唯物主義について


明主様御教え 「唯物主義と唯心主義」 (昭和24年4月8日発行)

「本教が発展するにつれて予想もしない事が次々起こって来る、

それは本教の発展に対し嫉視する者、敵意を持つ者等あらゆる方法をもって妨害しようとするのである、

その手段として彼らが一番用うる戦術は当局者に向かって投書する事である、

その投書たるや実に荒唐無稽のはなはだしいところではない、吾らの全然知らない事や虚構に満ちたもの、中には反対に書くものもある、

ちょうど小説や脚本を読むような感じである、このような邪悪なる手段をもって傷つけんとする彼らの意図は何がためであろうか、

実に不可解極まると共にかような邪悪によって目的が達せらるると思うその浅間しさが問題である、

そうして投書するくらいの人間とすれば、相当の教育を受けたものである事はもちろんで、まずインテリ層に属する者ともいえよう。


日本人中に、かくのごとき邪悪が成功すると思う思想の持主が相当あるという事は実に寒心に堪えないところで、

新日本建設などはいつの日か、前途遼遠を想わしむるものがある、

しからばこのような不徳漢(ふとくかん)の絶えない原因はどこにあるかを大いに検討してみると、

この最大原因としては何よりも教育に重大欠陥がある事である、

何となれば投書家には青年がすこぶる多いというにあるからで、

それは全く唯物主義一点張りの思想を注入されるためである。


元来唯物主義とは見えざるものは信ずべからずという信念によるので

それが大中小学を通じて長期間注入されるのであるから一種の危険思想の卵が作られる訳である、

ゆえに彼らは正不正の区別などはテンデ頭に置こうともしない、

ただ利欲のためには虚偽も不正も邪悪も問うどころではない、

何とかして自己の目的を達すればそれでいいというのであるから実に恐るべき事だ、

しかも驚くべき事は、社会の指導階級である国務大臣や大会社の社長級までが、同様の虚偽不正を行い小菅行となるのであるから、他は推して知るべきである、

どうしてもこの際大浄化を行い日本人全体を自覚させ、道義的向上を計らなくては国家危ういかなというべきである、

それには何よりもまず徹底的に唯物主義を打破するより外に方法はない、

そうするにはいかにしても宗教の力によらなければ絶対不可能である事を痛感するのである。


しからばなぜ宗教の力によらなければならないかというに、それは見えざるものを信ずるという信念である、

ところがそれは宗教のみの分野であって人の眼は誤魔化し得ても神の眼は誤魔化せない、

否自分の眼さえ蔽い隠す事は出来ない、悪事は必ず暴露する、正義は必ず成功するという悪因悪果、善因善果の真諦を徹底的に青年層に植付ける事である、

それに対しては、宗教家の熱と力である事はもちろんであって、

特に望むところは当局においてもそれら悪質投書家に迷わされざるよう充分戒心されん事である、

もっとも一口に宗教といっても正邪の差別もあるから、

これらに対しても鋭い批判の眼を向ける事はもちろんである。

最後に言いたい事はシャーナリストに対してである、

彼らの大部分は唯物主義のカンカン者が多いので、この面からの悪影響も見逃し難いところである。

これについていつも思う事は、彼の野蛮人に対し空気の存在を知らしても信じないそうである、見えないという理由によってである、

と同様の感は唯物主義者に神霊の実在を語る時もそうである。」




明主様御教え 「唯物主義と唯心主義の戦」 (昭和24年12月20日発行)

「ジャーナリストはほとんど本教を迷信邪教というが、これはどういう訳であろうか。

端的にいえば彼らと吾々とは観点が異(ちが)う。唯物主観によって唯心的を批判するからである。

という事は唯物主義とは文字通り判然と眼に見える存在であるから、何人も把握し得るが、唯心主義に至っては不可視である以上、どうしても否定する事になる。

ゆえにただ単に比較さるる時、唯心主義の方は実に歩(ぶ)が悪いのは致し方ないのである。

しかしながら唯物観は眼に見え、五感に触るるだけのもので局限されている以上小なる存在ともいえる。

それに引換え唯心観は無限大である、いわば地球の大きさに対する際限のない宇宙の大きさともいえる。

今ここに眼で見得る程度としては精々富士山くらいで、数十哩(マイル)に過ぎないが、眼に見えぬ想念は地球の涯(はて)はおろか無限大に拡がり得る事も一瞬にして可能である。

ちょうど大海が唯心観ならば、それに浮いている船が唯物観であるともいえよう。


以上の理によって、唯物主義は仏陀と同様唯心主義者の掌に何千里か駈けたが、とうとう負けてしまった孫悟空にも似ている。

また他の例を借りていえば、彼の釈尊が唱えた一切空の説も、唯心観から唯物観を対象としたものであり、

生者必滅会者定離もそうであり禅のいう「形あるもの必ず滅する」という悟りもこれである。

もちろん唯心観は永遠無窮の生命体である以上、有限であるところの唯物観で、唯心観を批判するのはいかに誤っているかが判るであろう。

ちょうど小さな壺へ象を入れようとするものであり、葭のずいから天井を覗くようなものである。

唯物主義者よ! この説を読んでもっていかんとするや!」




明主様御教え 「人は神の子にして又罪の子なり」 (昭和11年1月1日発行)

「近来「人は神の子である、否罪の子である」という論議が、相当行われているが、これは今初まった問題ではない、

二千年もの前からの懸案であってそれが今日に到ってなお未だ解決付かないというだけの事ではあるが、

これは左程むずかしい問題ではないので、簡単に解決せらるると思う、

それは何かというに、すべての物に表裏のあるごとく、人は神の子であって、又罪の子である。


元来人間は神性と獣性と両方面を具有しているので、向上すれば神のごとくにもなり、堕落すれば獣類のごとくにもなるのであって、

彼の死して護国の鬼とまつらるゝごとき人は、それは神性にまで向上したからである。

ややもすれば、獣性に堕ちんとする人間を、そうさせまいとするのが、宗教、教育、道徳の役目である。


唯物主義は、往々人間を獣性にする傾きがある。

唯心主義は、人間を神性に導く力がある。

しかしこれも絶対とは言えない、反って逆の場合もある。

例えば唯物主義にしても人類の福祉を増進する発明をなし、又は発見をする人は、立派な神格者である。

それに引換え、唯心主義者といえども、余りに物質を無視し、霊に偏よる結果は、

一種の敗残者となり社会的に無為無用の人間となり、

世を救うと言いつつ実は自己が親戚知人に救われなければ生存が出来ないという人があるが、これらは一種の獣的堕落者であろう。

これを要するに、いか様に説くといえども、結論は飽くまで「人は神の子であって又罪の子である」

故に世の宗教家教育者は、罪の子を造らぬよう、又罪に堕した者といえども、神の子たらしむべく、努力しなければならないのである。


これを今一層適切に言えば人間は一日の中にも一時間否一分間の中にも神の子となり、又罪の子にもなるのである、

それは善を思い善を行わんとする時は、神の子であり、不正を思い、不善を行わんとする時は罪の子である、

最近、某氏の誇らかに説く漫然と人は神の子仏の子であると断定するのは、半面の見方であって、未だ全真底に触れていない、

謬った説き方であるという事である。

これを要するに、神の子又は罪の子と、一方的に決定するところに誤謬を生ずるのであると思うのである。」




明主様御教え 「宗教不感症」 (昭和25年4月8日発行)

「普通常識からいえば、世のために尽くすとか、人を幸福にするという事は善い事に違いないから、賛意を表し援助をしたくなるのが真の人間性である、

ところが不可解にもはなはだ冷淡に振舞う人をよく見受けるが、そういう人は案外多いようである、

彼らの偽らざる心情は、世のためとか人の事などはどうでもよい、そんな事は骨折損の草臥(くたび)れ儲けにすぎない、

すべては自分だ、自分に利益がある事だけすればいい、それが一番利巧だ、そうしなければ金を儲けたり出世したりする事は不可能だと思っているらしい、

実はこういう人の方が反って利巧に見えるものであるから、世の中は可笑(おか)しなものである。

従って、この種の人は自分がどんな苦しみに遭っても唯物的打算的に考える、

すなわち病気は医者にかかればいい、面倒臭い事は法律の力を借りればいい、言う事を聞かない奴は叱言(こごと)を言うか痛い目に遇わせてやればそれでいいとはなはだ簡単に片付けてしまう、

また吾さえよければ人はどうでもいいとする主義だから、自分だけが贅沢に耽(ふけ)り、他を顧みようとしないため全然徳望などはない、

集る輩は利益本位のみであるから、一朝落目になるとみんな離れてしまう、

もちろんこういう人に限って年中問題や苦情の絶えた事がない、

ついには何事も巧くゆかなくなり、失敗するとそれを我(が)で挽回しようとして焦り、

無理に無理を重ねるのでいよいよ苦境に陥り、再び起つ能(あた)わざるに到るもので、こういう例は世間あまりに多く見受けるのである、

もちろん信仰の話などには決して耳を傾けない、眼に見えない神や仏などあって堪るものか、

それらはみんな迷信である、神仏は人間の腹の中にあるんだ、俺だって神様なんだよと誇らしげに言うのみか、

そんな事に金や時間を使うのは馬鹿の骨頂である、

信仰などは弱虫の気休めか閑人の時間ふさげに過ぎないとしてテンデ相手にならないのである。

こういう人を称して、吾らは信仰不感症と言うのである。」




明主様御教え 「頭を新しくせよ」 (昭和27年1月7日)

「今更頭を新しくせよなどといったところで、この言葉はもう言い尽され、古くなっているが、私の今言わんとするそれは、チト違うのである。

まず私から見た現代人の新しさは、本当の新しさとは言えない。

まず新しがる新しさ、新し振りである。どうみても古い物を新しい衣で包んでいるようにしか思えない。

というのは今日進歩したと言われる医学でさえ実に古い。

これは常に唱えているから信者は充分知っているが、その他農業にしろ、政治、経済、教育、芸術、労働問題等にしてもそうである。

何もかも古すぎて黴(かび)が生えているとしか思えない。

といったら私の頭脳を疑うかも知れないが、そう思う観念が既に古い頭のためである。

これを現在最も判りやすい例を挙げてみれば、かの民主主義である。

これなども民主主義の衣の袖から鎧(よろい)や刀がチラチラ隙いて見える。

しかもこの刀がともすれば人権を傷つけるから危ない話だ。

そうかと思うと口に男女同権を唱えながら、ちょっとしゃくにさわったり、酔払ったりすると、嬶(かかあ)の横面くらい殴り兼ねない亭主も、中々あるらしい。

また金銭で女性の貞繰を蹂躙する事など当り前のように思っている輩(やから)もある。

以上のように社会は上から下まで、道義の頽廃(たいはい)はもちろん、役人の汚職、殺人、強盗、詐欺など毎日の新聞に出ていない事はないくらいである。

またストばやりで、ヤレ停電、石炭不足、交通杜絶(とぜつ)等々、何だかんだと社会を脅かしている。

これなども全く文明の衣を着せた野蛮人の集合体としか思えない。   


このように見てくると、すべてが古くて黴が生えて腐敗し、埃(ほこり)で埋まっているといってもよく、手がつけられない有様だ。

これら一切の原因を考えてみると、全く唯物思想一点張の結果であるのは言うまでもないが、

この思想こそもう古いものであるが、仲々これに気の付く人が少ないので、わざわざ地獄文明を作って、その中で喘いでいるのであるから、

どうしても本当の新しい文明教育をしなければならないので、私はそれを信条として進んでいるのである。

そこで私が言う新しい思想とは、現代思想とはむしろ反対であるくらいだが、この思想こそ今後の時代における指導原理であるが、現代人の古い頭では不可解で、容易に信ずる事は出来難い。

殊に知識人程そういう傾向があるから吾々が言いたい事は、立派なものと思って、君らが懐へ蓄えている品物こそ、近き将来使いものにならなくなり、棄てる運命になる事を知らしたいのである。」




神仙郷緑蔭縦横談より (昭和24年9月3日発行)

記者の発言
「宗教心、とくに本教によってなんとか、日本をもっと速やかに建て直す方策がありましょうか」


明主様御発言
「従来の日本人はあまりにも力なき宗教に頼り過ぎていたようである。

もはや時代は架空的な迷信的な宗教を必要としていない。

生きた宗教、力ある宗教の現出と加護を願っている。

本教こそ、その時代的な要請によって生まれ、かつ発展してきているのであり、一部外国の要路方面でさえも、非常な関心を持ち始めたということを最近聞いている。

宗教とはすなわち奇蹟を信ずることである。

唯物論者はその奇蹟を信じようとしないで、いたずらに唯物万能の心の虜囚となっている。

唯心主義は限に見えないもの、つまり奇蹟を信じているのである。

いまや世界は唯物主義によって絶対救われざるを悟り、唯心主義すなわち宗教心をすべての根底において、新しい世界観をつくり出そうとしている。

まさに奇蹟を信ぜざるを得ない世界情勢が激しく脈打っていることを、われわれは知らねばならない。

本教の前途やまことに洋々たるものがあり、観音力の御救いの手はひろく拡げられていることを深く心に銘記すべき時期に入ったと言える。」




明主様御垂示 「哲学は疑問を並べたもの」 (昭和24年5月25日発行)

信者の質問
「現在の哲学が唯物史観的立場にある以上、迷学というべきではないでしょうか。」


明主様御垂示
「哲学は本来唯物史観的であって、その一歩上が宗教である。

つまり科学と宗教の中間が哲学で、どちらかと言えば唯物のほうに近いものである。

だから哲学には疑問が多く結論がない。

それで哲学へ入ると迷いが深くなる。

要するに哲学は疑問を並べたものである。

故に哲学は一種の参考としてみるのはよいが、それによって万事解決しようとしても駄目である。

そうでないと懐疑に陥りやすい。」