伊藤 若冲

伊藤 若冲
 
正徳6年2月8日(1716年3月1日)
寛政12年9月10日(1800年10月27日)
 
江戸時代中期の京にて活躍した絵師。
名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。
初めは春教(しゅんきょう)と号したという記事があるが、
その使用例は見出されていない。
 
斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)とも号す。
 
写実と想像を巧みに融合させた
「奇想の画家」として曾我蕭白、長沢芦雪と並び称せられる。
 
正徳6年(1716年)、京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」の長男として生を受ける。(家名と併せて通称「枡源(ますげん)」)
 
問屋の仕事は小売ではなく、
生産者や仲買・小売の商人に場所を提供して販売させ、
彼らの関係を調整しつつ売場の使用料を徴収する流通業者である。
 
桝屋は多数の商人を管轄していたらしく、
商人たちから場所代を取れば十分な利益を上げることが出来たという。
 
23歳のとき、父・源左衛門の死去に伴い、
4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名する。
 
「若冲」の号は、禅の師であった相国寺の禅僧・大典顕常から与えられたと推定される居士号であり、『老子』45章の「大盈若沖(冲は沖の俗字)」から採られた。
 
意味は「大いに充実しているものは、空っぽのようにみえる」である。
 
大典の書き遺した記録「藤景和画記」(『小雲棲稿』巻八)によると、
若冲という人物は絵を描くこと以外、
世間の雑事には全く興味を示さなかったという。
 
商売には熱心でなく、芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶らなかった。
 
商人時代、若冲は家業を放棄して2年間丹波の山奥に隠棲してしまい、
その間、山師が枡源の資産を狙って暗躍し、青物売り3千人が迷惑したという逸話が残る。
 
ただし、この逸話は後述する錦市場に起こった事件と共通する記述が多いことから、事件を元に後世に作り変えられた話だと考えられる。
 
齢40となった宝暦5年(1755年)には、
家督を3歳下の弟・白歳(宗巌)に譲り、名も「茂右衛門」と改め、
はやばやと隠居する(当時、40歳は「初老」であった)。
 
宝暦8年(1758年)頃から「動植綵絵」を描き始め、
翌年10月、鹿苑寺大書院障壁画を制作、
明和元年(1764年)には金刀比羅宮奥書院襖絵を描く。
 
明和2年(1765年)、
枡屋の跡取りにしようと考えていた末弟・宗寂が死去した年、「動植綵絵」(全30幅のうちの)24幅と「釈迦三尊図」3幅を相国寺に寄進する。
 
このとき若冲は死後のことを考えて、
屋敷一箇所を高倉四条上ル問屋町に譲渡し、その代わり、問屋町が若冲の命日に供養料として青銅3貫文を相国寺に納めるよう契約した。
 
隠居後の若冲は、
作画三昧の日々を送っていたと見るのが長年の定説であった。
 
ところが、明和8年(1771年)枡屋があった中魚町の隣にある帯屋町の町年寄を勤めるなど、隠居後も町政に関わりを持っており、更に錦高倉市場の危機に際して市場再開に奔走していた事が、平成20年(2008年)美術史家にも認識されるようになった。
 
事の発端は明和8年(1771年)12月、京都東町奉行所から帯屋町と貝屋町に奉行所へ出頭するよう通達が来たことに始まる。
 
奉行所に赴くと(若冲は同町の者に代役させている)、
奉行所から市場の営業を認められた時期や、「棒銭」の使い道、
百姓たちの商売許可の有無、などを返答するよう命じられる。
 
早速書類を作成し提出したが、免許状は宝暦5年(1755年)の大火で焼失してしまっては証拠にならないとして、翌年正月15日に帯屋町・貝屋町・中魚屋町・西魚屋町の営業停止の裁定が下される。
 
若冲は奉行所と交渉を続けるなか、商売敵であった五条通の青物問屋が錦市場を閉鎖に追い込もうと謀っていることを知る。
 
そんな折、五条問屋町の明石家半次郎なる人物から「錦市場は五条から役人達に残らず根回しされているから、再開は無理だろう。それでは余りに気の毒だから、帯屋町だけは五条から借り請ける形で営業するなら、私が世話をしよう」と持ちかけられる。
 
明らかな抱き込み工作だが、若冲は帯屋町だけが市立てするような行為は他町に対して不実の至りである、という理由で拒否する。
 
その後の交渉で、2月末に冥加金を年16枚上納することを条件に一旦市場は再開されるものの、五条問屋町が冥加金銀30枚を上納する代わりに錦高倉市場を差し止めて欲しいと請願したことを受けて、7月に再び営業停止になってしまう。
 
東町奉行所に内意を尋ねると、帯屋町一町だけなら許可されるかもしれないと、先の明石屋と同じ内容だった。
 
しかし、若冲はあくまで四町での錦市場存続を模索する。
そんな折、病気を患った若冲が医名の高い原洲菴という人物に薬を買いに行った時、「このまま市場を止められたままでは、町年寄として末代まで汚名を残すことになり、また数千人の人々が難儀する」等と胸の内を打ち明けると、中井清太郎なる人物(未詳)に知恵を仰ぐのを薦められる。
 
諸方に内々に承合うと確かに適任らしいという感触を掴んだため、
中井に仲介を依頼する。
 
中井の打開策は、
市場に関わる農民たちに市場が営業停止になると年貢が納められず、
生活も苦しくなると御上に訴えさせる、そして御蔵がある壬生村に出訴するようまず説得したら良い、というものだった。
 
若冲はその助言通りに壬生村の庄屋に趣旨を話すと、
庄屋も五条では商売が難しいからと賛成する一方、
 
壬生村は100石ほどの小村だから
もっと大きな村からも出訴すれば効果があるのではないか、と助言した。
 
中井もこの意見に賛成したため、若冲は更に中堂寺や西九条村にも掛け合って市場存続の嘆願運動を起こさせた。
 
しかし事態は好転せず、同8月若冲は町年寄を辞任する。
 
これは、いざという時は農民に天領の住人が含まれているのを口実に幕府評定所への出願も覚悟し、町全体まで連座しないように「ヒラ」の町人になって活動するためだった。
 
その後も周辺の村々に参加を呼びかけ、京都町奉行所や近隣の天領を支配する小堀数馬役所らと交渉を重ねる。
 
途中四町の中でも、若冲の帯屋町と弟が町年寄を勤める中魚屋町の2町と、貝屋町・西魚屋町の間では、農民の売立が占める割合が前者に比べ後者では大きくなかったらしく市場再開への対応に微妙な違いがあり、
内外とも調整に難儀する一幕もあった。
 
最終的に3年後の安永3年(1774年)8月29日、
年に銀35枚の冥加金を納める条件でついに市場は公認された。
 
こうした事情のためか、
確実にこの時期に描かれたことが解る作品は殆ど無い。
 
若冲の墓は2つ、上京と伏見にある。
一箇所は相国寺の生前墓の寿蔵。
もう一箇所は伏見深草の石峯寺である。
 
若冲は85歳の長寿を全うするまでに多くの名作を残したが、
晩年、石峯寺の五百羅漢石像(通称:若冲五百羅漢。)や
天井画などの制作に力を注ぎ、没後、同寺に葬られた。
 
のちに枡源7代目の清房が、若冲の遺言に従い、
墓の横に筆形の石碑を立て、貫名海屋が碑文を書いている。
 
伊藤家は幕末の頃に没落し、
慶応3年(1867年)、家屋敷を売り渡して大阪へ去った。
 
『続諸家人物志』(青柳文蔵)には、
若冲が狩野派の画家・大岡春卜に師事したとの記述があり、
大典による若冲の墓碑銘にも狩野派に学んだとある。
 
一方で木村蒹葭堂は、若冲は、鶴沢探山の門人で生写(しょううつし)を得意とした青木言明の門弟だったと記す(『諸国庶物志』)が、それを裏付ける証拠は見つかっていない。
 
現存作品の作風から狩野派の影響を探すのは困難であるが、
一部の図様について、狩野派の絵画や絵本との類似点が指摘されている。
 
前記の墓碑銘によると、若冲は狩野派の画法に通じた後、その画法を捨て、宋元画(特に濃彩の花鳥画)に学び、模写に励んだとしている。
 
さらに、模写に飽いた若冲はその画法をも捨て、
            実物写生に移行したと伝える。
 
実物写生への移行は、当時の本草学の流行にみられる実証主義的気運の高まりの影響も受けていると言われる。
 
また、大典が読書を通じて宋代の画家の写生の実践を知り、
それを若冲に伝えたとも言われる。
 
ほかにも、美術史家の研究により、
明代や清代の民間画工の影響、
特に南蘋派の画僧・鶴亭との類似が指摘されている。
 
山水画・人物画の作品は少ないが、
若冲が尊敬していた売茶翁の肖像画だけは何度も描いている。
 
濃彩の花鳥画、特に鶏の絵を得意とした。
美しい色彩と綿密な描写を特徴とするが、
 
写生画とは言い難い、若冲独特の感覚で
捉えられた色彩・形態が「写生された物」を通して展開されている。
 
代表作の「動植綵絵」30幅は、多種多様の動植物がさまざまな色彩と形態のアラベスクを織り成す、華麗な作品である。
 
綿密な写生に基づきながら、その画面にはどこか近代のシュルレアリスムにも通じる幻想的な雰囲気が漂う。
 
また、当時の最高品質の画絹や絵具を惜しみなく使用したため、
200年以上たった現在でも保存状態が良く、褪色も少ない。
 
「動植綵絵」は、若冲が相国寺に寄進したものであるが、
のち皇室御物となり、現在は宮内庁が管理している。
 
「動植綵絵」と同時期に、若冲はそれとは対照的な
木版画「乗興舟」「玄圃瑤華「素絢帖」を制作している。
 
木版を用いた正面摺りで、
拓本を取る手法に似ていることから「拓版画」と呼ばれる。
 
通常の木版画と逆に、
下絵を裏返しせずそのまま版木に当て、
地の部分ではなく描線部分を彫って凹ませ、
掘り終えた版面に料紙を乗せ表から墨を付ける。
 
結果、彫った図様が紙に白く残り、
地は墨が載った深い黒の陰画のような画面が出来上がる。
 
また、これに更に着色を施した「著色花鳥版画」も六図伝わっている。
 
 
 
 
 

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太古二神  『国生神』

太古二神  『国生神』
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与謝野 鉄幹

与謝野 鉄幹
 
與謝野 鐵幹 よさの てっかん
 
1873年(明治6年)2月26日
1935年(昭和10年)3月26日)
 
日本の歌人。
本名は与謝野 寛(ひろし)。
鉄幹は号。
 
与謝野晶子の夫。
後に慶應義塾大学教授。文化学院学監。
 
京都府岡崎に与謝野礼厳の四男として生まれる。
(現在の京都市左京区)
 
父・礼厳は西本願寺支院、願成寺の僧侶であった。
 
礼厳は庄屋の細見家の次男として生まれたが、
京都府与謝郡(現在の与謝野町字温江)出身ということから、
明治の初めより与謝野姓を名乗るようになったという。
母は初枝、京都の商家の出である。

1883年(明治16年)、大阪府住吉郡の安養寺の安藤秀乗の養子となる。
 
1889年(明治22年)、西本願寺で得度の式をあげた後、
山口県徳山町(現在の周南市)の兄・照幢の寺に赴き、
その経営になる徳山女学校の教員となり、
同寺の布教機関紙『山口県積善会雑誌』を編集。
 
そして翌1890年(明治23年)鉄幹の号をはじめて用いた。
さらに1891年(明治24年)養家を離れ与謝野姓に復した。
 
徳山女学校では国語の教師を4年間勤めるも、
女子生徒(浅田信子)との間に問題を起こし、退職した。
この時、女の子が生まれたが、その子は間もなく死亡している。
 
次いで別の女子生徒、林滝野と同棲して一子・萃(あつむ)を儲けた。
 
1892年(明治25年)、徳山女学校を辞して京都へ帰る。
11月ごろ上京して、落合直文の門に入る。
 
1894年(明治27年)、短歌論『亡国の音』を発表。
1896年(明治29年)出版社明治書院の編集長となる。
かたわら跡見女学校で教えた。
 
同年7月、歌集『東西南北』、
翌1897年(明治30年)、歌集『天地玄黄』を世に出す。
その質実剛健な作風は「ますらおぶり」と呼ばれた。
 
1899年(明治32年)、東京新詩社を創立。
同年秋、最初の夫人浅田信子と離別し林滝野と同棲し、麹町区に住む。
 
1900年(明治33年)、『明星』を創刊した。
北原白秋、吉井勇、石川啄木などを見出し、
日本近代浪漫派の中心的な役割を果たした。
 
しかし、当時無名の若手歌人であった
鳳晶子(のち鉄幹夫人)との不倫が問題視され、
文壇照魔鏡なる怪文書で様々な誹謗中傷が仕立て上げられた。
 
だが、晶子の類まれな才能を見ぬいた鉄幹は、
晶子の歌集『みだれ髪』作成をプロデュースし、妻・滝野と離別、
1901年(明治34年)晶子と再婚し六男六女の子宝に恵まれた。
鉄幹と離婚した滝野はのちに正富汪洋と再婚した。
 
1901年(明治34年)8月、『みだれ髪』刊行。『みだれ髪』の名声は高く、
『明星』における指標となり『明星』隆盛のきっかけとなった。
 
1908年(明治41年)『明星』は第100号をもって廃刊。
 
なお、1921年(大正10年)に第二次『明星』を創刊し、
そして1927年(昭和2年)に廃刊する。
 
結婚後の鉄幹は極度の不振に陥る。
1911年(明治44年)、晶子の計らいでパリへ行く。
のち晶子も渡仏、フランス国内からロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪する。
 
だが、創作活動が盛んとなったのは晶子の方で、
鉄幹は依然不振を極めていた。
 
再起を賭けた労作、訳詞集『リラの花』も失敗するなど、
栄光に包まれる妻の影で苦悩に喘いだ。
 
1915年(大正4年)の第12回総選挙に
故郷の京都府郡部選挙区から無所属で出馬したが、落選した。
 
大正8年(1919年)に慶應義塾大学文学部教授に就任、
昭和7年(1932年)年まで在任し、
   水上滝太郎、
   佐藤春夫、  ←『注』
   堀口大学、
   三木露風、
   小島政二郎、…らを育てた。
 
しかし、1922年(大正11年)の森鴎外の死は
鉄幹にとって有力な庇護者を失うに等しい打撃であった。
 
1921年(大正10年)に
建築家・西村伊作、  ←『注』
画家・石井柏亭、
そして妻・晶子らとともにお茶の水駿河台に文化学院を創設する。
1930年(昭和5年)、雑誌『冬柏』を創刊。
 
1932年(昭和7年)、第一次上海事変に取材した
「爆弾三勇士の歌」の毎日新聞による歌詞公募に応じ、
一等入選を果たした。
 
1935年(昭和10年)、気管支カタルがもとで死去。
 
晶子は「筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我れを愛できと」という悲痛な追悼の歌を捧げた。
 
1895年(明治28年)10月8日に
三浦梧楼ら日本官憲と他の右翼壮士とともに当時の朝鮮王朝の王妃、
閔妃の暗殺(乙未事変)を計画したという説が韓国側から主張されている。
 
これは朝鮮王朝が親露政策により清と日本の圧力を排除しようとし、
それに危機感を抱いた日本が起こしたというものである。
 
当時、朝鮮王朝は、笞刑(朝鮮笞刑令)、
拷問をはじめ前近代的な刑罰、法体系であり、
邦人保護の観点から治外法権となっていたので、
鉄幹は日本に送られ広島の地方検察庁で裁かれた。
 
当時、鉄幹は落合直文の弟、鮎貝槐園とともに
朝鮮の日本人学校、乙未義塾の教師として当地に在留していたが、
事件当日は槐園たちと木浦に出かけていて事件の起きた京城(現・ソウル特別市)にはいなかったアリバイによって免訴となった。
 
実兄・照幢は赤松連城の娘・安子と結婚し、
その子(鉄幹の甥・姪)赤松克麿・赤松常子は政治家となった。
 

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三好 藍石

・・・三好 藍石・・・

天保九年(1838)徳島県池田町に生まれ、
川之江の素封家三好家に迎えられ養子となる。

名は信、字は小貞、通称を旦三といい、
藍石は号であり、金江・螺翁・河江翁ともいう。

三好家は、代々酒造業を営む近郷きっての素封家であり、
彼も詩文・書画を好む学識高い文化人であった。

当家は文人墨客の出入りが絶えず、
当地における文化交流の一大サロンの役を果たしていた。

近くに住む続木君樵もその常連であり、
彼の画業に大きい影響を及ぼすこととなる。

そうした環境で悠々と文人気どりの彼は、
明治初年の激動期、郷党に推され県会議員となり政界に乗り出す。


さらに時代の要請で産業開発にも関心を示し、
製陶・海運・養豚にまで手を出す。

だが、元来は無欲恬淡の文人ゆえ、
政治や実業が性に合わずすべてが失敗に終わって、
さしもの名家も破産という破局を迎えることとなる。

彼が、いわゆる文人画家から脱却、
専門画人としての道を選ぶのはそのころのようである。

先祖から受け継いだ栄誉・資財の一切を失い、
人の世のはかなさ、みにくさをつぶさに味わい、
彼は60歳を過ぎ一流浪の画人として大阪へ出て行く。

その大阪行きをすすめ、奔走したのは
当時宇摩郡長を勤める門人の手島石泉ら多くの門弟たちだという。

以後、彼は在阪20年、
各地の画人と交流、研鑽を深め、
多くの名作を残し、当地南画界の雄として、
彼の生涯で最も充実した画人生活を送る。

大阪南画壇で盛名をはせた彼は、
80歳を過ぎ、郷党や門人に迎えられ郷里川之江に帰り、

城山山麓の小画禅堂(清風明月草堂)に落ちつき、
画禅三昧の老境を過ごし、大正12年(1923)10月20日、86歳で没す。


川之江城山の中腹、彼の寓居小画禅堂のほど近くに、
格調高い石文の「藍石翁寿蔵碑」が門人たちにより生前に建てられ、

また、没後二年の三回忌記念に『藍翁芳跡』の見事な画集が出版され、彼の遺墨とともにその画業追慕の層の厚さを示している。

彼の遺墨は、
川之江地方を中心に各地に散在し、その数は随分多い。

それらのうち、彼54歳作シカゴにおける
コロンブス記念博覧会出品の 「寒霞渓秋景之図」
翌年作 「祖谷山蔓橋真景」、
大正天皇御大典記念に献納の 「老松亀鶴之図」、
同じく天覧の栄に浴した 「一品当朝之図」

・・・などがよく知られ、代表作といわれる。

彼の描く山水は、あくまで南画の伝統描法にのっとり、
一筆一筆を誠実に、また巧みな雲姻による緊密な構成で
生々しい現実感をもりながら超現実の神仙境を描出する。

その卓抜の画技は、
長年にわたる彼の厳しい求道・修練の賜物であり、
いつまでも郷土人士の心をとらえて離さない。

藍石の影響を受けた同郷の画人に、
次に記す大西黙堂・安藤正楽がおり、

また東の藍石、
   西の青石と称された八幡浜の野田青石がいる。
 
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         愛媛県川之江城山

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鈴木 華邨

鈴木 華邨
 
すずき かそん
安政7年2月17日(1860年3月9日)
大正8年(1919年)1月3日)
 
明治から大正にかけて活躍した日本画家。
名は茂雄、通称は惣太郎。
華邨は号で、しばしば華村とも表記される。
別号として「魚友」、「忍青」を用いた。
 
はじめ容斎派の人物画を学んだが、後に四条派から土佐派や浮世絵の要素を加えた独自の画法を立ち上げ、特に花鳥画に優れた。
 
20世紀初頭ヨーロッパで北斎以来の日本画家とされ、
もっとも知られた日本画家と称された。
 
小林一三が評価していたため、
大阪府池田市の逸翁美術館にまとまって収蔵されている。

江戸下谷池ノ端茅町に、
加賀藩出入りの呉服商 「武蔵屋」 鈴木清次郎の長男として生まれる。
 
明治7年(1874年)14歳で菊池容斎の高弟中島亨斎に師事した。
 
翌8年フィラデルフィア博覧会事務局図画係に傭われ、
明治9年(1876年)勧業寮編輯係を務める。
 
また、このころ起立工商会社で図案係として働き、
陶磁器や漆器などの図案を作成した。

明治10年(1877年)第1回内国勧業博覧会に
「金髹図案」 を出品し、花紋賞メダルを受賞。
 
明治14年(1887年)第2回内国勧業博覧会にも
「群亀図」 を出品し褒状。
 
その後は画業に専念し、明治16年(1883年)龍池会主催の
第2回パリ日本美術縦覧会において選抜揮毫者として指名を受けた。
 
翌年 「大船碇泊ノ図」 を出品。
明治19年(1886年)4月鑑画会第二回大会に 「山水」 を出品し受賞。
 
明治20年(1887年)頃から単行本や雑誌の口絵・挿絵に健筆を振るい、
明治22年(1889年)『新小説』第一巻第一号の表紙を任される。
 
同年、親交のあった納富介次郎に招かれ、
石川県立工業学校の絵画と図案意匠を担当する教諭に就任。
(現・石川県立工業高等学校)
 
同26年まで在職し、写実を重んじる画風で後進の育成に努めた。
 
明治31年(1898年)に梶田半古、松本楓湖らとともに
日本画会の結成に参加し、同年の日本美術院創設にあたっては
評議員となり、共進会の審査員を勤めた。
 
明治33年(1900年)パリ万国博覧会に
「山水」 「雪中鷹狩」 「月下魚網」 を出品し銅牌を受賞。
 
明治34年(1901年)春の院展第5回で
「牡丹睡猫」 が銀賞、翌年春の第7回では 「布袋」 が銀牌を受賞。
 
明治39年(1906年)1月、小林一三らが15名で
華邨、寺崎広業、川合玉堂を後援する鼎会を発足する。
 
また明治40年(1907年)の第1回文展に 「平和」 を出品し、三等賞。
明治41年(1908年)巽画会の審査員となる。
 
明治43年(1910年)の日英博覧会に
「雨中渡船」 を出品し、金牌を受賞。
 
大正8年(1919年)、
東京・雑司が谷の自宅で肺炎療養中に腹膜炎を併発し死去した。
 
法名は清廉院華邨永豊居士。
墓所は港区の宝生院。
 
文展や博覧会での入賞の他、
尾崎紅葉 『なにがし』 『不言不語』、
幸田露伴 『新羽衣物語』 口絵 『天うつ浪』 第三口絵、
泉鏡花 『小萩集』 口絵 『錦帯記』 『照葉狂言』 口絵、
など書籍の口絵や挿絵を手がけた。
 
門下の梶田半古とは最も親しく、長男光雲を弟子入りさせている。
 
 
 
「竹梅図屏風」 絹本金地著色、2曲1双、石川県立美術館
「桃鶏図」 絹本著色、石川県立美術館
「雨中五位鷺」 絹本墨画淡彩 青梅市立美術館 明治後期

「鷲猿図」 絹本墨画淡彩、ボストン美術館、明治31年(1898年)
「鵞鳥」 絹本淡彩 ボストン美術館
「玉堂富貴」 絹本著色 川越市・山崎美術館 明治末期
「秋郊野鶏図」 絹本著色 三の丸尚蔵館 明治43年(1910年)

「群鳩図」 絹本著色、逸翁美術館
「木枯」 絹本著色、逸翁美術館
「春暖」 絹本著色、逸翁美術館
「ほろ酔い」 絹本著色、逸翁美術館

「瀑布群猿図」 絹本著色、逸翁美術館 明治23年(1890年)
「月杜鵑之図」 絹本著色、逸翁美術館 明治35年(1902年)
「菜花狗児図」 絹本著色、逸翁美術館 明治39年(1906年)
「月下兎図」 絹本著色、逸翁美術館 明治39年(1906年)

「鴛鴦図」 絹本著色、逸翁美術館
「はぜに小禽図」 絹本著色、逸翁美術館
 

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