真文明論について 1
明主様御教え 「本教の誕生」 (昭和25年11月20日発行)
「そもそも、本教誕生の理由は、何であるかというと、まず人類が数千年以前から孜々(しし)として作り上げたところの、近代文化を検討してみる時、
外形的にはいかにも進歩発達し、絢爛(けんらん)たる容装は実に幻惑されるばかりである。
これを観る現代人がいかに絶讃し謳歌して来たかはいうまでもない。
ところが飜(ひるがえ)ってその内容をみる時これはまた余りにも意外である。
およそ外形とは全く反対である事に気付くであろう。
反対とはもちろん精神方面であって、いささかの進歩も見られない。
むしろ古代人の方が勝っているとさえ思えるのである。
今人間の心を善悪の計量器で測るとすれば遺憾ながら善より悪の方が多いであろう。
この事が、人類社会にいかに悪影響を与えているかは、けだし予想以上のものがあろう。
見よ人類の最大苦である戦争も、病気、貧困、犯罪、天災等の忌わしい事も、少しも減らないどころか、反って増加の傾向さえ見らるるにみて明らかである。
このように科学文化の進歩に伴わない精神文化のあり方は、不思議といってよかろう。
しかもそれらの事実に対し、疑問を抱かないどころか、益々物質文化に酔い拍車を掛けているのである。
世界各国の宗教家も、学者も、政治家も多くの智識人は、それに目醒めないのはどうした訳か、中にはそういう人達も少しはあるであろうが、
いかんせんその根本が判らないため、止む事を得ないとし、むしろ人類本然の姿であると、諦めてしまっているようである。
そうして、人類欲求の中心は、何と言っても幸福であり、幸福を得んがためにはいかに智能を傾け、あらゆる手段を尽して来たかはもちろんである。
それがユートピアの夢となり、理想世界の念願となったのは言うまでもない。
その意味から、初め人類は宗教に依存したのである。
ところが宗教のみによっての可能性が危ぶまれて来た結果、これを他に求めようとした。
それが彼の中世紀以後 中国を初め、ヨーロッパ方面において興って来た、教育、道徳、哲学等である。
中国においては孔子、孟子、朱子等の碩学(せきがく)や、西洋においては、ソクラテスのごとき教育家、カント、へーゲル等の哲学者等の輩出するあり、
人類はそれらに期待をかけたのはもちろんである。
ところが西洋においては十七世紀頃より唯物科学が台頭しはじめ、あらゆる面に亘って漸次改革が行われた。
なかんずく、機械文明の発展は、俄然産業革命を起し、世界は挙げて科学に魅惑されてしまった。
ここにおいて人類は、今までのような宗教や道徳のごとき正道な道をたどるより、眼に見え手で掴める実証的科学文化こそ無上のものとし、
人類の幸福を増進し、理想世界を作るにはこれにしくものはないと思ったのも、無理はないのである。
しかも、事実を見れば文化の優秀なる国程富み栄え、戦備は具わり、国民生活は恵まれ、世界から尊敬され、国威は四隣を圧する勢となるので、
これを見た各国家は、競ってそれに倣おうとした。
それがため科学文化の興隆発達は目に見えて顕著となり、今日に到ったのである。
ところが人類は余りに科学文化に心酔し過信した結果、遂に精神界の方は虚脱状態となり、道義は地に墜ち、人間はただ眼に見える物のみを追求し、いつしか科学の奴隷となってしまったのである。
本来科学を支配すべき人間は、科学に支配されるようになったのは今日見る通りである。
そのような訳で現在のごとく世界的禍乱の一歩手前の状勢にまで追いつめられてしまったのである。
全く人類の前途や危しというべきである。
以上によってみても、人類最初の念願であった幸福も、理想世界もいつしか忘れられ、遂に抜きも差しもならぬというのが現状であってみれば、
文化が発達すればする程 幸福は益々遠ざかるという皮肉極まる結果になり、ちょうどブランコと同様、一方が上れば一方が下るという訳である。
これを一層解りやすく言えば最初精神文化をもって、天国を作ろうとしたのが、実現しそうもないので、
今度は科学文化こそ、天国を作り得るものと思い込み、全力を傾けて進んで来たのである。
ところが前述のごとく天国どころか反って地獄よりも恐ろしい人類破滅という段階にまで来てしまった。
それが彼の原子爆弾の発見である。
これ程の危うい時代となってもまだ目が醒めず相変らずの唯物科学崇拝である。
一言にしてこれを言えば、唯心文化で失敗し、唯物文化でまた失敗して、まだ懲りないという悲惨事であるとすれば一体どうすればよいかという事こそ、全人類の切実な課題でなくてはならない。
それは今までの過誤を認識して再出発する事である。
すなわち精神に偏らず物質にも偏らない両々一致した中正的新しい文化形態であり、それによってのみ天国は実現するのである。
以上によってみる時、現在はちょうど旧文化と新文化の交代期ともいうべく、吾らが常にいうところの、世界的大転換時代である。
有史以来かくのごとき、人類にとっての大異変があったであろうか。
実に空前の大問題である。
しかしながら旧文化に取って代るべき新文化とは果していかなるものであろうか。
もちろんこの事は到底今日の人間の智能では片鱗だも掴めない事はいうまでもないが、
それでは一体いかなるものであるか、何人(なんぴと)がそのような新文化創造の掌に当るであろうかという事である。
ここで初めて信ずると信ぜざるにかかわらず、神というものの実在を肯定するより外にない事になる。
従って、これから神についての説明をしてみるが、単に神と言っても、実は上中下の階級があり、千差万別の役目がある。
神道にては八百万あるというが、全くその通りで、今日まで神といえば、キリスト教的一神教と、神道的多神教のどちらかであった。
しかし両方共偏った見方で、実は独一真神が分霊して多神となるのであるから、一神にして多神であるというのが本当である。
これは私が永年の神霊界研究によって得たる結論であって、この考え方も今日まであるにはあったがそれ以上は説け得ないようであった。
そうして今日まで最高神として崇められて来た神といえども、実は二流以下の神であって、最高神は遥か雲の彼方に座し、ただ人類は遠くから礼拝していたに過ぎなかったのである。
では最高神とは何ぞやというと、主神に外ならないのである。
エホバ、ロゴス、ジュース、天帝、無極、再臨のキリスト、メシヤ等の御名によって、各民族各国家の人民が称え来った神である。
主神の御目的は真善美 完(まった)き理想世界を造るにあるので、それにはすべての条件が具備しなければならないので、神はその時を待たれ給うたのである。
その時とはすなわち現在であってみれば、人類はこの事をまず認識しなければならないと共に、自己自身の精神革命こそ喫緊事である。
右のごとき、時についての一つの証拠をかいてみよう。
近来米国で唱え始めた世界国家という言葉がある。
これはいうまでもなく、世界を打って一丸とした理想世界の事であって、これが可能にまで物質文明が進歩したという訳である。
いかに天国を造るとしても、文化が低く民族や国々が個々別々であったり、交通が不便であるとしたら、世界は不透明で、根本である人類思想の統一も出来ないからである。
そうしていよいよ新文化の創造時代となったとしたら、その雄大なる構想はいかなるものであろうかをあらかじめ知って置く必要があろう。
もちろんそのためには神は一個の人間を通じて行わしめると共に、その人間を機関として一大経綸を行わしめるのは当然である。
それに選ばれたのが誰あろう、私という者であるとしたら本教の出現の理由も理解出来ない事はあるまい。
ゆえに神は天国の設計を時々刻々私にむかって啓示され給うので、私はその命のまにまに経綸を行いつつあるのである。
それと共に旧文化の中からも役立つべきものは残され、そうでないものは革正して役立つものにされ給うという事である。
それが神の大愛である。
それ以外のものは遺憾ながら永遠に滅びるより外はない事になろう。
これが最後の審判でなくて何であろう。
実に有難くもあり、恐るべきでもある。
ただここで遺憾な事は、私が神示のままを発表する場合、唯物主義者は異端視し、非難攻撃を浴びせるが、これも一面無理もない。
何しろ長い間さきに述べたごとく、精神か物質かどちらかの文化の経験しか持たない人類であってみれば、
どちらにも偏らない中正的新文化など、容易に理解出来ないのは当然であろう。
そうして精神文化の側の人は、吾らの表わしている現当利益をもって、物質のみを追求する低級信仰といい、
ただ精神の満足のみを求めるのが高級となし、学問的に難解な字句を並べて独りよしとしている。
ところが事実最大多数者を救わんとするには、理論宗教のみでは効果が薄いとしたら、既成宗教不振の原因もこの点にあるのではないかと思うのである。
今度は唯物主義の側の人の観方であるが、これはまた物質偏重のため、何でも眼に見える物以外は、ことごとく迷信と断じてしまう。
もちろん、神の実在など信ずる余地もない。
しかも始末の悪い事には、少なくとも日本の指導階級、いわゆる有識者と言わるる側の人々に、この種の人の多い事実である。
そのため吾々の信仰に対しても極度に迷信視し、筆に口に反対する。
はなはだしいのになると、近寄る事さえ戒める者もいるくらいであるから、大衆はそれに惑わされ、吾らの真相を把握する事が出来ず、ともすれば触れる事を躊躇(ちゅうちょ)するのである。
従って結果から見れば智識人の多くは知らずして文化の阻害者という事になろう。
もっともこの事は洋の東西を問わず、新しいものが生れた場合、必ずといいたい程反対者が出るもので、これは時代の先駆者が被る悲哀な宿命とも言えよう。
ここで面白い事には、その時代の文化のレベルから、僅か頭角を抜いたくらいの説が出た場合、識者はそれを謳歌し称讃するものである。
何となれば既成文化の教育を受けた人達はこの程度の説が最も理解しやすいからで、ノーベル賞受賞者の多くはこの種の学者である。
ところが個々その時代のレベルから余りに飛躍隔絶した説を唱えるとすると、到底理解する事が出来ないから、反って異端視し、排撃し、抹殺しようとするのである。
それらの例として、ヨーロッパにおいても、キリストを始め、ソクラテスやコペルニクス、ガリレオ、ルーテル等々先駆者の受難史を見ても明らかである。
ところが私の唱える説は、右の人達よりも層一層破天荒で一世紀も二世紀も進歩したものである以上、初めて聴く人や、既成文化に固まった人達は、唖然として進んで検討しようともせず、頭から極端な迷信として葬り去るのである。
しかしもし単なる突飛な説であるとしたら、これ程非難攻撃を浴びせられ、かてて加えて絶えず官憲の圧迫を受けながら、微動だもせず益々発展を加えつつあるのは、そこに何物かがなくてはなるまい。
吾々が今日まで荊(いばら)の道を潜り、槍衾(やりぶすま)の中を突破した事も幾度あったか知れない、
にもかかわらず、予想以上に天国建設の事業は進展しつつあるのは、人間の理屈では解け難い事を覚らない訳にはゆくまい。
何よりも一度本教の信者となるや、何人といえども一宗の教祖くらいの救いの力を現し得る事である。
一信者にして奇蹟を現すなどは、日常茶飯事といってもいい、実に素晴しい現当利益である。
そうして本教の教えによれば人生の妙諦を会得し、真理に目醒め、日常生活は改善され、心中明朗となり、確固たる信念の下、未来にわたってまでも透見されるので、真の安心立命を得るのである。
何よりも本教信者は時の経るに従い、人相がよくなる事である。
というのは浄血者となる以上、健康は増進し、前途の不安は消え、品性も向上するので、世間の信用は高まり、人々から敬愛されるという有徳者となるからである。
そうして本教のモットーである地上天国を造るその基本条件としては、まず個人の向上であり、天国人たる資格を得る事である。
このような人間が増えるとしたら、世界は個人の集団であるから、やがては地上天国出現となるのはもちろんである。」
明主様御教え 「科学の次に来るもの」
「これからかこうとする論文は、全世界の学者という学者は、夢想だもしなかった事であって、
恐らく直ちに信ずる事は出来まいが、静かに考えてみれば、暗夜に光明を得たごとく豁然(かつぜん)と眼界が開けるであろう。
というのは現在全世界を圧倒的に支配してしまった科学文明は、近き将来旧時代の遺物となる時の来らんとしている徴候は、私にはよく判るからである。
というと余りの意想外な説に私の頭脳を疑うかも知れないが、それが真理である以上、卓越せる学者なら首肯出来ないはずはないのである。
ではそれはどういう訳かというと、次に根本からかいてみるが、
現在までの科学は言うまでもなく唯物観念が基本となっており、
唯心観念は全然閑却されているのである。
これについてはまず万有の実体を奥深く検討してみれば分るが、
事実物質のみでは解決つかないものがそこ数知れずあるのは誰も知るであろう。
というのは唯物理念のみで解決しようとするからで、そこに原因があるのであるから、
どうしても唯心観念が基本とならなければ真の解決は不可能である。
唯心観念とは言うまでもなく有神思想であり、ここに信仰の重要性があるので、
もし科学のみで一切が解決出来るものなら、現在のごとき矛盾撞着(むじゅんどうちゃく)、混迷に喘ぐ社会が出来るはずはないので、
ここに科学至上主義の欠陥が暴露されているのである。
というように人類はどうしても信仰が必要である。
というのは彼のスターリンが最初の頃、共産主義の敵として信仰を潰滅しようとし、
各地の教会を閉鎖し安心するや、国民は秘かに教会に蝟集するので、色々な手段を以って弾圧したが到底効果ないので、
さすがのスターリンも匙(さじ)を抛げ、再び信仰を許したという事である。
その他米国を始め欧羅巴(ヨーロッパ)各国、亜細亜のあらゆる国にしても、信仰なき国は現在ソ連を除いたらほとんどないのが事実である。
としたら政府や学者がいかに科学思想を鼓吹し、宗教は迷信なりと大声を挙げても、駄目なのは分り切った話である。
以上によってみても分るごとく、現在の世界は唯心思想と唯物思想とが離れ離れになっている事であって、これが文明の一大欠陥である。
これをたとえてみればよく分る。科学は肉体派であり、宗教は精神派であるから、
現在はバラバラになっている訳で、これでは平和幸福など得られる訳はない。
例えば人間にしてもそうで、精神はこうすればいいと思っても、肉体が言う事をきかなければ必ず間違った行いをする、
といって肉体の方で精神を自由にする事は無論出来ない、というジレンマに陥ると同様、すべてが巧くゆくはずがない。
どうしても霊肉一致でなくては幸福は得られないのである。
これと同様世界も霊肉バラバラになっているから、今日のごとき混迷状態であり、人類は苦しみの坩堝(るつぼ)に蠢いているのである。
という訳は全く科学に捉われ、精神面を無視していたからに外ならないのである。
このバラバラである霊体を一致させた文明こそ真の文明である。
とは言うもののこれが大問題である。
というのはいかにしてこの科学過信思想を目醒めさせるかという事であるが、
その方法こそ科学で不可能である事を、可能なる事実を示す事である。
すなわち科学以上の超科学であって、それには偉大なる力を要する。
もちろん既成宗教の教祖、聖者、偉人くらいの力では到底及ばないどころか、空前の絶対力すなわち神力である。
私はその力を神から与えられたのであるから、この力を自由に駆使して科学以上の科学、宗教以上の宗教すなわちX的力であり、
これによって新文明を創造するので、これが地上天国の樹立である。」
明主様御教え 「新世界の誕生」 (昭和27年7月30日発行)
「我メシヤ教は宗教ではなく、宗教はメシヤ教の一部であるのは、常に私の唱えているところであるが、
では一体どういう名称ならピッタリするかというと、標題のごとく新世界建設事業という名が合っていると思う。
しかしこれでは何だか土建屋の看板みたいだから、今のところメシヤ教と呼ぶより仕方があるまい。
そうしてまず本教の企画であるが、それは現在の唯物科学と唯心科学を並行させ、文化の進歩発展を図る事である。
御承知のごとく今までは科学文化が非常な速度で走りつつあり、現在も走り続けているに対し、唯心文化である宗教の方は、兎に対する亀である。
数千数百年以前文化がまだ幼稚な時代に生まれたままで、ほとんど進歩はなかったため、ついに千里の差を生じてしまったのであろう。
その結果として、今日科学のみがクローズアップされ、霊的の方は眼に入らないまでに遠くなってしまったので、ついに霊を無視し、科学のみを文化の全体と思い込み、
人間は科学の王者の前に跪(ひざまず)き、奴隷に甘んじているので、これが現在の世界の姿である。
何よりも貴重なる人間の生命でさえ安心して、科学の掌中に委ねているではないか。
ところが事実科学では生命の安全は保証出来ないにかかわらず、それに気が付かず、相変らず盲目的に信頼しているのが現代人の考え方である。
そこで神はその迷言を哀れみ給い、私をして現在それを教えているのである。
すなわち生命は物質には属しない事、生命は眼に見えないだけで、厳然たる存在であって、神の支配下にあるものである事を事実をもって示されているのである。
事実とは唯物医学で駄目と断定された者が、ドシドシ神力によって治されている。これが何よりの証拠である。
これについて考えなければならない事は、それではなぜ今日まで生命に関する程の重大問題が、不明のままであったかという疑問であるが、これも無理はない。
そこでこの事を想像してみると、科学文化をある程度まで進歩させる必要上そうされたのであって、これも神の経綸で、過渡期における一時的現象である。
それに対して神はその行き過ぎを訂正すると共に、唯物科学の分野と唯心科学の分野とをハッキリさせ給うので、
これによって唯物唯心の科学は、歩調を揃えて進歩し発展し、ここに真の文明世界が生まれるのである。
一言にしていえば現在の旧世界は、ここに終りを告げ、新しき世界が造られるのであるから、私の仕事はその産婆役といってもいい訳である。」
明主様御教え 「神中心の世界」
「これは今更言うまでもないが、昔から人を救おうとする方法としては、宗教では経文、御説教を主としており、
宗教以外としては倫理、道徳、教育等で、これは誰も知る通り、
そのいずれもが文字と言葉だけで、昔はそうでもなかったが、今日はそれ以外ほとんどないといってよかろう。
ただその中で宗教だけは理屈以外、目に見えない霊的働きすなわち奇蹟もあるが、それとても今日は余程少なくなったようである。
しかしともかくこれが魅力となっており、相当尊敬を払われる訳でもある。
ところがこの宗教的奇蹟にしても、その教祖在世中は人々の耳目をそばだてる程の奇蹟もあった事によって、その宗教の基盤も出来た訳だが、
教祖昇天、入滅後、年を経るに従い教線は漸次衰え、現在見るごとき形骸を残すのみとなったのであろう。
特にそれに拍車をかけたのが、何といっても科学の勃興である。
それまで欧羅巴(ヨーロッパ)各国は固より、東洋特に日本においても、相当宗教は一般からの尊信を集め、
神官は別としても、僧侶などは時の権力者と結び位階を与えられ、社会的にも特殊待遇を受けていたのである。
それが明治維新を契機として、以後は国家が神道を重視するようになり、廃仏毀釈などもあって、
仏教の勢威は漸次下り坂になり、寺院の寂れ方は著しく、
しかも終戦後は国家やその他の援護も絶えたと同様で、現在は気息奄々(えんえん)たる有様である。
それもこれも科学の影響による事の大であるのはもちろんで、その中で最も有力なものとしては学校教育であろう。
何しろ国民教育は科学を主眼とし、宗教などは全く顧りみられず、
教育即科学といったように国民全体は子供の時から無神思想を方針として教育されるのであるから、宗教の沈滞も当然である。
そのような訳で、以前は人間の心の寄りどころとなっていた宗教も、科学教育に踏み躙(にじ)られた結果、
それに付随していた中国の道徳も、印度の仏教思想も影のごとく、
今日ようやく命脈を保っているにすぎない有様である。
つまり科学の素晴しい発展は精神面のあらゆるものを押潰してしまったのである。
そのため無神思想が指導的精神となり、知識人はそれを追うて得々しているのが現在の世相である。
しかしこうなるのも時勢の成行で致し方ないが、ここで考えねばならない事は、この無神思想こそ実は邪悪の母体である事である。
今日すばらしい発明発見が悪に利用され、反って人類に不幸を与えているのも、その結果に外ならないのである。
とはいうものの文化の進歩によって暴力や政治的不合理は、昔からみると大いに減ったのは認められるが、
悪そのものが減らない以上、平和幸福な文明世界は前途遼遠であろう。
何よりも事実が示している通り、戦争・病気・貧困・犯罪等々、不幸の原因はいささかの減少も見られないのである。
そうして文明とは言うまでもなく、人類生活が改善され向上される世界であるべきである。
ところが依然として前記の状態で何ら希望なき人生としたら、
一日も早く精神的一大革新の烽火(のろし)を挙げ、世界悪を焼尽すべき破天荒的一大力が出なければならない。
それが見込みないとすれば、人類も輝かしい希望の夢は棄てなければなるまい。
そこで私が行わんとする革命は、今日までのような国家的民族的というような局限的のものではなく、世界的国際的大規模なものである。
もちろん、このような企画は人間業では到底出来るものではない、
どうしても神の力でなくては駄目に決っている、
といっても今までのような神の力でももちろん不可能である。
何となれば歴史上すでに試験済であるからである。
としたら、未だ嘗て顕現され給わなかった最高最貴の万能の神であり、人類待望のキング・オブ・キングスであらねばならない。
これによって善神の勝利となり、ここにいよいよ神中心の真新文明世界出現の段取となるのである。
かくのごとき偉大なる経綸こそ大奇蹟であって、本教が素晴しい奇蹟を無限に現わしつつあるのにみても、本教の生まれた理由は分るであろう。」
明主様御教え 「哀れなるものよ汝の名は文化人なり」
「この題を見た文化人は吃驚し、昂奮(こうふん)を禁じ得ないであろう。だがまあ落ついて次を読まれたい。
私は印度の有名な故ラヴィンドロナート・タゴール翁の煉瓦(れんが)の文明という、文明否定論の思想はもっていない事を断わっておく。
否むしろ文化をしてより発展する事を念願とするものである。
私の言わんとするところは、端的にいえば、幸福の伴う文化の進歩発展である。
ところが今日これだけ文化が進歩しても肝腎の幸福が伴わない事は何人といえども否定は出来まい。
まず第一絶えず戦争の脅威に晒(さら)されている。
現に今、第三次世界戦争がいつ勃発するかしれないという危機を孕(はら)んでいる。
見よ欧州においては、ベルリンを中心として一触即発の現状であり、東亜においては、中国における政府軍の敗退と、中共軍の進出の将来への脅威、朝鮮は固より中央アジア方面にわたって到るところの燻(くすぶ)りである。
飜(ひるがえ)って内に眼を向けてみよう。
政治家や要路人の次から次への小菅(こすげ)行き、食糧難、労働問題、ストの頻発、悪質犯罪の激増、徴税の苦悩、病者の氾濫等々、
数え上げれば内外共にどこに幸福を見出せるであろうか、
全く人類は病貧争の三大災厄の坩堝(るつぼ)の中に呻吟(しんぎん)しているといっても過言ではあるまい。
人類特に文化人誰しもの考えは、文化を進歩させる事によってのみ人間の幸福は増すものと思われている。
ところが現実においては更にその曙光(しょっこう)だも見出し得ないのであるーという事は実に不思議である。
むしろ逆に益々深刻になりつつあるというのが事実である。
従ってこの欠損的文化(註 この「欠損」の文言は原文と異なる)に活を与え、文化人に幸福の何たるかを教えその希望を満さしめんとするのが吾らの目的であって、暗夜に彷(さまよ)える小羊の群に、光明を与えんとするのである。
それにはどうしても宗教文化を発展させる、それより外に方法のない事を断言するのである。
哀れなるものよ 汝の名は文化人なりという言葉をして「幸福なるものよ 汝の名は文化人なり」という定義と置き替えなければならないと思うのである。」
明主様御教え 「世界救世教奇蹟集 序文」 (昭和28年9月10日発行)
「この著は科学に対する原子爆弾であり、現代人に対する啓蒙書であり、天国の福音でもある。
今その理論を説くと共に、裏付けとして我救世教における数多くの奇蹟中から、百二十例(省略)を選んで載せてあり、
これを読むとしたら余りの超現実的なものばかりで、直ちに信ずる事は出来ないであろう。
何となれば古往今来これ程素晴しい奇蹟が多数ある例はなかったからである。
そうして昔から宗教に奇蹟は付物とされているのはあまねく知られているが、
その眼をもって見ても本教奇蹟の余りの不可思議さに到底理屈はつかないと共に、
その一つ一つが体験者自身の手記である以上、一点の疑う余地はあるまい。
としたら日本の一大誇りとして、一日も早く全世界に発表する義務があると思うのである。
しかもこの事は二十世紀後半、今日まで何人も夢想だもしなかったところの一大驚異であり、
これが私という一個の人間を通じて行われるとしたら、実に神秘以上の神秘といってよかろう。
と共にそこに深い意味がなくてはならないはずである。
ではその意味とは何かというとこれこそ宇宙の主宰者たる主神の御目的の一つの現われであって、
その理由としては現在の文明に一大欠陥があり、それが文化の進歩に甚大なる障礙(しょうげ)となっている以上、
これを根本的に除去しなければならないからである。
何よりもこれ程文化が進歩発達したにかかわらず、人間最大の欲求である幸福はそれに伴わないのみか、
反って不幸は益々深刻になりつつある現状である。
ではその欠陥とは何かというと、これこそ科学至上主義であって
現代人が科学によらざれば何事も解決出来ないとする科学過信というよりも科学迷信に捉われている事である。
ここにおいて神はこの迷信を徹底的に打破し、真の文明のあり方を私を通じて教えるのであって、これも全く時の然らしむるところである。
もちろんこの迷信発生の動機こそ、見えるものを信じ見えざるものは無とする唯物一辺倒の考え方に外ならないので、
この誤った考え方を是正し、今日まで不可視とされていた霊なるものの実在を認識させるべくその方法としての唯一なものが奇蹟である。
ここで重ねて言いたい事はもし唯物科学が真理であるとしたら、
これが進歩するに従い人類の苦悩は減り、幸福は増さねばならないはずであるのに、
現実はその反対であるとしたらここに疑問が生ずる。
なるほど絢爛(けんらん)眼を奪う文化都市、交通の至便、進歩的生活、
一切の機械化等々唯物的には確かに幸福は増したに違いないが、
肝腎な精神的幸福は零でしかないのが事実である。
とはいうもののこれも深甚なる主神の経綸であって、今日まではそれでよかったのである。
すなわち神の御目的である理想世界を造るには、その条件としてまず物質文化をある程度発達させなければならないからで、それには唯物観念が必須であったのである。
今日まで治乱興亡限りなき人間争闘の歴史も、人類が経験し来ったあらゆる苦難も、そのためであったのは言うまでもない。
しかしこの事は無限ではない。
いつかは是正される時の来るのは必然であって、それが今日であるから、
唯物科学は最早二義的存在となり、唯心科学が一義的存在に転化するのである。
右のごとく唯物、唯心の両科学が霊主体従の法則に従い歩調を共に前進する事こそ平和幸福の文明世界を生むべき根本真理である。
換言すれば宗教と科学が一致する時代でもある。
それには何よりも霊の実在を認識させる事であるから、その手段としての奇蹟であり、
その担当者としての私という事が分って貰えばいいのである。
そうして次に言いたいのは宗教史上顕著とされている彼のキリストの奇蹟である。
盲の眼を開き、足蹇(なえ)を立たせ、悪人から鬼を追い出し、集った数十人の信徒に水を葡萄酒に化して飲ませた事なども、
葡萄酒の件だけは後世誰かが作ったものであろうが、その他はもちろんあったに違いない。
ところが本著にあるほとんどの奇蹟はキリストと同じ程度か、
それ以上のものさえあり、そのことごとくが私の弟子が現わすのである。
としたら正直にいって実に歴史を覆えす程の大問題であろう。
またキリストのいわれた「世の終り」とはこの唯物文化時代の終りであり、
ついで「天国は近づけり」の予言は、今や生まれんとする高度の文化時代を指したものであろう。
従ってこの事が信じられる人にして、真の幸福人たり得る事は、何ら疑うところはないのである。
私はこれ以上かきたいが、それでは純宗教書になるからこの辺で止めておくとして、
この意味において読者は本教を目す場合、従来の宗教観を捨て宗教以上の超宗教として遇せられん事である。
(この著は英訳して全世界に頒布するつもりである)
昭和二十八年五月 編者識」