人間の生命は唯心的・形而上的存在 1
明主様御教え 「現代文化とは」 (昭和28年御執筆)
「これまで説いた事によってほぼ分ったであろうが、要するに医学誤謬の根本は、自然を無視したところにある。
というのは病気というものは、さきにかいたごとく体内機能の邪魔物である毒素を、病気という形によって排除する自然作用であって、
そのように神が造られたものである以上、人間はそれに従うのが本当である。
この例としては、彼の風雨や雷火である。
これは空気界及び霊気界に汚穢が溜り、これが濃厚となると、毒素が発生し、人畜その他に害を及ぼすので、浄化作用が発生する。
すなわち風で吹き払い、雨水で洗い、天日で乾かし、特殊なものは雷火で焼尽する。
これを小さくしたものが人間の病気であるから、この理を知ったなら病気を止める事が、いかに反自然であるかが分るであろう。
ここで病気と科学の関係についての誤りについて詳しくかかねばならないが、
元来科学の役目は人間生存上人間の意欲を満たすべく、より便利に、より美しく智能を豊富にし、幸福を増進するための学問であって、
その分野は自ら定められている。それは形而下的学問であるに対し、
人間の生命は形而上的の存在であって、科学の分野には属していないのである。
すなわち科学は唯物的分野であり、人間生命は唯心的分野であるのが真理である。
しかるに近代に至って科学の驚くべき発達によって、人間はそれに幻惑され、
科学をもってすればいかなるものでも解決出来るとする科学過信に陥ってしまったのである。
それがため己れの分野を逸脱し、唯心分野の領域に侵入したので、その結果人間生命をも自由にしてしまった。
この下剋上的考え方が医学を生んだのであるから、
根本的に誤っているのは今更言うまでもないのである。
以上のごとく人間生命は、唯心分野にあり、唯心分野を握っているのが神であるから、私が行う治病の素晴しい力も神から発現する以上、
いかなる病気も治るのは当然であって、敢て不思議はないのである。
ところが現代人はこれを見て不思議と思い、奇蹟としているのは実は嗤(わら)うべきであって、
逆さになって見れば真直なものが逆さになっているのと同様である。
という訳で私が行う神霊治病方法は、見た事も聞いた事もない破天荒的であるから、
容易に受け入れる事は出来ないので、一時は戸惑いするが、
しかし根本から判るに従い俄然として、長夜の夢が醒め、医学の迷蒙も分り、ここに安心立命者となるのである。
従ってこの著を読んでも、なお躊躇逡巡目覚めないとしたら、その人は滅びの淵に臨んでいる危険極まる人と言ってもいいであろう。」
(註 形而上・・・1 形をもっていないもの。2 哲学で、時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できないもの。超自然的、理念的なもの。
形而下・・・1 形を備えたもの。物質的なもの。2 哲学で、感性を介した経験によって認識できるもの。時間・空間を基礎的形式とする現象的世界に形をとって存在するもの。)
明主様御教え 「医学封建」 (昭和28年9月23日発行)
「医学封建といったら全然耳新しい言葉なのでちょっと見当はつくまいが、これを読んだらなるほどと思わない人はあるまい。
それというのも今日知らるるごとく、実に病気の種類は固より病人の数も多い事である。
そうして病気の場合十中八、九は持病または重難症であって、根治する者のほとんどないのは、医師もよく知っているであろう。
そうして常に患者に対してはより速かによりよく治そうとし、最新の療法をもって出来る限りの努力を払うにかかわらず、思うように治らない。
最初診察の際何週間、何カ月なら治ると予定し、患者にもそれを聞かせるが恐らく見込通りに治った例(ため)しはほとんどあるまい。
それというのもこの薬なら、この方法なら学理上では治るようになっているので、その通り実行するが中々治らないのは、患者も医師も常に経験しているはずである。
そのような訳で一時的には確かに学理通りに治ったように見えるが、それが長くは続かない。
時日の長短こそあれ必ず再発するかさもなくば他の病気に転化する。
これも医師なら数知れず経験しているので分っているであろう。従ってこの事実に対しては医師も常に疑惑を抱き、不思議に思っているのは想像に難(かた)からない。
それこそ全く医師が信じている程に医学は進歩していないからであって、進歩していると思うのは、錯覚以外の何物でもないのである。
そのため絶えず学理と実際との矛盾の板挟みになっており、それを知らない世の中からは尊敬され、確固たる社会的地位を占めているのであるが、胸中の煩悶(はんもん)苦悩は並大抵ではあるまい。
しかしいつかは医学の進歩によって、解決の日も来ると思う一種の自慰観念によって、淡い希望を繋(つな)いでいるに過ぎないと私は思っている。
従ってこの説を読み、今までの疑惑のべールが剥(は)ぎ除られるとしたら、ここに白日のごとき真理の光に誤謬が浮かび出され、愕然(がくぜん)として目覚むるのはもちろんである。
ところがこの迷盲こそ文明の進歩に対する一大障礙(しょうげ)となっているため、これ程科学が進歩しても人類の幸福は増進しないにかかわらず気がつかないのである。
これがためこの私の説に対しても全然検討もせず、宗教家の説なるがゆえに非科学的であり、日進月歩の今日進歩した科学の理論を裏切るものと決め、採り上げようとはしないのである。
つまり科学迷信の黒眼鏡をかけているから、正確には見えないはずである。
ではその黒眼鏡とは何かというと、医学者の根本的考え方が最初から人間の生命を、他の物と同一レベルにおいており、病気も科学によって解決出来るものと信じている事である。
ところが私は神示によって知った事は、なるほど人間以外の他のことごとくはそれに違いないが、独り人間のみは根本的に異っていて、これだけは科学の分野ではないからである。
例えば人間の趣味嗜好、喜怒哀楽、恋愛等は固より、智性、芸術、神秘性、人類愛等高度の思想など、他の動物には全然ない事で、これだけにみても他の動物との異いさが分るであろう。
というように科学は人間の特殊性を無視し、動物並に扱っている事が大いなる欠陥である。
しかもそれが医学の根本理念となっている以上、科学の枠の中に立籠り、他の世界が見えなかったのである。
これを別の面から見ても、仮に人間のレベルが地平線とすれば、それ以下が物象であり、以上が人間であって、これが宇宙の法則である。
この理によって地平線以下のことごとくは人間の自由になるが、以上はその反対である。
ゆえに人間が造った科学をもって人間生命を自由にする事の不可能なのは当然であって、何よりも無病である事も長命も意のごとくならないに見て明らかである。
とすれば人間が人間の病気を治そうとするのは下剋上で逆であり、神位の侵犯である。
この理によって人間の生命のみは世界中の学者がいかに努力しても、徒労以外の何物でもないのである。
それに気付かず、見当違いの横道をひた走りに走っているのが現在の医学であるから、その無智なる実に哀れむべきである。
私は思う、今日の医学者こそ科学の亡者であり、邪教迷信者と同様の心理である。
また彼の封建時代武士道をもって最高道徳とし、主君のためなら殺人行為も敢えて差支えないばかりか、団体的大量殺人者程賞讃され、栄誉を得たのであるから、今日から見れば野蛮というより外はない。
つまり公然罪悪が奨励されたのである。この事を医学に当嵌(は)めればなおよく分る。
以上によって科学をもって最高の治病方法としていた事は、狭い封建の殻から脱け切れない盲目であった。
ところが実は未知の素晴しい世界があり、そこに真の医術があって完全に病を治し得る事を私は知ったので、
この一大福音を普く世界万民に知らせるべくその前提としてこの説を全世界の医学者に向かって発表するのである。」
明主様御教え 「科学で病気は治らない」 (昭和28年御執筆)
「科学の進歩は、科学発見以前の世界と較べたなら、比較にならない程素晴しいのは今更言うまでもないが、
さりとて向後(こうご)百年、千年後を想う時、それは想像も出来ない程の超驚異的文明世界である事ももちろんである。
そこでよく考えてみると、今日までの科学の進歩は、端的にいえば光学の進歩でしかない事である。
すなわち小さなものが拡大して見える硝子(ガラス)玉の進歩である。
大は天体観測の望遠鏡から、小は微生物発見の顕微鏡に至るまで、つまり大と小の極端の進歩で、中間はほとんどないといっていい。
そこで医学に関する面を主としてかいてみるが、現在のところ電子顕微鏡で見得る限度は二十万倍とされている。
この限度内で把握された微生物すなわち黴菌、またはウイルスを病原としているのが医学の考え方である。
そこで医学はこの菌を殺滅すれば、病は治るものと信じ、それを建前として研究を進めているのは言うまでもない。
ところで考えねばならない事は、右のごとく二十万倍以下の菌を対象としており、それ以上の菌を重視しない事である。
としたらここに問題がある。それは真の病原は二十万倍どころではない。
百万倍か、一千万倍か、科学者は想像もつかないであろう。
それのみか仮に一千万倍の菌が見えるようになったとしても、それで根本的治病が可能なるかというと、これも分りようはずがない。
あるいは真の病原は菌の大きさどころではなく、無限であるかも分らない。
としたら科学がいかに進むとしても、病気を治す事は絶対不可能であるのは断定しても間違いはない。
それについて言いたい事は、医学は紀元前彼(か)のヒポクラテスが創始したものであって、すでに二千有余年を経ている今日、今もって病気は解決出来ないのである。
しかし言うであろう。十八世紀後半俄然として科学が勃興し、それに伴って医学も発達したのであるから、
このままで漸次進歩の暁、理想的医学となるに違いないから、それを期待しているのである。
ところが医学の病理のごとく、病原はことごとく黴菌としている以上、
前記のごとく顕微鏡がいかほど進歩し、微生物の極致まで発見されたとしてもそれで解決出来ないのは右によっても明らかである。
また別の面から見ても、人間の生命は造物主が造られた万有中、最も神秘極まるものであって、他の物質とは根本的に違っている事を知らねばならない。
これは説明の要はないほど高級な存在である。
言うまでもなく智性、思想、感情等の思想的面は他の動物には全然ない。
この意味において人間以外の一切は、科学によって解決出来ると共に、
益々進歩発達させねばならないのはもちろんであるというのは一切の物質は人間よりレベルが低く、従属されているものである。
従って人間が同一レベルである人間を、自由にする事は真理に外れているから、どうしても人間以上であるXの力でなければならない。
だとすれば人間が作った科学をもって、人間の病気を治そうとするのは、いかに見当違いであるかが分るであろう。
ゆえに治らないのが当然である。
標題のごとく科学で病気の治らない訳は分ったであろう。
また次の例を挙げてみると一層ハッキリする。
昔から至大無外(しだいそとなし)、至少無内(ししょううちなし)という言葉がある。
もちろん大も小も無限という意味である。
例えば大空の無限大と共に、微生物の本質も無限小である。
これを人間にたとえれば想念の無限である。
宇宙一切、森羅万象いかなる事物でも想念の届かぬところはない。
これによってみても人間はいかに高級であり、神秘な存在であるかが分るであろう。
従って人間の病気といえども、有限である科学では治し得ないと共に、
無限の力によらなければ治し得ないのは明々白々たる事実である。
この理によって医学の誤謬の根本は、人間と他の物質との違いさを知らないところにある。
としたら、その幼稚なる未開人的といっても過言ではあるまい。
以上思い切って科学にメスを入れたが、現在のところ私の説は到底信じられないであろうが、
科学の理論物理学が実験物理学によって確認されると同様、
私の唱える理論が実験上確認されるとしたら、これこそ真理である。
ただ私の説が余りに飛躍しすぎているので、直に受入れられないだけの事で、承認されるのは時の問題でしかあるまい。
以上のごとく無限の病原を、無限力によって万人を救う例として、現在日々数万の患者が救われている。
例えば医学では絶対不治とされ、死の宣告まで受けた患者が、医学の医の字も知らない人々が数日間の修業によって得た方法をもってすれば、たちまち起死回生的に全治する。
また彼の盲腸炎の激痛でも、術者が数尺離れた所から、空間に手を翳(かざ)すだけで、二、三十分で痛みは去り、間もなく下痢によって排毒され全治する。
結核菌を呑んでも感染しない、感冒に罹る程健康は増すとしての喜び、目下流行の赤痢、日本脳炎など、数日間で全治する等々、例は何程でもあるが、これだけで充分であろう。
従ってこの著を読んだだけでは余りの偉効に到底信ずる事は出来まい。
ちょうど幼稚園の児童に、大学の講義を聴かせるようなものである。
この大発見こそ夢の現実化であり、不可能が可能となったのである。
私は断言する。何人といえどもこれを身に着ける事によって、完全健康人となり、安心立命の境地になるのは断言する。
ゆえにこの事が全世界に知れ渡るとしたら、空前の大センセーションを捲き起すと共に、文明は百八十度の転換となるであろう。
その時になって臍(ほぞ)を噛むとも間に合わない。
この例として明治以後西洋文明が国内を風靡するや、今まで嘲笑され下積みになっていた人達が、
一挙に新時代を受持つ栄誉を担うに反し、旧思想に捉われ頑迷な丁髷(ちょんまげ)連中は、慌てて後を逐(お)うとも追いつかなかったのと同様である。
しかもこの大発見たるや、それよりも幾層倍、否幾十層倍大であり、永遠性があるとしたら、
徒(いたず)らに躊躇逡巡(ちゅうちょしゅんじゅん)バスに乗遅れないよう敢て警告するのである。」
明主様御教え 「理屈ならぬ理屈」 (昭和28年2月11日発行)
「人間は神様が造られた者で、学者でも技術家でも造ったものでない事は今更言うまでもない。
従って病気に罹った場合、神様に治して戴くのが当然の理屈であって、薬や機械で治そうとするのは、丸きり見当違いである。
というように治して貰うというよりも、救うて戴くのである。
すると救って貰う人と、救ってやる者との地位は自ら別である。
すなわちどちらかが下で、どちらかが上という事になる。
としたら言うまでもなく救ってやる方が上に違いない。
この理を具体的にいえば、こういう事になろう。
すなわち病人は救って貰う方で、医療が救ってやる方である。
としたら医療は機械と薬を用いる以上、人間の地位は機械や薬という物質より以下になる。
近来流行の青苔から出来た薬の方が上になり、人間様の方が下になる訳で、
青苔が人間の生命を救うとしたら、人間は余りに情ない小さな虫ケラ同様になってしまうという道理である。
すると反対者はいうであろう。それは人間生きてるためには食物が必要であるから、人間より食物の方が上ではないかという理屈も成り立たない事はないが、
しかしこれは人間が死ぬべき運命を救って貰うのとは根本的に違っている。
治病は食物に関係はなく死の危険から解除されるのであるから、造り主である神に救って貰わなければならないはずであるからである。
私はいつかもいったごとく、もしお医者が病気を治してくれたなら、そのお医者の写真を神棚へ上げて拝むのも本当だし、
薬や注射で助かったとしたら、その薬と注射器に向かって三拝九拝すべきであり、
また手術で助かったとしたら、メスやピンセットと消毒薬等を一生涯家宝として子々孫々に伝えてもいい訳である。
とマアー言ってもみたくなるが、今の人はこれを読んでも、フフンと鼻の先で笑うくらいが落ちであろう。
しかしそれでピンピンしているのなら何をかいわんやであるが、
ところがどうだ、ヤレインフルエンザ、赤痢、脳炎、結核、癌、中風、小児麻痺、脊髄カリエス、心臓病、盲腸炎、扁桃腺炎等々、並べ切れない程の病気に一喜一憂している有様である。
としたらどこか大いに間違った点があるに違いないから、そこにお気が付かねばならないではないかと言いたいのである。」
明主様御教え 「医診では病気は分らない」 (昭和27年9月10日発行)
「医学の診断が、いかに杜撰(ずさん)極まるものであるかは、左の体験者の御蔭話(省略)がよく物語っている。
それはどういう訳かというと、医学の診察は機械だけで行われる以上、分るはずはないのである。
何となれば人間は造物主すなわち神様が造られたものであるから、病気の場合どんなに精巧な機械であっても、寸毫も分り得るはずはないのである。
なるほど熱の上下、血沈の速い遅い、黴菌の有無などは機械で分るが、それは末梢的であって、病気の本体には触れていないのである。
つまり医学は現われた症状を測定するだけで、根本は分らないものとしている。
左の患者のごときは、幾人もの医師に診て貰っても、異口同音「貴女には病気はない」といわれるにかかわらず、本人は日々非常な苦痛で困りぬいたところ、
浄霊によって救われたからいいが、これによってみても医学は診断も満足には出来ないと共に、況(いわ)んや治すにおいてをやである。
従ってこの患者の場合はこういうのが本当であろう。
「貴女のように色々な苦痛があるのは、相当軽くない病気に罹っているに違いないが、
しかし現在の医学ではいまだそれを発見出来るまでに進歩していないから、
まず諦めて自然に任せるより仕方がないでしょう」というのが正直な言葉である。
それに何ぞや、ただ病気がないとだけで済ましてるのは、盲目か欺瞞かどちらかであるから、医師諸君の苦しみも御察しするが、
しかし事は人間生命の問題であるとしたら、医学上分らないものは分らないと、正直に言うのが良心的であろう。
さもなければ余計な治療費を患者に負担させて、効果は零としたら、一種の罪悪と言われても仕方がないであろう。」
明主様御教え 「病気の本体 西洋医学の大誤謬(一)」 (昭和11年5月15日発行)
「そもそも病気とは何ぞや、言うまでもなく、人体の一部又は全部に、異状現象が発生し、それに因る苦痛である。
しからば、何故に、異常現象が表れたのであるか、これは、現在までの医学では、未だ判っていないのである。
これについての、私の研究を発表し、世の専門家並びに識者に問いたいのである。
本来あらゆる動物は霊と体から成立っており、この両者の密接不離の結合によって生命力が発生するのである。
この霊を支配するに、意思想念があり、意思想念を湧起するのが、心魂である。
しかるに、西洋医学は、全然この霊を無視し、体一方のみを本位として、微に入り、細に渉り、分析研究しつゝ、今日に到ったものである。
唯物主義によって、構成された科学である以上、それは致し方の無い事であろう。
しかしながら、病気の本体、即ち病原なるものは実は体に在らずして、霊に在るのであって、最初、病気は霊に発生し、しかる後に、体に移るのである。
故に、病気は霊が原因であって体は結果である。
この霊体の関係を発見し得ない限り、向後、幾百年に渉って研究するといえども、絶対病気は治癒されない事を断言する。
とは言うものゝ科学の進歩が、現在の程度である以上、霊の実在を、器械的に測定し得られないから、止むを得ない事ではある。
たとえて言えば、ちょうど現在は、空気の発見以前の、文化と等しい訳である。
しかし、空気の構成原素を発見し得た科学は、霊の実在を発見し得ないと、言えない事は、勿論である。
空気の発見に因って、科学は、俄然、飛躍したように、科学によって、霊の実在を発見されたとしたら、真の医術が、治療が、確立されるであろうし、又、宗教と科学も一致するであろう。
今日のような、唯心主義との闘争も、ここに、全く跡を絶つであろう。
この霊を主としての治療の原理によって、現に今、驚くべき成績を、私は挙げつゝあるのである。
吾々の、この日々の治病成績に驚いて、誰もが、一大奇蹟というのである。
しかしながら、この霊を主とした、無薬、無物理療法の原理が判れば、治るのはむしろ当然であって、些(いささ)かも、怪しむに足りないのである。
これと同一の理によって、体を主とした療法に依って、もし、完全に治癒せらるゝとしたら吾々は、それこそ、実に不思議であるとさえ、思うのである。
しかし、私は、医学の誤謬を指摘しているのであって、科学を非難しているのではない。
何となれば、科学の進歩によって、人類は、いかに偉大なる福祉を与えられたるかは、測り知れないので、将来益々、進歩発達させなければならない事は、勿論、望むらくは、宗教と一致するところまでに、進歩されたいのである。
しかしここに誤られ易い、一大事が伏在している。
それは、科学という魔法使は、器械を活物のように働かせる、実際、生きた人間の代りさえしてくれる、それだからと言って、生きた人間をば、器械として取扱う事は出来ない。
これは、最初に言った様に、器械には、霊がない、意思想念もない、しかるに、人間には霊も意思想念もあるからである。
器械は、物質であるから、破損した場合、それは物質である所の、器械や油や薬で、修繕出来るのは、当り前な話である。
しかるに、人体の破損であると言ってもよい所の、病気に対(むか)って、器械や、油や、薬で治せる道理があるはずがない。
人体は、物質のみではない。血も神経も、生きた細胞も、絶えず流転し、新陳代謝してやまない。
実に、霊妙不可思議な、Ⅹである。
言うまでもなく、人体は学理によって、物質で造ったものでもない。
実に、造らんとして造る能わず、造らざらんとしても造られるところの、一大神秘なる、造化的産物である。
そうして、植物でも、鳥獣や魚族とも、全然異る所の、高等霊物である。」 (「明日の医術・新日本医術としての岡田式療病法」より)
明主様御教え 「科学に預けている生命」 (昭和11年5月15日御執筆)
「西洋医学は科学が生んだものである事は間違ない事実である。
そうして少くとも、全世界における人類の中、文化的国家のそのほとんどの国民は、この科学所産の医学に全生命を預けている。
一体人間の生命なるものは、偶然的に自然発生したものであろうか。
それとも有意識的に誰かが生産させ、そうして誰かが握っているものであろうか。
もし偶然的で気紛れのように発生したものであるとすれば、ここに解け難い点がある。
それは何であるかといえば、いつの時代でもいかなる民族でも、男女の数はおおよそ半々位生れる事である。
故に偶然的で気紛れであるとすれば、ある時には一方が非常に多くなったり、少くなったりする場合があり相なものであるのに、そうでないというのは、そこに何物かがあるのではないか。
又、今一つの事実がある。それはいかに疫病が流行(はや)っても、又、全然医学の無かった時代でも、死ぬ人より生れる人の方が必ず多いという事である。
この二つの事実をみても、偶然や気紛れではないという事を信じない訳にはゆかない事である。
してみれば、誰かが有意識的に計画的に、何らかの目的の為に、まことに巧妙に操作しているものである事は充分肯けるはずである。
しからば、それは一体何者であろうか。私達はこの存在を称して神というのである。
即ち人間の生命は、神の意志によって発生し、又、神の工作のままに存続しているものとみるのである。
かように、神の御手に在る人間の生命を、人間が作った薬や器械で自由にするという事程、不合理はないであろう事である。
又、今一つの意味から言ってみよう。それはもし、科学が作った生命であるとしたならば、科学で自由になるから、いかなる病気といえども治るはずであるが、実際は中々そうはゆかない。
科学で自由に出来るのは、それはロボットでしかあり得ない。
ロボットは科学が作ったものであるからである。
故に、科学と生命との関連は、何らあり得ない事は真理である。
にも拘わらず、文化人と称する人間達は科学の力で、生命の解決をしようと恐ろしい程の努力を続けている。
そうして、その無効果である事に気が付かない。
飽くまでもそれに固執し切ってしまって、全然他へ眼を転じようともしない事である。
これらの余りにも馬鹿々々しい盲目者達の眼を醒す事程、大きな啓蒙は無いであろう。
しかもなお恐るべき事は、この蒙昧、事を知らないところの一般人は、反って絶大な進歩であると讃歎し、宗教的情操にまで信仰してしまっている事である。
実に鉛が金に見える色盲者のようにでもある。
自分達がいつ脳溢血が起るか判らない病状の不安にありながら、それをどうする事も出来得ないところの医学に頼っている。
否頼らざるを得ない事になっている。
自分の子女が結核に侵されていて、いかなる療法をしてみても、治る見込が無いので、日々懊悩(おうのう)を続けつつも、
なお転地に療養所に多額の費用を投じて当にならぬ事と知りながら、中止する事も出来ない余儀なさに療病を続けているばかりか、いつ死ぬかも知れないという不安をどうする事も出来ないでいる。
そればかりではない。その病人の結核が家族の者に感染するかも判らないという危険をさえ感じつつも、まさか全然接近しない訳にもゆかないという、苦悩の二重奏さえもある。
又、児童の腺病質的弱体に二六時中不安を感じながらも、解決し得ない医学に頼らない訳にはゆかないという不安の現状維持から免れる事は出来ないのである。
これらについて医家はいうのである。
結核は早期に診療すれば必ず治るのであると。
しかしこの言を肯定する事は出来ない。
何となれば、それならば中流以上の子女に結核は無いはずであるが、事実はそうではない、同じように結核に悩まされている。
その他種々の病苦に因る個人とその家族の悩みはどの位多数に上るか。
ほとんど想像を絶するものがある。
医学が進歩したというにも係わらず、なぜかくも結核やその他の病者の氾濫を抑圧出来得ないかと言う事に、疑念を起さなくてはならないはずであるのに、
それがそうでないのは、時期の到らない為かもしれないが困ったものである。
早晩誰もが気が付き出す事は間違いないであろうが、それまではどこまでも人間の生命を科学で解決しようと努力するに違いない。
そうしてこの重大事が、あらゆる難問題の根元をなしている事である。
それは、政治も経済も国防もその他一切は悉(ことごと)く、これに関りがない訳には行かない事である。
なぜか、それは人間生活における一切の悩みの根元である不幸のその原因は、ほとんど病苦からであると言えるのである。
病苦が一家の経済力を殺ぎ、それが生活苦となり、不幸となり、不平となり、思想悪化となるのも事実である。
二・二六事件の起った根本の根本は、国防費に対する充実観と、一方それが財政を不安ならしむるという観点の相違からであるのも事実である。
今日、軍部が必要と認むるだけの国防費を快く供給したとすれば、問題は即座に解決すると思うのである。
その他農村問題も中商工問題も、勿論円満に解決されるであろう。
故に、私は飽くまでも強調する。国家のあらゆる問題は、国民からの病苦を除く事によって必然解決さるるのであって、この事以上に根本的であるものは無いであろう事を、断言して憚らないのである。
又、健康なる身体には健全なる精神が宿るという事も明かである。
故に、国民一般が健康な肉体と健全精神になるとしたら、罪悪も自殺もいかに激減し、強力国家となるかは想像なし得るのである。
再び言う。科学で人間の生命を自由にしようとする間は、あらゆる問題の解決は不可能であるという事である。
故に、科学以外に人間の生命の根元を探究し、そうして解決しなければならない事である。
私は生命の根元の探究とその解決に、既に成功している事を発表したいのである。」
明主様御教え 「科学の使命」 (昭和11年5月15日発行)
「人間が、科学の力に依って、機械の進歩は言わずもがな、
有生物である植物の種子を改良したり、科学的肥料を与えて、増大又は増産させたり、花の色を思う儘、変化させたり果実を大きく生(な)らせたりする事は、驚くべき進歩である。
又、動物や家畜を改良したり、鶏に卵を多く生ませたり、最近は、牛や馬の精虫を飛行機で輸送して、受胎させるという、驚くべき報告さえあるのである。
其他、小禽や金魚等迄も、欲する儘(まま)に改変出来る程に、進歩した事である。
それは人間を形而上(けいじじょう)の存在とすれば、それ等凡ゆるものは形而下のものであるから、
人間の意思のままに出来得るのは、当然な事である。
森羅万象に対する自然法則は、そうなっているからである。
それであればこそ、人間が、人間を自由にする事は、出来得ないのである。
それは同じレベルの存在である人間同志だからであって、若し、人間を自由にするものがあるとすれば、それは人間ではない、人間以上の或物であって、超人間、又は、神と名付くべきものである。
この理に由って、科学は人間が造ったのであるから、同じレベルの存在である人間を自由にする事は、法則が許さないのである。
したがって、其科学から成立った処の医学で、人間の病患を治癒し、健康を増進させようとしてもそれは、自然法則に反する訳である。
この事に現代人は、目覚めなければならない、今日の社会に於て、此自然法則に背反する事物も多くあるが其中で、医学は、其の最たるものである。
故に、人間の病患を治する其力こそは、人間以上の或る者でなくてはならない事は、寔に自明な理である。
ちょうど、動物や植物を、自由にする力は、動植物自身には無い、それは、動植物以上の存在である、人間が有っているのみである。
又、言い換えれば、人間と同じレベルの科学で、人間を治そうとするのは、下克上でもあり、共産主義的でもあろう事である。
共産主義を作ったユダヤ人が、医学を作ったという事は、面白い事である。
人間の病気を治すべきものは、人間以上の或る存在であるとすれば、それは、神である。
故に科学は僣上にも、その神が有ち給う、治病権を犯しているのである。
それの現われとしての西洋医学は、人間をして、神に対する様に、拝跪さしている。
ユダヤ人の生んだ共産主義は、絶対に神を否定している。
そうしておいて一方、科学を神の王座にまで登らせて、人間に拝跪させようとしている。
そればかりではない、科学は、其産物である医学を以て、終に人間の生命をさえ、自由にして了った事で、
世界中の大部分の人間は、此医学の掌中に、握られて了ったのである。
人間の生命は、元々創造神の御手のものであって、決して科学の手中に、あるべきものではない。
それが、今日どうであろう、人間の生命の所有主である―神の手から、科学は、奪取して了って、思うがままに自由にしている。
日本人の平均寿齢、四十余歳迄に、短縮されて了っていても、尚未だ目覚めないばかりか、益々崇信している事である。
矢張り、科学は科学としての、自ずからなる使命がある。
それは、人間より以下の存在への進歩発達、それが、真の使命である。
故に、私達の運動は、立入るべからざる処へ立入って、自然法則を破って、軌を脱している科学を、科学本来の使命へ戻してやる事である。
つまり科学に奪取されている、人間の生命と霊魂を、再び、本来の所有主である神へ、返還さす事である。
それに依って始めて、人類の生命は延長し、病なき時代が来るのである。
その具体化としての事業が、本療病術であり、之が吾等の、天よりの使命である。」 (「明日の医術・新日本医術としての岡田式療病法」より)
明主様御講義 「自然療法」 (昭和10年御執筆)
「元来、人間なる者は、神が造り給うた、森羅万象の中において、他に比ぶべき物なき最高の芸術品ともいうべきものである。
神に似せて造ったという聖書の言葉は、確かに真理である。
故に、その霊妙不可思議なる構造たるや、到底科学などに依って解明せらるべきものではない、
ただ極表面又は一部分のみが漸(ようや)く科学に依って知り得た位のものであるから、
科学に依って解決するには、今後、幾千年を要するか、又は結局解決出来得ないかは断言出来ないのである。
少し落着いて考えてみるがいい、人間の四肢五体の働きは勿論の事であるが、
微妙なる意志想念の動き、喜怒哀楽等の心の表現、蚤の歯で喰ってさえ痒(かゆ)くって堪らない程の神経の敏感、舌一枚で、あらゆる意志を伝え、その舌が又あらゆる飲食を味わい、
又世界の人類十八億をみても、一尺に足らない顔が尽(ことごと)く違うという不思議さ、
それら諸々の事を考えただけでも、造物主の創作力に対し、讃嘆せずにはおられない。
特に、生殖作用に到っては、一個の人間を創造さるる過程の神秘さは、言葉に絶するものがある。
故に、ロボットのごとく、科学で造った人間でない限り、生命の神秘は、科学では解決付かない事は当り前の事である。
人あるいはいわん、恐るべき天然痘が種痘に依って解決出来たではないかと。
しかし、その事について、観世音よりの霊告に依れば、実は、何千年以前は、天然痘はなかったのである。
それが人間の罪穢に依って出来たものであって、癩病、梅毒等と同じ様なもので、彼の癩病が一名天刑病と言わるるに見ても判るのである。
その罪穢の清算たる天然痘の、その清算を免れんが為の種痘であるから、本当から言えば決して良くないのである。
これが為に、人間の健康を弱らせ、寿命をいかに縮めつつあるかは、天然痘に罹るよりも、その損失は甚大なのである。
しかし、今日といえども、行を正しくなし、天則に反せざる人であったならば、種痘をしなくても決して、天然痘に罹るべきはずがないのである。
とは言うものの、そういう立派な人間は、未だ寥々(りょうりょう)たるものであるから、大光明世界実現までは、種痘も又止むを得ないであろう。
大光明世界になった暁は、今日の伝染病や重病は全く跡を絶つのであって、風邪とか下痢位が、病気として遺(のこ)るだけなのである。
次に、人間が一度病気に罹るや、それを駆逐解消すべき、人間自体の大活動が起るのである。
それは、自家製造の薬が出来るのである。人間の肉体は、元々大薬局と医学博士を兼ねた様なもので、
病気という不純物が侵入するや否や、肉体内に病院を建ててる自家医学博士が即時診断、即時薬剤師に調剤させて病気治療を始めるのである。
それは素晴しい薬や機械であって、実によく治すのである。
毒な物を食えば、早速、体内薬局から下剤をかけて下痢をさせ排出するのである。
悪い黴菌が飛込めば、熱という大殺菌作用の治療法が行われ、
又、物に中毒をすれば、内臓へ入れまいと外部へ押出して、皮膚に赤く斑点を現わし、痒みと熱を以て消失せしめ、
又中毒によっては、腎臓の大活動となり、水分で洗い、小便に依って排泄せしめ、塵埃を多量に吸えば、痰にして吐き出す等、実に巧妙を極めたものである。
であるから、あらゆる病気は、自然に放置しておけば大抵は治るのである。
それを知らないから、科学で研究された薬や療法を用ゆるので、それが自然治療作用へ対して、大いに妨害になり、病気を長延(ながび)かせるのである。
これを実証するには、諸君、もし病気に罹ったら極めて自然に放置せられよ。その全快の神速なる意外の感に打たるべし。
ただし、その場合、徹頭徹尾自然を尊ぶので、寝たければ寝、起きたければ起き、歩きたければ歩き、食べたければ喰べ、喰べたくなければ食欲の起るまでは、二日でも三日でも喰べないでいい。
熱が高ければ水枕位はいいとして、出来るだけ、手当をしないのがいいのである。
こうすれば、いかなる病気も、実によく治るのである。
自然療法を推奨すると、医学は全然、必要がないかというと、そうばかりでもない。医学の中にも、全然、無益でないものもある。
それは、細菌学、衛生学の一部、戦争の際の外科、歯科医学、接骨等である。」 (「日本医術講義録 第1篇」より)
明主様御教え 「人間の造り主」 (昭和11年御執筆)
「人間の造り主は一体誰であるか。
これは考うるまでもなく人間であって、その人の両親である。
なる程、人間の祖先を造り給うたのは神様であるが、その後は人間が人間を造りつつ今日に及んだ訳である。
故に、人間の五体の中には、この貴重なる人間の生命と肉体を造り出し得る神秘な力を有っている訳である。
この不可思議力は、智慧や学問でも得られない。器械や薬剤でも得られない。
生れながら自然に一人も漏なく神から与えられているものである。
人間の肉体を造り得る素晴しい力を人間が有っているとすれば、人間が自己の病を治す位の力を有するとも、別に不思議は有るまい。
この理によって、自然療法はある程度の効果を奏するものである。」
明主様御教え 「分り易い話」
「人間の生命は神が造ったものであって、科学で作ったものでない事は、誰でも考えられるであろう。
としたら前者は人智でも解し得ない神秘力であり、後者は機械力であるから問題とはならない。
従って生命に関係ある病といえども、神に治して貰うのが本当で、科学に持ってゆくのはお門違いもはなはだしい事も分るであろう。
としたらこれほどハッキリした理屈はあるまい。ところが昔からそれに気が付かないところに不思議な点がある。
何よりも今以って病を科学で治そうとしている事で、全く盲の世の中というより外に言葉はない。
この盲の眼を開眼するのが私の仕事であって、その方法が光であるから、お光様とは誰が付けたか、巧(うま)い名をつけたものと私は思っている。
ところがこんな簡単な理屈が分らない程盲の世の中であるから、世界中の人間は病に苦しんでいるので、実に愚かな世の中ではある。
それを分らせようと私は長年苦労しているが、余程重症な眼病とみえて暇はかかるが、
しかし治って眼の開く人も日に月に増えつつあるので、いずれは眼明きばかりの社会となるのは間違いない。
そこでこの盲の製造元といえば、唯物科学の先生であるから、この人達を先に治そうと思っているが、仲々容易ではない。
それもそのはずで、治ったら飯の食い上げとなる危険もあるからで、万人の利益よりも自己の利益が第一という小乗的考えのためであろう。
しかしこの事は私個人の考えからではない。世界の主宰者たる神の意図であるから、一刻も早くこれを信じ、盲目製造会社を解散する事で、それが君等自身も救われる事で、ここに注意しておく次第である。」