天理教について
明主様御講話 「初稚姫尊が中山みきとなる」 (昭和26年9月21日)
(御論文「仏教の起源」「伊都能売神」「観世音菩薩」拝読)
「これでまだいろいろおもしろいことがあるが、ちょっと書けないことがそうとうあるのですから、そういうのは話をするかしようと思っているが、
ここに伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子供で五人としてあるがもう一人ある。
もう一人というのは伊弉諾尊と言う神様は国常立尊になるんですね。
息子に国武彦尊(くにたけひこのみこと)と言うのがありそれが一番長男になる。
当時大将軍と言い勇猛でかなり勝手なことをやっていたその罪によって、言わば地獄に行かれたようなことになる。
一番末が初稚姫尊(はつわかひめのみこと)と言い、これが天理教祖の中山みきとなる。
そういうようにいくども生まれ変わっている。大将軍の妹になる。
そこで霊界で地獄と言ってもふつうの人間と違います。
修行するんです。修行した結果、大いに世の中のためになろうと言うので天理教祖の中山みきに憑った。
それで中山みきに最初憑ったのは夫の大将軍が憑ったんです。
そういう因縁なんです。
そこで最初のうちは力がありますから病気治しもさせたが、その力によって良く病気が治った。
それで最初は病気治しで世の中に出たんです。
それからもう一つ日本民族の霊的考察の中にありますが、そこにもっていってそれを出雲系・・・素盞嗚尊が利用した。
利用して、そうして、盤古神皇に取って代わろうとしたわけです。
それが徳川家康の系統なんです。
それは霊的考察にざっと書いてありますが、そういう意味です。
天理教の本体を書くことは天理教に悪いですからそこで書かなかった。
それからもう一つ書こうと思って止したことがある。
いまの稚姫君尊(わかひめぎみのみこと)ですね。
これがこの次に書きますがお釈迦さんですね。
ですから釈迦、阿弥陀というのは伊都能売神皇がインドに行かれて観自在天というお名前になられ、霊は釈迦と阿弥陀となった。
阿弥陀は素盞嗚尊です。
そこで稚姫君尊は釈迦になる。
そこで釈迦は変性女子(へんじょうにょし)と言われたというのは稚姫君尊だから女になる。
それで弥勒三会にあります「鐘の音」というのがありますが、三人の弥勒というのは釈迦が報身、報いるという字です。
阿弥陀が法身(ほっしん)弥勒、観音は応身弥勒、これが三尊の弥陀になる。
ところが弥勒三会というのは大本教になる。
大本教はそのために出た宗教です。
大本教祖出口なおと言う方は釈迦の稚姫君尊です。
大本教のお筆先にあるが「直の御魂は半分は国常立尊、半分が稚姫君尊である」というのはそういうことです。
出口王仁三郎聖師様この方が阿弥陀になる。
それで自分は月の神様で、瑞月(づいげつ)という名前をつけたんですね。
だから寂光の浄土と言いますね。月の天国と言うんですね。
そんなようなわけで、大本教の教祖さんが釈迦になる。
そうして聖師さんが阿弥陀となる。そこの二人に生まれたのが私です。私が応身弥勒ですね。
この三人が会った。これはだれも知らない。
私は知らせたくないと言うのは、大本教の信者がこっちに来てしまうからね、だから書きたいが書かないんです。
分かったらたいへんだからね。
そんなようなわけで応身の弥勒と言うのは観音です。
そこで観音会をつくった。観音を芯にしてやっていたからね。
つまり大本教は天理教と姉妹教になる。
それで大本教では天理教の教祖を祀ってやっている。
教祖さんの出口なおの妹になる。
で、その親が伊弉諾尊……国常立尊になるわけです。
なかなかここのところは不思議です。
すっかり分かればなんでもないが、なかなかね。
それで仏というのは神の化身です。
化身ということはインドは大自在天が支配していたとき、バラモンというのがインドですから、そこに仏教を弘めなければならないと言うので、
最初稚姫君尊と素盞嗚尊が行って仏教の基礎を作った、そこに伊都能売神皇が行った。
それを化仏化神と言う。そのとき天の八人のお子さんで五男三女と言う、これが八大龍王になる。
なぜと言ってそのとき五男三女というのは、自分はインドに行くのは嫌だと言ってどうしても日本にいると言う。
仏はいずれ仏滅の世になると言うので龍神になってそれを待たれた。
日本の近海ですね、越後と佐渡の間だとか、東北のほうにもあるし、房州と関東の間の海、九州の有明、そういう所に飛び込んで時を待った。
それが八大龍王です。そうして総大将が伊都能売神様ですね。
それが日本に帰ろうと思ったところ、いま読んだように帰れないので霊で日本に来て自分も仏滅まで隠れていると言うので、
先にも言った通り近江の琵琶湖に入り琵琶湖の底に龍神となられて、これが金龍ですね。
それで霊でも霊と体がある。霊の体のほうは木花咲爺姫(このはなさくやひめ)で、そうして富士山に祀られている。
それから琵琶湖のほうが伊都能売金龍として隠れている。
このことは先に書きましたが、そうして時を待たれた。
そうして約三〇〇〇年、本当言うと二六〇〇年ですが、これが最初三〇〇〇年のつもりだったが神様のほうで力を強くしたんですね。」
明主様御講話 「天理教は月の神様」 (昭和26年7月1日)
信者の説明
「天理教のほうで、メシヤ教の力は一時的だから、迷っちゃいけないと言われておりましたが、
今後の天理教の目的は病院を作ることだということで、がっかりして、入信いたしました人がございます」
明主様御垂示
「だいたい、天理教があれだけできたのは病気治しです。先には良く治ったんです。
昭和六年から治らなくなった。
天理教は月の神様ですからね。
だから女が教主になった。素盞嗚尊の系統です。
今までは月の神様の系統ですからね。
だから、お釈迦さんを変性女子(へんじょうにょし)と言った。
キリストも女の系統ですね。
素盞嗚尊の系統です。
ですから、男の系統はメシヤ教が初めてですよ。
大本教の教祖も女ですね。
代々女です。
夜の世界じゃ、女が・・・月が、一番です。
月の光で、ともかく闇がそれだけ明るかったからね。
昼間になると月の光が要らなくなるからね。
それで、昭和六年から病気が治らなくなった・・・天理教はね。
その結果病院を作るとか、病気は医者が治すとか言い出してきた。
だから、別に天理教が嘘言ったわけでもなく、間違ったわけでもない。
時期が違ったということです。それで、そうなる。
メシヤ教だって、観音会時代はそう治らなかったですよ。
私が治すのが、いまみんなが治すくらいだったですからね。
それは、まだ太陽が出ていなかったからです。
年々太陽が出てくるから奇蹟が出る。
だから、日が経つに従って、今までよりよけい治り、奇蹟もある。
それに引き替え、月の系統のほうはだんだん反対になる。
日本人全部が信者になると言ったが、そうです。太陽が上って月を拝む人はないからね。
しかし、そうかと言って、月というものは、ぜんぜんなくなったのではない。
あるのだから・・・前は月が主だったのが、今度は太陽が主になった。
月がなくては・・・水がないと、火は燃えないから。そこで、明の字ですね。
明主と言うのはそういう意味です。
明治というのも、そういう意味なんです。
明治から昭和・・・私は明治に生まれたんですね。
だいぶ、これから集団的に信者になる者が、次々できますね。今度、九州でありましたね。」
明主様御講話 「西にできた宗教の根本は悪」 (昭和10年12月21日)
「最近、大本教と天理教の事件がありましたが、あれが出てから、ここへ来る患者の方は減ってきた。
人間の心理状態は変なもので、こっちには別に関係はありませんが、一般に宗教的なことの信頼は減ったかしれませんが、
観音様は実にその点はうまいんで、さっそくと日日新聞にここの記事が出た。
そうしたら俄然来る人が増えてきた。検挙事件のあった前よりもズーッと増えてきた。
こういうことも観音様が、あらゆることをお使いになっていることが判ります。
天理教や大本教の検挙、これは予言しておきました。
「光明世界」三号の「最後の審判」というところにありますが・・・
また、宗教にしても、インチキや間違ったことをしておれば、どしどし滅んで行くし、
それを自覚して悪を改め善に立ち還れば、再び伸び栄えて行くんであります。
これが観音力の偉大なる力の表われであります。
また、その前に、観音力すなわち東方の光は、今後月日の経つにつれて、それはあらゆる方面に渉って・・・
大本も天理も間違いがあって、それを是正されるためにあったことで、致し方ないことで、
たしか大本はあまりにもひどいことがあり、去年あたり私は予言した。
天理教など脱税問題などおもしろくない。
商人としての場合ならば、同情すべき点はありますが、天理教などの脱税したのは驚くべきもので、
その金もただ信者から出したもので、それを脱税するとは、いかにふつうの商人などよりも、もういっぱい見さげ果てたことで、これを神様が見逃すわけはない。
も一つはああいうふうなことがあると、観音会などに影響があるんではないかということですが、
これはたいへんな間違いで、東方の光が出て明るくなるに従って、昼間になり、間違ったことが消えて行くんであります。
悪という字ですが、西の元の心は悪で、西にできた宗教の根本は悪ですから、どうしても清算される。
悪といっても今日までは必要だったんで、善いとか悪いとかいうことではない。
それで脱税などすることになる。
西に起ったものには、どうしても悪の分子が必ずある。
それがどうして清算されるかというと、夜の産物であり、夜の宗教だからで、秘密がどうしてもある。
昼間のもの、昼間の宗教は明るいから、そういうものがない。
西のものには必ず暗い所がある。
いかに月が明るくとも、日のようにはゆかない。
秘密があるから、それを暴くために官憲に家宅捜索などされたりする。
そのために、これからは、あらゆる宗教にいろんな問題が起ってくる。
昔からいう世の終わりということは、世界の終わりということではなく、
夜の終わりということで、世界の終わりなどという馬鹿なことはない。
世界は永遠に発達してゆく。
われわれの世界が滅亡するなど、常識から言ってもそんなことはない。
いままでの宗教は夜の宗教で、どうしても昼間の宗教と入れ替えになる。これは宗教だけではすまない。
宗教は霊界に属する品物で、今度、神様が光明世界を造られるには、霊界のほうから先にされる。
すると宗教のほうから先に清算される。洗われるから、宗教のほうをまず掃除し、それから政治、経済、教育の方面になる。
そうなるといろんな問題が起ってくる。
それはいまお話はできない。
で、最初に宗教界の大掃除があるわけであります。
今度の事件によって、当局も、これから大いに警戒しなければならぬと警察など、宗教課を造って大いに取り締まるようですが、
これは非常に結構なことで、われわれとしても大いにお願いしたいくらいなものであります。
いいものは栄える。悪いものは滅びる。
観音会は昼間の宗教ですから、観音会が発展するに従い、夜のものはどうしても用がなくなってくる。
月夜で照ってた月も、日が出てくるに従い、月の用がなくなり、白月のようになる。
これはどうしてもしかたない。太陽の明るさによって、月または星は光を失うのはしかたのないことであります。
英国は月、米国は星の型になってるが、日本が勃興するに従って、英米の光が薄れる。
それと同じく、観音会の発展とともに、西のほうの宗教が光を失う。
そして、それが崩壊される。それは観音様がやられるわけでなく、私がやるわけでもない。
ちょうど、夜が明けるに従い、夜の秘密が判ると、これは怒ってもしかたない。
それがだんだん光明世界ができて行く型になる。
そういうわけでありますから、観音運動はだんだん発展するに従い、明るい世界になって行くから、
他の宗教はどうなっても、相関せず焉(えん)であります。」
明主様御講話 「信仰して貧乏になる宗教は全部ユダヤのもの」 (昭和10年7月11日)
「ただいま宝島さんから非常に参考になるお話がありましたが、
この天理教がそういうふうになった根本は神様のほうの原因がある。
以前は病気も治りたいへんいい教えであったものが、どうしてそうなったか。
これは天理教に限らぬ。
あらゆるものが、そうなっております。
阿呆文学もだんだんといろんな方面に材料にしてするつもりですが、
ズンズンと『光明世界』に載せますから、グーグー寝てる人達に読むようにしてもらいたい。
「貧乏製造宗」(御発表)
こういうふうに宗教は貧乏を作る。
どういうわけか、これがまだだれも気がついてない。
天理教にしろ、あらゆる宗教にしろ、最初教祖の出たときはよい。
信者の行いも正しかった。
ところで、邪神界のほうでは二千年以前から大きい野望をしてる。
それがフリーメーソンであります。
新しい宗教とか、新しい思想とかが起ると、すぐにそれを狙う。
そして、これもご承知のことですが、将来世界を自分のものにしようというために、ユダヤ人はいまもって国家を形成していない。
キリスト教は表面ああなっているが、実権はユダヤ人が握っている。
彼は最後にならなければ表面にならない。
で、ロシアなどはまだ本当に表面に出ていない。
奥の奥で操っている。
フリーメーソンは各宗教へ働きかけている。
そして世界の人間を残らずフリーメーソンの会員にしようとしている。
そのため、金はみんな自分のほうへ吸いとってしまうというやり方で、
ご承知の通りインターナショナルなどははっきりと貧乏を謳歌している。
つまり、貧乏人を非常に待遇をよくし、金持ちには恐怖を与え、金持ちになるのをイヤにさす。
日本なんかは最近だんだんそういうことは影が淡くなったように見えるがーしきり金持ちは非常に恐怖心を抱いたもので、
それはできるだけ金持ちを造らず、その国家が富まぬようにする。
これが彼らの重大なる方針で、金がなかったら国防や軍備などが充分にできぬ。
彼の策略としては各国を貧乏にして、自国が大いに軍備を造るので、
今日ロシアなど自国の軍備を世界一にならしめようとして、他国を貧乏にしようとしている。
この方針はキリスト教も実はそれにかなっている。
この前に、「金持ちの天国に入るは駱駝の針の穴を潜るより難し」という、これは有名な標語ですが、
実はユダヤから出ているんで、金持ちにさせないためのもので、
金持ちが一番恐い、金持ちがいると軍備をされるからです。
天理教はご多分に漏れず、実はユダヤの悪魔が入ってきて、
教祖はこれと戦って敗けているんであります。
ですから天理教の神は実はユダヤの神であり、
それがためにさかんに金を搾取する。
実に残虐なものであります。
また実にうまいことを言っている。
第一に金はいっさいの罪穢とする。
泥棒や人殺しをして貯めた金なら罪というのがあたりまえだが、
あたりまえに稼いで得た金を罪穢というはずはない。
さんざんに吸いとられて食うや食わずになると、
天理教のほうでお助けとか、お授けをする仕事にまわされて、食うだけは食わしてもらう。
これは純然たる宗教的共産主義で、まだまだほかにもそういう宗教があるんであります。
仏立講なんかもそうであります。
要するにファッショとか共産主義とかは恐ろしがって、政府も識者でもそれを弾圧しているが、
滅亡しないといって苦心に苦心しているが、宗教が共産主義だとは宗教だけに気がつかない。
それが気がつかぬだけに深刻で、これは善の仮面を被っているだけに厄介で、
ふつうの共産党は悪を標傍しているからいいが、
宗教は善の仮面を被っているんで始末が悪い。
しかしいかにそうしようとも、日本には天照大神がおいでになる。
天照大神様だけにはユダヤの邪神も共産主義もかなわない。
観音様には天照大神の光と力が観音様を通して救われているのでありますから、
ですから、そういうことが判るんでありまして、
おそらくこれを知ったら世の中の人は驚くことと思う。
もし信仰して貧乏になるような宗教ならば、全部ユダヤのものと思って差し支えない。
あるいは貧乏人が、もしたくさん出たとしたら、それは邪教だとみていい。
天理教はたくさんできたら日本はどうなるでしょう。
現在でも八十億の赤字が出てる。
現在どころか、国防さえも充分でないから、どうなるか判らぬ。
でありますから、日本には金持ちをたくさんこしらえなければならぬ。
そうすれば赤字公債などもなくなる。
満州開発もできる。
満州の開発が充分できれば、世界は日本に対してどうすることもできなくなる。
そして白人を日本が教えて行く。
そうすれば世界の平和は来る。
世界の平和を築くのは日本人しかない。
ヨーロッパのほうを見ても判るごとく、白人は闘争の人種でどうしても喧嘩しなければ承知しない。
最近イタリア、エチオピアの喧嘩が始まってきかぬ。
どうしてもエチオピアをとろうとしている。
もっとも百八十年前エチオピアはイタリアを負かし、それから十年してまたイタリアは敗けたんで、
ムッソリーニは今度こそ勝とうとしている。
勝とうとしているのもいいが、まるで理屈もなにもない、
それに対して国際連盟はどうすることもできない。
日本の満州問題に対しても、自分の御都合よいことばかりして、どうすることもできない。
善悪正邪は彼らには本当に心からない。
ないからして日本が世界を支配しなければならぬ。
それには日本が大いに力を持っていなければならぬ。
そうすればどうすることもできない。日本に国防が充実すれば、
ロシアもアメリカもどうすることもできない。
それには日本の兵隊軍人がすばらしいものでなくてはならぬ。
それには金をたくさん増やすよりしようがない。
それには金持ちをたくさん造らねばならぬ。
金力を潤沢にしなければならぬというのに宗教で絞ってる。
それで天理教はどういうことに使っているか判らぬ。
鉄筋コンクリートなどのお宮を造るかあるいは貯蔵するか。
それくらいなものであります。
これは資本の私蔵であります。
経済学者もこういうことに目をつければいいと思う。
実は日本を弱らせるユダヤの邪神がやっているのであります。
でこの邪神の癖として、必ずいっぽうにエロ問題を起す。
先刻宝島さんが言われた桃色問題を起すことがたくさんあると言われたが、これは当然なことで、
各宗教はみんなそういう具合に邪神が占領している。
ですから最初よくてもしまいにはだんだん崩れて行くんであります。(後半省略)」
明主様御垂示 「天理教は昭和六年六月十五日から病気が治らなくなった」 (昭和28年3月1日)
信者の質問
「だいたい天理教は病気なおしで名をあげたのでございますが」
明主様御垂示
「そうです。病気なおしで発展したのです。」
信者の質問
「それなのに病院を経営しているのでございますから」
明主様御垂示
「それは病気がなおらなくなったからです。
昭和六年六月十五日から病気がなおらなくなったのです。
それは先方から「近頃病気がなおらなくなった。教祖の時代にはだいぶなおったが、どうも不思議だ」というので、
「それはこういうわけだ」と言うと、「なるほど」と言ってましたが、そういうことがありました。
それでいつも言うとおり夜の時代の間は月の神様の守護で、天理教は月の神様だから、そこで一列揃って甘露台へというのです。
それで甘露台というのができており、そこにお皿か何かを上げてあり、そこに月が出た晩に雫が溜まると、それを月の甘露と言って、信者に少しずつやって、それを病気のときにのむのです。
近頃はそれをやらないが、最初のうちはやってました。
それを甘露と言うのですが、そこで一列揃って甘露台へ、というのです。
この甘露というのは月です。
太陽だったら露は乾いてしまいます。
月の雫ですから、月の光で病気はなおっていたのです。
ところが太陽がだんだん出て来たから、月の光は消えてしまうから、病気がなおらないのです。
それでメシヤ教のほうはだんだん病気がなおるということは、太陽がだんだん昇って来て火素が増えるからです。
だから夜の世界から昼の世界になるということは、そういう点で一番良く分かります。
だから年々良くなおるようになるのです。
それは日が昇ったからです。
前に天理教の青年会で「月日クラブ」というのがあるので、
私はなぜ「日月クラブ」としないかと言ったのですが、月を上にしているのです。「なぜでしょう」と言ってました。
それで「ツキ」というのは「ツルギ」ということです。
「ツルギ」を縮めると「ツキ」になります。それで三日月が本当の月の形です。これは剣の形をしてます。
それで今までも天理教では、「信仰を離れると一家死に絶える」ということを言うのは舌の剣です。
これでおどかすのです。強迫信仰です。そういうのはみんな「ツキ」の働きです。
それで「日」というのは「ヒク」です。
これは天理教でも、「月」は「ツク」で、「日」は「ヒク」と言ってます。
それで日というのは引く意味になるから、おどかさなくても、慕って集まってくるのです。
だからメシヤ教では決しておどかしてはいけないと言うのです。
なぜなら自然に集まってくるのです。
それは引く力というわけだからです。
私は伊都能売(いづのめ)ということを言いますが、伊都能売というのは日と月のちょうど両方になっているのです。
そこで明主の「明」には日月をつけたのです。
それで字から言っても、日は四画で月も四画ですが、四と四は八になり、八は五、三、火と水で、伊都能売ということになるのです。
ですから言霊と文字の解釈だけでも分かるのです。
それで富士山は一名八(はち)スの山と言うのですが、そうすると「明」は八ですから、富士山は「明」になって、「ス」というのは回りのチョンです。
それで八で開いて統一されるということです。
ですから富士山というのはそういう意味で、これはたいへんなものです。
やはり世界の本当の中心です。
ですから字で書くと富士(不二)で、二つとないということで、一つしかないということです。
それで私は落款に富士山を書いたのです。
今まで富士山は雲に隠されていたのです。
そこに私が出て雲が晴れていくのです。」
明主様御教え 「天理本道に就て」 (昭和25年3月20日発行)
「忘れもしない昭和四年であった。
某氏が突然来て「面白いからこれを読め」といって一小冊子を置いて行った。
私は手にとってみると、これは当時天理教の別派として大阪方面に天理本道という名の下に独立した宗教運動を始めたOAという人があったが、
右はその宣言書ともいうべきものである。
よく読んでみると、実に驚くべき事が書いてある。
氏の主張によれば、現在の天理教は全然人間が造ったもので、
教祖である中山ミキ刀自の神憑りによって出たものではないから本当のものではない。
しかるに自分は教祖のお筆先そのままを骨子として教を立て、
真の天理教を宣布するものであって、そのため天理本道の名を付したのである。ーというのである。
もっとも天理教の御筆先の中に、今に本道が出るやぜと言う事がかいてあるからでもあろう。
そうして内容は、教祖のお筆先お神楽歌の中からほとんど天皇に関したもののみを抜き出してかいてある。
当時としては実に驚くべき程の大胆無謀であって、ほとんど精神病者としか思えない程である。
例えばそのお筆先の中にこういうお神楽歌がある。
「高山の真の柱は唐人やこれが第一神の立腹」などは、いわば日本の天皇は中国人である。
それが神様のお気に入らないという意味であるから大変だ。
その他それに似たような不敬の歌やお筆先が数多く載っていたのである。
ところがそればかりならいまだしも、もっとヒドい事を彼大西氏独自の宣言をしている。それはこうである。
すなわち昭和五年五月五日までに、天皇は御退位されなければ日本には大国難が来るという。
それでは御退位された後一体誰が天皇になるかというと、それはO自身というのであるから、いよいよもって○○○沙汰としか思われない。
しかも事もあろうにその小冊子を貴衆両院議員をはじめ要路の大官、各新聞社等へ配布したのだから堪らない。
直ちに官憲の活動となり彼の取調べに着手した。
そうして右の小冊子にはこういう事も書いてあった。
気象台が台風の発生を知るや、何日何時どこに襲来するという事を予報はするが、
台風そのものは気象台が作るのではないという意味と自分の予言と同様であって、
ただ自分はその予言をするに過ぎないとカバーしているが、
事柄が事柄だけになかなかそんな言訳では官憲は承知しない。
遂に取調べの結果四年の刑を言渡された。
もちろん刑は十数年前に済んだはずである。
彼はまたこういう事を言った。
自分に子供が三人あるが、これは三種の神器であるとの事で、実に徹底的である。
ところが終戦後氏は猛然と活躍を始めた。
何しろ彼の建前は、教祖のお筆先やお神楽歌を骨子としている以上、
天理教信者たる者は無条件で信奉するという訳で、
磁石に吸わるる鉄屑のごとく集り、教盛隆々として素晴しい発展ぶりだという事である。
それがあらぬか昨今大阪市羽衣付近に宏大な本山建築中との事であるから
既成天理教に対しては一大脅威というべきで、両教会今後の動向こそ注目に価するものがあろう。
ここで、前述のO氏の予言を検討してみるが、
建国以来空前の事態である天皇退位のその根本は、満州事変が口火となったのである。
とすれば同事変は昭和六年九月十八日が起点となったのであるから、
昭和五年五月五日から数えて一年数ケ月後という事になり、
O氏の予言はまず的中したといってもいい。
この事も天理本道発展の契機ともなったのであろう。」
明主様御垂示 「大西愛次郎事件」
「大西愛次郎は、昭和五、五、五までに天皇が退位しなければ大困難あり、天皇の御位も落ちるなどといった。
五、五、五は午の年、午の月、午の日である。
これは今想うと当っている。
天理教の御神楽歌を研究するとそうなると言ってパンフレットにして配布した。
そのために天理教の信徒を多数吸収した。この一派は今再燃しつつある。
三種の神器は自分の子供で後の天皇は自分だといった。
この二点がいけなかった。かくて起訴され懲役四年かになった、これは根拠のない事ではない。」
明主様御教え 「天理教」 (昭和24年12月30日発行)
「この事柄は、他宗を非難する事になるのでかきたくはないが、何かの参考になると思うからかくのである。
これは大本教時代の事であったが、私が小間物問屋をしている時に使った蒔絵師で、熊井某という男があった。
これは熱心な天理教信徒であって、支部長となる事になったところが、
その当時 百二十人信者が出来なければ、認可を得られないというので、
彼は半分くらいの信者はあるが、後の半分六十人を私に作ってもらいたいというのである。
ところが私は天理教ではないので断わったところ、
信者でなくもいいといって懇請されたので引受けて、ともかくも六十人作ってやった。
いよいよ支部の発会式もすんでから間もなく彼は病気に罹った。
もちろん天理教の先生に、お取次をしてもらったが仲々治らないので、
私にやってもらいたいと頼むので私は行って治療してやったところ、非常によくなるので、彼は続けて欲しいと懇望した。
しかし私は考えた。もし治ったとしたら、変な事になる。いずれは知れるに違いないから、天理教から怨まれるに決っている。
しかも彼の家は遠方で、一回治療に行くのに三、四時間かかるので、
暇をかいて骨折って怨まれて、大本教の宣伝には全然ならないという訳で、やめてしまった。
ところがそれから二、三ケ月経て、彼は死んだのである。
右とよく似た話があった。大本教関東別院が横浜にあった。
そこへ出口先生は始終滞在されていた。
その随行の大幹部である某女史が病気で、漸次悪化の状態である。
出口先生は治すべくあらゆる方法をつくしたがよくならない。
たまたま私が見兼ねて治療してやったところが、今まで歩けなかった足が、一回で歩けるようになったので
彼女は驚喜し是非続けて欲しいといわれたが、この時も私は考えた。
もし私が全治さしたら変な事になる。
数十万の信者から生神様とされている出口先生が治らない病気を、一信者たる私が治したら大問題となる。
折角骨折って治してやって異端者として多勢から怨まれ憎まれては、馬鹿馬鹿しいと思ったからやめてしまったが、それから数ケ月後彼女は死んだのである。」
明主様御教え 「見えざる神は見えた」 (昭和27年7月30日発行)
「左の御蔭話は、天理教教祖中山ミキ刀自が本教に救いを依頼した霊的事象である。
ところがこれを狐霊とかいてあるが、実は天理教教祖としては、神格上普通の人間には憑れないから、狐霊を使ったのである。
これについて私は一昨年の事件の際、庵原警察署の留置所に入っていた際、中山ミキ刀自を呼び出し色々話合った末、
刀自は今後天理教の信者も救って頂きたいから、御頼みしたいというので、私は承諾した。
その事は当時の栄光に出したから読んだであろうが、それがこの御蔭話に現れた訳である。
そうしてその他の宗教の教祖も幾人か、右と同様の事を頼んだので、それが現在各所に出つつあるようである。」
体験談 見えざる神は見えた
島根県 神和中教会 MH(27・女性)
「謹んで御報告申し上げます。私の家は数十年来天理教信仰でございまして、今は父去り母はただ天理のお話を聞かねばと、益々熱心を加え、
十年一日のごとく、天理の有難さを聞かされ育って参り、毎夜一度として町の教会へのお参りを欠かす事はございませんでした。
教祖の当時の御苦心や、奇蹟のお話も賜わりますが、現在の生活に直接関係とてなく観念的に神を見つめ、理論を弄ぶと申しますか、
かえって戒律厳しく型にはまったせまさを感じ、若い私はともすると反駁しそうになった事も何度かございましたが、親に従わねばと形のみの信仰生活を続けて参りました。
二十四年の春右足の節々が痛み出し、歩行困難な状態となり、早速「お救け」をして頂きましたが
効果見えず先生からは「足の痛みは「行の理」で神様へお参りを怠るからだ」と申され、
母には「信仰が足らぬ」と叱られ、ヒステリックな気持になるばかり。
医診もリューマチスとの事で、一週間程注射を二本ずつうちましたが反って痛みは増すばかり。
痛めば良いとは思わず、やがて手足の節々を動かす事が出来ず、この若さで屍のごとく過さねばならぬかと思えば、子供の事、夫の事が、次々浮んでは消え、考えれば考える程、奈落に突き落される感じです。
何とか治らねばと、鍼に灸に治療してみますが同じ事を繰返すのみ。
その頃の事です。
ふと四、五カ月前叔父の須山さんが、メシヤ教の話をしにこられ、お救いの絶対である事を熱心に聞かせて下さいましたが、
天理教の信仰であり天理が最高と母も夫も笑って相手にしなかったのですが、
「まあ病気して困ったら来なさい」と帰って行かれた事を思い出し、お願いしようと母に相談しましたが、なかなか許されず叱るばかりでした。
夫は病気の事とて試しに須山さんを迎えてくれました。早速御浄霊を頂きましたところ、大変楽にして頂きました。
さしも一年に近い間、悩み苦しんだ痛みも掌をかざすだけで、数十分の後には半減するこの事実、考えられぬこの奇蹟、ああ有難いと知らぬ間に手を合わせておりました。
これなのだ、これが真の信仰の姿なのだ、見えざる神の力を見せてこそ初めて清らかな祈りが生まれるのだと今までの心の奥底にある曇りに、パッと光が入った感じでございました。
一週間で元の足に変えて頂き、家の者も共に喜びましたが、さて入信と申せば、天理の神様に申訳ない。
何十年御世話頂いた先生への義理が立たない等と、色々と反対致します。
救われた神様へおすがりして何が悪いのだと、教修を受けさせて頂きました。
聞けば聞くほど魂に響きお守を頂く時は天にも昇る気持です。
この御力で救われるのだと思えば余りの嬉しさになんど目頭をふいた事でございましよう。
その後主人はことごとに反対、苦しさの余り支部長の白岩様へ御相談しましたところ
「明主様を念じ時を待つ事です。それから今まで以上に御主人に仕える事です。きっと御主人もお救い頂かれます」との事でしたが、いざとなればなかなか実行は困難でございます。
特に家つきの私故、これだけ良くしてもと心の虫が頭をもたげ苦しい事でございましたがその度毎に神様はこうして私を磨いて下さるのだ、実は私の魂を磨く良い砥石なのだ、と心と心に何度言い聞かせた事でしょう。
歯をくいしばって明主様を念じながらたえさして頂きました。
母の方は御浄霊を頂くと気持が良くなりますので反対する事はなくなりましたが、夫は良くすればするほど益々反対するばかり、人間のあさましさ、これだけやっても神様はお聞き届けがないのかと、心の片すみで不安な曇りが拡がり行く事も何度あったでしょう。
神様は私をお見捨になられたのだと悪魔の囁き、そうではない未だお前が足らないのだ、ともう一つの心に励まされ、主人へ自分の出来る限りの誠を尽くして参りました。
忘れも致しません、三月十五日腰の御浄化のため御浄霊を頂いておりましたところ、憑霊現象を起したのです。
遂に神様のお耳に入ったのです。問答は自動書記で
「あなたはどなたですか?」
「天理教祖中山ミキです」
「何のために憑られましたか?」
「私の力が薄いので天理教信者をメシヤ教へお救い頂きたく憑って来ました」等々。
直接目前にこの有様を見せつけられた主人は明主様のお救いの御手におすがりする事を心から誓ってくれました。
私にとっては一生の喜びでございます。
たえがたきをたえた一年間、思えば思う程戻せずにはおられませんでした。
明主様有難うございました。ただ今では夫婦共に箱の中の信仰を忘れ、大空のごとく広きお光の大愛を胸に日々喜びの生活をさして頂いております。
この大御恵にお報い申し上げるすべとて無く、ひたすら力の限り尽くさして頂く決心でございます。
拙文をもかえりみず御守護の一端をつらね御礼の御報告をさして頂きます。
明主様有難う、ございました。なお文中憑霊は狐霊が教祖の命によって憑られたとの事であります。十日間でお蔭を頂いたのであります。(昭和二十七年七月三十日)」
明主様御講話 「理屈や言葉の数で責めるのは間違い」 (昭和10年2月11日)
「いままでの宗教は教えとか説教とかで責めて行きます。
理屈や言葉の数で責めるのであります。
天理教では四時間でも五時間でも座ってやってますが、間違いであります。
値打ちのないものは説明がいりますが、
価値のあるものは説明はいりません。
話をすれば判ります。
大いに笑う気分でなければ駄目であります。
本当の岩戸は開けんのでありますから、
観音会では笑冠句を奨励しております。
他ではこの催しはやりません。」