医学迷信について 1


明主様御教え 「医学は迷信なり」

「序文にもある通り現代医学がいかに誤っているかをこれから種々の例を挙げて説明してみるが、まず誰しも病気に罹るや早速医師に診て貰う。

医師は一通り診察をして簡単に病症を言い、投薬注射等を行うがそれで治る事もあり、治らない事もあるのは誰も知る通りである。

ところがこの場合診断の方法としては程々の機械を用いておよその見当をつけるが、

これは病気として表面に表われただけの説明であって、その内容も真の病原が分らずに治療するのであるから、

思うように治らないのは医師もよく知っているはずであるどころか、

医師自身は長年月かかって専門の教育を受け卒業後も相当実地経験を経た事とて分ったつもりでいるが、

実地にぶっつかってみると余りに学理と異う点が多いのでその悩みは一通りではない。

そこで思う事は、医学は未だそこまで進歩していないから、止むを得ないが、しかし世界中の学者の絶えざる研究努力によって徐々として解決されるに違いないからその時まで待つより仕方ないと諦めているのが現状であろう。

それと共に患者の方でも、病気になったら、医療で治るものと子供の時から教育されており、しかも医学の進歩を種々の道具立てで固く信じさせられている以上たまたまその誤りを吾々が話しても信じないのも無理はない。

しかしたとえ医療で治ってもそれは一時的で、全治でないから必ず再発するか、または形を変えた他の病気となって起るのは勿論で、治った安心がいつも裏切られるのは誰も知る通りである。


その証拠には、病家といって町医師などは、必ず常得意をもっている。

もし本当に治ったとしたら、それで済んでしまい、その先は御用無しになるから縁が切れてしまうはずである。

また医学で本当に病気が治るものなら、医師の家庭に限って病人はないはずである。

またよく言われる、手後れなど実はあるものでないので、これは病院の看護婦などもそうで、しかも治療設備も至れり尽せりであるにおいてをやである。

ところが実際は医師の家族も病院の看護婦も一般人よりも病気に罹り易い事実はどういう訳であるかである。

また医学博士などは最も長命であるはずなのに、統計上他の博士よりも早死と言われている。


そうしてこれも分らない話の一つだが、よく医師は病人に対って「あなたの苦痛は神経のためで、これという病気はない」といって済ましているが、

もしそれが本当だとしたら、病気のないのに苦痛を感ずる神経としたら、その神経が大いに病気に罹っている訳である。

故にそれを治すべきではないか、

また「あなたの病気は重いから入院しなければならない」というので「では入院すれば必ず治るか」と訊くと「それは請合えない」という答などもよく聞くが、これほど理屈に合わない話はあるまい。

察するにこれらは患者を研究材料にする目的ではないかと思うが、患者こそ好い災難である。

それからこういう事もよく聞く、「あなたの病気は万人に一人しかない程のものだから治らないのだ」という言葉も一種の遁辞としか思えない。

また原因を訊かれても適切な返事の出来ないのは医師もよく知っているであろう。

その殆んどは御座なり的で曖昧極まるものである。


それと同じようによくラジオや新聞にある質疑応答などもそうだ。

断定的の答は殆んどない。特に馬鹿々々しいのはよく「専門医に診て貰いなさい」というが訊き手は専門医に散々かかって治らないから訊くのである。

その点医師は百も承知であるが、答に窮したための逃口上であろう。その他こういう事もある。

「あなたの病気は正しい医師に診て貰え」「正しい療法を受けなさい」などというが、もしそうだとすれば、正しくない医師も正しくない治療もある訳である。

しかし実際素人である患者にその正不正の判別は分るはずがないではないか、もしそれが本当だとすればおかしな事になる。

それは今まで有名な博士や大病院で散々治療を受けても治らなかったのはつまり正しくない医師に掛かり、正しくない治療を受けていた訳であるというように、何もかも、一時逃れとしか思えない。


また医師の言葉もそうである。

例えばその薬なら、その療法なら必ず治るとは言わない。

治るはずだとか、治る事になっている。学理上そうでなくてはならない、そう言われている。

まだ医学はそこまで進歩していない。

まだ分っていない、それでいい訳だ、そんな訳はないなどは誰も知っているであろう。

酷いのになるとこういう事も聞く「あなたのように、医師ばかり頼っては困る。自分でも治すようにしなければいけない」というに至っては噴飯物である。

以上によってみても現代医学の程度はほぼ分ったであろう。


このような幼稚極まる医学の実体を専門家も一般人も看破する事が出来ず、病気は医師と薬というように、これが常識となっているのであるから、全く世紀の謎である。

故に医師に掛かりながらどんなに悪化しようが苦しもうが疑うどころか、死んでしまっても目が醒めず運命と諦めているのだから、よくもこれほどまでに科学の魔術にかかってしまったものと驚かぎるを得ないのである。

この医学迷信に比べたら、宗教迷信などは物の数ではない。

ではこれほどの迷信は何によって作り上げられたかというその真相を次説明してみよう。」




明主様御教え 「科学迷信」 (昭和24年12月3日発行)

「一般世人は迷信といえば科学と関係がないように思い別個の存在としているがこれは大きな誤りである、

科学にも相当迷信があり、科学迷信によって少なからず被害を蒙(こうむ)るものがあるばかりか、中には生命を失うものさえある、

というと眉をひそめる人もあろうが、事実であるから仕方がない、

しからば一体どういう訳かというと近来流行している麻薬中毒である、

ヒロポンを主とし種々の薬剤がある、最初これを用いるものはそれ程有害とは思わないらしい、

中には、恐るべきを知ってやめるものも相当あるようだが、大抵は漸次深入りしてどうにもならなくなる。


しかるに、このような事態を生む原因はもちろん昔から薬に対する強い信頼感で、

薬とさえいえば効き目の方ばかりが頭にあって毒の方は軽視し勝ちである、

現代人がいかに薬剤に憧れをもっているかは日々の新聞紙上多数の売薬の広告をみても判るであろう、

ところが吾らからいえば麻薬中毒とは現在はっきり分ったもののみではない、

あらゆる薬剤は麻薬中毒とほとんど同一の作用である、

ただ麻薬中毒のごとく、短期間に強烈に来ないで至極緩慢な経過をたどるので、誰も気がつかないだけである、

もちろん中毒であるから一時は苦痛緩和の効果があるため、医師も患者も、それで治ると錯覚するのである、

この結果薬剤によって病気を造る人や、生命を短縮する人のいかに多いかは測り知れないものがあろう、

吾らが常に薬毒という事を唱えるが、右のごとき薬害を世人に知らしめんがためである。


以上によって考えればよく判るのである、すなわち今日の薬剤は、科学の産物であり、

現代人は科学とさえいえば信頼するので、生命を縮めるものを知らず識らず用いるのである、

という事は、科学迷信でなくて何であろう、アア恐るべき科学迷信よ。」




明主様御教え 「不思議な事実」 (昭和18年10月5日発行)

「私は医家に関し、不思議に堪えない事実に常に逢着するのである。

それは、本療法によって大病院又は大家が見放した重症が、奇蹟的に治癒した場合、

患者は嬉しさの余りと、この様な素晴しい医術によって、いかに人々が救われるであろうかを想って、医家に向って詳細報告する事がある。

しかるにその場合医家は何ら関心を払おうとしない。

又医家の家族が本療法によって治癒した場合、ただ驚異するのみで、進んで研究しようという意志の発動がないのである。

私としては西洋医学とは比較にならない程の治病効果を現実に示すにおいて、まず医師である以上、

それを研究すべく積極的態度に出でなければならないと思うが、その様な事は今日まで更にないのである。

しかるに、西洋の学者が何かを発覚した報告に接するや、大いに関心を払い、直ちにそれの研究に着手するというような事によってみても、

日本の医家及び医学者がいかに西洋崇拝の根強く染み込んでいるかという事が解るのである。

私は思う。日本の医家及び医学者は、医学上における偉大なる発見は、重に西洋人である事と日本人とすれば科学者以外には生み得ないと心に断定しているかのようである。

勿論今日までの文化の大方はそうであったから、今もなおそうであるという先入観念に囚われているからであろう。

私は、本医術の卓越せる事を、遍く知らしむべき第一歩としては、前述のごとき医家の狭い視野の是正こそ、何よりも緊要事であると思うのである。

そうして機械や薬剤等のごとき、複雑なる施設も方法も必要としない、

ただ人間の手指の技術によって、その診断と治病力の、卓越せる医術が、

日本人の手によって創始せられたという事実を看過するという事は、不可解極まると思うのである。

いかに驚異に値する効果を目撃するといえども、一顧だもしないという態度は、宗教的でさえあると思われる程である。

自己が信仰する以外のいかなるものといえども、すべては異端者と見なす態度のごとくである。

私はこの問題に対し、参考として数種の実例を挙げてみよう。


私は先年、四十余年、東京市内の某所で開業している某老眼科医の眼病を治療した事がある。

それは初め入浴の際、石鹸水が眼に滲みたのが原因で漸次悪化し、どうしても治癒しないので、私の所へ来たのである。

本人いわく「私の倅(せがれ)は○○大学の眼科に勤務している関係上、そこに数ケ月通い、最新の療法を受けたのであるが、

漸次悪化し、現在視力0.1という状態である」との事であったが、

私が一回治療したところ、翌日は0.4となり、一週間にして全治したのである。

従って右の眼科医は、本療法の効果に驚くと共に、本療法を受講修得したのである。

その後数ケ月を経て私の所へ遊びに来たので、私は「本療法を幾人かに試みたか」ーを訊いてみたところ、

いわく、「飛んでもない事です。その様な事をすると、医師会から除名されます。

故に、極力秘密にしており、妻にも息子にも絶対知らせない事にしています」というので、私は唖然としたのである。


私が治療時代、ある若夫人(二十四歳)の重症喘息を治療した事があった。

それは珍らしい猛烈さで、一ケ月の中二十日間入院し、十日間家に居るという始末で、

いつ発作が起るか判らないので、その都度、医師に行く事は困難であるから、

夫君が注射法を知り注射器を携帯し、常に夫人の側を離れないという状態で、全く注射中毒症となったのである。

多い時は一日二、三十本の注射をなし、その結果昏睡状態になった事や、

瀕死の状態になったりして、幾度となく医師から絶望視せられたのであった。

しかるに、私の治療によってメキメキ快方に赴いたので、その夫君は非常な感激と共に

かような偉大なる治療は医学で応用すべきであるとなし、

永い間夫人が世話になった某大病院の某博士に会い説明をしたのであった。

夫君がそうした事は、今一つの原因があった。

それはその博士は、喘息専門の権威であり、喘息の研究については寝食を忘れる程の熱心さであったというーその為もあった。

そうして、その博士は驚くと共に、是非研究したい希望である事をいい、私の所へ面会に来る事になった。

しかるに、その約束の日には遂に来らずその後数回打合せに行ったが、いつも約束を無視し来ないので、

その人は非常に立腹し、医家としてかような素晴しい療法が生れたのに、それを研究しないという事は、

医師という使命の上からいっても、人道上からいっても不可解であると強硬に言ったに関わらず遂に徒労に帰したのであった。


次に、五十幾歳の男子、頬に癌の出来る頬癌(きょうがん)という病気で、数年に渉ってあらゆる医療を受け、

最後に癌研究所に行き、不治の宣告を受けたのである。それが私の治療二、三ケ月位で全治したのであった。

しかるに同研究所は患者が同所と離れた後といえども時々病状を問合すのだそうである。

従って、その人も全治してから一ケ年位の後、同所からの問合せに対し、早速出所し、全治の状態をみせたのである。

医師は驚いてその経過を訊いたので、本療法によって治癒せる事を詳細語ったのだそうであるが、

医家は何らの表情もなく、むしろ不機嫌そうにその場を去ったという事であった。


次に、四十歳位の婦人、右足の踝(くるぶし)の辺に腫物が出来、数年に渉ってあらゆる医療を受けたが治癒しないのみか、

漸次悪化し、遂に歩行すら不可能となり、臥床呻吟する事一ケ年余に及んだ。

しかるに、本療法によって自由に外出が出来るようになった際、たまたま以前臥床時代診療を受けた医師に往来で遇ったのである。

医師は驚いて、「どうして良くなったか」と訊いたので「こういう療法で快くなった」と話したところ

その医師いわく、「アゝそれはお禁厭(まじない)だ」というので、

その婦人は、禁厭でない事を説明した所「アゝそれじゃ狐を使うんだ」というのである。

従って、この医師の言のごときものであるとすれば、現代医学よりも禁厭や狐の方が治病効果が優れているという理屈になるので、

その医師の頭脳に驚かざるを得なかったのである。


右のような例は枚挙に遑(いとま)ない程であるから、他は推して知るべきである。

又こういう事もある。某博士が自己の手に困難だと思う患者を、私の弟子の方へ廻す事がある。

勿論、現代医学で治らないものが、本療法によって治るという事を知っているからである。

そこまで信ずるもなお研究に手を染めないという事も不思議と思うのである。

それはあるいは、そうする事は、医師会との関係もあり、複雑なる事態の生ずるという懼(おそ)れある為かも知れないが、

医家としての使命を考える時、文化の進歩に反するばかりか、人間の生命を取扱うという聖なる使命に背く訳となろう。

しかし、私は思うのである。本医術に対し、何ら遅疑する事なく、進んで突入し、研究すべきである。

その結果もし西洋医学よりも劣るか、又は無価値であるとすれば、放棄すればいいであろうし、

これに反して私のいうごとき偉大なる医術であるとすれば、大いに医学界に向って推奨すべきであろう。

それによって人類の病気を解決すべき端緒となるとすれば、先覚者たる栄誉を担い得る事となるであろう。

要するに、私は医家の良心の問題ではないかと思うのである。

この意味において私は、良心的医家の、一日も速かに表われん事を切望してやまないものである。」 (「明日の医術 第2編」より)




明主様御教え 「インテリの悲哀」 (昭和26年1月31日発行)

「昭和二十五年十二月十四日「夕刊読売」紙に左のごとき記事が載っていた。」

新聞記事
画家の惨めさ NK 一日一題

「昨日の夕方私は、ある彫刻家の未亡人の訪問を受けた。

年はもう七十五、六である、約三十年未亡人生活の間、五人の子女を育て上げそれがちっとも、実を結んでいないのである、

たった一人の男の子は十年くらい前に学校を出て、某新聞に勤めていたが病死、長女は私の妻と同級生で画をかいていたが、

某洋画団体の会員であるTに嫁(か)したところ、彼は極度の貧困のうちに不治の病に倒れ、

今方面委員の保護のもとに入院その看病疲れからか、かねての肺病が募(つの)って夫の発病の翌々日発病して亡くなった、夫は今にそんな事も知らずにいる。


次のお嬢さんも画家のところに嫁に行き、姑は両三年来寝たきりのところへ、これまた肺を病み、子供三人を抱えてストレプトマイシンの費用に事欠いておられる様子である、

三番目のお嬢さんはある青年鼓の名手に嫁(とつ)がれたが、その娘さんがまた病床の由、

そして末の未婚のお嬢さんはこの老夫人と二人でお茶の先生などして、戦後の荒い世を乗り切っているのであるが、

過度の疲労から昔のカリエスが、再発の気味で病床にあるという。

この老婦人が七十何歳でただ一人元気であり、珍しく生命力に溢れた人で、

何でも次女のためストレプトマイシンを四十本とか必要な由で正規なルートで買えば、一本三百何十円とかのが仲々手に入らず、大抵一本七百何十円とかするのだそうで

今日は、清瀬の病院に、明日はどこの病院にとかけめぐっても工面がつかず、その外に亡くなった長女の墓の問合せとかもあり、

一日置きにはその入院中の画家を病院に何か副食物をもっていかねばならぬのだし、

次女の世話にいき、三女の孫の世話にいき、そして、家に帰っては末女の世話をせねばならぬのだし、

茶の出稽古に行かねば、生計はうんぬん立たずという具合で、この人自身が要保護者の一人である・・・云々(うんぬん)」(記事は以上)

明主様御教え
「右の記事を読む時、軽々に見逃し得ないものがある、というのはこういう例は今の世の中に案外多いからである、

恐らく昔の人間にはなかったであろう事は、話にも文献にも見ないにみて明らかであるとしたら実に重大問題である、

何となれば昔からみれば、今日の医学の進歩は、比べものにならない程である、

しかもこの記事中の人々は、まずインテリ層に属する人達であってみれば、衛生思想も充分養われているはずであるにもかかわらず、

現代人はこういう例を見たり聞いたりしても、いささかの疑念も起さず当然のように心得ている。

言うまでもなく、現代医学に盲信し切って、他を省みる余裕もないからであろうから、正しい批判力などは全然失っていると言えよう、

よくもこれほどまでに信じてしまったものと驚かざるを得ない、

ところが吾々が、右のように病のため、不幸な境遇に陥ったものを救った事実をみせても、新聞にかいてもテンデ関心をもたない、ほとんど不感症である。

誰が何と言っても本教は病貧争のない家庭を作り得る力を持っているとしたら、ここに溺れんとする者があり、

すぐ近くに掴まる縄を持っている者がいる、そこで早く掴まらせようとしても、

両者の間に邪魔物がいる、という訳でその邪魔物を取除く以外、助けようがないのである、

ではその邪魔物とは何かというと、言わずと知れた前述のごとき科学迷信そのものである。」




明主様御教え 「結核亡国論」 (昭和26年2月14日発行)

「今日本において、結核は非常な勢いをもって蔓延しつつある事は衆知の通りである。

しかも始末の悪い事は、実際上患者の総数も、死亡率も本当の事は全然判らないのである。

何となれば当局が発表した数字によれば、二十年前も患者数百五十万、一割の死亡とみて十五万と言われたが、十年前も同じ数であり、今も同数である。

としたらいかに出鱈目(でたらめ)であるかが判るであろう。

しかし実はこれも無理はないかも知れない。

というのは結核は伝染病とされてる以上、出来るだけ世間に知られないようにする。

万が一死亡しても死亡診断書は、特別の事情のない限り、他の病気にして届けるのは、今日常識とさえなっているくらいだから、正確な数字は到底得られないのは当然である。

それについて、去る一月二十六日発行の日本婦人新聞に、左のごとき記事が出ていた。」


新聞記事
「病おし、教壇に 捨ておけぬ「結核教員」

東京都教育庁では都内全部の高、中、小学校に現在勤務中の教職員について、結核検診を行い、昨年暮までに全員終了した。

これによると、結核に冒されて教壇に立っている者が、意外に多い事が判り、早急に対策を考える事になった。

すなわち都立教職員約三万一千名中、六カ月から二カ年程度長期欠席によって、休養を必要とする者が、二万六千七百名以上もあり、

既に二年以上欠席し退職させられたものも百余名もあるという状態である。

これらのうちには特に悪質で生徒への感染危険の者もあるので、直ちに休養をさせねばならぬ者も、相当数あるものとみられている。

それで東京都では昨年秋の長野県の学童集団結核の例もあるので、患者に対して直ちに休養するよう所属学校長に勧告する事になっている。

しかし現在都立教員結核療養所は増築中の五十床(一床二十万円)を合せても百三十床しかないので、

二十六年度予算で湘南方面の旅館かホテルを買収して二百床を増設する計画を進めている。

また現行法では教員の休職は二年しか認められておらず、それ以上になると退職するか、さもなければ病気のまま教壇に立つかの二道しかあたえられていない。

ところが結核の完全療養には二年間では無理なので、教育庁では更に一年の休養期間を認めるよう教育委員会とはかり研究中である。」(新聞記事は以上)



明主様御教え
「右の事実をみて、驚き怖れないものはあるまい。

これでみると都立教員ほとんど全部と言っていいくらい結核容疑者である。

実にこれほど重大問題はあるまい。

としたら一体どうしたらいいのか、この人達は最も結核が感染し易い、小学児童に接するにおいてをやである。

何よりも昨年末、長野県の某村で小学児童を検診したところ、百人中八十一人の結核容疑者があったので、県下の大問題となったという新聞記事があった。

その後各地における同様の記事が、頻々(ひんぴん)新聞に出ているに見ても事態はもはや放って置けないところまで差迫っている。

従ってこのままで解決出来ないとしたら、まず次代の国民の大部分は、結核患者または結核容疑者たる事は間違いあるまい。

といってこの危険を完全に防止するには現在の結核教員全部を隔離しなければならないが、これは実際上到底出来ない相談である。

こうみて来ると、今や前へも後へも行けないというジレンマに陥っている現状である。

しかも右の記事にあるごとく、結核教員は六カ月ないし二カ年の療養を要すと云っているが、実はそれでも足りないというのである。

しかも現在あたう限りの設備をしても、たった二百床しか出来ないという始末では、患者の数からみて、全然問題にはならない。

しかしながら、右の日数で完全に治ればまだいいとしても、事実はそう易々と治らない事は、今日までの幾多の実例に徴するも極めて明らかである。

まず吾々の推定によれば百人中八、九十パーセントは、散々(さんざん)療養の結果、死亡する事はまず間違いはあるまい、としたらこれらに要する国家のマイナスは、すこぶる大きなものがあろう。

しかも、右はひとり小学校教員だけの問題ではない。実は現在の日本人全体に渉(わた)って結核患者は益々増加しつつあるのは事実である、としたらどうしても判らない事がある。

これほど国民衛生が発達し、近来結核検診も段々行き渡り、早期発見の方法も大いに進歩したのであるから、それに準じて結核は漸減しなければならないはずである。

にもかかわらず現実はそれを裏切って嘲笑するかのごとく、益々増えつつある。

これほど理屈に合わない話はないではないか、ところがいまだ理屈に合わない事がある。

それはこの矛盾に対して、当局も専門家も何ら疑いを起さないばかりか、益々同一方法を猪突的に拡充している事である。


ここで、吾々はこの事実に対し、冷静に検討してみよう。

まず結果論から言ってみれば今まで当局が行って来た結核対策なるものは、あるいは反対方法ではないかという疑問である。

もしこの疑問が起らないとすれば、このまま結果も何も眼に入らない程に、現代医学を盲信しきっているためと言えよう。

従って、このままで推移するとすれば、数十年を待たずして日本人全体が結核患者となる時が来ないと誰か言い得よう。

実に由々しき大問題である。

恐らく第三次戦争よりも、むしろ大きいかも知れない。最後に、吾々は警告したい事がある。

それは、現在の結核対策の全然誤っている事で、その証拠は右のごとく事実が示している。

ところが吾々の浄霊療法によれば、容易に短時日にしかも確実に撲滅し得る事で、この生きた実例は本教刊行の新聞、雑誌に掲載しきれない程多く集って来る。

ただしかし最も困難である事は、右のごとく実際を示し、結核を完全に治すといっても、仲々受入れられない現代人の頭脳である。

何よりも現代人の考え方の最も間違っている点は、事実よりも理屈の方を重視する傾向である。

これが妨害となっているので、この点に目覚め、白紙となって充分検討する事を切望してやまないものである。」




明主様御教え 「御蔭話から何を得る」 (昭和26年10月10日発行)

「たくさんの御蔭話を見るとしたら、誰しも実に素晴しい何物かを、感受せずにはいれないであろう、

恐らくこれほどの救いの力は、いまだかつて世界にないからである、そこでその中の病気に関した事のみをかいてみるが、

まず現代医学というものの実体である、現在あらゆる病人は、現代医学より外に安心して病気を委せ得るものはないと信じ切っている心理状態で、ほとんど信仰とさえ思える程である、

それどころではない、政府当局も同様、現代医学以上のものはないと決めてしまって、

毎年巨額の国費を投じ、能う限りの奨励をしているくらいであるから、

医学以外いかに効果あるものがあっても、科学性がないという理由で、なるたけ触れないように勧める方針を採っている、

このような訳だから、無論国民もそれを信じ切っている以上、精神作用からいっても、医療を受ける場合、大いに治るべきはずだが、

事実は案外であるのは、誰しも経験するところであろう。


それはそれとして、今本紙毎号満載しているお蔭話である、

その中のどれを見ても、発病するや最初は、一人の例外なく医師の診療を受けるが、

その結果意外にも、なるほど一時は快くなるので、ヤレヤレ、と安心していると、

ちょうど抑えつけた何かが反撥するかのように必ず再発する、

そうかと思えば、何程治療を受けても、最初から少しも効果がないどころか、段々悪化する事実である、

この場合普通常識から考えても、医療に疑念を起すはずだが、ほとんどの患者はそうは思わないどころか、どこまでも縋って離れない、

中にはとうとう死の一歩手前にまで来て漸(ようや)く疑い始め、他の療法を求める者もあるが、こういう人は運のいい方で、

酷いのになると死んでも眼が醒めず、これも寿命であるといって、家族も皆の者も諦めてしまう、

ところがもっと酷いのになると、兄弟などが年の若いのに次々死んでゆき、

それが数人に及ぶもまだ眼が醒めないで医療に頼るが、それはこういう訳である、

最初死んだ一人に驚いて、病に対する臆病感が強くなり、この次病人が出来たら、手遅れになっては大変だと思うと共に、

出来るだけ平常から衛生に注意し、ヤレ栄養、何々注射等を行うので、反って病弱となり、早死するという訳である、

何しろ先祖代々からも、子供の時からも、病気は医者と薬に限るものと、根強く教育され、その観念が沁み込んでいる以上、

思うように治らないのは、医師の診立てが違うからだろうとか、

医師が下手なためだろうなどと考え、医師を取換えたり、大病院へ行ったりする、

しかし治らないのはどこへ行っても同様で、病は漸次悪化してゆくが、

もちろんこれに気の付くはずもなく、結局絶体絶命のところまで追い込まれてしまう、

そうして一番悪いのは薬であるが、その薬を一日も放す事が出来ないので、

緩慢ながら慢性薬毒病患者となり、ついに危険のところまで来るので、

気の利いた人はここで初めて医薬に疑問を起すのだが、

平常から前述のごとく、政府や専門家によって、医学以外の民間療法や信仰療法は、信用してはならないと釘を刺されているので、

随分躊躇逡巡(しゅんじゅん)するが、何しろ前述のような有様となった以上、

このまま続けても駄目だとようやく覚った頃、医師の方も匙(さじ)を投げるので、

その際本教の話を聞き、救いを求めに来るのである、しかし最初は誰もオッカナ吃驚(びっくり)で疑い疑い浄霊を受けるが、

するとたちまち形勢一変快方に向い、昨日の悲観が今日の楽観と変り、余りの不思議さに、患者は戸迷いするくらいである、

ところが現実はズンズン快くなってゆくので、ここに至っていかなる無神論者も兜を脱がざるを得ない事になるのである。

従って右のごとき、本教浄霊の真相を一般人に、一日も早く知らしてやりたいと、お蔭話を読む毎に吾々は痛切に感じるのである。」




明主様御教え 「真の医術」 (昭和25年5月21日)

「よく吾々が医学に対し非難しすぎると云って注意をする人があるが、吾らは決して医学を非難しようとする意図は毫もない。

ただ何物にも促われず、独自の見地からの研究によって得たる説を発表するのである。

しかしその説たるや、飽くまで事実に即しているのである。

そうして、研究においては医学は動物実験を基本とするのに対し、吾々の方は人間を実験台とする。

医学がなぜ人間の病を研究するのに人間以外の動物を資料とするかというと、これは万一をおもい危険を避ける意味からでまた止むを得ないと云えよう。

右に対し吾々の方は見込違いなどは絶対にない。

もし仮りにありとすればそれは効果が予期したより少ないと云うだけで、いささかの危険も伴わないのである。

何よりもおかげ話の感謝に満ちた報告が机上に山をなし本紙に載せきれない程であるに見て明らかである。


しかし、こういう見方をする人もあろう。

おかげ話は成績のよいのだけが報告され、不良なのは出さないから誠に都合が良いというかも知れない。

しかしこの疑いは訳なく打破出来るというのは本教の異常な発展がよく物語っている。

「本教は都合の良い宣伝や無理な勧誘は決してやらない方針だ。

よく昔から新規開業などの場合チラシを出したいと云って来るがそれを許さない」。

何となれば、そういうやり方ははなはだ力が弱いからである。

どうしても「自分の難病が治り、感激の余り病苦に悩む人を見るに見兼ねて、自己の体験から浄霊や信仰を奨めるのであるから力がある」。

それは「神に感謝報恩の誠が滲み出ているからである以上、人を動かさずにはおかない訳である」。

するとそれに応じ浄霊を受けるや、たちまち大きなお蔭を戴くのでこの人も感激の余り他の人を勧誘する。

かくして漸次発展する。それが本当のやり方である以上本教もこの方針で進んで行くのである。

これによってみても成績良好者の多いからである事は疑いの余地はあるまい。

のみならず、「世間筆に口に本教を迷信邪教、インチキなどとあらゆる非難の声を浴びせるがそれにもかかわらずビクともしないで発展を遂げつつあるのは、どこかに力強い何物かがなくてはならないはずである」。

これに無関心である人もあるがそれこそ食わずぎらいの人である。

右の事実を充分頭に入れて、これから解く説を必読されん事である。


そもそも全世界の医学者が幾世紀に亘って苦心さん澹(たん)努力の結晶とも言うべき現代医学であるから、

いかなる人間といえどもこれ以上のものは絶対にないと信じ、病気に罹れば医者に行き、薬をのみ種々な最新の療法をうけ、安心して貴重なる生命をまかせるのである。

もし予期に反し思うように病気は治らず、悪化するようになっても医学に対しいささかの疑心も起さないどころか却って理くつをつける。

自分の体質が弱いからだとか、病気が悪質のためとか、手おくれだったからとかいって飽くまでも医学に頼ろうとする。

実にその信念の固いのは驚く程である。

もちろん、医師もそう説明するからそう思うのである。

それで万一不幸の場合、運がなかったからと言って諦める。

中には何々病院何人の博士に診て貰らっても駄目だったからよくよく命運がなかったからだと思って済んでしまう。

これが現代社会のあるがままの姿である。

しかし、右のような事実を日々見つつある専門家諸君も常に思うであろう。

どうもあの病気は不思議だ、あれ程高価な薬剤や、進歩せる療法や、充分な手当を施したにかかわらずよくならないどころか漸次悪化し遂に死んでしまったというのはどうも判らない。

またあの病人は最新の療法をあれ程一生懸命に施してもとうとう駄目だった、学理から云っても治らない訳はないはずだと言って、歎声を漏らす事もあるようだ。

またやっと治ってやれやれと安心するかしない中(うち)再発と云う、百日の説法屁一つと言う事もよくある。

あれ程医師の言を守り、細心の注意を払い、多額の費用と歳月を費やしたにかかわらず、こうなるのは実に判らないと言って首をひねる事もよくあろう。


ここで面白い事には医師の家族が罹病した場合、大事な妻や子供であるから、どこまでも自分が治療しなければ安心出来ないはずだのにこのまた摩訶(まか)不思議である。

と云うのはどうも自分の家族は恐ろしくて手が出せない。

仕方ないので友人の医師に診て貰う事もよく聞く話である。

こんな理屈に合わない話はないではないか、この理由は漸次読むに従って肯けるであろう。

また一人の病人を数人の医師が診察するとそれぞれ見立てが違う事もよくある。

これはどうした訳か、科学的とすればそんな訳でありようはずがないが、これでは易者の身上判断と同様でマグレ当り的と言えよう。

このような話はまだまだあるがきりがないからこの辺でやめて、次に一つの疑問符を投げてみよう。


一体人間の病気と言うものは何がために存在するのであるかという事である。

造物主が人間を造っておきながら、病気という人間最大な苦痛と生命を脅かすような、厄介至極のものを拵えたのはいかなる理由であるか、

神は愛と言いながら人間を苦しめる嫌なものを造ったのは、実に訳が判らないと言いたくなる。

まず何のために風邪を引くのか、しかも何の予告もなく人間の都合などはお構いなしに突如として襲うのだから、はなはだ始末が悪いどころかむしろ無慈悲と言うべきだ。

ところで風邪を引くと寒気がする。

身体中がだるくなる。

頭も節々も痛い、これは熱が出たためとしたら一体熱という奴はどこから出るのだとすると、たちまち咳、痰、水洟(みずばな)、盗汗(ねあせ)、下痢、等々代る代るやって来る。

一体これは何のためだ、どうも判らない。

またいよいよこれからと言う年頃になると結核と言う誠にもって恐ろしい命取りの病気に見舞われる。

それも旨く通り越すと今度は神経痛や、リョウマチ、胃痙攣、痔、脳膜炎など我慢の出来ない程の痛い目に遭せる。

また少し面白くなかったり心配したりすると、男は神経衰弱、女はヒステリーとなる。

ひどいのは精神病と言う、太宰治じゃないが、人間失格と言う言葉通りになるのであるのだからやり切れない。


年を取れば取ったで脳溢血、中風と言う半身不随で身体を動かす事も、喋舌(しゃべ)る事も出来ないと言う生ける屍になって、何年も苦しみ抜いた揚句、あの世行と言う悲惨な運命となる人も数え切れない程ある。

ザットかいても右の通りだが、また病気の種類と来たら昔でさえ四百四病もあったのに、文化が進歩した今日益々殖えてその種類は何千に上るか判らない程であろう。

これも摩訶不思議というべきだ。それで医学は進歩したと言って喜んでいるのは人間様だ、健康上から言うと動物の方が優っているかも知れないと思うとはこれも可笑(おか)しな話だ。

御承知の通り霊験神のごとき新薬が続出するし、手術と来ては停止するなき進歩によって、脳疾患には頭蓋骨を切り開いたり、肺病は肋骨を切取って代りにプラスチックスを嵌(は)めたり、最近はピンポンの玉を入れると言うのだから、驚くべき巧妙な技術である。

また少し悪い所があるとメスで切りとってしまう、腎臓などは両方なくともよい、片方だけで充分だと言って除ってしまうかと思えば、気胸療法といって片一方の肺臓の呼吸を止めたりする。

このように医学は進歩したと言って感心したり有難がっている姿を人間を造った神様が御覧になったら、何と仰言(おっしゃ)るだろう。

お喜びになるか、お歎きになるか神様に伺ってみたいものである。


以上長々述べたように、全世界の学者は研究室に閉じ籠り、動物試験に、顕微鏡に、臨床に、新薬発見に苦心惨澹、幾多の新学説を生み出し、ノーベル賞の獲得を最後の目的としているのである。

ところが驚くべし、吾々からみれば右は医学の進歩どころでなく、最初から医学ではないのである。

実を言うと医学はまだ広い世界に一つも生まれていないのであるというと、馬鹿を言え、これ程立派な医学が出来ており、しかも益々進歩発達しつつあるではないかと仰言(おっしゃ)るだろうが、実は真の医学と言うものにまだ出遭った事がないからである。

真の医学を知らない以上、致し方ないのであると言うのは、早く言えば医学に似たものを真の医学と錯覚して来たので、実に素晴しい迷蒙であったのである。

しからば、真の医学とはどう言うものであるか、それを何人(なんぴと)にも納得ゆくよう徹底的にかいて見よう。」




明主様御教え 「学問のズレ」 (昭和24年6月25日発行)

「一口に学問と言うが、学問にも生きた学問と死んだ学問とがある。

というとおかしな話であるが、判りやすくいえば、学問のための学問は死であり、学問を実社会に活用するのが生の学問である。

しかし真理探究のための学問はまた別で、これは貴重なものである。

まず学問とは何ぞやという事であるが、今日大中小の学校において教科書を経(たて)とし、実地を緯(よこ)として先生から教えられる。

ところがその教育方法は幾多の先哲学究が刻苦研讃(こっくけんさん)の結果構成されたもので、今日のごとき学問形態となったのである。もちろん新発見や新学説が表われては消え、現われては打破されその中の価値ある部分のみが、残存集積され来ったのは言うまでもない。

その当時真理として受入れられ金科玉条(きんかぎょくじょう)としていたものも、それ以上卓越せる新学説、新発見が現われた事によって跡方もなく消滅したり、また今もって生命を保ち社会の福祉を増進しつつあるものもあり、一切は時がそれを決定するのである。

この意味において、現在絶対真理とし永久不変のものと確信しているものといえども、それを破るところの新学埋がいついかなる人間によって主唱さるるかも分らない。

ところがこれは昔からその例に乏しくない事であるが、ともすれば新発見が表われた場合、その新発見なるものはそれまでの既成学理の型には当はまらないのが当然で、当はまらないだけその価値がある訳である。

一言にして言えば型破りであり、それが大きければ大きい程、価値が大きいのである、このように旧学説が退陣するという事は、それ以上の新学説が生れたからであり、真理と思ったものが葬り去られるという事は、それ以上の真理が生れたからである。

かくして止りなき文化の進展があり得るのである。


私は今一層掘り下げてみよう。

それは既成教育は長年月にわたって構成されたところの一応の整った形式が成立っている。

ところが文化の急速な進歩は、その固定的形式を非常な速度をもって切り放すのである。

最近私は某大会社の社長某氏の述懐を聞いた事がある。

その人いわく「十年以上経った大学出の秀才も、今日では実際問題に当って適合しない事が多い。

何となれば、その時代修得した学問と、今回の時代とは余りに隔絶しているからで、いわば時と学問のズレである。

技術家において特にしかりである」というのである。

これらをみても、私がさきに述べたごとく、学理はその時代までの基準が本質である以上、その後の文化の進歩と平行しなければ死んでしまうのである。

これについて今一つの例を挙げてみよう。それは今日の政治家は、非常に型が小さくなったと言われる。

つまり肚(はら)の大きい、腹芸をやるような政治家はほとんど見当らない。

この頃の大臣は機略など薬にしたくもなく、ただ当面発生した問題のみを処理するに汲々(きゅうきゅう)たる有り様で、肚が見え透いていると言われる。

これは何がためであるかというと、今日の大臣級は官立大学出であり、古い学理に捉われ勝で、何事も理屈一点張りで、理外の理というものを知らない。

ちょうど自動車の走っている街路に馬車を曳き出そうとするようなもので、馬車の操縦は習ったが自動車は知らないと同様であろう。

全体、学問は人間の頭脳を開発しある程度の基礎を作るものであって、いわば建築なら土台である。

その基礎の上に新建築を打建てなければならない。

すなわち学問を活用し、進歩せしめ新しいものを作るのである。

日進月歩の文化と歩調の合う事である。否それ以上に前進し指導的役割をすることこそ生きた学問である。

彼の米大統領トルーマン氏が、一九二一年頃は小間物雑貨商人であったとは彼が最近の言明で、これによってみても彼の実社会的経験がいかに役立ったかは想像に余りある。


私は十数年以前から、医学に関する新学説を唱え、それを著書として発刊するやたちまち発禁となった。

三回までも発禁となったのでやむを得ず今は諦めている、それは現在の医学とはおよそ反対の説であるからとの理由によるのである。

ところがその実績においては、現代医学の治癒率に対し、私の医学は数十倍の効果を奏する事で、しかも一時的ではなく根本的に治癒するのである。

これは一点の誇張もない事実で、著書の中にも「実験にはいつでも応ずる」旨を書いておいたにかかわらず、

当局も専門家も一顧だも与えないので、どうしようもないのである。


そもそも医療の目的はあらゆる病患を治癒し、人間の健康を増進させ、寿齢を延長させるという以外に何の目的があろう。

いかに学理を云々し、唯物的施設や、機械的巧緻を極めるといえども、右の目的に沿わない以上、何らの意味もない事になる。

私の説がただ既成医学の理論と異なるのゆえをもって、何らの検討もなく抹殺してしまうという事は、文化の反逆者たる譏(そしり)は免れまい。

しかも政府がそれに絶対の信を与え何ら疑義を起さないのであるから、現代人こそ洵(まこと)に哀れな小羊というの外はない。


以上に述べたごとき大胆極まる私の説は何がゆえであろうか。

私といえども狂人ではない、絶対の確信がなければ発表し得らるるはずはない。

全く今日進歩したと誇称する医学には恐るべき一大欠陥の伏在している事を私は発見したのである。

この発見こそ今日までのいかなる大発見といえども比肩するものはあるまい。

何となれば人間生命の問題の解決に役立ものであるからである。

ゆえにこの大欠陥に目覚めない限り、人間の病患は決して解決出来得ない事を私は断言するのである。

しかし近き将来現代医学が一層進歩したあかつき、必ず発見さるるであろう事も予想し得らるるのである。


翻(ひるがえ)って衢(ちまた)を見る時、誤れる医学によって重難病に呻吟しつつある憐れな者がいかに多数に上るかは何人も知るところであろう。

これらを見る時、吾らは到底晏如(あんじょ)してはいられないのである。

ここにおいて私は今のところ、ただ神に祈るより外に術はない。

嗚呼、この誤れる医学に一日も早く目覚めさせ給え、しこうして人類の健康を全(まった)からしめ給え。万能の神よ!」