悪が暴露する理由について


明主様御教え 「悪は何故暴露するか」 (昭和26年12月26日発行)

「私は前々号に無神迷信の題名の下に、公務員の汚職問題について詳しくかいたから、大体分ったであろうが、

要するにその根本は不正をする人の心理である。もちろん人の目にさえ触れなければ、どんな悪い事をしても隠し終(おお)せるという、いわゆる無神思想である。

そこで今一層徹底してかいてみるが、なるほど右の考え通り悪が絶対知れずに済むとしたら、こんな旨い話はないから、出来るだけ悪い事をして、儲けた方が得という事になる。

今日悪い事をする人間のほとんどは、そうした考え方であるのは言うまでもない。

ところがいくら巧妙にやっても、いつかは必ず暴露してしまうというこの不思議さである。

としたら彼らといえどもそこに気が付かない訳はなかろうが、本当の原因がハッキリ分らないがため、悪事を棄て兼ねるというのが偽らざる心情であろう。


そこで私はなぜ悪事は、必ず暴(ば)れるかというその原因を明らかにしてみるが、

まず何より肝腎な事は、なるほど人の目は誤魔化す事が出来ても、自分の目は誤魔化せないという点である。

どんなに人に知れないようにしても、自分だけはチャンと知っている以上、自分には暴露されている訳である。

そうして一般人の考え方は、自分は社会の一員としての独立の存在であって、別段他には何らの繋りがないから、何事も自分の思った通りにやれば一向差支えはない。

だから自分に都合のいい事、利益になる事だけを巧くやればいい、それが当世利巧なやり方であるとしている。

従ってたまたま利他的道義的な話を、先輩や宗教人などから聞かされても、上辺(うわべ)は感心したように見せても、肚の中では何だ馬鹿馬鹿しい、

そんな事は意気地なしの世迷言(よまいごと)か、迷信屋の空念仏だくらいにしか思わないのが実際であろう。

全くそういう人間こそ形に囚われ精神的には零でしかないから、人間としての価値も零と言えよう。

右は現代人大部分の考え方を、ありのままかいてみたのであるが、ではこういう思想の持主が、果して将来幸福であろうかというと、例外なく失敗するのである。

ではなぜ失敗するかというと、前述のごとく、悪は人には知れなく共、自分だけは知っているのだから、この点が問題である。

なぜかというとどんな事でも、人間の肚にあるものは何でも彼んでも、手に取るように分るある恐ろしいところがある。

その恐ろしいところとは一体どこかというと、これが霊界にあって現界でいえば検察庁のようなところで、いわゆる閻魔の庁である。

ところが悲しいかな、唯物思想に固まった人間には信じられないので、たまたま人から聞かされても、そんなものはあるもんかと否定し、少しも耳を傾けようとしない、この想念こそ悪の発生源である。

この理によって本当に悪を無くすとしたら、これを教え信じさせる事で、これ以外効果ある方法は絶対ない事を断言するのである。


では閻魔の庁へなぜ知れるかというと、人間の魂とその庁とは霊線といって、現界の無線電波のようなものが一人一人に繋がっていて、一分の狂いなく閻魔の庁に記録されてしまう。

庁には記録係があって、一々帳簿へ載せ、悪事の大小によってそれ相応に罰するので、

それが実に巧妙な手段によって暴露させ、現界的刑罰を加えるのであるからこの事が肚の底から判ったとしたら、恐ろしくて少しの悪い事も出来ないのである。

もっともその反対に善い事をすれば、それ相応な褒美を与えられるという、これが現幽両界の実相であるから、この世界は神が理想的に造られたものである。

これが絶対真理であってみれば、これを信ずる以外、根本的解決法はないのである。

ところが現代はそういう霊的な事は、政府も有識者も盲目であるから、反って大衆に知らせるのを非文化的とさえ思っているのだから、困ったものである。

そんな訳で、せっかくそれを分らせようとする吾々の仕事も、迷信と断じて警戒するくらいだから、本当からいえば御自分の方が、余ッ程迷信にかかっているのである。

その何よりの証拠は、これほど骨を折っても、汚職などの犯罪は少しも減らないばかりか、むしろ増える傾向さえ見えるではないか、

それは単に表面に現われた犯罪を膏薬張で防ごうとしているのだから駄目で、容易に抜けられそうな法網を張ったり、誰でも破れるような取締りの塀で塞ごうとしていて、全然急所が外れているのだから、その愚及ぶべからずといいたいくらいである。

しかもこれが文化国家と思い、得々としているのだから、余りに幼稚で、現在は文化的野蛮時代といってもよかろう。」




明主様御教え 「善と悪」 (昭和23年9月5日発行)

「世の中は善悪入り乱れ、種々の様相を現わしている。

すなわち悲劇も喜劇も、不幸も幸福も、戦争も、平和も、その動機は善か悪かである。

一体、どうして善人もあれば悪人もあるのであろうか。

この善悪の因って来たるところの、何か根本原因がなくてはならないと誰しも思うであろう。

今私がここに説かんとするところのものは、善と悪との原因で、これはぜひ知っておかねばならないものである。

もちろん普通の人間であれば善人たる事を冀(ねが)い、悪人たる事を嫌うのはあたり前であり、

政府も、社会も、家庭も、一部の人を除いては善を愛好する事は当然であって、

平和も幸福も悪では生まれない事を知るからである。

私は判りやすくするため、善悪の定義を二つに分けてみよう。

すなわち善人とは「見えざるものを信ずる」人であり、悪人とは「見えざるものは信ぜざる」人である。

従って「見えざるものを信ずる」人とは、神仏の実在を信ずる、いわゆる唯心主義者であり、

「見えざるものは信じない」という人は唯物主義者であり、無神論者である。その例を挙げてみよう。


今人間が善を行なう場合、その意志は愛からであり、慈悲からであり、社会正義からでもあり、大きくみれば人類愛からでもある。

そうして善因善果、悪因悪果を信じて善を行なう人もあり、憐憫の情、やむにやまれず人を助けたり、

仏教でいう四恩に酬いるというような報恩精神からも、物を無駄にしない、勿体ないと思う質素、倹約等、いずれも善の現われである。

また人に好感を与えようとし、他人の利便幸福を願い、親切を施し、自己の天職に忠実であり、

信仰者が神仏に感謝し報恩の行為も、神仏の御心に叶うべく努める事も、みな善の表れである。

まだ種々あろうが、大体以上のごとくであろう。


次に悪事を行なうものの心理は、全然神仏の存在を信ぜず、

利欲のため人の眼さえ誤魔化せば、いかなる罪悪を行なうも構わないという・・・虚無的思想であり、

欺瞞は普通事のごとく行ない、他人を苦しめ、人類社会に禍いを及ぼす事などは更に顧慮する事なく、

甚だしきは殺人さえ行なうのである。

そうして戦争は集団的殺人であって、昔からの英雄などは、自己の権勢のため、限りなき欲望のため、

大戦争を起こし、「勝てば官軍」式を行なうのである。

「人盛んなれば天に勝ち、天定まって人に勝つ」という諺の通り、一時は華やかであるが、

必ずと言いたい程、最後には悲惨な運命に没落する事は歴史の示すところで、もちろん動機は悪である。

このように人の眼さえ誤魔化せば、いかなる事をしても知れないという事であれば、

出来るだけ悪事をして、栄耀栄華に暮すほうが得であり、怜悧(りこう)・・・という事になる。

また死後人間は零となり、霊界生活などはないと思う心が悪を発生する事になる。

しかるに、いか程悪運強く、一時は成功者となっても、長い眼でみれば必ずいつかは没落する事は例外のない事実である。

第一悪事を犯した者は、年が年中不安焦躁の日を送り、いつ何どき引っ張られるか判らないという恐怖に脅え、

良心の呵責に責められ、ついには後悔せざるを得なくなるものである。

よく悪事をしたものが自首したり、捕まってからかえって安心して、刑罰にあう事をよろこぶ者さえある事実を、我等はあまりに多くみるのである。

それはすなわち神より与えられたる魂が、神から叱責さるるからである。

何となれば、人間の魂は霊線によって神に通じているからである。

故に悪を行う場合、完全に人の眼を誤魔化し得たとしても、自分の眼を誤魔化す事は出来ないから、人間は神と霊線で繋がっている以上、

人間のいかなる行為も神には手にとるごとく知れるからで、いかなる事も閻魔帳にことごとく記録さるるという訳である。

この意味において、悪事程割の悪い事はない訳である。


しかしながら、世の中にはこういう人もある。

悪事をしようとしても、もしかやり損って世間に知れたら大変だ、信用を落し非常な不利益となるから、という保身的観念からもあり、

悪事をすればうまい事とは知りながら、意気地がなくて手を出し得ないという人もあり、

また世間から信用を得たり、利益になるという観念から善を行なう功利的善人もある。

また人に親切を行なう場合、こうすればいずれは恩返しをするだろう・・・とそれを期待する者もあるが、

このような親切は一種の取引であって、親切を売って恩返しを買うという訳になる。


以上述べたような善は、人を苦しめたり、社会を毒したりする訳ではないから、悪人よりはずっと良いが、真の善人とはいえない。

まず消極的善人とでもいうべきであろう。

従ってこのような善人は、神仏の御眼から覧れば真の善人とはならない。

神仏の御眼は人間の腹の底の底まで見通し給うからである。

よく世間の人が疑問視する「あんな好い人がどうしてあんなに不幸だろう」などというのは、

人間の眼で見るからであって、人間の眼は表面ばかりで肚の底は見えないからで、

この種の善人も詮じつめれば「見えざるものは信じない」という心理で、何等かの動機に触れ、少々悪事をしても人に知れないと思う場合、それに手を出す憂いがある以上、危険人物とも言える訳である。

これに反し、見えざる神仏を信ずる人は、人の目は誤魔化し得ても神仏の眼は誤魔化せないという信念によって、いかなるうまい話といえども決して乗らないのである。

故に現在表面から見れば立派な善人であっても、神仏を信じない人は、いつ悪人に変化するか判らないという危険性を孕んでいる以上、やはり悪に属する人と言えよう。


以上の理によって、真の善人とは「信仰あるもの」すなわち見えざるものを信ずる人にしてその資格あり・・・というべきである。

故に私は、現在のごとき道義的観念の甚だしき頽廃を救うには、信仰以外にないと思うのである。

そうして今日まで犯罪防止の必要から法規を作り、警察、裁判所、監獄等を設けて骨を折っているが、

これらはちょうど猛獣の危害を防止するため檻を作り、鉄柵を取りめぐらすのと同様である。

とすれば、犯罪者は人間として扱われないで、獣類同様の扱いを受けている訳で、

せっかく貴き人間と生まれながら、獣類に堕して生を終るという事は、何たる情ない事であろう。

人間堕落すれば獣となり、向上すれば神となるというのは不変の真理で、全く人間とは「神と獣との中間である生物」である。

この意味において、真の文化人とは獣性から脱却した人間であって、

文化の進歩とは、獣性人間が神性人間に向上する事であると私は信ずるのである。

従って、神性人間の集まる所・・・それが地上天国でなくて何であろう。」




明主様御教え 「愚かなる者よ! 汝の名は悪人なり」 (昭和24年4月30日発行)

「悪人とは何ぞや、言うまでもなく善人の反対であって

自己の利益のため他人を犠牲にして平気でいるばかりか、

中には一種の興味のためかとも思える奴さえある、

ここでまず彼らの心理を解剖してみるが、

よく悪人は太く短くという事を口にするが、悪事千里のたとえ通り長い期間は隠し了(おお)せないという意味であろう、

従って彼らは初めから承知してかかるのでもし知れたら百年目という覚悟である、

ところが単に悪事というと市井の無頼漢が強窃盗や殺人等のように想われ勝ちだがそうばかりではない、

社会的地位のあるものが実に危険至極と思われるような不正をする、

終戦後新聞雑誌を賑わしているものに物質の隠匿横流し、脱税、贈収賄等の忌わしい犯罪があまりにも多い事実である、

この人がと思うような立派な名士等が小菅(こすげ)行となるなどは不思議と思うくらいである、

しからばなぜ以上のような不正を行うかというと人の目を誤魔化し、巧妙にやれば知れずに済むという考えからである事はもちろんである、

ところが悪い事はどうしても知れずにはいない、これは見えざる霊界における神々が照覧ましましているからで、

常に吾々が口を酸っぱくして言うところの「無信仰者は危険人物である」とはこの事で、

相当偉い人でもこの肝腎の事が認識出来ないのである。


ところが一度不正が暴露し犯罪者となった以上社会的信用は失墜し、

それを挽回するまでには相当長年月を要する事はもちろんで、

中には運悪く一生埋れ木となる人さえ往々見受けるのである、

考えてもみるがいい、ちょっとした不正利得のために及ぼす損失たるや、利得した何倍何十倍に上るか知れないのである。


明治時代有名なピストル強盗清水定吉なるものが捕えられた時、彼はつくづく述懐したそうである、

その言葉によれば「強盗くらい割の悪い商売はない、自分が今まで盗んだ金を日割にすると一日四十五銭にしが当らない」との事であるから

いくら物価の安かった明治時代でも全く割に合わなかったに違いない。


以上のごとく信仰上から考えても打算的からいっても割に合わないばかりか、

罪悪が暴露するまでの期間常に戦々兢々として枕を高くして寝る事は出来ないのであるから

悪事不正をやる人間くらい愚かな者はない訳である、

ゆえに標題のごとく「愚かなるものよ! 汝の名は悪人なり」と言うのである。」




明主様御講話 「無神迷信について」 (昭和26年11月28日)

(御論文「無神迷信」の後の御教え)

「もう少し書くつもりなんですがね。それは、先にも少し・・・ちょっと、書いた事がありますがね。

人の目をごまかし得ても、自分の目をごまかし得ないという事を・・・先に、書いたつもりですがね。

だから、誰も知らないと思っても、自分だけは知っているんです。

ところが、自分と言うのは、霊線によって神様につながっていますから、何かあると、自分が知っている事は、取り締まりの方にすぐ知れちゃうんです。

つまり、閻魔の浄玻璃(じょうはり)の鏡のようなものですね。

そこで、審きというか、浄化と言うか・・・起こるので、その点を知らせれば良いんです。

だから今の文化と言うのは、実に安直なもので、ああいう・・・相当社会的にも偉い人達が、ほとんど悪い事はしてない者はないくらいですからね。

それで今・・・ここに役人の人がいたら・・・何ですけれどもね・・・官吏という・・・役人と言うのは、実に信仰が嫌いなんです。

ですから、役人で信仰に入ると言うのは非常に少ないんです。少ないから、役人で信仰に入るのは・・・非常に偉い人ですね。

そんなような具合ですから、無神者というのは役人、新聞屋とかジャーナリストですね。

だから、そう言う人はどうしても隠し事をしたがる。

そう言った、社会を指導するような、社会の上に立つような人が、そういう事をするから、どうしても一般はまねする。

それを我々は打ち破るんですからなかなか大変な事です。

これは人間業ではないから・・・神様がやっているから出来るようなものの、それを解らせるということです。

そうでなければ、いくらでも出てくる訳ですね。

だから、始終政府は官紀粛正だとか、いろいろやってますが、一時的なものでー今だいぶやかましくなったから、当分の間気をつけよう、今にほとぼりが冷めたら・・・今のところはそのつもりでやりたまえ、というような具合でね。

だから、いつまでたっても、後々と出る。医学の対症療法みたいなものです。

痛いところは、注射でとる。熱いところは氷で冷ますという・・・つまり、表面に出たところをやるという・・・それが、今の文化ですからね。

我々の方は、外に出たものはたいして問題にしないが、出るべき元ですね。それをギュッとやっつけるんです。

ところが、こっちの方は目に見えない仕事で、向こうの方は目に見える仕事だから・・・警察や法律で抑えつけるから、はっきり効果があるように思われる。

ところが、我々の方は、その何倍、何十倍の効果があるが、目に見えない効果だからね。

ちょうど、浄霊でやるのを医者の機械でやるようなものですね。


お蔭話に出てますが、最初は手を振ってやれば・・・治るものかと、失望したとあるが、ところがあくる日になるとだいぶ良いので、変だと言う事になる。

それと、ちっとも違わないですね。これが唯物教育の結果なのです。

つまり唯物思想が悪の根本になる訳です。

そこで、この間も、悪が今まで必要だったという論文を書きましたが、それと同じように、みんなカチカチの唯物思想になったという事も、これは今までは必要だったんです。

それでなかったら唯物文化は発達しないんですから、そのために発達したが、その代わり余計な・・・あってはいけないものがあるから、メシヤ教はそれを取ると言う仕事なんです。

これは良いものを拵えようとする場合に、ゴミとかカスとか、色んな汚い物が出来るんだから、それをまだ取り切れないで、汚い・・・削った粉だとか、色んな物があるんですね。

あるのがそれで良いとしているのが、今の文化です。

苦しみながら、それに気がつかないでいる。

そこで我々の方は、出来あがったものはとっておいて、汚い物は掃除していく・・・しなければならないと言うんです。

ところが、使い道になるのは少なくて、カスの方がずっと多いんです。


だから厄介ですが、神様がやられているんだからね。

いずれはちゃんと掃除ができますがね。

その掃除と言うのは・・・だんだん掃除されるべく、神様の力が強くなりますからね。

それが、つまり火素が増えるんですね。

霊界が違ってくるから、結局において浄化がドンドン強くなりますからね。

今信仰に入っている信者ですね。信者も随分浄化が強くなっているが、信者だから浄霊で解決がついてますが、一般・・・世の中に浄化が強く来るようになると、これは大変です。

幾分そういう傾向が見えてきましたがね。

今までは寒くなると赤痢がなくなるが、今年は寒くなっても赤痢が出るんですね。

ああ言うのは、浄化が強くなったんですね。一番始末が悪いのは薬毒ですが・・・

狐が薬毒を知っているんです。それで、人間に教えているのがありますからね。

(御論文「無神迷信」)


それから、B・C・G問題について、この間新聞に出ていたある村の事がちょっと面白いと思うので、それに書き添えたのと一緒に新聞に出して、この間のも、これも厚生大臣に送ってやろうと思ってますがね。

(「再びB.C.G問題について」の後の御教え)」




明主様御垂示 「想念の記録」 (昭和23年6月24日)

「人間のやった事は霊界へ印象される。鎌倉は武士が沢山いて戦ったりなどしたが、鎌倉の霊界にはそういう気分がする。また鎌倉へ行ってると、いい意味で昔の鎌倉時代の感じが出ている。京都、奈良も同様である。

空間に、そんな記録があるのである。

人間が悪い事をすると、霊線によって幽庁に通じ、記録され残っている。

空間の霊界にも、人間の行為の記録が残る。

であるから、今に人間の想念や行動を記録する機械が出来ると思う。

一軒の家でも、始終喧嘩している家は感じが悪いのは、その家の霊界に悪い想念や行ないが記録されているのを感ずるからである。

また、史蹟などを訪れるとその時代の雰囲気が漂っているのは、昔作られた雰囲気が残っているからである。

すべて想念は霊界へ反映して、曇りや悪気になるのである。

人間が善い事をするようになると、善い記録が残るから、感じがよくなる。

故に信者の家へ行くのと普通の家へ行くのと感じが違うのは、そういう訳である。」