国家論について 1
明主様御教え 「道治国」 (昭和26年2月7日発行)
「今更言うまでもないが、我日本は法治国である。
もっとも世界中文明国と名の付くものは、ことごとく法治国で、一の例外もないが、実をいうと法治国すなわち憲法で治めるというやり方は、理想的とは言えない。
何よりも事実がよく証明している。見よ法律の力のみでは、犯罪を無くす事のいかに困難であるかは歴史がよく示している。
もちろん人間から全く悪を除り去る事は不可能であってみれば、右の事実も止むを得ないであろう。
これらの点に鑑み、もちろん宗教によらなければ真の解決は出来ないがしかし宗教のみでは急の間に合わない、
としたらその他の方法として、まず何よりも道を知らせる事である。
すなわち道とは道理であり合理である。
もっともこれも古くからある東洋道徳的であるが今私が唱えようとするのは、より進歩的の新しい道徳である。
吾々がこのような事を言い出すのは、近来社会的道義観念の頽廃(たいはい)が余りに酷いからである。
青少年の不良化はもちろん各種犯罪の激増等は目に余るものがある。
最近、識者間においてもようやくこれに気が付き、修身を復活せよとか、教育勅語に代るべきものを作れとか、種々の議論が出ているのは、この方面に気が付き始めた事で、喜ぶべき現象である。
そうしてこの事の依って来るところは、言うまでもなく終戦後国民一般が拠りどころを失い、帰趨に迷った結果、ついに今日のごとき無軌道的人間が多くなったのであろう。
終戦までは各学校においても、修身教育や教育勅語を基本とし、それに古来からの忠孝等の思想も心の底に植付けられていたためもあって、
今日からみれば当時の社会は、余程真面目であった事は否み得ない、
と言って、今更右のような旧道徳を復活する訳にもゆかない。
と、したら何とかして新しい時代精神を作らなければなるまい。
ただ終戦後我国民に与えられたものとして、民主主義があるが、これによっていかに封建思想の束縛から解放されたかで大いに多とするに足るが、
遺憾ながらその行過ぎが、現在のごとき社会混乱の温床となった事も否めないであろう。
とすれば、新旧の時代思潮から悪を捨て、善の面だけ採上げて、時代に即した新しい道義観念すなわち英国の紳士道のごとき新しい大和魂を作るこそ、何より必要であろう。
それが前述のごとき、道という基本的観念であって、これを教育上にも社会上にも大いに鼓吹するのである。
かくして社会悪を幾分でも減少出来たとしたら大いに喜ぶべきであろう、
ところで道すなわち、道理を解り易く云ってみれば、道とは一切に通ずるもので、言わば人間処世上の絶対指針である。
何となれば人間道に従えば、災いも失敗もなく、すべては順調にゆく、信用は高まり、人からは敬愛せられ、平和円満な境遇となるのはもちろんである。
こういう個人や家庭が殖えるに従い、その感化によって社会悪漸減に役立つ事は、言うまでもない。
この意味において、今日のごとく法のみに頼るとしたら、法に引っ掛らなければいいと云う、いわゆる利口者が増え、不逞(ふてい)の徒(やから)が横行するのである。
私は常に言うのであるが、神とは言換えれば道理である。
すなわち神を拝むという事は、道理を拝む事である。
ゆえに道理に従い、道理に支配される人間こそ、真の文明人である。この文を世の識者に提言するのである。」
明主様御教え 「法律と人間の野蛮性」 (昭和26年8月22日発行)
「現代の世界では、文明といわれる国程法的制度が進んでおり、法律条文も年々増えつつあるのは衆知の通りであって、全く現代は法律万能時代といってもよかろう、
従って法規の多い事は、その局にある司法官や、弁護士なども、全部を覚えるには一生涯掛っても難しいであろう、
事実自分に関係のある部分のみが漸(ようや)くというくらいであるとしたらその効果は相当目に見えるはずであるにかかわらず、
肝腎な犯罪は減らないどころかむしろ年毎(ごと)に増えつつあるのはどうした事か、実に不可解千万ではなかろうか、
全く文化の進歩とはおよそ矛盾しているのである、そこで私はその原因についてここに検討してみようと思うのである。
そもそも、法の主なる目的は、社会から犯罪を減らし、ついには犯罪者なき世界を作るにある事は今更言うまでもないが、
事実は前述のごとくその逆であって年々国会においては、法規の条文増やしが、議事の大半を占めている、
もし文化が予期通り進歩するとすれば、犯罪者は順次減少して、法規の条文中不必要なものが出来るに違いないから、
国会においての議事も、法規の一部廃止法案が討議されるようになるべきはずではなかろうか、
ところがその反対であるという事は不思議であるに対し、怪しむ程の者もない、
というのは何人の考えも、今更どうしようもないとして諦めているためであろう、
これによってみても、犯罪を無くすのは、法律だけでは到底駄目だという事が、よく判るのである、
そうかといって今のところ、法がないとしたら、これはまた大変である、
そうなったら最後悪人の天下となり、良民はとても枕を高くして寝る事は出来ないから、
やはり法は法として今のままにして置き、他の有力な方法を併(あわ)せ行えばいいと思うのである、
しかし外のものといっても、まず教育と宗教のこの二つよりないが、これも余り期待はかけられ得まい、
何となれば何世紀、何十世紀それを続けて来た今日といえども現在のごとき人間世界の有様であるからである。
これについて以前もかいた事があるが、大体法律というものは獣を収容する檻と同様の意味で、
つまり檻がないと人畜に危害を及ぼす危険があるから厳重に太い格子や、網を張って漸く取締っているにすぎないので、
彼らは隙があると破って出ようとするから、段々細かく隙のないようにしているだけである、
その手段として年々法を密にし、取締りを厳にするのであるからむしろ人間の恥辱といってもよかろう、
そのような訳で今日の人間は、獣と同様の扱いを受けているとしたら、余り威張った口は利けたものではあるまい、
従ってこれらの点をよく考えたら、一日も早く目覚めるべきで、昔からよく言われる人間の形をした獣とは現代人にも当はまらない事もあるまい、
これを一言にしていえば、まだ半文明半野蛮の域を脱していないのである。
とはいうものの、それにも厚薄がある、すなわち人間扱いをされていい人と獣扱いをされなければならない人とがあるのは止むを得ないので、
国にしても軍国主義と、平和主義とがあるごとく、前者は野蛮国であり、後者は真の文明国である。
次に教育であるが、これも今日は既に試験済みとなっているから、あえてかく程の事もないが、
知らるるごとくこれも幾世紀に渉(わた)って、大勢の学者、教育家等が努力して来たのである程度の功績は認められるが、
それ以上の力はなかった、もっとも野蛮時代からみれば人智は進み、政治にしろ、社会機構にしろあらゆる方面に渉って驚くべき進歩発達を遂げたのであるから、全く教育のお蔭も疎かには出来ないが、
そうかといって精神面すなわち魂の改善には、力が足りなかった事は争えないところである、
何よりも法律という檻を不要にする事が、今もって出来ないからである、教育の問題はこのくらいにしておいて、
次の宗教であるが、これも昔から偉い聖者や、卓越せる偉人が幾人も現われしかもその弟子や信徒までが生命を賭し、血の滲むような苦心努力を続けて来たにかかわらず、
ある程度の精神的救いは無論認められるが、法を不必要とするまでには到っていなかったのである、としたら既成宗教にも多くの期待は持てない訳である。
そこで人間から真に獣性を抜き、檻を必要としない社会を作るには、どうすればいいかという問題であるが、
これこそあらゆる既成文化を超越した破天荒的な力が現われなくてはならないのは言うまでもあるまい、
ところが喜ぶべし、その力こそ主の神としてのエホバから吾らに与えられ、今現に発揮しつつある事実で、
これが本教の真髄であるから、本教は全く超宗教的大いなる存在であって、やがて来るべき光明世界の先覚者として、第一番人類の迷蒙を醒ますべき警鐘がこの文と思って貰いたいのである。」
明主様御教え 「法律精神と法律技術」 (昭和26年9月19日発行)
「現代社会においては、法律と刑罰によって犯罪者を取締り、再び繰返えさないようにする事を建前としているが、
宗教を全然度外するとしたら、これより外に方法はあるまいから止むを得ないとしても、
さらばといってそれだけでは、目的達成は不可能である事も、事実がよく証明している、
なるほど単に犯罪と言っても、それは表面に現われた結果でしかないので、その根本である心の動機にメスを入れなければならないのである、
つまり罪を犯そうとするその意志であり、魂であるから、
法的犯罪防止の外に、他の方法によって犯罪動機を根絶しなければ、いつになっても犯罪者なき社会は、実現されないのである。
右のごとくであるから、現在悪人はただ法に引っ掛らないようにする事のみに苦心している、
それが独り下級の人間や無頼の徒のみではない、
相当教育ある者や、中流以上の人間であってもそうである、
ただ法の網に引っ掛りさえしなければいいとして、不正不義を平気で行っている、
としたらこの考え方こそ全く恐るべきものであって、これを何とかしなければならないが、
これについて私の経験上から、それらに関した事をかいてみようと思うのである。
私は数十年来、今日まで随分多くの裁判をして来た、今も数件裁判中のものもあるくらいだが、
私の相手になる人間は、ことごとく悪であるから、
私の主義として、悪には負けられない以上、どこまでもやり通すので、今まで一度も負けた事はない、
そんな訳で幾多の経験によって分った事だが、彼らは例外なく法律の技術面のみを主にして挑んで来る、
ところが私の方は法律精神を旨として相手になるので、
大抵は一審では負けるが、二審後になると必ず勝つのである、
そうでなければ先方から屈伏して示談を申込んで来る、
しかし困る事には、裁判官によっては、この技術面に重きを置く人が多く、
こういう人は、若い経験の浅い人にあるようだが、それに引換え精神面の方は、老巧な人に多いようである。
ここで検察当局者に、大いに考えて貰いたい事は
技術面を主とするとしたら、どうしても巧妙に法を潜る事のみ考えるから、犯罪は減らないのである、
これに反し精神を主にすれば、法律技術は第二となるから、精神面を重視する事になるので、
自然 罪を犯さない方が有利である事に気が付く
としたらこれこそ法律の真の目的に叶う訳であるから、社会悪は当然減る事になろう、
あえてこの一文を当局者に提供するのである。」
明主様御垂示 「廃法府が本当」 (昭和24年3月23日)
信者の質問
「晩婚は妊孕(にんよう)率が低下すると言われますが、これは神様に罪でしょうか。」
明主様御垂示
「しかしね、罪になるからって言って、強制的に結婚させるのは少し動物的ですよ。(笑声)
それから第二は生活問題で、なかなか女房をもらっても食わせてゆくことは難しいですからね。
まあそのほかいろんな欠陥があって結局すべてが間違っていて、
これがじゅんぐりに働いてみんな悪い結果になって行くんですからね。・・・
そしてこの根本は個人個人の思想なんですよ。
個人個人が本当の人間になれば世の中も本当によくなって行くんです。
どんなに機構がよくってもね、一人一人の人間が悪ければ結局駄目です。
いまは自分の罪は棚へ上げてなんでも機構が悪いと言ってるんですがとんでもない間違いですよ。
共産党なんかも腹の中では判ってるんだけれども、すぐに機構が悪いと言うのは一つの政略ですよ。
法律なんかでもいまはどんどん増えてますが、減るようにならなければ嘘ですよ。
法律が網の目のように細かく増えて行くのは文化が減退している証拠です。
だから議会は立法府だなんて言うのは嘘で、廃法府が本当ですよ。
文化の進歩なんて言いますがね、いまの進歩は変な進歩なんですよ。
まあこれからよくなってゆきますがね。」
明主様御教え 「日本の議員」 (昭和25年3月4日発行)
「最近日本の議員団が米国の議会を視察した、その談によれば、
同国の議会では野次や喧噪などほとんどなく、
真面目にして上品な空気は実に羨しいとの事である、
ところが右に引換え日本の議会のあの為体(ていたらく)はどうであろう、
野次、怒号、漫罵(まんば)はては腕力が飛び、喧々囂々(けんけんごうごう)議長の制止も聞かばこそ、
全く市井の無頼漢の集合と何ら変りはないと言ってもいい、
吾々はそれを見たり聞いたりする毎に、余りの情なさに慨歎せざるを得ないのである、
しからば日本においてはそのようなレベルの低い議員ばかりが出来るのはいかなる訳かを深く検討してみる必要があろう。
それについて、私は今日まで人から議員に出ないかと奨められた事も度々あったが、どうしてもその気にはなれない、
もっとも私の使命から言っても不可能ではあるが、
そういう差障りがないとしても到底その気にはなれない、
というのは日本の議員になるまでの複雑な事情を考えてみるとウンザリするからである、それをありのままここにかいてみよう。
本来議員なるものは国民の代表者とされ国民の総意を政治に反映する担当者である、
従って選ばれるところの人は人民の方から推薦されやむを得ず候補に立つのが本当である以上、
己れの職業を放擲(ほうてき)し、一切を顧みず天下公共のため、ある程度一身を犠牲にする覚悟をもって、議政壇上の人となるので、
実に崇高博愛的精神の発露であるのはもちろんである、
だから人民から尊敬と感謝を受けるのは当然で、国家も特別な栄誉と待遇を与えている、
とすれば候補者として選挙戦に上るとすれば、運動費一切は選挙民が負担すべきである、
それのみではない、国事のため職業を放擲する以上、
議員の生活費一切をも人民が負担し後顧の憂なく政治に没頭させるべきである、
かようにして当選した議員としたら人格高潔絶対の信頼を払うに足る人物たる事はもちろんで米国に劣るような心配はない訳である。
ところが、日本における現実はどうであろうかを観る時、右とあまりにも反対である、
見よ候補者の方から選挙民へ頭を下げ、迎合をし感情に訴える事を運動の第一義としている、実に理屈に合わない事おびただしい、
もちろん運動費一切も候補者が出すのだから不思議である、
中には法規を潜り選挙民を御馳走してまで御機嫌をとったりヒドイのは買収までするのだから
およそ世の中にこんな理屈に合わない話はあるまい、
しかしそうまでしなくては当選しないのだから、馬鹿馬鹿しいとは知りつつもそうするのである、
という事は、そこに何かがなくてはならない、
何かとはもちろん、利益との交換である、
とすれば少数者の利益のために多数者の利益を犠牲にする事になる、
それが政界の腐敗であり、選挙の堕落の原因であるから厄介な日本の政治である。
しかも、社会は右のような間違った事に対し余り怪しまない、
なるほど新聞はじめ国民は常に非難はしているがはなはだ微温的である、
従って彼らはそれをいい事にして相変らず醜悪な選挙によって定数の議員を輩出しているのが現在である、
以上によって考える時、こういう結論となろう、
もし仮に真に立派な人物とすれば右のような理屈に合わない馬鹿馬鹿しい事をしてまでも、
議員になろうと決して思うまい、しかも多額の運動費さえ使うにおいてをやである。
右のごとく、多額の運動費を使い、不純な方法までして、当選しようとするのであるから、
それ相応の人物しか出ない事は余りにも明らかである、
そうして一度当選するや、無上の栄誉と思い、議員の肩書をヒケラかし、
国民の選良とか何とかいって肩で風を切って威張っているのであるから変な世の中である、
これでは全く立派な人間は蔭に潜み、下劣な人間のみが議員になる結果となるから、
最初に述べたごとき匹夫(ひっぷ)野郎的行動はむしろ当然というべきである、
以上吾らははなはだ憎まれ口を利くようだが真に国家を憂うる余り赤裸々な批判を試みざるを得ないのである。
しからば、いかにすればいいかというに
日本人全体の政治的道義観念を高める事で、
真に国を憂い大衆の福利を念願とする人間を作るべきである、
それには何よりも指導階級の目覚めるこそ最も喫緊事であろう。
最後に一言したい事は宗教教育である、
米国議員の優秀である事の根本としては全くキリスト教信仰のためである事はいなめない事実であるから、
日本もこれに鑑み真に価値ある宗教信仰を奨励する事である、
これより以外、この問題を解決すべき有力な方法のない事を警告するのである。」
明主様御教え 「不可解な政党人」 (昭和25年3月18日発行)
「日本の政党人をみると、実に奇怪極まる感がするは吾らのみではあるまい、それは何かというと、
自党の言は何事も正しく、他党のそれは何事も間違っていると決めてしまう態度である、
従って他党がいかに良い意見を吐いても全部といいたい程否定する、
他党の政府がいかに善政を行っても必ず悪政と決める、
理屈も何もあったものではない、
まるで馬鹿の一つ覚えのように、敵党に非難を浴せる外何にも知らないようである、
しかもその場合、相手に対し怨み重なる仇敵のように憎々しい言論を振う、
これをみる国民は常に不快を感ずると共に、一面心細い気もする、
というのは政党人のあまりに雅量の乏しい事と、党の利害のみを本意としすぎる事で、
国民の利害などテンデ関心を持たないように見えるからである。
よくアメリカ等では、敵党の意見も正しければ賛意を表するという事を聞くが、実に羨しい限りである、
したがってたとえ敵の意見であっても、是は是とし非は非とする、公平な観方をする態度こそ国民等しく要望してやまないところである。
また反対党の政府となると、それを倒そうとするのみに汲々(きゅうきゅう)としている、時の政府の政策となると、
いささかの欠点でも容赦しない態度は実に小乗的である、
今少し寛容な態度で眺める余裕があって欲しいと思うのは、誰しも同感であろう、
ゆえに政府にいささかの失敗でもあると鬼の首でも取ったように騒ぎ立てる、
これらを見る時日本の政党人なる者は国家を善くし国民の幸福を増進する等は後廻しとし
先ず敵党を攻撃し、ただ内閣を倒し政権にありつけばいいとしか思われない、それが彼らの方針としているようである。
何よりも国会の醜態状態をみればよく判る、
攻撃のための攻撃、揚足とり、弥次、喧噪はては腕力沙汰にまで及ぶというので実に視るに堪えないものがある、
全くこういう議員によって政治が行われるとすれば、不幸なる者よ、汝の名は日本国民なりといいたいくらいである。」
明主様御教え 「自然無視の文化」 (昭和24年5月14日発行)
「今日、日本における文化が進歩しつつあるにかかわらず、
ある面には種々の行詰りが生じ、予期のごとくにゆかないのはなぜであろうか。
私の見るところによればその根本に一大誤謬のある事で、世間はあまりそれに気がつかないようである。
例えば政治の面であるが、どうも今まで政府が立案し、議会が協賛したものであってもイザ実行となると、
その政策の十中八九は失敗に帰する事で常に新聞紙を賑わしている。
だから新聞の政治欄は、ほとんど政策失敗の記録であるといっても過言ではなかろう。
しからばかように絶えざる失敗は何がゆえであろうか、
私の観るところでは一言にして言えば自然無視の結果である、
これは政治のみには限らないが、現代人はあらゆる方面において何でも人為的にする方がよいとしている事で、
それが文化的進歩的と固く信じているのであるから困ったものである、
そのため政治面においても、必要のない、否反って弊害さえ生ずるような政策を立案実行する、
その表われとして何でもかんでも規則を作る、規則づくめにする、今日誰もが自由主義を云々するが、
吾人の経験によれば明治、大正時代の方が国民はどれ程自由であったかしれない、
それに引換え今日は実に窮屈である、それは前述のごとく規則づくめであるからで規則の縄に縛られて人民は身動きも出来ない。
ところが面白い事にはひとり人民ばかりではない、官吏そのものが規則の縄に縛られて困っている事がある、
何よりの証拠は何かの問題にぶつかるや、常識や人情からいえば別にとがむる程ではないが、
規則だからそういう訳にはゆかない、僕らといえども規則には困るのだ、
という歎声を役人が漏らす事はしばしば聞くところである、
恐らく法規の多い事は、日本は世界一であると誰かが言った事があるが、全くそうである。
「法益々滋(しげ)くして罪いよいよ多し」という言葉があるがそれは今の日本に当てはまるような気がする、
しからばなぜかようになったかという事を検討してみると、種々の原因もあるが、
その中の有力なるものとして、人民を機械化する事に骨折った、機械は一定の場所に置き、一定の運転をさせればいい、
機械に自由などはない、時々油をさし歯車を廻せば足りる、ちょうど人間がこの機械のように扱われた。
その当時言いたい事は何も言えない、行動の自由もない食いたい物も食えないーという人間機械が出来上った、
人間を機械化するためには鋳型が必要である、それがいわゆる規則である、
いまだ残っている統制経済もその鋳型の一つである。
そうして人民を機械化するには多くの役人が要る、戦時中何々庁、何々院等の役所が次々出来、官吏の数も平常の何倍に激増したのもそのためであった。
その増加した官吏が今日まで引続いて残っている、何しろ官吏の給料だけで一ケ年三百億というのだから驚くべきである、
ところがそれだけなら、まだいいが、その他にちょっと気のつかない大問題がある、
それは官吏の多い結果として人間が余る、人間が余る結果サボる訳にもゆかないから、何か仕事を見付けなければならない、
その場合役人の眼をつけるところは規則の改正である。
これがはなはだ困りものなのだ、なぜかというと、一旦法規が新しく施行せられると、今まで身に着いて来た仕事は零になる。
新法規に対応すべき方法や手段が自らまた出来てくる、それにつれて当時者が熟練する事になるからすべてがスムーズにゆく、
一週間かかった仕事も三日で同様の成果を得られるようになるから官民共に事務の運営が快適になる、
そうなるとまた官吏が閑になるから規則改正を考えるーという訳で規則改正の繁き事は大変なものである、
私はこの一点に一大覚醒を促し官吏を減らさなくてはならない、
それにはまず一大英断をもって行政整理を実行する外はないであろう。
以上述べたような事は、直接間接に国家に与える損失はけだし甚大なるものがあろう、
よく聞く話だが、英米においては同一職業を数十年も続けているものが多数あるそうであるが日本にはあまり聞かない、
というのは日本くらいあらゆるものが目まぐるしく変る国は世界にあるまい、
私はこの根本理念を一言にしていえば、今日の日本人はあまりに自然を無視する結果である。
何でもかんでも人為的にする事が文化の進歩のように心得ている。
以上は主に政治の面であるが、その他の面にも言いたい事が沢山ある、
例えば私が提唱し好成績を挙げている農作物の無肥料栽培である、
これは本紙創刊号に続いて毎号実際効果の報告を掲げているが、
土の成分と堆肥だけで質も量も驚くべき好成績を挙げている、
この根本理論は自然順応・自然尊重にあるので、それに気付かない農業者は、永い間人肥金肥のごとき人為的の肥料を可として、
多額の肥料代と多くの労力を費やし、土を殺し害虫を発生させ、それらの労苦に憂身をやつし、成績不良という結果に悩んでいるのであるから、
その愚及ぶべからずである、全く自然無視の結果であって、我が農耕法の堆肥を重視するのはその原料である落葉も枯れ草も自然であるからである。
今一つ自然無視の害として医療について述べてみよう、
それは人間に病気発生するのは、種々の原因によって滞溜せる毒素の浄化作用であるから、
病気とは自然の生理作用で、はなはだ必要事である、その際の発熱、咳嗽(がいそう)、喀痰、鼻汁、盗汗(ねあせ)等の排泄物は
それによって身体が清浄化し健康を増すのであるから、
病気なるものは健康増進の摂理であって、実に神の大なる恩恵である、
にかかわらずそれを反対に解釈して、今日の医療は毒素排泄作用を停止するのを可としているのであるから、その誤りもはなはだしいのである、
そうして毒素排泄作用の最も簡単なるものが感冒である。
感冒に罹る事によって肺炎も肺結核も免れ得るのであるから、感冒を奨励するとしたら、
結核や肺炎は何分の一に減ずるかは火をみるよりもあきらかである、
しかるにこれに気のつかない医学は逆理によって、感冒の場合毒素排泄の停止手段を講ずる結果、
いかに医学の進歩を呼称するといえども、事実は結核や肺炎は更に減少するどころか反って増加の傾向さえ見らるるのは何よりの証拠である、
これらも自然無視のためであることは言うまでもない。」
「自観放談」より (昭和24年6月15日発行)
記者の発言
「時に、今の吉田内閣は長命ですか、短命ですか?」
明主様御発言
「長命だね。やり方がいいからだ。どういう点がいいかと言うと
(一)国民に迎合しない・・・
一例を述べると、国民に迎合した片山は党員にも迎合して瓦解したし、
芦田は国民を白眼視したので国民からソッポを向かれてしまった。
(二)世論に従っていない。
いやしくも内閣を統帥する者が、一々世論に動いていては政治はできない。
独特の見解を国民に発表し、国民に納得させる。
これが世論政治の要諦なので、この点現内閣は優れているよ。」
記者の発言
「今の人物で、将来を嘱望されるのはだれでしょうか?」
明主様御発言
「将来は犬養だろうな。あとは駄目だ。
野坂など人物は秀れている。共産党では惜しいね。
共産党でなかったら、野坂はそうとう伸びているはずだよ・・・ま、
だいたいのところ、吉田、犬養、野坂この三人だけだろうな。」
「ある政客との対談」より (昭和24年8月27日発行)
政治家にも信仰心を
私はつい最近、某政治家と某所でかねての約により対談会をし、数時間に及んだ。某人は大臣を二度までした人でなかなかの有力者だ。
客の発言
「いまの日本でなすべき最も重要なることはなんであるか。」
明主様御発言
「なによりもまず国民に政治教育を叩き込むことで政治に興味を持たせる。
というのは今日の日本の民衆は、だれが大臣になろうと何党が内閣を作ろうと、あまり関心を持たない。
自分らの生活が楽であればそれでいい、というのが彼らの偽らざる心情であろう。
つまり一般的教養が低い、もっとこのレベルを上げるべきだ。
国民一人一人が、自分自身政治家のような気持ちにまでならなければいけないと思う。」
客の発言
「なるほどお説の通りに違いないが、では政治のほうは。」
内閣に「時」を与えよ
明主様御発言
「日本の内閣は実に短命だ、これでは良い政治はできるはずがない。
いかほど立派な政治家でも半年や一年で、立派な経綸を行なうことは無理だ。
まず相当期間、黙って政策をやらせることだ。
その結果良くなければ、初めて更迭の運動を起せばいい。
いわば、内閣に対しもっと寛容であるべきだ。
ところが日本は、新しい内閣ができるや、たちまちブチ壊しにかかる。
政策もなにもあったものじゃない。
ただ内閣をブチ倒す以外になにものもない。
どうしても頻繁に内閣が代わる国は発展がない。
フランス、イタリアしかりだ。
米国のように四年もの任期があれば落ち着いてじっくり仕事ができる。
英国にしても一度信任した内閣は、少々おもしろくないことがあっても、
むやみに咎(とが)め立てはしない、落ち着いてじっと見ている。
いまの労働党内閣を見ても判る。
そればかりではない、日本は一々内閣が変わるたびに、地方官の末までも更迭する。
これでは落ち着いて仕事ができない。
始終、腰が浮いている。せっかく慣れてこれから本当の仕事をしようとするときはもう代わっている。
私はまず、このことの大改革が根本だ。」
傍らにいた某新聞社長
「僕が思うのは、まず議員の任期を三年くらいにして解散なしとするのがいいな。」
新人の登場を望む
客の発言
「吉田内閣は勤労階級に冷淡と思う。首相は大磯にばかり引っ込んでいるが、もっと中央へ頻繁に出たほうがいいと思う。」
明主様御発言
「そういう点はたしかにある。なんとなく貴族的だ。それは旧政治家の型がまだ残っているのではないか。どうしてもこれからは、新人が出なくてはいけないと思う。」
客の発言
「自分も同感だ。旧人はほとんどパージにかかっているし、そうでないのは旧式でもある。これからは四十歳前後くらいの新人が出るべきだ。」
明主様御発言
「あなたなんかは、新人の出る舞台を作る役ですね。」
客の発言
「自分もそう思う。まず年寄りが地ならしをしてやるんだね。」
明主様御発言
勿論、新人で、しかも、腹が大きくなくてはいけない。
これからは国家的民族的では駄目だ。世界的でなくてはいけないと思う。
つまり、アメリカで唱える世界国家が目標だ。」
傍らにいた記者の発言
「社長の意見と同じですね。社長も以前から世界主義的で、この点先生と一致している。」
明主様御講話 「日本と米国の裁判の違い」 (昭和28年11月7日)
「それから昨日ハワイの弁護士の三保という人で、これは今度ハワイの法人を骨折ってくれた人ですが、法人は許可になったのです。
その報告とかいろいろな話ですが、日本の弁護士と違って宗教的に、なかなか理解があるのです。
そう言っては悪いが、日本の弁護士はおよそ宗教とは反対です。
もっとも解釈のしかたですが、昨日の弁護士の話によると、アメリカはすべて裁判官とか弁護士とか法律のことをやっている人は、宗教が非常に肝腎だと言うのです。
つまり人を裁くのですから、その場合に公平に裁くとすれば、正義を土台とするのだから、神様を拝むという宗教的信念があれば非常によいというのです。
ところがいつかの裁判などでも、私の経験によると、日本の弁護士というのはそういう解釈とは違うようです。
つまり法律家というものは・・・裁判官もそうですが・・・法によって裁くのだ、宗教とはぜんぜん関係ない。
宗教はまずだいたい迷信が多いのだから、そういったことで裁判官や弁護士が頭を使うとかえって良くない。
だからあくまで法の理屈で裁き、理屈によって善い悪いを決めるということが本当だというように思っているらしいのです。だからたいへん違うのです。
だからそれがどういうふうに裁判上に現われるかと言いますと、日本の裁判官は、この人は良い仕事をしているとか、国家社会に良い仕事をしているということは、ぜんぜん眼中にないのです。
この人間は法律第何十何条に抵触するということで、他のことの良い悪いはどうでもよいのです。それ一方で罪を決めてしまうのです。
ところがアメリカはそうではないのです。アメリカでは、どうせ大きな仕事をする人や役に立つことをする人間はウッカリして法に触れることがありがちのものだ、だからただ罰しないで、この人は社会のために大きな仕事、良い仕事をするかということを基本にして罰するのだそうです。
それで私の裁判でも最後に出た某弁護士が、岡田という人はこういう社会のために良いことをしていると力説したが、テンデそういうことは裁判官は耳に入れないのです。
鵜沢総明さんなどもそういった考えでした。だからむしろああいう弁論は、実際の罪と的外れになっているような気持ちです。
ところがぜんぜん裁判官の方では馬耳東風なのです。
ただコイツを罪にしてやろうとか、ごく細かい懲罰的にそれに引っ掛けて、罪人にすれば手柄になるというような具合です。
ですからアメリカがああして進歩発展するのはそういう点にも大いにあると思います。」
明主様御教え 「霊線に就て」より (昭和23年9月5日発行)
「(一部のみ引用) 霊線は人間の階級に従って数の多少がある。
数の多い人、例えば一家の主人なれば家族、使用人、親戚、知人。会社の社長ならば社員全部。
公人ならば村長、町長、区長、市長、知事、総理大臣、大統領・・・国王等、
いずれもその主管区域や、支配下に属する人民との霊線の繋がりがあり、高位になる種多数となる訳である。
この意味において、各首脳者たるべき者の人格が高潔でなければならない。
首脳者の魂が濁っていれば、それが多数に反映し、多数者の思想は悪化するという訳であるから、
一国の総理大臣などは智慧証覚に富むと共に、至誠事にあたるべき大人格者でなくてはならないのである。
しかるに国民の思想は悪化し、道義はすたれ、犯罪者続出するがごときは、為政者の責任となる訳である。
特に教育者のごときは、自己の人格が霊線を通じて学徒に反映する事を知ったなら、
常に自己の霊魂を磨き、師表として恥ずかしからぬ人とならなければならないのである。
特に宗教家であるが、一宗の教祖、管長、教師等に至っては、多数の信徒から生神様のごとく讃仰される以上、
その霊魂の反映力は著しいものであるから、大いに心すべきである。
しかるにその高き地位を利用しておもしろからぬ行動のあった場合、信徒全般に反映し、
ついにはその宗教は崩壊のやむなきに立ち到るのであって、このような例は人の知るところである。」