体内の栄養生産機能について 1
明主様御教え 「消化機能は一大化学者なり」 (昭和11年2月20日御執筆)
「輓近(ばんきん)、営養学は大いに進歩したように見え、又世人もそう信じて居るのであるが、
実は進歩どころか、飛んでもない方向へ脱線している現状であって、
国民保健上、まことに痛歎に堪えないのである。
それは、営養と最も関係のある消化器能に関しての研究の結果が、はなはだ謬っている事が原因をなして居るのである。
現在の営養学においての認識によると、食物が一旦消化器能的活動力に遭うも、
その原質は飽くまでそのままであって、絶対に変化しないものと決めている事である。
随って、営養学者は、滋養食を摂取すれば、血液や細胞を増し、
又肉を食すれば肉が増成され、動物の生血を飲めば血液を増すと信じて、旺(さか)んに病者に奨めているのである。
試験管やモルモット、二十日鼠等の研究の結果を、直接人間に応用すればいいという、頗る単純なる解釈からなのである。
しかるに、実はこの消化機能なるものが、素晴しい化学者であって、
その化学者があらゆる食物を変質させるという事を知らないが為である。
これについて、私の研究を述べてみよう。
それは本来、消化器能の活動力は、あらゆる物を消化すると共に、
その原質を自由自在に必要なだけの営養素に、変化さしてしまうという事である。
その通例として、最も相似しているのは、彼の土壌である。
即ち土の上に、一個の種子である微粒を播くとする。
太陽熱の温波と月露、あるいは雨水と空気中の肥料等によって、いとも不思議な変化を起すのである。
即ち、美しき緑の葉を生じ、次に蕾を生じ、なおも進んで、嬋娟(せんけん)たる花を咲かすのである。
一個の見る影もない小さな芥子(けし)粒が、あの美しい花にまで変化するとは、誰か予想し得らるるであろう。
生命の神秘とその変化妙技こそ、まことに驚歎の極みであって、自然は実に一大化学者である。
それと同じ理であって、あらゆる食物が、食道を通過して、胃と腸に入るとする。
胃及び腸、その他の臓器の分掌的活動は、食物をして順次変化さしてゆく。
その変化力の神秘さは、人智では到底測り得ない。巧妙極まるものなのである。
そうして最後には血液、細胞、漿液等、生命に必要なだけの原素と化してしまうのである。
赤色である血液も、白い米や青い菜の変化であろう事は勿論である。
そして変化の基礎的主体は、何と言っても胃腸である。
故に、これら消化器能の本質的活動は、物質を変化さしてしまうその変化力なのである。
人間が言う所の営養食でも、非営養食でも、体内の化学者は、自由自在に生命を構成する原素にまで、
そして必要なだけの量にまで変化さしてしまうのであって、まことに素晴しい不可思議力である。
しかるに、今日の営養学者は、この変化力が認識出来ないのである。
それは、試験管の中や、モルモットの機能と、人間の器能と同じと思って居る事で、
実は非常な相異がある事を知らない為である。
第一、考えてもみるがいい。
人間はモルモットではない、又人体の内臓は試験管の内部とは全く異うのであって、
人間は飽くまで、特殊の高等霊物たる存在である。
これを、別な方面でたとえてみよう。
阿弗利加(アフリカ)の原住民に施した政治が、好結果であったからといって、
高度の文化国人へ対(むか)ってそのままの政治を行っても、決して成功するはずはない。
そして文化人と土人との違いさは、色の白いと黒いとの異いさだけで、人間としては同一である。
であるさえ右のごとくであるとすれば、モルモットで成功したからといって、人間に適合するはずはない。
こんな判り切っている事でさえ、今なお気が付かないのは不思議と思う程である。
それ故に、十年一日のごとく毎日モルモットの研究に没頭していても、恐らく解決は付かないであろう。
それらの学者達を見れば、実に気の毒であるとさえ、吾々は思うのである。
人間とモルモットを同一にしてる程に、単純な営養学は胃腸の変化力に気の付かないのも当然であろう。
器能の変化力を知らない営養学者は、ヴィタミンが欠乏していればヴィタミンをのませればよいと思っている。
ヴィタミンの欠乏は、ある物質をヴィタミンに変化させる。
その器能に故障があるのかも知れないのである。
又、そのある物質の不足かも知れないのである。
それ故に、ヴィタミンの不足という事は、ヴィタミンをのまない為ではない。
ヴィタミンに変化させる、ある物質の不足からとも言えるのである。
ここで再び私は、土壌と花の例を引きたい。
それはあの美麗な花も、似ても似付かない穢ならしい種を播けばこそ、それを土壌が変化させるのである。
だから直接、花を土に埋めても花は咲かない。
花は土壊の変化力に遇えば、反って枯凋(しぼ)んで、汚穢らしい芥(あくた)となり、
ついには土に還元するまでである。
これと同じ様に、ヴィタミンや血液とは、似ても似着かない営養の有りそうもない、
穢い種のような意味の食物を摂取すればこそ、
胃腸の変化力は、立派なヴィタミンや、血液や肉とまで変化させるのである。
故にその理を営養に当てはめてみれば、なお能く判るのである。
即ち、花のように完成したヴィタミンや、血液や滋養剤や、営養素を摂取すれば、
それを胃腸の変化力は、花を土に埋めて、芥にするごとくに、
同じ意味の糞尿とするであろう事は、まことに瞭(あき)らかな事である。
実に、土壌と胃腸は、すばらしい一大化学者である。」 (「新日本医術書」より)
明主様御教え 「栄養学」 (昭和18年10月5日発行)
「現代医学において栄養学は相当進歩されたと思われている。そうして医学における解釈は次のごとくである。
(某専門家の記事による)
「私どもは、毎日誰でも三度は大概欠かさずに食事をする。
これは日常体内で失われている物質を補うためと、一方では新しく身体の組織をつくる必要からである。
こうして体内では、断えず分解作用と合成作用の二つが行われているのである。
新陳代謝というのはこの二つを総称したものである。
ところで体内で食物がそれぞれ消化吸収されてそれから補給物質になったり、
合成物質になったりするまでにはどんな経過をたどるのであろうか。
まず蛋白質からいうと、消化器の中で分解されてアミノ酸になったのは、
腸壁から吸収されて血液の中へ入り肝臓を通過して血液と一緒に全身に送られて、各組織に分配されるのである。
かくして組織に達したアミノ酸は、そこでそのところの組織に特有な蛋白質に組立てられ、
一部分はアミノ酸からさらに分解されて尿素、尿酸、アンモニア、クレアチン、クレアチニンそれに無機塩類となって尿の中へ排泄されるものである。
以上のように蛋白は消化するとアミノ酸として組織の合成に用いられるが、
一部は含水炭素や脂肪と同じように燃焼して運動エネルギーとなるものである。
蛋白質はこの程度にしておいて、つぎは含水炭素だが、
この方は最後には単糖類のブドー糖に変化して腸壁から吸収されて静脈へ入り門脈によって運搬される。
したがって、含水炭素を一時に沢山とると、血液の中の糖分が増加してくる。
そして沢山とった時は肝臓に行ってグリコーゲンとして貯えられ必要に応じて、再びブドー糖となって補給されるのである。
このブドー糖は血液中の酸素によって酸化燃焼して、主として運動エネルギーを供給するが、同時にこの場合沢山の炭酸ガスを生ずる。
運動が激しければ激しい程ブドー糖の酸化作用はさかんで、
これに従って肝臓に貯えてあるグリコーゲンが引張り出されて補いをつけてゆく。
しかしブドー糖の酸化によって炭酸ガスを生ずるまでには、いろいろの中間産物がある。
尿酸はその一つで、従って尿酸の量を測ると疲労の程度が分るといってこれも行われる。
なおこの外に含水炭素の一部分は、体内で変化して脂肪となり沈着する。
で含水炭素の食品を沢山食べると体内脂肪が増加して次第に肥満してくるということになるのである。
つぎに脂肪であるが、これは胃の中で一部は消化吸収されることがあるが、
大部分は腸へ行ってから膵液中の脂肪分解酵素ステアプシンのために、
脂肪酸とグリセリンに分解され腸壁を通って吸収され、再び脂肪となり、
淋巴液と一緒に乳状態となって体内をめぐり静脈へ入って、
脂肪の一部はその後に体内脂肪として蓄積され、一部は酸化燃焼してエネルギーとなる。
しかし含水炭素と違って、これは主として熱のエネルギーとなって行くのである。」
右のごとく、その説明は詳細を極め、一見まことに感心されるので、一般人が信するのも無理はないのである。
しかしながら、いかに詳細を極めたる説明といえども、
それは死体の解剖や食物の分析、排泄物の試験等によって得たる
医学者の推定的想像の範囲を出でないと思うのである。
何となれば、人体の組織機能とその活動によって表われるところの生活力なるものは、
現在科学の水準よりも進かに高度であり、深遠であるからである。
従って、今日人間の健康に対し栄養学的に解釈し得たとしても、
それは煙突内から天を仰いで天の大きさを知ったと言うに等しいものであろう。
又名画の価値を定むるに当り、紙代と絵具代と労銀によるようなものであろう。
これを要するに、神秘霊妙なる人体とその生命を知悉せんとするには、
現代科学は未だ余りに水準が低いという事を認識しなければならないのである。
勿論科学の進歩はいずれの日かはそれを知り得る程度に達する事も予想されるのであるが、
私は科学者ではないから、科学的に説明はしないが、
実際と経験によって、真の栄養学はいかなるものであるかという帰納的論理を以て説くつもりであるから誤謬はないと思うのである。
そうして、今日栄養学といえば、カロリーやビタミン説に捉われ、
それによってすべて律しているが、私は断言するのである。
ビタミンが全然無い物を食ってさえも、人間は立派に生きてゆかれる事である。
そうして医学においての研究なるものは、食物の方にのみ偏して、
人体内における消化機能や栄養製産機能の作用を無視しているのでその点に根本的誤謬がある。
元来人体内のあらゆる機能なるものは実に偉大なる化学的製産者であって、
あらゆる食物を自由自在に変化させるのである。
しかるに、医学においては、この変化力という意味が未だ知られていないのである。
しからば、この変化力とはいかなるものであるか。
例えば、米飯や菜葉や芋や豆を食っても、それが消化機能という魔法使によって変化し血液となり、筋肉となり、骨となるという事である。
しかるに米飯や菜葉をいかに分析しても、血素の微粒、肉素の一粍(ミリ)だも発見し得られないであろう。
ただそれを食する事によって、体内で自然に各素が製出されるのであって、全く神秘偉大なる変化力である。
故にビタミンの全然ない食物を摂取しても、それを幾つかの機能の端倪すべからざる活動によって、
ビタミンのAもBもCもアミノ酸もグリコーゲンも、その他未発見のあらゆる栄養素も製出さるるのである。
従って、右の理によって考える時、こういう疑問が起るであろう。
即ち血液素の全然無い物を食う事によって血液が出来
ビタミンの絶無である物を食ってビタミンが製出されるとしたなら、
栄養と称して血液を飲んだりビタミンを摂取したりしたら、
それはどういうことになるであろうかという事であるが、それはこういう結果になるのである。
即ち、血液やビタミンが入るとすると、それらを製出すべき機能は、活動する必要がないから休止するのである。
従って、それら体内の一部の機能といえども休止する以上
相互関係にある他の機能も、休止又は退化するのは当然である。
卑近な例ではあるが、彼の牛が草や藁を食う事によって、
彼の素晴しい牛乳という美味な栄養汁が出来るが、
これは牛の体内の消化機能の活動による変化力のためで
これを今日人間がいかに機械力を以てしても、草や藁から牛乳を製出する事は不可能であろう。
右の理によって、ビタミン等の栄養素を摂取すればある期間結果は好いとしても、
その後に到って漸次機能が弱り、全身的弱体化するのは当然である。
恰(あた)かも車に乗れば一時は楽であっても漸次足が弱るというのと同様である。
故に栄養食を摂れば一時は身体は肥え、血色は良くなり、統計的にも好成績は表われるがある期間を過ぎれば弱体化するのである。
故に、今日栄養食実験の結果、一、二年の統計に表われたる好成績に幻惑されて、
栄養食奨励の策を樹てるのであるが、実に困ったものである。
故に、右の意味において人間の生活力を旺盛ならしむるには、
栄養機能の活動を促進させなければならないのである。
それには栄養の少い物を食って、体内の栄養製産機能を働かせるようにする事である。
勿論運動の目的もその為である。故に実際上昔から農民は非常な粗食であるが、
粗食をするから彼丈(あれだけ)の労働力が湧出するのである。
もし農民が美食をすれば労働力は減少するのである。
又、満州の苦力(クーリー)の生活力が強靭なのは有名な話であるが、
彼らは非常な粗食であって、しかも三食共同一な物を食っているというのに察(み)ても私の説は肯定し得らるるであろう。
しかるに今日の栄養学においては、種類を多く摂る事を推奨するがこれらも実際に当はまらない事は言うまでもないのである。
又、今回の大東亜戦争において、米英蘭の軍隊を敗退後調査したところによると、
彼らの食物は日本兵と比較にならない程、贅沢であったそうである。
この事実によってみても、美食である敵兵よりも粗食である日本兵が強いという事は全く私の説を裏書しているのである。
今一つの例を挙げてみよう。ここに機械製造工場があるとする。
その工場は原料たる、鉄や石炭を運び込み、それを職工の労作と、
石炭を燃やし機械を運転し種々の順序を経て初めて一個の完全なる機械が造り出されるのである。
それが工場の使命であり、工場の存在理由であり工場の生活力である。
これがもし完成した機械を工場に運び込んだとすると、工場は職工の労作も機械の運転も必要がない。
煙突からけむりも出ないという訳でその工場の生活は無いのである。
従って職工も解雇し、機械も漸次錆ついてその工場の存在理由は消滅するであろう。
人間もこれと同様であって、栄養食を摂るとすると、本来栄養食とはより完成した食物である。
しかもビタミンのごとき栄養素は特に完成されたものであるから、
体内の工場は労作の必要がないが故に、機能の弱るのは当然である。
故に、この意味において人間は、なるべく原始的粗食を摂って体内機能がそれを完全栄養素に変化すべく活動させるように為すべきである。
その活動の過程そのものこそ、人間の生活力となって現われるからである。
又、近来、食物を出来るだけ咀嚼すべしというが、これも大いに誤っている。
何となれば余りによく咀嚼すれば胃の活動の余地が無くなるから胃は弱るのである。
従って半噛み位即ち普通程度がよいのである。昔から「早飯の人は健康だ」といわれるが、これらも一理あるのである。
又、今日の栄養学は、穀類の栄養を軽んじている。
栄養といえば副食物に多く在るように思って種々の献立に苦心しているのであるが、
これも謬っている。
実は、穀類の栄養が主であって、副食物は従である。
むしろ、副食物は、飯を甘(うま)く食う為の必要物であるーと解してもよいのである。
この例として、私は先年日本アルプスへ登山した際、案内人夫の弁当をみて驚いたのである。
それは白い飯のみであって、全然菜は無いのである。
梅干一個も無いのである。私は「飯ばかりでうまいか」と訊(き)くと「非常にうまい」と言うのである。
それで彼らは十二、三貫の荷物を背負って、頗る嶮路を毎日登り降りするのであるから驚くべきである。
これらの事実をみて、栄養学者は何と説明するであろう。
右のごとく、菜がなく飯ばかりで非常にうまいという事は一寸不思議に思うであろうが、それはこういう訳である。
元来人間の機能なるものは、環境に順応するように出来ているから、
粗食を持続すれば、舌の方が変化してそれが美味となるのである。
この舌の変化という事は、あまり知られていないようである。
故に、反対に美食に慣れると、それが段々美味しくなくなるので、
それ以上の美食を次々求めるという、贅沢な人の例をよく見るのである。
故に、私のこの説を肯定するとすれば、現在最も重要問題とされている戦時食料政策に対しても、いかに絶大な利益あるかは、量り知れないであろう。
次に、食物について説いてみよう。
食物とは何ぞや、いうまでもなく人間を初めあらゆる生物を造られた造物主が、その生命を保たしむる目的を以て、
それぞれその生物に適合する食物を与えられているのは自明の理である。
故に人間には「人間が食すべきもの」として、大体定められているのである。
そうしていかなる食物が人間に与えられたるものでありやを知るべきであるが、これはまことに容易な事である。
何となれば、その条件として「味わい」なる要素があるから、それによってよく分るのである。
即ち、造物主は人間に対しては、味覚なる本能を与え、食物には「味わい」なるものを含ましてある。
この理によって、すべての食物にはそれぞれの味わいがあり、
それを楽しみつつ食する事によって栄養となり、生が営なまれるのである。
故に、ビタミンがどうの蛋白質がどうのなどという事は、何らの意義をなさないのである。
前述のごとく、ビタミンのごとき栄養素が仮に人体に必要であるとすれば、
いかなる食物からでも体内の機能が製産し、変化させるのであるから、
食物に関する限り自然でよいので、特に栄養学などと、学問的に研究する必要がないのみか、却って有害でさえあるのである。
この理によって、各人それぞれの環境、職業、体質等によって、嗜好物にも自然差異が生ずるのであるが、
その時欲する物は、その人に必要であるから摂ればよいのである。
喉の涸(かわ)いた時、水がほしいのと同様である。
ここで、食物の性質について述べてみよう。
元来 栄養なるものは、野菜に最も多く含まれている。
従って、栄養だけの目的からいえば、穀類と野菜だけで充分健康を保持し得らるるのである。
故に実際上、全然野菜を食せず、魚鳥獣等の肉のみを以て生活すれば、敗血症を起す事は周知の事実である。
これに反して、野菜のみを食って病気をおこすという事は、未だ聞かないのにみても明かである。
そうして面白いことは、人間の性格なるものは、食物の種類によって、大いに影響を受けるものである。
即ち、野菜のみを食する時は性格が柔順になり、無抵抗思想となるから、国民的には、国際的敗者となるのである。
彼の印度が滅びたのは、宗教的原因にもよるが
それよりも同国民の食物が、ほとんど野菜と牛乳にある事が、その主因であろう。
又動物においても、ライオンや虎のごとき肉食獣は獰猛性(どうもうせい)なるに反し、
牛馬のごとき草食動物は柔順なるにみても瞭(あきら)かである。
従って、菜食者は自然、物質的欲望や野心等の積極性が乏しくなるから、
現代文化の社会においては、その境遇や職能により魚鳥獣等の肉をも食しなくてはならないのである。
又、現在のごとき国際競争や民族闘争の旺(さか)んな時代においては、獣肉も必要となるのである。
即ち肉食は競争心や闘争意識を湧出せしむるからである。
彼の白色人が常に闘争を好み欧羅巴(ヨーロッパ)に戦乱が絶えないという事実も、右の理由にもよるのである。
近来、一部の論者に、肉食が非常に害があるように言うが、これは謬っている。
元来食物に毒素があるとしても、それは極軽微であって、
自然浄化によって消失するから、肉食も程度を越えない限り差つかえないのである。
以上の意味において、食物の種類は、各人の境遇や職能によって、取捨選択すべきである事が判るであろう。
しかしながら、人間はいかなる境遇にあるも、八拾歳以上になれば、
物質的欲望や闘争意識の必要はなくなるから、菜食にすることが、最も良いのである。
そうする事によって健康にも適し、より長命を得る事になるのである。
右によってみても、粗食がいかに健康増進に適するかという事は明かである。
しかるに、今日罹病するや、栄養と称し動物性食餌を推奨する以上、
かえって衰弱を増し、病気治癒に悪影響を与えるという結果になるのである。
次に、牛乳についてであるが、牛乳は歯の未だ生えない嬰児には適しているが、歯が生えてからは不可である。
それは歯が生えるという事は、最早固形物を食してもいいという事である。
消化機能が発達して固形物が適するようになったという事である。
これが自然である。
故に栄養と称して成人した者が牛乳を飲用するという事はその誤りである事は言うまでもない。
どういう害があるかというと、全身的に衰弱するのである。
さきに述べたごとく、食物を余り咀嚼してさえ衰弱するのであるから、
牛乳のごとき流動物においては、より以上衰弱を来すのは当然である。
成人者が牛乳飲用の可否について、私に問う毎にいつも私は、
嬰児と同様の食物を摂るとすれば、その動作も嬰児と同様に這ったり抱かれたりすべきではないかと嗤(わら)うのである。
これらも学理に偏し実際を無視した医学の弊害である。
次に、罹病するとよく粥に梅干を摂らせるが、これらも大いに間違っている。
元来 梅干なるものは、往昔戦国時代に兵糧の目的を以て作られたものである。
それは出来るだけ容積が少なく、少量を食して腹が減らないという訳である。
故に今日においては、登山とかハイキング等には適しているが、病人には不可である。
病床にあって運動不足である以上、消化し易い物を食すべきである。
故に、健康時においても、梅干を食う時は、食欲は減退するものである。
次に、栄養と称し、小児によく肝油を服ませるが、これも間違っている。
それは食物中には、米でも麦でも豆でも菜でも、それぞれ特有の油分はあるのであるから、体内の機能がすべての食物から抽出する。
それで、過不足なくちょうど好いのである。
即ち、糠からは糠油がとれ、菜種からは種油、大豆からは大豆油が採れるにみても明かである。
しかるに、油のみを飲用する事は偏栄養的で、不自然極まる事である。
即ち油だけを飲めば、体内機能中の油分抽出機能が退化するから、結果は勿論悪いにきまっている。」 (「明日の医術 第1編」より)
明主様御教え 「栄養食」 (昭和18年11月23日発行)
「医学上、栄養についての解釈は、試験管的研究によって帰納せる所をもって、そのまま人間に応用しているのである。
そうして私の研究によれば、栄養食摂取の結果として体重が殖えたり、血色が好くなったりするので是と信じているのであるが、
実は右のごとき成果は一時的であって、その後に到って体力が衰えるという事に気がつかないのである。
ゆえにもし栄養食が、医学でいうごとく効果あるものとすれば、
常に美食を摂る所の上流階級程、体力強盛でなければならないはずであるに係わらず、
事実はその反対であるにみても、その誤りは明らかである。
その他農村青年よりも都会青年の方が、いかに体位が低下しているかという事も、徴兵検査の成績によって明らかである。
なる程農村人は労働をするから体位が優っているという理由もあろうが、
私は粗食であるためという事の方がより大なる原因と思うのである。
また医学においては、ビタミンとか蛋白質、含水炭素、アミノ酸、グリコーゲン等の栄養素を云々するが、これらも大いに誤っている。
それはこれら栄養素を体内に入れる時は、反って体力を低下させるのである。
何となれば右のごとき各種の栄養素は、人体内の機能それ自身が作出するものであるからで、
決して体外より補給すべきものではないからである。
ゆえにもし体外より補給するとすれば、その作出機能の活動の余地がなくなるため、その機能の低下するのは当然である。
元来人体内の機能は相互連帯であるから、一機能が衰えれば全体の機能も影響を受けるのは当然である。
この意味において、より完成せる物程機能を弱らせる訳であるから、今日の栄養学がいかに誤っているかを知るであろう。
これらについて拙著「結核問題と其解決策」中に詳説してあるから、参酌されたいのである。」 (「結核の正体」より)
明主様御教え 「栄養の喜劇」 (昭和24年6月18日発行)
「栄養の喜劇とは、随分変な題と思うであろう、私もこんな言葉を用いたくはないが、
外に適当な言葉を見出せないから読者は諒されたいのである。
そもそも今日一般に何の疑いもなく信ぜられ実行されつつある栄養学なるものは、全然誤謬以外の何物でもないのである、
この誤れる栄養学が有害無益の存在であるにかかわらず、
最も進歩せる文化の一面と信じ盛んに世に行われているのであるから、
それに要する労力や費用の厖大なる事は、実に惜みても余りあると言うべきである。
私がこのような大胆不敵にして狂人とも見られそうな理論を発表するというのは
今日の現状に対し到底黙止する事は出来ないからで、以下出来るだけ詳細に書いてみよう。
今日栄養剤としてまず王座を占めてるビタミンA、B、Cを初め
アミノ酸、グリコーゲン、含水炭素、脂肪、蛋白等を主なるものとし多種多様なものがあるが、
これらを服用または注射によって体内に入れるや一時的効果はあるが持続的効果はないのである、
しかもその効果たるや結局は逆効果となるのであるから
栄養剤を持続すればする程人体は衰弱が増すのである。
これはいかなる訳かというと、そもそも人間が食物を摂取するという事は、
人間の生命を持続させ生活力を発揮させるためである事は今更説明の要はないが、
この点の解釈が今日の学理はあまりに実際と喰違っているのである。
さて人間が食物を摂るとする、まず歯で噛み食道を通じて胃中に入り
次いで腸に下り不要分は糞尿となって排泄されるのである、
この過程を経るまでに肝臓、胆嚢、腎臓、膵臓等あらゆる栄養機能の活動によって
血液も筋肉も骨も皮膚も毛髪も歯牙も爪等々一切の機能に必要な栄養素を生産、抽出、分布し
端倪すべからざる活動によって生活の営みが行われるのである、
実に神秘幽幻なる造化の妙は到底言葉には表わせないのである、これがありのままの自然の姿である。
右のごとく、人間が生を営むために要する栄養素は総ゆる食物に含まれており、
食物の種類が千差万別多種である事はそれぞれ必要な栄養素の資料となるからであると共に、
人により時により嗜好が異なったり、要求が同一でないのは体内の必要によるからである、
例えば腹が減れば飯を食う、喉が涸くから水が飲みたい、
甘いものを欲する時は糖分が不足しているからで、
辛いものを欲する時は塩分不足のためである、
という訳で人間自然の要求がよくその理を語っている。
何よりも人間が要求するものは必ず美味いという事によって明らかである、
ゆえに薬と称して服みたくもない不味(まず)い物を我慢して食う事のいかに間違っているかが判るのである、
昔から「良薬は口ににがし」などという事は大変な誤りで、
にがいという事は毒だから口へ入れるべき物でないと造物主が示しているのである、
この理によって美味である程栄養満点であって、美味であるのは食物の霊気が濃厚であるからである、
新鮮なる程魚も野菜も美味という事は霊気が濃いからで、
時間が経つに従い味わいが減るという事は霊気が発散するからである。
ここで栄養剤について説明するが、
そもそも体内の栄養機能はいかなる食物からでも必要な栄養素すなわち
ビタミンでも何でも自由自在にちょうどよい量だけ生産されるのである、
つまりビタミンの全然ない食物からでも栄養機能の不思議な力は必要だけのビタミンを生産するのである。
このように食物中から栄養素を生産するというその活動の過程こそ即人間の生活力である、
早く言えば、未完成物質を完成させるその過程に外ならないのである。
この理によって、栄養剤を摂るとすれば、栄養剤は完成したものであるから
体内の栄養生産機能は、活動の余地がないから自然退化する、栄養機能が退化する以上、
連帯責任である他の機能も退化するのは当然で、身体は漸次弱化する事になるのである。
これについて二、三の例を挙げてみよう。
以前アメリカで流行されたフレッチャーズム喫食法という食事法があった、
これは出来るだけよく噛み、食物のネットリする程よいとされている、
これを私は一ケ月間厳重に実行したのである、
ところが漸次体力が弱り、力が思うように出なくなったので驚いてやめ、
平常通りにしたところ、体力も恢復したのであった、
そこでよく噛むという事が、いかに間違っているかを知ったのである、
それはいかなる訳かというと、歯の方でよく咀嚼するから、胃の活動の余地がない、
という訳であるからすべて食物は半噛みくらいがよいのである、
ゆえに昔から早飯早糞の人は健康だといわれるが、
この点現代文化人よりも昔人の方が進化していた訳である。
また消化薬を服むと胃の活動が鈍るから胃は弱化するからまた消化薬を服む、
また弱化するという訳で、胃病の原因は胃薬服用にあることは間違いない事実である、
長い胃腸病患者が消化の良いものを喰べつつ治らなかった際、
たまたま香の物で茶漬など食い治ったという例はよく聞くところである。
前述のごとく未完成食物を喰い、完全栄養素に変化させるその活動こそ人間生活力であるという事を、機械製造工場へたとえてみよう。
最初、工場に原料資材を搬入するとする、工場は石炭を焚き、機械を動かし、職工が活動し漸次完成した機械が作られる、
その過程が工場としての存在理由である、
これを反対に完成した機械を工場に搬入するとすれば、
工場は労作の必要がないから石炭も焚かず、機械も動かさず職工も必要がない、という訳で工場は閉鎖するより仕方がない。
以上のごとく私は出来るだけ判りやすく説明したつもりであるが、
この理によって考えれば栄養剤という何らの味もない物に多額の金銭を費やし反って身体を弱らせるというのであるから、
喜劇というより評しようがないのである。
これが珍標題を付けたゆえんである。」
明主様御教え 「栄 養」 (昭和26年8月15日発行)
「私は前項までに、薬剤の恐るべきものである事を、詳説したから最早判ったであろうが、
ここに見逃す事の出来ないのは、栄養に関する一大誤謬である。
まず結核の項に動物性蛋白の不可である事を述べたが、こればかりではない、
全般にわたってはなはだしい錯誤に陥っているのが、近代栄養学である。
その最もはなはだしい点は、栄養学は食物のみを対象としていて、人体の機能の方を閑却されている事である。
例えばビタミンにしろ、ABCなどと種類まで分けて、栄養の不足を補おうとしているが、これこそ実に馬鹿馬鹿しい話である。
それは前述のごとく体内機能が有している本然の性能を無視しているからである。
というのはその機能の働きが全然判っていないところに起因する。
機能の働きとは人体を養うに必要なビタミンでも、含水炭素でも、蛋白でも、アミノ酸でも、グリコーゲンでも、脂肪でも、
いかなる栄養でも、その活動によって充分生産されるのである。
もちろん全然ビタミンのない食物からでも、栄養機能という魔法使いは、必要なだけは必ず造り出す事である。
この理によって、人体は栄養を摂る程衰弱するという逆結果となる。
すなわちビタミンを摂る程ビタミンは不足する。
これは不思議でも何でもない。
というのは栄養を体内に入れるとすると、栄養生産機能は活動の余地がなくなるから退化してしまう。
言うまでもなく栄養とは完成したものであるからである。
本来人間の生活力とは、機能の活動によって生まれるその結果であるから、
機能の活動特に消化機能の活動こそ生活力の主体であって、言わば生活力即健康である。
そうして機能を活動させる事とは未完成な食物を完成にすべき機能の労作である。
何よりも空腹になると弱るというのは食物を処理すべき労作が終ったからであり、
早速食物を摂るや、再び活動を始めると同時に、身体が確(しっ)かりするのにみて判るであろう。
しかも人体すべての機能は、相互関係にある以上、根本の消化機能が弱れば他の機能も弱り、回復すれば他も回復するのは当然である。
また人間に運動が健康上必要である事は言うまでもないが、
それは外部的に新陳代謝を旺盛にするのが主で、
もちろん内部的には相当好影響はあるが、根本的でなく支援的である。
どうしても消化機能自体の活動を促進させなければならない。
それには消化のいいものではだめで、普通一般の食物がいいのである。
ところが医学は消化の良いもの程可とするが、実は消化の良いもの程胃を弱らせる。
その上よく噛む事を奨励するが、これも右と同様胃を弱らせる。
この例として彼の胃下垂であるがこれは胃が弛緩する病気で、全く人間が造ったものである。
というのは消化のいい物をよく噛んで食い、消化薬を常用するとすれば、胃は益々弱り、弛緩するに決っている。
何と愚かな話ではないか。
これについて私の経験をかいてみるが、今から三十数年前、アメリカで当時流行したフレッチャーズム喫食法というのがあった。
これは出来るだけよく噛めという健康法で、私は実行してみたところ、初めはちょっとよかったが、
約一ケ月くらい続けると段々弱り、力がなくなって来たので、
これはいかんと普通の食べ方に還ると、元通り快復したのである。
以上によってみても判るごとく、医学はほとんど逆的方法であるから、健康が良くなるはずがない。
また他の例としてこういう事がある。
乳の足りない母親に向かって牛乳を奨めるが、これもおかしい、
人間は子を産めば育つだけの乳は必ず出るに決っている。
足りないという事は、どこかに間違った点があるからで、その点を発見し是正すればいいのである。
ところが医学ではそれに気が付かないのか、気が付いてもどうする事も出来ないのか、
口から乳首まで筒抜けになっているように思っているとしか思えない。
これが飛んでもない間違いで、牛乳を呑むと反って乳の出が悪くなる、
それは外部から乳を供給する以上、乳を生産する機能が退化するからである。
また病人が栄養として動物の生血を呑む事があるが、実に呆れたものである。
なるほど一時は多少の効果はあるかも知れないが、実は体内の血液生産機能を弱らせる、その結果却って貧血するようになる。
考えても見るがいい、人間は、白い米やパンを食い、青い菜や黄色い豆を食って、赤い血が出来るにみて、何と素晴らしい生産技術者ではないか。
血液の一耗だもない物を食っても、血液が出来るとしたら、血液を呑んだら一体どういう事になろう、言うまでもなく逆に血液は出来ない事になる。
そこに気が付かない栄養学の蒙昧は、何と評していいか言葉はない。
彼の牛という獣でさえ、藁を食って結構な牛乳が出来るではないか、いわんや人間においてをやである。
これらによってみても、栄養学の誤謬発生の原因は、全く自然を無視したところに原因するのである。
そうして人間になくてはならない栄養は、植物に多く含まれている。
何よりも菜食者は例外なく健康で長生きである。
彼の粗食主義の禅僧などには長寿者が最も多い事実や、先頃九十四才で物故した、英国のバーナードショウ翁のごときは有名な菜食主義者であった。
以前こういう事があった。
ある時私は東北線の汽車に乗ったところ、隣にいた五十歳くらいの、顔色のいい健康そうな田舎紳士風の人がいた。
彼は時々洋服のポケットから青松葉を出しては、美味(うま)そうにムシャムシャ食っている。
私は変った人と思い訊ねたところ、彼は誇らし気に自分は十数年前から青松葉を常食にしていて外には何も食わない。
以前は弱かったが、松葉がいい事を知り、それを食い始めたところ、最初は随分不味(まず)かったが、段々美味(おい)しくなると共に、
素晴しい健康となってこの通りだと釦(ボタン)を外し、腕を捲って見せた事があった。
また最近の新聞に、茶殼ばかり食って、健康である一青年の事が出ていた、これは本人の直話であるから間違いはない。
以前私は日本アルプスの槍ヶ嶽へ登山した折の事、案内人の弁当を見て驚いた。
それは飯ばかりで菜がない、訊いてみると非常に美味いという、
私が缶詰めをやろうとしたら、彼は断ってどうしても受けなかった。
それでいて十貫以上の荷物を背負い、十里くらいの山道を毎日登り下りするのであるから驚くべきである。
これは古い話だが、彼の江戸中期の有名な儒者、荻生徂徠(おぎゅうそらい)は、
豆腐屋の二階に厄介になり、二年間豆腐殼ばかり食って勉強したという事である。
また私はさきに述べたごとく、結核を治すべく三ケ月間、絶対菜食で鰹節さえ使わず、薬も廃めてしまったが、それで完全に治ったのである。
このような訳で私は九十歳過ぎたら大いに若返り法を行おうと思っている。
それはどうするのかというと、菜食を主とした出来るだけの粗食にする事である。
粗食はなぜいいかというと、栄養が乏しいため、消化機能は栄養を造るべく大いに活動しなければならない。
それがため消化機能は活溌となり、若返りとなるからである。
とすれば健康で長生きするのは当然である。
また満州の苦力(クーリー)の健康は世界一とされて、
西洋の学者で研究している人もあると聞いている。
ところが苦力の食物と来たら大変だ。
何しろ大型な高梁(こうりゃん)パンを一食に一個、一日三個というのであるから、栄養学から見たら何と言うであろう。
これらの例によっても判るが、今日の栄養学で唱える色々混ぜるのをよいとするのは、
大いに間違っており、出来るだけ単食がいいのである。
なぜなれば栄養生産機能の活動は、同一の物を持続すればする程その力が強化されるからで、
ちょうど人間が一つ仕事をすれば、熟練するのと同様の理である。
それから誰しも意外に思う事がある。
それは菜食をすると実に温かい。
なるほど肉食は一時は暖かいが、時間の経つに従って、反って寒くなるものである。
これで判った事だが、欧米にストーブが発達したのは、全く肉食のため寒気に耐えないからであろう。
これに反し日本人は肉食でないため、寒気に耐え易かったので、住居なども余り防寒に意を用いていなかった。
服装にしても足軽や下郎が、寒中でも毛脛(けずね)を出して平気でいたり、女でも晒(さらし)の腰巻一、二枚で、
今の女のように毛糸の腰巻き何枚も重ねて、なお冷えると言うような事などと考え合わすと、なるほどと思われるであろう。
今一つここに注意しなければならない重要事は、近来農村人に栄養が足りないとして、魚鳥獣肉を奨励しているが、これも間違っている。
というのは前述のごとく、菜食による栄養は根本的ですこぶる強力であるから、労働の場合持続性があって疲れない。
だから昔から日本の農民は男女共朝早くから暗くなるまで労働する。
もし農民が動物性のものを多く食ったら、労働は減殺される。
何よりも米国の農業は機械化が発達したというのは、体力が続かないから、頭脳で補おうとしたのが原因であろう。
ゆえに日本の農民も動物性食餌を多く摂るとすれば、機械力が伴わなければならない理屈で、この点深く考究の要があろう。
右によってみても判るごとく、身体のみを養うとしたら、菜食に限るが、そうもゆかない事情がある。
というのはなるほど農村人ならそれでいいが、都会人は肉体よりも頭脳労働の方が多いから、それに相応する栄養が必要となる。
すなわち日本人としては魚鳥を第一とし、獣肉を第二にする事である。
その訳は日本は周囲海というにみてもそれが自然である。
元来 魚鳥肉は頭脳の栄養をよくし、元気と智慧が出る効果がある。
また獣肉は競争意識をさかんにし、果ては闘争意識にまで発展する。
これは白人文明がよく物語っている。白色民族が競争意識のため、今日のごとく文化の発達を見たが、
闘争意識のため戦争が絶えないに見て、文明国と言われながら、東洋とは比較にならない程、戦争が多いにみても明らかである。
以上、長々と述べて来たが、要約すればこういう事になる。
人間は食物に関しては栄養などを余り考えないで、ただ食いたい物を食うという自然がいいのである。
その場合 植物性と動物性を都会人は半々くらいがよく、農村人と病人は植物性七、八割、動物性二、三割が最も適している。
食餌を右のようにし、薬を服まないとしたら、人間は決して病気などに罹るはずはないのである。
ゆえに衛生や、健康法が、実際と喰違っている以上、反って手数をかけて悪い結果を生むのであるから、
すべて自然に従い、あるがままの簡素な生活をする事こそ、真の文明人の生き方である。
最後に、栄養学中最も間違っている点をかいてみるが、それは彼の栄養注射である。
元来人間は口から食物を嚥下(えんか)し、それぞれの消化器能によって栄養素が作られるように出来ている。
これをどう間違えたものか、皮膚から注射によって、体内へ入れようとする。
恐らくこれ程馬鹿馬鹿しい話はあるまい。
何となればそのような間違った事をすると、消化器能は活動の必要がなくなるから、退化するに決っている。
すなわち栄養吸収の機能が転移する事になるからである。
まず一、二回くらいなら大した影響はないが、これを続けるにおいては非常な悪影響を蒙るのはもちろんで、
これなどにみても、全く学理に捉われ、自然を無視するのはなはだしいものと言えよう。」 (「結核の革命的療法」より)