バラモン教について


明主様御教え 「婆羅門とマホメット」 (昭和29年1月25日発行)

「世界にある種々な信仰の中で、最も異色あるものとしては、彼の東の婆羅門(バラモン)教と西のマホメット教であろう。

両教共極端な小乗信仰であって、婆羅門教の方は生誕地である印度においても、今日は微々たる在在となり、

僅かに婆羅門行者が若干残っているにすぎない有様であるとの事である。

では婆羅門教とは一体どういう信仰であるかというと、知る人は知るごとく、

最も厳格なる戒律によって自由を束縛し、難行苦行を掟(おきて)とするものであって、

その本尊は彼の達磨(だるま)大師という事になっている。

アノ有名な面壁九年の苦行の結果、ある満月の夜突如として悟りが開けたというので、一名月光菩薩ともいわれている。

そのような長い間の坐禅のため、足が腐って立つ事が出来ず、今日達磨に足がないと言われるのもこれから出たものであろう。

このような苦行によって生まれたものが婆羅門教であるから、多くの弟子達も悟道のため難行苦行一点張の修行であった。

それが今日絵画彫刻等にある羅漢(らかん)であって、この修行は今日でいえば大学の課程のようなもので、

これによって悟りを得た者は一種の霊力を得、盛んに奇蹟を現わすので、当時大衆からも大いに尊敬を受けたのである。

しかもその苦行の極端である事は、例えば板の裏から何本もの釘を打抜き、その上に胡座(あぐら)をかくので、

釘の尖(さき)がブスブス臀部(でんぶ)に突き刺さり、その痛さに耐えられないのを我慢し、何年も坐禅を続けるのであるから、

今日から見れば肌(はだえ)に粟(あわ)を生ずるのである。

その姿も、絵にあるごとく、何らかの物質を片手で差上げて何年もそのままであったり、

当時の高僧鳥巣禅師のごときは、その名のごとく大木の上にある鳥の巣に坐禅を組んでの修行も有名な話である。

その他断食、無言、瞑目等の行はもちろん、彼の五百羅漢の異様な姿を見ても分る通りで、

これを見た釈尊は余りの荒行に、これを救うべく経文を作り、これを読む事によって同じ悟りを得られるという教えであるから、

これを知った当時の求道者も民衆も翕然(きゅうぜん)としてその徳を慕い、釈尊の膝下(しっか)に集ったのはもちろんで、

ここに仏法の端緒が開けたという事である。これがためさしもの婆羅門教もついに衰退の止むなきに至ったのである。


ところが釈尊入滅後数百年を経た頃、婆羅門教の一派として現われたのが、彼の有名な維摩居士(ゆいまこじ)である。

居士は相当学問力量があり、当時未だ盛んであった仏教を覆すべく活動したが、力足らず挫折はしたが、

彼の衣鉢(いはつ)を継いだ者が地を中国に求め、釈迦の教えを表面に婆羅門精神を土台として作られたものが彼の禅である。

これが三派に分れて臨済、曹洞、黄檗(おうばく)の名によって道を弘め、一時は相当成果を収めたのである。

今もその本山として有名な五台山上に道教の本寺があり、禅のメッカ的存在となっている。

そんな訳で、その修行としては婆羅門的厳しい戒律と難行苦行が基本となっていて、

修道者の中でも随分霊覚を得て、奇蹟を行う者も相当あるとの話である。

そうしてこれが日本に伝わり、一宗を成したものが禅宗と日蓮宗である。

従って前者は戒律を本意とし、後者は難行苦行を修行道としているのである。

彼の日蓮が「吾は法華経の行者なり」と言ったのも、それを物語っている。

なぜなれば日蓮以外他宗のもっと高僧で行者と名乗った者は一人もない。

もっとも行者とは婆羅門修行者の名称である。

つまり法華も禅も仏教にはなっているが、真髄は婆羅門であるから、両宗共自力本位であるにみても分る。


ところがこれと異うのは他力本位の浄土真宗であって、これこそ釈尊直伝といってもいい。

その他真言、天台、法相のごときはまず中間派といってよかろう。

右の外不動信仰や日本古神道の自力信仰もあり、その中にも断食、滝浴び、水行、菜食等のごときもそうだが、

特に禊(みそぎ)教、御嶽(おんたけ)教等はその代表的のものであろう。


以上は東洋面であるが、次の大宗教としてのマホメット教である。

これは位置からいうと西洋に近いが、東西の中間に当り、彼のアラビヤのメッカが本山となっており、

中国では回々(フイフイ)教、印度ではイスラム教と呼ばれているが、ヤハリ東洋的色彩の濃い宗教である。

この信仰は人も知るごとく難行苦行というよりも、極端な戒律を守るのが骨子となっており、

その厳しさは他教の真似も出来ない程である。

近頃は大分一般に知れ渡ったようだから略すが、この宗教は東洋民族の大半を根強く把握しているのは異彩である。


ところでキリスト教であるが、この信仰も自力が多分にあり、戒律も相当厳しい。

彼の牧師の行動や生活にみても、一般とは大いに異っている。特に彼の修道院のごときはそれがよく現われている。

このような訳で今日 基督(キリスト)者の大きな悩みは、現代生活との余りに掛離れているジレンマのため、精神的苦悩は並大抵ではないようである。


この点になると我 メシヤ教は全然異っており、一口にいうと他の宗教の難行苦行を主とする地獄的信仰に反し、

本教は難行苦行を否とし天国的生活が建前となっているので、

これを分り易くいうと、今までの宗教はことごとく夜の宗教であったからで、

暗黒で物を見ようとするのであるから、その苦悩たるや不可能に近いものである。

ところが本教は昼間の宗教である以上、何物も一目瞭然一切が容易に把握されるので、言わば天と地との異いさである。

これこそ長い間の夜の世界が終りを告げて、いよいよ昼の世界転換に一歩を踏み入ったからである。

すなわち霊界においては太陽が昇り始めたので、漸次昼となり、

ここに地上天国の開幕となるのであって、昔から伝えられている東方の光の出現である。

これが言葉だけではない。

現に素晴しい奇蹟を到る所数限りなく現わしているにみて明らかである。」




明主様御教え 「仏教の起源」 (昭和26年10月25日発行)

「左記は目下執筆中の文明の創造の宗教篇中の一文であるが、大いに参考となるので早く知らしたいと思い載せたのである。

仏教の起源

観世音菩薩の御本尊は、伊都能売神(いづのめのかみ)である事は、以前から私は度々知らしてあるところであるが、

これについて分らねばならない事は、元来仏身なるものの根本である。

単に仏といっても実は二通りあって、本来の仏身と神の化身との両方ある。

そうして本来仏とは約二千六百年以前、釈尊の時から生まれたものであって、

その頃までは今日の印度は、当時月氏(げっし)国とも言われたので、

同国においては余程以前から彼の婆羅門(バラモン)教が隆盛を極めていたのであって、

この婆羅門教なるものは、教義のようなものは更になく、

ただ肉体的難行苦行によって、宇宙の真理を掴もうとしたのである。

今日でも絵画彫刻等に残っている羅漢などは、その苦行の姿であって、

この姿を見ても分るごとく、樹上に登って鳥の巣のごときものをこしらえ、それに何年も静座をした。

当時の高僧 鳥巣(とりす)禅師などもそうであり、

また掌の上に塔の模型のごときものを載せたまま、何年もジッとしていたりする等、

いずれも一種異様な形をしながら、合掌座禅をしており、一々見る者をして、奇異の感に打たれるのである。

酷いのになると、板の上に沢山の釘を打ちつけ、その上で座禅を組むので、釘の尖で臀部に穴が穿き、出血と共にその苦痛は名状すべからざるものがあろう。

しかしこの我慢が修行なのであるから、到底今日では想像も出来ないのである。

彼の達磨(だるま)大師にしても、面壁九年という長い歳月座禅のまま壁に対って、瞑想を続けていたのであるから、その苦行は並大抵ではあるまい。


ここでちょっと達磨についての説であるが、

右の印度の達磨大師とは別に今から千二、三百年前、中国にも同名異人の達磨が現われたので、これがよく混同され易いようである。

中国の達磨は聖徳太子の時代日本へも渡来し、太子に面謁されたという相当確かな記録を、私は見た事がある。


話は戻るが、婆羅門(バラモン)の行者達は、なぜそれ程の難行苦行をするかというに、これについては

その頃多くの求道者達は、競って宇宙の真理を知ろうとして、その方法を難行苦行に求めたのである。

ちょうど今日学問の修業によって、博士号や、名誉、地位を得ようとするようなものであろう。

そうして達磨についての今一つの面白い話は、

彼は面壁九年目のある夜、フト満月を仰ぎ見た時、月光が胸の奥深く照らすと思う一刹那、豁然(かつぜん)として

大悟徹底したので、その喜びは絶頂に達したという事で、それからの達磨は見真実のごとくに 

いかなる難問にも明答を与え、当時抜群の行者として、多くの者の尊信を集めたという伝説がある。


そうして当時の印度においては、日本でいう天照大御神と同様、人民の最も畏敬の中心となっていたのは彼の大自在天(だいじざいてん)神であった。

その外大広目天(だいこうもくてん)、帝釈天(たいしゃくてん)等々、色々な御名があるが、

これは日蓮宗の曼陀羅(まんだら)に大体出ているから見れば分るが、

とにかく婆羅門教が圧倒的に社会を風靡していた事は間違いない。

ところがその頃突如として現われたのが、言うまでもなく釈迦牟尼(しゃかむに)如来であった。

この経緯(いきさつ)は後に書くがともかく皇太子であられた悉達太子(しったたいし。釈迦の出家以前の名)が、修行終って大覚者となり出山したのである。

太子は幽現界の真相を会得し、燃ゆるがごとき大慈悲心をもって、一切衆生を済度せんとする本願を立てた。

そうしてその手段としてまず天下に開示されたのが、経文を読む事によって覚りを得るという方法で、これを大衆に向かって大いに説諭されたのだから、

当時の社会に一大センセーションを捲き起したのはもちろんである。

何しろ当時 婆羅門(バラモン)式難行苦行を、唯一無二のものとしていた事とて、喜んだのも無理はない。

何しろこれに代るべきものとしての読経という安易な修行であるから、ここに大衆は釈尊の徳を慕い、日に月に仏門に帰依する者続出するので、

ついに釈尊をして印度の救世主のごとく信奉の的となったのは無理もない。

そのような訳で、ついに全印度を仏法化してしまったので、これが仏教の起源である。

それからの印度は、さしもの婆羅門の勢力も、漸次萎靡(いび)不振となったのはもちろんであるが、

といって全然消滅した訳でなく、今日も一部にはなお残っており、

同宗行者は、仲々の奇跡を現わしているという事で、

英国の学者中にも、研究のため印度に渡り熱心に研究する者もあるとみえ、

私は先年その記録を読んだ事があるが、素晴しい奇跡の数々が、掲載されていた事を今でも憶えている。」




明主様御教え 「仏教に於ける大乗小乗」 (昭和27年御執筆)

「元来仏教は、小乗が本来である事は、以前私は書いた事があるが、

小乗である仏教の中にも、大乗と小乗のある事を知っておかねばならないのである。

これを判りやすく言えば、小乗は自力本位であり、大乗は他力本位であると思えばいい。

そうして仏教中禅宗と日蓮宗は小乗であって、その他はことごとく大乗である事で、ここではまず小乗から解説してみるが、

これは自力であるから、どこまでも難行苦行を修行の第一義としている。

というのはこの考え方は、その根本がバラモン宗から出ているためである。

ことに彼の禅宗に至っては、最もこのやり方が濃厚に表われている。


先にも詳しく説いたごとく、釈尊によって主唱された仏教精神は、バラモン式難行苦行は誤りであるとし、

それに代るに経文を唱える事によって、悟りを得るという言わば経文宗教ともいうべきもので、ある期間インド全体を風靡した事は人の知るところであるが、

その勢いに対してもそれに従う事なく、依然としてバラモン宗を奉ずる一団があった。

もちろん信念は頗(すこぶ)る固く、相変らず禁欲的難行苦行の道を歩み続けて来たのはもちろんで、その信仰の的としては彼の達磨であった。

そうして達磨思想の真髄としては、苦行の外に学問であって、この両道によって悟道に入るべく、錬磨研鑚したのである。


ところが釈尊入滅後数十年を経てから、バラモン宗の行者の中に、傑出した一人物が現れた。

これが彼の有名な維摩(ゆいま)居士である。この維摩こそ禅宗の開祖であって、この本流が彼の臨済禅である。

ところが彼は業成るや、インドを捨てて中国内地に移り、布教のため各地を巡跡し、最後に至って有名な五台山に登って道場を開き、道教の祖となったのである。

そのような訳であるから本当からいえば、禅宗は仏教から出たものではなく、日本に入ってから仏教化したものであろうし、そうしなければ布教上にも困難があったからでもあろう。

この意味において禅宗の寺院も修行法も、僧侶の日常生活等も他宗とは大いに異っているにみても分るのである。

彼の禅宗のみに行われる坐禅の行も、開祖の達磨の修行に則ったものであるのは言うまでもない。

また問答を修行の第一義としているが、これも他の仏教とは異ったもので、学問から生れたからに違いない。

それらについてもうなずかれることは、中国日本における古来からの禅僧である。

彼らの中、学高き者は漢詩のごときものを作るが、これには禅の悟りを含めたような、言わば漢詩禅ともいうべき詩文を作り、盛んに書いたらしい。

今日これらの書や大字など相当残っているが、好事家から非常に珍重され、価格も高いが、静かに観ると実に脱俗的匂いは人の心に迫り、よく筆者の人格を表わしていて、実に頭の下る思いがする。

その中でも有名な彼の「碧巌録」の作者圜悟(えんご)禅師のごときは中国随一とされている。


日本における禅宗の開祖は、京都大徳寺の開山大燈国師であるが、この人も当時から傑出した僧で、その文といい書体といい、まず日本一と言ってよかろう。

次は鎌倉円覚寺の開祖無学禅師であるが、私はこの人の書はことに好きである。

このように見て来ると、禅宗の高僧は僧侶よりもむしろ宗教学者といった方がいいくらいである。

そうして今日日本の禅宗は曹洞宗、臨済宗、黄檗(おうばく)宗三派となっているが、黄檗宗は微々たるもので、これは中国の方がさかんだという事である。

禅宗の方はこのくらいにしておいて、次は日蓮宗を書いてみよう。


日蓮宗はもちろん小乗仏教であって、難行苦行による自力本位であるから、他宗のごとく釈迦や阿弥陀には余り重きを措かないようで、

ただ一途に開祖日蓮上人を中心に拝み、苦行によって自力を強めようと修行するのは人のよく知るところである。

すなわちこれらによってみるとこの宗は釈尊の仏教を通り越して、バラモンの流れを汲んだものといってもいいくらいである。

上人が「吾は法華経の行者なり」と言われたが、この行者の言葉もバラモンから出ているのである。

といって上人は釈尊の経文にも大いに重きを置いている。

法華経二十八品を同宗の基礎とした事によってみても分るが、言わば上人は精神はバラモンに従い、形体は釈尊に学んだといってもよかろう。

そうしてこの宗は最も霊憑りを奨励し、修行の第一義としているが、これも仏教的ではなくバラモン的である。」




明主様御講話 「禅宗はバラモン教」 (昭和26年10月25日)

(御論文「仏教における大乗小乗」のあとの御教)

「この仏教などに、よく自力と他力と言う事を言いますが、今書いたように小乗仏教が自力なんで、大乗仏教が他力と言う訳ですから、

日蓮宗の人なんか、非常に熱心で、カンカンになって・・・あまり熱心になると気違いじみたようになって来ますね。

これは霊に偏るためですね。


それから、他力の方は南無阿弥陀仏をとなえていれば、救われる・・・阿弥陀さんの側に行ける。

と、全然自分の力と言うのを無視して、ただ、阿弥陀さんに頼ると言う精神一点張りなんですね。

仏教のうちでも、どっちかに偏っているんですね。

だから、どうしても・・・つまり伊都能売式にはなっていなかった。

そう言う事は知らなかったんですね。


それで、そう言う事を、仏教では同じように思っていて、禅宗なんか今言う通り、仏教よりバラモン教なんです。

それを知らなかったんですね。

だから、仏教が堕落したと言う・・・どうしても、今の坊さんはいけないと言うが、禅宗の坊さんは割合そうではないですね。

今日でも割合修行がやかましくて、禅宗寺なんかは、実に坊さんの修行なんかは・・・粗衣粗食で、今から言うと、カロリーも何もないような物を食べている。

冬でも足袋をはかず、中には火にあたらないのもいる。

そうして修行している。

これは純然たるバラモンのやり方で、仏教のやり方ではない。

墨染めの衣・・・あれは非常に良い感じがしてね。

洋服に袈裟かけている坊さんより見良いですね。

洋服に袈裟と言うのは、あまり見てが良くないです。

全く禅宗の坊さんはある程度偉いところがあるんですね。

今も書いてある通り、禅宗の坊さんの書いた書ですが、実に良いところがある。

書は大して上手くなくても、それから受ける感じが、邪念・・・そう言うところが無く気持ちが良いですね。

以前にはそう関心持たなかったが、近来いろいろ研究してみるとなかなか値打ちがありますね。

今の美術館が出来たら、そう言うものも集めるつもりですがね。

大体書の良いものは日本では大徳寺ですね。

あの代々ですね。

今度京都に行ったら、大徳寺の真珠庵と言う、大徳寺末寺ですが大燈の書かれたものがあるので、そこに行ってみたいと思っている。

官休庵と言うお茶の先生が懇意にしている。

なかなかやかましくて、普通は見られないそうですが、今度見せてくれるそうです。

昔の通りで、二階に上がるのに猿ばしごだそうです。

危ないくらいだそうです。真直ぐになっていてね。

それも昔の通りで変えないんですね。

そこに大燈国師の書が一番あるそうです。

そんな訳で、なかなか今でも禅宗はちょっと面白いところがあるそうですね。

この前京都に行った時、大徳寺であそこに茶碗で日本一の喜左衛門井戸と言うのがあり、見せてもらったが、別に変わった茶碗ではなかったが、

有名な茶碗です。そこに行った。お寺の生活状態を見ると実に質素で床しい感じがしたね。」




明主様御教え 「難行苦行」 (昭和23年9月5日発行)

「信仰と難行苦行とは密接な関係があるように、昔から一般人に思われているが、

元来難行苦行は古代インドのバラモン教が起源で、釈尊出現以前の印度は、ほとんどバラモン信仰が印度人の大半を占めていたという事である。

彼の達磨の面壁九年の苦行もそれであるし、また羅漢(らかん)とは苦行の修行をした時の行者の姿であって、

その苦行たるや、羅漢の絵や彫刻にあるごとく片手に物を捧げたり、木の股に座したり、

甚だしきは板の裏から何本もの釘を打込み裏返してその上に座禅を組むので、

骨部はその何本もの釘に刺され、非常な痛苦の下に一年二年または数年に及ぶ者さえあるそうで、

それ等の痛苦を我慢する事によって悟りを得る、すなわち覚者たり得るというのである。

彼の達磨が苦行のある夜満月を仰ぎみている際、月光が胸中を明々白々照らすと思う瞬間、豁然(かつぜん)として真理を悟り得たという事は有名な話である。

何しろ九年も座禅をしていたので足は萎え起つ能わざるに至ったのが

達磨に足がないという伝説となったものであろう。

今日も印度においてはバラモン行者が相当いるそうで、なかなかの奇蹟を表わすとの話である。

故タゴール翁が常に行ったという森林の冥想や、ガンジー翁が再々行った断食等もバラモン行の一種であろう。


彼の釈尊出現の当時盛んに行われていたバラモン式苦行の、余りに悲惨なるに憐愍(れんびん)の情禁じ兼ねた釈尊は、

苦行をせずとも、経文を読む事によって覚者たり得るという事を教えたので、

当時の印度民衆はその功徳に感激し、釈尊を讃仰(さんぎょう)のまととするようになったという事である。

この意味において仏者が難行苦行をするという事、それは釈尊の恩恵に叛くという訳になろう。

日本においても未だ相当バラモン式苦行を行う行者や宗教家もあるようであるが、私はあまり賛成出来ないのである。

というのはわが観音教の信徒が別段難行をせずとも覚者となり、正しき道を履(ふ)み、天職使命を実践するようになり得るからである。」




明主様御教え 「小乗信仰」 (昭和25年3月11日発行)

「今日宗教を批判する場合、こういう事をよく聞くのである、それは宗教の本来は教主初め幹部その他も、粗衣粗食茅屋(ぼうおく)に住み、出ずるに電車バスまたはテクで、出来るだけ質素にすべきであるというのである、

なるほど、往昔(おうせき)の開祖教祖が信仰弘通に当って、草鞋(わらじ)脚絆(きゃはん)で単身巷(ちまた)に出で街頭宣伝をやったり、

時には野に伏し山に入り、断食をし滝にかかる等あらゆる辛酸を嘗(な)めたり、または牢獄へ投ぜられ、遠島の刑罰まで受けたのであるから、

今日からみればその苦難の実績は、涙なしでは見られないのである、

そうしてようやく得たところは一区域一地方がようやくであって、大抵は死後数代または数十代を経てから全国的に拡がるという訳で、今日に比しその不遇に終始した事実は想像以上である。


右のような実情が一般人の頭にコビリ着いているため、新宗教を見る場合もそういう眼鏡を通すので誤られやすいのは当然である、

もちろんこのような宗教こそ小乗信仰というのである、

この小乗信仰の発祥は最も古く釈迦誕生以前の印度(インド)に生まれたバラモン宗からで、

この教の主眼とするところは、難行苦行によって悟りを開くとされている、

今でも印度の一部にはこのバラモン行者が少数ではあるが残存しているそうで、彼らは相当霊力を発揮し、奇蹟も表わすそうである、

彼のガンジーの断食行も彼が若い頃バラモン行者であったからであろう。


これについて面白い話がある、釈尊が八万四千の経文を説いたその根本はこうである、

釈尊がその頃の印度の状態を客観する時、何しろバラモン宗が蔓(はびこ)っていたので、難行苦行をやらなければ悟りが開けないとなし、それが信仰の本道とされていたのである、

今日日本各所に遺っている羅漢の絵画彫像はバラモン行者の難行苦行の姿であるにみて、いかなるものかが想像され得るであろう、

ここにおいて釈尊の大慈悲心はこれを見るに忍びず難行苦行によらないで悟りを得る方法を開示されたのが彼の経文である、

経文をただ読誦(とくしょう)するだけで難行苦行によらずとも、悟道に徹し得るというのであるから、

それを初めて知った大衆の歓喜は言うまでもない、実に釈尊ほど有難い聖者はないとして敬慕讃仰し、ついに仏法は印度全般を風靡したのである、

これによってみても釈尊の救業中、最も大なる功績がこれであったといえよう。



小乗宗教は時代錯誤

以上の意味にみても、苦行的小乗信仰は釈尊の大慈大悲の御意志に背く訳で、実は釈尊の救いの対象であったバラモン宗に傾く訳であり、いかに誤っているかが判るであろう、

ゆえに釈尊も極楽界においてさぞ歎かせられ給うと想うのである、右によってみても小乗信仰のいかに誤っており、時代錯誤であるかを知るべきである、

また別の面から観る時、今日の宗教弘通の上において、交通や出版術等の発達は、昔十年かかったものが一日で同様の事をなし得る以上どうしても時代に即応し文明の利器を極度に利用すべきが本当である、

しかるに独り宗教のみが古代人的のやり方では、真目的が達し得られないのは判り切った話である、

何よりの証拠は、今日既成宗教が時代から離れんとしつつある事実にみても余りに明らかである。


従って、吾々が現に行いつつある宗教活動を見る時、小乗的眼鏡の持主は、ただ驚歎するのみで、真相の把握など想いもよらないのである、

それだけならまだいいが、ある一部の人は吾らを目して金殿玉楼に住むとか、豪奢な生活をするとかの悪評を放つ事である、

しかしながら、吾々は多数の信徒からの寄進のみで経営しつつある以上、金銭による必要はないと共に、

仮に小乗信仰者の批評を是とすれば、せっかく寄進した食物も腐らすか、塵溜へ捨てなければならない事になろう、

また種々の物品も闇で売る訳にもゆかず、返還する訳にもゆかない、

しかも信徒の誠で大きな家を献納されるので、それを使用しない訳にもゆかない、

それどころかそれによって人類を救うべき大きな仕事が出来るのだから、これらを考える時、小乗者の観方のいかに誤っているかが判るであろう。



歓喜の生活つくる本教

しかも本教の理想とする所は、病貧争なき世界を作るにある以上、入信者のことごとくは健康で裕かで、和気藹々(あいあい)たる歓喜の生活者たり得るので、

今日のごとき地獄的社会に呻吟しているものからみれば、想像も付かないばかりか、むしろ実現を否定し、大衆を釣るための好餌くらいにしか思わないであろう、

そうして現在造りつつある地上天国の模型を、金殿玉楼的贅沢品くらいに思うかも知れないが、

吾らの目的は今日の地獄的社会を脱(のが)れて、時々天国的塵外境に遊ばせ真善美の天国的気分に浴せしめ、

歓喜の境地に浸りながら、高い情操を養わせるのであるから、いかに現代人にとって必要事であるかは、今更多言を要しないであろう、

全く今日の社会の雰囲気では下劣な人間が造られ、青年を堕落させ、到るところ社会悪の温床たらざるはないのであるから、この地上天国こそ現代における唯一のオアシスと言ってもよかろう、

吾らのこの遠大にして崇高なる計画を真に認識さるるにおいては、非難どころか双手(もろて)を挙げて賛意を表すべきである。


次に今一つの重要事がある、それは日本人が過般の侵略戦争によっていかに世界から誤られ、信用を失墜したかは今更言うまでもないが、

その信用を一日も早く挽回する事こそ吾らに課せられたる最も切実な問題であろう、

この意味においても日本の自然美と日本人の特色である美的才能を示すべき重要施設であろう、

今後益々外客の訪日に対し旅情を慰めると共に、日本高度の文化面を認識させる上にいかに役立つかは実現の暁世を挙げて讃美するであろう事を今より期待しているのである。

以上が小乗信仰と大乗信仰の解説である。」




明主様御垂示 「断食は間違い」 (昭和24年4月20日発行)

信者の質問
「断食の功罪。」


明主様御垂示
「これは一種のバラモンの行であるが、

人間は普通人三度で職業によって四度も五度も食するようにできているのである。

断食は間違っている、そのためその間は生産に影響するからそれだけ怠けの罪を犯すことになる。

故に断食は一時はよくても罪を着ることになる。」