医学迷信について 2


明主様御教え 「医者は果して無責任か」 (昭和26年7月25日発行)

「よくおかげ話の中には、お医者の無責任という事を云われているが、これを見る毎に私はどうも気に添わないものを感じる、

というのは実際からいって、人の尊い命を預かっているお医者様としたら、そんな無責任など絶対あり得るはずはないからである、

事実上どんなお医者さんでも、早く治そう、助けてやりたいと一生懸命心を砕き、手を尽すのは当然である、

こういう訳で、たまたま患者の思うように病気が快くならなかったり、呼んでも来てくれなかったり、診察に来ても余りハッキリ言わなかったりすると、何だか無責任のように思うのである。

右のような訳だから、御医者さんこそいい面の皮というべきで、またよく聞く事だがお医者さんが「これは軽い病気だから、直き治りますよ」などといわれるので、

患者もその家族もその気持で安心していると、予期に反し仲々治らないので、重くなったり、不幸の結果になる事も往々あるので、悲歎の余り恨んだり、非難を浴びせたりする事もすくなくないようである、

また中には大した病気でもないのに、注射をするや間もなく死ぬ事や、生まれて間のない赤ン坊に、注射や手術をするので、

痛がり泣き喚(わめ)き、親としては見ていられない程だが、治したい一心で堪えていると、散々苦しんだ揚句、死ぬというような事もあるので、

その親たる人は「どうせ命のないものなら、あんな余計な苦しみなどさせてくれない方がよかった」と、お医者を恨む事さえある。

まだ外に色々あるであろうが、要するにお医者さんは、真面目に一生懸命骨折りながら、治らないので、事実患家から喜ばれるよりも喜ばれない方が多いようであるから、全くヤリ切れまいと吾々もお察しするのである。


以上の例によってみても判るごとく、色々な職業中、今日のお医者さんくらい割に合わない職業はあるまい、

ところがそこに誰も気の付かない点に重大原因があるので、その原因こそ吾々が常にいうごとく、現代医学というものは、治りそうにみえて実際治らないものであるからである、

しかし今日までその点に気が付かなかったため、医学は進歩していると思い込み、これで病気は段々治るようになると教育されて来たので、お医者さんもそれを信じ切っているのである、

私はいつか医学に騙されている医師という論文をかいた事があるが、今もこの説の間違っていない事は、事実がよく証明している、

つまりお医者さんは医学に迷信していると云ってもよいので、しかも当局も一般もことごとく同様であり、

その本元である学者さえも、やはり既成医学の理論を信奉し、これを進歩させさえすれば、病気は治るものと思っているのである。

この医学迷信こそ、世界中一番大きな迷信であって、これを打破しない限り病無き世界などは痴人の夢でしかないのである、

ところがこういう吾々の方を迷信呼ばわりをするのであるから、全く主客転倒はなはだしいと言わねばならない、

何よりも医学と吾々の方との治病の効果を比べてみれば、事実がよく立証している、

ここにおいて吾々が冀(こいねが)うところは、一日も早くこの迷夢を醒ます事でそれが一日早ければ早いだけ、人類は救われるのである。」




明主様御教え 「医師の医学迷信」 (昭和26年8月15日発行)

「この標題を見ただけではちょっと不思議に思うであろうが、

段々読むに従ってなるほどと肯くであろう、現在医学が大いに進歩したとしており、

このまま続けてゆけば、人類から病気は段々減るものと信じて、一生懸命専攻的に研究している学者もあるし、

また直接病人にぶつかって、治病に専念している臨床家もあるという訳で、

それらの医家は今地球上何十万あるか知れないであろう、

日本でさえ現在臨床家だけで七万人くらいあるとの事だから、

研究、予防、臨床、学校教授等を合計すれば、十万以上に上るのは間違いないであろう、

にもかかわらず現在は相変らず、結核や伝染病、小児麻痺、中風、喘息、盲腸炎、精神病等々の悪質な病気をはじめ、

色々な病気が格別減らない事実をみれば、現在病で苦しんでいる人を数えたら、大変な数に上るであろう。

これら病気のためのマイナスは、官民合せて一カ年何千億に上るか分らないとしたらこれらを見るにつけ、私は実に焦心の外ないのである、

何となれば私がいつもいうごとく、現代医学は根本的に誤っているからであって、

それは言うまでもなく、一時的苦痛緩和を治療の本道と錯覚して、

この方法を進歩さえさせれば解決が出来るものと信じ、他を顧みる余裕すらなく、

向う見ず的努力を続けつつあるのだから困ったものである、

ところが事実は苦痛緩和の手段そのものが反って悪化させたり、

別の病気を作ったりするという点でそれに気が付かないのであるから問題は大きい、

何よりも今日病気のため多額の出費と、苦悩に喘いでいる実状を、

おかげ話の報告で見る毎に痛心に堪えないのは、それをよく物語っているからである、

私は何とかして、この医学の迷蒙を目醒めさせるべく、

今日まであらゆる合法的手段をとって、絶えず警告を与えつつあるにかかわらず、

仲々目が覚めるどころではないが、これも無理はあるまい、

何しろ全世界の学者専門家が、何世紀に渉(わた)って研究に研究を重ね、

形だけでも立派な学問となった今日、それを叩き込まれて来たからである。


そこで理屈は別として実際に病を治している本教浄霊の驚くべき効果である、

治った本人は固より、周囲の者までが驚くと共に、今まで受けたあらゆる治療法の誤りを悟り、

無駄な金銭を使った事を後悔し残念がるが、このように気の毒な人々の余りに多い現在社会である、

ところがこのような不幸な人々が一度本教に救われるや、病気の心配から解放され、

真の安心立命の生活者となるという実例は本紙に山のごとく載っているから、

何ら疑う余地はないのである、これらの人達といえども最初は現代医学を絶対的信じていたので、

浄霊など頭から信じられず、疑い疑い受けるので、これは信者はみんな知っているであろう。


以上によってみても、現代医学の可否を公平に批判する眼はなく、

現代医学以上のものはないと迷信してしまっているので他のいかなるものでも盲目的に拒否して、地獄行となるのであるから、

全く憐れむべき人々である。何よりも本教浄霊によって、いかに起死回生された奇蹟を見たり聞いたりしても、

目を蔽(おお)い、耳を塞いでいる専門家のあるのを常に聞くのである、

としたらこの態度こそ忌憚なくいえば、反って医師諸君が医学迷信に陥っているのであって、

吾々としては、この医学迷信こそ何よりも打破しなければならない重要事で、これによってのみ人類の悩みは根本的解決されるのである。」




明主様御教え 「結核と馬車馬」 (昭和26年10月3日発行)

「結核についての最近の統計によれば、療養所の成績は、患者百人に対し、死亡三十一、再発二十八という事になっている、

ところがこの病気の再発は、特に初発の時より悪性であるのはよく言われているところであるから、もちろん死亡の方へ入れても間違いあるまい、

とすれば百に対し五十九の死亡となる、しかし残りの四十一はどうかというと、ともかく治ったとして退院するにはするが、

実は本当に治ったのではなく、余り長くなるため、家庭の事情等で、退院の止むなきに至る者がほとんどである、

従ってどうやら退院出来るだけの症状で、真の全快ではないから、まず再発は免れまい、とすれば必ずと言いたい程悪化するに決っている、

という訳で本当に全治退院し、普通の業務についても、そのまま再発せずに済む者は、ほとんどないといってもよかろう、

これが偽らざる真実の状態とすれば大いに考えなければならないのである。


右のごとき現状は世間よく知っているから、今日の人間で一度結核の烙印を捺されたが最後、死刑の宣告を受けたようなもので、遅かれ早かれ、執行の日が来るのは、誰しも予想される訳で、

このための精神作用も拍車をかける事になり、益々悪化するのは当然である、

ところが政府も専門家もこの現実を充分知りながら、どうする事も出来ず、相変らず来る年も来る年も、何ら新しい対策も浮ばず、仕方がないので同一の方法を繰返しているに過ぎないのである、

見よ、ヤレ、ベッドが足りない、レントゲンの機械を増やせ、ツベルクリン注射を励行せよ、BCGを打て、洩れなく早期診断をせよ、といって巨額の支出や、多くの労力を費やしているのである。

従って前述のごとき統計を見たら、政府も専門家も、首を傾(かし)げそうなものだが、そういう人もないらしい、

ところが吾々は結核の根本を知り、確実に治る方法も知って、現に素晴しい成果を挙げているのであるから、思い切ってこういう事が言えるのである、

だがこの文を読んでも、恐らくはいつも通り雲煙過眼(うんえんかがん)するに違いなかろう、

こんな訳だから今後といえども無益な金と労力を費(つか)い、多くの結核患者を治ると思ったり、思わせたりして、多くの犠牲者を出すのは言うまでもあるまい、

とすればその迷蒙さは、到底黙視出来ないのである、忌憚なく言えば、盲目者が邪道を本道と思い違い、馬車馬的に走っているようなもので、寒心に堪えないのである、

それを吾々は一刻も早く知らせようとして苦心しているが、馬車馬が両眼塞がれているがごとく、何らの反響もないのである、嗚呼(ああ)二十世紀の今日、これほどの悲哀は他にあるであろうか。

従って、このまま邪道を走り続けるとしたら、いずれは鉄板の壁に突当るのは知れ切っている、

その揚句粉微塵(こなみじん)となったり、死んだり、怪我したりする者が、数知れず出来るであろう事も予想されるのである。」




明主様御教え 「科学封建」 (昭和27年3月26日発行)

「本教浄霊の効果は、現代医学とは比べものにならない程の素晴しさである事は、近頃大分世間に知れて来たようだが、これについて思いもつかない困る事が時々あるので、それをかいてみよう。

いかに浄霊が偉効あるといっても、百人が百人全部治す事は無論出来得ない事は、常識で考えても分かるが、たまには運悪く死亡する人もあるにはある。

すると普段から反対している人達は、それ見た事かと云わんばかりに問題にしたがる。

またこれをいい事にして、待っていましたとばかりに新聞などに出すのは誰も知る通りである。

ところがお医者の方といえば、吾々の知る範囲内でも、注射一本でたちまち死ぬ人や、最初から請け合いながら段々悪化し、遂に死んだりまた手術の失敗などで、死ぬ人の話もよく聞くが、

それらに対しては誰も当り前の事のように思って、少しも怪しんだり咎(とが)めたりする人はない。

時には近親者などで憤慨の余り、告訴しようなどという人もあるが、こういう問題は告訴をしても仲々埒(らち)が明かず、泣寝入りになるのが落ちだと言われて、大抵は諦めてしまうのである。

という訳で公平に見て、浄霊で失敗する数よりも、医療で失敗する数の方がどのくらい多いか知れない程で、まず一対十と言っても過言ではあるまい。

ところがこの点において医学は実に恵まれている。衆知のごとく徹頭徹尾政府の厚い保護を受けているから、結果の如何など問題にならず済んでしまうので、医師は思うままの治療が出来るのである。

そこへゆくと吾々の方は、どんなに効果があっても精神的に治ったくらいに思われてしまうばかりか、たまたまいささかの失敗でもあったが最後、前述のごとき非難や攻撃を浴びせるのだから、医学迷信も極まれりというべきである。

もちろんこのような事は今日始まったものではない、古くから沢山ある例で、全く先駆者としての宿命的悩みであろう。

ではこの進歩した社会でもなぜそのような不合理が行われているのかを、よく考えてみるとこうであろう。


まず現代における国家的建前からいうと、その基本条件を唯物科学に置いている以上、科学以外のものはほとんど迷信として、締め出しを喰わせている無定見さである。

ところがいかに進歩した科学といっても万能ではないから、科学で解決出来得ないものも沢山あるに違いないのであるにもかかわらず、そこに眼を向けないのは不思議というの外はない。

ほとんど盲目的に何もかも科学の進歩にのみ期待をかけている態度は、私がいつもいう通り全く科学迷信の虜になっているからである。

その迷信のためいかに大きな災害を人間に与えているか、蓋(けだ)し計るべからざるものがあろう。

その最も顕著なものが医学の誤謬であるが、根強い迷信はそこに気付かず、医学を唯一のものとして外にどんなに治病効果があり、社会に役立つものがあっても、見向こうともしないのである。

一言にしていえば、現在の日本は全く科学封建といってもよかろう。

しかしこれにも理由がない事はない。現在のごとく科学時代が生まれない以前は、随分迷信が横行し社会に害毒を与えたからで、これも歴史の示す通りであって、

この弊害を無くす上に科学は少なからず役立ったので、いつかしら科学崇拝が行き過ぎ、人間の魂までも占領してしまったのである。


以上のごとく科学を無上のものと信じていながらも、事実は医学では病が治らない結果、ここに懐疑的となり、医学を棄て、せめて精神的でも安心を得たいとして、あらゆる既成宗教に求めるが、これにも満足を得ず遂に新宗教に目を付け、吾々に来るのである。

私は科学封建と言ったが、これについて一の例を挙げてみよう。

それは終戦前の忠君愛国思想で、その当時はこれを最高道徳とされ、たまたま民主主義などを唱えようものなら、たちまち牢屋へブチ込まれたのは、今も記憶に新たなるところである。

この考え方と同様、今日の人間は科学を最高道徳のごとく崇敬しているので、吾々の説も当時の民主主義同様憎み排撃するのである。


ではこの医学と浄霊との優劣を決めるには、ここに名案がある。

それは効果の比較検討で、すなわち適当な方法を以って多数の病人を集め、二つに分けて実験する。

その結果より治る方と治らない方とがハッキリ分かるから、治る方を国家が採用すればいいのである。

これ以上公平な手段はあるまいから、この結果浄霊の方が勝つとなったら、医学は当然退陣せざるを得ないであろう。

その結果病なき日本となるのはもちろんで、しかもこの事実を見た世界各国はたちまち共鳴し、その国の政府はこれを採用し、ここに病なき世界が実現するのである。

それによって日本は全世界から崇敬の的となり、万人こぞって日本の徳を謳歌する時代となるであろう。

これこそ神が私に委任された人類救済の大使命である。」




明主様御教え 「御蔭話を読んで」 (昭和27年4月9日発行)

「本紙に毎号満載している御蔭話を読んだ人はよく分かるであろうが、危難に遭遇して危うき一命を救われたり、暗い家庭が明るくなったり、収入が増え、物事が順調にゆくようになったとか、

あらゆる面に神様の御守護を戴き、一歩一歩天国的家庭になってゆくという事は、

全くメシヤ教の名のごとく、世を救いつつある事実は今更言うまでもないが、

色々の御蔭中最も重要な病気についての感じたままを率直にかいてみるが、それは一人の例外もないほど最初は医療を信じ、あくまで医師に縋っているが、

予期に反し漸次悪化する事である。それが実に明らかに何の病気にも表われており、一般人がこれを読んだら、余りの意外に驚くであろう。

ところが何かの事情で医療を廃めると、意外にも幾分ずつでも好転する事実である。

その反対に、医師がすこぶる熱心にあの手この手の最新の療法を施せば施すほど、益々悪化するばかりか、思いもつかないような余病さえ一つ一つ増えてゆき、終いには五つも六つもの病気で二進も三進もゆかなくなり、医師も手の施しようがなく、匙(さじ)をなげてしまうという訳である。

ところが大抵は初診の際「貴方の病気は軽いから直に治る」とか「何週間も経てば必ず快くなる」などと、大いに確信があるように云われるので、患者は絶対信じてしまうが、

結果は逆になってゆくので、ここに迷いを生じ、アチラの病院、コチラの医師というように、散々治療を受けるが仲々治らない。

反って悪化するばかりなので、ここに希望を失い、絶望の極自殺を考える人などもすくなくないのである。

しかもそれまでには多額の療養費を使い、経済的にも行き詰りとなるので、これも絶望に拍車を掛ける訳である。

というような経路を常に読んでいるが、何しろ作り事ではなく、ありのままのその時の心境が浮び出ている事とて、読む度に私は幾度となく、目頭が熱くなるのをどうする事も出来ないのである。


以上のように医学というものは治病能力がないどころか、反って悪化させる方法でしかない事は余りにも明らかで、この事実に対し医師諸君は気が付かなければならないと思うが、そのような気配すらない。

というのはなるほど医療を加えると一時は確かに快くなるから、それで治るものと即断するのであるが、事実は決して長くは続かない。

必ず反動が起こって再発し、むしろ初めより悪化の度を加えるにかかわらず、それが分からないというのは、どう考えても不可思議である。

全く根強い迷信に罹っているとしか思えないのである。この理は近来続出の結核新薬についても言える。

衆知の通り次々生まれては消え、消えては生まれる新薬が、最初は必ずヤンヤと云われるが、日の経つに従い効果がないとか、あっても一方によければ、一方に悪いというように欠点が現れてくる。

というように年中同一の事を繰返しているのが現実であって、これも不思議の一つと言えるが、実は不思議でも何でもない、当り前の話である。

それは最初の効き目というのは治る効き目ではない。苦痛を緩和するだけの効き目であるばかりで、しかも浄化停止のための薬毒が加わるから、その反対が起こる。

すなわち再発である。そこでその薬に疑いが起こって駄目という事になる。

この事実だけに見ても薬の効果は一時的で、根治は出来ない事が分かると共に、新薬続出の原因も分かるであろう。

としたらそんな簡単なハッキリした理屈が分からない現代医学者の頭脳こそ、むしろ研究問題ではあるまいか。

私は決して医学を悪く言いたくはないが、この真理を目醒めさせなければ、医学の迷蒙も患者の不幸も見てはおれないのである。

事実医師は病を治してやりたいと思い、患者は医学を絶対信じて、生命までもまかせているのであるが、それが実は病を悪化させ、生命までも零にするのであるから、無智どころの騒ぎではない。

ここで特に考えてみて貰いたいのは、このような悲惨事に目醒められず、苦しみ悩みつつある人類に対し、神が在るとすれば、神の大愛はいつまでも黙止され給うはずはない。

昔から唱えるごとく、人間は神の赤子(せきし)であるとすれば、救いの御手を差し伸べられるのは当然である。

とはいうものの一切は時期である。これも神は世界の経綸上時期が来なければどうにもならないのも、私は知らされている。

幸いなるかな、いよいよその時期が来たので私という者を選ばれ、その大任をまかせ給うたのである。

従って私は病理の本源を啓示されたと共に、治病の力も与えられたのである。そうしてこの文は随分思い切って医学の欠陥を暴露したが、右の理由が分かったなら何ら疑うところはあるまい。」




明主様御教え 「世界的迷信としての現代医学」 (昭和27年6月4日発行)

「よく時々新聞、ラジオ等で報道されている事だが、鉄の肺で小児麻痺が治ったとか、赤ン坊の決定的死を親の血液と取替えて助かったとか、

死人の網膜を移植して目が見えるようになったとか、心臓の手術が成功したとか云って、サモ医学が進歩したように特ダネ的に扱っている記事がよくあるが、

これを吾々からみると、医学の低級さに情ないと思うくらいである。

何となればよし治るにしてもむごたらしい冒険的手段で万一を僥倖(ぎょうこう)するのであるから、確実な方法とは言えないと共に、

仮に治ったとしてもそれは一時的で、決して根本からではないから、いずれは必ず故障が起こるか、再発するのはもちろんである。

それに引き換え本教浄霊によれば、それしきの病気などは簡単に治るのみか、

そんな手数も要らず、苦しい思いもせずして安心しながら全治出来ると共に、再発の憂いもないのだから、到底比較にならない程の異いさである。

従って本教の全快者の驚きは大変であると共に、絶対的信念を得て百八十度の転換となり、医学を棄ててしまうのである。

もちろん病気になっても浄霊一本で済むばかりか、家族の誰でも信者になりさえすれば浄霊が出来るのだから、これ程有難い事はあるまい。

たとえ夜が夜中でも急の間に合うのだから、その安心感たるや到底言葉では表わせない程である。

ところがこれ程進歩した信仰療法を、筆に口に知らせても一般は容易に信じられないのであるから、いかに医学迷信が根強く沁み込んでいるかが分かるであろう。

もちろん政府も専門家も同様で、振り向いても見ないのであるから困ったものである。

これを想像してみるとこうであろう。

そんな馬鹿な事があって堪るものか、ヤハリ戦後派宗教の巧妙な手段の一つで、全然科学性がないのだから、迷信以外の何物でもないと決めてしまうので、

この態度こそ吾々から見れば恐るべき迷信以外の何物でもないのである。

右のように医学の僅かばかりの御手柄を、大々的に宣伝するジャーナリストも、ヤハリ迷信屋の味方であるから、

吾々の方でどんなに奇蹟的効果を知らせても、豚に真珠で迷信を通り越して野蛮蒙昧人と言いたいくらいである。

しかし事は人間生命に関する重大問題であるから、何とかして彼らの眼を醒ましたいと思うが、右の通りだから仲々容易な業ではない。

しかし時が来れば神は絶対力を揮わせ給うから、その時こそ万人の眼を覚まさせられるのは言うまでもあるまい。」




明主様御教え 「迷信時代」 (昭和28年8月12日発行)

「現代は迷信時代といったら、智識人は怪訝(けげん)な顔をするであろう。

中には救世教という駈出し宗教のくせに「アメリカを救う」とか「結核信仰療法」とか「自然農法解説書」などと

次々一般人の読書欲を刺戟するような、巧みな題名を付け、宣伝を兼ねて大いに売らんとするのであるから、中々抜け目のないやり方だと大抵な人は思うであろうし、

またそのような噂もチラチラ耳にするが、しかしこれらの本を初めから終りまでよく読めば、全然見当違いをしていた事に気が付くであろう。

だが余りに飛躍説なので、一時は何が何だか戸惑いするであろうが、ジックリ考えてみれば理屈に外れたところはいささかもなく、

しかも裏付としての実証まであるので、なるほどと承認しない訳にはゆかないであろう。

そんな訳で本来ならば、医学者も農学者も何とかして反駁(はんぱく)し、詰問してやろうと思うであろうし、私もそれを期待しているが、

今日までそのような気振(けぶり)も見えないのであるから、負惜しみではないがいささか張合い抜けがするのである。

最初私は殊によると問題になるかも知れないとの懸念もあったが、それは全然なさそうである。

正直にいうと問題になれば結構である。というのはそうなれば本は大いに売れるに違いないし、売れるだけは読む人も多いから、それだけ救われる人も多い訳である。

そうして今まで発行した本は、健康と食糧に関するものであるのは、人間の生活上この二つが最重要であるからである。

この二大問題さえ解決出来れば、残余は派生的問題に過ぎないから、自然に解決されるのはもちろんである。


右の外種々の問題についても、いずれはその本も出すつもりだが、それは別としてここで右の二大問題について論じてみようと思うが、

まず現代を公正に批判してみると、恐るべき迷信時代といっていいと思う。

もちろんその一つは医学であるが、これ程大きな迷信は世界肇(はじま)って以来、未だ嘗(かつ)てないであろう。

すなわち新説の発表、新薬、手術、その他の物理療法にしても、ことごとく迷信ならざるはなしである。

というのも当然であって、何しろ肝腎な病原が全然分っていないからで、徹頭徹尾暗中模索的である。

ところがそれを進歩したと錯覚しているのであるから、実に情ない話である。

従って病気の治らないのも当然である。つまり医療は治りそうにみえるだけの事で、実際は全然治らない。

それに気が付かないだけの事である。つまり症状にのみ心を奪われて、症状だけを治そうとするので、その症状の発生すべき根原が分らないのである。

ちょうど木の葉が枯れるのは、根に異常があるからで、それが分らないのは根は土に隠れて見えないからで、無いと思って葉のみの研究に耽っているので、その無智哀れむべきで、迷信以外の何物でもないであろう。」




明主様御教え 「分っていて分らない」 (昭和28年9月30日発行)

「これはまことに変な題だが、こうかかざるを得ないからかいたのである。

これは信者はよく知っている事だが、本教浄霊によって医者から見放された重難症患者が奇蹟的に治った場合、医師も無神論者も大いに驚愕すると共に、この世の中にこんな不思議な事があるだろうかと思い、いくら考えても分らない。

そこでそれを治した先生に訊(き)き、数多くの実例を話されるのでなるほどと分り、では自分も信者になろうと決心をしても、種々の事情のため直ぐには入信出来ないとし、愚図愚図(グズグズ)していると、必ず親切な悪魔が口を極めて邪魔をする。

いわくこれ程科学が進歩した今日そんな事で治るのは時節が来たからだとか、今まで入れた薬が効きはじめたためなどと、言葉巧みに勧告されるので、

ついその気になり、御話のごとく医学が進歩し、日本はおろか先進文明国でさえ現代医学を採り入れ、保険制度を立てているし、世界中の学者は力かぎり研究に没頭し、立派な病院は至る所に建てられ、完璧な施設、顕微鏡、解剖、分析、新薬の続出等々治病手段は驚異的発達を遂げた今日、

医学のイの字も知らない普通の人間が、三日や五日の修業でただ手を翳(かざ)しただけで、医学以上の治病力を発揮するなどとは、奇想天外で、あり得(う)べからざる話である。

従ってウッカリこの非科学的迷信の虜(とりこ)となっては大変だ、と言われるのでなるほどと思い、桑原桑原(くわばらくわばら)、アア危なかったわいといって済ましてしまう。


ところがこれで無事に済んだ人は今までに一人もないので、ほとんどの人はしばらく経つと再び最初の通りか、輪をかけたくらいに再発悪化するので後悔し考え直す。

ヤッパリ医学は駄目だ、アノ時先生の言われた通りにすれば、神様の力で治ったに違いない。

アア俺は飛んでもない間違いをしたと思い、極(きま)り悪気に再び浄霊に来る人が御蔭話中にもよく出ているが、全く現代人がいかに医学迷信に嵌(はま)り込んでいるかが分ると共に、そのため苦しんで命までワヤにする人も少くない。

しかし遅くとも気の付いた人は、まず命は取り止めるが、中には飽くまで医療に噛(かじ)りつきつつ苦しみ抜いた揚句、死の直前になってやっと気の付く人も多くあるが、もうこうなっては後の祭りで、いくら地団駄(じだんだ)踏んでも最早地獄行より仕方がない。

以上のごとき経路をみると、最初治ったらその事実をそのまま信ずれば何でもないが、親切な迷信の亡者に唆(そそ)のかされるのだから、現代人の頭脳は事実よりも理屈の方を重く見る事で、全く変になってしまったのである。

早くいえば標題のごとく、分っても分らないというより外はないのである。」




明主様御教え 「超 愚」 (昭和28年10月7日発行)

「この題を見たら随分変な題と思うだろうが、これより外に言いようがないから付けたのであって、言い換えれば超馬鹿である。

従ってこれを読むに当っては、既成観念を全部捨ててしまい、本当の白紙になって読まれたいのである。

しかも今日智識人程そうであるから始末が悪いと思う。

例えばダイヤモンドと思って長い間珍重していた宝石が、実は石の欠片(かけら)と同様なお粗末なものであったからで、

これが分ったなら唖然として腰を抜かすであろう。


前置はこのくらいにしておいて、さて本文に取掛るが、まず病気と薬との関係である。

今日誰しも病気に罹(かか)るや、薬の御厄介になる。

恐らくこの際何らかの薬を服まない人は一人もないであろう。

もちろん薬を服めば治ると思うからで、この考え方は随分古い時代から、人間の常識とさえなっているのである。

そこでこの事について今まで何人(なんぴと)も思ってもみなかった意外な事を以下かいてみるが、

それには充分心を潜めて読めば、至極簡単に分るはずで、難しい事は少しもないが、

何しろ長い間の迷信が災して、分りそうで分らないのである。

そこでいとも平凡な説き方をしてみるが、それはこうである。


例えば普断至極健康で働いていられたのは、薬を出来るだけ服んでいたからで、

それがたまたま懐(ふところ)都合が悪くなったりして薬を買う事が出来ず、一時服む事を休めざるを得なくなった。

言わば薬が切れたのである。

そこで今まで健康を維持していた薬が止まった以上、

病気が起ったのであるから、早速無理算段しても、命には代えられないから、

金を作り、薬を買い、からだへ入れたところ、たちまち快くなったので、

ヤレヤレと胸を撫で下したというようなものである。

これはちょうど一度か二度食事を抜いたため腹が減り弱ったので、

早速食事をしたところ、たちまち元気快復して働けるようになったと同様な訳である。


これだけ読んだら、誰でも分ったような分らないような、不思議な気持になるだろう。

ところが今日世の中の全部の人がそんな変な事を行っていながら、当り前の事として気が付かないのである。

そうかと思うとよく自分は健康だから薬を服まないと自慢している人もあるが、これも可笑(おか)しな話となる。

薬を服まないで健康であるという事は、最初にかいた薬を服むから健康だという事とは全然矛盾する。


またこういう事も沢山ある。

それは年中薬を服みつつ病気ばかりしている人である。

これも可笑しな話で、薬で病気が治るとしたら、薬を服む程健康になるから、いい加減で止めてしまうのは当然で、何を好んで高い金を出して不味(まず)いものを服む必要があろうか。


今一つの分らない話は、世間には健康だから薬を服まない。

薬を服まないから健康だという人と、その反対に弱いから薬を服む。

薬を服むから弱い、という人との二通りあるのが事実で、むしろ後者の方がズッと多いであろう。

としたら右の二様の解釈はつかないのはもちろんである。

なぜなればこの説明が出来るくらいなら、病気は医学で疾(と)うに解決されているからである。

この解釈こそ私の方では何でもない。

それは医学で治らない病人がドシドシ治るのであるから、これが何よりの証拠である。

それを説明してみれば実に簡単明瞭である。

すなわち薬が病気を作り、薬をやめれば病気が治る。

ただそれだけである。


以上によってみても分るごとく、今の世の中は薬で病が治るとする迷信で、

高い金を費(つか)って病気を作り、悪化させ、苦しんだ揚句(あげく)命までフイにしていながら、

それに気がつかないどころか、反って満足しているのだから馬鹿どころではない。

馬鹿を通り越して言葉では言い表わせない。

それは昔からこれ程の馬鹿はないから、言葉が生まれていなかったのであろう。

そこで止むなく超馬鹿では耳障(みみざわ)りと思うから、超愚とかいた次第である。

このような訳で私が医学の蒙(もう)を分らせるのには、普通のかき方では、迷信のコチコチ頭を打ち砕く事は難しいので、

これでもかこれでもかと色々工夫して、新熟語を考え、

目を廻すような鉄拳を喰(くら)わし救うので、この文がそれと思って貰えばいい。」




明主様御教え 「正直は辛い」

「よく吾々が医学に対し非難し過ぎると言って注意をする人があるが、恐らくこれくらいおかしな話はあるまい。

吾らは医学を非難する意図はいささかもない。

唯事実ありのままを書くだけである故に、反って嘘をかいた方が前述のような御注意を受けることはあるまいが、

神様を信仰している以上、たとえ自己に不利益であっても一点の嘘をかく事は出来ないのである。

良いものは良い、悪いものは悪い、間違っているものは間違っていると言うだけである。

しかしながらただドグマならはなはだ怪しからん話だが、吾らは立派な証拠をみせているのである。

その証拠とは毎号満載しているおかげばなしである。これは毎度言う通り本人自筆のもののみであるから一点の疑いを挟む余地はないが、

これについて先頃三大新聞の一たる某新聞社が一々本人を訪問して詳細質(たず)ねたところ、

そのことごとくは事実で疑惑の余地はいささかもないとして諦めたと言う事を某社の記者が述懐したのである。

故にもし一つでも虚偽や作り話があるとしたら本教の信用は一遍にゼロとなるばかりか世を欺瞞する罪を構成し、法規に触れる以上そんな間違った事は自分の首を締めるようなものでそんな愚かな事は出来ようはずがない。

右の意味において、医療に関係のある人士はなぜこの空前の大医学を研究しようとしないのか、実に不可解であると吾らは常に思っている。

もちろんこの原因は唯物科学に捉われてしまって、それ以上のものは頭から無価値と断定してしまっている態度こそ、吾々を迷信と断ずる以上の迷信でしかあるまい。

すなわち、科学迷信である。

全世界の医学者が幾世紀に渉って苦心努力の結晶とも言うべき現代医学である以上、これ以上のものは世界にないと思い、生れるはずがないと決めるのは無理はないが、その観念こそ文化の進歩を阻む旧思想でなくて何であろう。

誰が今日一発で百哩(マイル)の地域の生物を死滅せしめる原爆発見を予想し得たであろう。

以上によって考える時、薬剤も機械も唯物的なものは何一つ用いずして医学の何十倍の治病力を奏し得る医学が生れたとしてもあえて不思議はないであろう。

かくのごとき画期的大医学の既に現われた事を知らず専門家は徒労的研究に耽(ふけ)り、患者は貴重なる生命を犠牲にしつつある現状を観ては吾らは忸怩(じくじ)たる能わざるのである。」