原爆ドーム:完成から100年 被爆前の館内を見取り図に
毎日新聞 2015年04月03日 08時00分(最終更新 04月03日 09時48分)
原爆投下前の広島の街並みをコンピューターグラフィックス(CG)で復元してきた広島市の映像作家、田辺雅章さん(77)が、記憶や関係者の証言などを基に「広島県産業奨励館」だった当時の原爆ドーム内部の見取り図を作った。ドームは5日で完成から100年になるが、被爆前の館内の様子を記した資料は少ない。田辺さんは「原爆ドームの中に何があったのか。その解明は生き残った者の使命であり責任だ」と話している。
「奨励館の3階から玄関ホールに紙飛行機を飛ばした。じゃんけんに勝つと日本の零戦や紫電改、負けると敵機に似せて作るんだ」
田辺さんの生家はドームの東隣にあった。堂々たる西洋建築で広島のランドマークだった産業奨励館は自慢の存在であり、遊び場でもあった。格調高い玄関ホールに続く階段は滑り台代わり。館内でかくれんぼもした。
そもそもの縁は「広島県物産陳列館」として開館した1915年当時にまでさかのぼる。設計したチェコ人建築家、ヤン・レツルは度々田辺さんの生家に立ち寄り、祖父母と親しくなった。両親と弟を原爆で失った田辺さんが祖母から聞いた話では、レツルは神楽や大相撲巡業など日本文化に興味を示し、能をたしなんだ祖父に詳しく尋ねていたという。
還暦を機に、映像による爆心地の復元に取り組んでいた田辺さんは記憶の限界も感じていた。しかし、爆心地の半径1キロの街並みを復元した映画「知られざるヒロシマの真実と原爆の実態」を製作していた2012年、訪れたドイツ・ポツダムで古い市庁舎を見学した時、奨励館の記憶が鮮やかによみがえった。
ドーム完成100年を前に、「館内の隅々まで遊んだ成果」に加え、近隣住民やかつて働いていた人たちの証言も集めて検証を重ね、見取り図を完成させた。
1階を再現した2枚の見取り図からは当時の様子が浮かび上がる。1941年当時は、パイプオルガンを設置した集会室の他、演芸会場や工芸指導室、図書閲覧室が配されていた。田辺さんの記憶では、中庭にはソテツの植え込みがあり、季節の鉢植えが並んでいた。
だが、被爆直前は様変わり。建物壁面の丸みや、玄関に続くアーチ状の進入路は4年前と同じだが、戦況の悪化によるものか、玄関の花台はなくなり、パイプオルガンも真ちゅうが供出され、姿が一変していた。