健康の真諦は自然尊重 1
明主様御教え 「健康の真理」 (昭和25年4月20日発行)
「そもそも、健康を説くに当って第一に心得るべき事は、健康の真諦は自然順応であり、自然尊重である事である。
それについてまず考うべき事は、造物主すなわち神が人間を造られた御目的は何であるかという事である。
吾らの解釈によれば、それは真善美の完き世界を造る事である。
といってもこんな途方もない説は容易に受入れ難いであろう。
もちろん、そのような理想世界は何万、何十万、何百万年かかるかは分らない、
としても世界はそれに向かって一歩一歩進歩向上しつつある厳然たる過去の事実を見れば否定も出来得ないであろう。
そうして神は霊で人間は体であり、両々相まって無限の進歩を遂げつつあるのが実相で、その担当者として人間があるのはいうまでもない。
以上のごとくである以上人間の責任たるや実に大なりというべきであると共に、
この大事業を遂行する何よりの条件としては、人間の健康である。
この意味において神は人間にはそれぞれの使命を与え、
任務を遂行するに足るだけの健康を与えられているのは当然である。
何となればもし健康を害うとしたら、神の御目的は達せられないからである。
まずこの道理を基本として深く考えるとしたら、健康こそ人間の本来であり、常態であらねばならない。
しかるに不思議にも人間は病気に犯されやすい。
すなわち異常体となるのである。
とすればこの事の根本が明らかに判り異常体を正常体に復活せしむる事こそ神の御目的に添う事になるのである。
右の意味によって、人体の異常化を検討する時、何を発見するか。
それは何よりも自然に反するためという事である。
ゆえにこの反自然の実態を把握し訂正し、常態に復元する事こそ真の医学であって、
その復元の可能であるこそ、正しい医学のあり方である。
したがって反自然とはいかなるものであるかを以下詳説してみよう。
人間がこの土に生れるや、最初は人乳または獣乳を飲む、
これは歯がいまだ生えず、消化器能も出来たての脆弱性であるからで、
漸次、歯も生え揃い、体内器能も一人前になるに従って、それに適応すべき食物を摂る事になる。
また食物もあらゆる種類があり、それぞれ特有の味わいを含んでおり、
人体の方にも味覚を与えられ、楽しんで食するようになっている。
その他空気も火も水も、人間の健康に必要な程度に存在しているというように、実に完全に出来ている。
人体といえども頭脳から理性も記憶も感情も生れ、手によって物は造られ、足によって人体を自由に移動せしめ、
毛髪も皮膚も爪も眼、鼻、口、耳等必要なものは、実によく備わっている。
加うるに顔貌から全身まで皮膚によって包まれ、それぞれの美を発揮している。
ざっとみただけでも、以上のごとくで、仔細に検討する時、言葉では言い表せない造化の妙技である。
一輪の花、一枚の葉、山水の美、鳥獣虫魚の末に至るまで、神技の素晴しさに感歎せざるを得ないのであるが、
特に人間に至っては全く造物主の傑作である。
特に種の保存としての生殖作用至妙に至っては言語に絶するものがある。
このような神の大傑作である人体である以上、
病という人間活動を阻止するような異変は、いかに反自然的過ちを犯しているかを考えるべきである。
人間たるもの、この事に最も反省しなければならないのである。」
明主様御教え 「自然療法」 (昭和10年御執筆)
「元来、人間なる者は、神が造り給うた、森羅万象の中において、他に比ぶべき物なき最高の芸術品ともいうべきものである。
神に似せて造ったという聖書の言葉は、確かに真理である。
故に、その霊妙不可思議なる構造たるや、到底科学などに依って解明せらるべきものではない、
ただ極表面又は一部分のみが漸(ようや)く科学に依って知り得た位のものであるから、
科学に依って解決するには、今後、幾千年を要するか、
又は結局解決出来得ないかは断言出来ないのである。
少し落着いて考えてみるがいい、人間の四肢五体の働きは勿論の事であるが、
微妙なる意志想念の動き、喜怒哀楽等の心の表現、蚤の歯で喰ってさえ痒(かゆ)くって堪らない程の神経の敏感、
舌一枚で、あらゆる意志を伝え、その舌が又あらゆる飲食を味わい、
又世界の人類十八億をみても、一尺に足らない顔が尽(ことごと)く違うという不思議さ、
それら諸々の事を考えただけでも、造物主の創作力に対し、讃嘆せずにはおられない。
特に、生殖作用に到っては、一個の人間を創造さるる過程の神秘さは、言葉に絶するものがある。
故に、ロボットのごとく、科学で造った人間でない限り、生命の神秘は、科学では解決付かない事は当り前の事である。
人あるいはいわん、恐るべき天然痘が種痘に依って解決出来たではないかと。
しかし、その事について、観世音よりの霊告に依れば、実は、何千年以前は、天然痘はなかったのである。
それが人間の罪穢に依って出来たものであって、ハンセン病、梅毒等と同じ様なもので、
彼のハンセン病が一名天刑病と言わるるに見ても判るのである。
その罪穢の清算たる天然痘の、その清算を免れんが為の種痘であるから、本当から言えば決して良くないのである。
これが為に、人間の健康を弱らせ、寿命をいかに縮めつつあるかは、天然痘に罹るよりも、その損失は甚大なのである。
しかし、今日といえども、行を正しくなし、天則に反せざる人であったならば、
種痘をしなくても決して、天然痘に罹るべきはずがないのである。
とは言うものの、そういう立派な人間は、未だ寥々(りょうりょう)たるものであるから、
大光明世界実現までは、種痘も又止むを得ないであろう。
大光明世界になった暁は、今日の伝染病や重病は全く跡を絶つのであって、風邪とか下痢位が、病気として遺るだけなのである。
次に、人間が一度病気に罹るや、それを駆逐解消すべき、人間自体の大活動が起るのである。
それは、自家製造の薬が出来るのである。
人間の肉体は、元々大薬局と医学博士を兼ねた様なもので、
病気という不純物が侵入するや否や、肉体内に病院を建ててる自家医学博士が即時診断、
即時薬剤師に調剤させて病気治療を始めるのである。
それは素晴しい薬や機械であって、実によく治すのである。
毒な物を食えば、早速、体内薬局から下剤をかけて下痢をさせ排出するのである。
悪い黴菌が飛込めば、熱という大殺菌作用の治療法が行われ、
又、物に中毒をすれば、内臓へ入れまいと外部へ押出して、皮膚に赤く斑点を現わし、痒みと熱を以て消失せしめ、
又中毒によっては、腎臓の大活動となり、水分で洗い、小便に依って排泄せしめ、
塵埃を多量に吸えば、痰にして吐き出す等、実に巧妙を極めたものである。
であるから、あらゆる病気は、自然に放置しておけば大抵は治るのである。
それを知らないから、科学で研究された薬や療法を用ゆるので、
それが自然治療作用へ対して、大いに妨害になり、病気を長延かせるのである。
これを実証するには、諸君、もし病気に罹ったら極めて自然に放置せられよ。
その全快の神速なる意外の感に打たるべし。
ただし、その場合、徹頭徹尾自然を尊ぶので、寝たければ寝、起きたければ起き、歩きたければ歩き、
食べたければ喰べ、喰べたくなければ食欲の起るまでは、二日でも三日でも喰べないでいい。
熱が高ければ水枕位はいいとして、出来るだけ、手当をしないのがいいのである。
こうすれば、いかなる病気も、実によく治るのである。
自然療法を推奨すると、医学は全然、必要がないかというと、
そうばかりでもない。医学の中にも、全然、無益でないものもある。
それは、細菌学、衛生学の一部、戦争の際の外科、歯科医学、接骨等である。」 (「日本医術講義録 第1篇」より)
明主様御教え 「惟神医術」 (昭和18年10月5日発行)
「私が創始したこの医術こそは、真の日本医術であり、日本的療法と思うのである。
それについて私は、別の方面から観察してみたいのである。
別の方面とは何であるかというと、それは日本神道即ち惟神(かむながら)の大道によってである。
そうして、惟神の大道とは、私の考察によれば、日本之道否日本人の道、否々未来における世界人類の道であると思うのである。
しからば、惟神とはいかなる意味であるか。
これについて、昔から今日まで種々に説かれているが、
私は惟神之道とは、大自然の道というのが最も適切ではないかと思うのである。
元来、天地間の森羅万象あらゆる物の生成化育、離合集散、栄枯盛衰は自然の理によるので
それによって無限の進展を遂げつつあるのがこの世界であって、
その実相を観る時、不自然なるがごとくにして自然であり、
偶然に似て必然であり、空漠たるごとくにして厳然たる法則あり、
全く人間の叡智や学理によっても到底窺知し得べからざるものがある。
そうして、大自然の動きは真理そのものである事は勿論である。
そうして真理の具現者であり、宇宙の支配者である者、それを尊称して神というのである。
故に、宇宙意志というも神の意志というも同一である。
この理によって大自然そのものが神の意志であり、大自然の実相が神意の具現であるといえよう。
この意味において、人間なるものは大自然の中に呼吸し、大自然の力によって生育するのである。
故に、生死といえども大自然即ち神意のままであるべきである。
故に、大自然に逆えば滅び、大自然に従えば栄えるのは言うまでもない。
この理によって人間の師範とすべき規(のり)は全く大自然であって、大自然のままに行く、
即ち大自然に習う事こそ、神意に習う事であり、神意のままに進む事であり、それがカムナガラである。
実に惟神とは玄妙至極な言霊(ことたま)というべきである。
右の理を人間の健康に当嵌(は)めて解釈する時それは明かである。
即ち人間は何が故に生れたかという事である。
勿論、神がこの土を経綸する上の必要から生れさせられたのであって
各人それぞれの特徴を具えているのは、そういう意味からである。
故に、生命の命は、命令の命の字である。
故に、生命のある間、神の命を奉じて生き活動すべきで、その命を疎かにしてはならないのである。
死ぬ・・・即ち生命が亡くなるという事は、命令を解かれる事である。
従って、人間は神の受命者であるから身を浄め心を清めて使命遂行に精進しなければならないのである。
昔から人は神の子とか神の器とか、神の宮とかいうが、右の意味に外ならないと思うのである。
しかるに、神の最高の受命者ともいうべき人間が、健康を害ねるという事は、大自然即ち神意に背いているからである。
従って、いかなる点が反自然であるかを発見すること、それが根本問題である。
しかしながら、人間の悲しさ、それを発見する事が不可能であるが為、
止むを得ず、機械や薬剤を以て、病気を治癒しようとしたのであるから、
一時的効果より以上に出でなかったのである。
そうして、前述のごとき惟神、即ち自然のままという事は決して難しい事ではない。
まことに簡にして単である。
即ち健康についていえばまず人間は生れた以上、幼時は母の乳を呑み、生育するに従って普通食を摂るので、
それは大自然は人間の食物として五穀、野菜、魚鳥なるものを、
人間の嗜好に適するよう千差万別の形状、美観、柔軟、五味、香気等を含ませ造られてある。
故に人間は、その土地において生じたるもの四季それぞれの季節に稔ったる物を楽しんで食せばいいのである。
そうして各自に与えられたる職域を遂行し、教育勅語を範として実践躬行(きゅうこう)、
これをつとむるにおいて、不健康など有り得べきはずはないのである。
又、大自然は、天地間あらゆる物に、浄化作用なるものを行うのである。
この事は、大祓(おおはらい)の祝詞中にあるごとく、祓戸四柱の神の担任せられ給うところであって、
たとえていえば、地上に汚穢(おわい)が溜れば風に吹き払い、雨水によって洗い浄め、天日によって乾燥させるのである。
また一軒の家においても、塵埃が溜ればそれを払い掃き水で洗い拭き清めるので、
それらの事は人間においての病気、即ち浄化作用と同様である。
従って、この場合、自然に放置すれば治癒するのは当然である。
又浄化作用の期間中、発熱や痛苦等によって労務に耐えなければ休養すべきであり、
食欲がなければ食わなければいいのである。
それが自然である。
そうして人間の浄化作用は人間自身の体が行ってくれるから、まことに都合がいいのである。
故に、この意味において私の提唱する医術と健康法は飽くまで自然を本とし、
自然に準(なら)うというので、惟神医術という所以(ゆえん)なのである。」 (「明日の医術 第2編」より)