自然農法について 御講話 9
明主様御講話 「植物にも感情がある」 (昭和29年1月15日)
「農業特集号は、だいぶ報告も集まりましたから、この次に出します。
その論文を書いたので読ませます。今までとはだいぶ変わった点があります。
(御論文「日本農法の大革命・無肥料で初年度から一割乃至五割増産」「自然農法の原理」「本農法の技術面その他」)
終わりにあることは、この間のお蔭話で読みましたが、有肥の米と無肥の米とを、一粒を一寸ぐらいに大きく写真にとったのです。
そうすると、有肥の方は腐食したようにガラガラになっているのが、よく写っています。
無肥の方はチャンと米になっているのです。これを見ればすぐ分かります。
それを五、六粒写してありますが、有肥の方は全部欠けて、中には半分ぐらいのがあります。
米でさえそうなのですから、その米を年中食っていれば、虫がわくのはあたりまえです。
無肥になれば、いろんな寄生虫という病気もなくなるわけです。
それで今読んだとおり、今まで知らなかったことは、そういった米ばかりでなくて、
あらゆる物にはやはり動物と同じ理性と感情と、それから芸術的の思想もあるのです。
ただ動物以外の物には自由がないのです。
草木がこうしようああしようとしても、ある程度はありますが、動物ほど自由がないのです。
それが一番分かることは、私は花が好きで、始終花を活けますが、
ちょっと気に入らない点がありましても、忙しくてそのままにしておくと、
明くる日になるとその格好が悪かった所が直っているのです。
それは実に微妙なものです。
昨日も水仙を二本活けたのですが、二本の調和が悪いのですが、
用があって忘れていたのですが、今朝見ると良い具合に形が直っているのです。
それから私はよく、木をその周囲の状況から、植木屋に逆に植えさせることがあります。
これは前に書いたことがありますが、裏返しとか横にするのです。
そうでないと具合が悪いのです。
そうすると、だんだん年限がたつに従って、前面ができてくるのです。
そういうような具合で、人間が見ると、目に見える方は格好が良くなるのです。
私は始終生きていると言いますが、まったく生きているのです。
だからそういうような物を愛し、優遇し、尊ぶのです。
そうすると、そういった物も非常に嬉しくなって、
「よし、ウンと見場(みば)を良くしてやろう」という感情が起こるのです。
それは実に確かなのです。
だからしてそれを作る土もやっぱり同じです。
土に対して、大いに尊重し、土を愛せば、土も喜びますから、土が大いに働くわけです。
人間でも、始終酷い目に遭ったり、虐待されたり、
ロクな扱いをされなかったら、不平でロクな仕事はしないことになります。
それと同じように、そこに微妙な点が大いにあるのです。
それを頭から糞をかけたり、硫安という劇薬をかけたりすると、土も感情的にも腹が立ちます。
だから「勝手にしやがれ」というので、ロクでもない結果になるわけです。
この点から言っても、肥料をかけることがいかに悪いかということが分かります。
今はストライキがはやります。
今は人間のストライキですが、他の方のストライキも大いにあるわけです。
これはなんでもそうです。また前記のことは植物としてですが、こういった有機物にもやはりあるのです。
これは、霊のある物は全部それがあるのです。
だからして骨董品なども昔から尊んで大切にした物は、やはりそれがその品物に含まれているのです。
それで古い、時代のついた物は非常に良いのです。
同じような物でも、古い物ほど良いです。
それは実に不思議です。
それで、古いのはどこが良いかと言うと、なんとなく良いのです。
百年前、二百年前、五百年前、千年前というのは、始終見つけていると分かるのです。
というのは、これを人間が尊ぶと、人間の感情が始終そこに行きますから、
その品物が人間から受ける感情が、その霊に、つまり霊がだんだん育ってゆくようなものです。
それがなんとなく見る人間の感覚に影響するのです。
それは実に微妙なものです。
昔からよく、なんにでも神様と言います。
井戸にも「井戸神様」と言い、それから便所にも神様があると、昔の人は言ってますが、それは本当なのです。
今そういうことを言うと、馬鹿な、旧式な考えだとけなしますが、そのけなす人のほうがよほどぼんくらです。
こういう点も分かると、すべてにおいてうまくゆくのです。
だから、生きたものでない、そういった無機物に対しても、それを人間がそういった扱いをするとよほど違います。
私は、部屋なら部屋にいろんな飾りつけをしますが、その器物にも位の高い物と低い物があります。
位の高い物は部屋の良い所におき、位の低い物ほど裾におくようにしてます。
そうするとその部屋に入るとなんとなく気持ちが良いのです。
私がそういうようにした部屋に、信者でない人が来ても、なんとなく気持ちが良いと言うのです。
というのは、霊界において霊の順序が良いから気持ちが良いのです。
こういうことを知るということは非常に肝腎です。
これを他のことにとってみると、
よく大勢の部屋で争いが起こったり、中には殴り合いが起こったりしますが、
そういう時には、坐る所が順序が違うのです。
ですから霊界が混乱状態です。
人間にもそのとおりに写ってしまうのです。
だからその部屋に入って順序がちょっとでも違うと、なんとなく気持ちが悪いです。
上の人が下座に坐って、下の人が上に坐ったりすると、そこの霊界が乱れてますから、なんとなく気持ちが悪いのです。
それでなんとなく腹が立ったり、喧嘩が起こりやすいのです。
実にそういう点は、割合大きなものです。こういう話をすると切りがありません。
今年の自然栽培の報告は、総体において去年よりかずっと良いです。
ということは、霊界がだんだん変わってきたためです。霊界に火素が増えたためです。
これは他のことでも分かりますが、このごろはどこでも暖かいです。
熱海も、昨日梅園に行ってみると梅が満開です。いつもは今月の末にならなければ、満開にならないのですが、今年は、今月の末になったら散ってしまうでしょう。
これは火素が増えたためですが、そうすると、気候が暖かくなるから、作物も非常に収穫が良くなるのです。
ところがそれを肥毒で邪魔するからして、かえって逆になるわけです。
逆になるということは、霊界が、つまり曇りがなくなると、良いことと悪いことが影響が早く現われるのです。
つまりそこが良くなれば、間違っている人間は酷い目に遭って、良い人間は非常に結構になるという、善悪の差別がはっきりしてくるのです。
そういうわけで、肥毒をやるのと、きれいなのとの結果が早く現われるわけです。
そういう点で、特に今年は無肥が良くて有肥の方が悪いということになるわけです。
それが年々著しくなるからして、どうしても分からないわけにはゆかなくなるのです。
その次には病気ですが、病気はまだそこまで来ていませんが、いずれそういうことになります。
これは始終言ってますから、言う必要もありませんが、医学の結果が逆になりますから、そうなってから、いよいよ分かるということになるわけです。
ですから農業の方が先に分かるわけです。そうして医学の方はその次という順序になったわけです。」
明主様御講話 「無機物にも意思、感情がある」 (昭和29年1月16日)
「自然栽培の報告がだいたい集まったので、特集号を出します。言いたいことはだいたいみんなここに書いたつもりですから、これをよく読めば、どんな人でも分かるわけですから、大いに撒(ま)いてもらいたいと思います。
百万部作ることにしましたが、いまから大いにバラ撒いておけば、今年の栽培を始めるのに間に合いますから、時期がちょうど良いと思います。
(御論文「日本農法の大革命・無肥料で初年度から一割乃至五割増産」「自然農法の原理」「本農法の技術面その他」)
この間、有肥と無肥の玄米を蔵(しま)っておいて一年たってから見て驚いたというお蔭話がありましたが、今度その米を拡大して写してみましたが、これで実にはっきり分かります。
今いろいろ読んだとおりで、たいていなことは分かっているでしょうが、ただ初めてと思うのは、土や植物にも意思、感情があるということです。
これが割合に重要な点なのです。だから土を愛し、尊んで、そうしてできるだけ穢さないようにするということが根本なのです。
その点動物と同じなのですから、そうしてみると、例えば、人間の頭から糞をかけられたり、劇薬をかけられたら悔しいのも悔しいし、シャクにも障ります。
今では日本の土はみんな怒っているのです。ロクにできないということは、土がストライキをやっているのです。それから稲もそうです。
せっかく土のうまい所を吸おうとすると、変な物をやられるので腹が立つし、変な物を食わせられるから栄養がなくなって痩せてゆくのです。
有肥料の稲はみんな痩せているというのは、そういうわけです。
これを人間に準(なぞら)えればよく分かるのです。
だんだん弱ってゆくから、そこで水害や害虫にあっても、それに負けてしまって、去年のようになったわけです。
そういうように、今までの人間というのはまったく、一番簡単に言えば馬鹿野郎です。
私の冠句に「馬鹿野郎、よく考えりゃオレのこと」とありますが、まったくこれは日本人全体のことです。
そういうわけだからして、まずそれが基です。そういうふうな考え方で見るのが根本です。
そういうふうに思えば、肥料などは恐ろしくてかけることができなくなりますから、それをよく教え込むとよいです。
今度来た報告を新聞に五十例ぐらい出しましたが、以前と違って一人も減産がないのです。
少ないのでまず一割、多いので五割です。これは霊界が違ってきたせいもあるのですが、実に自然栽培が普及されるような時期にもなってきたわけです。
この次は病気ですが、この方は後まわしだとみえて、だいぶゆっくりしてます。
でも、信者の方にはかなり激しくなってきたようです。
ボヤボヤしているとなかなか危ないような点が見えます。
そういうようなわけで、もう一段分かると、それは燎原(りょうげん)の火のように拡がってゆくと思います。
仮に百万を、一軒の農家に一部ずつとしても、新聞とかああいうものはたいてい平均して五人は読むとしてあります。
そこで仮に五人読むとすると、五百万人読むことになります。
そうすると農民の数が二千万として四分の一が読むことになります。
しかしこれは五人ではきかない思います。
今、これをもっとも知りたいという時だし、またこの話を聞いたとすれば農民は見ずにはいられないですから、十人くらいは大丈夫だと思います。
これは言うまでもなく数多く配布させたいと思います。
その土地土地の指導者はそのつもりでウンとやれば、チャンと神様が手伝いますから、大丈夫うまくゆくと思います。
そうしてこれだけで、「メシヤ教というものはふつうの宗教ではない。
これはだいたい偉いとか偉くないということは別として、ありがたい宗教だ、これでわれわれは助かった」という、その恩を感じるということが大きなものです。
次に、熱海の地上天国もだんだんできていって、私は時々行きますが、その都度神様の方でなかなかいろんな計画が後々出てくるのです。
それによると、だんだんすばらしいものになってゆく構想が出てきています。
今見ただけでもみんな随分驚いてますが、本当にできあがったら、この何倍という立派さになりますから、それは想像もつかないです。
今話をしようと思っても、あんまりすばらしいので話の仕方がないのです。それは今とはまるっきり違います。
私も、自分がそういう計画が出ながら自分で驚いているのです。
自然栽培の方は日本だけのことで、アメリカなどは去年は麦ができ過ぎて困っているくらいです。
その代わりこの地上天国の方は、日本は無論ですが、外国にすばらしい影響を与えますから、神様は抜け目なくやられているわけです。
それから去年の一番たくさん穫れた人、チャンピオンは五石一斗三升六合ですが、その人の記事を読ませます。
(お蔭話「昨年度の第一位・四年目で五石一斗三升六合」)
粒数が百五十ないし二百二十としてありますが、これは肥毒が抜けたばかりがこれだけです。
これがさっき言ったとおり、連作の稲に力が出てくるのです。ですからこの倍は確かです。まず粒数は三百ないし四百は大丈夫です。その代わり枝が出ます。
今の五石一斗三升六合というのも、倍も穫れます。これに書いてあるとおり、二十俵以上もあえて夢ではないのです。二十俵ぐらいは楽です。
そうすると現在の四倍になりますから、米ができ過ぎて困ります。
ところが米は他に使い道がいくらでもあります。澱粉にしても大変なものです。澱粉にして輸出もできます。
そこで日本は今に金がダブついてしようがなくなります。
今のインフレは品物が足りないインフレですが、そうなると品物が多いインフレです。
しかしそういうインフレの方がかえってよいわけです。
これだけを日本人が知っただけでも、日本中がみんな手を合わせて拝みます。
いよいよその時期が近寄ってきたわけですから、これほど大きな喜びはないわけです。
それでこれが分かると、今度は医学の薬迷信が分かりやすくなります。
「なるほどメシヤ教の言うことは、農業でさえこれだけだから、やっぱり医学の方も本当かもしれない」という形勢になってきますから、そうなったらしめたものです。
だんだんそういう時が近づきつつあるわけです。
そういうわけで、無機物にも意思、感情があるということを知ることがやはり必要なのです。
たとえてみれば、木が枯れるとか草が枯れるということなども、人間がそういうことを知らないからして、非常に冷たくされているわけです。
そこで勢いがなくなってしまうというわけです。
街路樹というのは見ても実際おもしろくもない、魅力がないです。
ところが庭の木とか、そういうことの好きな主人公で、
始終それを楽しんだりしていると、植物の方も張り合いがあるから、
大いによく見せるというわけですから、まるっきり違うのです。
私の所に来る人は、庭の木でも活花でも非常に褒めます。
よそと違うのです。
というのは、私が始終見てそれを楽しんだり愛したりしてますから、
そこで植物の方でも張り合いがあるから大いによく見せるというわけです。
実に不思議なのは、花を活けて、ちょっと気に入らない所があって、忙しくてそのままにしておくと、
明くる日になると枝ぶりが良くなって変わっているのです。
ですから私は生きていると言うのです。
木でも、枝を切ったり横向きに植えたり裏返したりしておくと、
人間に見える方の枝がだんだん伸びてきて形良くなるものです。
実に不思議です。
それで木などを注意して見ると、人間の見る方がだんだん良くなるのです。
そうして見えない方は悪くなります。
ですから人間に良く見せようということを思っているということが分かります。
そういうようで、どんな物にでも霊がありますから、
霊がある以上は人間の扱い方や見方や愛し方によって違うということを知っておくと、すべてに大変よいです。
それでは植物とかそういう物だけかというと、こういう物(器物)もそうです。
これは本当の無機物ですが、こういう物でも始終愛すると違ってくるのです。
だから、古い骨董品などが良いということはそういうわけで、
古い物ほど多くの人が見て楽しむというために味わいが出てくるのです。
古い茶碗などは、ほとんど言いようがないほど、おもしろみや味わいがあるのです。
それは人間の霊がたくさん入っているからです。
ですから新しい物で良い物があっても味わいがないということは、その点にあるのです。
まして農作物というような物とか、花を人間が見て楽しむという物は、人間次第で大変な違いです。
そういう物に糞をかけたりするのは良いわけがないです。
根本はそこにあるのですから、さっき言ったとおり、火、水、土の霊気が溶けて、
そうしてそれが、一つの、見えざる力とも言うし、Xと書きましたが、名のつけようのない、
それがあらゆる物の基になるのですから、肥料というのはそれです。
土というのは物質なのですが、その土の中に三位一体のコントロールされた霊気が満ちて、
そしてその霊気は濃くなったり薄くなったりするのですが、
穢さないで、人間が愛すと濃くなってくるのです。
それが肥料なのです。
ですから肥料というのは目に見えないものですから、科学がいくら研究しても分からないのです。
かえって科学は邪魔をするから駄目になるのです。
そういうような意味が根本ですから、それを農民にだんだん教えるのです。
教えるよりか、実際に良くできれば「不思議だ、どういうわけだろう」ということになってから、その理屈を言えばすぐ分かります。
さもなければ、なかなか簡単には分かりません。」
明主様御講話 「自然農法も素直が一等」 (昭和29年1月17日)
「やっと特集号が出るようになりました。今その論文を読ませますが、報告は五十通ぐらい出すつもりです。
これはかなり骨折って書きましたが、だいたいこれで分かるわけです。
やっぱりどうしても今の人は科学的でないと承知しないから、科学的に解説しました。ただ科学が違うのです。今の科学は旧式な科学です。
もっと新しい科学で書いたつもりです。
(御論文「日本農法の大革命 無肥料で初年度から一割乃至五割増産」「自然農法の原理」「本農法の技術面その他」)
最後にあることは、この間のお蔭話にあったのですが、聞かない人もあるでしょうから、もう一度読ませます。
(お蔭話「肥毒の恐ろしさ」)
その写真を拡大してとったのですが、実によく分かります。いろいろな写真がありますから、まわして見せます。(栄光245号)
今年の自然農法での第一番は、特集号に出しますが、大分県の人で、反五石一斗三升六合です。一等賞を、普及会として出すつもりです。しかるべき方法で褒美も出します。
この人は四年目ですが、四年前の自然栽培にした年は反五俵半です。いまは四年目ですが、六年目七年目となればもっと増えます。まず二十俵近くなると思います。
特集号はたくさん刷ります。ふつうの新聞とか、そういったようなものは、たいてい一枚で五人見るという平均になってますが、これはいまの農家の一番困っている問題ですから、五人でなくて十人ぐらいは無論見ると思います。
としたら、これが農家百万戸に行き渡るとしたら千万人の目に触れますから、そうとうの効果があると思います。
少なくとも二、三年後には自然栽培に切り替える人が随分できるだろうと思ってます。だから大変な問題になると思います。
もしこれが全国的になるとしたら、まず開闢(かいびゃく)以来ない大きな救いです。
これだけでもメシヤ教というものは、ふつうの宗教ではないということが分かるわけです。
それからもう一つは、熱海の地上天国はみんな見たでしょうが、まだホンの半分にも行ってません。
それでいてあれだけを見てみんなびっくりしてますが、これができあがったら、まだまだ今想像もつかないほどの立派なものができます。
今美術館のまわりの道をつけたり、土をいろいろいじってますが、美術館のまわりなどは、それは想像もつかないほどすばらしいことになるつもりです。
話ではちょっと分からないくらいなものです。
「なるほど、天国とはこんなものか」というようになります。
会館や展望台の方は、すばらしいながらも、まだそれほどではないのですが、美術館のまわりのできあがりは、「なるほど天国というものはこういうものか」と天国の気分が随分すばらしいものです。
それを眺めれば、それこそ、天国の鳥と言われる迦陵頻伽(かりょうびんが)が飛んで来るかと思うような感じが出るつもりです。
それは来年いっぱいにできましょう。この評判は、日本は無論ですが、世界的に外国にも随分大きな話題になると思います。
それで初めて、「メシヤ教というものはふつうの宗教ではない、これは大変なものだ」ということになるし、またそうなると、医学の方も「農業でさえこうなのだから、やっぱり医学の方もメシヤ教の言うのが本当ではないか」というように、そこに信じ方が出るわけです。
信じられる非常に大きな刺激になると思います。
つまり神様の方は、ようやく檜舞台に一歩一歩上るという形になってくるわけです。
去年も言ったとおり、昭和二十五、六、七がすんで、八年から開けるということを言いました。
それから静岡事件も大変な意味があったので、二十五、六、七と、七ですんで、八の去年から開け出すことになって、今年、来年となって、来年できるわけですが、それから世界の檜舞台に上がるというわけです。
前にも言ったとおり、箱根は霊的で熱海は体的ですから、熱海の地上天国ができれば、要するに体的に発展するわけです。だから本当に目立つわけです。いよいよおもしろい張り合いのある時期に入ってきたわけです。
だからして神様の方はチャンと準備や、芝居ならプログラムができているわけです。
そのとおりに、少しも違わないでチャンとゆくのです。ただ時期だけのものです。
大本教のお筆先に「時節ほど有難い、恐ろしいものはないぞよ」「この事が分り出したら、世界は唸るぞよ」というのがありますが、もうそこの直前に来たわけです。
それから「こんなものがあんなものになり、あんなものがこんなものになる仕組であるぞよ」というのがありますが、お筆先というのは実に簡単な言葉で、すばらしい大きなことを言い尽くしてあります。
私などもその当時は本当には分からなかったのですが、神様というものは、なんだか変な言い方だと思ってましたが、今になってみると、それがピッタリと当たっているのです。
「何事も神の言うとおりに致せば間違いはないぞよ」というのがあるのです。
自然農法にしても、私の言うとおりにした人は、チャンと予定どおりに進んでゆくのです。効果もあるのです。
ところが農民は長い間の習慣でなかなか言うことをきかないのです。
なにしろ今もって有肥をやっている人がそうとうあるのですから・・・。
ようやく今年あたりから気がついて、「では切り替えよう」ということになった人が随分あるようです。
それについてこういう話があります。
大本教の教祖様が神様から「直よ、お前はこれから外国に行くんだよ。直ぐ外国に行きなさい」と言うので、
教祖様は「私にはそんな金も何もないのに外国に行けないでしょう」と言うと、
「なにいいんだよ、五円持って行けばいいんだよ」というので、教祖様は五円札を持ってノコノコ出掛けたのです。
そうすると途中まで行くと「直や、もう行かんでもよいぞよ」と言うので、「神様はどうして御からかいになるのです」と聞くと、「いや、お前がどのくらいワシの言うことをきくか試してみたのだ。
だから、もうこれで分かったからいいんだよ」というわけで、神様が試されたわけです。
そのくらいに素直に言うことを聞くということです。
お筆先に「何事も神の申す事に間違いはないから、素直が一等であるぞよ」とありますが、そういうようで、いつも言うとおり、私がなんでもなく言ったことでも大変意味があることですから、そのとおりにやれば決して間違いはないのです。
今度の無肥料栽培も、最初はテンデ耳に入らなかったです。
それこそ「明主様は病気を治すことはなるほど確かに大丈夫ですが、農業のことはそれほどのことがあるわけがない」と思ったらしいのですが、これは時節のことだから、いくら言っても分かるわけがないので、しようがないのですが、そういうようで、ようやく思うとおりの実績が上がってきたわけで、非常に結構です。」
明主様御講話 「農林省の役人が自然農法の研究会を作った」 (昭和29年3月23日)
「それから、自然栽培について、農林省の役人で会を作ったのです。
委員はなんでも八人だそうですが、農林省の役人だからおもしろいのです。本元ですから・・・。
これは上の人ではないそうですが、そう下でもないでしょう。中堅どころという人たちです。
もっとも上の人が分かっても、おいそれとはやらないわけです。
やはり一つの権威もあるし、特に日本はそうです。面目とか権威というようなものがあるから、おいそれとはゆかないのです。
やっぱり全国的に農村が動いてきて、それから農林省の中堅どころが動くというように、いろんな条件が合ってきて、新聞も書かなければならないでしょう。
それからいよいよ法規をこしらえるとか議会に出すとか、ということでだんだん実現して行くのですが、それまではなかなか紆余(うよ)曲折、いろいろなことがありましょう。
これもその一つですが、これはもっとも本元、急所ですから、大いに喜ぶべきことと思ってます。
趣意書を見ましたが、なかなかよくできてます。今読ませます。
(御論文「自然農法の一大朗報」「趣意書」)
今読んだような工合ですから、非常によいと思います。
それとともに農林省の役人がこういう会を作ったというそのことが、自然農法の宣伝の上に非常な力と言いますか、一つの信頼感がわくわけです。
今後各地方で宣伝する上においても、その土地の農事試験場とか、あるいはそういった役目の人たちも大いに信用してかかるという、その効果は大きいと思います。
無論神様がそういうふうにしているのです。この間、各地の神様が、さっきのような具合に憑ってきて、自分は自然農法のことについて、これから大いに活動するということがありました。
ですから神様も自然農法で活動されているわけです。
なにしろこれからは神様が総掛かりで救世教の仕事をやるのですから、思わざる所や、思わざることがドンドン出てきて、すばらしい発展の段階にゆくわけです。
つまり新年早々話したとおり、今年からいよいよ表面的になるのですから、大いに張り合いがあるわけです。
だんだん「わが世」が近づきつつあるわけです。」
明主様御講話 「自然農法の普及が医学革命につながる」 (昭和29年3月27日)
「それについて、一般の人もどうしても分からなければならないようなことの一つとして、自然栽培が日本中に分かるとしたら、それだけでも、「これはふつうの宗教ではない、たいへんなものだ」ということは分かるわけです。
今度農林省の役人の中にだいたい分かってきた人ができて、今度「自然農法研究会」という会をこしらえたのです。
来月の二日に発会式をやりますが、人数はそうとういるようです。
何人いるかは知りませんが、少なくとも十人はいると思います。
農林省の内部に動きができたということは、一番よいと思うのです。
つまり今後宣伝する上において、なにしろ今までのことと反対のことですから、「肥料なしで米が獲れる」「そんな馬鹿なことがあるものか」とみんな最初はそういう考えを起こします。
そこにもっていって、農林省の役人がこれだけの運動を始めたということは、それだけ信用が出るわけです。
今聞いてみると、会員は十八人だそうですからたいしたものです。
無論、上の方はまだでしょうし、分かっていてもすぐに動くことはできませんし、下の方はそういうことはないから、中堅どころでしょう。
ですからこれは自然農法に対する一大福音です。
その趣意書を見ましたが、なかなかよくできているので、今読ませます。
(御論文「自然農法の一大朗報」「趣意書」)
十八人という数字もちょっとおもしろいです。
それから発会式も、この間聞いたのは四月二日でしたが、早まって三月三十日だそうですから、やっぱり三、三でミロクです。
それで十八ですから、三(ミ)六(ロク)十八です。万事神様がやっているのですから、そうなるわけです。
これについても、私が一番狙うところは、医学の革命です。これはまた一番難しいのです。
この自然農法が全国的に分かると、その医学に対する効果も、ちょうど自然農法と同じような理屈で、肥料というのは医学でいう薬です。
「肥料をやるために土が弱る」ということと、「薬を服むために健康が弱る」ということと、理屈は同じですから、この面から医学の方を分からせる上において、非常によいと思うのです。
そういうわけで、肥料のために、その毒素が人間の健康に非常な害があるということも分かるわけです。
おまけに特集号にあるような、米に穀象虫がわいたのを写真に大きく出してありますが、あれを見たら否も応もないと思います。
ですから今まで薬毒ということは、私は大いに唱えてきましたが、勿論薬毒も悪いが、それ以外に米に対する肥料の毒がまたたいへんなものです。
つまり肥料の毒というのは、やはり血を濁しますから、肥毒と薬毒との両方で、人間は今までいじめられていたわけです。
今度その論文を出しますが、「人間の体はいかに造物主が強靭に強く造られたかが分かる。
これだけの薬毒を入れながら、なおかつ生きているということは、実に人間の体は丈夫なものだ」ということを書いてあります。
こうなると肥毒まで加わって、食う食糧に対する肥毒があって、薬を飲まない人でも一日に三度ずつ肥毒を体に入れているのですから、虫がわくのはあたりまえです。
寄生虫の害というのは、みんな知っているとおりですが、これは別におおげさに言うわけではないので、私はいつもそう思ってます。
薬毒がウンと固まって、体に薬毒がいっぱいある人がありますが、「これでよく働けるな、実に人間の体というのは強くできている」といつも感心してます。
これは医学的の頭で考えたら面喰うだろうと思います。
そういうわけで、神様の方は着々と進展しつつあるわけです。
しかも今言ったとおり、各宗教の教祖やなにか、そういった偉い霊たちがこれからメシヤ教のために大いに働きますから、だんだん時期がたつに従って、予想もつかないような大きなことになると思ってます。
だんだん張り合いが出てきたわけです。今までは楽屋で支度をしていたようなものですが、これからいよいよ本舞台に上がって、檜舞台で世界人類を大いにうならせるというわけですから、ちょうど世界的の大芝居です。
これは大本教のお筆先にありますが、「今度は世界の大芝居であるから、今に世界は動くぞよ」とありますが、これはやっぱりそういう意味です。」