宗教の新旧について 1


明主様御教え 「新宗教とは何か」 (昭和28年4月8日発行)

「近頃新宗教の言葉は、社会各方面の話題に上って来たと共に、新聞雑誌等も割合重く扱われるようになった事は喜ばしい限りである。

しかしこれらをよくみるとただ漫然と、新しく出来た宗教だから新宗教というまでの事で、その内容に至ってはほとんど無関心のようである。

しかも新宗教に携(たずさ)わる人でさえそうであるのはまことに遺憾である。

これについて私の言いたい事は、看板だけ新宗教であっても、内容がそれに伴(ともな)わないとしたら、意味をなさない訳である。

というのは古くからある開祖の教や、文献等、長い間言い古され、誰にも知られているような説を、その人の主観で替えたり、色を着けたりしているだけでは、新しい宗教とは言えまい。

その上建造物、形式等万事が昔のままであって、しかも開祖の教えに還(かえ)れなどというに至っては、むしろ時代と懸け離れるばかりであり、それに対し怪しむ者のないのも不思議と思わざるを得ないのである。

何となれば現代のごとく高等教育を受け、知性の発達した人々を相手にするとしたら、黴臭(かびくさ)い教典を有難がらせようとしても受入れるはずはあるまい。

特に青年層などはなおさらそうである。

というように今日既成宗教の大部分の信者は、伝統的、観念的に引ずられているにすぎないと言えよう。

ところが新宗教の信者はそれと異って、何らか新しいものを求めて入った人々に違いないからいいが、それでも真の不動の信者は割合少ないようである。

としたら現代人を心の底から信じさせるには、どうしても理論的には筋が通っており、疑い得ない現当利益が伴わない限りまず駄目といってよかろう。

従って単なる流行を追うような宗教信者では、一時的で長続きしないのはもちろんである。


次に言いたいのは現代人とても決して信仰心のない訳ではない。

ただ現代的感覚からみて、信じ得る宗教が余りないからで、ありさえすれば必ず信ずるのは、私の経験によっても確かである。

むしろそういう宗教を求めている人が大多数といっていい。

ところがそういう宗教が見当らないため、止むなく無信仰者となっており、それに対し何といっても科学の方は手っ取り早く眼に見えて、人間の要求を満してくれる以上、自然依存する事になるのは致し方あるまい。

という訳で無信仰者を非難する事は出来ないと思う。

ところがここに問題がある。

というのはそれ程信頼する科学でも解決出来ず、そうかといって宗教でも解決出来ない事もよくあるので、ジレンマに陥ってしまい、

その上先の見通しもつかないので、智識人中のある者は懐疑に陥り、ある者は希望を失い、その日暮しになったり自暴自棄的となって、懐(ふところ)都合のいい者は享楽を求めるという結果になるので、これが現在の世相であろう。

今一つ言いたい事がある。それは今まで現われたところの歴史的宗教偉人より以上のものは最早絶対出ないと決めている事で、この考え方も絶望に拍車をかけているのである。

中には半(なか)ば諦め、半ば現実と遊離した人達は、骨董的教説を研究思索している等々もあり、現在思想界は全く混沌として帰趨を知らない有様である。


ところがこの無明の闇を破って、突如出現したのが我 メシヤ教である。

そうしていとも大胆に既成文化のあらゆる部門に渉って大鉄槌を下し、一々の誤謬を暴露し、真の文明のあり方を教え、着々として実行力を発揮しつつあるのであるから、公平に言って二十世紀の驚異であろう。

そうしてこの根本こそいつもいうごとく、今日までの世界は夜であり、僅かに月光を唯一の光としていたにすぎなかったが、そこへ太陽の光が現われたので、今まで見る事を得なかった不要有害物のことごとくは、ハッキリ浮び上ったのである。

昔から東方の光とはこの事であって、時の進むに従い太陽は徐々として天心に昇り、全世界を照らす事になるので、現在はその黎明期である。

この理によって私が説くあらゆる説は、今まで誰も知らなかったもののみであるから驚嘆し、中には誤解する人さえあるくらいである。

何しろ長い夜の世界が続いて来たので、それに慣れた眼には突如として現われた昼の文化であるから、狼狽するのも無理はない。

ところがここに問題がある。

それは昼の世界になった以上、夜の文化中から神は有用なものを残し、不用なものは揚棄(ようき)せざるを得なくなるのである。

しかも太陽の光は月光の六十倍に当るから、今日まで不明であり、治癒不可能とされていた病気も難なく解決されるのである。

本教浄霊が日々現わしている事実によっても明らかである。

なおこれを分り易く言えばいよいよ赫々たる太陽の出現によって、月は光を失うごとく文明の大転換となるのであるから、この任に当る本教こそいかに偉大な事業であるかが分るであろう。」




明主様御教え 「一人が百人」 (昭和28年1月21日発行)

「本教信者が、一生懸命浄霊や言霊(ことたま)によって一人の信者を作り、

ヤレヤレと思うその時は、ただ手を引いて門内へ入れただけのことで、中々安心は出来ない。

どうしても御座敷へ案内して、家の内部の肝腎なところを見せなければ、

本当の信者になったとは言えないのである。

これは経験者にはよくわかっているが、これについて言いたいことは、

その人が一人の確かりした信者を作るだけの力があるとすれば、百人を作ることは敢て難事ではない。

そのまた百人が百人の信者を作るとしたら、鼠算的に増え、ついには驚くべき数字に上るのはもちろんである。

というとそんなに巧くトントン拍子にゆくとは思えないであろうが、

それは今までの宗教を標準として考えるからである。


ところが我メシヤ教は全然異う。

何となればその力において、今日までの宗教とは比べものにならない程高度な宗教であるからである。

特に本教独特の浄霊法であるが、この方法による病気治しの成果は、到底信ずることは出来ない素晴しさであるのは、

一度本教に触れれば直ちに分るのである。

なるほど今日まで信仰的病気治しのやり方は色々あるにはあるが、

それは神仏の間接的御利益と自力との二つであるばかりか、

神仏といえども二流以下の資格であるから、ある程度以上の力は発揮出来なかったのである。

ところが本教の主宰神は主神である以上、揮われる力は絶対力である。

何よりもすべての宗教が病院を作っているにかかわらず、本教のみは作っていないにみてわかるであろう。


しかも本教においては、何百何千年前に出来た教義ややり方はほとんどないばかりか、むしろその誤りを指摘しているくらいである。

というようにすべてが新しく、しかも既成宗教が科学文化に冷淡であるに反し、

本教はその点においても大いに批判し、その欠陥を暴露し高度の文化的標準を示している。

従って何やかや本教を非難する人がありとすれば、その人は未だ本教に触れていないからである。

また本教が他の追随を許さない特異性としては大言壮語と過られる程奇蹟の多いことと、そのスケールの大きな点であろう。

しかもそれが着々実現しつつあり、驚異的成果を挙げている。

これは宗教に関心を持つ人は無論のこと、第三者の人々も近来ようやく注目を払うようになったことである。


以上のごとく本教は宗教でありながら、宗教は一部であって、

目下のところだけでも医術、農業、芸術を主としての素晴しい成果を挙げている。

もちろんいずれは他の文化面にわたっても、画期的事業を行う予定であるが、

これを一言にしていえば誤れる地獄的文化をして、真の天国的文化に置き換えるのである。

このような空前の力をもつ宗教としたら、一人が百人に増えるのも敢て不思議はないであろう。」




明主様御教え 「宗教の新店と老舖」 (昭和24年3月30日発行)

「つらつら世間を見る時、街の小売商店に二種あり、それは新店と老舗(しにせ)とである、

人の知るごとく新店は新店で今後大いに発展せんとする気構えから、精気溌剌たるものがあるが、いかんせんいまだ信用が薄い、

というのは客からみれば商品はどの程度優良であるか、値段も適当であるかどうかという事を心配するから自然試しに買うかあるいは間に合せ程度の買物でしかあるまい、

ところが老舗となると客としては頭から絶対の信用をおく、何町の何店の何の品なら決して間違いはない、

なまじ新店で不安心な思いして買物をするより安心して買えるから少々遠方でもそこへ行って買うし、また纏(まとま)ったものはなおさら買うという訳で、これは全く永年売り込んだ暖簾(のれん)のおかげである、

従って新店の方は血の出るような勉強をして、老舗へ買いに行く客を幾分でも自分の方へ引きつけなければならないというのが実情で、これは誰も知っているところで、今更事新しく言う必要もない。


ところがこれと同じような事が宗教にもあるからおもしろい、御承知のごとく宗教の新店と来ては小売商人ところではない、頭から迷信邪教、インチキ宗教というように決められてしまうので実にああ無情という外はない、

なるほどおっしゃる通りの新宗教も沢山あろうがまれには真物のある事も知って貰いたい、

それについてこういう事も考えなくてはならない、すなわち老舗であるあらゆる宗教も一番最初は新店であった事に間違いはない、

それが段々年数が経って今日のごとき老舗となったのであるから、

今日の新店といえども勉強して値も相当で品物も確実でありさえすれば、いつかは老舗になる訳である、

ゆえに今日出来たての新店といえども全部インチキ邪教であるとするのは今述べたような点からみてたしかに間違っている。


以上述べた理由によって批判の立場にある人々は新宗教を充分検討して、事実白か黒かの判断を下ししかる後筆をとるのが本当の態度ではないかと思うのである。」




明主様御教え 「昔の宗教と今の宗教」 (昭和24年7月9日発行)

「私が現在、救世の業を達成すべく簡単な宗教形式を用いているが、

しかしそれは今まであった宗教形式とは余程の違いさがある、

昔の開祖とか教祖とかいう人達は、弊衣(へいい)粗食、生活は洵(まこと)に質素簡略で、

しかも修行のため深山に籠り、水を浴び経文三昧に、いわゆる難行苦行を重ねたのである、

従って真善美の三者の中、真善はあっても美は閑却されていた、ほとんど芸術などには関心を持たなかったのである。

そうして奇蹟も多少はあったが、主に経文を本義とし、形式を尊び行事を重んじ、説教専一に衆生済度を行って来たのである、

もっともこれらは仏教について批判したのであるが、神道、キリスト教は近代の発生または布教であるから、略して仏教だけを対象としたのである、

もっとも仏教渡来以前古神道はあったが、文献にも言い伝えにもないからかく訳にはゆかない。


ところが今日私が行っている方法は非常に違うという事は、第一病貧争絶無の世界を目標とし地上天国を樹立するという、

洵(まこと)に大言壮語としか思われない程の極めて大胆不敵な宣言をしている、

これだけでも既成宗教といかに相違せるかは知られるであろうが、その第一手段として実行しつつあるものは、人間の最大悩みである病苦から解放すべき救いで

これが着々効果を表わしている事はもちろんでこれによって身心健全者となる事こそ自ら貧乏も争闘も消滅するのであって、

以上の信念をもって全信徒一団となり、日夜活動しつつあるのである、前記の宣言にあるごとく、天国化の実現は、理想だけではなく、現在如実に驚異的成果を挙げつつあるのである、

また経綸の一部として、現在最高地上天国の模型を企画し、熱海及び箱根の最も景勝なる地を選び、整地に建築設計に造苑に、建設を進めつつあり、

これら完成の暁は、最高天国なるものは、いかに崇高善美なものかを世界に示すつもりである。

由来(もとより)地上天国とは芸術の世界ともいうべきものであって、本教が芸術に最も力点をおくゆえんである、

しかしながら政治経済教育等全般にわたっても、最も新しい神示による画期的方策を経綸の進捗と相まって、順次発表するつもりであるから、それによっていかに構想の雄大なる事を認識さるるであろう。」




明主様御教え 「時代と宗教」 (昭和23年4月御執筆)

「私は宗教なるものも時代と密接な関係のある事を知るのである。

彼のマルチン・ルーテルが宗教改革を行った理由として、当時のキリスト教があまりにも形式に流れ、封建的色彩が濃厚であった事にもその原因があるであろう。

私は今日のあらゆる宗教を検討する時、その内容においても形式においても余りにも旧套墨守的、時代錯誤的たる事実の多い事である。

一例を挙ぐれば、宗教行事や冠婚葬祭等に当って数時間否半日一日を要する事さえあるのである。

また在家の居士の朝夕の読経や祝詞を奏し祈願をなす場合長時間を要したり、

故人の法要や、本山本部に参拝する時、多額の費用と数日の時を費やす等々、全く現代社会人の苦痛の種であろう。

しかも霊的知識を与えられない現代人として、その内容的意義を知らず、ただ伝統と気安め以外の何物でもないのである。

今日世に知られたるあらゆる宗教が、数百年または数千年以前発生したるものであるから、またやむを得ないであろう。

彼の二千六百年以前、インドにおいて発生した仏教が、当時のインド民衆の社会生活を対象として成ったのであるから、

すこぶる浩瀚(こうかん)なる経文、長時間の瞑想、坐禅等々の修行によって覚者となるというに到っては、今日の日本の社会生活に即して適応しない事は言うまでもないのである。

しかも経文の原文は梵語であり、それを漢訳して渡来したのであるから、その意味が現代日本人に理解し得べくもないのである。

巷間「経文は不可解であるから有難いのである」・・・という言葉さえ流布さるるに到っては全く驚くの外はない。


この意味において、私が作った善言讃詞は観音経の深意をエキスとし、日本的に祝詞の形式を採って数分間で読了なし得るようにしたのである。

そうして霊界の実相や、事物と霊との関係等を徹底的に解明し、神仏や祖霊に対する信仰の意義、想念の持方等を充分認識すべく教ゆるのであるから、神仏諸霊の満足と歓びをもって迎えらるる事は必定である。

従って、観音会こそ今後の時代をリードすべき新宗教といっても過言ではないと思うのである。」




明主様御教え 「既成宗教を論ず」 (昭和23年)

「近頃喧(やかま)しくいわれるものに既成宗教の問題がある。

人も知るごとく終戦後国民全般にわたってその帰趨を失い、世を挙げて混沌たる裡(うち)に低迷している事実で、特に青年層においてしかりである。

彼等がそれまで絶対信念として、貴重なる生命をまで犠牲に供したところの忠君愛国思想が、終戦によって他愛もなく崩壊してしまった事である。

それによって兇悪なる強窃盗、詐欺等の犯罪が激増した今日の実情であって一刻も猶予の出来ない大問題である。

しかしながらそういう犯罪者にならないまでも、目標を失い怪疑に陥ったる者も少なくはあるまい。

近来哲学書の売行が激増したという事もその間の消息を物語っている。

もちろん哲学にあきたらず、宗教によって煩悶の解決を要望する者も増えつつあるのである。

ところがキリスト教は批判の限りではないが、その他の数ある既成宗教の中、果してどの宗教が求道者をして満足を与え得るかは大いに疑問の余地があろう。

なる程いずれの既成宗教にあってもそれぞれ大本山があり、大伽藍や大堂宇が建ち、宣布に従事するところの布教師、宣教師、僧侶等々があり、それが一宗教でさえ幾千幾万の数に上るが知れない程である。

またその各種宗教の行事においても、衣裳器具その他においても善美を尽し、外観だけでも洵(まこと)に目を奪うものがある。

中には専有地数万町歩に及ぶものさえあるのである。

そうしてその教典教義が数百年または数十年にわたってのものが多く、実に間然(かんぜん)するところなきまでに研鑚錬磨されており、

宗教宣布によって人心の不安を除き、物心両様の満足を得せしめなければならないに拘わらず、現代人の幾人を救い得るであろうか、洵(まこと)に疑問であろう。

このような訳であるからともすれば、人心悪化は宗教によらねばならないと口では言いながら、実はさっぱり関心を持ち得ないというのが今の世相である。

従って、世人と宗教とのズレが段々大きくなるばかりなので宗教者側にあっても、この趨勢を喰止めるべく腐心しており、最近関西方面においては各宗派の幹部が会合し、その対策を練りつつあるとの事を耳にしたが、これも無理はない話で同情すべきではあるが、恐らく予期の成果は得られない事と想う。

しからばこの問題のよって来るところはいかなる点にあるであろうか。以下記者の観るところを述べてみよう。


まず最も主要原因である事は、人間を救う力の欠けている事である。

すなわち見えざる力の余りに無い事である。

なる程各宗開祖の立教当時は、確かに相当の力は発揮し得たであろう事はもちろんで、それによって今日まで隆盛と命脈を保ち得たのである。

彼の種々の奇蹟や御利益の伝説、宗門に関する文献は今もなお残っておるが、

実情は年移り月かわるにつれて漸次権威を失い、ようやく惰力によって維持されているに過ぎない状態は世人の知るところである。

それに対し仏滅の世が来たのではないかという者もあり、偉大なるものが生れんとする前夜の状態ではないかという者もある。

ところが記者の客観はあまり世人の気のつかない所に重大なる欠陥があるとする。

それは何かというと、既成宗教全般が時代とかけ放れすぎた点であるが、それも無理はない。

何しろ仏教にしても今から二千六百年以前インドにおいて発祥したので、当時同国においては彼のバラモン教が盛んな時代で、その当時としては素晴しい教義で大衆を魅了した事はもちろんであるが、

その時代のインド人の社会生活と今日の日本人の社会生活とは、余りにはなはだしい懸隔のある事で、それをまず考えなければならない。

また日本仏教の各派としても、インドほどではないまでも、数百年以前の日本の社会生活と今日とはまた相当の違いさのある事は否定出来得ない。

仏教がこの世を厭離穢土(えんりえど)といい、火宅と称し、空の説を唱え、煩悩を断ち、厭世観的消極思想を建前としている以上、

日本の現代社会に適合しないのは当然であるばかりか、今日国際競争激甚の時代にあっては、大衆から忘れられ勝ちなのは止むを得ない事である。

一方また娑婆即寂光の浄土といい、即心即仏というごとき楽観説もあるが、これらも今日の実際社会においては不可能である事はもちろんであろう。

その他神仏共冠婚葬祭等の儀礼の場合、その行事の複雑にして時間を要し、多額の費用を要する事なども、現在に即しない大きな理由である。

この点キリスト教の簡易なる方法は大いに学ぶべきところがあろう。


かように観てくると、既成宗教の無力を云々する世評はむしろ当然と言うべきである。

故に彼のマルチン・ルーテルのごとき一大改革者が出現しない限り、日本の既成宗教没落は時の問題でしかあるまい。

見よ、仏教の本籍地であるインドの民衆三億五千万中、現在仏徒は三十数万人に過ぎない事実である。

また中国においても今勢力を保ちつつあるのは道教、儒教、回々(フイフイ)教等をおもなるものとし、キリスト教、観音信仰等で、真の仏教徒は数うるに足らないそうであるから、

ともかく仏教が相当勢力を保っているのは、日本だけという事であるから、仏教徒たるものこの際緊褌(きんこん)一番、大自覚の下に不惜身命(ふしゃくしんみょう)の活動に入らない限り、前途の帰趨は測り知れないものがあろう。」




明主様御教え 「私の神秘」 (昭和27年御執筆)

「私はいつも思っている事は、私程不思議な人間は世界肇(はじま)って以来一人もない事を信じている。

実に何から何まで不思議だ。自分でさえそう思っているのだから、他の人としたら私という者の実体を想像してみても、結局群盲的であろう。

というのは神秘性が余りに多いからである。ところが面白い事には人間の欲の中で、最も興味を惹くものとしては、何といっても神秘性であろう。

そうして神秘というものは、あらゆるものに潜んでいる。彼の人類学者が古代の遺跡や、原始人の生活を研究するのも、その当時の神秘を探りたいからであろうし、

科学者が一生を賭(と)してまでも物理現象を研究し、解剖し、専攻するのも、無から有を生ぜしめたり、原子発見や物質転換の理を知ろうとするのも、その物の神秘を暴こうと思うからであろう。

また医学者が一生を顕微鏡と首ッ引きで、死体解剖や動物実験に努力をするのも、生命の神秘を掘出そうとする目的であり、

天文学者が望遠鏡から大空を絶えず覗いているのも、日月星辰、風雨雷霆、気候の変化などの研究に浮身をやつすのである。

その他歴史家、地理学者等もそうであり、文学者、美術家等がインスピレーションに触れるべく、芸術的神秘を得ようとするのも同様であろう。

このように専門専門によって形は異うが、神秘を欲する点には変りはないのである。


また話は違うが、男女の恋愛にしても根本は神秘的魅力である。

相愛する感情の波に揺れつつ離れ難くなって、ついには生命までも犠牲にするのも実に神秘である。

というように人生は絶えざる神秘との戦いであるとも言えよう。

実に神秘なるものは、学理でも理屈でも分らないと共に、その力は無限である。

従って今日のごとく文化の進歩したのも、神秘探究こそ根本条件といってもいいであろう。

そうして神秘中の神秘ともいうべきものは、何といっても信仰であって、神仏に対する信仰の神秘性は、恋愛以上といっても過言ではあるまい。

とはいうものの単に宗教といっても、既成宗教は一部を除いては、今日ほとんど神秘らしいものはないと言うのが実際であろう。

なるほど開教当時は相当神秘もあるにはあったであろうが、長い間に在るだけの神秘は、最早暴(あば)き尽されてしまったのでもあろうが、

そこへゆくと新宗教によっては神秘性が多分にあるというのは、何だ彼んだ言われながらも今日既成宗教を圧倒して相当の発展をしつつあるという事実である。

ちょうど古女房と新婚ホヤホヤの若い女性との相違のようでもあるが、しかし新宗教にも神秘性の多い少ないのある事はもちろんだが、その中で自画自讃ではないが、特に我メシヤ教くらい神秘の多い宗教は、恐らくあるまい。

何よりも本教発展の速かなるにみても肯れるであろう。

そうしてその奇蹟の本尊が私であるとしたら、私という者に内在している神秘力は、いかに豊富であるか想像もつかないであろうから、私は出来るだけ分らしたいと思うが、この説明こそは実に困難である。

どうしてもある程度以上は、その人の智慧証覚に応じて覚るより仕方がないのであるから、精々身魂を磨いて覚者となる事である。

ではこれから色々な面から、私自身を解剖し、赤裸々に露呈しようと思うのである。」




明主様御教え 「新宗教と世界の年齢」 (昭和29年1月20日発行)

「今日世間は漫然と、新しく出来た宗教だから新宗教といっているようだが、もちろんこれは当り前な話で何ら言うところはないが、しかし考えてみねばならない事はその内容である。

なるほど形は新しいとしても、内容が伴なわない限り、真の意味における新宗教とはいえないはずである。

ところがこの点一般は余り気がつかないようだが、これについて私は事実によって検討してみよう。

まず今日新宗教といっても、実際は何百何千年前に出来た教理を土台とし、幾多の人智を加え、築き上げたものが大部分であるから、厳正に言って新宗教ではない。

そうして現在の新宗教を大別してみると、神道か仏教かのどちらかに属しており、どちらにも偏らないものとしては我メシヤ教を措いて他にはほとんどないようである。


というのは信者も知る通り、本教は神、儒、仏いずれの教えも含まれてはいるが、それはある程度であって、飽くまで独自の建前を以って、

しかも広くして深く、自由無碍的である。このような宗教は未だ嘗(かつ)てなかったであろう。

そうして本教の真髄たるや、あらゆる宗教、哲学、科学のレベルを超越しており、手前味噌かは知らないが、群峯(ぐんぼう)遥かに抜いて聳(そび)ゆる富士山のごときものと私は思っている。

故に既成文化の観念を以ってしては容易に掴み得ないのはもちろんであって、換言すれば二十世紀を断然飛躍したところの未来における最も進歩した学問といってもよかろう。

そんな訳で命名のしようもないし、無名でも困るから仮にメシヤ教と名付けたのである。


ここでまず現在における宗教を総括的に批判してみるが、知らるるごとくいかなる宗教でも教祖、開祖は固(もと)より、その後継者といえども、

あらゆる難行苦行に堪え、奮闘努力危機を突破し、一切衆生の悩みを救わんとして来たのであって、

ある程度の功績は挙げ得たが、それ以上は困難なるがため、現在のごとき地獄世界をどうする事も出来ないのである。

としたら一体その原因はどこにあったかを考えてみるまでもなく、力が足りない事と時期の関係もあったのである。

というのは今日まで主神は物質文化の発展を急がれ、精神文化を次にされた訳である。

というその根本的理由こそ世界の年齢が若かったからである。

それがいよいよ二十世紀後半に到った今日、人間としたら二十歳の青年となり、一人前に成人したので、

ここに神は真の力の発動によって、霊体完備の文明世界を樹立され給うのである。

すなわち偽は真に、邪は正に、仮は実に、争は和に、醜は美というように、一切の革新、一切の統合である。

その指導者として選ばれたのが私であって、私は神の代行者として活動している。

その一つとして今現に超人的力を発揮しつつある。

その一例としては、僅か三日間の教修によって、キリストと同様の奇蹟を現わし得る力を人々に与えている。

その弟子すでに数十万に及んでおり、なお益々増えつつあるにみても分るであろう。


以上のごとく、主神の矢はすでに弦(つる)を離れたのであるから、ここにいよいよ世界革新劇は開幕されんとする直前となったので、

やがては血湧き肉躍る驚天動地の場面は展開され、人類は恐怖と戦慄と感激と興味との渦の中に巻き込まれ、悲喜交々(ひきこもごも)の人間の乱舞が始まるであろう。

というように太初すでに創作された神のテーマ通り展開されんとするのである。

何しろそのスケールの雄大にして多角的なる想像を絶するのであって、その舞台監督としての私であるから、

私はこれから千変万化、無碍の活動力を発揮し、大奇蹟を現わすのである。


その一例として現在一枚七秒間で書いた光の文字の紙片を懐へ入れるや、キリストと同様の奇蹟を現わし、何万何十万の病者を救い得るのである。

また数千里隔てたアメリカやヨーロッパにまでも、霊光は一瞬にして到達する。

その速度たるや科学的計算は不可能である。

というように、結局において現代文明は百八十度の転換となり、地上天国の基礎はここに確立するのである。

しかしこれを読んで直ちに喜ぶのは早い。何となればそれにはキリストの言った最後の審判という大峠があるからで、それを越さねばならないが、

神の大愛は一人でも儀牲者を少くせんがため私をしてその救いに当らせ給うのである。」




明主様御講話 「既存宗教は理屈を重視」 (昭和10年11月11日)

「そしてこれは別な話ですが、いま世の中をみると、もうあらゆる方面が実に間違ったことをするために、人類は苦しみぬいて、見ておれぬくらいであります。

日々われわれが扱っている病人も、ほとんどみんな間違った医学衛生のために、治るべき病気も治らされずにいる。

また、丈夫でいるべき身体を弱らされている。

また、助かるべき生命も助からぬようにされているように、間違ったほうへ走って苦しんでいる。

これを正すだけでもたいした救いであります。

これも表面からぶつかれば問題になる。

いま西洋医学万能で、政府もそれを固持しているから、われわれが、その間違いを言えばすぐに潰される。

ですから、当たらず障らずにやって行く。


また、宗教はほとんど間違っている。

一時はちょっとよいようですが、先へ行くときっと苦しみ、貧乏をし、いろいろの災いが出てくる。

よく新しくできた宗教を、邪教だのインチキなど、いろいろと雑誌に出ていますが、新しい宗教は、そういうこともありましょうが、元気があるから存在の価値があるでしょう。

むしろ古い既成宗教のほうが邪教的のことがたくさんあります。

現在ある宗教によって、救われようとしても救われず、そうかといってこのままではすまず、仏教などでは学校へ宗教を入れるといって騒いでいる具合で、「日暮れて途いよいよ遠し」という具合で、進退は窮まっている状態で、それを打開するには、大いなる光明に導く。

それが観音会の使命であって、これは出ずべき時が来て出たんであります。

その他、経済政治などいろいろな方面のこともありますが、それらもだいたい行き詰まってるのは同じことで、近ごろ観音様ということをさかんに言うようになったのもわけのあることと思います。

ついでにお話するんですが、既成宗教はどこか理屈で救おうとしているから救われない。

病気は理屈で治るものではない。貧乏もまた救えぬ。

それで、心だけで安心立命しろというふうな理屈を造ってるだけのものです。」




明主様御垂示 「過去の宗教は力が薄かった」 (昭和24年5月25日発行)

信者の質問
「過去の宗教でなぜ霊は救われなかったのですか。」


明主様御垂示
「ぜんぜん救われなかったのでなく、救われ方が微弱であった。

というのは過去の宗教には力が薄かったからで、それは夜の世界のためであった。

夜は月の光だからである。

しかし闇の中にある人間が月光に浴したのでありがたいと思っていた。

ところが今度の私の救いは太陽の光で、太陽は月の六十倍の力がある。

そのくらいの違いがあると思ってよい。

いままでの教えは月の光だからはっきりしない。

今度の「信仰雑話」ははっきりしている。

これを読んでも判るようにごくわずかの言葉で浩翰(こうかん)な経文と同じことが判る。

だからいままでは霊界へ行っても寂光の浄土に救われた。

寂光とは月の光である。

太陽の光なら陽光である。」




明主様御垂示 「過去の宗教はもう不要」 (昭和26年7月1日)

「お筆先があって、あれがたいしたものだった。霊界物語りとか。

今、ああいうのは民主主義と違うからね・・・根本からね。

それで、それを宣伝に使うことができない。

ところが、それを使わなければ生命がない。

「日本は神国、外国は獣の国であるぞよ」「今に艮(うしとら)の金神(こんじん)が返報返しを致すぞよ」なんてね。

もう、大本教の御用もすんでるわけです。

天理教の御用も済んでるし、仏教の御用も、キリスト教の御用もすんでる。

今までは確かに必要だった。だからこれからも必要だとはいかない。時に応じて変わっていく。

今までは治ったようだが、これからは死ぬか、浄霊を受けるか、どっちかです。

そこまで来ますね。だいぶ近づいて来ているからね。

だから、楽に信者が増えればいいんです。

楽にどころか、先のほうで「頼みます」と言って来る時期でなければ本当じゃない。

そういう時期が来るんです。」