寸言寸評集
寸 言 (光号外) (昭和24年5月30日発行)
「医者が患者に対していう言葉は実に徹底しない例えば
「そうする事になっている」
「そういわれている」
「そうする事がいいとされている」
「効果がある訳である」
「学理上そうなる」
・・・というように、決してそうすれば必ず治る、というような、断定的の言葉はないという事は確信がないからであろう。
病気治療の順序
まず病気にかかるとする、最初は西洋医学、次は漢方医学、灸点、民間療法、既成宗教、最後に本教
浄霊、解決
というのが実際である。」
寸 言 (光13号) (昭和24年6月18日発行)
・産制論者は
「子供の数は一夫婦で二人ないし三人が適当」・・・というが、これはおかしな話である、
子供は死なないという事を前提とするならばとにかく、
二人や三人では全部死亡するという事もあり得る訳である、
とすれば、子のない不幸な家庭がウンと殖える事はもちろんである、
ただし本教信者ならその論は成立つ、なぜなれば、子供の死などは滅多にないからである。
・よく病気の原因は暴飲暴食だというが、これほど理屈に合わない話はない、
もし暴飲暴食して苦しかったら、一日断食すればすっかり治る事は請合いだ、
断食すれば必ず腹が減る、食い過ぎたまんまいつまで腹がくちい人間は一人もあるまいからである。
・日本は重症患者だ、金詰りとは黄金が詰る、つまり糞詰りだ。
独立すなわち独り歩きが出来ないという事は、敗戦でブチノメされて足腰が起たないからだ。
思想悪化は結核で
犯罪増加は神経痛で
インフレは胃拡張で、米の不足はその為だ・・・
とすれば、これを治すには名医が必要だ、イヤ名医は出ている、ただみんなが知らないだけだ。」
寸 言 (光14号) (昭和24年6月25日発行)
・今世界的大戦争の真最中といったら驚くだろう、それもそのはず、眼に見えない・・・
神と悪魔の大戦いなんだ。
サテどっちが勝つか実に興味津々たるものがある。
・本教を発展させてくれるものは医学である・・・と聞いたら喫驚するだろう、
ところがだ病人を片っ端からお医者さんが治すとしたら、本教に来る者は一人もあるまい、
お医者さんの方であまりに治さないから、やむを得ず本教に縋ってくるんだ。
判ったか
・資本主義と共産主義とはブランコの両端だ、ドッチヘも行きそうでドッチへも行かない、あっちへ行ったりこっちへ来たりしている、
といって真中にも止らない、それで文化は進歩するんだ。
その真理が判った人が一人前だ。
・平和をもたらさんとして戦争をする、天国を生もうとして、地獄をつくる。
健康者たろうとして薬毒を服む、農業を発展させようとして肥料で土を殺す、幸福を得ようとして嘘をつき信用をなくす。
人類の福祉を増進する目的で発明発見をしたら、そのために恐怖時代が来そうだ。
寸 言 (光15号) (昭和24年6月30日発行)
・大政治家たらんとして小菅へ行き政治界から失脚する。
大富豪たらんとして隠匿や脱税で破滅する、給料を増すべくストを行い、事業を萎靡(いび)させ、給料を減らしている、・・・という。
何が何だか判らない事が判るには信仰だ。
・偉く見せようとする程偉く見えない、金が無い奴ほど金持に見せたがる。
小人物ほど、大法螺(おおぼら)を吹く。
本教が、目立たないように宣伝しないようにし、無理に信仰を勧めないようにした結果が、一遍に世の中へ知れ渡り、信者が激増することとなった。
これすなわち理外の理であり、二二ンが六であり、二三が八である、すなわち逆理の法である、これを悟れば世渡りは楽なんだ。
寸 言 (光16号) (昭和24年7月2日発行)
・腐敗するところ必ず黴菌が発生するとすれば、国民が腐敗するから社会悪が発生する、
狡い人間が殖えるから盗人が生れる・・・という理屈は原因があるから結果があるという事になる、
ところが、結果のみを防ぐ事に一生懸命で、原因をそのままにしているところに、無智があるんだ。
・雨がやんでもいまだ傘をさしている人があるという事は・・・
霊的文化が既に生れているのに体的文化に噛りついて離れないのと同様である。
・細菌によって、人体は浄化される、感冒に罹る事は唯一の健康法で、病気は生理作用で結構であるという、病気の不安から一掃された吾らの幸福。
アア実に、これ以上の幸福はあるであろうか。
明主様寸評 「本教と著名人」 (昭和24年7月23日発行)
「本教信者には、社会各層の著名人は数多くあるが、それを利用する事を好まない、
何となれば著名人の名を利用するという事は、その宗教の力が弱いからで、
宗教自体に力があれば、そのような必要はないからである。」
身体をこわす 寸 評 (光20号) (昭和24年7月30日発行)
「よく世の中で、身体を壊すという事をいわれるが、これほど滑稽な話はない、人間の身体は、ガラスや瀬戸物のような物質ではない、
これは全くその真相を知らないからで、実は病気とは身体をこわすどころか、身体を調えるためのものである、
よく下痢をすると、お腹をこわしたからというが、
実は健康に有害な毒素が排泄されるのではなはだ結構な事である。」
寝 冷 寸評 (光20号) (昭和24年7月30日発行)
「よく小児などが下痢をすると、寝冷えをしたからというが、これもおかしな話である、
下痢は毒素の排泄作用である以上、寝冷は結構ということになる、
この例として、私は若い頃から腹巻は決して巻かない、
また、六人の私の子供も腹巻は用いさせない。
腹を出してよく寝ているがそれで年中ピンピンしている。」
疫 痢 寸評 (光20号) (昭和24年7月30日発行)
「子供の病気の中怖ろしいのは疫痢とされている、
ところがその原因としてよく言われる事にはバナナとか餡(あん)気のものとか、すべて食物のためとしているが、そんな事は絶対にない、
疫痢は猛烈な浄化作用で、その浄化発生の直前食べた食物に罪を着せるという訳で全く真の原因が解らないためだ。」
明るい村と暗い村 寸評 (光21号) (昭和24年8月6日発行)
「最近聞いたところによると、本教信者が多数出来た村は非常に明るいそうである、
それに引換え、本教信者の少数な村は暗いそうで、これは当然である、本教は御光様の宗教だから。」
廃法府と立法府 寸評 (光21号) (昭和24年8月6日発行)
「議会は立法府だという、なる程年々、新しい法規を打樹てるからである、
ところがこれは自慢にはならない、実は社会悪が殖えるからで、
もし善人が殖えれば法規の必要がなくなるから立法の必要がない、
ゆえに国会が廃法府となるこそ本当の文化の進歩である。」
人間は物質か 寸評 (光22号) (昭和24年8月13日発行)
「人間を物と観る思想が殺人強盗を生み戦争を生む、何となれば物である以上大根や芋と同様であるからで実に恐るべき事だ、この人間を物と観る思想こそ唯物思想だ、
だから、この唯物思想をそのままにしておいて、いか程犯罪を無くそうとしたり平和運動を起したとて糠に釘であり、空念仏に過ぎないのだ。判ったか。」
無肥料栽培の非難 寸評 (光22号) (昭和24年8月13日発行)
「無肥料栽培の非難の声を耳にするが、その理由は、無肥料栽培をすると減産になるから、国家のため由々しき悪法であるというのである、
しかしこれ程おかしな話はない、何となれば欲のない農民は一人もあるまいからで、
無肥料で成績が悪ければ一遍でやめるに決っている、
従ってかような非難の声は、ユスリのイヤがらせと心得て間違いはない。」
名医・故入沢博士 寸評 (光23号) (昭和24年8月20日発行)
「博士の説によれば「医者はインチキをやらなければ飯が食えない」との事だが、これは名言である、
何となれば、治らないと知りつつも治ると言わなければならない、判らない病気も判ったような顔をしなければならない、
と云う訳であるからあまりに良心的であっては飯が食えないことになる、
もっともこれは医者には限らない、世間大抵のことは、多少インチキならざるものはないから、医師のみを責めるのは酷であるかも知れない。
また博士は「医師がなくなれば病人もなくなる」ということを云ったが、これは卓見か否かは見る人の判断に任せる、面白いのは博士の辞世である」
「利かぬとは思えどもこれも義理なれば 人に服ませし薬吾服む」
ホルモン 寸評 (光23号) (昭和24年8月20日発行)
「ホルモンのことをちょっと書いてみよう、周知のごとく疲労症や性欲減退、子宮発育不全等に多く用いられるが、
この薬剤の原料は男性に用いるものは女馬の尿から、女性に用いるものは青年男子の宿舎の便所の尿から抽出製剤するものであるから、
知らない人はこれを聞いたら顔をシカメルであろう。
元来人間の血液は清浄なるを可とする、その証拠には血沈診査の場合沈下が早い程不可としている、これは血液に混濁が多いためである、
従って、不純血液を病原とみる医学はこの点矛盾している訳だ。
ホルモン剤の効果は一時的で、その後は濁血者となり、病原保有者となる訳である。」
疥癬の原因 寸評 (光23号) (昭和24年8月20日発行)
「疥癬(かいせん)の原因は種痘のためである、種痘によって天然痘毒素の発生の力を弱められたので、毒素は緩慢な発生状態となる、それが疥癬である、
ゆえに重症疥癬は天然痘と同一症状であるに見て、疥癬とは慢性天然痘と言ってもよい、
したがって、種痘以前は疥癬病はなかったはずである。」
担板漢 寸評 (光23号) (昭和24年8月20日発行)
「阿含(あごん)経に担板漢(たんばんかん)という言葉がある、これは板を担いでる男という事である、
つまり片一方は見えても他の一方は板のため見えないという意味で
ちょうど今の唯物主義と同様、物質のみが見えて霊の方が見えないという訳である。」
黴菌は根絶出来るか 寸評 (光24号) (昭和24年8月27日発行)
「世間一般、黴菌は有害とされているが、もし黴菌は有益だといったら狂人としか思うまい、
ところがだ、人間体内の毒血を浄血にする役目が黴菌なのだ、
だから伝染病とは浄血作用で黴菌が体内に入るや、血液中の毒素を食うそれが黴菌の食物なのだ、
ゆえに食物の多い程繁殖し、食物がなければ餓死する、ゆえに保菌者というのは黴菌の食物の量が生活するだけはあるが、繁殖するだけはないという訳だ、
この理によって伝染病を根絶するには黴菌から食物を取り上げてしまえばいい。
そんなうまい方法が世の中にあるかというだろうが、その方法が立派にある、すなわち本教浄霊法である、
これによれば黴菌の食物は消滅し浄血者となる、この結果として黴菌は餓死するから根絶する、
そればかりか、黴菌という掃除夫を運搬する役目の蝿も失業者となるから、この世から跡を絶つのはもちろんである。」
結核新薬に就て 寸評 (光24号) (昭和24年8月27日発行)
「結核に対する新薬くらい現われては消え現われては消えるものは外にあるまい、これは何によるかという事の私の見解を述べてみよう。
吾々が常に唱うるごとく薬剤なるものは、浄化作用である病気を一時的停止するだけの効果であって、停止された場合病気治癒の様相を呈するから、
それに瞞され、真の治癒と錯覚し、その薬剤を効果ありと発表するのであるが、
元々真の治癒ではないから、時を経て浄化再現し、病気発生となるから、その薬剤は自然消滅する。
するとまた浄化停止の効果ある薬剤を創成しまた駄目となり、また創成するというように繰返しているのが真相である、
この根本原理を医学は知ったとすれば人類はいかに救われるであろう。」
自家中毒 寸評 (光24号) (昭和24年8月27日発行)
「よく医学では自家中毒というが、これは意味が解らない、普通中毒とは飲食物等によって外部から入る事をいうのだが、
自分が自分を中毒させるとはいかにも変だ、
ところが便秘すると自家中毒が起るとよく言われるが、
これは便が体内に侵出するように想うからだろうがこんな事は絶対にない、
便秘すれば糞便が漸次固結するだけである、
従って便秘は心配する事は少しもない、私が手がけた患者で胃癌で二十八日間便秘して全快した例もあり、また半年便秘した人もあった、
以前二ケ年便秘した人の経験談が、ある婦人雑誌に出ていた事がある。」
美人になる法 寸評 (光25号) (昭和24年9月3日発行)
「単に美人といっても大別して三種ある、人工美、自然美、感覚美である、
人工美とは白粉や紅で人工的に偽粧する、自然美とは健康美で、血行がよく、活々した美だ、感覚美とは心が美しく、何となく敬愛したい気になる。
今日の女性は、無暗に白粉や頬紅口紅を着けて美しく見せようとするのは、人工美以外の美を忘れているからで、
今日のような馬鹿高い化粧品を使わないでも、シンから美しくなる法がある。
それは健康美だ、血を浄める事だ、これが真の美だ、その方法は本教浄霊を受けると共に薬を服んだり用いたり絶対しない事だ、
女の皮膚が艶がなく老人のように萎(しな)びていたり血の気がなく青膨れのようなのはみんな薬剤多用のためだ、
これを隠そうとして今日の女性は無暗に化粧品を使うのだ、もちろん心も美しくなければ真の美人とはいえない、
それには信仰だ、その証拠として本教信者になると、時日の経つに従って見違える程美しくなる。」
厄介な世の中 寸評 (光25号) (昭和24年9月3日発行)
「よく本教を誤解したり非難したりする場合、一部の悪い点だけを誇張していう癖がある、
一体世の中に完全なものがあるであろうか、どんなに良いものでも十のものなら九つ良くて一つ悪いという事はやむを得ない事である、
それを九つの良い事を蔽いかくして一つの悪い点を全部かのように思わせるような悪宣伝をする者もある、大いに警戒すべき事だ。」
月世界 寸評 (光25号) (昭和24年9月3日発行)
「近来、英国で月世界行を可能とし研究準備をしている学者があるそうだが、
これは絶対不可能で、百万年経っても駄目だ、
とすれば外の研究へ努力を換える事を、勧告したい。」
人間は想念次第 寸評 (光25号) (昭和24年9月3日発行)
「感謝が感謝を生み、不平が不平をよぶとは正に真理だ、
何となれば感謝の心は神に通じ不平の心は悪魔に通ずるからだ、
この理によって常に感謝をしている人は自然幸福者となり常に不平不満や愚痴を言う人は不幸者になるのは事実だ、大本教のお筆先にいわく
「喜べば喜び事が来るぞよ」
とは正に至言である。」
眼を洗う 寸言 (光26号) (昭和24年9月10日発行)
「私は、眼を洗う可否を聞かれた場合こう答える、
眼を洗うくらいなら、褌(ふんどし)を洗った方がよい、眼は洗うべきものではない。
眼は涙と粘膜で常に洗われている、これは水や布切より何層倍上等のものだか判らない。
困った世の中だ。」