医学の革命について 4
明主様御教え 「此事実を何とみる」 (昭和24年5月31日発行)
「本教においては、光新聞及び雑誌地上天国に毎号出来るだけのおかげ話を満載している、
もちろんこれは、事実ありのままに書くよう厳重に注意を与えている以上いささかの誇張もない事は言うまでもない、
このおかげばなしの感謝、感激の報告は日に月に漸増しつつあり、
最近は一ケ月数百通にも及び、全部の掲載は困難になったので、目下方法を講じているという実状であるにみて、
いかに救われる人の殖えつつあるかが知らるるのである、
読者も見らるる通りその感謝に溢るる文章を見ては眼頭が熱くなり、
滲み出る涙を幾度拭うか分らない程である。
しかしこれは感情に関してであるが、重大である事は驚くべき治病成績で、
これについて種々の角度から検討しようと思うのである。
総ての実例に徴し、正直に言えば、医療その他現在行われつつあるあらゆる療法についてみる時大雑把ではあるが
大体三分の二は効果なしという事、三分の一は反って悪化したという事実であるが、これは大問題である、
この報告を見た専門家はもちろんの事、一般人においてもあまりの意外に撞着(どうちゃく)しないものは一人もあるまい。
今日全世界の文化民族といわれるそのことごとくは、現代医学の進歩を信じ、これに生命を托(たく)す事をもって何らの疑念もなく、正当の方法と心得、それがほとんど常識となっている事である、
しかるに、私は既成医学を是正せんとして十数年以前から、この事を徹底的に世に知らしめ、人類最大の悩みである病苦を除去せんとして三種の著書を著わしたが三種とも発禁となったので諦めざるを得なかったのである、
今はそうでもないが、その頃は医学の医の字を言う事すら許されない、例えば患者に対し医療でなくも、
私の方で治るといったその言葉だけで医師法違反に問われ、私は三日間留置場に容れられた事もあり、
またパンフレットに、現代医学は病気の患部を除去する方法として肉を切り血液を消耗し、病苦を与える以上、
野蛮的方法であるに比し、吾らの療法はいささかの苦痛も与えず、肉体を傷つける事なくして、
いかに深部の病根をも除去し得るという事を書いたため忌諱に触れ、警察へ召喚され、永々と御説教の末、罰金を取られた事さえあったくらいであるから、その他は推して知るべきである。
かような時代であったため、止むを得ず一切沈黙を守り、ただ事実によって天下に示すより外に方法がなかったのである。
そんな訳で、宗教となった今日といえども沈黙的救済を続けては来たものの、
最早積極的に大いに知らさなければならない時期となったのである、
もちろんこの事は私の考えではない、神の意図が私をしてそうさせるのである。
事実、現在の世界人類の苦悩は最早打切られなければならない時期が来たのである、
もちろん苦悩の根本は人間の病患にある事は、私が常に繰返し言うところであって、
人間が霊肉共に健康になったとしたら、他のあらゆる苦難の大半は消滅する事は火をみるよりも瞭(あきら)かである、
その暁こそ、吾らの目標たる地上天国の出現でなくて何であろう。
キリストの唱えた、「天国は近づけり」の一大予言も、釈尊が予言された弥勒の世もこの事に外ならないのである、
私は医学者でもなく、医学を学んだ事もないに係わらず、病気に関する一切は神示によって根本的に知り得たのである、
それによれば現代医学はいかに邪道に陥っているかが洵(まこと)に明らかである以上その事の是正こそ人類救済の第一義でなくてはならない、
この意味において私というものは、病無き世界を造るべき大使命の実行者として神から選ばれたものである以上、
その力を十分発揮し、地上天国建設の大理想を実現せんとするのである。」
明主様御教え 「お蔭話を読んで」 (昭和24年7月2日発行)
「本教発行の光新聞並びに雑誌地上天国には満載し切れない程のお蔭話があり、
すでに発表したものは今日まで数百に上っており、今も毎日続々と報告してくる、
一々読む毎にその感謝感激の溢るる心情には泪なきを得ないのである、
これほど大きな救いはかつてなかったであろう事は何人も同感であろう。
しかし、これについて由々しき大問題を発見するのである。
それは罹病の場合、例外なく最初は医師にかかるのである、ところが医療を受ければ受ける程、漸次悪化するという実例はあまりにも多い事である
もしこのおかげ話を専門家が見たとしたら、いかなる感想が浮ぶであろうか、
恐らく医学そのものに対し疑念を起さない訳にはゆかないであろうと共に、
本教浄霊法に最大なる関心を起さない訳にはゆかないはずである、
何となれば、現代医学との優劣に余りの隔たりがあるからであると共に
医学の根本に一大欠陥のある事に気付かなければならないからである。
私が二十数年間、この医学の誤謬について著書や言説に発表したいのであるが、
いかんせん著書は発禁され、言語の宣伝は医師法違反や、医療妨害という鉄のカーテンに妨げられ、充分意を達する事は出来得なかったのである。
もし法規に触れるとすれば人類救済の事業は一頓挫しなければならないからである、
とすれば人類の不幸の救済はそれだけ遅延することになろう、ここにジレンマが生ずる、
そこでどうしても沈黙第一主義とし、実地の成果をもって救いの業を遂行しなければ余儀ない事になる、
しかるに右の手段による成果に対しても、非難は絶ゆる事なく、
パリサイ人共は虚偽や捏造記事を言論機関に掲載したり、官憲を動かそうとしてあらゆる手段を講じようとする。
また、ある者は迷信邪教の名の下に抹殺しようとする者もある。
そうしておかげ話のそのほとんどは最初から本教に病気を治しに来るものは一人もない、
サンザ医療やその他の療法によって、あらん限りの手段を尽くしたにかかわらず、
漸次悪化し、進退きわまり絶望の極本教の話を聞くが、初めは大いに疑ってかかる事は例外はない、
しかしそれも無理はない、それまであらゆる療法に懲りぬいた揚句であるから、
やはり今までのものと同様に思い、ほとんど治る期待などを持たず、藁をも掴む心境で、渋々浄霊を受けるのである、
ところが一度浄霊を受けるや、その効果の顕著なるに驚歎し、戸惑いするくらいである、
その歓喜たるや、実に言葉に言い表せないとは、異口同音にいうところである。
吾々は常に思う、このおかげばなしを読んでなお疑念が去らないとすれば、
その人は普通ではなく、精神変質者とみるより外評しようがないであろう、
もしいまだ疑いの解けやらぬ人がありとすれば、よろしく本人を訪ね、直接聞くのが何よりである、
また吾々は決して信仰を勧めはしない、ただ事実は事実として誤りなく認識してもらえばそれでいいのである。」
明主様御教え 「おかげ話から何を掴んだか」 (昭和24年11月19日発行)
「本教出版物に載せられた今日までのおかげ話は無慮千数百に上ったであろう、
しかも益々増加の傾向にある事によってみても、本教特異の信仰療法がいかに絶大な効果を挙げつつあるかは、
事実そのものが証明しているのだから何をか言わんやである、ところがここに見逃すべからざる医療の功罪がある。
なるほど、現代医学の進歩の恩恵に随喜し、文化民族ことごとくが何らの疑惑なく信頼している事実は知らぬ者はないが、
かように文化面の最重要位置に不動の存在である医学に対し、忌憚なき意見を発表する吾らの行為こそ、ほとんど例を見ないといって過言ではなかろう、
もちろん吾らといえども現代医学が一般の信ずるごとく的確なる効果を挙げ人間の健康に対して真に役立つとしたら、何を好んで非難の筆を揮うであろうか、
しかも現行法規に照らし、ともすれば医療妨害に問わるる危険さえあるにおいてをやである。
ところが、吾らは神授の医学を基礎とし、実地に当って深く研究を進めれば進める程、医学は邪道に進み入っていることを痛感するのである、
したがって医学がいかに努力し研鑚を重ぬるとも、結果からみて何らの進歩もなく百年一日のごとく堂々めぐりしているに過ぎない現実を発見するのである、
その何よりの表われとしては現在見るがごとく病者の氾濫と健康状態の不良である、
すなわち一方の病気が減れば他の一方に新しい病気が発生するというような現実は常にみるところである。
以上のごときは全く医学の根本に一大誤謬が伏在しているからである、しかも吾らはそれを発見したのである、
しかるに吾らの神霊療法がいかに実際、効果を挙げつつあるかは生々しい現実としてのおかげ話の報告である、これ以上の実証はあるまい、
言うまでもなく体験者自身の筆である以上、一点の疑惑を挿む余地はないからである。
まずおかげ話中の報告を見て驚くべき事は、発病するや例外なく速やかに医療を受ける、ところが医療を受ければ受ける程漸次悪化する事実である。
もちろんその場合大病院、名医あらゆる薬剤等生命に関する以上、金銭の負担も時間もその人々の最大限にまで行うにかかわらず、
前述のごとく悪化の結果、死の手前まで追詰められてしまうのである、全くこれ以上の重大問題はあるまい。
右のごとくに医学の理論と結果とはほとんど逆である。例えばおかげ話中にあるごとく医家が治るといい、請合うというにかかわらずその結果が余りにも予期に反する事である。
かくのごとく学理と実際の逆効果は、医家といえども常に経験するところであろう、
また大病院においての診断と解剖の結果との相違のはなはだしい事はよく聞くところである、
その場合医家はその原因を医学の誤りとは夢にも思わず、反って医学の不進歩のためと解するので、
医家は一層医学を進歩させるこそ自己の責務であると解釈するのであるから、
吾らから見れば余りの過誤に言うべき言葉を知らないのである、
それがため黴菌発見に動物試験に、新薬の発見に光線放射に栄養改善に、その他ありとあらゆる医病力の発見に専念するのである。
その現れとして医学の分野は益々複雑多岐にわたり、病名も数も増すから科目も増加し、微に入り細にわたって研究され、
学説も治病方法も素晴しい進歩を遂げつつあるように見えるので、
世人は幻惑され今日のごとく極度に信頼を払うのであるが、
肝心の治病に対してはいささかの進歩もなく、ただ一時的苦痛緩和の対症療法が巧妙になったまでである。
しかもそれを進歩の道程と過信するのであるから、冷静に現代医学を批判する時、全く長歎息の外ないのである、
一言にしていえば実際と遊離した学説を実際に当はめようとするのであるから、予期の効果を挙げ得ないのである。
それがためただ研究のみに耽(ふけ)る結果、モルモットだけならいいが、幾何(いくばく)の人間が犠牲になるか計り知れないものがあろう。
ゆえに学説と実際との一致こそ正しい医学である、また学理が真理とすれば、予防医学によって寄生虫も結核も伝染病も中風も小児麻痺も漸次解決の道程に入り、今日のごとく続出氾濫するはずがない訳である。
これを要するに現代医学の誤謬に目覚めるの恩恵に浴せしむべき真の救済である。
以上のごとくであるから、神の大愛は世の終末に際し、吾らを駆ってこの是正を遂行せしむべくされ給うたのである、
何しろ数十世紀以来続いて来たところの医学であるから、一朝一夕に覚醒させる事は頗る困難であるが、
神の絶対力を信ずる吾らとしては、何ら疑念なく前途の光明に向かって邁進しつつあるのである。」
明主様御教え 「結核予防は不可能か 神医学を信ぜよ」 (昭和25年1月21日発行)
旧臘(きゅうろう)報知新聞所載
結核予防法全面的に改める会社などで強制的な検診
「結核による死亡率は年々減少しているが患者数は依然増加し、わが国から結核を徹底的に追放するためには強力な結核対策が必要となったので、
厚生省ではこんど大正八年以来改正されていない現行の結核予防法を全面的に改正することになり、次期通常国会に改正案を提出する。
改正される結核予防法は、従来の法的範囲を拡充強化し、患者の早期発見、治療方法などを積極的に国が指導援助し云々。」(新聞記事は以上)
明主様御教え
「右のごとき当局の方針をみる時、いつも思い出されるのは余程以前から同一の意味の宣言を時々発表するのである、
ただこの前出した方針と異う所は、この前は、ベッドの数が足りないから、これを何倍に殖やすとかいう事であったが
その後どうなったか知る由もないが何年経っても相変らず当局は躍起となって多額の費用を支出し最善をつくしつつあるにかかわらず、
ほとんど予期の効果は挙げ得ないのであるという事は、いかに的外れの事を大仕掛にやっているかを物語っており、最早気のつきそうなものと思われるのである、
吾らから見れば実に歯がゆい限りで、到底黙視出来ないものがある。
しからば、いかなる点に誤謬があるかは常に吾らの口に筆に警告を与えているのであるが、
当局も専門家も、雲煙過眼(うんえんかがん)しているのは察するところ、迷信邪説として一顧の価値だもないと決めているからであろう。
吾々が断えず医学の誤謬を指摘しつつあるのみならず、実際上日々幾万の患者を治癒快方に向かわせつつありその効果たるや医学の何倍、何十層倍に及ぶか測り知れない事実を患者自身の筆で審(つぶ)さに記録したものの無数の例を本教出版物に毎号満載し、
光新聞は毎号数万を発行しつつあるのであるから、医に関係ある人士の眼にふれないはずはあるまい。
もし、吾らの説が事実に伴わない邪説とすれば大いに排撃すべきである、何となれば邪説をもって医学を非難し、人心を惑わすという事はゆるすべからざる罪悪であるからである、
しかし右に反し吾らの言の通り、事実現代医学に比して画期的優秀さであるとしたら、
断乎として、医学を放棄し、本教療法を採用し、結核問題解決の挙に出るべきである、
医学の真の目的が人類救済にありとすれば、右の実行こそ公平なる措置と言うべきである、
実にこの事程人類幸福の福音は他にあり得ないからである、一言にしていえば吾らの神医学によれば、結核の本体は明らかとなり、発病の機会は漸減し、感染の憂は全然なく、
日本から結核を駆逐する事は、あえて難事ではないからで費用はほとんど零に等しいものである。
この文を当局及び専門家に呈上するのである。」
明主様御教え 「某医博との対談」 (昭和25年1月28日発行)
「最近の某日、東京都内で開業している懇意な某医博との対談を書いてみよう。
医 この間、医師会で会合の際、談たまたま貴教のことに及んだがその際、異口同音に貴教の医学反対の説が話題に上り、なかなか論議がやかましく、全体の空気は良くなかったから、今後貴教においても医学を誹謗しないよう注意せらるるほうがよかろうと思う。
私 御注意はごもっともで、私もお説の通りにしたいと思い、そうすれば心配もなし賢明なやり方であることはよく判っているが、どうもそうはゆかないのである。
というのは私はただこの宗教を発展させ、教主様に納まり、生神様扱いにされるとすれば天下泰平で、こんな結構なことはないんだが、私の目的は大いに違うのである。
否、神様の思し召しがそうであるから、私としてもどうにもならないのである。
神様の御目的は、苦悩のドン底に喘いでいる人類を救い、地上天国を樹立するのであって、その手段としては人間苦の原因を除去することである。
ということは現在人類の在り方があまりに間違いをしているからで、それを是正し、人類一人一人が本然の道に立ち還り、地上天国を造るべきいよいよの時が来たのである。
そうしてその基礎こそ病なき健康人間を造ることである。
それにはどうしても、誤謬に陥っている医学から目覚めさせなければならないのである。
右のごとくであるから、私はお医者は仇でもないし、医学を悪く言う気持ちなどさらにないばかりか、私自身としても不利であることはよく判っている。
しかし前述の通りである以上、いかんともし難いのである。
医 なるほど、伺ってみれば無理のない話で、お気の毒でもあり、自分としてなにも言うことはできない。
と言って、後は世間話に移ったのである。」
明主様御教え 「全部療病者たれ」 (昭和25年5月27日発行)
「以前私はあるお医者さんの講演を聴いた事があるが、その講演の内容が奇抜なので、今も覚えているから書いてみよう。
そのお医者さんいわく「人類から病を除くには、人間一人一人がお医者さんになる事で、それが出来たら理想的で、これ以上の方法はない、
しかしながらこれは絶対不可能であるからせめて個人個人が医学の知識を出来るだけ養う事より外にない」というのである、
この説はまことに面白いと思ったが、実現の可能性はない事はもちろんである。
ところが右のごとき方法が立派に実現され得る事で、それは本教浄霊を修得する事によって可能である、
しかも医学の方は、少なくも十年以上勉強しなければ病人を手がけるなどは到底出来ないに反し、
本教浄霊は数日の教修にとって医師の手で治らない病気が、簡単に治る術を会得するのである、
もちろん病人の身体には手を触れず薬も器械も用いないで治るのだから素晴らしいものである、
もっとも人により優劣の差はあるが、一度本法を修得しお守をかければ全然無効果のものは一人もないので、全く奇蹟以外の何物でもあるまい。
この事実によって考える時、人類全部が短時日に医者になり得る事も可能である、
しかも専門の医師よりもよく治るのであるから、この世から病気を駆逐してしまう事もあえて難しい事はない訳である、
この驚くべき実例報告は無数に来るが、最近入手した左の二例は好適例と思うから掲げたのである。」(事例省略)
明主様御教え 「一つの苦しみ」 (昭和25年6月3日発行)
「私といえども種々な苦しみはある、もちろん現在のごとき暗黒無明の世界を切開くのであるから、
サタンも提婆(だいば)も跋扈跳梁(ばっこちょうりょう)しており、嫉妬羨望迫害悪評誤解の槍衾(やりぶすま)に囲まれているようなものである、
それらを突破し、この地獄世界へ天国を徐々として拡げるのであるから、その困難は想像以上である、
がしかし最高神霊の偉大なる御守護がある以上、外部でみる程の苦難はないのである、
ゆえに私自身としても恐らく世界中私ほど幸福であり不思議な運命の持主はあるまい事を、常に感謝している。
とは言うものの実は人の知れない別な苦労がある、その中で最も苦痛なものを一つかいてみよう、
これは言うまでもなく現代医学に関しての事であるが、これについては私は長い間口に筆にその医学の誤謬を指摘して来たのであるが、
本当を打明けていうと今日まで思い切って赤裸々には言えなかったのである、
出来るだけ加減をし刺戟を避けるように注意し来ったのである、
何となればもし真実をはっきり露呈するとしたら大変な事になるかも知れない懸念があったからである、
しかし仮に発表したくも神様から時期が来るまでは固く禁じられていたからでもある。
私は、人間の健康と病気に関しては、神様から徹底的に示されている、そうでなければ病無き世界を造るなどという大それた事は言えないはずである、大胆に言えるという事は、絶対確信があるからである、
というような訳で、人類の苦悩を解消する根本は病であるから、現在の人類を観る時余りに悲惨といわねばならない、
それらを観る私は実に堪えられない悩みである、といって神様からは発表を止められるという訳で、
全く板挟みの苦しみに遭っているのが現在の私である、ゆえに時よ早く来れという念願こそ、私の偽らざる心境である。」
明主様御教え 「文化の迷蒙」 (昭和26年3月21日発行)
「周知のごとく、現在の日本としては、対外問題は別とし、対内問題を見る時、何が最も難問題であり、急速に解決しなければならないかというと、もちろん結核問題であってこれ以上重要なものはないと言ってもよかろう、
他のいかなる問題でも、智能と、金銭と、努力によれば、必ず多少の効果を顕(あら)わし、一挙に解決が出来ないまでも、漸次的に解決に向かうのは、一の例外もあるまい。
しかるに独りこの問題のみは年々多額の費用を使い、官民共に能う限りの努力を払いつつあるにかかわらず、何ら効果を見ないばかりか、
むしろ年と共に増加の傾向さえ見らるるのである。ゆえにこの問題を吾々は何物にも捉われる事なく、白紙となって冷静に検討して見る時、前途は全く悲観の一途あるのみである。
とはいうものの、当局者も専門家も確信ある医学的智識によって対策を考究し、遺憾ないと思う程の施設方法を採り、努力しつつあるのを見れば何人といえども相当の効果を奏し、結核は漸減するに違いない。と思わざるを得ないのであるが、
豈(あに)計らんや、結果はそれを裏切って前述のごとく、減るどころか益々増えるというのであるから、
普通ならば、疑念を起さなければならないはずであるにかかわらず、いささかもそのような事なく、飽くまで馬車馬的に、不確実な方法を続けているのである。
しかもそれによって、人民の血や汗の結晶である巨額の税金は徒(いたず)らな浪費となり、多数人間の努力も空費となるに至っては、軽視する事は出来ないのである。
ところが、吾々のいいたい事は、現在政府が行いつつある、結核対策費の何万分の一にも足りない少額な費用をもって、結核は完全に治癒され、患者を漸減させる事が可能なのである。
これは単なる言葉だけではなく日々多数に上る生きた実例によっても、明らかであり、その報告は本教刊行の新聞雑誌に満載されつつあるにみて、一点の疑う余地はあるまい。
ところがこの記事は結核対策の任に当る人の幾人かは、必ず見ないはずはないと思うが、今日までそれに関し訪ねて来た者は一人もないのであるから、実に不可解である。
まず神経の通っている人間なら、右の記事を見た以上首を捻って、本教が誇示するがごとき事実が、果してありや否やを進んで検討しなければならない。
事実これほど官民共に年々努力を払っていてさえ、容易に治らないものが、薬も機械も使わないで、治るとは本当とは思えない程で、もし本当とすれば大問題であると共に、そうでないとすれば怪(け)しからん宗教であるから、断乎たる処置に出なければならない訳になる。
従って、いずれにせよ大いに検討の必要ありとして、乗り出さなければならないにかかわらず、そのような事は今日までないとすれば、彼らの心理こそ実に解するに苦しむのである。
察するに宗教だからというただそれだけの理由でしかないのであろう。
また今一つは彼らの考えは結核問題解決は、唯物科学より外には、世界中絶対ないと信じて、決めてしまっているからでもあろう。
ちょうど幕末期における、切支丹(キリシタン)バテレンを恐れた人達と同様どころか、むしろそれ以上の封建的考え方ではあるまいか。
本当から言えば、急を要するこれほどの問題でありながら、どうしても医学では予期の効果を得られないとしたら、他に方法を求めるべきである。
すなわち結核が医学以上に治るものでさえあれば何でもいいとして、大いに探すべきであって、それより外に問題解決の鍵は絶対あり得ない事を断言するのである。
としたらそれに当はまるべきものは、本教浄霊法以外他には決してないのであるから、それを実行さえすれば、それでこの難問題も容易に解決出来るのは、火を視るよりも瞭(あきら)かである。
しかも至極簡単に費用もほとんど掛らないで、目的を達し得るとしたら、何を苦しんで在来の方法を固守しつつ、目を他に転じないのであろうか、その盲点は見るに忍びないのである。
本教が数年前より、実際効果を何程知らしても、目を蔽うて見ようとはせず、いかに声を嗄(か)らしても、耳には入らないという現代智識人にも困ったものである。
これが御自分だけの問題なればいいかも知れないが、それがために幾千幾万の人命が犠牲になるとしたら、これ以上由々しき問題はあるまい。
むしろ戦争にも劣らない悲劇と言ってもよかろう。
以上のごとく、随分私は思い切って言わざるを得ないのは、全く現在の急迫せる事態を観るに耐えないからで、ここに一大警告を与える次第である。」
明主様御教え 「医学関係者に警告する」 (昭和27年8月27日発行)
「本教は現代医学がいかに間違っているかを理論と実際の上から常に知らしており、その発表を始めてから最早十数年になるので、
大抵な医事関係者諸君は知っているであろうが、ここで大いに注目されたい事は、年を経る毎に本教の理論が、益々光を放って来る事実である。
そうして医学が病気を作り、薬剤が病源となるという本教の持論も、漸次動かすべからざる空気が濃厚になりつつある事である。
何よりも本教刊行の栄光紙上に満載されている御蔭話を見れば、全部本人手記の感謝礼状であるから、この事だけにみても多くを言う必要はないくらいである。
そうしてその一つ一つが医療による被害者であって、プラスなどはほとんどなく、ことごとくは恐ろしい程のマイナスにされている事である。
もっともそれだから本教に来て救われたのであるが、ともかく莫大な医療費を使い医師もすこぶる熱心に加療したにかかわらず、悪化の一路をたどり、ついに進退きわまるの窮地に追い込まれたその経路を見れば、
いかに医療が病気を悪化させ、余病を作り、薬剤が害毒を与えたかという事が、余りにもハッキリしているのである。
ところがこれ程の医学の誤謬に、長い間世界中ただの一人も気が付かないのであるから、摩訶不思議の一語に尽きるであろう。
そのような訳で各国の専門家等は最大級の熱意を傾けて研究すると共に、政府当局者も医師の指示通りの施設万端、能(あた)う限りの努力を払っているにかかわらず、
病人の氾濫は停止するところを知らない有様で、常に悲鳴を上げているのは誰も知る通りである。
としたらこのような誤謬医学は早晩退陣の止むなきに至るのは、火をみるよりも明らかで、その時期は目前に迫っているのである。
という理由は私によって、真の病気の原因が発見されたと共に、機械も薬剤も何ら物質的のものを用いずして、いかなる病気も全治可能の方法が生まれたからである。
そうしてこの療法によって重難病が治された人々は、病気と健康の真理を覚り、病気の不安から全く解放され完全健康者となったので、
その歓喜の境地に立って社会を見る時、いかに医学に災いせられ、苦しんでいる多数の人のあるを知っては、到底我慢が出来ず、
一人でも多くの者を救うべく、一大決意をもって宣伝これ努める人が、日に月に増えつつある事実である。
そのような体験者が無限に殖えるとしたら、いずれは燎原(りょうげん)の火のごとく、世界の医学を焼き尽さずんば止まないであろう。
しかもこれは絶対である以上、全世界の医学に携わる人達よ、今から考えて用意しておくべきであろう。
でなければ来るべき医学の一大危機に直面した時、いかに狼狽するかは目に見えるようである。
これはあえて嚇(おど)かすのではない。決定的であるからである。従って私はそれを憂い、誠意をもって予め警告を与えておくので、吾々といえども人類救済の聖業に従事し、神の大愛を取次ぐ上において、一人の不幸者も作りたくないからである。
しかし今このような事を言っても、第三者としたら到底信ずる事は出来まいが、それは食わず嫌いか、いまだ縁なき衆生として、本教に触れてみないからで、何よりも大悟一番、本教の病気治療の現実を調査研究されん事である。
その結果私の言にいささかの偽りがないとしたら、断然百八十度の転換をすべきである。
いずれにしても近き将来、現代医学には没落の機運が来ると共に、それに代って神霊医学勃興時代となるのは、当然である事を知らせるのである。」
明主様御教え 「現代医学に対する哲学的考察」 (昭和27年6月18日発行)
「私は常に現代医学の迷蒙なる点を指摘しているが、ここで科学にも宗教にもよらない哲学的見地から、批判してみようと思うのである。
それについてはまず人間なるものの実体であるが、人間誰しもオギァーと生まれるや、親の乳を呑み、段々育つに従って固形物に進んでゆき、
空気、水、太陽の恵によって、一人前に育つとなるや、人間各々の天性による特長、技能を発揮し、社会構成の一員となるのは今更言うまでもないが、
それらを意識的に行う人は少なく、一般は無意識的にそれぞれの役目を荷(にな)うのである。
そこでこれらをよく考えてみるとどうしても目に見えない何物かに命令されたとしか思えない程に、決定的に従わせられている。
これを名付けて人間は運命というが、しかしこの運命に満足する者は至って少なく、大抵な人は不満が起ってそれに反抗しようとする。
ところが運命という奴実に皮肉なもので、逆らえば逆らう程、反対に運命の反撃に遭い不幸な目に遭う。
むしろ運命に従順である方が、反って倖せになるのは注意してみればよく分るのである。
そこでここ運命について一層深く掘下げてみると、どうしても誰かがこの運命の綱を握っていて、自由自在に操っているとしか思えないのでこの誰かこそこの世界の支配者、すなわち絶対者である事も信じない訳にはゆくまい。
ところが右のごとき絶対者は別として、誰にも分り易い人間の運命を左右してる今一つのものがある。
それは何かというと病である。この病こそ大変な曲者で、一つよりない人間の生命を絶えず揺ぶっている暴君的存在である。
というように運命の鍵を握っているのは、絶対者すなわち神とそうして病であるのはもちろんである。
もっとも昔から病神と言う言葉もあるくらいだから、満更縁がないでもないが、右の次第でとにかくこの病さえ征服する事が出来たなら、人間の運命の半分は解決出来た訳である。
だがそのような病を征服する力がこの世の中にありやというに無論今までの世界にはなかったが、二十世紀の今日これが出現したのであるから大問題である。
それは言わずと知れた我メシヤ教の生誕であって、今いう幸運の鍵は確実に本教は握っているのである。
従って本教が世界に拡がるに従い、病人は漸次減少し、その結果人間の寿齢は百歳以上になるのは当然である。
ところが現在の事実を見ると、今日六、七十歳になったといって、これが医学の進歩のためとしているが、これこそ飛んでもない短見である。
何となれば医学の全くなかった二千有余年前ですら、史実に明らかなごとく百歳以上の寿命は通例となっていたらしい事である。
しかもその時代には医薬は全然なかったのであるから、現代人としたら実に不可解千万と思うであろう。
右についてよく考えてみると、人類は二千有余年以前、医聖ヒポクラテスが創成された医学が、ここまで進歩したといっても右のごとくであるとしたら、どこかに大いに誤った点があるに違いないのは、あえて呶々(どど)を費(ついや)す必要はあるまい。
その上病の数でさえ年毎に増え、伝染病の脅威も益々加わるという不安極まる現状を見れば昔人とは到底比較にならない程の深刻さである。
にもかかわらず医学信頼の迷夢は到底醒めるどころではなく、益々盲目的に突進しているのであるから、その無智なる評する言葉はないであろう。
そんな訳で人々の考えは病気は容易に治らないもの、医療はいか程進歩しても病気の解決は困難であると決めているのである。
にもかかわらずこれを進歩させさえすれば解決するものと漫然と信じていると共に専門家といえどもそう信じて熱心に努力研鑚の結果、新薬や新療法を次々出すのであるが、何しろ根本が的外れであるから、効果はいずれも一時的で、時が経てば駄目になってしまう例は、常に嫌という程見せつけられている。
従って専門家の中でも心ある者は、医学の進歩に疑問を抱いているので、我浄霊法を知るや転向すべく考えている人も相当あるようであるが、何しろ肩書の名誉に経済的不安等も伴うので、容易に決心がつき兼ねているらしいのである。
以上のごとき盲目悲惨なる現在の世界を救うべく最高の神は我メシヤ教によって、医学の真理を全人類に開示され給わんとされているのである。」
明主様御教え 「無病運動を起せ」
「日本が欧米の文化を採入れてから、何々運動などといって、自分の可とする色々な運動を起すのは衆知の通りで、
これらも世界人類や社会国家を憂いて、よりよくしようという考えからであるから、非難するような者は滅多にないが、
今私の提唱しようとするそれは、標題のごとく無病運動というのである。
恐らくこのような意味の運動は、文明時代となってから、ただの一つもなかったであろう。
というのはそんな運動を起したとて、絶対成功するはずがないからで、これこそ分り切った話であるからである。
本当からいえば、こういう運動は医学方面の人から言い出さなければならないはずであるが、そのような事は夢にも考えられないであろうから、
むしろこんな事をいう私を奇怪な眼を以って見るかも知れないとところ思うのである。
ところが私は真面目にこの事を唱えるのである。
それは信者はなるほどと思うのは言うまでもないが、第三者としたら、驚異な運動と思うであろう。
しかし考えてみて貰いたい事は、そのような運動を提唱するその意図は、いかに確信に満ちているかという事を考えてみて貰いたいのである。
従ってもし可能性がないとしたら、せっかく始めたところでいずれは失敗するに決っているから、笑話の材料になるだけである。
これについて具体的に言ってみたい事は、一つの会を作るのである。
会員の資格としては、例えば一ケ年間無病で医師にかからない人を資格者として、正会員にすると共に、
三年間かからない人を優等会員とし、五年間かからない人を特別会員に推薦するというようにすればいいと思う。
そしてその会員の階級によって、特別待遇とか、賞金とかやればいいと思うが、しかし考えてみると、これは逆であるかも知れない、
というのは実際は信者なれば会の方へ感謝金を奉呈するのが本当であろう。
とすれば、これも考えておく必要があろう。
この結果として会員が漸次増えて、何万何十万何百万に増えるとしたら、
社会は注目するであろうし、話題の中心にもなるであろうから、一挙両得であるばかりか、
本教宣伝の上にも大いなる力となるであろうから、まず思いついたままかいてみたのである。」