宗教と政治について
明主様御教え 「宗教と政治」 (昭和23年9月5日発行)
「政治と宗教とは大いに関係があるにかかわらず、今日まであまり関心を払われなかったのは不思議である。
むしろ、宗教が政治に関与するを好まないばかりか、かえって政治から圧迫されて来たというのが、終戦以前までの実状であった。
これは古往今来各方面にみらるる現象で、宗教によっては迫害の強い結果、一時は法灯のまさに消えなんとした例も乏しくはなかった。
しかしながら、宗教の目的である理想世界を造り、人類の幸福を増進せんとしても、政治が良くなくてはその目的は達し得られない道理である。
この意味において、良き政治には良き政治家が必要となって来るが、良き政治家たるには、どうしても宗教心がなくてはならない。
今後の時代をして理想社会を実現せんとするには、まず宗教を政治に織り込む事である、と私は思うのである。
政治家の最も陥りやすい欠点は、外国は知らないが、日本においては涜職問題であろう。
しかるにこの原因は宗教心のない唯物的政治家だからであるーといえよう。
何としても、今後は宗教的政治家の輩出こそ我等が要望するところのもので、
それによってのみ将来の国運の進展を期待し得らるるであろう。
私は新日本建設にあたって、何よりも政治家に宗教心を培い、宗教政治が行なわれるようにならなければならないと思う。
今人々は口を開けば政治の腐敗、選挙の不正、役人の涜職、人民の脱税、教育家の堕落等をあげるが、
全くその通りで、この泥沼同様の社会を浄化せんとして、為政者を始めそれぞれの当事者人民大衆が苦慮しており、
その防犯手段として法の力のみを頼りにしているが、これは全然根本を逸している。
何となれば、犯罪の根拠は人間の内面にある魂そのものであるからである。
この魂を浄化する事こそ真に効果ある方法で、それは正しい信仰以外他にない事を私は信ずるのである。」
明主様御教え 「宗教 教育 政治」 (昭和24年8月27日発行)
「今世の中は誰が見ても、実に社会悪が充満しているといえよう、あちらこちらに忌わしい事が次々起り、人心不安はその極に達している、
一体こんなになった世相は、その原因はどこにあるかという事を深く考えてみなくてはなるまい、
そうしてその責任は一体どこにあるであろうかという事であるが、いうまでもなく、宗教、教育、政治の三者が負うべきではなかろうか、
とすれば、この三者のどこかに一大誤謬が伏在しているかを知る事である、その誤謬をはっきり知る事こそ問題解決の鍵であらねばならない、
今それらを、俎上(そじょう)にのせてみよう、まず宗教であるが、キリスト教は別とし、他の既成宗教は時代に懸け離れ過ぎている、
仏教にしても、二千六百年以前印度(インド)の民衆を対象として生れたものである以上、いかに釈尊が偉人であっても、その説くところが、深遠であっても、最早今日の時代に間に合うはずがない、
もちろん、現代日本の社会においてをやである、その時代の印度人が、真覚を得るため、何万巻という経文に浸り日々、森林の冥想などに耽(ふ)けるという事は、生活のため身動きも出来ない現代人として無理である、
既成宗教が今日、墓守以外手も足も出ないという現状は、全く当然の結果と言えよう、彼らが法灯(ほうとう)を維持するだけに汲々(きゅうきゅう)たる有様は、ただ気の毒というより外に言葉はない、
彼らが、社会事業によって、存在の唯一の手段とするに至っては、最早宗教の枠から逸脱していると言っても否定は出来まい。
次に教育であるが、これがまた、軌道から外れている事はおびただしい、教育の真目的は、立派な人間を作る事である、
もちろん、立派な人間とは正義を信条とし、社会の福祉を増進するに努め、文化向上に貢献する人間を作る事こそ、真の教育であるにかかわらず、
最高学府を出たものさえ犯罪を犯し社会に害毒を流したりする現状であってみれば、何とかせざるを得ないであろう、
しからばこの教育の過誤はどこにあるかといえば全く唯物主義偏重にある事は、吾らが常に口を酸っぱくしているところで、
どうしても唯心主義と相共に進まなくては教育の真目的を達成する事は思いもよらないであろう。
とはいうものの、長い間の誤謬である以上、今直ぐに改革する事は大なる困難が伴うのは吾らもよく知っている、
唯心主義とは、霊を認めさせる事で、それは神を認めさせるという事であって、これなくして唯心主義は成立つ訳がない、
もちろん、今日までも、それに対し、宗教をもってしているが、見るべき効果はないというのは力ある宗教がなかったからである、
そこへ本教が現れたのであって、本教こそは唯心主義を認識させ、科学と宗教を並行させ得るので、
それによってこそ、恒久的平和世界が生れ、ここに人類は天国的生活に入る事が可能となるのである、
いか程文化が進歩しても、幸福がそれに伴わないとすれば、唯物文化にのみ幻惑されていたその罪によるので、一日も早く人類はここに気付かなければならないのである。
次に、政治であるが、これはまたあまりにひどすぎる、ここでは日本のみを対象として論じてみるが、占領治下とは言いながら、あまりに貧困である、
政治の方も唯物的政治であるから内容は更にない、その日暮し的で前途の見透しなどつく政治家はほとんどないと言ってもよかろう、
これらの原因こそ、魂が曇っているからで、政治家といえども信仰を基礎としなければ到底、良い政治は出来るはずはないのである、
といっても、既成宗教ではそれだけの力はないから、どうしても新しい、そうして、力ある新宗教の出るより外に解決の道はないであろう。」
明主様御教え 「日本人と宗教心」 (昭和24年12月17日発行)
「トルーマン米大統領は昭和二十四年十月三十日夜「米国人の宗教生活」と題する特別ラジオ番組で左のごとく放送した。
米国は建国以来非常に宗教的観念の厚い国家である、
米国の建国者たちが求めたものは各人が自由な方法で神を崇拝することであり、
これこそ彼らが欧州から新世界に移ってきた強い動機の一つであった、
米国の独立当時のモットーは「新しき信仰」ということであったが、
われわれは依然として神に厚い信仰をささげている、
諸外国はいまや米国を平和への道における指導者と目しており、
この期待に応ずる十分な力をもっているものと確信するが、
それはわれわれが深い宗教的信仰をもつゆえにほかならない、
国家としての米国の力の根源は精神的なものである、
かつて積極的信仰によって開拓者が荒野を征服したように、
今日も積極的信仰によってわれわれは正しき平和、すべての者の自由、および人間生活が
真の神聖さを保つ世界を実現するため働くことが出来るであろう。
右のごときトルーマン氏の宣言によっても明らかなごとく、
米国今日のごとく、世界の指導者として磐石(ばんじゃく)の地位も
僅々百数十年の期間に築き上げたという事は世界の驚異で、
その原因が奈辺にあったかを知るべきである、
それはまったく崇高なる宗教精神が、その根幹をなしていた事で、
この事によってみても再建日本としての最も緊要なる事は国民挙(こぞ)って信仰心をもつことは言うまでもないのである、
米国においてはいかなる家庭といえども一冊の聖書は必ず備えてあるという事なども実に羨しい限りである。 」
明主様御教え 「アメリカと正義」 (昭和26年2月28日発行)
「現在の世界的危機の中にあって、アメリカが中共を侵略者としての、烙印を押すという提案に対し、
英国を初め欧州における各連合国は、ハッキリした態度を見せなかったが、
今回米国の希望通りの結果を見た事はまことに喜ぶべきである。
何しろ第二次戦争の惨禍を嘗(な)めつくして来た欧州の民族としては、煮え切らなかったのも無理はないが、
そうかと言っていかなる方策を講じたとしても、今更ソ連の世界制覇を思い止まらせようとは、到底出来っこないのは、言うまでもあるまい。
むしろ、益々軍備を充実し、隙あらばどこへでも手を出そうとするのは疑いない事実だ。
と言って、アメリカといえども自由民主主義の建前からいかなる努力を払ってもソ連の野望を打砕くか、
さもなければ到底太刀討が出来ないと諦めざるを得ないまでの、強大な軍備を造らなければならない。
それが今欧州各国を引摺って、着々その準備に取掛かった訳である。
ところが亜細亜の方は、ネール氏が指導役となって、飽くまで朝鮮問題を解決しようとしたがついに失敗したとはいえ、
欧州各国と同様、いつソ連の手が中共を操って、軍備の乏しい亜細亜を掻き廻し始めるか判らないという心配は、どこも同じであろう。
ところでアメリカは、他の国家の意向などに頓着なく、
飽くまで初心を貫こうとするその正義感は素晴しいものである。
もちろん同国は強大な軍備が後楯となっているためもあろうが、
それ以上にアメリカの伝統的正義感の絶対性である。
この正義感こそ何によってなれるかというと、もちろんキリスト教の信仰からである事は、
最近発表されたト大統領の教書にしても、信仰が味方である事を強調しており、
またマ元帥の重要な宣言の中にも、神という文字が必ずあるにみて肯れるであろう。
ひるがえって、我日本の首相初め要路者や、指導者階級の言説を見る時、
信仰とか神とかいう言葉はいささかもない、としたら実に心細い限りである。
従って日本の指導階級が神、信仰、正義を口にするようにならなければ、
たとえ講和になったとしても、その前途は安心出来ないのはもちろんで、
いつ国家の前途を誤る政治家や、思想が出ないと言い切れないからである。」
明主様御教え 「マッカーサー元帥」 (昭和26年5月2日発行)
「ダグラス・マッカーサー元帥、今回の解任については、各新聞挙(こぞ)ってその論評をかいたが、
どれをみても肝腎な事が抜けているから、私はかかない訳にはゆかないので、ここにかく事にした。
これは今更言うまでもないが、マ元帥帰国に際し、元帥を敬慕の余り、歓送に集い寄る日本人の心情は、誰もが同じであろう。
恐らく今までにこのように国民挙って、心から敬愛した人は日本人中にさえ例をみないであろう。
全く、不思議な人である。私としても嘗(かつ)てない気持が湧き起った。
それは今回の元帥解任の報を聴くや驚くと共に、目頭(めがしら)が熱くなるのを、どうする事も出来なかった。
今までにこんな例はない。丸で親兄弟か、教えの師にでも別れるような、心(うら)寂しい感がしたのである。
ところで、この不思議な感情は、何がゆえに湧くのであろうかを考えてみた。これが是非私の言いたい点である。
すなわち元帥程の大きな愛と、正義感の強い人は滅多にないからである。
しかも身は軍人でありながら、その優しさと奥床しさは、人を魅了せずにはおかない。
言わば古武士のごとき床しさもあれば、英雄ぶるような臭味は少しもなく、いかにも自由平等的である。
こう並べ立てればキリがないが、そういういい面は何が原因かというと、全く信仰から生まれた正義感の表われであろう。
というのは元帥は熱烈なクリスチャンである事で、時々出すメッセージの中にも、神という文字がよくそれを物語っている。
そんな訳で、元帥が日本にもうおらないと思うと、何かしら心寂しいものに襲われる。
頼るものがなくなったような寂しさだ。というのは元帥の正を踏んで恐れずという、アノ固い正義感からであろう。
みなアメリカの利益のみを考えないで、日本を敗戦国と見なさない人類愛的、公平な扱い振りであるからである。
終戦後日本へ上陸された第一声の中にも、その事をよくうたわれていた。
ここで、ひるがえって考えてみると、日本の政治家である。
相当偉い人もあるにはあるが、何よりも一番欠けている点は、宗教心と正義感と公平とであろう。
特に公平が見られない。
どうも国民の利害よりも、自党の利害を先にする嫌いがある。
というのは政策の善いとか悪いとかは二の次で、反対党の言う事は是非善悪を問わず、何でもかんでも反対するという狭量さである。
これが現在最も政界の弊害であると思う。
だから元帥の遺された業績を記念として、この際日本の政治家も、断乎自覚されん事を望むや切なりで、あえて苦言を提する次第である。」
明主様御講話 「選挙と有神思想」 (昭和27年10月5日)
「今度の選挙について滑稽なことは、公明選挙とかいって違反者をできるだけ少ないようにと、要するに公明正大にやらせようというのでしょうが、結果からみると、かえってこの前よりか違反者が多いのです。
実に皮肉な話ですが、われわれからみるとあたりまえなのです。
結局精神的に、つまり信仰的に・・・有神・・・ 神は在るということを覚らせる以外に絶対あるはずはないのです。
世の中に神がないとしたら、それは知れないようにうまく買収して、それからまた分からないようにごちそうをされたり、いくらかもらったりしたくなるのはあたりまえです。
私だって、もしこの世に神がないと知ったら、上手にやります。
とにかくそれこそ絶対に分からないように智慧を振るってやりますよ。
だからいろんなやり方をするのはあたりまえです。誰も咎める資格はないのです。咎める資格のある人は、信仰している人よりほかにないのです。
だからとにかく根本をぜんぜん無視して、結果だけを一生懸命にやっているという今の文化は、実にナンセンスです。
そういうことも結局はだんだん分かってくるのです。」
明主様御講話 「政教分離の要否の各国における相違」 (昭和28年3月25日)
「それからだんだんに政治、経済、教育という方面にまで革命するつもりでいます。
結局メシヤ教の目的というものは、世界の文化を革命するということです。
それで政治について、この間こういう話があったのです。
これは信者の人は知っているでしょうが、信者で衆議院議員三人と参議院議員の人が一人いましたが、毎月十六日にその人たちと質疑応答をやることになっているのです。
政治界のことや社会のいろんなことを知るうえにおいて参考になりますし、先方もまた現界の知識ではなく霊界の知識をたいへんに得ますから、おもしろいのです。
私はその時こう言ったのです。なにしろ今の政治というものは見ていられない。
それで政党を作ってもいいが、その代わり信者で代議士が三十人以上できれば政党を作ると言ったのです。
私が総裁になるわけではないが、誰かを立てて、その人を総裁にしてそうとうにやってもいい、その代わり無論選挙も別に変なことはするはずはないが、ただ印刷物をもって政見発表をするのです。
あとは地域的に演説をするという、それだけで、ほかの不正なことは絶対にしないのです。
そうして政党として行動する場合、間違った政策とか情実ということは絶対にしません。徹頭徹尾公平です。
ですから反対党の方でも説が良ければ賛成するし、それから政府の案でも、絶対に国家人民の幸福になることなら賛成するというようにして、要するに模範的な政党にするのです。
それが本当に分かれば第一党になるかも分かりません。
なんとなれば人民の方で、「誰に投票しよう、どの党が良いだろう」 という場合に、何党にしても安心のゆくものはないのです。
「どうせ蔭ではなにかやるに決まっている、政権を握っても蔭ではなにをやるか分からない」と、絶対に信用のできるものはないのです。
しかしもしこっちの方でやるとすれば、すべて安心のできることをやるから、どうしてもこっちの政党に多数が投票することになるから、かえって非常に多数の投票がはいって、あるいは第一党になる時期が来るかもしれないと言ったら、大いに共鳴してましたが、あるいは実現するかもしれない、というよりか、実現するでしょう。
そうなれば本当に良い政治ができるわけです。今までは間違っていたのです。
それで本当言うと選挙だけでは駄目なのです。
いくら宗教がいばったところで、とにかく政府が監督しているのですから、政府が良い政府なら良いが、もし間違った政府なら、その宗教をやっつけるのはわけはありません。
今は民主的になったから良いが、終戦前は政府の方では、ただ好き嫌いで決めてしまうのです。
「あいつはどうも虫が好かない、ではやっつけてしまえ」と、なんでも実に危ないものです。そのくらい宗教には力がなかったのです。
これはむしろ古い時代には宗教の方がずっと権威を持っていたのです。
それは坊さんというとたいへんな権威を持っていたのです。
昔の坊さんというものは、天皇とか将軍、公方様よりも上におかれていたのです。
ですからなにかの場合に坊さんの言うことを聞いたり、坊さんの一言で決まったりするのです。
なにしろ元寇の乱の時、北条時宗が禅宗のその時の有名な坊さんに教えを乞うて決心したという話がありますが、そのくらい尊ばれているのです。
ところが明治以後の今日では、非常に値打ちを下げられたのです。
しかも新宗教とくると、まるでインチキもののように見られ、今もって一般から軽蔑されているわけです。
だからいくら宗教が良いことをして、無神論者に神を認めさせようとしても、政府が手伝わないどころか、むしろ無神屋の方に味方しているくらいですから、こういうものをだんだん直さなければいけないと思います。
だからあるいは神様の方では政治まで改革されるかもしれません。
なにしろ、いかに宗教が情けないかということは、今は宗教は政治に関係しては絶対にいけないのです。
最近はだいぶなくなってきたが、私が前に光新聞をやっていた時に、政治についてちょっと書いたことがあります。
そうすると、政治には絶対に干与(かんよ)するなということを注意されたことがあります。
しかし宗教家とは言えども政治家の政治の下にいる以上、社会人と同じで、政治に対して非難しても良さそうなものですが、いけないのです。
ですから私は、書きたい時には寸鉄でいくらか気を吐いたわけです。
それは宗教が政治に干与して非常な悪影響を及ぼしたということは西洋にはあります。
それはローマ時代には確かにあるが、日本にはそういうことは今までにないのです。
それを直訳してしまって、そうして政治に干与すべからずということになったのだと思います。
だからなにか方法をもって、宗教の一つの権威というものをだんだん作らなければならないのです。
それにはやはり科学の上に行かなければならないのです。
それで私は始終科学の方が宗教より下だということを唱えているのです。
ところがそういう考えを持つ宗教家はいないのです。
なにしろみんなが病院を作っているくらいですから、科学に負けているのです。
しかしこっちはこれから、科学を下にするというような仕事をして行くわけなのです。
それで「結核信仰療法」なども、やはりその一つのものなのです。」
明主様御垂示 「日本の政治家は宗教心がないので改心できない」 (昭和23年12月21日)
信者の質問
「最近政界も混沌とし、国民の経済状態も大部行き詰って参ったようですが、将来いかなる動向になりますか。」
明主様御垂示
「これは、近い将来善い世界が生れる陣痛苦である。
とにかく人間があまりひどすぎる。
中流以下は割合よいが、中流以上は、曇りがひどすぎる。
周知のごとくあまりにも利己的低劣過ぎる。
政治家など自党さえ良ければよく、国民とか国家という観念がない。あまりにも誠がない。
であるから将来必ず大審判が来なくてはならぬ。戦犯追放だけではすまない。
アメリカの政治家は殆ど皆クリスチャンである。それ故正しい政治が行われる。
日本の政治家には宗教心がないから、精神生活上善くなれる機会がない。
ただ内閣打倒と政治資金獲得に没頭している。
これは日本には、そういう人達を救える力ある宗教がないからである。
今迄力ある宗教がない。」
明主様御垂示 「日本の政治家には宗教心がない」 (昭和24年1月2日)
信者の質問
「総選挙を前にして各党の宣伝盛なるも相当警戒を要すべき内容を感ぜられます。
国家的に危機を叫ぶ際、国民の選挙に対する中心観念をどこに置くべきでしょうか。」
明主様御垂示
「本当に清廉潔白な人はない。もしありとすれば政治家になれない。
ただ上手にやるか、下手にするかの違いだと思う。
今は五当二落である。そういう金は普通じゃ手に入らぬ。
財産税隠匿か何かせぬ人は、日本に数名しかいないであろう。
必ず不当な所得者に違いない。清廉なら、代議士にも大臣にもなれぬ。
そういう事で出来上っている日本の政治界であるから、政党などには希望はもてぬ。
今の吉田内閣など正道を履んでいるからいいとしなくてはならぬ。
社会党や民主党は、その点面白くない。
吉田が出るのが本当なのに、無理押しに芦田がなった。
という事は金を使って口を塞いだりなどする。その金が祟って小菅行きとなった。
政界は本当の歩みをしていない。一日も早く政治家に信仰心を培いたいと思う。
政治家の宗教心、日本にはこれが一番必要だと思う。
アメリカ、イギリスなどは不正は全然ない。疑獄は起らぬ。それは宗教のためである。
アメリカの政治家は殆ど宗教家である。マ元帥の宣言など殆ど宗教的見方である。戦犯者に対する意見や見解など宗教的である。
トルーマン、デューイなども皆クリスチャンである。
日本の政治家には殆ど宗教心がないといってもいい。
キリスト教でも何でもいい。もっと宗教心あるものにならなくてはいけない。といって今の神主や僧では駄目である。
それで政治家が宗教心を起すべき活動を起したい。
しかしうっかりすると問題になる。政治家に接近して宗教心を起させようとしたが駄目であった。外の方法で行きたいと思う。
彼等は宗教団体を利用しようとする。土建などでは問題を起した。
民主党など天理教へ多く行った。天理教などそれを利用した。
教団では知名の士を利用しない。偉い人など宣伝に利用するのは、その宗教に力がないからである。」
明主様御垂示 「宗教と国家」 (昭和26年11月1日)
信者の質問
「今日の御教えに、後醍醐天皇のお話がございましたが、強大な僧兵とか、武力をつくるために利用していたので、信仰心はないと思っておりましたが、間違いでございましょうか」
明主様御垂示
「間違いですね。本当に大燈国師に師服したんです。」
信者の質問
「王子を坊さんにして、北条氏にあたったということは・・・」
明主様御垂示
「そうじゃないでしょうね。
家来の中にはそんなことがあったでしょうか、そうでないですね。
大徳寺に行って見ると、実際に大燈国師に師服したんですね。
大徳寺というのは、後醍醐天皇の力でできたんですよ。
バラモンというと、物質的になりますが、それは後醍醐天皇は悟らなかったでしょう。
信仰しながら天皇になろうと思っただろうが、そこまで悟り切れなかったでしょうが、霊的にそうなっているからしょうがない。
だから、そこはまた、ちょっと難しいところですね。
信仰するそのものによって救われて、そうして自分が、また別の欲望を抱いてやるというのが矛盾するんですね。
よくアメリカあたりが、キリスト教を利用して、日本をどうすると言うが、そんなことはないんです。
牧師は、本当にキリスト教でやれば救われるというのでやっているんですがね。
しかし、政府は利用するか分からないですがね。
しかし、宗教自体はそんなことはないですね。
戦争中だって、日本の神道を軍部が利用したが、神官と言うのは別に、侵略戦争を助けようという観念は少しもない。
ただ軍部で・・・ああせい、こうせい・・・と言ったので、それをやらないと、圧迫されるので、して来たに過ぎないんですね。」
「ある政客との対談」より (昭和24年8月27日発行)
公明な政治献金を
客の発言
「われわれの連中はみんな金儲けが下手でいつも困っている。」
明主様御発言
「それは結構だ。金儲けのうまい人が小菅行きとなったのだ。
私は思うが、政治献金も、公明正大にやったら差し支えないと思う。
ところがそれにはいささかも利権などの交換条件がないことだ。
しかし日本にはそういう金持ちはまず絶無だ。
いままでは利権が目的だから秘密にする、犯罪を生むというわけだが、
といって政治家はある程度の金は必要だから、
国民中金のある人はこの政党ならたしかに良い政治をやるという意味で、
公然と献金するという人が出るような社会をまず造るんですね。
米国などはそういうわけで、良い政治家が出るのだ。
も一つ肝腎なことは、政治家に宗教心がなければこれからは駄目だ。
マッカーサーにしろトルーマンにしろ、熱心なクリスチャンということだ。
私もそれを目的としている。
宗教心ある立派な政治家を作りたいのが理想である。」
「神仙郷緑蔭縦横談」より (昭和24年9月3日発行)
記者の発言
「日本における現今の政治家についての御見解を・・・」
明主様御発言
「政治家も楽ではないと思っているが、だいたい、いまの日本には腹のある政治家がいない。
実際問題として吉田さんなどは、やはり日本の政治家としてはA級とみるべきでしょう。
人物貧困がしからしむるところで、これはやむを得ないでしょう。
しかしそれよりも、もっと日本人の政治教育を徹底的にやらねばいけない。
しかもその政治教育はかつての唯物的基盤に眼をおいた教育の在り方では絶対駄目である。
政治教育にも宗教的な考え方を織り交ぜないと、どうしても空虚なものとなる。
宗教心がないと骨のない人間ができあがり、考え方が偏狭に陥りやすい」
参考 明主様御教え 「観音運動は一切に渉る粛正運動なり」 (昭和10年10月21日発行)
「最近選挙粛正について官民共に大童(おおわらわ)となっているが、これも結構には違いないが、
独り選挙のみに限らず、あらゆる方面の粛正(しゅくせい)が緊要事であろう事は誰もが知っているはずである。
社会各般の粛正が行われていないで独り選挙のみ粛正され得る道理がない、
しからばいかにして全般の粛正を成し得るかというーその根本的成案であるが、
それについて今直ちに実行し得てしかも我が神国日本に最も適切なる方法の有ることを識者に向って戒告をしたいのである。
近来漸(ようや)く、欧米の唯物思想の謬(あやま)っている事、我日本の特異なる国状に適しない事に目覚めて、
日本精神を、宗教精神を、植え付けなければならないという事に、気が付いて来たのは、喜ぶべき現象である。
その一歩として、学校教育に、宗教を採り入れるのが、最良の方法であるとの見解の下に、それを行おうとしたいが、
困難な支障に打(ぶ)つかるのであって、実際問題として、実行し得ない点があるというのである。
それは何かというと、欧米は、宗教といえば、大体基督(キリスト)教だけと言うてもよいのであるから、頗(すこぶ)る実行し易いのである。
しかるに我国においては、神仏耶の三教があり、その三教の内に、何宗何派も在って、互に融和しておらないのであるから、
これら信徒の子女をして、一つの宗教に帰依させる事は、絶対不可能である。
故に実現の可能性は、今のところ、まず無いのであると、この種の論者はいうのである。
しかるに、これらの論は枝葉のみに捉われて根元に眼を蔽(おお)うているようである。
何となれば、我皇国日本には、畏れ多くも天祖天照皇大御神の御神霊が厳然と、暉(かがや)きいますのであるから、何ら遅疑するの要はない。
速かにこの天祖の御神霊を奉斎し拝み奉ればいいのである。
この事については、日本国民中一人の反対者あるはずはない。
万一反対する者在らば、それは、日本人ではないからである。
内閣に神床(かんどこ)を造り、閣議の前、まず恭々(うやうや)しく祝詞を奏上拝み奉り、しかる後、重要審議に中(あた)らば神霊の加護を受けて、必ずや、公正妥当なる議決をなし得るであろう。
しかして、これが祭政一致の具体化なのである。
なお進んで、各官庁、役所、学校工場などに及ぼせば、その国民教化の上に及ぼす効果や、蓋(けだ)し予想外に、甚大なるものがあると思うのである。
今日においてこれらの方策は、むしろ遅かりしというべきであるがその遅かった原因としていかに長い間欧米の唯物思想に、幻惑されていたかを知らるのである。
この事以上に根本的効果ある粛正も、教化も無いであろうことを断言して憚(はばか)らないのである、
しかも費用も多額を要せず、今直ちに実行し得る良法として社会に向って私はここに提唱する次第なのである。」
参考 明主様御教え 「支配階級の改心」 (昭和10年9月15日発行)
「社会悪や不幸は、すべて結果であるという事は、膏薬張の救いで述べた通りである。
ちょうど、河川の濁るのは、上流の源が濁るからであるのと同一の理である。
故に社会の溷濁(こんだく)は、社会全般の指導者たるべき上層階級が浄まらなくては、百年河清を待つとても、駄目である。
大臣級が、市ヶ谷へ収容されたり、市会や府会の絶えざる疑獄、教育者の涜職、宗教家の堕落等々、数え上げたら、限りがない、
これでは、いくら教化団体が骨を折っても、既成宗教が活動しようと、効果の挙がらないのは当然である。
社会悪の発生する原因を、自分達が造っておいて、その社会悪の根絶に腐心するというのは、ちょうど親爺が、妾や女狂いをしながら、伜(せがれ)に、倫理道徳を説くようなものである。
もっと真剣で、真面目でなくては駄目だ。
政府が、非常時財政を救おうと思うなら、まず第一番に、御自分達の俸給、何割かを割(さ)いて、国家に献上して、模範を示すべきだ。
又富豪は利益を公開して、その半分位は、国防資金として出してもいい、各会社は、五朱以上利益配当があったら、その幾分かを、赤字補填として、国家に差出したらどうだ。
又選挙粛正も結構だが、今更慌(あわ)てて、神官に頼んだりして、その運動を援助させようなどとは余りに泥縄式である。
それにはまず、常から内閣には、天照皇大御神の御神霊を奉斎し、閣議の前後に礼拝し謹んで祝詞を奏上すべきだ。
なお進んで各官庁、学校、会社、工場に到るまで、同じく天祖の御神霊を祭って、仕事の前後に祝詞を奏上させるのだ、
そうしたら社会はいかに浄化さるるであろう、特に、選挙粛正などをやらなくとも、選挙などは公正に行われる事は、断じて疑いないのである。
故に社会から、不幸と罪悪を無くする根本的条件は、支配階級の改心である。
改心を舎(お)いて、他に方法はない事を、断言しておくのである。」 (「病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何?」より)