真文明論について 6 (旧文明の野蛮性)


明主様御教え 「半文明時代」 (昭和24年6月25日発行)

「何人といえども、現在は最も進歩せる文明世界と思っている。

なるほど野蛮未開の原始時代に比ぶれば、確かに高度の文明を形造ってはいるが、それは唯物的の半面であって、

唯心的には半野蛮を出でないといっても恐らく否定は出来得まい。

事実古代から人類は常に戦争のために人間精力の大半を費やしつつある事で、もちろん戦争なるものも最も強大なる暴力の行使であり、

彼の猛獣が牙を鳴らし爪を立てて怒号し相喰むのと内面的には何ら択ぶ所はあるまい。

もっとも、一方平和を愛好する民族もあって戦争を極力避けんとし種々の方策を講じつつある事も事実である。

これによって考えるならば前者は野獣的人類であり後者は人間的人類であるといっても間違いはあるまい。

この相反する二種類の人間が各々その意欲を満足せんとして活動しつつある。

これが世界歴史の過程でもあり現状でもある。もちろんこの二種の思想は個人的にもあるが、これらは法によって暴力を防止し秩序を保ってともかく事なきを得ている。

しかしながらともすれば善人良民が常に悪人に圧迫され、被害を蒙りつつあるのも事実である。


また他の方面を見てみよう。

今日科学の進歩によって偉大なる発明発見があるが、それを行使する人間の意志によって悲惨なる結果を生む事もあれば、反対に人類福祉の増進に役立つ事もある。

しかし、この野蛮と文明との相反する二大思想の摩擦が戦争の原因ともなり、それにつれて発明発見を悪用する事ともなる。

そうして別の方面からこれを検討する時、闘争民族は無宗教であり、平和民族は有宗教であるに見ても、どうしても宗教の必要が生じて来るのである。

これによってこれをみれば、現在高度の文化時代と誇称するといえども、実は半野蛮半文明時代であると言っても過言ではなかろう。

この意味において半文明を、物心一如の全的文明にまで飛躍させなくてはならない。今後の宗教人の使命や実に大なりと言うべきである。」




明主様御教え 「日本は文明か野蛮か」 (昭和27年6月4日発行)

「この標題を見た人は、私の頭脳を疑うかも知れない。

なぜなれば日本は戦には負けたが、依然として、文明国の仲間に入っている事は確かだからである。

そうしてまず野蛮国といえば彼のアフリカを始め、地球上には色々の国があるが、

よく考えてみると、これらは単なる野蛮国ではなく、野蛮未開国というのが本当であろう。

ただ日本は未開の二字だけはたしかに除れたが、野蛮の二字は依然としてそのまま残っているのが事実である。

何よりも私は近頃の世相をみて、つくづくそう思われるのは、余りにも野蛮的な事が多すぎるからである。

何かというと集団的暴力を奮って社会を騒がしたり、人々を脅かし、殴り合い、兇器の奪い合い等々、

怪我をしたりさせたりしているというように、実に不安極まる社会である。

しかも将来文明の指導者たるべき、最高学府の学徒までがその仲間になって騒ぐのだから、全く情ない話である。

そうかと思うと市井の巷などでも、運チャンの首締め、殴打で人事不名にして、僅かな金を奪ったり、

またちょっとした事で人を殺したり、中には親子、兄弟の殺傷沙汰さえ往々あるのだから、

全く野蛮極まる世相で、日々の新聞に一つや二つ出ていない事はないくらいである。

その他強窃盗、強姦、スリや放火、喧嘩、殺傷沙汰等、数えあげればキリがない程で、これが文明世界であるかと疑いたくなる。

私はむしろ獣に近い社会といった方がよいとさえ思うのである。

という訳で実際現代人はまだ文明の何たるかを知らないようである。

なるほど近代文明は機械の発達によって非常に便利になり、

社会組織や機構などが科学的に巧妙に仕組まれるようになったので、

単に見た目には驚異的進歩であるので、これが文明というもののあり方と思ってしまい、随喜の涙をこぼしているのが大部分であろう。

ところが何ぞ知らん、吾々からみればこれは文明の表面だけで、裏面は文明どころか、

野蛮がまだ大いに残っていると思わざるを得ないのである。


これを分り易くするため、歴史的順序をかいてみるが、そもそも人類は原始時代から未開野蛮時代を経、

それから宗教や学問の発達によって文明が生まれたには違いないと共に、

野蛮の方も減りそうなものだが、事実は減るどころではない。

という訳で変な言葉だが、今日は文化的野蛮時代と言った方が適切であろう。

従って真の文明時代とはこれから出来る世界であって、この時代こそ全人類の待望する平和幸福な世界である。


だが喜ぶべし、その時代はすでに目前に迫ったのである。

それはその時代を造る役目として生まれたのが我がメシヤ教であるから、本教の今行っている事業を見ればよく分る。

その第一着手としては、文明の裏に潜んでいる幾多の誤謬を指摘し、暴露すると共に、真の文明というものを教えているのである。

ゆえにそれを信じさせるための手段として、神は旺(さか)んに私に奇蹟を行わせ、神の実在を信じさせているのである。

こうみてくると本教は既成観念で考えるような、あり来たりの宗教ではなく、全く新しい文明世界の創造者であり、

世界歴史大転換期における神の一大経綸の担当者である事が分るであろう。」




明主様御教え 「野蛮なる文明」 (昭和28年3月25日発行)

「この題を見たらちょっと変に思うだろうが、これより外に付けようがないからそうかいたのである。

というのはまず文明というものの意味である。

これは考えるまでもなく条件は色々あるであろうが、何といっても第一は人間生命の安全確保であり、それと共に暴力否定の思想である。

第二は国家社会全般に渉っての合理性の行われる事であって、それらをこれからかいてみよう。

右のごとく人間生命の安心感がない限り、文明の文字はあり得ない事は今更言うまでもない。

すなわち一生涯病気に罹(かか)らない事と、戦争のない世界である。

このような人類世界が実現してこそ初めて文明の恩恵に浴し、人類最大なる欲求である幸福を得らるるのである。

ゆえに我救世教が病気のない人間を作る事を建前としているのも、この意味に外ならないのである。

さればこそ人類はすでに紀元前から病に対し、最大関心を払いつつ来たので、近代に至って西洋医学が創始され、それが驚くべく進歩発達を遂げたので、

人間はこれを唯一の病気解決法と信じ、世界各国はこの医学を採用し、今日に至ったのは周知の通りである。

ところがいつも言う通り、事実はこの医学の進歩なるものは外面だけであって、実際上の効果はほとんどないのであって、これは事実がよく示している。

見よ現在到るところの病人の氾濫はよくそれを物語っているではないか。

結核、脳溢血、癌、精神病、小児麻痺等の悪性病気は固より、各種伝染病のごとき、その対策に常に悲鳴を挙げている現状がよく示している。


これによって考えねばならない事は、一体医学のなかった野蛮未開時代の人間の健康はどうであったかという事である。

これに対し私は今日の医学的理論で解釈してみると、こういう事になろう。

つまりその時代は医学衛生など全然ないから、病気に冒され易く、片っ端から死んでしまうであろうし、栄養なども未知である以上栄養失調となり、肉体は弱り無理な仕事や重労働などには堪えられない事になり、交通機関もないから遠方へ行こうにも早く疲労するから、土地開拓などは思いもよらないであろう。

そのような弱体人間も医療や薬が生まれたおかげで、今日のごとき健康体になったという事になるので、益々医学を進歩させれば健康は増すのはもちろん、手術の進歩によって大抵な病気は片っ端から臓器を切り除ってしまうから安心なものである。

としたら大体造物主なる者は間抜な代物(しろもの)で、盲腸などの余計なものを造ったり、一個で済む腎臓を二つも造ったり、扁桃腺やアデノイドなどの不要なものを造ったりするので、吾々利口な人間はそんな危険物は除り去ってしまうのだ、という理屈になろう。

ところがそんな気狂いじみた高慢な人間も、実は造物主が作ったのであるから、飛んでもない罰当りな奴と造物主も顔を顰(しか)めるであろう。

この事を考えただけでも科学者の頭脳の程度は分るはずである。

また黴菌を恐れて消毒や殺菌法に夢中になっており、大病院は至るところに設けられ、ベッドは無数に出来るので、そのための費用や労力、時間等の消費は大変なものであり、そのための税金も巨額に上るであろうが、

しかしそうなったとしたら全く医学上の理想世界であろうが、病気の方はどうであろうかを考えてみよう。

それについてはまず古代人の健康である。それに関しての歴史、伝説、文献等をみても分る通り、

その時代の人間は現代人とは比べものにならない程の体力強靱であった事は、幾多の遺物によっても想像出来るのである。

これらによってみても私がいつもいう、医学は人間を弱らせ病気を作るという説に誤りないであろう。

とすれば現代医学は進歩したように見えても、その実人間の苦悩を増し、文明に対する逆的存在である事が分るであろう。


次は戦争であるが、これを批判するに当って断っておきたい事は、これこそ立派な野蛮時代の遺物であり、最も悪質なものである。

というのは元来野蛮人というものは獣類に最も近いものであって、早くいえば半獣半人である。

ところが現代文明人をよく検討してみると、内的にはそれと大差ない事を発見する。

なるほど外容はまことに文化的で、野蛮性などは微塵(みじん)も見えないが、前記のごとく野蛮獣性が心の底に多分に残っており、闘争意識の旺盛である事である。

現在対抗している米・ソの二大陣営にしても、虎とライオンが睨(にら)み合って、今や咬(かみ)合わんとして牙をムいているようなものであろう。

ただ異うところは流石(さすが)に人間らしく万事が智能的で、進歩せる武器をもち、集団的組織の下に作戦を練り、時の到るを待っているだけの話である。

しかも獣類より一層始末が悪い事は、虎やライオンなら一匹だけの命のやりとりで済むが、人間の方はそうはゆかない。

一人の発頭人(ほっとうにん)だけ安全にしておいて、何万何十万の人間生命を犠牲にして勝負を決するのであるから、

勝つ方も負ける方も死人の山を築くのであるから、結果からいえば野蛮性は人間様の方が上である。


次は現在の社会に合理性が何程ありやという事である。

なるほど表面からみれば各国それぞれの憲法や政治経済組織、社会機構など学問人智を究(きわ)めて、遺憾なく構成されているが、これを運営する人間の野蛮性は随所に発揮されている。

というのは一度仮面を脱げばその不合理の多々なる驚く程である。

例えば政治にしろ、アノ国会の有様を見ても分る通り、普通人よりレベルの高かるべき人達の集りとは思えない程のアノ罵詈雑言、喧噪等見るに堪えざるものがあり、さながら市井の無頼漢共の集りを見るようである。

とはいうもののこの議会制度なるものは、合理的に万事よく出来ているが、これも野蛮性が打ち壊す訳である。

また政党員は政党員で自己の利益を第一、党の利益を第二、人民の利益を第三としているとしか思えない。

この人達が国家の選良といって威張っているのであるから厄介な話である。

また選挙にしてもそうだ、なるほど法規や取締りは微に入り細に渉って至極厳重であるが、これも表面だけの事で、実際は法規の網の目を潜るのが利口とされている始末である。

そうして民主国家になったとして喜んでいる日本にしてもそうだ。

中味と来ては案外で常に役人風を吹き散らし、人権蹂躙(じゅうりん)など屁とも思わない有様は、常に新聞を賑わしている通りで、その非民主的なる事実は第三者には到底想像もつかない程である。

これこそ外面文明、内心野蛮というより言葉はない。

その他贈収賄(ぞうしゅうわい)問題にしても衆知の通りで、これらも氷山の一角でしかあるまい。


以上思いついたままザットかいただけでこのくらいであるから、他は推(お)して知るべきである。

これらを綜合してみても、最初に言った通り現在の世相は外面だけの文明であって、内面はまだまだ野蛮性が多分に残っているのであるから、標題の文字は何ら間違ってはいないと思うのである。」




明主様御教え 「半文明半野蛮の世界」 (昭和29年4月14日発行)

「現代は最も進歩した文明世界と誰しも思っているだろうが、その内容をよく検討してみると、

余りに欠点が多いのは、日々の新聞をみても分る通りで、犯罪者や不幸な人間の記事で埋っている。

公平に見て、良い事よりも悪い事の方が断然多い事実である。

最近大問題となった汚職事件などを見ても、検察当局が一度手をつけ始めるや、それからそれへとどこまで拡がってゆくか分らないくらいであるから、

今度の事などあるいは氷山の一角で、本当に調べたら政界も財界も、無傷の人間は果して幾人あるであろうか、残らずと言いたい程であろう。


それについてよく考えてみると意外に思う事がある。

それはこの事件の関係者のことごとくは、教育の低い田夫野人ならとにかく、いずれも高等教育を受けた文化人のみである事である。

従ってこれでみると高等教育を受ければ智識は発達し文化的人間となる以上、犯罪など減るばかりと思うが、今回の事実を見る時ただ唖然とするばかりである。

としたら、実に不可解千万と言わねばならない。

そこで標題のごとく半文明半野蛮の時代といったのであるが、これを見ても否と言える人は恐らく一人もあるまい。


では一体この情勢に対しいかにすればいいかというと、それはあえて難かしい事はない。

至極簡単である。すなわち私が常に唱えている唯物偏重教育に目覚め、唯心教育を勃興(ぼっこう)させる事である。

分りやすくいえば、形のみを信じ、形なきものは信じないという迷蒙を打破する事であって、その唯一の方法としては、宗教の力によって神の実在を認識させる事である。

そうしてこの事が指導者階級に分ると共に、国民全般に行き渡るとしたら、犯罪を犯しても人の眼にさえ触れなければいいとする間違った根性が直る以上、犯罪は出来なくなり、明るい良い世の中になるのは分り切った話である。


ところがこんな簡単明瞭な道理が分らないとみえて、いつになっても法という網や檻を厳重に作って取締るのみであるから、人間を動物扱いにしている訳で、これでは効果のないのは当然である。

ところが事実はこの法の檻でも、社会秩序が維持出来ないとしたら、その原因はどこにあるかという事に気が付きそうなものだが、一向に気がつかない。

相変らず社会は半人半獣の人間の集団となっているのである。

この意味において、最早唯物教育では人間の獣性を取除く事が出来ないのは余りに明らかである。

故に今までの教育では、結果において獣性を蔽(おお)い隠す技術の進歩でしかない。

従ってこれではいつになったら真の文明社会が出来るか見当がつかないのである。

としたらこれを解決するには、どうしても人間の魂から獣性を抜く事であって、それ以外に根本的方法はあり得ない。


それが宗教であるが、不思議にも高等教育を受ければ受ける程宗教が嫌いになるのはどうしたものか、これが文明の一大欠陥であろう。

この原因こそ肚の中にある獣性が宗教を忌避するためであって、悪は善を好まないからである。

としたら、現代教育は智能的悪を作るものといってよかろう。ところが最早それは赦(ゆる)されない時が来た。

というのは本教の出現である。何となれば本教は神の実在を目に見せ、手に掴ませる事が出来るからである。

というとそんな素晴しい事はありようはずがないというであろうが、実は訳なく出来るのである。

本教に接するや立所(たちどころ)に神霊を把握出来るからであって、それが奇蹟である。

本教が驚くべき奇蹟を無限に現わしつつあるのが何よりの証拠であって、これこそいよいよ神は半文明半野蛮の跛行(はこう)的文明を是正し、唯物唯心の両脚揃って歩むところの真の文明世界を造るべく、神の大経綸は開始されたのである。」




明主様御教え 「外殻的文化」 (昭和18年10月23日発行)

「日本の国力が増大し、国威が八紘に輝くに従って、漸く日本人の優秀性が知らるるに至った事は、まことに喜ぶべき現象である。

それと共に、日本人の精神力が特に優れているという事も明かになってきた事である。

言い換えれば、精神力とは霊力であるのは、勿論である。


私が長い間、霊的研究によって日本人は世界中のいかなる国民といえども、

追随する事を得ない霊性をもっている
事を知ったのである。

故に、本医術が生れたということもそれが為である。

そうして唯物的方面からいえば、日本人はまだ白人文化の水準を抜けないかも知れないが、

霊性においては、比較にならないほど優っているのである。

従って、本医術は霊的医術である以上、日本人によって生れ、日本人によって大成されなければならない訳である。

故に、唯物的医学が唯物的人種から生れたとすれば、唯心的医術は唯心的民族から生れなければならない道理である。

従って、夜の世界が終末を告げ、昼の世界となるとしたら、

唯物的医学ー即ち病毒固結医学は行詰る事は当然であり、

それに反して、唯心的医術・・・即ち病毒溶解医術の発展となる事もまた当然の帰結であろう。

そうして弱肉強食的文化、言い換えれば、悪魔的文化から生れるところのものは、悪魔的医術であるべきであり、

道義的文化から生れるところのものは、道義的医術であらねばならない。

さきに説いたごとく、体主霊従と霊主体従との文化の交代である。

故に、本医術なるものは、生れるべくして生れたのであって全く自然であり、そこに何ら人為的理由はないのである。

日本人と欧米人との霊性について、最も解り易くいえば、

日本人は、霊六体四であるに対し、西洋人は体六霊四というような訳である。

故に、来るべき文化は霊五体五となるので、それが真の理想的文化の真髄である。


そうして体的文化とは、人体にたとえれば肉体文化である。

肉体はいわば外殻である。

樹木にたとうれば枝葉であり樹皮である。

西洋医学の研究と理論が、すべてにおいて外殻的である事である。

故に、病原は専ら黴菌となし、黴菌が外部から侵入して発病するというのである。

この意味において本医術が、病原は西洋医学の外部から内部に向って侵入する説とは反対に、

内部から外部へ向って排泄するというのである。

故に、西洋医学の唱うる対症療法とは、外部に表われたる症状を抑止、鎮圧する方法で、それは外殻的である。

しかるに本医術は症状に対するよりも、症状として表われたるその根源そのものを解消するのであるから、根本的である。


ここで私は文明批評を試みてみよう。

それは現在までの文化の根本理念なるものは、総てにおいて外殻的であり、枝葉末節的であり、皮相的であるという事である。

これについて種々の例を挙げてみよう。


まず政治であるが、その形態が最近までは民主主義であった。

民主主義とは、実は外殻的綜合力を主とする事である。

何となれば、大衆なるものは、国家の中心を囲繞する外殻であるからである。

本来正しい政治とは、中心に絶対権力があって、

大衆即ち人民はそれに従属すべきものでなくてはならない。

故に理論的に正しくいえば右のごとくであるが、我日本は理論以上の皇国であって、即ち・・・

上御一人(かみごいちにん)を中心と崇め奉り、その大御徳によって万民が悦服するという国柄である。

従って国民は、各々その所を得て生を楽しむというのであって、全く理想的中心帰一の姿である。


次に、国の経済としては、事変前までのような、株主である大多数者の利益を本位とするような機構は勿論外殻的経済である。

故に今後は、中心であるべき国策のむかう所に追随しなければならない事は勿論である。


次に、教育も従来は頗る多種多様の課目を羅列し、それを一列に詰め込み、

試験という関門を成績よく通過しさえすれば出世が出来るという制度であった。

従って、中心であるべき人間の魂を無視し、真心は閑却され、

社会に出でては才智才能さえ優れていればよいという様になって、

真の人間を作る事を忘れていたという事は否めないであろう。

又法規の条文は益々繁くして、その煩に堪えない程であり、

国民は法規の条文にさえ触れなければよいとして社会に害毒を与え、

道徳に反するような行為をも平然として行い、恬として恥じないというような傾向になり、

ここにも魂を忘れてしまったのである。

私はこの事を充分徹底して説いてみよう。


中国の尭舜(ぎょうしゅん)の世は、法三章でよく治ったという事である。

又我国上代においても彼の聖徳太子の十七箇条の憲法によって治ったという事なども、

その理由は、その時代における人間は魂の発露があったからである。

しかるに近代に到って猶太(ユダヤ)文化の発展は唯物思想を醸成し、

それの世界的氾濫となって文化民族の魂が睡眠状態となった事である。

その結果として、人間は自己の欲望を達成せんとする場合、只管 外殻のみに意を注ぎ、

内面的には不正不義も問う所にあらずという思想になった。

ここにおいて、為政者としては、つい法を以てその不善を取締るより道がなく、ついに法の完備となり、法治国なる名称が生れたのである。

従って、一方においては法という網を作って制えんとすれば一方はその網の目を潜ろうとするのであるから、

漸次網の目を緻かにするより外に方法がない訳で、

法規の条文が今日のごとく細密になったのも止むを得なかったのである。


これらの情勢に対し、私は忌憚なくいえば、日本は別としても、

最近までの文化民族とはある意味において教育のある野蛮人であり、

学問と知識を有する獣でしかなかったともいえよう。

そうしてこの獣は、ともすれば牙を剥き、爪を瞋(いか)らし、人畜に危害を加えんとするので法律という網を作って押えようとする。

獣の方ではそれを破ろうとする・・・そのような状態であった。

しかるに、獣の中でもライオンのごとき強力なる奴は、国際法規という網を平気で破ってしまって世界中を荒れ廻り、

武装なき人間や弱い人間を喰殺しては、その威力を誇ったというーそれが即ち彼の英国であったのである。

この意味において、今日までの文化とは、真の意味の文化ではなかった。

即ち猶太的、唯物的悪魔的文化であった。

かような批判に対して、人はあまりにも苛酷に過ぎると思うかも知れないが、誤謬であるとは誰も言えないであろう。


しかるに、いよいよ天の時来って、この地球上には今日までの文化とは全然反対であるところの、

非悪魔的である神の文化が、今や呱々の声を挙げんとしている事である。

それは唯心的で道義的で、人類愛的文化である。

今我日本が、国を挙げて戦いつつある所のこの戦争なるものの真目的といえども他なし、

右のごとき新文化を生まんが為であって、聖戦というゆえんも、ここにありと思うのである。

故に、医学においても根本を無視して対症療法に専念し、一時的効果のみを狙えば足りるとし、

又は死体解剖や手術、注射等の残虐的方法を進歩と誤解し、今日に到った事も肯るるであろう。


以上のごとき、いずれの方面においても、中心を無視して外殻のみを維(これ)計ったというのが、夜の文化の真相であったのである。又、共産主義もそうである。

労働者がより少時間の勤労に対し、より多くの賃金を得ようとし、それが不可能である場合、罪を他に転嫁しようとする。

即ち生産や分配の社会機構が過っているといい、それが資本主義経済の欠陥であるとなし、遂には社会革命にまで及ぼそうとしたのである。

勿論これらの思想は巧妙なるフリーメーソンの謀略によるとはいえ、その中心の魂を忘れ、自己反省を無視しすべては外界の影響によるとなし、罪を他動的に帰するという考え方であった。


又官民が一致しなかった事も長いものであった。

政府は国民の無理解と認識不足をいい、国民は政府の政策や行政機構が悪いといい

議会は政府の無能を責め、政府は議会の無理解を云々する等、

ここにも自己反省がなく、すべて罪を他に転嫁するという悪風が漲(みなぎ)っていたのである。


これらの実状を深く考察する時、そのことごとくは自己の魂を忘れている事である。

魂が輝くにおいては、当然自己反省の正義感が起らなければならないのである。

人を責むる前に、まず自己を責めなければならないのである。

右のごとく魂を忘れる結果はどうなるかというと、人は外面的一時的賞讃を求めるという軽薄的行動を好むようになり、

そこに真実性もなく、素朴が軽蔑されるというような社会となるのである。

これが米英ユダヤ中心の猶太(ユダヤ)的文化の謀略的思想の表われでなくて何であろう。

外殻的文化とは、右のごときものであろうと私は思うのである。」 (「明日の医術 第3編」より)




明主様御講話 「労使闘争は欲張り同士の喧嘩」 (昭和27年12月7日)

「最初に時局について少し話してみたいと思います。

われわれ国民が直接一番脅威を受けているのはスト問題です。

炭労ストに電産ストです。

それで今度のは今までに例がなく、いつまでも解決がつかないのです。まあ彼らはスト気違いです。

よくスットン狂と言いますが、これがそれによく当てはまってます。

スト狂です。

いずれは解決がつくでしょうが、よしんば解決してもそれですんだわけではないので、

ただ一時的でいずれはまた次から次へと始まるのは勿論です。

ところが、永久にストが起らないようにすることもわけはありません。

ストの原因のもっとも中心はなにかというと、

労働者の方は少しでも多く賃金とか手間賃をもらおうとするし、

資本家の方では少しでも出さないようにする、少なくするようにする、というその衝突なのです。

ですからちょうど欲張り同士の喧嘩です。

これはちょうど獣が、底の方に肉の塊りがあるとすると、それを一匹が食おうとすると、ほかの仲間のものが食わせまいとして自分の方に取る。

ですから肉を取る方法で争っているのと同じことです。

つまり自分だけが懐に多く入れようとして、人にやるまいとする。

それが人間の形をしているから、まさか爪や歯をむき出してやるわけにはいかないから、

そこにいろんな理屈をつけてやってますが、根本は同じことです。

ですからまだ人間までに進化してないのです。

獣性がそうとうあるのです。

獣性で、濁っているわけです。

それで文明世界といっていばってますが、実にあさましい人間どもだというわけです。


それではどうして解決するかというと、これは信仰よりほかにありません。

その信仰というものは人間の欲望の制限ができるのです。

自己愛という、自分だけ良ければ人はどうでもいいという思想、考え方というものが、むしろ反対になるのです。

まず自分の利益を考えないで、人の利益を考えるという利他愛の思想が信仰の根本ですから、

その考えでやれば、労働者は大いに働いて良い物を作って、単価を安くして売れるようにする。

それから資本家の方では、儲かれば彼らに利益を分配するというように考えるのです。

それで両方がそうなれば、明日からでもすぐに解決するのです。

解決するどころでなく、そのために事業は非常に繁栄します。

輸出品というようなものでも、良い物が安くできるのですから世界一になります。

そうしてたくさんできますから、税金なども楽に払えるばかりでなく、

国家としてもよけいな金はいらないから、国の台所がずっと楽になりますから、

税金問題というものもなくなってしまいます。

国民の方では言われないうちに税金を収めたいということになります。


ですから、そういう結構なことにするのはわけはありません。

ただ自己愛と利他愛をちょっと向きを変えればいいのです。

かえってその方が楽で易しいのです。

これはストなどの方がよほど難しくて骨が折れます。

どっちもウンスウンス言ってたいへんな騒ぎです。

われわれ人間から見ると、人間というと変な言い方ですが、実際がこっちは人間と思っているのです。

先方はまだ人間とは言えません。

だからわれわれ人間から見ると実にかわいそうなものです。

やっぱり道端で犬が噛み合っているのと違いないくらいのものです。


ところがそんな結構な信仰というものを、低級だとか迷信だとか科学的でないとかなんとか言って、偉い人やジャーナリストたちが批判したり嘲笑したりしているのです。

しかしそれはそうかもしれません。獣から見れば、人間はなんと間抜けな奴だろう、オレたちは山でも谷でも一遍に飛び越えてしまうのに、人間という奴は二本足で一生懸命に駆け出しても、じきに息がきれてしまって情けない奴らだ、と思うか思わないか分からないが、そんなものだろうと思います。

だから結局信仰の目的・・・というよりか、救世教の目的というのは、まだ人間になりきってない動物を、早く人間にしようというその仕事なのです。

つまりいつも言うとおり、今の人間は文化的野蛮人です。それで文化的文明人と文化的野蛮人と両方あります。

今のいろんなものは、それは便利になって文化的です。

しかし考え方やすることは野蛮人と同じです。ですから文化的野蛮人です。

それで野蛮性ということは獣性がまだ残っているのです。

それで上面は文化性になってますが、中身にまだ残っているのです。

ですからその濁りを取り去る、取ってしまうというのがわれわれの仕事です。

ところが取られるのはなにかと言うと、やっぱり副守護神という生きている霊ですが、これは取られるのが怖いのです。

取らなくてもそういった獣性の因が萎縮すればいいので、いばらなければいいのですが、それがつらいから人間を反対させておどらせるのです。

いろんな妨害というか、自分をやっつけそうな神様に触れてはたいへんだから、触れないように一生懸命自己擁護しているわけです。

それで今までは自己擁護もできたのです。それで彼らの一番恐ろしいのは光なのです。

そこで私が光を神様からもらったので、それで彼らは非常に脅威を感じるのです。

だからやっつけてしまおうと思って、今までいろんな手でやったのですが、だんだん自分たちの方が負けてきたのです。

それで彼らの負けただけはこっちが勝つのですから、それだけ発展していくのです。

それでもまだまだ彼らの方でもなかなか妨害しようと思ってやってはいます。

けれどもだんだんそういったように、こっちが勝ちつつありますからいいのです。

それで昔からいろんな宗教で、キリストや釈迦とか偉い人がいろいろ出ましたが、つまり光がごく薄かったのです。

そのために徹底的な迫害にあって、生きているうちにほとんどやられて、死んでから何年もたってからやっと芽が出るという有様ですが、私の光はつまり太陽の光で強いのですから、生きているうちに勝ってしまうというわけです。

それでスト問題なども、今言ったとおり野蛮性のために自己愛を制御できない、それで解決しないのです。

だから結局ストを解決し、人間社会からなくするのは信仰よりほかにない。

そういうことを今書いてますが、この次の「栄光」に出します。

だから出たら、そういうことに関係した人に大いに読ませるようにしてもらいたいと思います。」




明主様御垂示 「現在は新文化の原始時代」 (昭和24年7月20日発行)

信者の質問
「原始時代と原子力時代とは文化の基礎は非常に異っておりますが、

新時代への出発という意味において多くの共通点を有しているように思われますが、御教示をお願いいたします。」


明主様御垂示
「これも一理ある。

いまは新文化の原始時代である。

以前のは人間のできたての本当の原始時代であったが、今度は人間が一大飛躍して高等動物となる。

その原始時代でこれからはいままでのように喧嘩したり噛み合いしたりするような動物性をなくし本当の平和時代になるのである。」