宗教の新旧について 2


明主様御講話 「新宗教に対する社会の目が変わった」 (昭和27年10月5日)

「今聞いた話ですが、今度読売新聞でも宗教的なことをやるようなのですが、これは東京日日が前例をつけたわけですが、それで成績が良いのでしょう。

それから現在の外国映画、特にアメリカ映画は、宗教的のことを少し入れないと具合が悪いという話です。

私はそれほど注意してなかったが、この間なにかに書いてあるのを見ると、かならず宗教的のテーマがあるそうです。

ですからそのような具合に、世界的の風潮がそうなりつつあるわけです。

まあ今度の仏教徒大会とか、いろんなああいうことも、その一つの現われだと思います。

そうかといって、外国は日本と事情が違います。キリスト教一本ヤリですが、日本なんかは宗教デパートみたいなもので、世界的に例はないでしょう。

日本とすれば、今さら既成宗教に救いを求めるとかなんとか、そういった気持ちはほとんどないといっても良いくらいでしょう。

特に青年層は、本願寺系の南無阿弥陀仏ということだけではおそらく満足できないでしょう。

それでまた既成宗教の説き方は、あまりに現代離れがしていて、そうしてしかも理論ばかりですから、実際的の御利益とか、そういったようなものはないからして、信仰しようと思うと、どうしても新しい宗教よりほかに行き所がないわけです。


このごろ新しい宗教がなかなか注目されてきたようです。

これは非常に良い傾向ですが、そうかといって、ただ新しいから良いというわけではないので、それだけの力がなければ一時的で、やはり永久に救われるとか永久について行くということはないとすれば駄目なのです。

その点においてメシヤ教は特殊の意味があります。

あんまりうぬぼれるようなことを言うと誤解されますから、世間には言いたくはないのですが、信者の人は知ってましょう。

それも要するに時の問題です。もうそろそろ・・・そういった宗教を求めるとすれば新しい宗教となる。

それで新しい宗教のうちでは、やっぱりメシヤ教はどこか違っているというようなことで目標にされますから、

従ってどこからいっても指をさされないようにますますしっかりと、要するに宗教の指導者的、模範的というような頭で、そういう気持ちで進んでいかなければならないと思います。

要するにだんだん責任が重くなるわけです。私も、今までやろうと思ったことが、だんだんやり良くなってくるわけです。

なにしろ今までにないことをやるのですから、よほどこっちにそれだけの勢力なり地盤ができないと誤解されます。


今薬が毒だとか医者が病気を作るとかいうのも、小さなうちに言うと、やっぱり頭が変だ、そんなものに触れることはできない、ということになります。

ところがそうとうの勢力ができてから言えば、なるほどそれはそうかもしれないというように、受け取り方がまじめに、要するに軽蔑的の考えでないわけです。

本当にあれだけ大きくやっているのだから、やっぱりそれだけの理屈があるだろうという見方になってくるし、それがたいへんなものです。たいへんな違いです。


それから、あらかた書けましたが、アメリカに対してはやっぱり英文が良いというので、英文でやるつもりですが、標題は「アメリカを救う」というのです。

これはみんなびっくりするだろうと思います。アメリカで日本を救うというのなら、これはなるほどと思いますが、

敗戦国でヒョロヒョロしているくせに、アメリカを救うなんて大それた、とんでもない、と思われるかもしれませんが、中を見ればなるほどと思います。

本当にアメリカは危ないのです。その危ないのを危なくないように救ってやろうというのです。

それが、ちゃんとした理論があり実績があって、そうしてやるのですから、癪(しゃく)に障りながらも往生しないわけにはいかないと思います。

そう厚い本ではないです。なにしろ世界の舞台に第一着手としての顔を出すわけです。

大見栄をきるというところまではいきませんが、顔を出してアッとさせようというつもりです。

なにしろアメリカの人などが夢にも思わないようなことを書くのですから、文章でもよほど難しいのです。

おまけに訳するにしても非常に難しいだろうと思ってます。

だからできるだけ分かり良く書くつもりです。今、序論とその次を読ませます。

(御論文 アメリカを救う 「序論」「病気とは何ぞや」)」




明主様御講話 「メシヤ教以外は新装宗教」 (昭和28年3月1日)

「昨夜論文を書いたのですが、つまり新宗教というのは、メシヤ教以外には一つもないということです。

新宗教と言えば新しい所がなくてはならないのです。

ところが世間にたくさんできている新宗教で新しいものは何もないのです。

古い宗教の教祖を本尊様にしたり、それから昔からある宗教の良いところをとって・・・良い所というと、ちょっと間違っているかもしれませんが、

それを良い所と思っていたことが、本当は良い所でなかったということが多いのですが、とにかくそういう所をとって新しいように見せたのです。

だから新宗教ではなくて新装宗教ということです。新しく装うということです。

新しそうにみせいて、やること説くことは昔の宗教と少しも違いありません。


それでとにかく一番新しそうに見えるのは生長の家です。

これはインテリを目標にしていろいろ説いて、著述などをやって、出版を専門にしてます。

今ではやっぱり新宗教の仲間入りをしましたが、以前は当局からやかましいことを言われて、

「宗教ではない、出版屋だ」ということにしてやってましたが、信教の自由になったから新宗教の形式に変ったのです。

私は以前に、全部ではないが主なものだけを本で見ましたが、結局理論です。

それは多く仏教の「無」の思想をとり入れてます。

その説というのは“だいたい病気というものはないのだ。病気は心の幻影だ。だからないと思えばないのだ”と言うのです。

以前のお蔭話にこういうのがありました。

生長の家にはいったら「本来痛みはないのだ。痛いと思うのは幻影だ、だから本当は痛みはないのだ。だからないと思え」と言うから、

一生懸命にないと思うが、やっぱり痛い。

そんなことを思わないで痛みがなくなったほうが良いと思うから救世教にやってもらった。と言ってましたが、それは誰でもそう思います。

貧乏で懐がさみしいのに「あると思え」と言ったところで、あると思って行ったらとんでもないことになります。

おそろしく美味い物を食って金がないとすれば、結局無銭飲食することになります。
 
これは仏教の無の説、空の説です。

空空寂寂というのはそういうことです。


前に沼波(ぬなみけいおん)という人の哲学で、講演で聞いたこともありますが、かなり売れた説です。

その人が迷いに迷って、どうしても悟りが開けない。それで普段から仏教の本を読んでいて、

ある日ふと思ったことは「いかなるものでも結局なくなってしまう。

こうやっている電灯でも、千年二千年とたったらなくなってしまう。

結局無だ。永遠にあると思うから迷いを生ずるのだ。

結局無だと思えば迷いも悔しさもない。

それだ」と、悟りを開いたということを聞きましたが、一応はもっともらしく聞こえますが、結局割り切れません。


生長の家の説もそれなのです。

よく仏教の本で「無」という字を一字書いたのがあります。

それはそれには違いないが、じきにそうなるなら良いですが、

その人一代でなることはないので、二代三代の孫の代までは「有」なのですから、これは駄目です。

それで生長の家で、戦争が始ろうとするちょっと前くらいに、呼ばれて「君のほうでは、何でも「無」と言うが、国家はないと言えるか」と言われて、そこで行き詰ったのです。

「いや、私が間違っていました」と言うので、「それなら許すが、君が国家がないと言うなら許されない」ということで許されたのです。

だから私は、もうそういう説は説かないと思っていたが、

この間ラジオ東京で宗教関係の人が四人か集まって座談会をやってましたが、やはり谷口さんは「無」を言ってました。

それで誰でしたか、その説に対して反抗して議論のようになりましたが、そうしてみると今もって「無」の説は続いているわけです。

この説は生長の家の一枚看板になってますが、しかしこれは実は御釈迦さんが説いたお経の中にあるのだから、新しい説ではないのです。

別に他教を悪く言おうとするわけではないが、はっきり言わなければ分からないから言うのです。


それから立正佼成会は日蓮宗ですが、日蓮宗は別に新しいものではないのです。

南無妙法蓮華経という文句が変ったわけでもないから、以前と同じことになります。

その次がPL教ですが、これはダンスばかりを一番やってます。

何というか、客呼びといいますか、そういうようで別に新しいことはありません。

あの人の親父の、ひとのみちの教祖の御木徳一の言ったことをそっくり取っているだけです。

それでは御木徳一という教祖はどんな新しいことを言ったかというと、別に大して新しいことはないので、

その根本は「夫婦の道」を説いており、夫婦仲良くしろ、ということです。

それから病気は「おふりかえ」というのがありますが、

それは病気を書いて御玉串をつけて届けると、それをたくさん重ねておいて、

教祖が拝んで、自分にその病気を引き受けさせてもらいたいというので、それを引き受けるのです。

それは確かに効くようです。「おふりかえ」というのは自分に病気をふりかえるというわけですが、それで教祖は非常に苦しむのです。

そして二十五日を過ぎると、それが済むので、さっぱりしてピンピンするのですが、

こういうことも一種の宗教的病気なおしであって別に新しいものではないのです。

それから大本教は私は良く知っているが新しい説は何もないのです。

しかし出口王仁三郎先生は新しいことを言いもし、確かにやりもしましたが、それが成功しないでああいうことになってしまったのです。

ただお筆先とか、そういった文章を、教団では一番の救いの方法として用いているのですから、ぜんぜん新しさはありません。

主な新宗教がそういうようで、少しも新しさはありません。


ところがメシヤ教のほうでは第一番に「薬は毒だ、薬が病気を作るのだ」と言うが、このくらい新しい説はありません。

おそらく紀元前のヒポクラテス以来誰も唱えたことはないのです。

紀元前からの説を覆したのですから、このくらい新しい説というのはありません。

それから作物を作るための肥料も、これはいつ頃から用い始めたかということははっきりしないが、そうとう古い時代から使ってます。

しかし薬ほど古くはありませんが、少なくとも千年以上はたっているでしょう。

そうすると、これを覆してしまった説ですから新しいものです。

それから説き方も、霊界と現界との関係ですが、これは今までにもそうとう説いてありますが、私ほどには徹底してはっきりしていません。

それから善悪の発生についての理論もはっきりとはしてなかったのです。

悪いことをしてはいけない良いことをしなさい、というような戒律的なことは説かれていたが、しからばどこに根本があって発生するかということは言ってない。

それから医学にしても、薬がいけないと言うだけでなく、薬が病源の根本を作っているということで、「薬は良い」というこの間違いを説いているが、今まではそういう根本はぜんぜん分からなかった。

たとえば黴菌にしても、ただ黴菌だけを怖い怖いと言って、黴菌を発見したコッホはたいへんな功績になってますが、

では黴菌というのはどこから出るかということの発見は今までになかったのです。

だから、そのうちの一つでもすばらしい発見であるのに、メシヤ教のほうはそれがいくつもあるのですから、このくらい新しい宗教はないと思います。

そういうことを書きました。

だから新宗教は一つしかないのです。

あとのものは意味が違うのです。

あとの新宗教は、ただ新しく許可を得たというだけのものです。

新しく生まれたというのではないのです。

やっぱり親父の跡を継いだのですから新しいことはありません。

しかしそこまで言ってしまっては形無しになってしましますが、本当のことを言えばそう言うよりほかに言えないわけです。

そこで世の中の人がそこまで分かってくれば、それはたいへんなものです。

しかしほかの宗教をあんまり非難するのは私は嫌いだから、信者さんだけに知ってもらえばそれでいいのです。


それで日蓮上人の言った「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」という、このくらい他教の非難をする言葉はないと思います。

「念仏無限、禅天魔」というのは、念仏を唱えていると無間地獄に落ちる。

禅宗は天の悪魔だ、ということです。

「真言亡国」ということは、真言宗を信仰すると国が亡びるということです。

「律国賊」ということは、今はほとんど消えましたが、その時分に律教というのがありましたが、それは国賊だというのです。

ではなぜ日蓮上人はそういうことを言ったかというと、日蓮上人はバラモンの出なのです。

日蓮上人は知ってか知らないでか、バラモン式であって仏教の出ではないのです。

ですからお釈迦さんと逆なのです。

お釈迦さんはかえって敵なのです。

バラモンというのは、お釈迦さんが仏教を弘めたために小さくなったのです。

ですからバラモンのほうとしては、お釈迦さんは仇のようなものです。

そこで「念仏無限、禅天魔、真言亡国、律国賊」ということは、みんな仏教ですから、

それをそんなにコキ下ろすということは、つまり日蓮上人は、知らず識らずおそらくバラモンのほうの霊にやられたのです。

そこで今日でも、日蓮宗ほど難行苦行をするのはありません。

この間の新聞にも出てましたが、百日の荒行と言って、髴(かみ)ぼうぼうで白い着物を着てやってますが、あれは一つの宣伝でしょうが、ああいうことをやるのはバラモンです。

お釈迦さんのほうとはぜんぜん違うのです。

そこでお釈迦さんは、そういう修行をしなくては悟りを得られないというのはかわいそうだから、

お経を読めば悟りを得られるということを言われ、それから良くなったのです。

それは慈悲なのです。それをああいう荒行をするというのは、お釈迦さんの意志にぜんぜん反することになります。

それで日蓮宗のほうでは、そのやり方が良いと思っているわけです。

そこで今活動しているのは、仏教のほうでは日蓮宗くらいのもので、あとはほとんど睡眠状態です。

というのは他の仏教からみれば、バラモンのほうが新しいからです。

そこで新宗教のうちでは、立正佼成会、孝道教団という日蓮宗の一派が活動しているのです。

今新宗教で活動していて何とか人から認められているのは、日蓮宗の出なのです。

この間新聞に出てましたが、新宗教には派がある。それは大本教の派というか、メシヤ教、大本教、生長の家教団、それから静岡にある三五(あなない)教です。

それから日蓮宗だ、というようなことが出てましたが、それはそのとおりです。

そういうようで、とにかくメシヤ教は本当に新しい宗教というわけです。

しかしそうなるとやっぱり宗教ではないのです。

宗教はもう亡びてしまって、今は形骸しか残っていません。

それでお釈迦さんは「仏滅の世がくる」と言ったが、そのとおりになって来ているわけです。


この間森山さんが、京都の中外日報という宗教新聞の主催で、関西方面の宗教の教祖代理とか管長とか、その宗教の親玉が来ていろんな話をしたそうですが、想像のとおりで、てんで駄目だという話があったようですが、

そういうようなわけで、そろそろ宗教グループにもよほどの変化が起きるだろうと思ってます。

私は今年から大いに活動するということを言ってありますが、ちょうど時期がそういうような具合になりつつあります。

それについて東京日日に、昨日まで五日間五回にわたって私の談話を書いてありましたが、これはたいていな人は読んだでしょう。

あの記事はばかに良いです。病気とか浄霊についてですが、最初は宗教と美術について書き、

その次は医学と浄霊、その次に自然農法について書いてましたが、実に良く書いてあります。


日刊新聞であれほどに一つの宗教を褒める・・・というのではないが、

こっちのやっている仕事の目的や、こっちで知らしたい書きたいということを、ちょうど栄光にでも書くようなとおりに書いてありますから、これはこっちで御礼をしてもいいくらいです。

広告するよりずっと効き目があります。

こういうことも神様のほうで、ちょっと効果のある手を打ち始めたというように思われるのです。

これからいろいろ変るでしょうが、一歩一歩前進をしているわけです。

それで今度は箱根の美術館などもよほど各方面に認められつつありますが、特にアメリカなどでもだいぶ認めてきたとみえて、

今月の八日に私のほうにある浮世絵の最高品を四、五点ぜひ見たいからと、アメリカ大使館の参事官か何かで、日本美術に対しての非常な研究家ですが、見せてやるように承諾しました。

それから今度の浮世絵の展覧会で、博物館のほうで私のほうのをすっかり見て、足りない分は博物館のほうから貸そうということを先方から言って来ました。

そういうような具合で、おいおい方々で分かってきたようで、非常に結構だと思ってます。

今思いついたままの話をしたわけですが、この会は質疑応答の会ですから、話はこのくらいにして、質問に答えます。」




明主様御講話 「新宗教というのはメシヤ教だけ」 (昭和28年3月24日)

「宗教でも、今新しい宗教の説を唱える宗教家、学者はないのです。

みんな古い釈迦とか孔子とか、日本では親鸞上人の歎異抄とか、日蓮上人の御文書とかの古い物を引っ張り出していろんな解釈をしてますが、

もし人間が進んでいるとしたら、もっと新しい物が出るはずですが、そういうのはないので、古い物の解釈をしているのです。

またそういう古い物を解釈する学者が偉いとされているのです。それは上面は偉いに違いないです。

そこでメシヤ教のやるのは上面でなく、昔の人がやったことより、もっと深い所をついているのです。

医学、農業でもそうなってくるわけです。ほかの宗教というものは本当からいうと古いのです。

古い物を一生懸命にやっているのですから、新しい点はないのです。

ですから新宗教というのはメシヤ教だけなのです。

ほかの宗教よりか新しいから新宗教と言うのですが、ほかのは新宗教と言っても、やることは古いのです。

古い開祖の教えを取り上げるということを非常に良いとしているのは、いかに古いかということが分かります。

ですから私がいつも言うとおり、今まで誰かがやった古いことは、やる必要がないのだから、

私がやることは、誰もやらないことだけをやる、というのはそういうわけです。


名前は忘れましたが、イギリスの学者でうまいことを言ってます。

今でも覚えてますが、「大衆は墳墓に支配されている。それで墳墓に支配されない人は上手な偉人だ」というのです。

ちょっとおもしろいと思います。

今のほかの宗教は墳墓に支配されているのです。

それで私はその墳墓に支配されることをしないで、墳墓から抜け出るわけです。

新しい墓と言っては変ですが、これから新しく作る墓でしょう。

そういうようにして文明は進んで行くのです。

だから墳墓に支配されている人の中にはいって、こっちが支配されないと、墳墓連中が非常になんだかんだと言うのです。

新しい先駆者というものは必ずそういう悩みがあるのですが、これはしかたがありません。

しかしガリレオやコペルニクスのように、自分が生きているうちにそれが肯定されないで死んでしまうのは気の毒ですが、こっちにはそういうことはないのです。

実際においてそれだけの効果を現わしてますから、それだけ良いのですが、

新しいことをみんなに承知させ、その墳墓の支配者から、その支配の力を薄くするという仕事です。

ですからたいへんなことなのです。

しかしそういうことは、すばらしい神様の力でやれば、たいへんなことでいて、割に楽に行くのです。

その話はこのくらいにしておきます。」




明主様御講話 「墳墓の奴隷について」 (昭和28年3月25日)

「それから私は今「墳墓の奴隷」という論文を書いてます。

墓所の奴隷というのですが、それはお墓にはいった人が作った宗教とか学問とか、文化的ないろいろなものがありますが、

その中で役に立つものは採用して続けて結構ですが、役に立たないものがたくさんあるのです。

そうすると役に立たないものを今ありがたがっているとすると、墓の奴隷になっているわけです。

ところで宗教方面でもその墳墓の奴隷が多いのです。

何百年何千年前に死んで墓の中にはいった人の教えとか、説いたことを、今ありがたがっているのです。

それは役には立たないのです。

それにお辞儀をしたところで病気はなおらないのです。

それでも、なおると思って一生懸命にかついでいるのですが、それが結局墳墓の奴隷です。

ですから古い役に立たない宗教を信じている人は墳墓の奴隷になっているのです。

言い方は少し酷いですが、この方が一番はっきり分かります。


そういうようですから、新しい宗教と言えばメシヤ教だけです。

私がいつも言うとおり、今まであるものは私はやらない、

なぜと言えば、もうやってしまったのだから必要がないのです。

ただいくぶん改良することがなければならないから、それは結構だが、

しかし今までやったことがないことをやってこそ意味があるのです。

そういうわけで、私のやることはなんでも新しいのです。

ただ新しいといっても、前のものより良くならなければならない。

前のものと同じか、それ以下のものだったら、やらない方が良いのです。

前のものより良くて新しいというものを大いに作らなければならないのです。


ところが口で言えばわけはないが、なかなか難しいのです。

人間というものは古いものに癖になっているのです。

汚れた着物を着ているから、それは気持ちが悪いから新しいのをと言っても、まあまあと言ってほうっておきますが、

それと同じようなもので、良いとは知っておりつつも古い着物はぬぎ難いものです。

だから救世教は確かに良いという事は分っていても、それに直ぐ飛びつくことができないのです。

しかし古い古いと言っても、宗教ばかりではないので、医学がそうです。

メシヤ教は確かに良い、しかし今までのみつけた薬を止めるのは決心がつかないということは、

今まで汚れて穴のあいた着物を着て満足しているようなものでしょう。

だから新宗教でも、かえってほかの宗教の古いのにかじりついて満足している人もたくさんあるのです。

だから新しいものを、前のより良いのだから、早くこれを拝んだらいいだろうということも、なかなか簡単にゆかないものなのです。


今言ったように、本当に新しい宗教はメシヤ教以外にはないのです。

ほかの新宗教は形だけが新しくできたというので、内容は古いのです。

ちょうど、メシヤ教は新規に揃えた着物ですが、ほかの宗教は色抜きをして、染め返しです。

これはここだから言えるのですが、新宗教の方に分かるところではあんまり言えません。

そのつもりで、ただ心の中にしまっておけば良いのです。

「君はたいへん良い物を着ているが、それは古いのだよ、染め返したようなものだよ」と言えば怒ります。」




明主様御講話 「日本の新宗教は馬鹿馬鹿しい」 (昭和28年5月16日)

「こういうような点はハワイは断然違います。

そこにもっていって日本は官憲が宗教を嫌いです。信仰が嫌いなのです。

私は時々書きましたが、アメリカの偉い人、アイゼンハウアー、トルーマン、マッカーサーという人たちは必ず「神」ということを言ってます。

ところが日本の大臣や政治家にしても「神」ということは決して言いません。「神」と言うことは恥になるかのように思っているように見えます。そのくせ「馬鹿野郎」とは平気で言います。

どうも「神」とか「信仰」というようなことを、ああいう偉い人が言うと安っぽくなるように思うらしいのです。日本という国はそのくらい信仰嫌いです。

それでまたジャーナリストというのはなにか書くにしても、宗教をけなした方が偉く見られるのです。信仰ということを書くと時世遅れというのです。

そういうことを無自覚に思われているのです。彼らの心境というのは安易なものです。

それも無理がないところもあります。


というのは、日本の新宗教には実に馬鹿馬鹿しいのがあります。

踊る宗教とか璽光尊とか、近ごろさかんになった立正佼成会も、妙法蓮華経を唸っている格好を見たらわれわれでも嫌になります。

妙法蓮華経もよいですが、それを何時間も唱えていったいなんになるかということです。一つ事をそんなに唱えていてなんになるかです。実際時間の空費にしかなりません。

ですから新宗教というのはくだらないものだということになるのです。

他教を悪く言うのは嫌ですが、悪く言うのではなくて、ありのままを言っているのですが、メシヤ教の人ばかりですから差し支えないでしょう。


PL教団はダンスが非常に御自慢になってますが、ダンスというのは、とにかく常識から考えても、神様の前で男女が手を組んで踊るということは、どういう意味か分かりません。

それであそこの根本は「宗教は芸術なり」と言うが、それはそれに違いないが、宗教は芸術なりということをどういうように具体化するかというと、それはお題目ばかりで実行はありません。

それでこっちの方も宗教は芸術なりと言いますが、実際においてそれを現わしているのです。

ですから理論と実際とが合っているわけです。

もっともPL教団でもそれは知っているに違いないですが、芸術ということを具体的に現わすということは、非常に金がいりますから、できないのでやらないというのですから、これはやむを得ません。

だから宗教は芸術なりということは非常に結構なので、それはべつに非難することはありませんが、宗教は芸術なりと言ってダンス専門にすれば、ダンスが芸術ということになります。

もっともこれも舞踏の芸術と言えば言えますが、どうもピッタリきません。


それで新宗教のうちで一番多いのは日蓮宗です。ところが日蓮宗をやるのは結構ですが、しかし新宗教とは言えません。


生長の家なども、私は前に「生命の実相」なども読んだことがあります。うまいことを書いてありますが、それも結局、キリスト教と仏教です。

お釈迦さんの言ったことをうまく取り入れて、一つの説を作ってあるのです。

ですからこれはふつうの宗教学としてなら立派なものですが、新宗教という新しい点はありません。

つまり総合したということが新しいと言えば言えますが、それでは根本が新しいのではなくて、説き方を新しくしたというにすぎないのです。

どうも新宗教と認めるということはちょっと難しいわけです。


これはいつも書いてますから信者の人はよく知っているでしょうが、とにかく日本のそういうようなものを見ていると、インテリやジャーナリストが新宗教を軽蔑するのも無理はありません。

もし私が、メシヤ教教祖でなく普通人としたら、やはりそういうように新宗教を軽蔑するに違いないです。

だからメシヤ教の真髄が世間に知られていないから、こっちも十把一絡(じゅっぱひとから)げに見られるので、これもしかたがないが、しかしやっぱり良いものは良い、悪いものは悪いのですから、これも時の問題です。

その時の問題として一番良いのは、アメリカにメシヤ教が広まって行く時期になれば、それによって日本の知識人が分かるということになり、これが一番効果的です。

そうなると日本人は、アメリカで騒ぐなら、これはもう良いものに違いない、と丸のみになってしまいます。

それよりか、しようがありません。もっとも神様がなさることですから、すばらしい方法をやられるに違いないから、べつに気をもむ必要はないが、大体そういうような経綸になって行くわけです。」




「明主様とダヴィッド女史 ジャーナリスト会見記」より (昭和27年10月25日発行)

新聞人の質問
「生命の実相ということを谷口氏が書いてますが、どうお考えですか」


明主様御発言
「私は問題にしていません。

新しい説は一つもありません。

古い聖書や仏教の意見やなにかを総合して書いているのです。

しかしあれでもただ、唯物的思想に対して唯心的思想を吹き込むだけのことはできてますから、これは結構です。

そういった意味で非常に賛成もしてます。

ですからそういった、つまり霊的文化に対する一つの入門の手引きというような形式があるわけです。

私がいま言う「文明の創造」というのは、宗教とかそういうものに対する大学の講義というか、そういったものです」