自然農法について 1
明主様御教え 「はしがき」 (昭和26年1月15日発行)
「今日、我国は戦争の創痍(そうい)いまだ癒えず、あらゆる部面に渉っての、種々なる困難はその解決たるや仲々容易ではない。
いわく食糧難、税の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)、金詰り、犯罪激増、住宅難、相変らずの病人の氾濫、特に結核患者の対策等々、難問題は山積している。
ところが、これら幾多の問題の中、その主眼とするところは、何と言っても食糧問題であろう。
今年の米作六千三百万石と見、人口の方は八千三百万人として、一人年一石八千三百万石は絶対量である、とすれば不足分二千万石は輸入に仰がなければならない。
としたらその金額は一石五千五百円とみて、一千億円の巨額に上るのであるから、このための経済のマイナスは大変なものである。
しかも農地面積は、これ以上増やす事は至難であってみれば、我国の特質である人口増加の趨勢を喰止める以外に手段はない。
産児制限もそのためではあるが、仲々予期のようにはゆかない。
相変らず相当の増加振りである。
とすればこの事が我国にとって、最も大きな悩みであろう。
しかしながら、この難問題といえども、数年間にしかも至極容易に、解決出来得る方策を吾らはもっている。
すなわち新農耕法である。
これを直ちに実行すれば、日本は到底想像もつかない程の幸運に恵まれるのであるが、ここに一大障碍物がある。
それは何であるかというとこの新農法は、これまでの農業とは全然反対であるからである。
それがためいかにこの原理を説いても、農耕者は容易に受入れようとしないのである。
しかしこれは無理かもしれない。
何となれば、我農民が先祖代々幾百年に渡って、実行しつつあった方法を一朝にして放棄する事は出来まい。
しかしそれは、実は大変な間違いで、一生懸命増産しようとするその方法が、実は減産の方法でしかないのである。
従ってただ言葉だけでは、急に掌を返えすような訳にはゆかない以上、私は理論と共に実地によって解らせようとし、十数年前から、それを行って来たのであるが、
漸次予期以上の驚異的成果を挙げ得るようになり、近来非常な勢いをもってこの農法栽培者が激増しつつある現状であるが、
何しろ日本全国に行渡らせるには仲々の大事業であると共に、食糧難の方は年を逐うて切迫の度を加えつつあるので、
この実状をみては到底晏如(あんじょ)としてはいられない。
ここに意を決して大々的宣伝を行うべく、まずこの小冊子を刊行したのであるから、これを読めば理論と実際とがよく判り、
農民諸君は固(もと)より、一般人士といえども納得がゆくであろう。
従って是非一読の上、一日も早く実行に着手されん事を、希望してやまないものである。」 (「自然農法解説」より)
明主様御教え 「土の偉力」 (昭和26年1月15日発行)
「そもそも、自然農法の原理とは、土の偉力を発揮させる事である。
それは今日までの人間は、土の本質を知らなかった。否知らせられなかったのである。
その観念が肥料を使用する事となり、いつしか、肥料に頼らなければならないようになってしまった。
全く一種の迷信化したのである。何よりも私が最初の頃、いかほど無肥料栽培を説いても、全然耳を傾ける者がなく、一笑に付せられたものである。
それが段々報いられて、近年、年毎に自然農耕者が増加し、収穫においても、至るところ驚異的成果を挙げている。
しかし今のところいまだ信者の範囲を出でないが、漸次各地方においても未信者の間に共鳴者続出し、本栽培者は非常な勢いをもって激増しつつあるにみて
やがては、日本全土に行渡る日も、左程遠くはあるまいとさえ予想さるるのである。
右のごとくであるから、本農法宣伝は単的に言えば肥料迷信打破運動と言ってもよかろう。
そうして、人肥金肥は一切用いず、堆肥のみの栽培であるから、その名のごとく自然農耕法というのである。
もちろん堆肥の原料である枯葉も枯草も、自然に出来るものであるからであって、これに引換え金肥人肥はもとより、
馬糞も鶏糞も、魚粕も木灰等々天から降ったものでも、地から湧いたものでもなく、人間が運んだものである以上、反自然である事は言うまでもない。
そもそも、森羅万象、いかなるものといえども、大自然の恩恵に浴さぬものはない。
すなわち火水土の三原素によって生成化育するのである。
三原素とは科学的に言えば、火の酸素、水の水素、土の窒素であって、いかなる農作物といえども、この三原素に外れるものはない。
神はこのようにして、人間の生命の糧である五穀野菜を過不足なく生産されるよう造ったのであるから、この道理を考えてみればよく分る。
神は人間を生まれさせておきながら、その生命を繋ぐだけの食料を与えないはずはない。
もしその国が有する人口だけの食糧が穫れないとしたら、それは神が造ったところの、自然の法則にどこか叶わないところがあるからである。
としたら、これに気付かない限り、食糧問題の解決など思いもよらないのである。
以上のような、大自然の法則を無視した人間は人為的肥料を唯一のものとして、今日に到ったのであるから、食糧不足に悩むのは、むしろ当然と言うべきである。
全く自然の理法に盲目であったための応報としかも言うべきであろう。しかもそれに唯物科学という学理が拍車をかけたので、ついに今日のごとき食糧難時代を来したのである。
この意味からいえば現在の農耕法は、進歩どころではなく、事実は退歩したといってもよかろう。
従って自然尊重の農耕法こそ真理である以上、いかに不作でも一人一年一石として、我国の人口八千三百万とすれば八千三百万石は必ず生産されるべきである。
これは大地を叩く槌は外れてもこの理は外れる訳はないのである。
私が唱える自然農法とは、右の理が根本であって、現在日本の食糧不足による農民の疲弊困憊(こんばい)なども、実行次第で難なく解決出来るのである。
この誤りを見そなわれ給う神としては、捨ておけぬという仁慈大愛の御心が、私を通じて自然農法の原理を普く天下に知らしめ給うのであるから、
一刻も早くこれに眼を醒まし、本農法を採用すべきであって、かくして農民諸君は全く救われるのである。
さきに述べたごとく、火水土の三原素が農作物を生育させる原動力としたら、日当りをよくし、水を充分供給し、浄土に栽培するとすれば、今までにない大きな成果を挙げ得る事は確かである。
いつの日かは知らないが、人間は飛んでもない間違いをしでかしてしまった。
それが肥料の使用である。全く土というものの本質を知らなかったのである。
なるほど肥料をやれば一時は相当の効果はあるが、長く続けるにおいては漸次逆作用が起る。
すなわち作物は土の養分を吸うべき本来の性能が衰え、いつしか肥料を養分としなければならないように変質してしまうのである。
これを人間の麻薬中毒にたとえれば一番よく判る。人間が最初麻薬を用いるや、一時は快感を覚えたり、頭脳明晰になったりするので、その味が忘れられず、漸次深味に陥り、抜き差しならぬようになる。
こうなると麻薬が切れるとボンヤリしたり、激しい苦痛が起ったりするので、何にも出来なくなる。
ついに我慢が出来ず、悪いとは知りつつも用いるというように、麻薬から離れる事は出来なくなり、人の物を盗んでまでも麻薬を手に入れようとする。
これらの実例は新聞に絶えず出ているからいかに恐ろしいかが判るのである。
この理を農業に当嵌めてみれば直ぐ判る。
全く今日、日本全国の土壌は麻薬中毒、否肥料中毒の重患に罹っているといってもいい。
ところが農民は長い間肥料の盲信者となっているから、仲々目が醒めない。
たまたま吾々の説を聞いて、自然農法すなわち人為肥料を廃止するや、最初の数ケ月は思わしくないので、
これを見た農民はやっぱり今まで通り、肥料をやらなければ駄目だと早合点し、それで廃めてしまうのが往々ある。
ところが、本農法は信仰が土台となっている以上、私のいう事をそのまま何の疑いもなく実行する。
それがため自然農法の真価が容易に判るのである。その経路をかいてみるが、まず最初苗代から本田に移した時、
しばらくの間は葉色が悪く、茎細く他田よりもまことに見劣りがするので、
それを見た付近の農民からは嘲笑され、本人も危惧を感じ、これで果していいのであろうかと、心配の余り神様に祈願したりして気を揉むのである。
ところが二、三カ月過ぎた頃から幾分立直りを見せ、花の咲く頃になると、余程よくなるのでやや愁眉(しゅうび)をひらくがいよいよ収穫直前になると、
普通あるいはそれ以上の成育振りに、ようやく安堵の胸を撫で下すのである。
さていよいよ収穫の段になると、これはまた意外にも数量など、予想よりもズッと多いと共に、品質良好、艶があり、粘着力強く、すこぶる美味であり、大抵は一、二等格か三等以下はほとんどないといってもいい。
しかも目方は有肥米よりも五ないし十パーセントくらい重い事で、特に面白いのはコクがあるから焚減(たきべ)りどころか、二、三割くらい焚増しとなり、
飯にすると腹持がよく三割減くらいで、いつも通りの腹具合であるから、経済上から言ってもすこぶる有利である。
ゆえに日本人全部が我自然農耕米を食すとすれば、三割増という結果になるので、現在程度の産額でも輸入米などの必要はない事になり、国家経済上いかに素晴しいかである。
そうして前記の経過を説明してみるとこうである。
最初の二、三カ月くらいの間、見劣りがするのは、種子にも田地にも肥毒が残っているためで、時日を経るに従い土も稲も肥毒が段々抜けてゆくので、本来の性能を取戻し、漸次好転するのである。
この理は農民にも判らないはずはないと思う。というのは洒水(しゃすい)をしたり、大雨が降ったりする後は不良田も幾分良好になる。
これなどは全く肥毒が多過きたのが洗われて減少したためである。また農民は少し作物の生育が悪いと客土をし、それでやや良好となるや、
農民の解釈は長い間土の養分を作物に吸われ、土は痩せたのだから、新しい土を入れればよくなるというが、これは誤りで
実は年々の肥毒により土が衰え痩土となったためで、右の農民の解釈はいかに肥料迷信にかかっているかが判るのである。
そうして自然肥料実施について説明してみると、稲作に対しては稲藁を出来るだけ細かく切り、それをよく土にこね混せるので、これは土を温めるためである。
また畑土の方は枯葉や枯草の葉筋が、軟かくなるくらいを限度として腐蝕させ、それを土によく混ぜるのである。
この理由は土が固まっていると植物は根伸びの場合、尖根(さきね)がつかえて伸びが悪いから、固まらないようにするのである。
それについて、近来よく言われる根に空気を入れるといいとしているが、これは空気が根にいい訳ではない。
ただ空気が根元に入るくらいであれば、土が固まっていないからである。これなども農学者の解釈は誤っている。
ゆえに、理想からいえば浅根の作物は畑土に、草葉の堆肥を混ぜるだけでいいが深根のものは特に畑土一尺くらい下方に木の葉の堆肥の床を作るといい。
これは土が温まるからである。ただしその厚さは、深根といっても色々種類があるから、それに応じた厚さにすればいいのである。
世人は堆肥にも肥料分があるように思うが、そんな事はない。
堆肥の効果は、土を固めないためと、土を温めるためと、今一つは作物の根際に土乾きがする場合、堆肥を相当敷いておくと、湿り気が保つから乾きを防ぎ得るという、以上三つが堆肥の効果である。
以上によってみても判るごとく、自然農法の根本は、土そのものを生かす事である。
土を生かすという事は、土壌に人為肥料のごとき不純物を用いず、どこまでも清浄を保つのである。
そうすれば土壌は邪魔物がないから、本来の性能を充分発揮し得る。
しかも面白い事には、農民は土を休ませるというが、これも間違っている。
作物を作れば作る程土は良くなる。人間で言えば働けば働く程健康を増すのと同様で、休ませる程弱るのである。
この点なども農民の解釈は逆であって、作物を連続して作る程養分が吸われるとなし、畑を休ませるが、何もかも実に間違っている。
この誤りのため連作を不可とし、毎年場所を変えるがこれなども論外であって、気の毒な程愚かである。
だから本農法においては連作を可とする。現に私が実行している例であるが、今年作った玉蜀黍(とうもろこし)のごときは連作七年に及んでおり、
しかも箱根強羅の小石混りの土で、恐らく不良土としては申分がない、
にもかかわらず本年の出来栄えなどは素晴しいもので、実付きは行儀よく密集し、棒は普通より長く、甘味があって柔らかく、美味満点である。
しからばなぜ連作がよいかというと、土壌は作物の種類によって、その作物に適応すべき性能が自然に出来る。
これも人間にたとえればよく判る。労働すれば筋肉が発達し、常に頭脳を使う作家のごときは頭脳が発達する。
また人間が年中職業を変えたり、居所を転々すると成功しないのと同様の理で、今日までいかに間違っていたかが判るであろう。
ここで、最後に言いたい事がある。
それは無肥料の桑の葉で養蚕すると、蚕は病にかからず、糸質すこぶる強靱で、光沢良く、その上増産確実であるから、
これが全国的に実行されるとすれば、蚕糸界に一大革命を起す事はもちろんで、国家経済上いかに大なる利益をもたらすかは、けだし測り知れないものがあろう。」 (「自然農法解説」より)
明主様御教え 「虫 害」 (昭和26年1月15日発行)
「近来、農村の悩みは、肥料代の高価と虫害と風水害との三つであろう。
肥料については、前項に詳説したから、既に解ったと思うから、次の虫害について詳しく述べてみよう。
まず、結論からいうと、害虫は肥料によって湧くと思えばいい。
それは肥料によって土壌を汚すため、土壌は変質し、土の性能は退化されると共に不潔物が残存する。
あらゆる物質は不潔なるところ必ず腐敗するのは当然で、そこへ小虫が湧き、細菌が発生する。
これは物質の法則であるとすれば、作物も同様である。
何よりも肥料溜(こえだめ)に蛆が湧くのでも判る。そうして害虫にも色々の種類があるのは肥料に種類があるからである。
近来、新しい害虫が発生するというが、もちろん新しい肥料が出来るからである。
農民が肥料溜のある付近は、害虫の発生が多いとよくいうのでも判るであろう。
今一つ重要な事は、害虫発生の場合駆除の目的で殺虫剤を撒布するが、これがまた非常に悪い。
何となれば、殺虫剤とは虫を殺すくらいの毒薬である以上、これが土に滲透すれば、土はその毒に中(あ)てられ、不良土となるのである。
従ってその土へ栽培された植物は、肥毒以外別な毒分まで追加されるので、土はいよいよ弱るので、人間と同様抵抗力がなくなり、害虫は得たりかしこしと、繁殖の勢を増す。
全く鼬鼠(いたち)ゴッコである。この点においても今日までの農法がいかに誤っていたかが判るであろう。
そればかりではない、硫安のごとき化学肥料は劇毒薬であるから、それを吸収した米を食うとすれば、自然人体も影響を受け、健康に悪いのはもちろんである。
それは血液が濁るからである。何しろ主食は一日三度ずつ、年が年中食っているとすれば、たとえ僅かずつでも積りつもって相当の毒分となり、これがあらゆる病気の原因となるのである。
ここで伝染病の真因を簡単にかいてみる必要がある。
そもそも伝染病とは細菌の侵入によって発病するのは誰も知っている。
しかしながらなぜ、細菌が侵入すると発病するかの理由は判っていない。
また細菌侵入するも発病者と未発病者とが出来る訳も医学ではいまだ解っていないのである。
この意味は以前出した私の著書に詳しく記いてあるからここではザット説明するが、黴菌とは、血液の濁りの原素である微粒子を食物とし、それを食いつつ繁殖するのであるから、菌の食物を有している人は発病するが、無い人は菌は餓死するから発病しないという訳である。
右のごとくであるから、発病者と未発病者とが出来るのはもちろん菌の食物の有無によるのである。
また保菌者といって菌があっても発病しない人があるが、これは菌の食物が発病する程の量もなく、そうかといって死滅する程少なくもないという言わば中間状態である。
とすれば、濁血者は発病し浄血者は発病しない事になるから、化学肥料のごときは、血液を濁す事はなはだしいので、近来伝染病や、結核のごとき、細菌による病人が殖えるのもそれが原因である。
この説は自画自讃かも知れないが、世界的大発見と言ってもよく、この一事だけでもノーベル賞の価値は充分あると思うが、
いかんせんノーベル賞審査員の学問程度が、右の説を理解する程に到っていない以上、致し方ないのである。
この理によって自然農法が全般に行われるとしたら、いかに病人が減るかは想像出来るであろう。」 (「自然農法解説」より)
明主様御教え 「風水害」 (昭和26年1月15日発行)
「次に、風水害であるが、これは年々増加の傾向にさえあり、その防止に官民共に大いに悩んでいるのは衆知の事実である。
その防止施設にはすこぶる多額の費用を要するので、現在としては止むを得ず、一時的間に合せ手段で我慢するより外止むを得ないが、
さりとて年々大きな被害を蒙っている以上、何とかしなければならない。
せめて今のところ被害を最小限度に喰い止めるより外致し方ないという訳だ。
ところが、我自然農法によれば、作物の根張りがつよく、茎折れなどは現在のそれよりも何分の一に減るばかりか、花落ちも少なく、冠水後の稲の腐敗もないから、
他田が相当被害を蒙る時でも、自然農法の田は被害という程の被害は認められない程で、人々はただ不思議がるのである。
その際根の先をよく調べて見ると、在来の有肥田のそれより、細根の数が非常に多く長いので、根張りが強靱なためである。
これは人間にたとえれば毒分のない新鮮な食物を常に摂取していると、健康であるのと同様の理である。
またこれはひとり稲や麦には限らないが、農耕者はよく作物の背丈が短く、葉が小さいのを可としているが、
これは実付きがよく収穫が多いからで、この点本農法がそうであって、いかに理想的であるかが判るのである。
しかも品質優良で、美味な点は経験者の異口同音に唱えるところである。
という訳は今までのごとき、有肥によると、葉に栄養分をとられるから葉が延びすぎ、それだけ実に影響を与えるのである。
また自然農法によれば、稲の分蘖(ぶんけつ)がすこぶる多く、今日まで最も優良なのは一粒の種で、分蘖百五十、粒数約一万五千という到底信じられない程の、驚異的記録もあった(これは後段に載せたから参照されたい)。
なお今一つの特長は、稲藁を使用する場合、非常に強く細工が仕良いそうである。」 (「自然農法解説」より)
明主様御教え 「寄生虫問題」 (昭和26年1月15日発行)
「人も知るごとく寄生虫問題は、今日非常に喧(やかま)しく言われている。
何しろ蛔虫(かいちゅう)保有者が日本人中、八○パーセント以上というのだから実に重大問題である。
蛔虫保有者が余りに多いため、反って世人はあまり関心をもたないが、実際上蛔虫によって死亡する者も、近来少なくないという事である。
普通蛔虫といえば数匹にすぎないが、人によっては数十匹ないし数百匹に上るものさえある。
こうなるとちょうどうどん玉のようになっていて、内臓機関へまで食い込んでゆくが、そうなると種々の苦痛が発する。
しかも人によってはその苦痛たるや、実に堪えられないものがある。
この原因は無論糞尿肥料によって、医学でも唱えるごとく蛔虫の卵が、野菜から人間の口を通じて胃に入り繁殖するのである。
ところがその他の蟯虫(ぎょうちゅう)、十二指腸虫、疥癬虫、水虫等々いずれも小虫の繁殖によるのであるが、医学ではいまだ病原不明とされているが、
私の研究によれば、実は人為肥料のためで、直接の原因ではないが、人肥によって血液が濁るから小虫が湧くのである。
この点パスツールの伝染説の誤れる事は、私は以前記いた事がある。
大体、人体に虫が湧くなどとは道理に合わないのである。
なるほど、死人ならとにかく、生きている人間に虫が湧くなどとは、不合理もはなはだしいと言わねばならない。
それは全く人間が天理に外れているからで、体内へ入れるべからざる不潔なものを入れ、血液を濁すからである。
この意味において、人間は新鮮な空気を吸い、清浄な水を飲み、不純物のない土から生じたものを食しかつ薬剤のごとき異物をなるべく用いないようにすれば、無病息災たる事はもちろんで、寿齢も百歳以上は決して不可能ではないのである。」 (「自然農法解説」より)
明主様御教え 「浄霊の偉効」 (昭和26年1月15日発行)
「自然農法を行う場合、浄霊による効果の顕著なる事は、増収報告の中に必ずあるのは、どういう訳かという事をかいてみよう。
自然農法の原理は、従来の人為農法によって土が汚されているため、土は活力を阻害され、本来の性能を発揮出来ないから、成績が悪いという原理を、農民は知らなかったので、
今日まで高い肥料を購い、結果が悪く骨折り損の草臥(くたびれ)儲けをして来たのを、私は神示によってその誤りを知り、
今までとは反対に土を清浄にする程、作物はよく出来るという原理を発表したのであって、
その通り実行したものは素晴しい成績を挙げている事は、本教刊行物に満載されている通りである。
それについて浄霊がなぜ農作物に、顕著な効果があるかという事を知りたい人は、沢山あるだろうからここにかくのである。
そもそも、万有は霊と体で成立っている事は、本教信者はよく知っているはずだが、もちろん、土も作物も、霊と体から成立っている以上、土が人為肥料によって汚されていれば、土の霊もその通り曇っている。
ところが一度浄霊するや、土の霊の曇りが減るから、その通り土の方も不純物が減り浄まるのである。
従って、清浄になった土は成育力が旺盛になると共に、作物の方も残っている肥毒が減るから、両々相まって、霊主体従の法則により、成育が旺盛になるのである。
これで大体判ったであろう。」 (「自然農法解説」より)
明主様御教え 「素人菜園に就て」 (昭和26年1月15日発行)
「前項までは、専門家のみを対象としてかいたのであるが、最後に素人栽培、すなわち家庭菜園についてかいてみるが、
何しろ素人栽培としても、肥料は糞尿を多く使わなければならないので、慣れない素人が糞尿を扱うとしたら、実に堪えられない苦痛である。
しかも撒く時はもちろん、その後幾日かの間は、部屋の中まで臭気が流れ込んでくるのだから、絶えず不快に悩まされ、実に非衛生的である。
殊に飯時などときては、考えただけでもウンザリする。そんな苦痛をしても大いに効果があるとすれば我慢もするが、
実はそれが反って成績不良の結果となるのだから、恐らくこんな馬鹿な話はあるまい。
今日まで知らなかったからとは言いながら、余りの無智に呆れるのである。
自然農法によれば、汚い臭い思いは全然なくなり、清潔で衛生的で、作物の出来がよく、量も多く、その美味なる事驚く程である。
しかも害虫の心配もないばかりか、蛔虫の危険もなく、第一葉色にしても、茎の形にしても実に今までの有肥のものより美しい。
従って自然農法を始めると、毎朝畠弄(いじ)りが実に楽しくなる。
今までは畠弄りなど楽しみよりも、気味が悪いのが先に立つ、汚物が撒いてあると思っただけでも、その上を歩く気にはなれない。
そうして、素人栽培にはこういう事がよくある。それは馬鈴薯(ばれいしょ)など実付きが悪いとか、実が大きくならないとか、トマトや茄子(なす)など、花落ちが多かったり、スのある大根が出来たり、胡瓜(きゅうり
)など根虫が湧いて枯れるとか、漬菜(つけな)類など完全な葉はほとんどなく、どの葉も穴だらけである。
以上いずれも人為肥料のためであるが、それに気が付かないため、素人は肥料が足りないからだと思い、益々多く肥料を与えるから、益々悪くなるという訳で、
誰しも本当の原因が判らないから、専門家に訊くが、専門家も肥料迷信に罹っている以上、
満足な解答は与えられないので困っている人が、世の中にはいかに沢山あるか知れない。
従ってそれらの人達が本農法を知ったなら、いかに救われるか、全く地獄から天国へ昇ったような気持となるであろう。」 (「自然農法解説」より)
明主様御教え 「結 論」 (昭和26年1月15日発行)
「以上、あらゆる角度から説いたに見て、本農法がいかに優越せるかは、読者諸君は最早充分理解されたであろう。
要するに本農法は、在来の根本的に誤っていた方法を革正し、行詰ってどうにもならない現在の食糧難を解決し、暗黒無明の農業界へ、天日のごとき光明をなげかけるという以外他意はないのである。
この意味において、これを本教の宣伝に利用しようなどの意図は毫(ごう)もなく、信者たらずといえども、何人も実行すれば、大増収を得らるる事は言をまたないのである。
従って、未信者である普通農民が本農法で栽培するとしても、左のごとき結果を得らるる事は確かである。
一年目 平年作または一、二割増
二年日 二割ないし三割増
三年目 三割ないし五割増
四年目 五割以上増
右の数字は、内輪に見積ったのであるが、それでも真実とは思えない程の成績であろう。
もちろん今日までの実験によって、割出したものであるから間違いはない。
ところがこれだけではない。増収以外有利な点を挙げれば、第一肥料代は零(ゼロ)となり、虫害や水害による被害高も何分の一に減ずると共に、
品位優良美味なるはもとより、搗(つき)減りなく、焚増し等の利益はもちろん、何よりも労力の半減する事である。
以上のごとく数え上げればまだ有利な点は、多々あるが、それは略すとして、本農法の出現こそ、農民にとっても、国家にとっても、空前の画期的、一大福音でなくて何であろう。
この驚くべき、新農法の成果を立証するため、以下十数項に及ぶ実験記録は、今秋集まった第一回分の中の一部である。(実験記録省略)」 (「自然農法解説」より)