無神論について
明主様御教え 「神仏はあるか」 (昭和22年2月5日発行)
「私がこの偉大なる医術を発見し得たという事は、霊の実在を知り得た事がその動機である。
すなわち、霊を治療する事によって体の病気が治るという原理であるがこれは、将来の文化に対する一大示唆とみねばなるまい。
実に科学の一大革命である。何となれば病気治療以外のあらゆる部面に対してもこの原理を応用する時、人類福祉の増進は測り知れないものがあろう。
それのみではない。この原理の研究を推進(すす)めてゆく時、宗教の実体にまで及ぶであろう事も予想し得らるるのである。
神は有るか無いかという事の論争も、数千年前から今日に及んでなお解決し得られないでいつも古くして新しい問題となっている。
それはもちろん無に等しい霊である神を、唯物的観点からのみ取り扱う一般人には判りようがないのは当然である。
しかるに私の提唱する霊科学によれば、神の実在といえども知り得ると共に、
人間死後と再生の問題、霊界の実相、憑霊現象等々、未知の世界(私はこれを第二世界ともいう)における種々の問題についても解決されるであろう。
私は、まず既往における私の思想の推移から説く必要がある。
私は若い頃から極端な唯物主義者であった。
その事について二、三の例をあげてみるが、私がいかに唯物主義者であったかという事は、四十歳位まで神仏に決して掌を合わせた事がない。
何となれば、神社の本体などというものは、大工や指物師がお宮と称する檜(ひのき)で箱様のものを作り、
その中へ鏡か石塊あるいは紙へ文字を書いたものなどを入れる。
それを人間がうやうやしく拝むという事は、およそ意味がない。
馬鹿馬鹿しいにも程があるという考え方であったからである。
また仏にしても、技術家が紙へ描いたり、木や石や金属等で観音とか阿弥陀、釈迦等の姿を刻んだものを拝む。
しかも観音や阿弥陀等は実在しない。いわば人間の空想で作り上げたものに違いないから、なおさら意味がない。
いずれも偶像崇拝以外の何ものでもないというのが持論であった。
その頃私はドイツの有名な哲学者オイケンの説を読んだ事があった。
それによれば「本来人間は何かを礼拝しなければ満足が出来ないという本能を有している。
そのため人間自身がなんらかの偶像を作りそれを飾って拝み自己満足にふけるのである。
その証拠には祭壇へあげる供物は神のほうへ向けずして人間のほうへ向けるという事によってみても判るのである」という説に大いに共鳴したのであった。
以上のような私の思想は国家観にも及び、古き寺院の多いイタリアなどの国は衰退しつつあるに反し、
アメリカのごとき寺院の少ない国家は非常な発展をするという現実であるから、神社仏閣等は国家発展の障害物とさえ思われたのである。
しかるにその当時私は毎月救世軍へ若干の寄付をしていたため、時々牧師が訪ねてきてはキリスト教を奨めた。
牧師は「救世軍へ寄付する方は大抵クリスチャンであるが、あなたはクリスチャンでもないのにいかなる動機からであるか」ときくのである。
そこで私は「救世軍は出獄者を悔い改めさせ、悪人を善人にする。従って救世軍がなかったとしたら、出獄者の誰かが私の家へ盗みに入ったかも知れない。
しかるにその災難を救世軍が未然に防いでくれたとしたら、それに感謝し、その事業をたすけるべきが至当ではないか」と説明したのである。
まだそのほかにもこれに似たような事は種々あったがともあれ私は善行はしたいが、神仏は信じないというのがその頃の心境であった。
従っていかに見えざるものは信ずべからずという信念の強さが判るであろう。
その当時、私は事業に相当成功し得意の絶頂にあったが、悪い部下のため大失敗し、
その上先妻の不幸にあい、破産もし、数回の差し押えをも受ける等、惨澹(さんたん)たる運命は私を奈落の底におとしてしまった。
その結果、大抵のものの行くべき所へ私も行ったのである。
それは宗教である。私も型のごとく神道や仏教方面に救いを求めざるを得なくなった。
それがついに神仏の実在、霊界の存在、死後の生活等、霊的方面の知識を得るに到って、以前の自分を省み、その愚をわらうようになったのである。
そのような訳で、目覚めてからの人生観は百八十度の転換をなし、人は神仏の加護を受ける事と、
「霊の実在を知らなければ空虚な人間でしかない」事を悟ったのである。
また道徳を説くに当たっても「霊の実在を認識させなければ無益の説法でしかない」事も知り得たのである。
この意味において読者よ、順次説く所の霊的事象に対し活眼を開かれん事を望む次第である。」 (「天国の福音」より)
明主様御教え 「神は在るか」 (昭和23年9月5日発行)
「この問題については昔から今日まで論議されていて、いまだ解決は付かないが、これについてまず私自身の経験をかいてみよう。
というのは私は三十二、三歳の頃までは極端な無神論者で、神社の前を通っても決して礼拝をした事がない。
その理由はこうである。
およそ神社の神体なるものは、木製の御宮と称する屋根と扉のある小さな一個の筥を作り、
その中には金属製の鏡か石塊かまたは文字の書いた紙片があるばかりで、
それを拝むという事は何の意味もないではないか、
従ってそれを拝むなどという事は迷信以外の何物でもないと決めていたのである。
その頃私は哲学に趣味を持ち、当時流行していたドイツの哲学者オイケンの説に共鳴したが、その中にこういう事がある。
元来人間は何かを拝まなければいられないという本能がある。
野蛮人は木か石で何かの形を造り、それを立てて拝んで満足している。
文明人はそれの高等なるもので、偉人などの死後その霊を偶像化して拝む。
共の際供物を供え、華などを上げるが、それは必ず拝者の方に向けられる。
神に捧ぐるものなら神の方へ向かせるべきではないか、
そうしないのは全く自己満足のためでしかないというのである。
というような訳で私は極端な無神論者であった。
当時の私を省みる時、今日恐ろしい気がする位である。
故に今日無神論者の話を聞いてもよく判り得るのである。
そうしているうちに私は運命の大転換をせざるを得なくなった。
それは事業の大失敗と時を同じうして、妻の死である。
永年にわたり粒々辛苦して作った財産も失い、反って大きな負債を負う事になり、悲観のドン底に陥ったが、
そのような時に誰しもたどるのは信仰への道で、苦しい時の神頼みである。
私も同様信仰を求めざるを得なくなり、種々の宗教をあさってみたが余り魅力を感ずるものはなかったが、
中で独り当時流行の大本教に魅力を感じたのでついに入信し、漸次熱心な信者となった。
しかしながら私の疑い深い性格は全身全霊を打込むまでには到らなかったが、無神論だけはどうやら解消した。
確かに神はこの世に在るという事を知ったからである。
その事は次項に譲るが、当時私の生活は奇蹟の連続であった。
疑えば疑う程その疑いを解かざるを得ない奇蹟が現われる。
どう考えても理屈では解らない。
神は在るという訳で、一人の頑迷なる無神論者も、神の前に頭を下げざるを得なくなったが、そればかりではない、
私の現世に生れた大使命を、ある形式によってマザマザと知らされた。
いよいよ私も大決心をしなければならない。
それは一切を放擲し、信仰、否人類救済の大聖業に邁進しなければならないという事で今日に及んだのである。」
明主様御教え 「無神論に就いて」 (昭和29年1月6日発行)
「普通無神論をかく場合、宗教的に論理を進めてゆくのが当り前のようになっているが、
私は全然宗教には触れないで、自分自身無神論者の立場に置き、かいてみようと思うのである。
それはまず人間オギャーと生まれるや、早速育つに必要な乳という結構な液体が、しかも産んだ親の体から滾々(こんこん)と湧き出てくる。
それによって子は順調に育ってゆき、歯が生える頃になると噛んで食う食物も親は運んでくれる。
というようにして段々育って、遂に一人前の人間となるのは今更言うまでもないが中でも最も肝腎な食物についていえば、
食物にはそれぞれの味が含まれ、舌には味覚神経があり、人間楽しみながら食う事によって充分カロリーは摂れるのである。
しかし何といっても人間の楽しみの中での王者はまず食事であろう。
そんな訳で肉体は漸次発育すると共に、学校教育等によって頭脳は発達し、
かくして一人前の人間としての働きが出来るようになる。
そうなると色々な欲望が出て来る。智慧、優越感、競争欲、進歩性等から、享楽、恋愛等の体的面までも頭を持上げてくる。
というように理性と感情が交錯し、苦楽交々到るという一個の高級生物としての条件が具わり、社会を泳ぐ事になる。
以上人間が生まれてから成人までの経路をザットかいてみたのであるが、次は大自然を眺めてみよう。
言うまでもなく天と地との間には、日月星辰、気候の寒暖、雨風等々有形無形の天然現象から、
直接人間に関係ある動物、植物、鉱物等々あらゆるものは大自然の力によって生成化育されている。
これがあるがままの世界の姿であって、これら一切を白紙になって冷静に客観するとしたら、
無神経者でない限りただただ不思議の感に打たれ、言うべき言葉を知らないのである。
実に何から何まで深遠絶妙の一語に尽きる。
としたらこんな素晴しいこの世界なるものは、一体誰が、何がため、何の意図によって造られたものであろうかという事で、何人もこれを考えざるを得ないであろう。
そうして天を仰げば悠久無限にして、その広さは、どこまで続いているか分らない。
また大地の中心はどうなっているのであろうか、太陽熱の最高は、月球の冷度は、星の数は、地球の重さは、海水の量は等々、数え上げれば限りがない。
考えれば考える程神秘霊妙言語に絶する。
しかも規則正しい天体の運行、昼夜の区別、四季の変化、一年三百六十五日の数字、万有の進化、
止まるところを知らない文明の進歩発展等々はもちろん全体この世界はいつ出来たのか、いつまで続くのか、永遠無窮かそうでないのか、
世界の人口増加の限度、地球の未来等々、何も彼も不可解で見当はつかない。
以上のごとくにして一切は黙々として一定の規準の下に一粍(ミリ)の毫差なく、一瞬の遅滞もなく流転している。
しかしそれはそれとして、一体自分という者は何がために生まれ何を為(な)すべきであろうか、
いつまで生きられるのか、死んだら無になるのか、それとも霊界なる未知な世界が在ってそこへ安住するのか等々。
これらも考えれば考える程分らなくなり、どれ一つとして分るものはない。
仏者のいう実にして空、空にして実であり、天地茫漠(ぼうばく)、無限無窮の存在であって、これより外に形容の言葉を見出せないのである。
これを暴こうとして人間は何千年も前から、あらゆる手段、特に学問を作り探究に専念しているが、今日までにホンの一部しか分らない程で、依然たる謎である。
としたら大自然に対する人間の智慧などは九牛の一毛にも当るまい。これも仏者のいわゆる空々寂々である。
ところが人間という奴 自惚(うぬぼ)れもはなはだしく、自然を征服するなどとホザいているが、全く身の程知らずの戯(たわ)け者以外の何物でもあるまい。
故に人間は何よりも人間自体を知り、大自然に追随し、その恩恵に浴する事こそ最も賢明な考え方である。
ところで以上のごとき分らないずくめの世の中に対し、たった一つハッキリしていることがある。
それは何であるかというと、これ程素晴しい世界は一体誰が造り自由自在思うがままに駆使しているのかという事である。
そこでこの誰かを想像してみるとまず一家庭なら主人、一国家なら帝王、大統領といったように、この大世界にも主人公がなくてはならないはずであり、
この主人公こそ右の誰である神の名に呼ばれているXでなくて何であろう、というより外に結論が出ないではないか。
以上の意味において、もし神がないとしたら万有もない事になり、無神論者自身もない訳である。
恐らくこれ程分り切った話はあるまい。これが分らないとしたら、その人間は動物でしかない事になろう。
何となれば動物には意志想念も智性もないからであって、人間の形をした動物というより言葉はあるまい。
それには立派な証拠がある。すなわち無神思想から生まれる犯罪者であって、
彼らの心理行為のほとんどは動物的であるにみてよく分るであろう。
従ってこの動物的人間からその動物性を抜き、真の人間に進化させるのが私の使命であり、
その基本条件が無神思想の打破であるから、一言にしていえば人間改造事業である。」
明主様御講話 「無神論について」 (昭和28年12月25日)
(御論文「無神論について」発表)
「かなりやっつけてありますが、無神論者を分からせるには、宗教的だとどうしても最初から毛嫌いしますから、
かえって分かりにくいので、信仰を抜きにして書いてみたのです。
つまり人間の上等と下等というか、そういうようなことに心が向くということは、人間としては頭脳が上等なのです。
ただそういうことにぜんぜん関心を持たないで、毎日を、儲かるとか儲からないとか、思うようにゆくとかゆかないとか言って気をもんで、
要するに高等な思想ということに向かないということは、それだけ魂が低いわけです。
だからそういうことを考える人・・・哲学者とか思想家というのは、人間で言えば上等な部類に属するのです。
というのは魂の位置、霊の位置なのです。
なにしろ霊の地位というのは百八十段もあるのですが、上に行くほど、つまり働きが高等なのです。
そこに、真ん中の線・・・地平線・・・上下を区別している線があり、その線を抜いて上に行けばよいのです。
それで、その線の上がつまり神様の分野で、線から下が獣の分野です。
動物界です。そうなってますから、そこで今の偉い人でも、無神論者は線よりか以下なのです。
それで線の所まで行くが、それを抜くことができないのです。
神様を知る・・・神様は確かにある、というのは線を抜いたわけです。
わずかなところでぜんぜん世界が違ってしまうのです。
ところが線の以下ではどんな偉い人でも、智慧があっても、それは悪智慧になるのです。
悪いことをするために働く智慧になってしまうのです。
線を抜いて上に行けば、その人の考えること、やることがすべて本当の人間となり、
つまり善だからして、まず間違いないわけです。
それとともに罪を作らないからどうしても不仕合せが来ない、幸福をかち得るわけになります。
その点です。ですから信仰というものは、その線を抜くことを教えるだけでなく、
「なるほど、それに違いない」と信じさせることです。
それが信仰の根本です。
線を抜いてからも、やっぱりいくつにも段があるのです。
ところがたいていな世間の信仰は低いのです。
稲荷様とか権現様を信仰するのは、線をちょっと抜いた所です。
それから何々教とか何々宗というのになると、だいぶ上になってくるのです。
ところが上になったとは言っても、まだ本当の上ではないのです。
線をちょっと抜いた所だからすぐに下に落ちてしまうのです。
この間の霊友会というのはそうです。
ふだんは上になっているのですが、どうかすると下に落ちてしまうから間違いをしでかすのです。
そういうふうに考えると、分かりにくいことはないので、実に分かりよいです。
それで線から上の段で一番高いのがメシヤ教です。
そうなると力が違ってくるのです。
では今までそういった上の段に行かれる宗教はなぜなかったかというと、今までの宗教は全部月の神様なのです。
つまり夜の世界だったから月の神様が支配していたから、光が足りなかったのです。
今度は太陽が現われたのです。ですから私のこの病気を治す力も太陽の力です。
今読んだ、水素の毒粒子を焼き尽くすという火素は、太陽の力だからそういうことができるのです。
ところが今までは宗教でもなんでも全部月の系統です。
太陽の光からみると六十分の一ですから、六十分の一の力しかなかったわけです。
ところが今度は今までよりも六十倍の力ですから、そこで信者の人でもすばらしい力を発揮するわけです。
キリストでも月の神様の最高のものだから、月だけの力しかなかったわけです。
私の弟子は、月の力よりも太陽の光は、わずかでも、やっぱりそれだけの働きが違うわけです。
ですから奇蹟が現われるということは、そういうわけです。
今までないことがあるということは、今までは月の力であったからで、今度は日の力になるということに大きな違いさがあるわけです。
そう考えると、メシヤ教の奇蹟が多いことも、浄霊で病気が治るということも分かるわけです。
別に難しいことはないわけです。
ただ、今まで太陽の方の神様が出なかった、出られなかったというところが根本なのです。
それで、今度はその太陽が現われたのです。昼間の世界というのは、そういうわけです。」
明主様御講話 「無神論は緯、有神論は経」 (昭和29年1月6日)
(御論文 「浄霊は科学療法なり」 栄光 二四七号)
「今読んだ中で肝腎なことは霊と体です。
体にある毒素が霊に写って曇りとなるということは、つまり緯の作用であり、
それから霊の曇りを取ると、それが体に写って、体の毒素が出るということが経の作用です。
だからこの点をよく知っているとよく分かります。
それで緯に写る作用は、つまり体的であるからして、それでは解決はできないのです。
それから経は霊主体従で、霊さえ良くすれば体はきれいになるのだからして、病気は解決されます。
経の作用は霊的作用であり、それから緯の方は体的作用だから悪の作用であり、経の方は善の作用ということになります。
今の世の中は地獄の世の中ということは、緯の文明のために悪が発生するのです。
そして今まで経がなかったのです。
無神論というのは緯で、有神論というのは経です。
だから、つまり緯だけでは体的だから魂がないのです。
経は魂があるのです。
それで経というのは天から地軸まで抜けるのですから、これは大変な力です。
緯だけではそういった経の骨がないようなものですから、そこで本当の文明はできないわけです。
しかし緯がなければ物質文化は発達しない。
要するに経だけでは人類は世界に拡がらないです。
そこで経と緯と両方が必要なわけです。
だからごく昔は経の文化だったのです。
文化というよりも、経の働きだったのです。
それから神様は、物質文化を発達させるために緯の働きをされたわけです。
だからどっちも本当ではないから、経と緯を十文字に結ばなければならないので、それが本当の文明になるのです。
この経と緯を結ばせるのが私の仕事であるし、メシヤ教の仕事というわけです。
だからいろいろな仕事をやるわけです。
農業をやるかと思うと、美術館を造るというのですから、およそ反対ぐらいに違います。
そういうようなわけで、なかなか大変な仕事なのです。
非常に難しいようでいて、また非常にやさしいのです。
このことを知るにはどうしても既成観念があると、邪魔して分かりにくいのですが、
それを捨ててなんにも囚われないで考えてみれば、なんでもなく分かります。
話は学校の講義みたいになってしまいました。」
明主様御垂示 「無神論への固執は副守護神の働き」 (昭和24年3月13日)
信者の質問
「無神論者の理論的根拠はなんでしょうか。」
明主様御垂示
「これは唯物観です。「見えざるものは信ずべからず」という唯物観ですね。
だから、以前私は本に書いたことがある、「野蛮人に空気の存在を知らせるよりも、いまの文化人に心霊の存在を信じさせることのほうが難しい」とね。・・・
それから、もう一つは副守護神が否定するんです。
浄霊により治ることはよく判って「はあはあ」と感心していても、どうしても入らない人がありますが、こんなのはきまって副守護神の働きによるのです。
「そんな馬鹿なことがあるもんか」と副守護神が囁いて邪魔をするんです。
これから昼の世界になると副守護神の力が弱まりますから、
だれでも霊を信ずるようになって行くわけです。
場所によって発展する所と発展しない所とあるのもこういうわけですね。
発展する所は明るく、発展しない所はまだ暗いんですよ。」