自然農法について 4


明主様御教え 「無肥料栽培法 序文」 (昭和24年7月1日発行)

「私によって提唱された無肥料栽培の理論ほど、読む者をしてそのあまりの異説に唖然とし、到底信じられないというのが一般の観方である。

事ほど左様に、農作物ばかりではない、人間自体が肥料中毒に罹ってしまっているのである。

しかし、私の唱える説であるがため、相当の信用を払う人も多くあるにはあるが、

それでも最初は恐る恐る実行してみるというのが例外なく報告書に表われている。

ところが収穫直前になると俄然として様相が変り、予想外の好成績を挙げるのである。

百の理論よりも一の事実にしかずという事は、今更改めて言う要はないが、

私は想う、この大発見の結果として日本農業は一大革命を惹起するのであるばかりか、いずれは世界的農業革命にまで及ぶかもしれない。

とすればかような偉大な人類救済は空前の一大福音であると共に、地上天国樹立を目標とする本教として当然過ぎる事であろう。」 (「自観叢書第2篇 無肥料栽培法」より)




明主様御教え 「無肥栽培の報告を読んで」 (昭和24年7月1日発行)

「初めて無肥料栽培を実施した作物の、そのほとんどは最初の数ケ月は、発育が悪く、茎も細く葉も黄色で、有肥の田畑と較べてすこぶる見劣りがする。

という事は試作者の異口同音に唱える声で、中には夜も寝られない程心配する者さえあるという事実で、これについて私は注意を与えたいのである。

元来、無肥料栽培といっても、その耕作する土壌もまた種子も全然肥毒のないものはない。

長年の肥毒のため両方とも極端に変質しているのである。

それがため土壌本来の性能を発揮する力を失っている。

それと共に種子の方も土壌の真の成分を吸収する力がない。

何となれば肥料を吸収すべく変質しているからである。

この理由としては、いかなる物質といえども対象物に適応すべき変質するのが原則である。

たとえ、誤った対象物であっても絶えず繰返すにおいて、それに適応するようになるのである。これがいわゆる中毒である。


以上の理によって、急激に無肥料になった場合、土壌本来の性能を直に発揮し得ない。

といって今までのごとく吸収すべく肥料もない、という理由によって一時衰弱するのである。

しかるに一定時を過ぎると、肥毒は漸次消失すると共に、その入れ替りに土はその本質に還元するのである。

それと同様種子の方も肥毒の消滅によって、土壌を吸収する本来の機能が活動を始めるので、両々(りょうりょう)あいまって収穫前頃俄然として本来の生育力を発揮するのである。

そうして中毒症状は、ひとり植物のみではない。

動物においても同様である。

例えば飲酒家が禁酒し、煙草喫みが禁煙をすれば一時は呆然として活動力が減殺する。

下剤常習者が便秘症となり、消化薬常習者が胃弱者となり、解熱剤常習者がやめると一旦高熱が出るという事や、モルヒネ中毒コカイン中毒者も同様の現象を呈するにみても明らかである。

また借金のある者が期日到達の際借替えすれば小康を得るが、借替えをやめ一時に返済をすれば苦しむがその後に至って安定するのも同様の理である。

この理によって、真に無肥料栽培の偉力を発揮させるには、種子も土壌も全然肥毒が消失してからであって、それにはどうしても二、三年を要するのである。

しかし割合肥毒の少ない土壌または新規開拓地等は、最初から増収を得る場合も相当ある。

要は、汚穢のない最も清浄なる土壌であらねばならない。それによって驚くほどの効果を挙げ得るのである。


故に無肥料栽培が全国的に行われるとすれば五割の増収は容易であり、農民の収入は現在の倍額となり、労働時間は現在の半分で済む事になろう。

以上が五六七の代(よ)の農耕と、そうして農民の生活状態である。」 (「自観叢書第2篇 無肥料栽培法」より)




明主様寸評 「無肥料栽培の非難」 (昭和24年8月13日発行)

「無肥料栽培の非難の声を耳にするが、その理由は、無肥料栽培をすると減産になるから、国家のため由々しき悪法であるというのである、

しかしこれ程おかしな話はない、何となれば欲のない農民は一人もあるまいからで、無肥料で成績が悪ければ一遍でやめるに決っている、

従ってかような非難の声は、ユスリのイヤがらせと心得て間違いはない。」




明主様評論文 「寄生虫問題」 (昭和24年10月29日発行)

「九月二十五日朝日新聞紙上「回虫恐るべし」と題し左の記事があった」


新聞記事
「二十一日から寄生虫予防週間が始まっている、戦後の悪条件が重なって今や腹中に虫を飼ってない日本人は珍しい、わけても回虫の繁殖ぶりはまさに空前で寄生虫病予防法による大まかな報告でみると、

昭和二十二年度の寄生虫保卵率(%)は北海道五二・五(三八・三)青森八九・一(六六・五)群馬九五・一、東京四八・七(二六・七)山梨九八・○(六四・七)、静岡七八・七(五四・○)大阪六六・八(五七・六)広島八一・四(五一・四)鹿児島九二・九(五六・五)となり、

カッコ内の昭和十三年度の数字に比べていかにふえたか判る、米軍第四○六綜合医学研究所の精細な調査によると、昨年九月から十一月の間の寄生虫保卵率(%)は埼玉九一・六、茨城九三・四、千葉八七・○、回虫は七四・二 六六・四 五五・八で十二指腸虫は三三・五 五九・○ 四五・七もあり、肝臓ジストマ、日本住血吸虫もそれぞれ数%発見されている。

従来農村専門だった回虫が、最近は都会にまで進出、さらに従来一人二、三匹を出なかった腹の虫が昨今は十数匹から百数十匹、ひどいのは百、三百と大量飼育者がふえて来た、

こうなると顔色が悪いとか、食欲不振の騒ぎではなく、腹痛はおろか肝臓肺臓をくい破られ、

しまいには腸につまって人間を殺す、最近どこの病院にも死後解剖して、やっと回虫のしわざと判明した例が二つ三つ必ずあるようだ。」(新聞記事は以上)



明主様御解説
「以上の事実によってみても、本教が奨励しつつある無肥料栽培が、いかに虫害撲滅の福音であるかが判るであろう。」




明主様御教え 「農業の新発見に就て」 (昭和25年1月14日発行)

「最近新聞紙によれば「電熱によって無肥料でも稲作が二倍の増産をした」という発見が出ていたが、

この電流による増産法も古いもので、一時は相当注目された事もあったが、いつとはなしに消えてしまった、

それは一時的であって漸次効果のないことが判るからである、何となれば農業は人体と同様で飽くまでも自然でなければならないにかかわらず、人為的方法に意を用いたがる、

右の二倍増産も実は無肥料による効果の方が多い事はいうまでもない、

肥料迷信に罹った人の眼からみれば肥料なしの増産は電力によるからだと誤認したものである。」




明主様御教え 「主食の不足はどうすればいい」 (昭和25年1月21日発行)

「長い間国民が悩み抜いて来たインフレも、ほぼ終焉(しゅうえん)されたかのようにみえるが、

なるほど騰勢(とうせい)はたしかに挫(くじ)けたがその実質はなかなか眼に見えて表われない、

相変らず物価高に悩んでいる、戦前に較べてみればいまだ百倍以上を保っているにみても明らかである。

そうして物価のなかなか下らないその原因を検討してみる時、何よりも著しいのは労銀の高値である、

何事業をみても資材は相当下落したものもあるが、ひとり人件費のみは更に下向く気配はない、

とすればこれは何が原因であるかを考えるまでもなく、食糧の下らない事である、

原因はもちろん主食の不足からで、どうしても相当量を輸入に仰がなければやってゆけない現状にあるからで、また止むを得ないのである、

ゆえに真にインフレを克服し、物価の安定を計るとすればどうしても人口を養うだけの食糧の自給が出来なければならない事は判り切った話で、問題は主食増産の一途あるのみである。


以上の意味において、主食の増産はいかにすればいいかという事で、それに解答を与えるのが、

本教主唱の無肥料栽培で、五割増産可能の実例報告によってみてもいかに確実であるかを知るであろう、

ゆえに何らの疑惑なく、一日も早く全国の農事に関係ある諸君の実行に移されん事である、

これによってこそインフレ克服が可能である以上、経済安定と共に、わが国の社会不安の解消にもいかに役立つかは量り知れないものがあろう。」




御注意 (昭和25年5月20日発行)

「各地から、数ある報告を御覧になった明主様は、予期した事とは言いながら、非常にお喜びであります、

ただしかし、予想報告は物足りないから、今後は実績報告のみにされたいとのお言葉でありました。

また、紫雲英(レンゲ)であるが、これを肥料に使う事は不可である、

何となれば紫雲英は美しい花で、神様は人間の眼を楽しませるために、お作りになったものである以上、

肥料に使用する事は、天理に外れているからであるとのお話であります。」




明主様戯文 「糞の弁」 (昭和25年10月18日発行)

「糞(ふん)の弁とは、詰めれば糞便と言う事になる。

日本人は昔から、糞を田圃(たんぼ)にまいて稲に吸わせ、その稲が吸った糞便を、また人間が吸うのであるから、

いわば人間という万物の霊長は、糞溜といってもよかろう、だから人間の体に虫が湧くのは当り前だ。

赤ン坊によく湧く蟯虫(ぎょうちゅう)などは白い細い虫で、まず小型の蛆虫である。

このように糞尿肥料を有難がってる日本人くらい、汚い人種はあるまい。

それで判った事は、日本語には糞に関した事が非常に多い。

まず第一大祓(おおはらえ)の祝詞の中でさえ、糞屁許多久の罪という言葉もあるくらいだ、従って、日常使う言葉にも沢山ある。

まず眼糞、鼻糞、耳糞、歯糞は元より糞ッ垂れ野郎、何ッ糞、糞でも喰え、糞面白くもねえ、糞味噌に言いやがるだの、

屁ッピリ虫奴、屁みたいな話だ、屁の河童だ、屁でも嗅ぎやがれ、尻でもしゃぶれ、尻の穴奴、尻メドの小ッポケな奴だ、

尻を持って来やがる、尻ぬぐいをさせられた、尻切りとんぼ、蛆虫野郎、蛆虫同然、蛆虫毛虫だとか、

あいつは、チト臭いぞ、臭い訳があるんだよ、臭い事をしてやがる、臭い仲だ、臭い物に蓋(ふた)をする等々、

まだまだあるだろうが、ザットかいただけでこのくらいとしたら、日本は全く威張れない国だよ、

とすれば我が自然農法が行き渡る暁こんな嫌な言葉は、過去のものとなろう。

いかがです、諸君、これだけかいたんで腹の虫も少々治まったようだ。へーサヨウナラ。

このようにあんまり尻からこき出すように言うと、糞イマイマしい、といって尻をまくってブーブー言ってくる奴があるかも知れないから、こちらもへーへー言って屁コタレない内、この辺で屁をひって、尻つぼめとしよう。」




明主様御教え 「藁に就て」 (昭和25年12月20日発行)

「今度、多くの自然農法の報告を見るとどうも藁(わら)に頼りすぎる傾きがある。

本当をいうと、別段藁をやらなくても、増収に変りはないのである。

ただ寒冷地などで土が冷える場合、温めるために藁を使うのである。

そして藁は出来るだけ細かく切る方がよい。

長いと根伸びを妨げるからである。

どうも今までの肥料迷信が抜け切れず、藁の成分に肥料があるように思うようだが、そんな事は決してない。

いつもいう通り、土自体が肥料の塊のようなものであるから、土を重視し、土の機能を充分発揮させるようにすればいいのである。」




読後のお言葉 自然農法体験者座談会  (昭和26年5月2日発行)

「右について、明主様よりの御注意がありましたから左の通り御取次致します。

種は変えない方がいい、一つ種で続けると段々よくなる。

なぜなれば、肥毒が段々抜けるからである。

また土質に合うとか合わないとかいうのは、間違っている。

一つ種で一つ所へ栽培を続ければ、土質の方からそれに合うように、漸次変化するのである。

何としても種にも、土にも、肥毒が沢山含まれているから、これを早く抜かなければならない。

肥毒が抜けるだけは増収するのである。

次に、西瓜(すいか)が出来が悪いというのは、恐らく種と、土とに肥毒があったに違いない。

肥毒さえなくなればいかなる野菜でも、量も、質も、必ずいい結果となるのである。」




明主様御教え 「無肥四十年の蜜柑」 (昭和26年12月5日発行)

「私は最近無肥料で、四十年間に及んだという蜜柑(みかん)を作っている信者の人から献上されたので、

早速食べてみたが、その美味たるや実に何ともいえない美味さで、到底筆や言葉で表わす事は出来ない生まれて初めての旨さである。

これについていつも果物や野菜を無肥料で作ったといって信者からいろいろ貰うが、なるほど普通のものより確かに美味ではあるが、何かしら物足りないものがあるようで、美味満点とはいえないが、

これは全く土か種かに肥毒が残っているためであって、どうしても肥毒の抜け切るまでには、四、五年以上経たなければならない。

それで初めて本当の味が出るのである。という訳で、もしも右の蜜柑のような純粋な無肥果実を店で売るとしたら、それこそ評判になって、どれほど沢山売れるか分らないであろう。

また外国へ輸出でもすると、輸出額も他に見られない程の巨額に上るであろうから、

国家経済にも大いにプラスになるのは間違いあるまいなどと、そんな事も思ってみたのである。

ところが近頃清浄野菜といって、人糞を使わない野菜を売る店がチョイチョイ出来たそうだが、

なるほど蛔虫その他の寄生虫防止にはなるが化学肥料を使う以上、味はよくないに決っている。

だから信者の中でその道に経験のある人は、無肥料野菜でも果実でもいいから、大いに栽培して売ったら、金の儲かる事は請合である。

しかし単に金儲けばかりではない。自然栽培の実物宣伝にもなるから、一挙両得という訳である。どうです、信者の人で早速始めたらと思うのである。」




明主様御教え 「ビルマ米に就て」 (昭和27年1月30日発行)

「ビルマ米についての疑問であるが、数年前本教の一農民が試作したところ、日本米に比べて約三倍の収穫があったので驚いたのである。

ところが暫くしてから、新聞紙上に確か越後地方かと憶えているが、全然無収穫という事が出ていた。

その後今度は出来る出来ないの両論があって、研究課題となっているという事が出ていたが、この理由は日本人には分るまい。

なぜなればビルマ地方は無肥料であるから、多収穫であるのが、日本では人為肥料を多量に施す以上、駄目に決っている。

その理由で前記のごとく本教農民であるから、無肥料のため多収穫となったのである。」




明主様御教え 「肥毒に就て」 (昭和27年4月9日発行)

「これは自然栽培に切換えて、一、二年から三年くらいの間は葉が黄色く、細々とした茎などのため近隣の人々から嘲笑され、注意されたりするので、

つい迷い心が出たり、恥かしい思いをしたりして、苦労する人がよくあるが、

それでも収穫の段になると予想外の好結果でホッとする例はおかげ話中によくあるが、

これはいつも言う通り最初の中の見てくれの悪いのは、無論肥毒の残っているためであるから、

そこを辛抱すれば、ついには最初から黄ばみなど少しもなく、青々とした有肥田に勝るとも劣らない姿になるが、

これこそ全く肥毒が解消したためで、そうなって初めて五割以上の増産は間違いないのである。

そうなるにはどうしても四、五年はかかると見ねばならないからこの点をよく心得ておくべきである。」




明主様御教え 「自然農法の勝利」 (昭和27年7月2日発行)

「今度新潟県佐渡地方の信者の、自然農法成績に関する座談会が開催されたその記事を読んでみると、今までにない快いものがあったのである。

というのは自然農法に切換えた最初の年から、一人の減収もなかったという事実で、全部初年度から二年、三年と漸次増収しつつある報告である。

しかも私の指示をよく守った人ばかりなのであるが、それは浄霊せずとも増収する事を、如実に示された点である。


しかし他の信者でも私の説を守らない訳ではあるまいが、どうも長い間の肥料その他の迷信から抜け切れず、ともすれば私の説を軽視しがちで、自分の考えが幾分でも混ざるため、それだけ成績に影響を及ぼすのである。

例えば水田は藁を細かく切れといってあるのに、非常に長く切ったり、その土地の習慣上堆肥といっても、糞尿とか馬糞などを交ぜたがる。

また指導者の中にも自分の考えが多少混ざる事もよくある。

といったように純粋堆肥を使わない人も幾らかあるようだが、充分注意されたいのである。


という訳で本当を言えば、自然農法においては指導者の必要はないのである。

何となれば私の説をよく噛み締めれば、それで充分解るはずだからである。

そうして不徹底な人の多くは、技術面に関心を持ちたがるが、本農法に限って技術は大して重視する必要はない。

常識で考えただけで沢山である。

何よりもこの原理の根本は、肥毒を早く消滅さして、土自体の性能を発揮させればよいからである。」




明主様御教え 「農耕者の迷信に就て」 (昭和27年7月2日発行)

「左の報告を読んでみると、従来の農耕迷信が、仲々抜け切らない事をよく物語っている。

その根本は何といっても、自然を無視したがる事である。

というのは水田の水分が多いとか少ないとか、色々な事を心配するため、余計な事をして、反って成績を悪くするのである。

というのは今までの人間の考え方はほとんど近視眼的で、深いところが分らないから、失敗の原因を作るのである。

それが科学文明の通弊でもあるから、何よりもその点に気が付かねばならない。

ところが我自然農法の原理は、実際と遊離したものではなく、実際と抱合っているのであるから、驚異的成果を得るのである。

全く科学以上の科学といってもいいのである。


次に厩肥(きゅうひ)の事もかいてあるが、厩肥といえども無論土を汚し、弱らすものであるから、それだけ成績が悪いに決っている。

としたら自然農法の原理は飽くまで土を尊び、土を愛し、汚さないようにする事である。

そうすれば土は満足し、喜んで活動するのは当然である。人間でいえば障害を受けないから溌剌たる健康者となるようなものである。

それが分らないから、不浄不潔なものを無暗にブッ掛けるので土は弱ってしまい、病人となるから害虫が湧いても殺す力がない。

これが不作の原因の一つである。というように今までの人間の愚かさは、言うべき言葉はないのである。


次にいつも聞く事だが、最初の内は有肥の田よりも見劣りがするので心配するが、

これは肥毒が残っているからで、種子にも土にも肥毒が抜け次第有肥田とは比べものにならない程、青々と立派に成育するのである。

しかしそうなるにはどうしても四、五年は掛るから、その心算(つもり)で辛抱する事である。


次に近来各地において病虫害の発生が益々酷くなるばかりだが、これも肥料のためであるにかかわらず、反って消毒薬などを用いるので、

これがまた土を弱めるから、病虫害発生に拍車をかけるようなものである。

このように人間の無知を神は憐れみ給い、自然農法こそ本当のやり方である事を、本教を通じて宣示され給うのである。」




明主様御教え 「自然栽培は花でもこの通り」 (昭和28年5月20日発行)

「右の写真(省略)は今度私の庭に栽培した約二百本のチューリップの中から、四本だけ枝が出た。その中の一本を写したのである。

以前から私はチューリップが好きで度々作っているが、枝が出たのは今度が初めてなので驚いたのである。

もちろん今までに見た事も聞いた事もないからで、しかも花は普通よりも二倍大で、色も非常に好く、赤色で水の滴るような鮮やかさなので、珍しいと思った。

これは信者の人が一昨年植えてくれたもので、昨年は普通の花であったが、今年は俄然として右のような花が咲いたので、全く昨年は球根に肥毒が残っていたからで、それが二年目の今年肥毒が大いに減ったためであろう。

従って来年は一層好い花が咲くに違いないと、今から期待している訳である。

しかも堆肥も使わず、土ばかりでこの成績なので自然栽培の威力は花卉類でも同様である事が分る。

これによってみても種子の肥毒は早く抜け、土の肥毒の方が暇(ひま)がかかる事が分るのである。

従って水田なども肥毒の多い土は、客土した方がいい訳である。

そうして寸法を計ってみたら

上の花は  丈(たけ)が三寸    直径 三寸九分

下の花は  同     二寸四分  同  四寸一分

茎の長さ  二尺一寸五分」




明主様評論文 「日本一米作に就いて」 (昭和28年5月27日発行)

「毎年朝日新聞社で、日本一米作の競技をしているのは、大抵の人は知っているであろうが、

本年の第一等は六石一斗三升二合で、耕作者は香川県のOYという人であるので、本教信者の某氏が、先日わざわざ訪ねてゆき詳しく訊(き)いたところ、

その人のいうには「化学肥料などをウンと施し、無理に成績を挙げたまでだから、今年一年限りで、来年は駄目です」という事なのでガッカリしたとの事である。

つまり好結果は競技の目的のためでしかない事が分ったのである。

というように連続的増産に関係がないとしたら、何ら意味をなさない訳である。

ゆえに少なくとも三カ年から五カ年くらいの平均収穫の競技をすべきで、それでこそ国策上プラスとなるので、本教の自然栽培がそれである。

すなわち年々収穫が増えるので、これが強味である。

しかも昨年のごときは我が自然農法の一等は、七石二斗であったから、本年は無論それ以上が期待される。

恐らくレコードを破るに違いないから、本年は同新聞社に出品するつもりである。」




明主様評論文 無 題 (昭和29年1月27日発行)

「去る十月二十日NHKの昼間放送「ひるのいこい」の中に、左のごとき話があったが、面白いと思いここに載せたのである。

その中で反対の結果に対し、農家の人達は、これはどうも解せぬといって、枯れた稲穂を前に、首をかしげて考え込んだというのであるが、

これこそ全く肥料迷信の目で見たためである事がよく分る。」


ラジオ放送の内容
「今日の「RFD便り」はまず水戸放送局の館野RFD通信員から届いたものをお伝えしましょう。

茨城県の「穀倉地帯」といわれる新利根川の流域も、今年は冷害やイモチ病のために大変な被害を受けました。

特に米を反当り十俵も穫ってやろうと硫安や緑肥をウンと注込んだ田圃では、稲が倒れたりイモチのために穂が真っ黒になったりして、見るも無慚(むざん)な姿になってしまいました。

それにこの地方では今年は螟虫(めいちゅう)退治のために「パラチオン剤」をしこたま撒いたため、

薬が効きすぎて田圃のエビガニや鰌(どじょう)までが死んでしまい、

こんどはそれがまた肥やしになって反ってイモチ病を激しくするというまことに皮肉な事になってしまいました。

ところがその反面手許(てもと)不如意のために思う丈(だけ)の肥料をやれなかったり、また手不足のために碌々(ろくろく)草もとらなかったような田圃が、反ってよく出来たりしたので、

農家の人達も「これはどうも解せぬ」といった面持で、枯れた稲穂を前に首をかしげて考え込んでおります。」