自然農法について 御講話 5
明主様御講話 「自然農法普及会について」 (昭和28年2月27日)
「自然栽培の昨年の報告が大体集まったので、今度「特集号」を発行します。
一昨年、昨年も「特集号」を発行して、今年で三回目ですが、理論はたいてい今までに発表してありますから、今まで発表しないようなことで、今度の報告を見た感想とか注意というようなものを書いてみたので、それを読ませます。
(御論文「自然栽培に就いて」)
これについておもしろいことがあるのです。今までの報告では佐渡が一番良いのです。佐渡だけは初年目から少しずつ増えているのです。
ですから信者でない農民もそれをまねして、今どんどん増えているのです。
ですから今も読んだとおり、佐渡だけは十年以内には全島自然栽培になるだろうと思ってます。
では、どういうわけで佐渡ではそんなに成績が良いかというと、佐渡の人は浄霊をしないのです。これはおもしろいのです。
少しはする人もありますが、大体はあんまりしないのです。
これが神様の思し召しにかなっているのです。
ところで「浄霊をしなければ良くできない」というように思わせることがたいへん悪いのです。
なぜかというと、そうすると「信仰にはいらなければならないから、もう少し考えよう」ということになるのです。
それでは普及が非常に遅れます。
だから「信仰にはいらなくても肥料さえやらなければ良くできる」ということを思わせるのです。
そうすると「ああそれではわけないから」というので、どんどんまねするようになります。
そうするとそれだけ増産になりますから、早く効果があるわけです。
だから浄霊をして、それを知られるということが、たいへんに普及のお邪魔をしているわけです。
というのはそういう考えは、信仰した方が良くできるというのを見せて、信者を増やそうという考え方ですから・・・悪いことはないが・・・ その考え方が小乗的なのです。
だから今も読んだとおり、浄霊するのは肥毒を消すためですから、せいぜい日に二、三回くらいで良いのです。
よくお蔭話などで何回もやる人があります。外出した時と帰りがけには必ずやるというようにして、そのために隣り近所の百姓がみんな嘲笑したり、いろいろ言ったりしてます。
ところがむしろこれによってできるのだ、ということを見せびらかしてやってますが、それはたいへん間違っているのです。
それで浄霊は肥毒を消すのだから、肥毒の強い所はやっても結構ですが、なるべく人に知れないようにするのです。それは夜やるのも結構です。
そうすると間違えて、魚カスや油カスをやっているのだと思うでしょうが、それは神様の方の油カスというわけです。
そういうように、なるべく人に知れないように浄霊をするのです。それも日に二、三度でたくさんです。それで浄霊をしなくても立派にできるのです。
ただあんまり肥毒の強い時には、人間の薬毒と同じですから浄霊すれば消えます。肥料というのは薬毒と同じなのですから。
それからもう一つは、稲田に草葉の堆肥を入れる人がよくありますが、これはたいへん間違っているのです。
それでどうも土そのものが肥料だということを忘れがちなのです。
このごろはだいぶ分かってきたようですが、最初のうちは草の堆肥をたくさん入れて、そのためにできなくなったことがあります。
ですから本当から言うと、堆肥もなにも入れないで土ばかりでやるというのが本当で、それが一番良くできるのです。結局はそうなります。
それで畑なども土が固まるのを防ぐために堆肥をやるのですから、土が固まらなければ、堆肥の必要はありません。
それで土も年々無肥料栽培でやって行くと固まらなくなります。
土がそういうようになって行きますから堆肥の必要はなくなります。
それでみんな、どうも堆肥に肥料分があるように思ってならないのです。
それは今までの肥料迷信が残っているのです。
とにかく自然栽培のやり方というのは、一番手数がかからないで楽なのです。それがいいのです。
どうも人間は面倒臭いことや、ややこしいことをしたがる観念がありますが、そのために成績が悪いのです。
ですから一番手数がかからないで楽なやり方ほど良いのです。
そこで今度一番とれたのが岐阜県の人で反十八俵というのです。
しかしこれがちょっとまずかったことは、田を三つの区域くらいに分けたのです。
それでその米をみんな一緒にしてしまったのです。
ですから平均して十二俵いくらかになりましたが、それでもすばらしいものです。
そのうちの一区画の所だけが非常に良くできたのです。
そこで、そこの箇所の推定ではどうしても十八俵だということになったのです。
とにかく正確にやらなかったのは遺憾ですが、来年はちゃんとするでしょう。
それで毎年朝日新聞で米の多収穫の日本一を競争してますが、今年の一等は四国の方の人で十五俵三斗三升二合というのです。
それでそこに私の方の信者の人が調べに訪ねて行ったのです。
ところが競争するのは、また別なやり方をするのだそうです。
それでこの収量は今年だけであって、来年はずっと落ちると言うのです。
別なやり方というが硫安とかをうんと使うのです。
ちょうどヨッパラッて顔色を良くして威勢良く踊るようなもので、たいへん元気はある、というような理屈なのです。
それでああいうものは一時的に効果があるから迷わされるのです。
「来年はずっと落ちるから止す」と、本人が言っていたそうですから間違いないでしょう。
しかし自然栽培でできたものは年々増えるのですから、ぜんぜんわけが違います。
来年は、今の岐阜県の人も朝日新聞に出すことになってます。
それからもう一つは、今度の特集号に出しましたが、一番古くからやっているのは去年で六年目になりますが、付近の田から見ると六割以上増えているのです。
私は「五年で五割増産」ということを言ってますが、六年目で六割以上ですから、まず「五年で五割増産」ということは実現したわけです。
こういう例は本当に事実が現わしたのですからたいへん良いです。
そういうようなわけで、とにかく間違いないということが立派に分かったのです。
大体こういうことは分かってはいますが、本当の事実・・・と言うと変ですが、このとおり間違いない結果が出た以上、これを早く日本中に分からせて、大いに食糧問題を解決しなければならないのです。
なにしろこのために、私の推定ですが一年間三千億円は違ってます。
ですから全国的に自然栽培にすれば三千億円はプラスになるのですから、これをできるだけ普及しなければならないと思っているのです。
それで今度自然農法普及会という会を作ったのです。まず大体一村一カ所の支部という目標です。
それで調べてみると、村というのは、日本中に大体一万何千かありますが、本当の農村でなくいろんなのがあるので、確実な数としては一万とみればいいのです。
ですから一万の支部を作ってやればたいへんなものですが、それは急にはできないがその目標でやってゆけば、それだけずつ国家的の利益になりますから、そういう方針でやってゆこうと思ってます。
無論その支部長になる人は、メシヤ教の教会の支部長というのでなく、信者、未信者を問わず、なるべくその村の篤農家、村長、農会長という人がなって、そうして始終座談会とか指導をして、そうして信仰に関係なく、ただ自然農法の普及という考えでやって行くようにしようと思ってます。
ですから信者さんもそういうつもりで、農業をしている人は、あの人をぜひああしたい、あそこに支部を作りたい、ということを心がけていてもらいたいと思います。
それについて、自然栽培の解説書というような小冊子を作ってます。
大体地上天国の半分くらいの大きさにして百五十頁くらいです。
それは今年、昨年、一昨年の三年間の特集号をそっくりそこに載せてますが、その序文代わりに載せる論文を読ませます。
(御論文 自然農法解説書 序文)
病気の方は厄介ですが、自然農法の方は割合簡単に成功すると思うのです。
医学の方もいずれはこうなるでしょうが、そうなればたいしたものです。
それで自然農法の発見は、そのお蔭は日本ばかりではないのです。
今はインド、ビルマ、タイでも硫安を非常に使うのです。
というのは、あっちに行く硫安の輸出はたいへんなものです。
そういうようで、あっちの方も非常に米がとれなくなってきたのです。
ちょうど麻薬と同じことで、最初やった時はばかにいいので、そこで瞞されてしまうのです。
それがちょうど薬毒と同じことで、年限がたつうちにだんだん駄目になって行くのです。それで駄目になったことに気がつかないのです。
人間も猫と同じようなものです。猫が屋根で日向ボッコをしていますが、日の当たってない時でも、日が当たると思ってそこに行っていつまでもいます。
ちょうどそれと同じで、硫安が良くきいていたので毎年それをやっているのです。
そういうわけで肥料迷信というものは、日本ばかりでなく、ほとんど世界的になってます。
これもやっぱり世界人類を救う大きな役目をするわけです。」
明主様御講話 「日本は薬も肥料も世界一使用」 (昭和28年3月23日)
「それからもう一つの農業革命の自然栽培も大きな問題になります。
しかしこの方は簡単です。肥料をやらないということだけで、なんでもない話です。
ただ、それが分かって実行するというだけのことですから、医学の方とは比較にはなりません。
これは殊によると、数年ならずしてそういう世論になってしまうかも分かりません。
そうしたら、これだけでもたいへんな問題であるし、またメシヤ教というものが、いかに本当に救う宗教であるかということが分かるのです。
そうして、この肥料問題はひとり日本ばかりでなく、世界的のものです。
よく調べてみると、肥料をたくさん使うのは日本が一番だそうです。
ロクでもないことで一番のことが日本にはたくさんあります。
そうでしょう、日本は糞尿というものがあるが、外国にはなかったでしょうから、ほかは世界並でしょうが、糞尿だけが日本は多くなるから、世界一になるわけです。
それから薬も世界一だそうです。アメリカはあんなに薬で大騒ぎをやっているが、日本の方がずっと多いそうです。それはアメリカには漢方薬がないのです。これも肥料と同じで倍になります。
今言ったような二つの革命は、たいへんに大きな革命です。ほかの問題についてもいずれ本を出すつもりです。政治の問題、教育の問題ということもだんだんに発表します。」
明主様御講話 「一時的豊作では意味がない」 (昭和28年5月25日)
「それから毎年朝日新聞で米作の日本一を募集してますが、今年は自信のある人は、ぜひ出品した方がよいです。
去年の一等は十五俵三斗三升二合でした。この人は香川県の大川義則という人ですが、そこに聞きに行ったところが、あれは硫安のような物をウンと入れたのだそうです。
そうすると一年だけはとても良くできるそうです。
ところが来年になるとガッタリ落ちて駄目になるそうですから、どうしても三年か五年くらい続けた平均点をとらなければ、本当の意味がないということを、今度の栄光に書きました。
そういう一年限りのものではスポーツのようなもので、競技に勝つというだけだから実際の意味はないわけです。
ところでこっちの方の去年の自然農法での一番は、十八俵です。
しかしこの十八俵は他のと混じったのです。
なんでも三カ所ぐらいの水田を混ぜてやったので、そのうちの推定で一番多いのが十八俵で、平均するともっと少ない田もありますから、そこのところがちょっと正確を欠いてますが、とにかく十七、八俵はとれてます。
そうすると、去年の一等を追い抜いてますから、今年は驚くべき結果が出るだろうと思います。
ですから自信のある人は、ぜひ出品してもらいたいと思います。
これで一等になると、日本中に自然農法のすばらしいことが分かるから非常によいです。朝日新聞に広告が出てますから読ませます。
(五月二十一日付朝日新聞神奈川版掲載の記事)」
明主様御講話 「一時的豊作では意味がない」 (昭和28年5月26日)
「それから自然農法の話ですが、朝日新聞で毎年米の日本一を競技的に募集してます。
去年一等になった人は反当り、俵にして十五俵三斗三升二合です。
この人は香川県の人ですが、そこに尋ねて行って聞いてみたところが、これはつまりスポーツ的に一年だけウンと獲ろうというので、いろんな肥料などを充分にやって、無理にそれだけの成績をあげたので、来年はガタ落ちがして、とても駄目だという話だったのです。
そうしてみるとせっかく朝日が骨を折っても、実際上の意味はないわけです。
ですからどうしても三年とか五年を平均して、たくさんとれなければ駄目です。
そういう意味のことを今度の栄光に出しました。ところで去年の自然農法の一番は、栄光にも出てますが約十八俵です。
これは三カ所のが混じったので正確には分からなかったが、一番よけいとれた所の田が十八俵という推定が混じっているのです。
何斗何升とまでいかなかったのは、はなはだ遺憾ですが、これほど穫れるとは思わなかったから、それほど慎重にやらなかったのでしょうが、これはしかたがありません。
今年は自信のある人はもっと正確に収穫をして出品した方がよいと思います。ぜひ出品してもらいたいと思います。
そのことについて新聞にも出てますが、その新聞の記事を読ませます。
(五月二十一日付朝日新聞神奈川版掲載の記事)
もし朝日の方で一等をとれば、自然栽培が一度に知れますから、非常に重要なことですから、そのつもりで自信のある人はぜひ出すようにしてください。」
明主様御講話 「肥料を大量に使用すると翌年は収穫量が激減」 (昭和28年5月27日)
「それから朝日新聞で毎年募集している全国の米の多収穫で、去年の一等は俵にして十五俵三斗三升二合でした。
ところがそれをよく調べたところが、無理に一年の収穫を得るために、いろんな肥料をウンと使って、ちょうど麻薬と同じことですから、ばかに威勢よくさせたようなもので、来年はガタ落ちだそうです。
これは尋ねて行った本人から聞いたのですから間違いありません。
そうすると、ただ競技のための増収ですから実際としては意味がありません。
だからどうしても三年か五年の平均をとって立派な収穫を得れば、それこそ役に立ちますが、そうでなければしようがありません。
それとしても自然栽培の方ではもっと穫れます。
去年の一番は十八俵ですから、今年はそれ以上穫れるに違いないから、自信のある人はぜひ出品した方がよいと思います。その朝日の広告を読ませます。
(五月二十一日付朝日新聞神奈川県版掲載の記事)
去年の一等は香川県の人です。そこで去年の一等が十五俵三斗ですから、それ以上でなければおもしろくないですから、それ以上の確信のある人は出品すればよいです。
自信をもって出品できる人はよけいにはいないでしょうが、しかしもう救世教の中にも自然栽培でよくできる人は幾人かあるでしょうから、そういう人はふるって出品されなければいけません。
それでこの募集で一等をとれば、それは自然栽培は一遍に広まります。
これは一番よい機会ですから、そのつもりで大いにやってもらいたいと思います。」
明主様御講話 「連作について」 (昭和28年7月6日)
「それから土のことですが、さっき藤枝さんから聞いたのですが、中京で花物を作っている所で、非常に成績が良い所は毎年客土をするのだそうです。
ところが客土というのは、つまり肥毒のない純粋の土だからよいわけです。
しかしそういう面倒くさいことをするということは、やっぱり肥料をやっているから客土の必要があるので、肥料をやらなければその土自体が客土と同じことなので、そういう点が徹底してないので、やっぱり肥料迷信が取りきれないのです。
ところが客土をしただけでは本当から言うとまだ足りないのです。
その土自体が活動を起すということを知らないのです。
このことは私はざっとは書いてありますが、充分に書いてないから、まだ本当に分かるところまでゆかないかもしれませんが、ある作物を作ると、毎年連作をすることによって土自体にその作物を作る力、その作物に適当した力が発生するのです。
そこで一つ所に一つ物を作っていればだんだん増えるのです。
ところが今までの農家は、畑の物は連作はいけないと言って始終変えてゆきますが、これはぜんぜんあべこべなのです。
連作がいけないというのなら、いったい稲はどうしたものかと言いたいです。
稲は連作をやってます。連作がいけないものなら、稲はいけなくなるはずです。
それなのに畑は連作はいけないと言っているのです。茄子はいけないと言ってますが、茄子などは連作にすると、とてもよくできます。
実際迷信というものは恐ろしいものです。
そういうわけで、土が変化して作物に対して適当した養分が生まれてくるのです。
ですから客土は悪いことはないが、本当から言うと足りないのです。その理屈が分からないのです。
それで百姓が客土をする理由というのは、一つ土で作っていると土の養分を吸ってしまうから客土するというのですが、それは養分が抜けるのではなくて、肥料を入れるから駄目になるというので客土するというわけで、それに気がつかないのです。
そういうようで土の能力を発揮させると、稲なども倍くらいはなんでもありません。
倍額増産ですが、今度の特集号にちょっと書きましたが、効果をあんまり立派に書くと疑うのです。
現に私の書いたものを読んで、簡単に大病が治る、すばらしい、とあると、かえって不思議に思って信じないのです。
なにかこっちの頭でも変に狂っているように思うのでしょう。
だから割引して書いた方が本気にするくらいなのです。実に始末が悪いです。」
明主様御講話 「連作について」 (昭和28年7月7日)
「それから自然栽培をやる人で、まだ徹底しないところがあります。それは土を生かすということです。
今まで金肥、人肥で土の力を殺していたというのを、今度は反対に土を生かすようにするという場合に、連作が非常によいのです。
それはどういうわけかというと、土自体が植物なら植物を育てるような一つの性能をだんだん発揮して行くのです。
それで農村では連作を嫌って年々畑を変えることをよいとしてますが、そういうことを言うとちょっとおかしいと思うことは、米くらい連作しているものはありません。
先祖代々昔からやってますが、もし連作がいけないものなら年々悪くなるはずです。
もっとも今は肥料で悪くしていますが。とにかく肥料をやるために土が変質してしまうのです。
そのために連作が悪いように、土が一種の欠陥品になったようなものです。
だから二毛作で米と麦を半々にやることをよいとしていたのを、私が二毛作はいけないということを言って、一毛作にして非常に成績がよいという報告がありますが、
そういうようで無肥料にして連作をすれば、土はいくらでもその作物に対する性能が増して行くのです。
だから実際言うと米にしてもだんだん増えていって、今の三倍くらいになります。
最近来たお蔭話で、その人は七年目ですが、最初一、二年というものは、やはりどうしても無肥料が信じられないで、なにか他の肥料も時々混ぜたようです。
それが分かって、三年目くらいから本当にぜんぜん無肥料にしたのですから、とにかく正味五年目くらいでしょう。それで去年は反当り十俵いくらというのです。
それで他の近所の収穫は五俵いくらというのですから、ちょうど倍は穫れたわけです。
そういうようなわけで倍くらいはなんでもありません。
私は五割増産としましたが、本当は倍と書きたかったのです。
しかしあんまり穫れ過ぎるように書くと、かえって本当にしないのです。なにか常識外れのように思われますから、割引して五割としたのです。
それで農村の人はなかなか肥料迷信にかかってますから、本当にぜんぜん無肥料に切り替えるのはなかなか難しいのです。
というのは土が連作によって、今言うようにその作物に合うような力が出るということを本当に知らないからです。
そこでそれをよく知るように今話もし、また書くつもりです。
この連作により土の性能が増すということをよく心得てもらいたいと思います。」
明主様御講話 「イモチ病は肥毒が原因」 (昭和28年7月15日)
「それからこの間の九州を荒らした台風ですが、これも理屈は同じなのですが、しかし人体とはよほど違うわけです。
この人体と物質の区別はよほど違うのですが、言わば同じ粒子としても、人間の粒子というものは一番上等なのです。
それから台風とかそういったものの粒子は上等でなく下等というわけです。
それで現われ方は、大体浄化作用という点においては一つなのです。
(御論文「台風の霊的考察」)
よく、火事の時に火に向かって浄霊すると助かりますが、それは火事で燃えるということは霊に穢れがある、それを浄霊されるのですから、霊界のその穢れた分が減りますから、火は焼く必要がないから他に行くというわけです。
だから霊さえ分かればチャンと理屈は分かるわけです。
理屈は今言ったとおりですが、時期ですが、いつも言うとおり昼間の世界になってきますから、その浄化がだんだん強くなってきます。
世界的にそうなるわけですから、そこでこれから世界的あるいは国内的、個人的と、いろいろな形に現われてくるわけです。
それはなんにでも現われますが、特に一番厄介なのは農作物、米です。
米などが今年はイモチ病が各地に非常に現われてます。これは肥毒で穢すためです。
ところが国の方では、昨日の新聞に出てましたが、五カ年計画で合計三千億の金を使って食糧増産させるというのです。
それでいろんな項目があって箇条書に何力条かありました。
ところが結果においては、むしろ減収になると思います。それは根本に気がつかないからです。
それで農業特集号を日本中の農業に関係のある所に配ったが、しかたがないことではあるが、ぜんぜんと言ってよいほど反響がありません。
だからどうしても実際的に各村々で実行者が増え、数字で結果を現わして、それを知って初めて、前にこういう新聞を配って読まされた、そうだ、ということになるわけです。
その時に初めて新聞を読ませた結果が現われるわけです。
今年あたりは虫害、水害がだんだん増えますから、むしろ減産です。
それで政府がヤッキとなっていろんな施設をすればするほど減産になります。
やっぱり医学と同じで、いろんな新薬や方法をやればやるほど逆効果になるわけです。」
明主様御講話 「強力な農薬を使用すると虫害が増加する」 (昭和28年8月6日)
「それから話は別ですが、今年の米作はよほど悲観すべき状態にあるようです。水害は別ですが、害虫はたいへんらしいです。
どのくらいの減収になるか、そうとうの減収になるだろうと思ってます。
ちょうど医学と同じことで、虫害のために減収になるのです。
その対策として、虫を殺すということに一生懸命になってますが、これは近ごろこの二、三年前からやり始めたドイツでできた、なんとかいう恐ろしく毒のある薬で、手に触っただけで死んでしまいますが、それを使い始めてます。
それくらい強烈な薬です。それで虫だけを殺せばよいと思ってますが、それが土にはいって行くとたいへんです。
ですから実に単純な考えで、要するに浅薄極まるのです。それでますます薬を強くするのです。
そうするとますます害虫が発生することになり、その競争になってます。ちょうど麻薬と同じことです。
麻薬が、最初は一日に一回でよかったものが、二回になり三回になり、しまいには何十本と打つようになる。それと少しも違いません。
ですからこれを早く防がないと、今にたいへんなことになります。
今年あたり虫害のために減収になったらよほど考えるだろうと思いますが、どうしてもこっちの方で、できるだけ分からせるような方法をしなければならないと思ってます。
ところがこういうわけです。霊界がだんだん明るくなると、結果が非常に早くなります。
今までは毒の効き方も遅かったために、虫なら虫を殺すだけの効果があって、それが土にはいって、土を穢して、また虫をわかせるというのに暇がかかるから、一時虫が死ぬからそれでよいと思っていたが、ところがだんだん霊界の浄化が強くなるに従って早くなるのです。
つまり毒が集まって行くのに何年もかかったのが、それが早くなって、つまり毒の結果が早くくるのです。
これはちょうど浄霊と同じで、浄霊も年々治りが早くなって、治る人はドンドン治り、死ぬ人は早く死ぬというようになってます。
ですから善悪をはっきりさせるということになるのです。
そこで以前は肥料の毒をそれほどと思ってないのが、肥毒というのがますます著しくなるから、どうしても分からないわけにはゆかなくなるのです。
ちょうど医学の薬が今までは固め方法だったのですが、その固め方法がだんだん効かなくなるのが早くなって、今度は固めようとする傍らから溶かす方が早くなって駄目になるというように、肥料の方もそういうようになってきつつあります。
そこでどうしてもこっちの言うとおりにしなければならないようになってきます。それもそう長いことはありません。
そうなったら、私が著(あら)わした本を見ればすぐに分かるようになります。
今私が本を書いているのは、今信者の人に読ませるということは一つの準備行為で、その時に一般人に読ませて目を覚まさせるということが本当の狙いどころになるわけです。
ですから今年あたりの虫害が非常に酷いということは、一歩それに近づいたわけです。
これはいろんな方面に現われていきますが、ともかく肥毒のために今でさえ米が足りないとして、近ごろは人造米などを大いにやろうとしているらしいですが、しかし人造米の原料でも、やっぱり米と麦ですから、たいした節約にはならないわけです。
しかもよけいな手数をかけてまずい物を食わせるのです。
これはどうせ自然とは違うに決まってますから、うまいことはありません。
それで栄養が何パーセントあるとか言ってますが、それは自然の栄養とはまるっきり違います。
そういうわけで、それだけの経路を経なければ本当に分からないのだからしかたがないわけです。
私の方でやっている仕事はその時期とチャンと合ってゆくわけですから、かわいそうでもあるし愉快でもあるという、複雑な感じです。
しかしそうなっているのですからどうにもなりません。土を浄めるためにこの間のようなああいう大水が出たわけですが、だんだん浄化ということがいろんなことに現われて行くというように見ていればよく分かります。」
明主様御講話 「水害と肥毒」 (昭和28年8月16日)
「今日はいろんな話がありますから簡単に話しておきますが、昨日京都で百何十人か水で死にましたが、みんな知っているでしょう。
これで随分不思議と思うことは、大正池という池ですから、湖水ではないからそう大きなものではないでしょう。
それがちょっと大雨が降って、わずかの間にとにかく家が二百軒か流され、百何十人か死に、行方不明が二百人かありますが、行方不明というのはたいてい駄目ですから、三百人というのが瞬く間に流されてます。
他にもその付近でちょいちょいありましたが、こういうことはちょっと珍しいことです。
京都府下で、ちょっとの間にそういう水で死ぬということは、これはやはり九州も和歌山もそうですが、わずかの間にこう頻繁にあるということは、いかに浄化作用が激しくなってきたかということの現われです。
この浄化作用は汚れた所を洗うわけです。その一番汚れたということは肥料で土を汚すということですが、これはどうしても水で洗わなければしようがないからです。
そういうわけで、今年あたりの米の不作はたいへんなものだと思います。
水のための不作もそうとうですし、それから虫害が今年はまたベラボウに多いです。
それに引き替え自然栽培の方は、またばかに成績がよいそうです。
こういうことで良い悪いがはっきり区別がつくわけです。
まだまだこの浄化はごく序の口であって、これから時がたつに従ってだんだんものすごくなってきます。
それで人間がどうしても分かって、もうカブトをぬぎ往生するというところまで浄化が起こるのです。
それで結局どうにもならなくなって神様に頭を下げるということは、メシヤ教信者になるわけです。
そうならなければしようがなくなります。
神様はジリジリとそういうようになさるわけです。
ですからあんがいなことや予想外のことがだんだん出てくることと、だんだん大きくなってきますから、実にかわいそうでもあるし、良くなるのですから気持ちのよいことでもあり、いろいろありますが、こっちの方は洗われる方ではなくて、洗う方になりますから、気楽なものです。」
明主様御講話 「堆肥の効能」 (昭和28年8月26日)
「話は違うが自然農法のことで、堆肥迷信がだいぶあるのです。
どうも土ばかりでは気がすまないで、なにか肥料というものが頭の底に残っているのです。
どうも堆肥というものに、そういう考えがはいるのです。
ところが実は堆肥も本当はいけないので、土ばかりがよいのです。
以前にも書いてあるとおり、土が肥料だから、土を邪魔するものはみんないけないのです。堆肥も土を邪魔するからいけないのです。
ではどうして堆肥を使うかというと、土が固まると根伸びが悪くなるから、固まらせないために堆肥を用いるというわけです。
その場合にも堆肥はできるだけ腐食させて繊維のないようにしなければならないので、半分土に化したくらいのものがよいのです。
ところが葉の筋があるのや、落葉でもまだそうとう固いのを使いますが、そこで畑作でのそうとうよい成績の報告がないのはそのためです。
ですからもし土の固まらない所では(それは古い土は固まらないから)堆肥もやらない方がよいです。
もしやるとすれば、大根、牛蒡(ゴボウ)、人参という根の物には、一尺以上の下に、これはそう腐食しない落葉や草でもよいですから、それを床にするのです。
そうすると非常に温まるので成績がよいです。そういうように堆肥を使えばよいのです。
あとは土に混ぜるのですが、土に混ぜる場合にはできるだけ腐食させるのです。
それからもう一つは乾く土地がありますが、これは天日に当てると乾きます。
そこで堆肥を敷くと水分を保つから、雨なども乾かないで止まっているから、そういうためには結構です。
果樹などの根の際には堆肥を大いにやった方がよいです。これは水分が長持ちします。それは乾かさないためです。
そういう具合に、堆肥もよく考えて適当にするようにすれば結構なのです。
それを堆肥が肥料のように思って、なんでもかんでも堆肥さえ使えばよいと思っていることが間違っています。」
明主様御講話 「本当は堆肥もいけない」 (昭和28年8月27日)
「話は違いますが、自然農法も各地にだいぶ反響を起こして、その土地の有力者だとか、あるいは役人という連中がそうとうに研究をし始めたような話を聞きます。
それで稲の方はだいぶ顕著な報告を聞きますが、畑作の方はあんまり聞かないのです。
多少はありますが、もっとすばらしい成績が現われなければならないのです。
現われないということは、これを一言で言うと堆肥迷信が大いに災いしているのです。
金肥や人肥ではないが、堆肥迷信になっています。どうも肥料ということの迷信がまだ本当に取りきれないのです。だから堆肥などで騒ぐ人がやっぱりまだだいぶあります。
ところが本当は堆肥もいけないのです。堆肥なしの土ばかりがよいのです。堆肥が土を邪魔するのです。
前にも書いたとおり、土というものが肥料の固まりなのです。それで堆肥をやると、土の肥料がそれだけ減るのです。
それを、堆肥からも肥料がとれるように逆に考えているのです。
ただ堆肥というのは、固まりやすい土が固まらないようにするために混ぜるのですが、そのためにはできるだけ腐らせて、葉の繊維などがないようにしなければならないのです。
それで根が伸びる場合に、柔らかければ伸びますが、ちょっとでも固いものがあったら伸びません。
堆肥は固まらせないためのものですから、その必要がなければ、土が肥料なのですから、やらない方がよいのです。
そういうところが、なんでも反対になってます。
それからもう一つは、土が天日で乾きますが、日当たりの良い所は土が乾きますから、土の湿気を保たせるために堆肥をやりますが、これは木の葉でもなんでも、湿気を保たせる目的でやるのですから、腐らせなくてもよいのです。
果樹などは特によいです。水分を保たせるために落葉を厚くやりますが、それはよいです。堆肥というのはただそれだけのものです。
それから堆肥は、大根、人参、牛蒡(ごぼう)といった根の物には、土を温めるために、少なくとも一尺か二尺くらいの下に、木の葉がよいですが、一尺くらいの床を作るのです。
そうするとそこから温かみが始終ありますから非常によいです。大根などは、どんなに太く長くなるか分かりません。
それからもう一つは、私は芋が好きで、薩摩芋を毎日食べるのですが、実におかしいのは細長い薩摩芋があるのです。
これが無肥ですと太って丸い薩摩芋ができるのです。前に私が宝山荘で試験した時に、太って丸いのです。
それである人が薩摩芋が欲しいと言うので一つやりましたが、なにしろふつうの五、六本分の量があります。それは金時ですが実にうまいのです。
このごろは金時は作らないようですが、まるで金時のように白く粉をふいたようになってますが、ほとんど農林一号です。
それでうまそうに見えるが、食べてみるとそうでもありません。
味が悪いのです。最近は金時はだんだん止めてきたようです。
ところが芋の作り方が違うのです。無論肥毒があるのです。その肥毒を消すために窒素肥料をやりますが、これがたいへん悪いのです。
それで薩摩芋はできるだけ高畝にして、横から日が当たるようにするとよいです。
それからよく蔓を切ったり裏返したりしますが、そういうことは決してしなくてもよいのです。
そうしてどこまでも自然にするのです。それから間も詰めなくて、開けておいてよいのです。
一番肝腎なのは高畝にして日を横から当てることです。そうしたらウンと大きな物ができます。
金時でも立派に採算がとれます。私は金時ばかり作りましたが、今言ったように大きなのができました。
それから薩摩芋は特に肥毒を嫌うのです。それから土の固まるのを嫌います。
ですからいくらか砂気がある方がよいです。そこで薩摩芋は海岸が割によくできるのです。
そういうような具合で、今言ったようにして金時を作って試験してみることです。きっと良いです。
お蔭話にありますが、堆肥を一反分何貫目入れたとか、何畝に何貫とかいって、たいへんなことです。
いかに堆肥を重要視しているかということが分かります。
ですから今後はできるだけ堆肥も使わないようにして、土ばかりにするようにすることで、そうするとまたよくできます。
これは去年の佐渡では、堆肥もやらない方がよくできたと報告がありましたが、その方が理屈に合っているのです。
なにしろ人間は間違ったいろんな習慣のために、それがこびりついてしまって、どうも切り替えなどもはっきりしないのです。
これは農業ばかりでなく、薬などはそのもっともの親玉です。
そういうようなわけですから、今の人間の頭というものを、つまり作り直すようなものです。」