真理について 2


明主様御教え 「真善美」 (昭和28年9月25日発行)

「吾らの理想とする地上天国とは、真善美完き世界であるのはいつもいう通りであるが、私はこれを一層掘下げてみようと思う。

それには順序として真からかいてみるが、

真とはもちろん真理の具現であり、真理とは事実そのものであって、

一厘の毫差なく、不純不透明のない正しいあり方を言うのである。

ところが今日までの文化においては、真理でないものを真理と誤り、真理と扱われて来たのであるから、

真理ならざる偽理が余りに多かった事実である。

にもかかわらずそれに気が付かないというのは、低い学問のためであったのは言うまでもない。

何よりも現在の実社会を見ればよく分るごとく、ほとんどの人間は生きんがためただアクセクと働いているばかりで、

そこに何ら希望もなく生きているだけの事である。病の不安、生活難、戦争の脅威の中に蠢いているにかかわらず、

口を開けば進歩した文明世界といっているが、厳正に見てほとんどの人間は獣のごとく相争い、啀(いがみ)合い、衝突を事として、不安焦躁の渦巻の中に喘(あえ)いでいる様は地獄絵巻である。

これこそ前記のごとく偽真理文化の結果である。

これに対し識者でも気が付かず、文明世界と信じ、讃美しているのであるから哀れなものである。


例えば病気にしてもそうだ。医学が真理に叶っていないからこそ、どこを見ても病人はウヨウヨしている。

ヤレ結核、ヤレ赤痢、日本脳炎、脳溢血、小児麻痺、何々等数え切れない程病気の種類の多い事である。

しかもこの逃口上としていわく、昔も色々病はあったが医学が進歩していないため発見が出来なかったが、今日は発見が出来るようになったからであるとしている。

それはそれとして、吾らが希うところは病人が減り、健康人が増えればいいので、ただそれだけである。

見よ現代人の病気を恐れる事はなはだしく、そのため当局も専門家も衛生に注意し、予防に懸命になっているが、滑稽なのは予防注射である。

これこそ病を治すのではなく、単なる一時抑えにすぎないというように医学は一時抑えと根治との区別さえ分らないのである。

もっとも分っても治病方法を知らないから止むを得ないが、

しかも医学は病気は健康を増すための神の摂理などはテンデ分らないから、

抑える事のみに専念し、これが進歩であると思っている。

しかも抑える手段が病原となるなどテンデ分らないので進歩すればする程病気が増えるのは見らるる通りである。

見よ益々病人が増え、体位が低下しつつある事である。

そのため疲労や睡眠不足を恐れ、根気なく無理が出来ず、少し過激な運動をするとたちまちヘタバってしまう。

滑稽なのは健康のための運動奨励である。

ところが事実はスポーツマンの早死や、米国のスポーツマンが、近頃は黒人系の選手には到底敵わない事実であって、これはどうしたものか実に不可解千万ではないか。

ところが本教が唱える病理を守り、浄霊を受ければ病魔は退散し、真の健康人となるのは事実が示している。


次に今度は善についてかいてみるが、善とはもちろん悪の反対である。

では悪とは何かというと、これこそ唯物思想から発生した無神論が原因であり、

善はその反対である有神論からの発生で、これが真理である。

ところがこの真理である有神論を否定する事が科学の建前であるから、

科学が進歩する程悪は益々増えるのみか文化の進歩といえど上面(うわつら)だけの事である。

というように科学が作る功績も認めるが、科学が作る悪も軽視出来ないのである。

それに気付かない人間はプラスのみを讃美し、マイナスの方は巧妙な理論を作って指導階級を虜(とりこ)にし、

科学によらなければ何事も解決出来ないというように精神的幸福とはおよそかけ離れてしまったのである。


次は美であるが、これがまた問題である。

なるほど文化の発達につれて、美の要素は大いに増し個人的には結構であるが、大衆はそれに預り得ないのである。

見よ一部の特殊階級のみが美衣、美食、美邸に恵まれ、庶民階級はやっと食っているにすぎない有様であり、

美どころではない、腹を充たすだけの食物、寝るだけの住居、往来(ゆきき)するだけの道路、

押し合いへし合い、ようやく乗れる交通機関(これは日本だけかも知れない)があるだけである。

このような訳でせっかく神の大なる恵みである山水草木、花卉類の自然美は固より、人間が作った芸術美等も楽しめない社会である。

というようにこれ程文化が発達しながら、人類全体がその恩恵に浴せないとしたら、

現代は全く金持の天国、貧乏人の地獄である。

この原因こそ文明のどこかに一大欠陥があるからで、その欠陥を是正し公平に幸福が享有されてこそ真の文明世界であって、これが我メシヤ教の使命である。


以上によって真善美の真の意味は分ったであろうが、要はその実現力である。

絵にかいた餅や御題目だけでは何にもならない。

ところが喜ぶべし、いよいよその夢が現実となって今やこの地上に現われんとするのである。」




明主様御教え 「真理と非真理」 (昭和24年7月20日発行)

「昔から真理という事は誰も言うのであるが、非真理すなわち偽理という事は言わないようである。

ところがあらゆる実際問題を解釈するに当ってこの真理と偽理との区別のある事を知らなければならない。

それによって結果に良否があるからである。それらについていつも観察する場合、偽理を真理と誤っている事がすこぶる多いので、ただ一般はこれに気がつかないだけである。

偽理と真理は、宗教にも哲学にも科学にも芸術教育にもあるのである。

何事についても偽理は数年、数十年、数百年にして崩壊するが、真理は永久不変である。

何か新しいものを発見した当時、世人は無上の真理と信ずる事も、新学説が出たりしていつかは崩壊する事も多い。

それと同じように、大宗教といえども何百何千年の時を経てから消滅しないと誰か言い得よう、

といっても全然消滅する事もなく、偽理の部面だけが消滅し、それに含まれている真理の部面だけが残される事ももちろんで、

よし残るものはないとしても文化の進歩の一段階の役割は果たした訳であるから非難の的とはならない。

そうして偽理であっても真理に近いもの程長年月の生命があり、遠いものほど短命に終るのも当然の話でちょうど人間の寿齢のようなものであろう。

本当からいえば、この真理と偽理との正しい判別をする事がその時代の識者または先覚者の領分であるに関わらず、そういう超凡的識見を有する者は洵(まこと)に少ないのは事実である。

しかしながら偽理であっても相当長く続く事もある。

専制政治や封建思想なども偽理を真理として扱われた事で、早い話がムッソリーニのファッショ、ヒットラーのナチス、東条の八紘一宇(はっこういちう)なども洵(まこと)に短い運命ではあったが、それは偽理であったからである。

このように偽理であっても一時はその民族をして真理と思わしめ、生命をまで軽く扱われたのである。

このような偽理を真理と錯覚のまま犠牲となり終った数多くの気の毒な人達を、吾らの記憶にまざまざと残っている。全く偽理の恐ろしさが知らるるのである。

偽理と真理については、宗教に多い事も見逃せない事実である。

群小幾多の宗教が出でては滅び、初期は華々しいものであっても、数十年を出でずして跡方もなくなるものもあるが、全く偽理宗教であったからである。

ゆえに真理と同様の価値ある宗教である限り、一時は強力なる圧迫を蒙るといえどもいつかは必ず起上り、大宗教となる事は、現在在る大宗教をみても肯かるるであろう。」




明主様御教え 「天国の福音 総結論」 (昭和22年2月5日発行)

「私はこの著述によって、まず人間幸福の源泉たる健康の問題解決と、病無き世界建設の可能を説くと共に、貧乏及び争闘の絶滅をも説いたのである。

しかも右のよって来る根源は霊界に在り、霊界よりの解決こそ目的完遂の真諦(しんたい)である事の原理をも説示したのである。

そうして出来るだけ理論を避け経験と実例とを基礎とした事によって、読者はある程度の概念を得、多少の希望と安心感を得られたであろう。

そうしてこの著述によっても明らかなるごとく、私の真目的は旧世界と新世界、つまり夜の世界の終りと昼の世界の開幕という空前の転換期に当って大方は滅ぶべき運命の下に置かれている人類二十億を可能の限り救わんとする念願である事に対し、読者は満腔(まんこう)の賛意を表さるるであろう。

また私は医学革命以外、来るべき新世界において、人類の理想たる地上天国出現のための設計的役割をも果さんとするものである。

右の意味において、私が提唱する言説と、その実行するところのものは科学にして科学に非ず、宗教にして、宗教に非ずして、実は科学でもあり宗教でもあると共に、

政治にも経済にも教育にも道徳にも芸術にも関連しているのである。

それらあらゆる文化面が夜のそれであったものが、不用なるものは滅ぶべく、有用なるものは残存し、新たなる文化が近く生まれんとする事を、私は予言するのである。

最近一部に唱えらるる世界連邦説もその一の顕われであろう。

新世界における宗教、政治、経済、教育、芸術等あらゆる文化工作に関する私の新説は、やがて発表する考えである。

もちろんこれらの事も医学と同様、前人未発的である事は言うまでもない。

地上天国建設というがごとき空前の事業に対しては、空前の構想が樹(た)てられなければならないであろう。

キリストはいった。「天国は近づけり、悔改めよ」と、また釈尊は言った。

「仏滅後、弥勒世界が出現する」等の予言こそは今や如実に生まれんとして、その陣痛苦の中に全世界は置かれているのである。

因みに、本著書は英文及び中国文訳も近く出版の予定である。」




明主様御教え 「万教帰一」 (昭和11年1月25日発行)

「今まで種々な宗教がありますけれど、それらは大変間違いがあるんで、

それは神様が、世界経綸の上において、本当の事を発表する事が出来なかったんであります。

その為に、いくら一生懸命になっても、本当の事が判らない。

判らないから種々と迷いが起り、迷いが起るから、人間社会が良くならなかったんであります。

要するに人類は、今まで真実の事を知らされなかった。

宗教の教義や聖典などは、仮りであって、いわば、仮定的の教なり説だったんであります。

それで今まで、お釈迦様以来の聖者、又は偉人等が種々と説かれたりしても、駄目であった。

実は今までの聖者や偉人と言われた人達も死ぬまで本当の事が判らずに、実は迷って死んだのが大部分であります。

達磨のごときは、面壁九年も苦念して、悟りを開いたという話がありますが、

その悟りを得たというのは、どこまでか判らないので

一番奥を知ったのがお釈迦様でありますが、

それでも経文の中には、本当の事は説いてなかったのであります。


今までに、大小種々の教が出、今なお、新宗教が簇出(そうしゅつ)していると言う事は、

要するに本当の教が出なかったからで、

絶対的価値ある教が出たとすれば、種々な説や教が出る余地はない訳であります。

例えば、病気の薬にしても、後から後から種々出来るというのは、

つまり前の薬が治らないからで、

本当に治る薬が出れば、それで解決するから、最早、新薬は出る余地がない訳であります。

又種痘であります。これが発明されて以来、決して新しいものが出来ないというのは、あれ一つで解決してしまったからで、

教えにしても、本当のものが出れば、その教一つになってしまうんで、

八宗九宗あらゆる教というものは、存在の意義がなく、又新宗教の出現の余地もない訳であります。

何宗とか何教とか今以て沢山あるのは、絶対のものが無かった証拠であります。

そしてモ一ツ不思議な事には、今まで観音宗の本山とか、観音教とかいうものは無かった事であります。

これが神様の深い経綸であって、それは、将来あらゆる宗教を綜合統一する準備だったんであります。


今度いよいよ観音の教えが、教えと言っては当らない。

実は観音力が出る訳なんで、それでいよいよ、観音力に依って、万教帰一の時が来たんであります。

従って、観音様の教えというものは、教えとしては極簡単なんで、

この前も太陽のお話をしましたが、太陽なんであります。


先刻も清水さんから言われました。

三五(あなない)の月が隠れて、今度は、東方の光が出るという事は、

夜の幕が閉じて、昼になるという事です。

これを世界に準(なぞら)えてみますと、

三五の月、即ち月とは西方文明になるんで、東方の光が出ると、

西方文明が清算されるという事になるんであります。

今までの教えは、まず一番親玉としては仏教であります。

その経文は、実に大したもので、八万四千もあるんでありますが、

前から私は、あれ程沢山書かなくってもよさそうなものだ、

あんなに沢山書いたから誰にも悟れなかったんで、

悟れないから、多くの人が迷ったのであります。


真理というものは、極めて簡単であるべきで、

簡単でなくては、最大多数者は救われるはずがないではありませんか。

それでは、なぜ沢山の文字を使わなければならなかったかと言うと、これを光でたとえてみましょう。

蝋燭(ろうそく)で明るくするには沢山に灯を点けなければ明るくならない。

一部屋を明るくするには、何十本も点けなければならない道理で、

お経とか、バイブルとか、その他種々の聖典が、沢山文字を使ってあるのはそういう訳であります。

又仏典や聖書の文章が頗る難解である。

これも不思議であります。

滑稽なのは難解だから有難味が有ると言うのです。

諸君、たとえてみれば、芝居を観て筋が分らないから面白いと言う人がありましょうか、

もしあったら、その人は、精神異常者でありましょう。それと同じであります。

太陽の出るまでは、薄暗くとも、蝋燭や電灯を沢山点けて我慢するより仕方がないのであります。

所が観音会は至極簡単で、ただ太陽に向えばいいんであります。

家を明るくするには、ただ戸を開ければよろしい。

人間ならば心の窓を開ければいいんであります。

昔は先刻岡庭さんの壷坂の沢市のお話がありましたが、

今までは、あれ程に一生懸命になって信仰しなければ、御利益は戴けなかった。

今日の観音会のごとく、僅か一円五十銭で頂いたお掛軸を拝めば、よく病が治るんでありますから、

実に結構な時節になったんであります。


二三日前に、私の家へ、ある婦人が来られ、二階へ上って来て言われるには、

「先生、下に懸っているお観音様は、生きておられますね。」と言われ、

「拝んでると、観音様の御姿から、光明が発すると同時に、

最初眉毛を動かされ、次に眼をパチパチさせられ、

次に口を開けて御笑いになる。そうして、立ってるお観音様が歩き出されたんで吃驚しました。

右の方へ歩いて行かれると、又元の所へ戻られる。

昔の話に左甚五郎の彫ったものが生きて歩いたとか、飛んだとか言いますが、全く嘘じゃないのですね」とこういう話をされたんであります。

それで私は、それはそうだ、描いたお観音様が、それ位でなかったら、

世界中を救うという事は出来ないではありませんか、と言ったんであります。」




明主様御教え 「暗中模索」 (昭和10年9月15日発行)

「今日までのあらゆる聖典、即ち経文、聖書、御筆先等の著述を読む人は、誰しも気付くであろうが

そのいずれもが、いかにも曖昧模糊としており、謎のごとく、不可解極まるものが多い事実である。

しかるに、それを誰も、今日まで怪しむ者がなかったのみならず、

はなはだしきは、解らないから有難いのだ、なぞと言うに至っては、まことに滑稽千万である。

それは人類が、一種の宿命的心理作用に捉われ切ってしまって、

賢哲や、聖者の遺文聖典は、無批判的に盲目的、絶対真理と決めてしまってかかるという、妙な癖からである。

経文にも、バイブルにも、真理に外れた個所は、随所にあるのであるが、それを見破る人がなかった。

それは、実に不思議な事であった。彼ら聖者達が言った中にも、誤れる言葉がある。

それを、後世の人間が無理に真理付けて、有難がって居たという事は、実に、馬鹿馬鹿しい事であった。

こんな事を言えば狂人のような大胆さを嗤(わら)うであろう。

しかし、私は断言する。もし、聖者達が言った事が、全部真理であったならば、

人類はもっと救われて居るべきで、地上天国は、すでに出現していたかも知れなかったのである。


釈尊は、仏教の真髄は真如だと言った。

真如とは、真の如し、即ち、真理のごときものであって真理そのものではないという事である、

いわば、真理が現われるまでの、仮定的、第二義的のものであったという意味である。


又、あらゆる聖典の文意たるや、実に恐ろしく明瞭を欠いている。

いずれにも意味がとれ易く、謎的寓意的で、不必要な、諒解し難い文句や、あらずもがなの蛇足に満ちている。

なる程、驚嘆すべき名文も、太陽のごとき真理も、珠玉の名句も、多々あるにはあるが、

それにも増して、不必要な文字の羅列が、余りにも多過ぎる事である。


各々の宗教が、年を経るに従って、幾宗にも、何十派にも分裂するという事は、何が為であるか、それは、経典の不徹底に基くが為である。

明々白々、一点の疑いを挿(さしはさ)むべき余地がないように、説かれてあれば、何ぞ、迷いの生ぜんやである。

見る人各々によって、幾種にも解釈が出来るような説き方であるから、幾何派にも分裂するのであって、当然過ぎる話である。

仏典の要諦も、バイブルの真実も、二千有余年間、幾万の人が努力したとても、未だに真底の秘義を把握出来ないでいる。

科学でさえ方程式が有るではないか、

故に学者も、政治家も、教育家も、商人も農民も、あらゆる大衆がみて以て、

簡明直裁に、天地の真理を把握して、いささかの迷いも生じ得ないという経典こそ、

真の救世的、大威力を有ったものである。」 (「病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何?」より)




明主様御垂示 「真理について」 (昭和24年3月1日発行)

信者の質問
「真理について。」


明主様御垂示
「これは一概に言えない。真理はその人の見方と立場によって異う。

神からご覧になるのと人が観るのと違うし、神でも上中下の位があるから、下位の神の見らるる真理と、最高の神の見らるる真理とはまた大いに異うのである。

人間が真理と信じていることで、神から見て逆理のことも往々ある。

森羅万象のいっさいとその動きは真理ならざるはない。

なんとなれば万有全体の上に座す神としては、その全体が御自分のものであるからである。

またいっさいを二つに分けると、その各々の真理は陰陽相対的に異ってくる。

その二つのものがそれからそれへいくつにも分かれるに従ってそれぞれ異ってくる。

要するに小さく考えるのと大きく考えるのとでも異ってくるのである。


人類社会における真理、それはどうしても正しいことを基本にしなくてはならない。

宇宙の真理とても善を主に動いているからである。

もし悪を真理とするとすれば、人類社会はすでに崩壊しいっさいは滅亡していたはずである。

そうならないで現在のごとく栄えているのは、少しずつでも正が勝っていることを証拠立てている。

これによってみても善が栄えるのが真理であるということに帰着するのである。


しかしながら人類社会に善なる者のみで、悪なるものがなかったならば今日のごとく文化は発達し得なかったのである。

悪があって善の活動を妨げたり苦しめたりすることによって善の力を強め、その進歩を促進せしめたのである。

以上は大乗的な説き方であってある程度の覚りを開いた人に説くのは差し支えないが、

小乗的な人にはその真理は解し難く、誤解を招くおそれがあるから注意すべきである。」




明主様御垂示 「真理を探究することは良い」 (昭和24年4月4日)

信者の質問
「真理は発見さるべきでしょうか、発明さるべきでしょうか。」


明主様御垂示
「これは問題になりませんね。真理の発明なんてありませんよ。

よく、真理の探究って言いますが、あれがいいんで探り究めるんです。

真理ってのは永久不変のものです。一万年前だって、十万年前だって変わってませんよ。

そしてその真理を探究するってのはいいことですよ。

一つでもよけいに知るのは結構ですよ。


ただ気をつけねばいけないのは、真理でないものを真理と間違えることですよ。

一番の真理ってのは太陽が東から出るってことですよ。

これには一点の間違えもありませんからね。

人間が生きるってのも真理ですよ。

また、眼で物を見、鼻で匂いを嗅ぎ、舌でしゃべる、これも真理です。

こんなことは判りきってますがね、この判りきったことが真理なんですよ。

反対にややっこしいことは真理ではありません。

あのマルクスの「資本論」なんてとてつもなくややっこしいもんですがね、あんなものは真理ではありませんよ。

ややっこしくするのは真理でないものを真理であるように見せかけようとする技巧ですよ。

仏教のお経も、とても長ったらしいややこしいもんですが、あれだって真理は少ないんです。

そこで「真如」って言うんです。真の如しですからね。

真理のようなもんで実は真理じゃないってことですよ。

だから、仮の娑婆、仮の世って言うでしょう。

あるいは、一切空とか空々寂々ってね。

そりゃあ真理でなけりゃ空ですよ。(笑声)

実相って言うのが本当で、真如ってのは一時的の仮のものですよ。

よく八万四千の経文って言いますがね、あれなんかも真理じゃないんですよ。

真理ってのは簡単なもんですよ。

御浄霊で病気を治しますね、これは真理ですよ。

あらゆるものは火、水、土の力に関係のないものは一つもないんですからね。

そしてこの御浄霊は火、水、土の力ですからね。」




明主様戯文 「寝 言」 (昭和10年代御執筆)

「宗教宗教というが一体どこにあるんだ。

仏耶を初め、宗教じゃない、宗教に似たものだ。言わば類似宗教だ。

なぜなればどれもこれも、人類を救う力なんか、テンデありはしない。

否、御自分達さえ救われっこはないではないか。

御本尊の釈尊でさえ仏法の真髄は真如と言った。

これは真理ではない、真理の如(ごと)きものであった。

しかし、真の宗教は生れないはずはない。

しかしそれはこれからなのだ。」