう)けとなる事が多いどころか、
中には新聞種にされたり、裁判沙汰になる人さえ往々あるのである。
私はこれらの人達を、賢い愚昧族(ぐまいぞく)と思い何とかして目醒めさせたいと骨折っているが、
それには神の実在を認識させる外にないのであるがこれがまた非常に難かしい。
というのは知らるる通り、現在指導者階級の人程、無神思想をもって文化人の資格とさえ思っているのだから、
本当に分らせるにはどうしても機会を作って奇蹟を見せる事である。
という訳で私は神から与えられた力を行使し、現在驚くべき奇蹟を現わしつつあるので、近来ようやく社会に知れて来たようで喜んでいる次第である。
そうして以上の理を一層徹底すればこういう事になる。
すなわち正義そのものが神であり、邪悪そのものが悪魔であり、神即正義、邪悪即悪魔であると共に、
神は幸福を好み、悪魔は不幸を好むのが本来であるから、幸不幸は人間の考え方次第であるから、この真理を肚の底から分るのが根本である。
以上の理によって、正義感を基本としなければ幸福を捕える事は絶対出来ない、という訳で悪程損なものはないのである。
私は「愚かなる者よ、汝の名は悪人なり」と常に言っているくらいで、
この理が分りさえすれば、今からでもたちまち幸運街道驀進(ばくしん)者となるのである。
ただしこれには一つの条件がある。それは単に正義といっても二通りある。
一つは個人の利益を本意とする小正義と、社会国家を主とする中正義と、そうして世界人類を主とする大正義とである。
ところが小と中は真の正義ではなく偽正義であり、大正義こそ真の正義である。
例えば親に孝、君に忠は、煎じ詰めれば利己本位である以上偽正義である。
この間の戦争にしても、日本が負けたのは日本だけの利益を主とした偽正義であったからで、
どうしても世界全体の利益を目的とする大正義でなければ、永遠の栄えをもたらす事は出来ない。
これが真理である。もちろん宗教にしても同様な事が言える。
彼の仏教やキリスト教のごとき大宗教が、今日衰えたというのは、大正義に見えても実はある程度の欠陥があったからで、それが今まで分らなかったのである。
ところが我救世教に至っては、信者も知るごとく、病貧争絶無の地上天国をモットーとしている以上、人類全体の利益が本意であるから、真の大正義の実行者である。」
明主様御講話 「本当の正義は世界人類全体の幸福を目指すもの」 (昭和28年12月5日)
「それが今のこっちの美術館を批評する外人の見方は、アメリカあたりの政治家の見方、批判と同様、実に世界的で、公平に見てます。
それで私がいつも一番感心するアメリカの見方は、他の国は全部中共を承認しようとしてます。
英国などが特にそうですが、英国は情けない国になってしまったと思います。
自国の利害のみを考えているのです。ところがアメリカは承認しないということは、中共は暴力をもって今の地位を確保したのですから、弱肉強食で、強い者勝ちということになる。
それを許したら世界の平和は維持できない。
それを維持するとしたら、暴力や非合理的なやり方は許さないという正義感です。
それをアメリカはガンとして守っているというところに、アメリカの偉大なところがあるのです。
ところが日本人の中に第二の中共たらんとする社会党左派があるのですが、これに至っては論外です。
それを国民の中に支持するのがあるのですが、日本で一番足りないのは正義感です。
これは米の不足よりもっと足りないのです。
アメリカがとにかく国が栄えてうまくゆくのは、これは正義をもって進んでゆくところに神様の御守護があるのです。
私も昔から正義を維持するために、随分戦ってきたわけです。
その代わり不利なこともあります。
裁判とかいろんなことも、正義を守らんがために強くやられることも始終ありましたが、
しかしやはり神様というのは正義で、正義をなくしたら神様というものとは縁が離れてしまうわけです。
ですから自分の考え方、自分の行いというものは、正義に合うかどうかということです。
しかして正義についてもいろんな考え方があるのです。
たとえてみれば日本の太平洋戦争にしても、敵を殺して土地を占領するということが正義だと思ったが、
これがたいへんに間違った正義で、時代に都合のよい正義で、そんな正義はないのです。
その間違った点は見方が小さいためです。
だからどうしても本当の正義というものは、世界人類全体が幸福になるというのが間違いない正義ですから、そこにさえ目をつけていればよいわけです。
この結果はどうなるか、こうした結果は日本人だけが都合がよいとか、自分の一族だけの利益でなくて、国全体、世界全体の幸福の増進に合っていれば、これは本当の正義です。
そこでメシヤ教というのは世界全体を地上天国にし、世界全体の幸福を目標にしているから、これが本当の正義というわけです。」
明主様御講話 「正義が算盤に当たる」 (昭和28年12月16日)
「今の世の中を見ると、世界中が非常に正義感というものがなくなったのです。
なんでも算盤ずくでやっているのです。
理屈だけでは、こうやればこうなる、こうやる方がよいということを、世界中、特に日本の政治でも経済でも、みんなそうなってます。
ところがイスカの嘴(はし)と食い違いで、うまく行くことはないのです。
特に政府の政策などがそうで、いろんな案を立てたり、いろんなことをしても、およそ結果は反対なのです。
一番大きな違いは米作ですが、これなども、前の農林大臣の広川弘禅氏の時に、五カ年計画で三千万円を出して三割増産をするという案を立てました。
ところがその案に基づいてやり始めたようですが、今年のように馬鹿馬鹿しい違いさです。
そういうような例が、貿易にしろ、いろいろなことに、みんな結果が反対なのです。
その原因をよく見ると、一番の原因は算盤ばかりで正義感というものがない、そのためです。
今のは大きな話ですが、個人でも、うまく行かないということは正義感が足りないのです。
ところが正義というものは、かえって算盤とは反対の方が多いです。
たいへん損のように思うことがあるのです。
正義というものを守るということは、算盤に当てはまらないように見えますが、ところが結果においては、ずっと算盤に当たるのです。
正義が算盤に当たるというと変ですが・・・。
そこのところが理屈では分からないおもしろみのある点です。そのことを書いてみました。
(御論文「正義感」) 」
明主様御講話 「失敗連続の原因」 (昭和28年12月17日)
「世間一般の人を相手にした話ですが、とにかく今日、どこからどこまでなにごとも、うまくゆかないのです。
うまくゆくということはめったにないので、政治でも、ほかのいろいろなことでも、みんな失敗の連続です。
以前ある人は「人生は後悔の連続だ」ということを言いましたが、これもまったくそのとおりで、人間毎日後悔しているのです。
それと同じように、することなすことが失敗の連続なのです。
政治にしても、政府や政党がいろんなことを言っても、まずことごとく失敗です。
そのために年中苦しんでいるわけです。その原因はなにかというと、信仰者は神の実在を知っているからですが、神の実在を知る知らないにかかわらず、正義感が実に少ないのです。
この正義について、いろんな角度から書いてみました。
(御論文「正義感」) 」
明主様御教え 「人間の価値は正義感」 (昭和26年10月10日発行)
「およそ人間の価値を定めようとする場合、一番間違いのないのは、正義感の多少である。
この人なら悪い事はしない、この人なら信用が出来る、何を委しても安心だ、という標準を置くのが、一番正確である。
全くこれ以上に良い方法はないといってよかろう。
すなわち正義感こそ言わば人間の骨である。
正義感のない人は、骨無しの水母(くらげ)みたいなものだから危なくて安心出来ない。
従って人間は何事に対しても、正邪の判断から先につけるべきで、もし先方が悪であれば、いささかも屈する事なく、正をもって対抗すべきである。
この方針で世の中を渡るとしたら、一時は苦しい事もあるが、結局は必ず思い通りになるものであるから、心配は要らない。
何しろこの頃の世の中と来ては、悪い人間が余りに多すぎるので、ウッカリすると直にこちらを瞞(だま)したり、利用したりして酷い目に遭わせるから、実に油断も隙もならない世の中である。
だから気の弱い人は、いつもビクビクしているが、これは全く確固たる正義感がないからである。
何よりの証拠は、私の長い経験によってみてもそうである。
それを参考のためかいてみるが、私は宗教家となる以前の、実業家であった当時の事だが、随分悪人に瞞されたり、酷い目に遭わされたりしたものである。
しかし有難い事には、私は生まれつき人並外れて正義感が強いので、どんな目に遭っても、損得を度外しても闘ったものである。
飽くまで正義を貫く方針で努力したので、それがため随分不利な事もあったが、それは一時的でいつかしら良くなり、ついに先方は負けてしまい、降参するのである。
その結果最初の不利を取返えして、なお余りある程の利益となったものである。
そんな訳で、いつも三つや四つの裁判事件があり、今もって続いているものもある。
ある時などは私が金に困ってピイピイしていた時代、先方は金と地位に委せて、随分私を虐(いじ)め抜いたものだが、長い間には私の方が有利に展開して、先方は往生したのである。
その例を少しかいてみるが、私が小間物問屋をしていた頃、新発明の品物を作り、世界十カ国の専売特許を得、売り出したところ
大いに当って三越と特約をしたり、当時の流行品ともなったので、東京の小間物小売商組合から、はなはだ自分勝手な要求をして来た。
それは二種ある品物の中、一種の方だけ自分の方へ売り、外の一種を三越へ売ってくれというのである。
それでは三越を踏みつけにするので、私は応じなかったところ、
組合は多数の力を頼んで、言う事を利かせようとし、東京全市の小売商が連合して、ボイコットをして来たが、
それでも私は諾(き)かなかったので、一時は大打撃を受けて困ったが、
それをジット我慢していたところ、二年後とうとう組合の方から我を折って来たので、妥協解決がついた事がある。
今一つ面白かったのは、取引上三越の方に理不尽な事があったので、私の方から取引停止をすべく抗議したところ、
流石(さすが)の三越の係も驚いて、恐らく今まで大抵な無理な事をしても、取引先の問屋の方で我慢するのが常になっていたのが、今度の君のような気の強い事を言って来た人は、今までになかったと言うのであるが、
結局、私の方の主張が正しかったので、三越の方から折合って来て、解決したのである。
その後宗教家になってからの私は、自観叢書にもある通り、随分波乱重畳の経路を辿(たど)って来、その間危うかった事も一再ならずであった。
何しろその頃は新宗教でさえあれば、当局は弾圧の方針を採っていたし、しかもその御本尊が軍閥と来ているから、どうしようもなかったので、実に苦労したものである。
ところが今日軍閥もアアいう運命になってしまったのだから、ヤハリ正義が勝った訳である。
これらの経験によってみても、今までは悪の幅(はば)る世の中であるから、善の方は一時は負けるが、それを辛抱さえすれば、必ず勝つのである。
結局人間は正を踏んで恐れず式で、正々堂々と邁進するのが一番気持が良く、それが本当である。
そういう人間こそ、社会の柱となり、社会悪の防塞ともなるので、健全な社会が生まれるのである。
何となれば神は正なる者には、必ず味方されるからである。」
明主様御講話 「人間の価値は正義感」 (昭和27年10月1日)
「民主主義のほうが正ですから御守護をいただけます。
その代わり一時は苦しむことはあります。しかし結局勝つことになります。
勝たなければ世の中は崩壊してしまいます。
正義はどんなことをしても蹂躙(じゅうりん)されないから世界というのはいいのです。
もし正義がちょっとでも勝たなければ、世界というものは崩壊してしまいます。
たいへんなものです。だからキリストだって、正しいから自分の身が滅びてまでやっぱり世界を何するだけの力を現したのです。
だから人間は正義がーこれは形だけではありません。
正義というものを打ち通そうという信念だけが人間の値打です。
それの強いほど人間の価値があるのです。
それがなくして、ご都合主義や打算主義の人間は形だけです。骨のない人間です。
今はほとんどそういう人間ばかりと言っても良いでしょう。そこで人間の骨です。」
明主様御教え 「悪に対する憤激」 (昭和26年2月25日発行)
「つくづく、現在の世の中を見ると、どうも今の人間は、悪に対する憤激が余りに足りないようだ。
例えば悪人に善人が苦しめられている話など聞いても、昂奮(こうふん)する人は割合少ない。
察するに、悪に対しいくら憤激したところで仕方がない、しかも別段自分の利害に関係がないとしたら、
そんな余計な事に心を痛めるより、自分の損得に関係のある事だけ心配すれば沢山だ、
それでなくてさえ、この世智辛い世の中は心配事や苦しみが多過ぎる、だから、見て見ぬ振りする。
それが利口者と思うらしい。しかも世間はこういう人を見ると、世相に長けた苦労人として尊敬するくらいだから、それをみて見倣(なら)う人も多い訳である。
また、政治が悪い。政治家や役人が腐敗している。
社会の頭(かしら)だった人が贈収賄、涜職(とくしょく)事件等でよく新聞などに出ており、
特に近来非常に犯罪が増え、青少年の不良化等も日本の前途を想えば、このままでは済まされないし、役人の封建性も依然たる有様だし、
民主主義の履き違いで、親子、兄弟、師弟の関係などもまことに冷たくなったようだ。
税の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)も酷過ぎるし、民主主義も名は立派だが、実は官主主義に抑えつけられて、人民は苦しむばかりだ。
その他何々等々、数え上げれば限りのない程、種々雑多な厭な問題がある。
これらことごとくはもちろん、社会的正義感の欠乏が原因であるに違いないが、
何といっても、前途のごとくいわゆる利口者が多すぎるためであろう。
しかしよく考えてみればそういう社会になるのも無理はない。
いつの時代でもそうであるが、殊に青年層は正義感が旺盛なもので、悪に対する憤激も相当あるにはあるが、
まず学校を出て一度社会人となるや、実際生活にぶつかって見ると、意外な事が余りに多く、段々経験を積むに随って考え方が変ってくる。
なまじ不正に興奮したり、正義感など振り廻したりすると、思わぬ誤解を受けたり、人から敬遠されたり、上役からは煙たがられたりするので、出世の妨げともなり易いという訳で、
いつしか正義感などは心の片隅に押し込めてしまい、実利本位で進むようになる。
こうなるとともかく一通りの処世術を会得した人間という事になる。
これらももちろん、悪いとは言えないが、こういう人間が余り増えると、社会機構は緩み勝となり、頽廃気分が瀰漫(びまん)し、堕落者、犯罪者が殖える結果となる。
現在の社会状態がそれをよく物語っているではないか。
そうして私の長い間の経験によるも、まず人間の価値を決める場合、悪に対する憤激の多寡によるのが一番間違いないようである。
何となれば悪に対する憤激の多い人程骨があり、確(しっ)かりしている訳だが、しかし単なる憤激だけでは困る、ややもすれば危険を伴い勝だからである。
事実青年などがとかく血気にハヤリ、人に迷惑を掛けたり、社会の安寧を脅す事などないとは言えないからで、それにはどうしても叡智が必要となってくる。
つまり憤激は心の奥深く潜めておき、充分考慮し、無分別なやり方は避けると共に、人のため、社会のため、正なり、善なりと思う事を、正々堂々と行うべきである。
これについて私の事を少しかいてみるが、私は若い頃から正義感が強く、世の中の不正を憎む事人並以上で、
不正を見たり聞いたりすると憤激止み難いので、その心を抑えつけるに随分骨を折ったものである。
しかしこの我慢は仲々苦しいが、これも修業と思えば左程でなく、また魂が磨かれるのももちろんである。
この点今日といえども変らないが、これも神様の試練と思って忍耐するのである。
このような訳で理想としては、不正に対し憤激がおこるくらいの人間でなくては、役には立たないが、ただそれを表わす手段方法が考慮を要するのである。
すなわちいささかでも常軌を失したり、人に迷惑を掛けたりする事のないように、くれぐれも注意すべきで、どこまでも常識的で愛と親和に欠けないよう、神の心を心として進むべきである。」
明主様御教え 「信仰即正義」 (昭和25年6月3日発行)
「まず宗教とは何ぞやといえば、言うまでもなく宗教理論や宗教哲学を難しく説く事ではなく帰するところ正しい人間を造る事であって、それ以外の何物でもない、
しかし口でいえばそれだけの事ではなはだ簡単であるが、実際上その簡単な事がとても難しいのである、
論語に、言うはやすく行うは難しという言葉があるが、全くその通りであるとしたら、何でそのように難しいかをかいてみよう。
いかなる人間でも、偉くなるにも金を儲けるにも出世をするにも大抵の人は善い事ばかりでは駄目だ、
どうしても幾分かの悪い事が交るのも止むを得ないというように思い込んでいるのが実情である、
しかも楽しみや遊び事に対してさえも、善い事よりも悪い事の方が面白いとされている、
右のような考え方が何百何千年も続いて来たので、遂に人間処世の常識とさえなってしまったのである、
昔からこれに対し、法律や道徳教育等によって改善しようと骨折っては来たが、その効果ははなはだ微々たるものである、
とすればどうしても宗教より外に方法のない事は今更いうまでもない、
しかし単に宗教といってもその力の強弱が大いに関係する、それは力の足りない宗教ではどうしても悪に勝つ事が出来ない、
宗教信者でありながら非行にうち勝ち得ないものもそのためである、いかなる宗教でも本当に正義を貫く信者は寥々(りょうりょう)たる有様である。
以上によってみる時、その結論としては、悪に打勝つ力ある宗教が現れなくてはならない、
それによってのみより善い社会も幸福な平和世界も生まれるのである、吾らが唱える信仰即正義とはこれを言うのである。」
明主様御教え 「政治は正義」
「現在日本の政治家について、吾々の思う通り言わして貰えば、何といっても余りに正義感の足りないように見える事である。
例えば政府にしても与党や反対党にしても、何らかの問題にといて、論議し意見を戦わす場合といえども、閣僚の意見は国民の利害は第二とし、政府自体の利害を先にするように見える。
つまり失敗のないよう、反対党から斬込(きりこ)まれないよう、言論機関から非難を受けないようというように、そのことごとくが利己的観念から出発している。
また反対党にしても政府のやり方のいい悪いはどうでもいい。
とにかく何かの欠点を見出し、抜差しならないように虐(いじ)めてやり、あわよくば内閣をブチ壊して、自党の側で政権を奪(と)ろうとするような事のみに懸命になっているのであるから、
どちらも忌憚(きたん)なくいえば、政府は常に保身術のみに営々としており、野党は内閣ブチ壊しが目的の第一としているのは、争う余地のない事実であろう。
以上の様相を国民から見る時、政府及び与党も反対党も、国利民福などは二の次で、封建時代と同様、天下の実権を把握するのが、全部の目的としか思われない。
それが昔は武器によって雌雄(しゆう)を決したのだが、それに代るに今は舌の剣で、議会という戦場で闘っている訳だから、国民こそいい面の皮である。
こうみてくると国民は彼らの利益のために、道具にしかなっていないように思われるのであるから、何と情ない話ではあるまいか。
とすれば今日といえども、封建時代の社会を思わせる。ただ形式が文化的になっただけの話でしかあるまい。
このような訳であるから、何よりも国民が政治に対する信頼感は、極めて薄弱である。
例えば今度の選挙にしても、それがよく現われている。
というのは国家の利害よりも、自己の利害によって投票をする。
というのは結果を見ても分る。つまり意外な番狂わせである。
その中で最も景気のよかったのは社会党左派であるが、これは左派の政策によったのではない。
ただ再軍備反対の看板によったのである。言うまでもなく戦争に懲(こ)り懲(ご)りしたのはもちろんだが、
本人は固より、自分の亭主や息子で年頃であるとすると、戦争で引張られる憂いがあるからで、多分婦人投票が多かったからであろう。
また改進党や鳩山派の成績が悪かったのも、右と反対であったからであるのはもちろんである。
ところが自由党が割合成績がよかったのは、再軍備に対し、どこまでもボヤかしており、
保安隊を作り、吉田首相はどこまでも再軍備はやらないという、その意見に安心して投票したためであろう。
また社会党右派が左派よりも悪かったのは、幾分再軍備の匂いがあるからであるに違いない。
とすればこのような国民の考え方は国家本位よりも、自己本位という考え方が実によく現われているとしか見ねばなるまい。
以上によってみても、政治家の利己的思想が根幹となって、国民全部の思想を濁らしているのは明かであるから政治家たる者はこの点大いに考えて貰いたいのである。
これを一言にしていえば、自己的観念よりも、国家的観念を第一にする事である。
つまりどうすれば国家が繁栄し、人民の幸福が増進するかという事を、常に考えて意見を立てて行動に移すべきである。
この根本こそ正義感の多少による事は言うまでもない。
これは何事もそうだが、政治の善い悪い程国民全体の福祉に影響するものはないからで、日本の再建も将来の繁栄も、ただこの一点にある事を強調したいのである。
これについて言いたい事は、この正義感を培う手段としては、信仰より外にあり得ない事を断言するのである。
ところが不思議な事には、我国も多種多様の宗教があり、古い宗教も新しい宗教も、日本くらい多い国はないとされている。
にもかかわらず民衆の方は相当信仰者の数もあるが、政治家始め学者やジャーナリストの指導階級にある人は、その点 零といってもいいくらいであるから、
日本が病気、貧乏、犯罪等、社会悪が多いのも、根本は右の理由にある事が明かである。
従ってこの点に気が付き、信仰を政治の基本としない限り、日本の繁栄は望み得べくもない事を銘記すべきである。」