医学の革命について 1


明主様御教え 「医学の革命」 (昭和26年11月7日発行)

「私は神の命によって、人類救済の大業を日夜力の限り遂行しつつある事は、今更言うまでもないが

そもそも人類を救うべきその根本は、人類残らずを霊肉共に健康体にする事である、

これさえ成功するとすれば、私の唱える病貧争絶無の世界は必ず実現するに決っている、

いつもいう通り、貧乏の原因も病気であり、個人の争いも、国家間の戦争も、残らずその原因は個人個人の病気にあるのである、

しかし一口に病気といっても体的ばかりではなく、霊的の病気もあって、戦争の原因といえども、もちろんこの霊の病気にあるのである。


としたら、人類から病気を除き、病人のない世界を作る事が出来るとしたら、

それだけで世界は理想の平和時代となるのはもちろんである、

ところでなるほど言葉だけでは至極簡単なようであるが、

実は何人も到底不可能で、痴人の夢でしかないと思うところに大きな誤りがあるのである、

ではその誤りとは何であるかというと、これが現代医学に大きな誤謬のある事に気付かず、

現代医学を唯一無二のものと思って信じて来た事である。


私はその誤謬を筆でかき実証を見せているが、何しろ長い間医学迷信に罹っている人間であるから容易に目を醒まし得ないばかりか、

反って吾々の方を迷信呼ばわりをするのであるが、

しかし何事も時である、その時こそいよいよ神が、人類世界の清算をされる事であって、

その一着手として、人類から病を絶無にされんとして素晴しい神力を揮(ふる)わせ始めたのである、

もちろん絶対の神様の御計画である以上御神意通りになるのは間違いないのである、

としたらこの事が信じられない人達は、気の毒ながら永遠に亡ぶより致し方ないのである、

本教が類例ない程の、素晴しい奇蹟を現わしつつあるのもその何よりの証拠で、実は不思議でも何でもないのである。


そうして一言にして言えば、神様の第一着手としては、現代医学の革正である、

これは人間の革命などとは異い、神様の御思召である以上、絶対的であるから、

必ず成功するとしたら一日も早くこの事に目醒め、悔い改めて神を祈る事である、

基督(キリスト)のいった、「叩けよさらば開かれん、信ぜよさらば救われん」の御言葉はこの事でなくて何であろう。」




明主様御教え 「文化のレベル」

「今日文化は非常に進歩したといって誇っているが、なるほど原始時代よりもたしかにある程度進歩はしているが、

しかし現代人が思っている程に決して進歩はしていないのである。

その何よりの証拠は、本当に文化は進歩しているものなら、現在のごとく人類は病貧争の災は固(もと)より、

何だ彼んだ数え切れない程の苦しみがあるはずはないのである。

というのは、神は真善美完き幸福な世界に造られたのである。

ところが神の御目的通りの天国的世界が実現しないというのは、つまりレベルが低いからである。

これがため神はいよいよ時期来って、地上天国を造るべく私という者を選んで、その実現に当らせ給うたのである。

それについては根本として文化のレベルを一層向上させる事である。

それには千差万別ある文化の全体から、いいものは採り、悪いものは棄てるという方針によって進めているのである。

そこでまず手始めとしての根本が、医学とそうして農業であって、この革正が土台となって、

次に宗教、道徳、哲学、科学、芸術というように、あらゆる面に渉(わた)って破壊と創造が行われるのである。

というようにこのような大きな事業は、恐らく空前絶後であろう。

これを一言にいえば、既成文化のレベルを上げる事である。

換言すれば二十一世紀の文化といってもいいであろう。」





明主様御教え 「医学の革命」 (昭和25年2月20日発行)

「昔から革命という事は誰も知るごとく、政治革命とか社会革命とかいって、間違った政治や間違った思想を是正し、よりよい社会たらしめようとする運動であるが、それらはある一国、ある一民族に限られたのが多かった。

ところが現在に至っては漸次大規模となり、ソ連が中心となって活動しつつある共産革命も、それを防止せんとする米国を中心とする民主革命も重大問題である。

ところが、吾らが意図し実行しつつあるところは、病なき世界を造るという、人類救済の根本的意義を有する、文化革命である。

しかし、この事ほど重大問題はあるまい。恐らく人類史上かつて夢想だもしなかった大事業であろう。

原子爆弾で一挙に数哩(マイル)に及ぶ建造物も、生物も殲滅する事も、夢にも思わなかった大発見であり、これを平和的に活用するとすれば、いかに人類に稗益(ひえき)するかは想像も出来得ないであろう。

しかしながら人類から病を絶無にするという。それに比べればその大小の差異は自ら明らかであろう。

もちろん、病をこの地上から追放するという事は何よりもまず病なるものがなぜ発生し、存在するかの原因を徹底的に知る事である。

それを知ると共に、病原を絶滅すべき方法を発見する事で、この二つがその根本であらねばならない。


しかるに、現代医学は進歩せりといい、一般は進歩せりと思い切っているが何ぞしらん、進歩どころか実は低迷状態に過ぎないのである。

彼の紀元四百年前医聖とされていたヒポクラテス以来二千有余年を経て、今もって感冒の原因すら発見出来ないのであるから、それ以上をいう必要はあるまい。

この事だけにみても、現代医学の進歩を肯定する事は出来ないであろう。

ゆえに今後何世紀経るといえども、病なき世界などは痴人の夢以外何物でもない事は明らかである。

吾らは別に医学に対し、非難せんがための非難ではない。ただ事実を事実とし、誤りを誤りとし、何物にも捉われず、公正なる観点に立って批判するのである。

吾らが唱えるのは理論でも仮定説でもない。事実そのままをいうのであるから、真理そのものであるといえよう。」




明主様御教え 「新日本医術書 序論」 (昭和11年2月8日執筆)

「そもそも、医術とは何ぞやと言えば、人間のあらゆる疾患を治癒し、完全なる健康体たらしむるのが、真目的である事は、今更言を俟(ま)たないところである。

故に、真の医術が完成さるるに従い、人間の罹病率は年と共に減るべきであり、

又、病気の種類も漸減し、その当然の結果として、人間各自の天寿、即ち天より享(う)けたる齢だけの年数を重ねて、苦痛のない眠るがごとき自然死の人が増加してゆかなければならないはずである。

しかるに、現在までの事実はいかん。右と余りに反対の経路を辿(たど)りつつあるではないか。

視よ、罹病率は日に月に増すのみであって、一人も病者の無い家はほとんど稀である。

今日、国民の健康を厳診するにおいて、真の無病者は、果して幾人あるであろうか。

恐らく十人に一人も難しいであろう。

壮丁(そうてい)の体格が年々低下するという報告や、乳児死亡率が、有難くもない世界第一の統計を示すごとき、

又、結核患者の撲滅に官民共に大童(おおわらわ)の努力を払い、多額の国費を使いつつあるに拘わらず、更に減少せざるのみか、

今なお、一ケ年百二十万人の患者と、十余万人の死亡者を出しているという状勢である。

又、病気の種類に見ても、増加するとも減少しない事実は、何を物語っているであろうか。

今日男子にして、高等教育を受け、有為の才を抱きながら、病床に呻吟しつつある者、

又は修業の半途において、病患の為に挫折し、可惜(あたら)青春の身を以て、煩悶の日を送りつつある者、

又は相当の地位や、成功を収めて、大いに国家社会に尽さんとする頃、病に斃(たお)るる者、

又、婦女子にして、病弱の為に妻としての、母としての天賦の務を完うし得ざる者、

婚期を過す者、愛児の早世による悲嘆、その他障害者、変質、発狂等、

これらが原因となって、不幸逆境に沈淪(ちんりん)する者のいかに多きかは、誰もが余りに知り過ぎている事実である。


今仮に、一家に一人の重患者を出すとすれば、長年汗した貯蓄は、たちまち費消されるべく、

況(いわ)んや二、三人の重患者、又は死亡者の生ずるにおいては、相当の資産をさえ、蕩尽されてしまうという悲惨事は、到(いたる)ところに見るのである。

今日、社会の敗残者、無産者のその原因の病気に困る事のいかに多いかは、周知の事実である。

故に、世人の病気を恐るる事、今日よりはなはだしきは無く、その弱点に付け込まれ、効果疑問の売薬や滋養剤を、巧妙なる広告戦術に魅せられて、

多くの病者の財嚢(さいふ)は相当搾(しぼ)られ、窮乏線に拍車を掛けられている状態である。

そうして、一度重患に罹るや、驚くべき高価なる手術料や、多額の入院料を負担させられるに拘わらず、

その治癒するの遅々たる、治病率の低き、実に当事者の言に徴するも、五十パーセントも難しいとの事である。

慶大の草間博士は、公開の席上において、明言していわく、

「現代医学では、病気は決して治らないのであるから、今後は病気に罹らない医学、即ち予防医学に依って各自の健康を保つより外に、最善の方法は無いのである」と。

実に正直にして良心のある、真の学者の言であると思うのである。

故に、賢明なる医師は、西洋医学での治病の無力を痛感して、止むなく漢方医術、灸治、その他の民間療法に着目し研究せんとする者、簇出(そうしゅつ)しつつあるの実状である。


以上説く所の事実によって見るも、現代医学の真価は明かである。

なる程、黴菌発見や、基礎医学方面にては、多少の進歩の跡は見るけれども、治療方面においては、実に十年一日のごとしと言いたい位である。

しからば、この真因はどちらに在るであろうか。その発見こそは、まことにいかなる政治よりも、経済よりも、発明よりも、緊要事であろう事である。

言うまでもなく、国民の不健康程、国家の損失はあるまい。

今や、躍進日本の地位より観て、今後益々欧米人に伍して相競うは固より、望むらくは、白人種を凌駕するまでにならなければならないところの、重大使命を持つ日本人として、実に健康こそ何よりも最大根本問題であらねばならない事である。

しからば、現代医学の誤謬は、いかなる点に存するのであろうか。

それは実に、その出発点において、重大なる錯誤がある事である。

それが、この書中に詳述してあるから、熟読玩味するにおいて、何人といえども豁然(かつぜん)としてその蒙が啓け、

病気の真因も、健康の要諦も、天日の下に晒さるるがごとくで、無医薬療病に依って、病患は根絶さるる事を、覚り得るのである。

実にこの新日本医術であり、明日の医学とも言うべき観音力療病と健康法の真髄こそは、人類の歴史有(はじま)って以来恐らく空前であろう程の、一大福音である。

又、私が余りに狂人にも等しい、大言壮語する事に対して、反って疑を持つ人がないとも限らない事であるが、

それは、たとえばいかに食物の美味を説明しても、口へ入れなければ判らないのと同じである。

とにかく、実験と体験である。私は全責任を以て、私の言の一点偽りの無い事を誓うものである。」 (「新日本医術書」より)




明主様御教え 「日本医術新生の時期」 (昭和11年4月15日執筆)

「彼の明治維新は、鎖国の夢を醒(さま)して一大転向を吾らの国にさしたのである。

それは言うまでもなく、西洋文化による一切の革新であった。しかもそれは、六拾余年を閲(けみ)した今日、最早一段落となった事は余りにも瞭(あきら)かである。

であるから、無差別的に模倣や吸収をして来た西洋文化の再認識と、その清算をしなければならない時が来たのだ。

それは役立つ物は残し、役立たないものは捨て去る事なのだ。

そうして、その帰結としての世界各国の長を綜合して、ここに新日本文化の創造課程とその拡充に驀進(ばくしん)しなければならないのである。

そうして、その鋒鋩(ほうぼう)は既に現われかけている。

見よ、産業の躍進もその一つである。文教の日本化も、政治的革新も皆、その顕(あらわ)れのそれでなくて何であろう。

しかしながら、飜(ひるがえ)って我建国以来の歴史を覧た時、そこに何ものを見出すであろう。

類例無き万世一系の君主を仰ぐ、国民の忠勇義烈の特殊思想は勿論、支那文化も、印度宗教も、日本化して、否、日本に依ってその生命力の発展と完成を見たのは、余りにも顕著である。

この故に、今日も、これからも、躍進日本の動向の主因は、三千年間に培われた日本文化によるのであって、やがてその華が咲き実がなるのである。

いわゆる文化形態が日本的に芽生えようとする今、人間の生命を把握している、絶対者ともいうべき医術そのものが革命され、新生してもよい訳である。


しかしそれは、ただそれだけの理由でもない。

それよりも西洋医学の余りにも無力であるという理由も勿論である。

今にも難症が解決出来るかのようにいい、今にも生命の神秘が白日に晒し出さるるかの様に新発見を発表する。

又、新薬や新治療が、救世主のように、次々現われかけては、亡霊のように消えてゆく。

人々はそれらの科学的美辞に幻惑されて、自分達の生命は今にも科学力で解決される様に思ったりする。

現代人の眼は、大方は近視眼になっている。

それは、目前の物しか視る事が出来ない症状だ。

だから近視眼では、科学のイミテーションは解るはずがない。

視よ、弱体児童の激増や嬰児の死亡率と、眼鏡使用者が世界一だという。

それで医学は進歩したというのである。

結核患者も、脳溢血も、神経衰弱も、絶望的数字にまで進んでいて、それで、医学は進歩したというのである。

精神病院は現在患者の十分の一しか収容出来ないそうだ。

新聞紙の広告欄は薬の能書で一杯である。

新興宗教は治病だけで信者を獲得している。

それで医学は進歩したというのである。

医学博士で灸治療をする者が段々殖えるそうだ。

又、掌療法専門の博士も有るという事だ。

それで、医学は進歩したというのである。

皮下に在る膿一滴といえども、メスか針で皮膚に傷を付けなければ、除去出来ない現代医術である。

そのような医術で、人間の生命を解決しようとするのは、ロケットで月世界へ往くより困難であろう。

又、薬剤で病気を治そうとするのは、ロボットに恋愛をさせようとするのと等しいものかもしれない。

何となれば、薬剤は苦痛の緩和は出来るが、病気治癒力は、絶対有り得ないからである。

科学的医療と、インチキ宗教に、生命を託さなければならない時代の人間程、不幸な者は有るまい。

この時代こそ実に病者氾濫時代である。

にも係わらず、医学は進歩したと思込んで、医療に満足し切って何ら疑点を挿(さしはさ)まない盲目さである。

まことに悲惨そのものである。


吾々は、この様な現代医学に生命を委(ゆだ)ねて安心出来るであろうか。

勿論、科学の恩恵は素晴しい、最大級の感謝を捧ぐるも足りない事は識っているが、人間の生命だけは科学の範囲外に置くべきものである。

新生さるべき日本文化とは、科学のみでない。

精神と科学、霊肉両全の、否、霊が主たるものでなくてはならない。

勿論、医術も殊に霊が主であるべきだ。

それは、生命力を復活させる力は霊が基本であるからだ。

無論、宗教的や観念的でもない。

実に科学的でも、宗教的でも全然ない。新しさと完成が在るべきである。

そういう完全医術が、日本に新成されてそれが世界へ拡充されて、白人も、東洋人も、黒人もが、均しく恩恵を蒙るという、その時期が来た事を私は信ずるのである。

そうして病無き時代は創造される。病種は漸減し、病院は次々閉鎖されてゆく。

医師の数も、死亡率も、漸次減少するのは勿論である。

この夢にも等しい医術が、日本文化の根幹をなすであろう。

それは、西洋文化が、日本の長夜の夢を醒ました時も、医術がその先駆をなしたように、今や、新生日本文化は、赫々として、旭日のように、西へ西へと光を拡げてゆくであろう。」 (「新日本医術書」より)




明主様御教え 「健康 1号 発刊の辞」 (昭和11年6月15日発行)

「今回大日本健康協会なるものが生れ、その機関誌として月刊誌「健康」を創刊するに到った。

その目的は何であるか・・・簡単にここに発表する次第である。

世界も・・・日本も現在非常時である事に異論はない。

愛すべき吾らの国家においても国防に政治に経済に、あらゆる機構が革新の産声(うぶごえ)を挙げようとしている・・・

非常時はそれの母体であるともいえようが、ここにそれらよりも比較にならない程大きな非常時に遭遇している事に、誰しも気が付かないという惨事である・・・それは何か、健康の大非常時のそれである。

結核、神経衰弱、弱体児童、近視眼、癌腫等々のその激増振りは、実に驚くべきものがある。

西洋医学は進歩したというにも係わらず・・・事実はそれを裏切って停止する所がない、

もし医学が進歩したとしたら、病者は減り病院は経営難に陥り、新聞紙から売薬広告は影を潜むであろう・・・

眼鏡使用者と幼児死亡率の世界一は失墜するであろうし、

結核療養所も精神病院も建増しは中止され、弱体児童の減少は誰もが愁眉を開くであろう。


それがどうだ全然正反対の進行を続けている。

これは何が故であるか。言うまでもなく医学衛生健康法に一大欠陥がなければならない事である。

基礎医学もいい・・・黴菌発見も血清注射も必要であろう。

しかしながら目前に跳躍している病魔の克服・・・これはどうすればいいのだ・・・泥棒の侵入を防ぐ研究も勿論緊要ではあるが、

事実は今泥棒が室内へ入ってしまって、金品を持去ろうとしているのだ・・・要は当面の事態である。

癌発生の研究に幾十年を費していて未だ完成しない。

医学はその発生が完成してからが治療の研究である・・・恐らくその治療完成の時機は何百年先か判りはしまい。

今・・・もし、直ちにあらゆる癌腫治癒の方法が発見されたとしたら、問題は即座に解決して最早研究の必要はない。

又・・・医学上難治や不治とされる疾患が、発病後直ちに来る者は全部治癒される・・・実に治病率百パーセントの療病法が発現されたとしたら人類の幸福はどうであろう・・・

勿論・・・医学は革命されるであろうし、病無き時代はここに実現されそれによる社会機能の幸福への改善は、蓋(けだ)し予想し難い甚大なるものがあるであろう。

この・・・空前な大医術は、今やすでに完成して実行の緒につかんとしている。 (岡田仁斎)」




明主様御教え 「宗教の治病統計を作れ」 (昭和11年御執筆)

「宗教が、特に新興宗教が病気治しを本位として、信者を獲得している事は誰も知る通りであるが、これへ対し既成宗教側や、その他の方面で、それがインチキであるというのである。

しかしながら、事実、病気が治り、それが医学よりも優れているとすれば、インチキ所ではない。

大いに推賞して、社会の役に立たせなければならないのであって、もし、新興宗教の言うごとき治病の効果があるならば、インチキ所ではない。

実に人類の為に素晴しい貢献であって、非難する方がインチキであろう事である。そうして、むしろ政府が進んでこれを奨励すべきである。

ただしかし、それが、ある種の病気に限られるか、又は、その言う事が事実より誇大なる点があれば、その点がインチキである。

故に、それをはっきりさせる事が、新興宗教としては緊要時であると思うのである。

しからば、それは、どうすればよいかというに、私は統計をとるより外に方法はないと思うのである。

まず無論、能(あた)う限りの正確を期し、その宗教の治病率と信者の罹病率の統計をとる事である。

特に治病率の方は、患者が現在までの病気治療の経過と、及びその宗教による全治の経過及び予後の状態、それらを詳細に記述し、その統計を天下に示すべきである。

そして果してその効果が医学以上に認むべきものがあるとしたなら、これは政府が新しい医術として奨励し、普(あまね)く社会へ応用する必要が起るであろう。

ただ、それらの事をしないで、漫然とインチキである、否インチキでないと相争っておった所で、果しがない事であるし、又新興宗教としても、いつまでもインチキ視せられている事は、発展の上にも障害になるであろう。

そうして右のごとく、統計を示す事が不可能とすれば、それは確かにインチキであると決められても、返す言辞は無いであろう。

しかしながら、西洋医学にも多分にインチキ性のある事は認めざるを得ないのである。

否、インチキというより錯覚であるかも知れない。未だ不完全なる療法を完全として応用する誤謬かも知れない。

しかも、それらは、最高権威である大学あたりの診断や治療にも驚くべき錯誤のあるという事実を常に吾々は見せ付けられているのである。

従って、これら両方面共、最も公平に厳重なる検討をして、その誤れる点を発見匡正(きょうせい)する事が、今日の急務である事を言いたいのである。」 (「新日本医術書」より)




明主様御教え 「医師会に就て」 (昭和18年10月5日発行)

「ここで、医師会なるものについて一言いわして貰いたいのである。

それは今日までのごとき、西洋医学のみの団結を革(あらた)め、総ての民間療法も抱擁して、相互の特長を研究錬磨し、

その結果として日本独特の医学を樹立すべきではないかと惟(おも)うのである。

元来医師会の成立は随分古いものだそうである。

勿論明治時代、日本が欧米の唯物的文化を無差別的に移入した時代の機構として又やむを得なかったのであろう。

しかしながら、日本が世界の本舞台に登場せざるを得なくなった今日、

どうしても吾々日本人として生を稟(う)けたるものは日本独特の文化を創造し、

それによって世界的指導者たるべき使命を課せられたといってもいいのであるから、

医学といえども勿論日本独特の医術を創建しなくてはならない機運となった事は勿論である。

それのみではない。西洋医学の唯物的方法を以てしては、国民の体位も人口問題も結核問題も解決は困難であるという事があまりにも明白になりつつあるという事実である。

それらによってみても医師会改組問題の速(すみやか)に行われん事を私は提唱するのである。」 (「明日の医術 第2編」より)




療術師組合結成式 祝辞 (昭和21年11月3日)

「本日ここに東京都療術師組合結成にあたり、私は衷心より慶賀の意を表したいのであります。

過去数十年来茨の道を歩み来った効あって、本組合結成の運びにまで立ち到ったことは、

いかに諸君が隠忍自重斯道(しどう)に尽瘁(じんすい)し来ったかは明らかで、これを想う時まことに感慨に堪えぬものがあります。

ご承知のごとく、今日までの医学はだいたい西洋、漢方の両様のみで、真の日本医学はなかったのであります。

これに対し私は日本医学なるものも生まれていい、否生まれなければならないと思うとともに、

それは今日の民間療法の完成でなくてなんであるかということであります。

世界はより優秀なる新文化が生まれることによってのみ進歩の過程があります。

この意味において私は、真に治病上力ある医術を創造されんことを諸君に望みたいのであります。

このたびの侵略戦争によって、日本否日本人が世界からいかに信を失ったかは諸君もご存じの通りであります。

これを挽回する唯一の道は世界人類の福祉を増進する新文化を、日本人の手によって作り出す以外ないことを確信いたします。

この意味においてわれわれの責務のいかに重大なるかを痛感するしだいであります。

これをもって本組合結成式の祝辞に代えたいと思います。」

昭和二十一年十一月三日  東京都療術師組合 顧問 岡田茂吉