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幼きイエズスのマリ・エウジェーヌ修父著
私たちの念祷
─ 念祷を始めた人に ─
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著者のことば 日本の読者によって,本書が何を与えてくれるかは,読者ご自身の判断に任せ,ただ著者としての意図だけを,伝えさせていただきたいと思います。 この本はキリスト教の洗礼の恵みに秘められている豊かなたまもの──すなわち,洗礼によって私たちの魂をその神殿として住まわれている聖霊,および,この聖霊が私たちの魂の中に注がれる「神の生命への参与である恩恵」を発見するための,キリスト教的な,かつカルメル会的な一つの方法,技術を説明したものです。それはまた,このたまものを最大限に生かし,この恵みを現実化し,この恵みによって──そしてこの恵みの成長に応じて──,聖霊とのますます緊密な結びつきをかため,ついに神との全き一致にいたるための技術でもあるのです。 初歩の念祷(注,本書の原名)のこの数章は,Je veux voir Dieu(私は神を見た い)という題の,霊的神学大要ともいうべきかなり大きな本からの抜萃ですが,その本の中では神との一致,すなわち聖性に向かう歩みにおいて,なすべきこと,その間に生起することについての詳細な説明が述べられています。 極東諸国の人びとが,その多様性,さらにその相互の相違を超えて,共通の神の感覚[センス]を持っておられることは,一般に知られていることです。日本人の魂の奥深く根ざしているこの神の感覚に訴え,この書を捧げたいと思います。読者のかたがたが,神に向かうその歩みにおいて,そこに光と糧とを見いだしてくださるならば何より幸いです。
カルメル会士
幼きイエズスのマリ・エウジェーヌ |
念祷は親しい友と友の交わり……
念祷とはなんであろうか。私たちはそれをアビラの聖テレジアにたずねてみよう。 聖テレジアの教えの全体をはっきりさせるために,まず注意しなければならないのは,聖女はそれを,聖アルベルトの作った「カルメル会会則」のもとに生活するかの女の娘たちのために書いているということである。この会則はカルメル山の隠者たちの生活と慣習とを,法典として編んだものであるが,それには一つの核心となる掟があって,外のすべての規則はそれによって動かされる。それはすなわち「昼も夜も主の掟を黙想すること」という命令である。 実際,カルメル山の隠者の生活はそれであった。かれらは「主は生きておられる。そのみ前に私は立つ」"Vivit Dominus in cujus conspectu sto"という雄叫びのうちにその全生涯が言い表されている偉大な預言者,エリアの精神を生きるためにこそ,聖なる山に来たのであった。 カルメル会の標語に採り入れられたこの叫びは,カルメル会修道者の根本的態度をはっきり示している。神のみ前……,それはかれらが特に命ぜられた仕事が終れば,すぐに帰ってくるべき母港である。沙漠の預言者たち,カルメル山の隠者たちは,ほんとうに,そのように生きていたのであった。 聖テレジアは,自分がかれらの子孫であることを公言し,その娘として,昔の創立のころの熱心をそのまま生きたいと願った。 「私ども,このカルメル会の聖服をつけている者はみな,念祷と観想に召されています。私どもの会の初めはほんとうにそれでした。私どもはあの深い孤独のうちに世間をまったく軽べつして,今お話しているこの宝,このとうとい真珠(注,観想のこと)をお求めになった,カルメル山の聖なる師父がたの子孫です」(城,住5。1・2)。 これらの隠者たちの娘として,聖テレジアもかれらと同じように,神に飢え,神にかわく。かれらのようにやはり沙漠の沈黙と孤独とを求める。しかし,そこに行く |
ことができなかったので,都会のまんなかに沙漠をつくり出そうとし,アビラの聖ヨゼフ改革修道院を設立したのだった。きびしい囲い,格子,顔をおおうヴェール,少人数の修道女,修室にひきしりぞいた生活。こういう条件のもとで,ここでの生活は隠遁的なものとなる。これは細かいことを使って偉大な思想を現実化するのがたくみな,聖女の組織的天才の勝利である。 この沙漠の沈黙の中で,人びとは,不断の念祷というカルメル会創始の理想を生きることができるし,また生きなければならない。聖女はあらゆる機会にそれをかれらに思い出させた。 修道生活にはいるとすぐ,かれらは,自分たちをそこにお呼びになった良き師と,絶えず共に生きる修練をしなければならない。この習慣がつくためには──恩恵の与える容易さ次第で,長い短いの差はあるが──多少の時間が必要であろう。しかし,どんな困難に出会っても,そこに達するまでは努力しつづけなければならない。 よきイエズスとの,この絶え間ない交わりがなかったら,こうした沙漠の環境はなんの意味も持たず,そのたましいを失ってしまうことであろう。そうなれば,そこにあるのはただ倦怠だけ。もっと悪くすれば,人間嫌いや怠け者の逃避所ということになるかもしれない。 聖テレジアがその使徒的召命を見いだし,アビラの聖ヨゼフ修道院を模範として,ほかにも修道院を建ててゆこうと決心したとき,かの女を動かしていたのは,「教会の擁護者たち,説教者たち,また教会を支える学者たちのために」祈ろうとする勇敢な霊魂をそこに集めるという望みであった。 「この仕事のために,みあるじはあなたがたをここにお集めになったのです。これこそあなたがたの望み,これこそあなたがたの涙,これこそあなたがたの,せつな祈りでなければなりません」(完1章15ページ)。 聖テレジアのカルメル会の使命は,だから,教会のために祈ること,また同時に教会内に念祷の高い精神を維持することである。 聖テレジアの娘たちにとって,念祷は完徳への一つの手段,霊的生活の一つの修練だけではない。それは一日をみたす本質的な仕事,霊的生活の横糸である。念祷は完徳への道──聖テレジアが最初の娘たちにあてた勧めを一冊の本にまとめて書き |
示そうとする完徳の道なのである。 なお,それは聖女がみずから歩んだ完徳への道でもあった。かの女自身の生涯では,霊的生活は念祷ときわめて密接に結びついていて,その二つは互いに運命を共にし,その歴史は一つに融け合っていた。かの女は念祷に忠実であった限りは霊的に進歩した。そして,不熱心な時期といえば,必ずこの念祷の修練にゆるみが出ていたことが認められる。かの女の自叙伝はこのことをはっきり証明し,かの女の教えの最良の実例となっている。 しかし,テレジアの教えを明らかに理解させるこうした歴史的事実は,この教えをただ一つの学派だけの教説とさせてしまわないだろうか。この念祷の必要性,また念祷に与えられた役割は,ただ特殊な生活様式だけにふさわしいもの──ほかにも典礼や慈善事業などを完徳の根本としているようにみえる考えかたがあると同じように──念祷を中軸としての完徳というカルメル会的な「完徳の一つの考えかた」にだけ適合するものではなかろうか。 そうとは思われない。聖テレジアの教えは,すべてのキリスト者,いや,すべての内的な人びとに語りかけている。教会がかの女を「霊的な人びとの母」(mater spritualium)と宣言して,認めているのもそれではないだろうか。 事実,聖テレジアは,念祷は口祷と同じくらい必要なものであって,口祷と切り離すことはできないと,はっきり言っている。 「主祷文をほんとうに唱えるためには,それを私どもに教えてくださった師のおそばを離れてはならないということをよくわかっていただきたいと思います」と聖女は娘たちにいう。 「けれどもあなたがたは,そのような祈りかたはすでにもう黙想であり,私たちとしては口祷しかできないし,また口祷しか望んでもいないとおっしゃるかもしれません。……あなたがたが私の言う祈りかたを黙想とお呼びになるのは,ごもっともです。けれどもはっきり申しますが,念祷を離れて,どうして口祷を正しく唱えられるのか,私にはわかりません。自分がどなたにお話し申し上げているのかを知りながらよく注意をこめて祈るように努力するのは義務でさえあります」(完26章145ページ)。 そればかりではない。念祷は私たちの魂の中での,恩恵のあらゆる生きた動きと |
一つになる。この恩恵はこの性質を持ち,その本質的な動きは父なる神に向かってのぼることであるが,ほんとうの意味で念祷を構成するこの動きを霊魂がもはやできず,あるいはおぼろげなりともそれを示すことを知らないならば,恩恵は死んでいるか,まさに死のうとしているかである。 聖テレジアは次のように書いた。 「しばらく前に,あるりっぱな神学者が,念祷をしない霊魂は,手足はあってもそれを使うことのできない中風か,不随のからだのようだと私におっしゃいました。実際,ある霊魂はあまりにも弱く,あまりにも外面のことに没頭する習慣がついているため,かれらのためにはもうつくすべき手もなく,まるでかれらは自分の内部にはいることができないように見えます」(城,住1。1・6)。 これで私たちは,念祷が人にもたらす恩恵をいくつかあげることができる。つまり,念祷は信念を強め,働き苦しもうという惜しみない決心を支えてくれる(創5・3)。それは光の源であり,知性が意志に対して果たすのと同じ役割を愛徳に対して果たすものである。つまり,念祷は愛徳に先だち,方向を与え,一歩ごとにそれを照らし導く。 観想にまで達した念祷は,使徒聖パウロのことばにしたがえば,霊魂を光から光へと変容させ,ついに神に似たものとさせる(コリント後3・17ー18)ものである。 だから聖テレジアは次のように結論できた。 「念祷は,主に仕えず,かえって主にそむく人にもこれほどの善をもたらし,これほど必要なものならば,そして実際のところ,念祷をしたからといって,だれも最小の不都合さえ見いだしえないのに反して,しなければ大きな害があるのならば,神に仕え,神を崇めようとする人びとがどうしてこの修業をしないのでしょうか。ほんとうに私にはそれが理解できません」(伝8・8)。 しかしある種の定義が念祷をとじこめてしまっているようにみえるいくぶん窮屈な枠を破らなければ,霊的生活の中でこれほど優越した役を念祷に割りあてることはできないし,また神と親しく生きたいと願うすべての人に,念祷をぜひ実行するようにと言うこともできない。どのようにこの枠を破るか,それは聖テレジアにまかせよう。聖女は自分が念祷をどう考えているかを話してくれるであろう。 |
T 念祷とは何かこの問いに対して聖女は自叙伝の中で次のように答えている。 「念祷とは,私の考えでは,自分が神から愛されていることを知りつつ,その神とただふたりだけでたびたび語り合う親しい友としての交わりにほかなりません」(伝8・5)。 この定義がよく知られているのも当然である。なぜなら,驚くほど正確な単純さのうちに,念祷を構成する要素が浮き彫りにされているから。私たちとしては,これらのことばの意味を明らかにすればよい。 「念祷とは,神との親しい友としての交わりにほかなりません」と聖女はいう。つまり,それは神との触れ合いであり,恩恵によって神と私たちの霊魂との間に結ばれた超自然的な一致を,生きた行為とするものである。あるいはまた,二つの愛──つまり神が私たちに対してお抱きになる愛と,私たちが神に対して持つ愛と──が一つにとけ合うことである。 神は愛である。神は愛によって私たちをつくり,愛によって私たちを贖い,神ご自身との密接な一致へと私たちをお定めになった。愛である神は,超自然的,ペルソナ的,客観的な現存によって私たちの霊魂のうちに現存し,そこで,絶えず熱を放射する炉,光を四方に拡散させる太陽,刻々に湧きあがる泉として,愛の絶えまない働きをしていられる。 神そのものであるこの愛に出会いにいくために,私たちは,神と同じ性質の,したがって,神と同様,愛であるところの,成聖の恩恵を持っている。私たちを神の子とするこの恩恵は,神との一致や,神との親密な交換あるいは交わりや,また神と私たちが互いに相手の内部にはいり込むことなどを可能にする力である。 愛である神は,いつも働いておられ,私たちを促し,私たちを待ち受けておいでになる。 しかし,神は変わらぬおかたであり,神に向かって歩まなければならないのは,私たちの愛である。この愛を神のほうに向かわせる,愛をこめて神を求める,私たちの |
愛が愛なる神と出会う,そしてその場で親密な交わりが行なわれる,これこそ,聖テレジアのいう念祷である。 念祷は超自然的愛を,したがって,成聖の恩恵を前提とし,この愛が働くことを要求する。しかし,この超自然的な愛の働きだけで,充分である。聖テレジアが強調しているように,念祷は神との,親しい友としての交わりにほかならないからである。 とはいえ,この愛は,ただ純粋に超自然の領域だけで働くのではなく,それはさまざまな形の人間的な行為にとりまかれている。 超自然的愛は意志のうちに宿るものであり,この意志を仲介として自然的なあらゆる能力,あらゆる才能を使用する。しかも私たちの中にあるがままにそれらを用いるのである。 このようにして,念祷は,ありのままの私たちという生きた存在と,私たちの中に住んでおられる生きた神との,親しい友としての交わりとなる。 自然的能力もそこに関係するといえば,もともと,ひとりひとりの心の中での神の働きかたが多様であるために,すでに異なった形を見せているこの神との親しい交わりは,その上に,さらに,念祷をする人たちの性格や年齢や教養や,さては,そのときどきの心の状態の違いなどによってさえ,驚くほどの相違を示すことになる。 人の気質によって,この神との親しい交わりは,知的な形,愛情のこもった形,また感覚的な形をとることさえもあるであろう。子どもたちは,イエズスに対する超自然的な愛を表わすのに,聖櫃に向かって接吻や微笑をおくったり,幼きイエズスの像を愛撫したり,十字架の前で悲しげな表情をしたりする。少年はキリストに対するかれの愛を歌にし,また想像や感覚を打つ表現やイメージを用いて,その愛を成長させる。やがて,かれの知性がもっと発展すると,さらにしっかりした思想を使って,いっそう知的な,実のある念祷をすることになる。 念祷は私たち自身のいろいろと変わる状態と行を共にする。病気や,ただの疲れさえも,心の能力のどれかを働かせなくするか,少なくともその支配をできなくさせてしまうものであるが,このほか,悲しみ,喜び,心配などによって,この交わりはさまざまな形をとる。とはいえ,神との親しい友の交わりというそのほんとうの姿を実現するために,この交わりは,いつもまじめで,ひたむきで,生き生きとしていなければならないのである。 |
このようにさまざまな形をとり,どんなに変化しようと,この親しい交わりは本質的に同じものとして残る。この交わりに生命を与える愛は柔軟で,活動的で,都合のよいことも悪いことも,熱心も無気力も,知性も想像力も,また外的な感覚も,純粋な信仰も,かわるがわる用いては,その生命に糧を与え,新たな表現を生み出させる。人の気質によって,また時期によってさえ,この交わりは,あるいはもの悲しく,あるいは喜びにあふれ,あるいは感動にみち,あるいは何も感じない。沈黙ともなり,あふれることばともなり,勤勉なこともあり,無力なこともある。 あるときは口祷,あるときは平穏な潜心。またあるときは黙想となり,単純な注視となり,感情のこもった念祷ともなれば,どうにもならない痛々しいものともなる。あるいは心が高まる,あるいは苦しみにおしひしがれる。光の中で崇高な熱中に捕らえられるかと思えば,深い謙虚の中で甘くやさしく心をくだかれる。このような,いろいろの形──あるいは,いろいろの念祷──のうちで,この交わりにとって,もっともよいものは,神にいちばんよく一致させるもの,この交わりの成長のため,また活動のために最良の糧を与えるものである。なぜなら,結局,「愛は涙を流すことでも,ふつう,人が慰めを見いだすために望むやさしい甘美な感情を味わうことでもなく,それは,正義と剛毅と謙遜の中に,神に仕えること」なのであるから(伝11・13)。 聖テレジアの念祷は,前もってきめられた形式などによらず,ただ一つの法則があるだけである。すなわち,進んで求め合い,出会ったときには結ばれて,おだやかにみずからを与え合う神の愛と人の愛,この二つの愛をすなおに表現するということだけである。それで,この念祷は,霊的生活の,あるすぐれた師たちの教えにいくぶん反して,展開されてゆくように思われる。 事実,イグナチオ系統の師たちによれば,人は,想像と感覚との働きによって神との出会いに行くべきであり,みのり多い決心は,受けた強い印象から生まれると明らかに説明している。スルピス会の師たちは,キリストとの一致──それこそ真の念祷であり,実際にキリストとともに働くという結果がそこから生じるはずである──に達するためには,いろいろの考察を利用するようにといっている。イグナチオ系統の師たちは,信心ぶかい人びと一般に語りかけているのであり,スルピス会の師 |
たちは司祭や神学生たちを対象としている。そのどちらも,でしたちを神との交わりに導こうとして,かれらの精神や霊的性質にいちばん合った念祷の方法を定めているのである。また同じように,現代の人びとの要求に応えて,現代の霊的な師たちは,私たちが一つの態度,あるいは,豊かな意味を持つ一つのみことばに,じっと心をとどめるようにと勧めている。 こうした念祷のいろいろの形──つまり,さまざまの霊魂の必要に応じた念祷方法として仕立て直されたが,じつは念祷の異なった形にすぎない──については,聖テレジアは,その定義の中で,べつに触れていない。そして,この沈黙は念祷の骨組となっている本質的な要素を,特別にあざやかに浮き立たせているのである(注)。 |
注 この沈黙は,これらの方法を知らないからでも,軽べつしているからでもない。聖テレジアは,イエズス会士たちがアビラに住みついて(一五五五年)以来,その神父たちの勧めに従っていた。かの女は六年間,イエズス会士,バルタザール・アルヴァレス師を指導者としていた。だから,聖イグナチオの霊操や,イエズス会のひろめた念祷方法を知っていたことは確かである。 念祷に関することは,何ごとにせよ,熱心に求めていたかの女は,スペインでひろまっていた,モンセラのあの大修院長の念祷方法のことをたぶん知っていたであろう。 いろいろの方法は,特に霊的生活の最初には有益である。それはめいめいの性格に応じて,それなりに努力の支えとなり導きとなるからである。 ただし,それらの方法が有益であるためには,その目的,すなわち,神との親しい交わりに到達したときには,その方法が定めている多くの順序だった行為を捨て去る用意がなくてはならない。 不幸なことに,これらの方法は,たびたび誤解されている。その方法に必要な「能力の働き」のほうが,その方法の目標である「愛の交わり」より,はるかに重要視されることがある。念祷の形と,念祷そのものとが混同されてしまうのである。念祷するとは,想像をえがくこと,感じたり,見たり聞いたり,強い印象を受けたり,あるいはまた,さまざまな思考をめぐらすこと,観想すべき一つの真理を目の前に置くことなどと考えられたりする。人からきめられたか,または自分で選んだやりかたをするのに全力を注いで,人は愛の生命に必要な精神の自由を自分に禁じてしまう。付属物のほうが中心となってしまって,念祷は,一つの交わりであることが忘れられ,自分が話しかけているはずの神のことを,もはや考えさえしないのである。人は特殊の形の念祷の中にとじこもる,というよりは,むしろ,むりやりにそういう念祷をしようとして空しい努力をする。しかもその念祷はできず,あるいは,効果のないひどく苦しい努力の中で,何一つ恩恵を見いださず,ついに,自分は念祷をするようにできていないと思いこんで,失望してやめてしまうのである。 |
「念祷は神との親しい友としての交わりにほかなりません」とかの女はいう。この定義は、教わった型通りの祈りを謙虚に唱えることから、神の神秘の奥深くに分け入らせる恍惚に至るまで、何にでもあてはまる幅の広いもので、それだけにいっそう明瞭で、実際的である。これは、ただ一部の人びとのためばかりでなく、全教会のために語っている霊的生活の師の定義である。 このように広く、また明確な定義は、神と霊魂との交わりに、互いの至上の自由を尊重しようという心づかいから生まれたもので、こうした心づかいは、聖テレジアがたびたびくりかえしているものである。魂がのびのびと成長するためにも、神の働きにまったくすなおに服従するためにも、この自由は必要であるとかの女は見ている。だから、聖テレジアは、方法のきびしさ(注)からくるものにせよ、自由をおし殺すような指導からくるものにせよ、すべて、強引なやりかたに対して自由を擁護するのである。 |
注 「完徳の道」の中で、聖テレジア自身、かの女の方法、つまり、「潜心の念祷」を示しているが、この方法は、何かきまった形の「能力の働き」とは全然関係がなく、ただ、イエズス・キリストを通して霊魂を神に導こうという配慮が立証されるだけである。 |
もし、霊魂のうちに神の働きの印が認められる──つまり、謙そんと、徳の進歩とが見られるならば、念祷の方法のことなどで、その人を心配させてはいけない。かれは自由である権利を持つし、それを尊重することは、すべての者の義務である。 「神とただふたりだけで、たびたび語り合う親しい友としての交わり……」、この |
交わりは本質的に、うちとけた、水入らずのものである。愛は親密さを必要とするからである。 神との触れ合いは、霊魂の奥深く、すなわち、そこに神の住まわれるところ、私たちに注がれた超自然的愛があるところに生まれる。この愛が強く活動的となる度合いに応じて、神との交わりは頻繁となり、親密さを増す。 念祷はまた、個人的な祈りである。念祷が公の祈りの形をとり、その外への表現は、集団としての調和を見せるときでも、やはりそれは、ひとりひとりの魂のなかにお生きになる神とただひとり向かいあう交わりであり、それ自身の霊感と個人的な色合いとを保っている。 「親しい友としての交わり」ということばに、「自分が愛されていると知っているその神との」とつけ加えて、聖女はその定義を完了する。いかにも単純なこれらのことばに、重大な問題がひそんでいる。つまり、私たちを神に結びつける愛の性質と、この愛を支配する法則の問題である。 この定義中の「神との親しい友としての交わり」ということばは、私たちに、自分とだれかとの間の暖かい親しい友情のことを考え、また思い出させる。私たちは、神との間に、同じような親しさを夢みているのであるが、それはいったい可能であろうか? 念祷の中での神との親しい交わりと、ひとりの友とのこまやかな愛情の関係とは、どちらも愛がつくり出すものであるが、この二つの愛は同じ次元に属さない。前者は超自然的であり、後者は自然的である。私たちは愛する友を見る。経験によって、かれの長所を認める。かれの私たちに対する愛情も、私たちのかれに対する愛情も感じる。この愛情は、たとえどんなに清くても、自然の場で発展し、私たちの人間的な能力に働きかけるものである。ところが念祷が私を一致させてくれる相手である神は、私には見えない。神は純霊であり、無限の存在であって、私の人間的な能力には捕らえることができない。だれも神を見たものはなく、神について私たちに語られたのは、神のふところにある神のおん独り子だけである(ヨハネ1・18)。 私を神に結びつける超自然的愛は、神と同じ性質のものである。したがって、神ご自身と同じように、私の自然的能力には直接に捕らえることのできないものである。 |
念祷による友愛の交わりは、超自然的現実のなかで発展するものであるが、この現実は人間的能力の手の届くものではなく、ただ信仰のみが現実に示してくれるものである。しかし、それも、この現実を包む神秘の雲を払いのけてはくれない。それゆえ、聖テレジアのいう「自分が愛されていると知っている」その神との親しい交わりは、信仰の確実さによって──ただし、信仰がそのまま残す暗さを通じて──行なわれるのである。神の私たちに対する愛は確実であり、信仰により神に触れることも確実である。しかし、神のふところに超自然的にはいり込むことは、そこで私たちが確かに汲みとったにちがいない豊かな富についての、なんの経験も、一条の光も、なんの感情も、伴うことなしに、起こりうるのである。 というのは、信仰による神とのこの親しい交わりは、まちがいなく私たちを豊かにするものだからである。神は、たえず浸透しひろがる愛である。手を水に浸せば、ぬれないわけにはゆかず、火の中に入れれば、やけどせずにはすまないと同様、信仰によって神に触れれば、神の無限の豊かさを汲みとらずにはいられない。カファルナウムの道で群衆をおし分けてイエズスに近づこうとしたあわれな病気の女は、こうひとりごとをいった。「あのおかたの衣の裾に触れることさえできれば、私は癒されるのだ」と。かの女はついに主に触れるのに成功した、そして、主をビクリと感じさせたこの接触で、かの女は望み通りの癒しを得たのであった。信仰による神との触れ合いは、すべて、これと同じ効果を持っている。神に願い、神から受け得る何か特殊な恵みとは別に、この信仰による神との触れ合いは、神から超自然的な生命の増大と、愛の豊かな増加とを汲みとるのである。愛は、念祷のうちに、糧と、成長と、自分の望みのすべてを満たす神との完全な一致を見いだすために念祷に行く。 念祷について、幼きイエズスの聖テレジアは、次のように書いている。 「私にとって、祈りとは心の飛躍であり、天に向ける単純なまなざしであり、また、試練のさなかにも、喜びのさなかにあるときと同じようにあげる感謝の叫びです。つまりそれは、私の魂をはればれとひろげ、私をイエズスさまに一致させる、何かしら偉大で超自然的なものです。……ときどき心がひどく乾ききって、何ひとつよい考えが浮かばないときは、私はごくゆっくりと主祷文と天使祝詞とを唱えます。このお祈りだけで私の心は奪われ、私の魂は神的に養われ、それだけでみたされます」(花、旧版10章。新版原稿C360ページ)。 |
さまざまな形のもとに養われ、表現される、神との親しい交わりの、じつに単純で深く、生き生きとして、超自然的な姿を、これ以上よく言い表わすことはできないのではなかろうか。U 念祷の段階霊的生活に欠くことのできない行為である念祷は、ふつう、霊的生活の進展にともなって進むものである。それで、念祷にも、いくつかの段階を区別することができる。 「自叙伝」の中で、聖テレジアは、念祷の初歩の段階を、たとえを用いて示している。それは、庭の草木に水をやる四つの方法に、たくみにたとえられているので有名である。 「庭に水をやるのには、四つの方法があると思います。まず腕の力で井戸から水を汲みだすことで、それは私どもにとって、たいへん骨のおれる仕事です。あるいは、桶のついた水揚機械[ノリア]をハンドルでまわしながら汲むことで、私はときどき、そういうふうにして汲みましたが、骨おりも少なく、いっそう多くの水を汲むことができます。あるいは、川または小さな流れから水をひいてきますと、土地はいっそうよく灌漑され、うるおされます。そんなにたびたび水をやる必要はなく、庭師の仕事はずっと少ないのです。最後に大量の降雨、それは私どものほうからなんの労作もなく、みあるじが灌漑なさるのです。そして、この水のやりかたは、前にいった他のあらゆる方法より比較にならないほど、すぐれています。 水なしには何も生じないこの庭に水をやるための、この四つの方法を、私どもの問題にあてはめましょう。このたとえは、主がご好意によって、私の霊魂をときどきあげてくださった念祷の四つの段階について、いくらか知識を与えるため、きわめて適切であるように思います」(伝11・7−8)。 聖女はこのたとえを、次のように説明する。 「念祷に身をゆだね始めた霊魂は、苦労して井戸から水を汲みあげる人だということができます。感覚は外に散ることに慣れているので、集中させるために、ずい |
ぶん骨をおらなければなりません。かれらのなすべきことは、イエズス・キリストのご生涯を黙想することです。そしてこの修業はあたまの疲れを伴わぬわけには行きません。これが井戸から水を汲みはじめると私が呼んだものです。ああ、どうかそこに水がありますように」(伝11・9) 「庭師は揚水機[ノリア]をまわして、いっそう大量の水を汲みあげれば、疲れも少なくてすみます。かれは始終働いていなくてもよく、休息をとることができます。庭に水をやるこの仕方を念祷にあてはめて、それを静穏の念祷と呼びますが、それを今からお話ししようと思います。……これは、この満足を楽しむために諸能力を自分の内部に集中させることです。けれども諸能力は、なくなったのでも眠っているのでもありません。意志のみ、どういうふうにかはわからぬままに、捕らえられようと努めています。意志は神がそれをとりことなさるために、ただ承諾を与えるということしかできません」(伝14・1−4)。 「第三の水は、……小川、または泉から流れる水です。事実、主は庭師を大いに助けようとなさり、いわば、かれの代わりとなって、仕事のほとんどすべてをご自分でなさいます。この状態は、諸能力の眠りの状態であって、それらは、すっかり奪われてしまわぬまでも、どういうふうに働くのか、少しもわかりません。」(伝16・1) 第四番目の水が空から降ってくるとき、霊魂は「最も深い、最も快い楽しみのさなかに、ほとんど完全に気を失ってしまうのを感じます」(伝18・10)。そして、この第四の水は、ときとして、完全な一致、あるいは霊の高揚を生み出し、そのとき、「主は霊魂を手に捕らえて……雲か太陽が水蒸気を吸いあげるように、地上からすっかりお引きあげになります」(伝20・2)。 「自叙伝」を書いたころ(一五六五年)の聖テレジアは、霊的婚姻の状態には、まだ達していなかった。しかし、恩恵も経験もすでに絶頂の聖女が「霊魂の城」の中であげる念祷の分類は、はるかに的確で、色合いも微妙で、いちだんと精密に、また、もっと完備している。 念祷は神との友愛の交わり、したがって、神の人間に対する愛と、人間の神に対する超自然的愛との、両方の働きの結果である。聖テレジアはこのふたつの働きの進展に、ふたつの段階を区別する。 |
第一の段階では、神は一般的な助け、あるいは、通常の恵みを与えて、その愛をお示しになる。この段階で念祷のイニシアティヴをとり、主役を勤めるのは人間の側である。第二の段階では、神はますます強力な、特別な助けによって、念祷に干渉し、次第に、ご自分の手中に霊魂をおさめて、ついに完全な支配を確立される。 第一の段階では、井戸から骨を折って水を汲みあげ、庭にそそぐやりかたに相当し、「霊魂の城」の最初の三つの住居がそこに含まれる。 第二の段階は、他の三つの灌漑方法に相当し、「霊魂の城」の、さらに奥のほうの四つの住居が、そこにはいる。静穏の念祷(第二の水)、諸能力の眠り(第三の水)(注1)[と]いう未完成の観想的念祷は第四の住居の内容である。一致の念祷が次第に完全となっていく全過程は、第四の灌漑方法に含まれるのであって、これは第五、六、七の住居で、非常に念入りに、驚くほど細かく観察されている。 「自叙伝」に示される分類を見ると、念祷の進歩は、感じとられる結果が強まり、人の側からの努力が減るにしたがって、なしとげられるものだというように考えられるかもしれない。しかし、聖テレジアがいつも、ただ愛の質と、生じた結果のすばらしさしか考えていなかったことは、「霊魂の城」の中に、いっそうはっきりと見える。念祷、つまり、友愛の交わりがよ’り’すぐれたものになるのは、よ’り’高い神の愛がそれに生命を与えるときである。そして、この愛の高さは、この愛が人間的働きを支配し、霊魂の中においでになる神に、それを従わせるその効果によって知られるものである(注2)。愛によって変容した霊魂の中で、強く、しなやかになったすべてのエネルギーが、絶えまなく、神の霊の微妙な働きのままに動かされるとき、念祷は完全なものとなるのである。 私たちが問題としている初歩の念祷は、第一の段階、言いかえれば、初めの三つの住居にあたるものである。 |
注1 「霊魂の城」では、聖テレジアはもうこの第三の水、あるいは、諸能力の眠りを、念祷の特別の段階として扱っていない。たぶん初めはこの念祷の効果、つまり、ただの静穏の念祷よりは、明らかに激しい、感じの強いこの効果に強く打たれたのであろうが、あとになって、念祷のすべての段階を、いっそう明確に、いっそう残りなく見きわめるようになったとき、「諸能力の眠り」とは、静穏の中での神の味わいが感覚に溢れ出たものにすぎず、けっきょく、不完全な一致というにとどまるものであるから、静穏の念祷の中に入れてよいということがわかったのであった。 |
注2 「いちばんよい念祷、そして、神のみ心にいちばんよくかなう念祷とは、いつも、そのあとにいちばんよい効果を残すものです。私は大きな望みのことを言うのではありません。望みは、よいものではありますが、でも、よい望みとは、必ずしも、いつも、自愛心が私どもに起こさせるようなものではないからです。私がよい効果というのは、実際の行ないにあらわれるもののことで、つまり、自分が神のご光栄を望んでいるということを、ただ、神のみのため働こうとする心がけによって、人びとに示すことです」。 |
今、私たちの対象となる相手は、念祷を始めたての人である。今まで、かれは、「月に何度か祈ります。それも、ほとんどいつも頭をしめているたくさんの仕事を祈りの中にまで持ち込みながら」(城、住1。1・8)といった程度であった。あるいは、もっとひどいものだったかもしれない。 しかし今、かれは自分の生活の中に神を入れようと決心した。聖テレジアはこういう人に、何よりも先に──修徳のために真剣に努力するのよりも先に──念祷をするようにと、ためらわず勧める。到達すべき目標に、まず真面[まとも]に立ち向かうのが理屈にあったことではないだろうか。人間を完成させるのは、神との一致ではなかろうか。行動するための、つまり神に従うための光と力。──私たちを促し、私たちの聖化のために、私たちとともに働いてくださるべき神、というよりは、むしろ、私たちこそ協力者にすぎないその神に従うための光と力は、どこに見つけたらよいのであろう。だから、何よりも大事なことは、神との触れ合いを求めることである。 それは、この初歩の時期には、デリケートでおもしろくない仕事である。人は勇気をふるい起こさなければならない。というのは、聖テレジアが注意しているように、人がいちばん多く困難に出会うのは、この最初の第一歩なのであるから。「神がお助けくださるとしても、仕事をするのは、私どもです」(伝11・5)。「この第一歩に甘い慰めを求めてはなりません。マンナが降るのはこの住居ではありません」(城、住2・7)。 まことにきびしいことばである。しかし、真理が好きな聖女の言うことであるから、初心者は「最初から努力を惜しまぬ雄々しい心で十字架を抱きしめないがために、決して目標に達しない人がたくさんある」(伝11・15)ということを知らなければならない。 しかしながら、緊張しすぎた向こうみずな努力は、むしろ有害である。深刻な顔を |
してみても、なんの役にもたたない。むしろ、初めから「喜びと自由な心をもって進むように努める」(伝13・1)べきである。聖テレジアは「自分のことを少しでも忘れれば、敬虔はどこかへ行ってしまうと思っている」(同上)しかつめらしい人を好まない。 それといっしょに、大きな信頼、大きな望みを持つ必要がある。なぜなら、「この念祷の道において、大きなことを果たそうとふるいたち、自分も努力すれば、多くの聖人がたが神のお恵みによって達したところに、すぐにとはいわなくても、少しずつなりとも近づくことができると、神のご慈悲に期待することがたいせつ」(伝13・2)だからである。 このような心構えを持つことは、すでに、聖テレジアに従うことであって、これは私たちに聖女の教えをよく利用させることになるであろう。 T 口祷心が熱烈で、惜しみなく、大きな望みでいっぱいの……と聖テレジアがいうあの初心者たちは、いよいよ、イエズスに従いはじめる。かれらは、いわば、主の公生活の初めのころの使徒たちなのである。使途たちは、主が身も心も呑みつくすばかりの沈黙の念祷のうちに、何時間も沈んでおられるのを目のあたり見た。かれらは、自分たちもそうできたらと望み、主に従って、その平安で神秘的な深みにまで、降りてゆきたいものと思った。 福音書の、その場面を読んでみよう。 「ある所でイエズスが祈っておられた。それが終わったとき、弟子のひとりが“主よ、洗者ヨハネが弟子に教えたように、私たちにも教えてください”と言った。イエズスは、あなたたちは、こう祈れ、『天にまします私たちの父よ、み名が聖とせられますように。み国が来ますように。み旨が天に行なわれると同じく、地にも行なわれますように。私たちの日ごとのパンをきょうもお与えください。私たちに負いめある人をゆるしますから、私たちの負いめをおゆるしください。私たちを試みにあわせず、悪魔から救ってください』」(ルカ11・1、マテオ6・9ー14)。 かれらは念祷の仕方をたずねたのであったが、イエズスがかれらにお教えになるの |
は、一つの口祷である。しかし、なんとすばらしい口祷であろう。単純、崇高。そして、その簡潔な言いかたのうちに、神の前での、キリスト者の子どもとしての態度がはっきり示され、キリスト者が言い表わすべき望みと願いとが、あますところなくあげられている。 主祷文は、教会がミサ聖祭のいちばん荘厳な瞬間に、司祭と会衆にとなえさせる完全な祈りである。それはまた、ほかの祈りは何も知らない幼い子ど[も]たちの祈りであり、また、この上なく豊かなそのことばの意味を味わう聖人たちの祈りでもある。 ある日、幼きイエズスの聖テレジアの修室にはいったひとりの修練女は、聖女の顔の、天上のもののような表情に驚いて立ちどまった。聖女はいそいそと縫い物をしていたが、同時に、深い観想に沈んでいるように見えた。若い姉妹は聖女にたずねた。「何を考えていらっしゃるのですか」。すると聖女は「主祷文を黙想しております」と答えた。「神さまを『私たちのおとうさま』とお呼びするのは、ほんとうになんともいえない気持ちです」。かの女の目には涙が光っていた(花、旧版12章328ページ。教、95ページ)。 主祷文の中には祈りのあらゆる方法と学問とが盛られている。それで聖テレジアも、「完徳の道」の中で、ただ「熱心に主祷文さえとなえていれば、ほかに何もいらないのですから、……主祷文のことばについて、少し考えてみるだけに留めましょう」(完23章127−128ページ)と心にきめている。 それゆえ、私たちが霊的生活のどんな段階にいるにせよ、また、どんなに熱心でも、どんなに心が涸れていても、よく祈るため、また正しく祈ることを学ぶために、謙虚に、静かに、イエズスご自身が私たちのために作ってくださった祈り、主祷文をたびたび唱えよう。 イエズスは私たちに主祷文を教えることによって、口祷のすばらしさをお認めになったのである。 主ご自身、おん母マリアの膝に抱かれながら、養父ヨゼフといっしょに声を出してお祈りになった。また、会堂でも同じ年頃の子どもたちとともにたびたび祈り、安息日には信心深い人たちの集まりの中で口祷をお唱えになった。 公生活の間にも、ご自分の気持ちを神に向かって表わすために、いく度も声に出されたし、 |
また、ラザロの蘇[よみがえ]りや、弟子たちを通して奇跡が行なわれたときなどは、
ことばに出して神に感謝された。ゲッセマニの園では、その苦悶を声に出して叫ばれ
た。 実際、ある場合には、人は感情をことばで外に表わす必要を感じる。自分のせつな[る]懇願を、できるだけ力強いものとするために、全存在をあげて祈る必要を感じるものである。事実、私たちは肉体と精神とでできているものであって、外的な行為は、内的行為の超必然的価値を変えることはないとしても、内的行為の強さを、いっそうつよめるものである。 内的な祈りに感覚を結びつけようという願いは、一方また神の要求にもこたえられるものである。霊と真実とをもって礼拝する人たち、したがって、魂の深みから生き生きと湧きあがる祈りを求められる神は、内的な祈りに肉体を結び合わせた外的な表現もまた望まれる。そういう表現は、神が権利をお持ちになるいっさいのものをあげて、完全な尊崇を神にささげるからである。 口祷は外に表われるものであり、完全に人間らしい祈りであるから、特にすぐれた集団の祈りとなる。口祷が一同の確信と、ひとりひとりの心の奥底の感情とを言い表わすほどに単純で深いものであれば、それは魂をとらえ、力強いその躍動の中に巻き込んで、燃えるような、しかも、おごそかな雰囲気の中で、すべての魂を結ぶ。そのとき、祈りは巨大な願いとなって湧きあがり、もはや地上から発するものとは思われない。その肢体の中に浸透されたキリストご自身から発しているように思われる。このようにして、ロザリオをつまぐるベルナデッタに現われた無原罪のおとめの無言の呼びかけから、あのルルドの群衆の祈り──人に最も深い感銘を与える崇敬の一つ──がわきあがったのである。 観想者たちが、神との一致の中で観想のどんな高みにのぼったとしても、神にも人にもそれほどの価値と力とを持つ祈りかたを、おろそかにしたり、無視したりすることはできない。たとえ、ある時期に出会う困難がどんなに大きくても、この祈りに忠実でなければならないのである。これをおろそかにすること、それには、ふつう、自分にはできないという言いわけをするのであるが、じつは一種の隠れた傲慢や、 |
行きすぎて投げやりになってしまった「受身の習慣」から生じていることが、たびたびである。そういうときには力強い努力を要求する口祷も、霊魂にとっては実り多く、そして、内的なものであってはじめて祈りの名に値する。聖テレジアはこのことを注意して言っている。 「ここで、あなたがたにお勧めしたいことがあります。……教えたいことと申しましょうか。それは口で祈る仕方です。自分の言っていることが何であるか、わからなければなりません。……私が使徒信経を唱えるときには、自分が信じている事がらを、理解し、わきまえているべきではないでしょうか。 主祷文をよく唱えるためには、それを私どもに教えてくださった主のお側にいなければならないということを、じゅうぶん納得していただきたいと思います。『そういう祈りかたは黙想であり、私たちは口祷しかできないし、またそれしか望まない』とあなたがたはおっしゃるかもしれません。……なるほど、私がいう祈りかたは念祷であるかもしれません。けれども、念祷をせずに、口祷をよく唱えることができるでしょうか。はっきり申しますが、私には、そうは思えません。私たちは、だれに話しているのかを知るのは必要ではないでしょうか?。注意をこめて祈るように努力するのは、義務でさえあると思います」(完26章143ページ)。 このように、口祷は厳密な意味での念祷の最初の形となる。 初歩の人はこの口祷をするとよい。特に、純粋に知的な働きに慣れていず、考えを支えたり、感情を呼びさましたり、あるいは心の感情に目ざめているために、ひとつの決まった祈りを必要とし、それも、ことばを口に出して言わないと、感情に祈りとしての力がこもらないような人は、たびたび、また、長いあいだ、口祷に頼るのがよい。 ある人たちにとっては、たびたび口祷にたよると、それはかえって、念祷のために払うべき努力をなにか投げやりにしたり、怠ったりさせる役にたつかもしれないのに反し、すっかり浸みこんだ活動の習慣から、ほとんど絶えず動いていないといられない人たちや、「その精神がきわめて動きやすく、ひとつのことにとどまっていることのできない」(完19章99ページ)ような人たちにとっては、口祷は観想に至るためのひとつの道、いや、 |
実行可能なただ一つの道とさえなるのである。 聖テレジアは模範的な一例を示してくれる。 「私は、もうお話ししたように、口祷をしていながら、自分でも知らないうちに高い観想にあげられた人をたくさん知っています。その中でも、特にあるかたは口祷以外の祈りは少しもできませんでしたが、口祷を忠実に実行していられるうちに、すべてを与えられていたのでした。そのかたは、口で祈りを唱えていないと、心がひどく散ってしまい、それはまるで拷問のような苦しみでした。けれども、どうか、このかたの口祷ほど完全な念祷が、私どもにできたらよろしいのですが! そのかたは、主がおん血をお流しになった奥義を考えながら何度か主祷文を唱えたり、そのほかの祈りをいくつか唱えるのに、何時間もかかっていられました。ある日、念祷もできず、観想に専心することもできず、ただ口祷を唱えることしかできないのをたいへん悲しんで私のところにこられました。それで私は何を唱えていられるかをたずねましたところ、忠実に主祷文を唱えているうちに、純粋な観想の念祷に達していられたことがわかりました。主はかの女を一致の念祷にまで、高めていらしたのです」(完32章177ページ)。 この聖テレジアのことばを聞くと、永い病床についている人や、激しい労働で身をすりへらしている人びとの中には、その残る力をあますところなく使って、ロザリオをひっきりなしに唱えている人があるのを思い出す。そしてその祈りは、その人たちを疲れさせるどころか、心をしずめ、強め、甘美に養うのである。 それに、聖テレジアが次のように語っているのは、観想生活をおくる修道女たちに対してである。 「口祷をよく唱えても、ほんの少ししか効果が得られないと思ってはいけません。主祷文か、その他の祈りを唱えているうちに、主があなたがたを完全な観想に高めてくださることも、じゅうぶん、ありうるのです」(完27章146ページ)。 たとえ潜心にはいるために用いられないとしても、口祷は、少なくとも念祷の間になにか役立つことはあるだろう。 念祷がひどく味気なくなっているときや、苦悩のうちにあるとき、天使祝詞をゆっくり唱えたり、「ミゼレレ」[主よ憐みたまえ]の詩編を唱えたりすることで、どんなに心が落ちつき、 |
力を与えられることか。こういうことを、ときどき経験したことのない観想者はいない。幼きイエズスの聖テレジアは書いた。 「ときどき、精神がひどく乾ききって、神さまに一致するため、何ひとつ考えをひき出すことのできないときは、私はゆっくりと、主祷文と天使祝詞を一回唱えます。すると、このお祈りだけで私の心は魅せられ、魂は神的な糧で養われ、それだけでじゅうぶんです」(花、旧版13章272ページ。新版原稿C361ページ)。 U 典礼の祈り口祷は、典礼の祈りとなると、特別の価値をもつ。典礼の祈りは、特にすぐれた宗教的行為であるミサの犠牲に心を準備させる。そしてまたこのミサを、それにふさわしい賛美で包むために、ふつう、聖書の「神感によることば」を用いて、聖霊ご自身の響[アクセント]を借りるのである。その果たす役目のとうとさ、ひびきの神聖さは、それだけで典礼の祈りに特別の尊厳と効果とを保証するのにじゅうぶんであるにちがいない。しかも、この尊厳、この効果は、この祈りが教会の公の祈り、つまり、教会内におけるキリストの司祭職の祈りであるという事実によって、さらに比較にならぬほど大きくなるのである。私たちが典礼の祈りにあずかるのは、洗礼によって私たちの霊魂の中におかれたこの司祭職によるのである。 典礼の祈りは聖なる儀式を美しく包み、それを生き生きと生命づけ、その儀式から豊かな恵みを溢れ出させ、それによって、非常によく会衆に祈らせ、典礼の挙行するそれぞれの秘儀を身にしみて感じさせる。典礼の祈りは、個人個人の祈りにこの上もなく甘美なことばを与え、その祈りが観想の深みへはいるように誘ってくれる。それは、すべての人にとうとばれ、愛される美の女王である。 この典礼の祈りの尊厳自身が、どうして紛争を引き起こすことになったのであろう。ある人びとは、祈りの分野において、絶対的最高権を典礼の祈りに与えようと願った(注1)。いっぽう、ある人びとは、それが沈黙の祈りの妨げになることを懸念した。 紛争はときとして激しくかわされた。ある有名な典礼学者は、聖テレジアがミサの |
間に脱魂したことがあるのは、典礼の精神を持たなかったからだと、聖女を非難せんばかりであった。いっぽう観想者のほうは、まるで外的形式を無視しているようにみえる態度や、典礼の規則をよく守らなかったりしたことで、ときには当然、典礼によくしつけられた人びと、ことに、よく気をつける人びとの怒りを買ってもしかたがなかった。クペルティノの聖ヨゼフは、その脱魂が勤行のじゃまになるので、歌隊所から追い出されなければならななかった。十字架の聖ヨハネは、ある日バエザでミサをたてているとき、忘我の境にはいってしまい、聖体拝領のあと、すぐに祭壇から立ち去ってしまった。幼きイエズスの聖テレジアは、修道院の寄宿舎監の話によると、かの女の先生の、ベネディクト会修道女たちの勧めにもかかわらず、ミサの典礼の文についてゆかず、自分の思いのおもむくままに任せていたそうである。ローマ・オラトリオの、敬虔ではあるが、度はずれの自由さをもって祭壇でふるまった聖フィリッポ・ネリのことは、ここでは言うまい(注2)。 典礼か、観想か。こうした聖人たちは、その一方を選んだようにみえる。 しかし、対立的に考えて、そのどちらかを選ぶ必要が実際にあるのであろうか。 たしかに、ある人びとの信心は、その性向によって、また召命によって、ほとんど典礼の祈りだけに養われているし、一方、ある人びとには、沈黙の念祷がなくてはならないものになっているということを認めなければならない。しかし、そのどちらの側にも極端がある。たとえば、聖歌や、古代の文などを使って、修道院の聖堂のようなおごそかな美しさの中でなければ祈れない典礼主義者もあれば、典礼注規[ルブリカ]にはおかまいなく訪れては立ち去る霊の息吹のまにまに身をゆだねる恍惚家たちもいる。 こういった二通りの人びとの次に、やはりそれぞれの好みと恵みにしたがって道を選んではいるが、極端な排他性は持たず、典礼と観想とは互いに支え合うべきもの、完全な祈りの生活を実現するために、一つとなるべきものだと考える人びとがいる。 私たちの念祷の師である聖テレジアの考えもそれであって、この二つの傾向に幸いな和解を与えてくれる。 いろいろ言われてはいるが、事実、聖女は典礼を重んじていた。かの女は細かく典礼の暦にしたがい、その手紙の日付、生涯における重要な事件、また旅行中の小さな出来事さえ、日付は典礼上の祝日、たとえば「聖マグダレナの祝日」、「聖マルチノの祝日 |
のあとの、ある日」、または「聖マルチノの祝日の八日間中の十一月十七日」などとしるしているのである。かの女は「霊魂の城」を一五七七年「聖アンドレアの祝日の前日」に完成したし、「枝の主日」や、「聖パウロの回心の日」、「聖ペトロ、聖パウロの祝日」などに高い超自然的な恵みを受けている。 かの女は、聖務日祷のことばを深く味わった。「光栄ある王ダヴィドの詩篇の中には、なんとたくさんのことが含まれているのでしょう」と言っている。 かの女を感動させ、潜心させるラテン語の雅歌をかの女が見つけるのも、たしかに典礼の祈りのあいだである。 「数年前から、サロモンの雅歌のことばを聞いたり読んだりするたびに、主はたいへん大きなお恵みをくださいましたので、スペイン語ではどういう意味なのかは、はっきりわからなくても、それは、私にもよくわかるいちばん信心ぶかい本よりもずっと感動させ潜心させてくれます。そうしたことは、私には、ほんとうにたびたびあることなのです」(神の愛について、序文。邦訳なし)。 カルメル会の典礼には確かにベネディクト会のそれのようなりっぱさはないかもしれない。 カルメル会の目的にふさわしく、それは「貧しい者、孤独な者」の典礼であり、「あまりにも飾りがないため、何か芸術的な情緒、あるいは、ただの宗教的感激であってさえ、そういうものをそこに求めようとする人には、この典礼の意味と美しさとは、とらえられない」であろう(Van den Bossche, "Les Carmes" p.165-167)。しかし、この貧しさは、典礼の無視ではない。実際、典礼のどんなささやかな点についても、聖女は無関心ではいられなかった。 「私はよく知っています」と聖女は書いた。「私は、教会の礼式のどんな小さな点にせよ、規則にそむいていると注意されたならば、聖書の中の何かの真理に対してと同じように、その礼式に従うために、千度でも命を投げ出す心でおります」(伝33・5)。 かの女の信心は、 「ミサをたてていただくこと、確かなものとして認可のある祈りを唱えること」だと聖女は言う。なおまた、「ある人びと、ことに女の人たちが、自分の好みのある種の儀式を加えて行なう信心は、一度も好きになれませんでした。そのようなものはがまん |
できませんでした」(伝6・6)とも言っている。 聖ヨゼフに感謝するためには、かの女は、聖人に尊敬を表わす最善の方法として「その祝日をできるだけ荘厳に祝う」ようにした(伝6・7)。 かの女は、何よりもまず、典礼生活の中心であるミサの犠牲の価値を理解していた。そして、かの女の娘たちのミサのあずかりかたが、ミサへの、できるだけ積極的な参加であることを望んでいた。尊者イエズスのアンナはそれについて、こう言っている。 「母[はは]さま(聖テレジア)は、私どもがいつもごミサの典礼に奉仕するのを望んでおいでになりました。小時課を唱えるときの調子ででもよいから、毎日ごミサに奉仕することはできないものか、とその方法を考えていらっしゃいました。たまに、修院付司祭がいらっしゃらなかったり、あるいは、こちらの人数が少なすぎて(というのは、私どもはせいぜい十三人ぐらいでしたから)、ごミサに奉仕することができないことがあると、母さまは、私どもにこのお恵みをいただかせなかったことが苦しいと言っていらっしゃいました。そればかりか、歌ミサのときには、何はおいても、いっしょにお歌いになりました。たとえ聖体拝領をなさったばかりであろうと、深い潜心のうちにいらっしゃるときであろうと、そうなさるのでした」(リベラ著、イエズスの聖テレジアの生涯。スペイン語633ページ)。 典礼的にミサにあずかりたいという、このような望みを聖女が持っていたがわかれば、どんなにきびしい典礼尊重論者でも、ときとして聖女が聖体拝領後に脱魂したということをゆるしてくれるであろうし、また、かの女をじゅうぶん理解できるようになるであろうと希望できるのではないか。 聖女は実際、典礼の祈りが、他のあらゆる口祷と同じように、心の祈りによって生かされることを望んでいる。典礼が命じる動作や作法、典礼が展開する外的の美しさ、典礼に欠くことのできない絶えまない注意などによって、典礼によって助けられるべき潜心や、典礼がはぐくむべき感情、表わすべき内なる息吹きなどが、妨げられたり、特に、打ちこわされてしまうのであったら、典礼は、なるほど、見た目には美しいかもしれないが、中は空のただの宝石箱、外側を美しく飾るためにその魂と生命とを犠牲にしてしまった一つのなきがらにすぎない。それは外面だけの礼賛となってしまって、 |
「この人びとは、唇でわたしを敬うが、心は私を遠く離れている」とおおせられたように、とうてい、神のみ心にかなうことはできないであろう。
言うまでもなく、初歩の人が学ばなければならないのは、教会と共に祈り、典礼の地味で荘厳な美しさを味わい、その象徴の奥につき入り、典礼のテキストを、じゅうぶん時間をかけて、かみしめることである。特に、教会のうちにおいでになるキリストの魂の動きを典礼の祈りの中に見いだし、この祈りの中で愛の霊の嘆きに耳をかたむけるよう努めなければならない。そして、このように努めながら、自分の心の奥底の沈黙の祈りが毎日どんなものでなければならないかを、私たちの師、キリスト・イエズスから学びとらなくてはならないのである。 |
注1 (訳者注)典礼憲章に、「霊的生活は、ただ聖なる典礼の参加に限られているものではない。キリスト信者は、ともに祈るよう召されているが、それでもなお、自分のへやに入って、隠れておん父に祈るべきであり、さらに絶え間なく祈るべきことを使徒も教えている」とある。 |
注2 聖フィリッポ・ネリの伝記作者はこう書いている。 「だれかといっしょに唱えるのでなければ、聖人は、聖務日祷の終わりまでゆきついたためしはなかった。ミサのときには、かれは、祈願も、福音も、書簡も、聖変化のあとのホスチア、カリスの奉挙も、いっさい忘れてしまう。心の火に燃えつかれまいとするかのように速くする。聖変化に際しては、かれは、ことばを“早口に唱え”、腕がもとにもどらなくなるのを心配して、ホスチアとカリスの奉挙をそそくさとし、ときには、ミサをはたと中止すると、祭壇を行ったり来たりしたり、強いてあらぬかたをながめ、人びとにことばをかけたり、ろうそくのことで侍者に文句を言ったりする」( |
V 読書による黙想口祷と典礼の祈りだけで、たぶん初心者にとって、神との友情の交わりは簡単でやさしいものとなるであろう。それからはただ、かれをとらえ、かれに祈りを見いださせた、やさしく力強い神の恵みに、かれを任せておけばよい。 しかし、もしかれに感じられる超自然的な支えがないのならば、定義はいたって簡単でも、実行は非常に複雑なこの神との親しい交わりの中に、どうして、ひとり放りだすことができようか。確かに、かれの神に対する愛は生き生きしている。しかし、諸能力のほうは、崇高な、それもたびたびよくわからない問題をめぐって、独力で働くまでに熟してもいないし、じゅうぶんに教義で養われてもいない。たとえ、じゅうぶん養われているとしても、主のもとで、相当の長い時間を敬虔な考察にたずさわりきれない。しまいには、ぼんやりとした夢想や無力感の中に落ちこみ、初めのりっぱな意志もくじけてしまう恐れがある。 しかし、ここに聖テレジアは、自分も大いに利用した一つの方法を教えてくれる。それは、本を黙想しながら読むことである。 念祷のとき、あたまを働かせていろいろ考えることのできない人びとについて、聖テレジアはこう書いている。 「どんなに短くても、読書は潜心にゆきつくために大きな助けになります。それは、かれらがなしえない念祷の代わりとして、必要でさえあります。もしも、かれらの指導者が、この助けなしで長く念祷にとどまるようにしているなら、かれらはそこに長くしんぼうすることはできないでしょう」(伝4・8)。 いろいろな考えを発展させ、感情を言い表わし、決心すべき事がらをさだめ、すっかりできあがった念祷を提供してくれる黙想書を使うのもよい。それはもちろん一般的な書かれかたがしてあるが、めいめいがそこから自分にふさわしいものを取り出し、自分の必要にあてはめて、それを自分の念祷とすることができる。 黙想書として選ぶ本は、ただ教訓いっぽうや、信心いっぽうのものであってはならない。心を奪ってしまうような興味のあるものであってもいけない。反省をうながし、感情を生き生きさせるような示唆に富んだ本、あるいは、霊魂を神の現存に目ざめさせ、つづいて、そこにとどまらせるような本がよい。 ただ読むだけでは、黙想としての読みかたにはならない。黙想のための読書は、神の前に出ることで始まり、ずっと、この神の現存に浸されていなくてはならない。読書は、神との触れ合いにもどるため、または、神の前で反省したり、神と語り合い、 |
自分の考えや感情を言い表わしたりするために中断されるであろう。それは必要に応じて、長くも短くもなる。そして、いったん、やめたのち、ふたたび読書にとりかかるとすれば、それはまた、どうにもならなくなったようなときである。 もし読書からあまりにも多くの考えや感情がわき出して、そのため、結局神を忘れさせてしまうならば、読書はその目的をはずれたのである。要するに、読書は念祷をやさしくする一つの方法にすぎず、その役割は神との語らいに材料を与えること、神に一致するための一つの支えとなること、ただそれだけなのであるから。読書は、念祷の本質的行為である神との親しい交わりに奉仕するものである。決してこの目標からそれて用いられてはならない。この目標に向かって、いつも立て直さなくてはならない。 読書による黙想は、ふつう、霊的生活の初心者の念祷である。しかし、観想に達した人でも、からだや精神が疲れているときに、精神の働きを支えるため、または休ませるために、あるいはまた、潜心を妨げるような、あまりにも激しい、あまりにも執拗な心配から能力を引き離すために、読書にもどることがあろう。 この点について、聖テレジアの決定的な経験からのことばを聞いてみよう。 「私の場合、──と聖女は言う、──私は十四年以上、本の助けなしには黙想ができませんでした」(完19章99ページ)。 かの女は「自叙伝」の中で、十八年の無味乾燥の時期を通じて、読書が果たした役割を、こう説明している。 「この時期を通じて、私は、ご聖体拝領のあとでないかぎり、本なしで念祷をはじめる勇気は、とてもありませんでした。本は私の恐れをちらしてくれました。それは、いわば私の伴侶[はんりょ]のような、あるいは、数多い雑念の矢から私を守る楯のような役を果たし、私の慰めでした。無味乾燥の状態は間断なしにつづいていたわけではありませんでしたが、本がないと、私はいつもそうした状態に陥りました。そして、心は乱れ、考えは消え失せてしまうのでしたが、本をとれば少しずつ考えを引きもどすことができました。本は私の霊魂を引き上げる餌のようなものでした。たびたびは、本を開くだけで、もうじゅうぶんでした。私は主がくださったお恵みにしたがって、ときとしては少し読み、ほかのときには、たくさん読みました」(伝4・9)。 |
聖テレジアのこの率直なことばは、かの女の念祷生活の成長過程において、読書による黙想がどんなに重要であったかを示すものである。こうしてみると、初歩の人が、その未経験や無知のために落ちこむ空虚の状態から逃れでるのに、書物の助けを借りることもさせず、ほとんどまっくらにしめきった室内で、初歩のころに当然避けがたい心の乾燥をただじっと堪えさせるといった、ある種の環境に見られる読書への不信には驚かずにはいられない。読書には、怠惰がつきまとうという危険があるけれども、それは、読書への不信の理由にはならない。読書は初歩の人にとっては、たいへん確実な支えであり、貴重な楯であるから、ときとして、かれが書物の使いかたを知らなかったり、使いかたが悪かったりすることを心配して、書物をとりあげてしまうのはまちがっている。W 黙想精神の働きがじゅうぶんに訓練され、養われ、支えなしにすむようになると、その人は、もっとも伝統的な形の念祷、つまり、黙想に足をふみ入れてよい。 黙想とは、前もって選んだ一つの問題について考えをめぐらし、自分のうちに豊かな確信、あるいは、決心を生みだすことである。黙想はさまざまな方法に導かれることができるが、その方法はどれも、神の現存と謙そんという下準備、黙想という主要部、そして、この黙想の中で、省察によって確信が生まれ、それから、最後に、結びの部分で感情を言い表わし、はっきりした決心をたてるようにできている。 さまざまな人の必要に応じて、よく組みたてられた、こうした黙想の例は、本が提供してくれる。悟性[あたま]を働かせてする念祷のしかたを説明した本、あるいは、考えるべきこと、抱くべき感情、なすべき行為をのせた黙想書は、どんな時代にも、おびただしくあった。聖テレジアも、すでに「すぐれた教えと、念祷の初めと終わりのための適当な助言をしるした」本を(完21章109ページ)いろいろ知っていた。 「正しい判断力に恵まれ、黙想の修練をつんで潜心のできる人びとには、りっぱな著者の書いたすぐれた本がたくさんありますから、それを思うままに使うことができます」(同上)。 |
こういう種類の本は、ほかにも続々、著わされた。改革カルメル会の中にも、修練者のために、念祷中になすべきいろいろの行為を指定した方法を書いた何人かの指導者がいた。フランス霊性学派は、司祭や修道者、一般の教養人たちの使用に黙想書をたくさん出したが、それらの書物は、敬虔で理性的な思想を、飾りけのない、じみな文章で述べたもので、それは、幾代ものあいだ、人に見せびらかすための善業も、人をつまずかせるような行為も、同様にきらう、強く節度のある魂を形成してきたのであった。 ところが、私たちの近代的精神は、理論的であるより直観的であり、長い推理よりは、生きた具体的なもののほうを強く求めるところから、こうした黙想法や黙想書は、少しの間でたちまち古めかしく、時代おくれなものとなってしまった。それで、聖テレジアが黙想について語るとき、いつも必ず、ひかえ目な賛辞と、なんの熱中もないありきたりの文句しか使っていないのを認めるのは、私たちにとってうれしいことである。つまり、聖女もまた、念祷中にあたまを多く働かせることができず、論理的な能力、つまり「悟性」が、助けなるよりは、障害となるような人(伝13・11)だったのである。 お互いに、あたまを働かせて黙想ができないという点で、聖女に対して親近感を覚えるなら、聖女の考えに従うのもやさしくなろう。 まず、賞賛のことばを見ると、 「このような念祷をしている人、あるいは、もう、すっかりそれに慣れている人に対しては何も言うことはありません。主はその人を確実な道を通じて光の港へとお導きになるでしょう。このようなよい初めは、すぐれた終わりに導くでしょう。この道を行く人は、だれでも、休息と安全を見いだすでしょう。悟性が一つのことに結びつけられて、人は真の平和を味わうのです」(完21章109ページ)。 このほめことばは皮肉ではなく、心からのものである。しかし、聖テレジアの魂の生き生きとした躍動に慣れた人は、これがいかにも冷静で、理性的で、そのたたえる黙想と同じように、控え目であるのに気がつくであろう。 頭の働きが活発な人たちには、一つの危険がある。 「推理の働きを用いる人びとにもどりますが、私はかれらに、念祷の間中、ずっと、 |
そうしてあたまを働かせつづけないように勧めます。そういう修業はたいへんりっぱなことですし、甘味に満ちているので、このためには日曜日もなく、作業を免除された一瞬間もないようにかれらは思います。さもないと、すぐに、時間をむだにしていると想像するのです。けれども私は、この時間の浪費が、たいへん貴重な利益のように思います。ですから、先に申しましたように、かれらは頭を疲れさせないで、聖主のみ前にとどまるのがよいのです。そして、主にお話しし、主とともにいることを喜びとなさい。長々しい口上をつくろうとして思いわずらわず、単純に自分の霊魂の必要や、ほんとうなら自分のようなものがみ前にいるのを主はとてもお忍びになれないはずである理由でも申し上げるのがよいでしょう」(完13章144ページ)。 聖テレジアは知的な人びとと親しく交わって、かれらの傾向をじゅうぶん知っていた。かれらにとってあぶないのは、啓示の真理について考えることがたやすくでき、それに満足し、また、それから知的に利益を得て、そのため、念祷が神との愛の交わりであることを忘れてしまうことである。 だから聖女は「悟性の助けを借りて、いろいろと推理し、一つの問題から多くの考えや反省を引きだすことのできる人たち」(同上)に、飽かずくりかえして、この真理を思い出させる。 「この道でほんとうの進歩をとげ、私どもの望んでいる住居にまでのぼりたいのならば、たいせつなのは、多く考えることではなくて、多く愛することです」(城、住4。1・7)。 それに、黙想のうちにどんな甘美を味わうとしても、そういうものの価値を重く見すぎてはいけない。それらは、 「結局、地面を流れる水のようなものです。泉そのものに口をつけて味わうわけではありません。どうしても、流れていくうちにはきたないものにも出会い、そんなに清く澄んでもいません。ですから、私の考えでは、知性の助けを借りて考えながらする念祷には、生ける水という名はふさわしくないと思います」(完21章113-114ページ)。 このような黙想は「よい初め」(完12章109ページ)ではあるが、聖テレジアを満足させるものではない。この点についての聖女の不満、というよりむしろ、聖女の恐れていることは、ひと口にいって、黙想が人を知性だけの働きのとりこにして、生ける |
水の泉である神のほうに、じゅうぶん向けないということであるといえよう(注)。 では、聖女には、初歩の人たちにすすめるような念祷の方法が何かあるのであろうか。 |
注 イエズス・マリアのヨゼフ・キロガ師(一六二九年「没」)のことばによれば、十七年紀の初め、つまり十字架の聖ヨハネの死後間もないころ、カルメル会修練士に教えられた念祷の方法は、この危険を免れてはいなかった。「十字架の聖ヨハネの、霊的指導の才能」という書物の中で、ヨゼフ師は次のように記している。 「われらの聖なる師父、十字架のヨハネ修士の教えの影響が絶えてしまったころ、他の師たちが現われて、神の働きや、神の影響の効果──これによってこそ、完徳が獲得されるのである──を受けられるようにさせる非常に単純な霊的行為よりも、推理や、人の側の懸命な働きのほうをむやみにほめたてた。これらの師が、弟子たちに教えたことは、単純な霊の行為とはまったく違ったものであった。というのは、弟子たちは念祷がすむと頭が疲れていて、知性を照らされたようにみえることは、めったになかったからである。そして、この種の念祷(注、観想のこと)にふさわしくなったとき、どのようにして観想にはいるべきかを修練院で学ばなかったために、かれらは、自分の召命のいちばんたいせつなことを知らぬまま、修練院を去り──しかも、生涯知らぬままであった──念祷にあたっては、自然的な力で働いて、完徳を招致する神の働きがはいり込む余地をなくしてしまっていた」( |
「あなたがたのうちで、自分の霊魂というこの小さな天国の中にとじこもることのできる人は、すばらしい道を歩んでいると信じて、まちがいありません」(完30章163ページ)。
テレジアが念祷にくだした定義と、その定義では、自分が愛されていると知っている神との、親しい友としての交わりの中で、人を自由にふるまわせておく、ということだけを考えるならば、初心者を導くための何かはっきりした教えなど無用とも、また、そのようなものはないとも考えられるかもしれない。しかし、「完徳の道」と「第二の住居」を注意して調べるならば、そういう心配はまったく消えてしまう。そこでは、聖テレジアは、かの女自身がいつも従っており、人にも熱心にすすめる念祷のしかたを説明しているのである。 「あなたがたの中で、このお祈りのしかたを知らないかたに、主がそれをお教えくださいますように。打ちあけて申しますが、私も主がお教えくださるまでは、満足な黙想ができませんでした。この深い潜心ができるようになったとき、たいへん大きな利益を受けたからこそ、私はこのことについて、こんなにくわしくお話ししたのです」(完31章171-172ページ)。 聖テレジアがこのように成功した祈りかたとは、潜心の念祷である。かの女が私たちにさせたいのも、この念祷の形であるのは、もちろんである。 T 潜心の念祷とはすでに聖テレジアをよく知っている私たちは、かの女から教科書的な説明や専門家の定義を求めたりしない。しかし、その代わり、かの女は叙述がたくみである。かの女がたとえを使って精密に叙述することのうちに、私たちは潜心の念祷の真の仕方を見いだすことができる。 「この念祷は潜心の念祷と呼ばれます。霊魂はすべての能力を集中して、神とともに自分自身の奥底にはいりますから」(完33章163ページ)。 もっと先では描写がいっそうくわしくなる。 |
「霊魂はついに、この世のことはたわむれにすぎないことを悟って、絶好の機会に立ち上り、去って行くとでも言いましょうか。かれはまた、敵の攻撃を心配せずにすむように、とりでの中に身をさける人に似ています。感覚は外の事物から退き、それらをすっかり軽べつするので、肉体の目はおのずから閉じ、もう、被造物を見ようとはせず、いっぽう、心の目は、いっそう見開かれるのです。この道を行く人が祈るとき、ほとんどいつも目をとじているのはこのためですが、これはまた、いろいろのことのために、たいへんよい習慣です」(完35章163-164ページ)。 だが、ここでは神の強い働きかけによって生まれる受け身の潜心ではなく、自分の意志の努力によって実現される潜心が問題となっている、ということに注意しなくてはならない。 「よくわかってください。ここでは超自然的な事がらを問題にしているのではありません。これ(潜心の念祷)は、私どもの意志次第のもので、つまり、神のおん助けをかりて私どもに実現できることなのです。もちろん、神のおん助けがなければ人は何も、──ただ一つのよい考えを抱くことさえ──できませんが。いま、私は能力の沈黙についてお話ししているのではなく、それらの能力が魂の奥底にひき退くことを言っているのです」(完31章171ページ)。 霊魂の中心にはいるために、外部のものから身をひき離すという諸能力のこの積極的な動きは、潜心の念祷の初めの段階である。これができたからといって、じゅうぶんではない。それは、霊魂の中に神がお住みになることによって、おのずと生まれた準備の姿勢なのである。そこには神が特別な住みかたをしておられるからこそ、諸能力は、霊魂の奥底に退いてゆくのである。霊魂は聖三位の神殿、聖テレジアの特[←ママ]愛の神殿である。 「聖アウグスチヌスが言われたことを考えてごらんなさい。かれは、いろいろな所に神を深く求めた末に、かれ自身のうちに神を見いだしたのでした。気の散りやすい人にとって、この真理を悟り、永遠のおん父にお話ししたり、そのお側でたのしむために、なにも天にのぼる必要はないと知るのは、意味のないことと言えるでしょうか。確かに、おん父とお話しするために声を高くする必要はありません。どんな低い声で話してもお聞こえになるなるほどすぐそばにいらっしゃるのですから。おん父を捜しに |
行くために翼を持ったところで、いったいなんになりましょう。ただ、孤独のうちに身をおき、自分の中に主をながめさえすればよいのです」(完30章161ページ)。 潜心の目的は、ただ人を、心のもっとも奥深くの神殿の中に導き入れることだけである。 しかし、いと高く、とうといおん者の現存で生かされているこの神殿に、ただ、沈黙によってはいりこむだけではたりない。そこで、ほんとうに神と触れ合い、神とともに交わらなければならない。初めのころの念祷は、この神との交わりを私たちの側から積極的につくりだすという形があたりまえであるはずである。 「私どもは外的な感覚を自分自身の内部に引き入れ、それになにか“仕事”を与えなければなりません」(完31章。仏語注)と聖女はしるしている。 聖テレジアは、潜心の中で人が何もせず、ぼんやりしていることを心配し、著書の中で何回となく、この心配について語っている。実際、潜心はすべて精神の働きをやめさせて快い休息感を生みだすが、これは偽りの休息であることがある。ある人たちは、生まれつき受動的な性質のために、この快さを神の働きの結果の安らかさと、いとも簡単にとりちがえ、ただ無為の中に身をゆだね、神とはなんの関係もない静穏をたのしむことになる。それゆえ、聖女は、潜心の努力に続くものは、積極的に神を捜すことでなければならないと教えている。これはむずかしい過程であり、特に、いちばん高い状態では微妙な仕事である。この教えは、十字架の聖ヨハネの教えや、アルカンタラの聖ペトロの教えと対立するなどと考えてはならない。かれらは聖テレジアの教えに、少しも反対を唱えたりしていない。 それはともかく、この初めの時期には、なんの躊躇もゆるされない。霊魂は神と共になすべき何かを捜さなければならないのである。 そのためには、イエズスと共にあることを求め、イエズスと語る以上にすぐれたことはない。「みことば」としては、イエズスは霊魂のうちに、おん父と聖霊と共に現存し、「受肉されたみことば」としては、かれは唯一の仲介者、また、私たちが、沈黙のうちに耳を傾けるべき神のことばである。 「心の中に引きこもれば、なにも精神を疲らせてカルヴァリオの丘やゲッセマニの園や笞うちの柱までイエズスを捜しに行かないでも、ご受難を黙想し、子なる神を心に描き、 |
かれをおん父に献げることができます」(完30章163ページ)。 「しばらくの間、知性を働かせて考えるのはよいことです」。しかし、すぐに「理性を沈黙させて、救い主のおそばにとどまっていましょう。もしできれば主が私どもを見ておいでになり、私どもは主のお相手をしているのだと考えるようにしましょう。かれにお話し申しあげましょう。私どものせつな願いを打ちあけましょう。へりくだりましょう。かれと共に楽しみましょう。そして私どもは、かれのみ前にいる資格のないものであるということを思い起こしましょう」(伝13・21)。 今や、私たちは潜心の念祷の本質的な部分にさしかかったのである。精神の働きを外のものから退かせることの目的は、神との生きた親しさを容易にさせることにほかならない。 「父か兄弟と話すように、また先生か夫と話すように主と共にお語りなさい。そのときどきに、いいようにお考えなさい。主をお喜ばせするためになすべきことは、主おんみずからお教えくださるでしょう。何もお願いしないほどあっさりしていてはいけません。いいえ、主はあなたがたの天配でいらっしゃるのですから、お約束を守って、あなたがたを妻として扱ってくださるように、ご催足[ママ]なさい」(完30章162ページ)。 イエズスとの親密さというこの問題となると、聖女はもうつきることを知らない。それに、聞くほうもまた、聞きあきることがない。それほど、聖女の描写には変化があり、感情は繊細で、あふれだす生命は力と豊かさにみちみちている。 「夫とよく折りあっていきたいと望んでいる妻の様子をごらんなさい。人は言うのですが、夫が悲しんでいれば、妻も悲しそうにしなければいけません。夫が喜んでいるときは、たとえ自分は悲しみに沈んでいても、よろこばしげにしなければいけません。……ところが、主が私どもに対して、見せかけでなく、まったく真実に、とってくださる態度はこれなのです。主は私どものしもべとおなりになり、あなたがたが君主となることをお望みになります。あなたがたの望みどおりになってくださいます。うれしいときには、ご復活された主をおながめなさい。どのように大きなご光栄のうちに、お墓をお出になったかを思えば、あなたも歓喜にみたされるでしょう。ほんとうに、主のご勝利の中には、なんという光、なんという美しさ、偉大さ、光栄、喜びがあることでしょう。心の苦しみのとき、悲しみに沈むときは、ゲッセマニの園に |
お向かいになる主をおながめなさい。主のみ心を満たした苦しみは、どんなに深かったことでしょう。忍耐そのものでいらっしゃる主が、苦悩を外にあらわし、お訴えになったのですから。あるいは柱にしばりつけられ、おからだは、ずたずたに傷つけられて、苦痛にお飽かされになる主をおながめなさい。主が私どもにお抱きになる愛はこんなにも大きいのです。……または、十字架をおにないになるのをごらんなさい。息つくいとまさえ、人びとはさしあげようとはしません。主は、涙のあふれるあの美しい、憐れみにみちたおん目をあなたがたのほうにお向けになるでしょう。主は、あなたがたの苦しみを慰めようとして、ご自分の苦しみをお忘れになるでしょう。……おお、世界の王、私の魂のほんとうの花むこ。主に向かって、こう申しあげてよいでしょう」(完28章151-152ページ)。 このようなイエズスとの親しさは、私たちを聖三位のうちに導き入れる。イエズスは私たちの仲介者であられるからである。イエズスによって私たちはおん父の──イエズスと共に「私たちの父よ」と呼ぶことのできるおん父の──子どもなのである。 「天にましますわれらの父よ」とテレジアは叫ぶ。「ああ、主よ、あなたがこのようなおん子のおん父でおいでになることは、なんとふさわしいのでございましょう。またおん子は、このようなおん父のおん子でいらっしゃることを、なんとみごとにお示しになるのでございましょう。それゆえに、永遠に祝せられたまえ」(完29章154ページ)。 おん父とおん子とに結ばれることにより、私たちは、おん父とおん子から発する聖霊を確かに見いだすであろう。 「このようなおん子、このようなおん父のあいだにとどまるようになさい。そうすれば、必ず聖霊を見つけます」(完29章160ページ)。 念祷の時間中に結ばれた神との親しい交わりは、一日中、つづかなければならない。 「いろいろの仕事の最中にも、たとえ一瞬でもよいから、私どもといっしょにいてくださるかたのことだけを思い出して、心の奥底に退かなければなりません。それは、たいへんためになります」(完31章171ページ)。 聖テレジアは念祷についての教えの中で、特に念祷にあてられた時間と、その他の時間とを、めったに区別しない。私たちのうちに絶えまなく現存し、絶えず働かれる |
神に対して、私たちとしては、できるだけたゆみなく神との親しさを求めて、答えなければならない。潜心の念祷が次第に私たちの全生活を浸してゆかなければならないのである。もちろん、はりつめた緊張は注意して避けるべきである。それは、私たちの精神の働きを涸[か]れさせ、しかもなんの身も結ばないであろう。しかしながら、慎重で忍耐強い努力に対しては、神は恵みでお答えになる。神を求める者には、神はおんみずからを現されるのである。「もしだれかがわたしを愛するなら、わたしたちはその人のところに行って、そこに住むであろう」と主はおおせられたではないか。聖テレジアは、自分の経験から、次のように説明する。 「結論として申しましょう。この状態に達したいと思う人は──くりかえして言いますが、それは私どもにできることです──決して落胆してはなりません。私が言ったことに慣れるようにすれば、少しずつ、、自分を支配することができるようになれるでしょう。むだな骨折りをして迷っていず、感覚そのものを、霊魂の内的潜心に利用なさい。人と話すときには、自分のうちにもお話すべきどなたかがおいでになるということを思い出しましょう。だれかの話を聞くときには、もっとそばで話していてくださるかたがあり、それに耳を傾けなければならないことを思い出しましょう。とにかく、自分から望みさえするなら、このようによいかたから離れずにいられるということを考えなければなりません。これほどおん父に助けていただく必要があるのに、たびたびそのおそばをはなれて置きざりにおさせしたことを深く後悔すべきです」(完 31章172ページ)。 これが潜心の念祷であり、その目的である。それは一時的な修練ではない。絶えまない一致をめざすものである。初歩の人のための方法にはちがいないが、それは、神との一致の頂点にまっすぐに向かっているのである。 U 潜心の念祷へ赴く道この潜心の念祷は、初歩の人にとっては当然、その人のふだんの祈りかたをずっと上まわるもののように思えるであろう。これを実際にやってみようとするとき、その人は、自分の精神の諸能力が柔軟さを欠いており、その上、訓練に慣れてもいず、 |
霊魂の暗黒の中での神との触れ合いを求めることなど、とうていできないのがわかるであろう。 霊魂の中に神が現存されることを、何かの形で体験すると、それが貴重な助けになろう。「このことを信じるばかりでなく、これについて経験的な知識を得られるように努めるのは、きわめてたいせつなことです。それは悟性を固定させ、人を潜心に導くのにいちばん適したものですから」(完30章161ページ)。 しかし一致の恩寵、その他の本格的な神秘的恩寵によってこの経験が与えられねばならないということはない。慰めとか、呼びかけによって、神が内的にご自分を示されるだけでも、人は潜心することが容易になり、また、それを決定的に習得することができるようになるものである。そしてこうした神の現われかたは、霊的生活においては、かなり、ありふれたことである。信心ぶかい人であって、熱心に聖体拝領をしたときとか、祈りのときなどに、少なくとも、神の現存を示すような甘美さを感じたことのない人があるだろうか。 聖テレジアの言う神の現存の体験──たとえ、最小限度のでも──は、潜心の念祷をめざして努力するために、必要であるか、といえば、もちろんなければならないものではない。なぜなら、聖テレジアは、こういう体験はあとでくる、とはっきり言っているが、また、いっぽうでは、「主は霊魂に、すぐにはご自分をお示しにならない」(完30章167ページ)としても、少なくとも、霊魂を不断の潜心のうちに生きさせるのに足りるだけにひんぱんにお示しになるものであること、そして、かの女の語るこの潜心の念祷は、私たちの意志にかかっているものであることを、強く断言しているから。 「ここでは超自然的なことが問題なのではなく、それは、私どもの意志次第のもので、私どもが、神のおん助けによって実現することができるのです」(完31章171ページ)。 こういう努力は思いきって徹底的でなければならない。潜心はきびしい修業である。たとえ、そう聞いたら、おそれさせられるとしても、それを隠しても何になろう。聖テレジアは「最初のころの疲れ」について話している。それは「からだがその権利を主張し、すなおに降参しないことが、その不幸であることを悟らない」(完30章164ページ) |
ところから起こるのである。
「霊魂の城」の中で、かの女は「私どもが潜心しようするとき当面する恐ろしい困難」(城、住2。1・9)について語っている。
聖女は「自叙伝」の中にながながと自分の経験を書いているが、それが、この点について、かの女に教えたのであった。
「私自身、長年のあいだ、念祷のとき精神を一つの問題に集中することができないで苦しみました。それはたいへんつらい試練です」(完28章150ページ)。
もし、努力のしかたが乱暴ならば、それは有害となるであろう。潜心は「腕ずくではなく、おだやかに」(城、住2。1・10)なすべきものであるから。聖女自身も、フランシスコ会士、オスナのフランシスコの書いた入門書第三巻の中に、潜心の一つの方法を見いだしたことを、天の恵みとみなしていたが、こんどは、かの女が自分の努力と経験の成果を私たちに与えてくれるのである。 まず第一に、潜心の念祷をいろいろの部分に切り離さないのがよい。いったん霊魂がひとりになったら、すぐにイエズスを捜し、かれと共にいるように努め、かれの相手をしなければならない。 「告白の祈りを唱え終わったら、あなたがたはひとりなのですから、すぐに相手を見つけるようになさい。けれども、あなたがたが唱えるべきこのお祈りを教えてくださったみあるじ以上のよい友を見つけることができましょうか。この主を自分のすぐそばにおもちなさい」(完28章149ページ)。 言うまでもなく、潜心のうちにしっかりととどまるための、いちばんよい方法は、自分がその側で潜心している主のことに没頭することである。直接に目的に向かうことが、目的をとげるためにも、また同時に、潜心するためにも、いちばん確実な手段である。 「私は何度も経験しましたが、気が散るのを防ぐいちばんよい方法は、私がお祈りをおささげしているそのおかたに考えをじっと注ぐように努めることです」(完26章146ページ)と聖テレジアは明言している。 主とこの触れ合いを保つためには精神の働きを使わなければならないのはもちろん、あらゆる種類の小さな工夫も用いなくてはならない。めいめい、自分にいちばん |
よく成功するような、そして、この触れ合いを、いちばん深く、親密な、生き生きとしたものにするような方法を用いればよい。 ここまでくると、私たちは前に述べたいろいろの形の念祷が、もうそれぞれ一つの独立した形の念祷ではなくて、すべて、潜心の念祷を実現するための方法となっているのに気がつくであろう。 ある人たちは、想像の力を用い、福音書のさまざまな場面を描き、また主の表情や姿を思い浮かべて、主との生きた交わりをしやすくするであろう。 知性を用いて深く考えること、あるいは推理的な黙想も、潜心の念祷の助けになることができる。ただし、あまり長い時間をそれに使わず、神との触れ合いができたら、あたまの働きはその役目を終えて速やかに退くことを条件としてである。 「しばらくは知性の働きを用いるのがよいでしょう。けれどもその後、知性を沈黙させ、救い主のおそばにとどまりましょう」(伝13・11)と聖女は書いている。 念祷にあたって、想像も知性も用いることができないときもあろう。しかし単純な信仰の目を主に注ぎながら、み前にとどまっていることは、いつでもできることである。聖テレジアはそれを保証する。 「私は今、あなたがたに、考えを主に固定することも、いろいろ推理することも、崇高なむずかしい考察をすることもお願いしているのではありません。ただ、あなたがたの心の目を主にお注ぎなさいと申しているのです」。 「私がお教えする習慣を身につけてごらんなさい。それはあなたがたにもできるはずだと思います。私も長年のあいだ、心を一つのことに集中できないで苦しみました」(完28章150ページ)。 こうして心の目を注ぐだけで、じゅうぶんな触れ合いができあがる。とはいえ、それは、人を手も足も出ないような苦しい無力のうちに打ち捨てておくこともかなりたびたびある。 この無力さ、また、その他、どんな原因から来るにしても、すべて無力な場合のために、聖テレジアは小さな工夫をいくつか教えている。 まず第一に口祷。口祷が有益であるのは、私たちがすでに知っているとおりであるが、それはまた、潜心の念祷に糧を与えることができる。 |
「このお祈りの仕方は、口祷ではありますが、他のどの方法よりも速かに精神の集中を助け、この上なく貴重な効果を生じます」(完30章163ページ)。 本を黙想しながら読むのもまた、潜心を助ける一つの方法、しかも、最もよい方法の一つである。 「潜心するためにも、口祷をよく唱えるためにも、助けとなるもう一つのたいへんよいすぐれた方法は、やさしいことばで書かれたよい本を使うことです」(完28章155ページ)。 イエズスの姿を生き生きと考えるように心の働きを誘い助けるために、聖画聖像に頼るのもよい。 「この点についてあなたの助けになる方法が一つあります。あなたの好みに合うような、みあるじのご絵を一つ持つようになさい。見もしないでただ肌身につけておくだけで満足せず、みあるじとお話しをするためにたびたびそれをお使いなさい。申しあげるべきことは、主ご自身が思いつかせてくださるでしょう」(完28章154ページ)。 経験してゆくうちに各自は、そのほかにも精神の働きを支え、あるいは補い、魂を生きた神との触れ合いのうちに保つさまざまの「好みや工夫」(完28章155ページ)を見いだすであろう。こうしてたゆまず努力すれば成功はかなり早く来ると聖テレジアは約束する。 「このようにしばらく続け、真剣な努力をすれば、どんな豊かな実りが得られるかがわかるでしょう。お祈りを始めるや否や、感覚が、まるで蜜蜂が蜜をつくるために蜜房に帰るように、ひとところに吸い込まれてゆくのがわかるでしょう」(完30章164ページ)。 しかし、聖テレジアの考えでは、潜心の念祷は一日中を包み、生活のすべてにはいり込まなければならない。 「いろいろな仕事のまん中で、神との親密な触れ合いを求めつづけるためには、念祷のために用いられる方法では、もはやふじゅうぶんである。もっと簡単で適切な方法を見つけなくてはならない。 その方法とは、何か一定のもの──ご像とか、身近な品とか──、または、仕事の変わり目や、その他、なんでも神の現存となすべき愛の行為を思い出させてくれる目じるしをきめて、神の現存を思い出すことである。聖櫃、自分の霊魂、あるいは |
ある一定の人、いずれにしても、神の現存を一面では隠すと同時に、他方ではそれを表わすさまざまなヴェールの下に次々と神の現存を求めるのである。 このきわめて単純な方法が、愛に裏打ちされているならば、人は早く神のみ前に生きることに慣れる。神の現存は、私たちの周囲、よく会う人々、自分の仕事など、ほとんど至るところで、絶えずこうした輝く信号で示されるようになり、そしてそれは、生活、雰囲気のすべてをみたし、さわがしさも骨折りもほとんどなしに、絶えまなくおだやかに光をひろげるようになる。 次のように聖テレジアが言うときには、このような神の不断の現存、離れえぬ友となられたイエズスとのこの親しさ、ひとことで言えば、生活の中にいっぱいにひろがった潜心の念祷のことを指しているのである。 「どんなことでも苦労せずに覚えることはできないのですから、神の愛のために皆 さんにお願いいたします。この目的のためにする努力はすべて惜しいと思わないでください。一生懸命にすれば神のおん助けにより、一年後、いいえ、もしかすると半年後には成功するかもしれません。主が、たぶんあなたがたを呼ぼうとしていられる偉大なことのために堅固な基礎をおくという大きなお恵みをかち得るためなら、これくらいの日月は、あまりにも短いものではないでしょうか」(完31章173ページ)。 その前のところで、かの女は次のようにも書いている。 「このお恵みを一年かかってもいただくことができなければ、何年でもいただけるまで努力しましょう。これほどよいことのために使う時間を悔やむことはありません。なんで急ぐ必要がありましょう。くりかえして申しますが、この実行に慣れ、まことの主のおそばにいるように努めることは、あなたがたにもおできになるのです」(完28章150ページ)。 このことばで聖女は、いつも潜心していられるためには、神の特別な恵みが必要であると言っているようである。潜心の念祷はこの恵みを受けるように霊魂を準備し、それにふさわしいものとさせる。事実、この方法はこの恵みを受けるために人にあらゆる手段をつくさせ、そうして神のおんあわれみをさそうのである。こういえば、この方法のすぐれていること、それが成功する理由が、もうわかるであろう。 |
V 潜心の念祷のすぐれた価値イエズス・キリストとの一致によって、神との親しい触れ合いだけをひたすら、求めること。これが聖テレジアの潜心の念祷のすぐれた内容であり価値である。 今日では、このような教えも目新しいものとは言えないかもしれない。私たちが知っているあらゆる念祷の方法もこの一致のみを目標としているし、その道としては、ただキリストのみを示している。しかし、この一致した傾向は大部分、十七世紀フランスの霊性に与えた聖テレジアの影響によるものであることを認めなくてはならない。 このキリスト中心的傾向は、フランスの霊性においては高く偉大な思想を幾重にもまとって行ったのに反し、聖テレジアにおいては、それは単純で、直行的で、生きたものであった。そして今もそうである。この点から見れば聖テレジアの教えはやはり独自のもので、論理よりは直観を、概念的な知識よりは生きた触れ合いに渇いている今日の人びとに特に好まれるものを持っている。 事実、聖テレジアは念祷を始めるや否や、すぐキリストを求める。神とキリストなしにはいられないその心は、一刻も猶予を許さない。イエズスに行き着くのに、何も間におかない。途中で少しの間も足をとどめない。思想の中に深くわけ入ることも、霊的な感情や印象を味わうこともしない。途上でかの女が考えることを承諾するとすれば、それは、ただかの女を目的に導きうるもののことだけである。そして、イエズスと出会ったあかつきには、イエズスに話しかけること、ただイエズスをみつめること、かの女にはそれだけでじゅうぶんなのである。これがかの女の念祷である。イエズスを見いだそうと心せいていた愛は、この素朴[そぼく]な触れ合いによってみたされる。 この触れ合いは生命にあふれている。聖テレジアは、霊魂の最も高い部分だけで念祷をすることはなかった。人間的なものも、超自然的なものも、その存在のすべてをあげてキリストに向かうのである。すべての能力が深く完全な触れ合いへと動員される。なぜなら、かの女のすべてが神的なもの、神を渇望しているからである。もしそうした能力のどれかの勢いをそぐことができるものがあるとすれば、それはただ── |
疲労から来るにせよ、神に捕らえられたためにせよ──「無力」だけである。そして、私たちの必要と弱さに適応するために人性をとって受肉された「みことば」イエズスこそ、こうした渇望のすべてに、こたえてくださるのであり、そこから、神的エネルギーも人間的エネルギーもあずかる生きた交わりが生まれ、この交わりにおいてすべてのエネルギーは互いに与え合いながら豊かにされて行く。 この友愛の交わりがこれほど生きた、実り豊かなものでありうるのは、ただ、それが本当の愛のやりとりであってこそである。聖テレジアの教える念祷は、事実、ただのいわゆる机の上の学問ではない。それは教義的真理をよりどころとして実行するあらゆる活動に支えられた超自然的生活の、血の通[かよ]った修練なのである。この念祷は神と人間という二つの現実の触れ合いを作りあげるものである。 潜心の念祷は神を私たちの霊魂のただ中に求めさせる。神と私たちとの超自然的関係を作りあげるために神といっそう親しく出会う場所があるとすれば、神がその生命を与え、私たちひとりひとりを名指しでその子とされる魂の深みをおいて、他[ほか]にありえようか。私の中に現存し、働かれるこの神は、まことに私の父である。なぜなら、神はその生命を注ぎ入れることによって、絶えまなく私を生みだされるからである。神がおんみずからをお与えになるこのところにおいて、私も神を子の心でいだくことができる。私の主、私の神はまことに私のうちに住んでおられるのであって、やがて私の魂が肉体の牢獄から解き放たれ、神をありのままに見る力である「栄光の光」( 聖三位一体の三つのペルソナは、三者共通の一つの作用で私たちの中でお働きになるのであるが、この聖三位の中で託身の「みことば」のもとへ赴くようにと聖テレジアは私たちに求める。事実、恵みによって神の生命にあずかるとき、この参与は私たちをただ神の生命の働きの傍観者としておくのではなく、聖三位の生命の動きの中に |
私たちを実際に引き入れるのである。この生きた深い参与は、私たちが聖三位の上にさらにつけ加えらえたペルソナという資格で行なわれるものではない。聖三位はその無限の完全さにおいて不変のおん者だからである。この参与は、ただ私たちが三位のうちの一つのペルソナに占有されることにより、またこのペルソナと一つのものになって、その固有の働きに与り、聖三位の永遠のリズムの中にはいることをゆるされることによってのみ可能となるのである。 私たちに向かって来られ、私たちを救い、清め、私たちをかれのものとして受け入れ、かれと一つのものとし、かれと共に、子として聖三位のふところにはいらせ、「みことば」の光栄と働きを共にさせ、ご自身のおん父と聖霊とを与え、ご自身の光栄と至福を受け継ぐことを私たちに約束なさるのはイエズス、すなわち受肉されたみことばである。ただかれによって、かれにおいて、かれと共にあってのみ、私たちは超自然的生活を生きることができる。私たちはキリストのものであり、キリストは神のものである。 おん父、あるいは、聖霊に特に心ひかれるからという口実で、イエズスから遠ざかるようなことがあってはならない。なぜなら、私たちは、おん父の独り子であるキリストとの一致を通す以外に、おん父 の子となることはできないからである。聖霊が私たちの中におられ、私たちのものとなりえられるのは、ただ私たちが「みことば」と一つになることによってのみである、──聖霊はおん父からと同時に「みことば」から発出されるものであるから。私たちにマリアをお与えになるのもまたイエズスであり、私たちの母であるおかたに対する子どもの心というのも、ただイエズスからのみくるのである。マリアは彼の母なのだから。また、キリストのうちに教会が──したがって、すべての霊魂が──ある。 潜心の念祷は私たちを、キリストに結びつけることによって、自分独特の場所におき、私たちの富のすべてを発見させ、すべてでおいでになるおん者のうちに私たちを固め、超自然に関して、すべてを私たちに与える。 潜心の念祷は真理を生きさせ、超自然的現実の中心へと導き入れるから、おどろくべき効果を生み出す。聖テレジア自身、超自然的現実との生きた触れ合いによって生み出される実際的効果をいくつか示してくれる。 |
それは第一に精神の諸能力の平穏化ということである。心の働きは、一見この掴[つか]みどころのないところでは落ちつかなくなるはずであるが、逆に驚くほど集中するもので、聖テレジアは、祈りをささげるそのおかたへ、ひとすじに考えを向けることが、雑念を防ぐ最良の方法であると言っている(完26章146ページ)。 「このようにして祈ることは、他のどんな方法よりも精神を集中させることができ、最も貴重な効果をあげます」(完30章163ページ)。 こうして主に目を注ぐ習慣はこのような効果を生じるので、人は絶えずそこにもどって行く。 「いつも自分のそばに主がおいでになるように考えるのに慣れ、そしてあなたが愛をこめてそうしながら、主のお気に入ろうと努めているのを主がごらんになれば、人の言うように、もうあなたは主のおそばから離れることはできなくなるでしょう」(完28章149ページ)。 このイエズスと共にいる習慣は、 「主がもしかしたらあなたを呼ぼうとしておいでになる偉大なことのための堅固な基礎」(完31章173ページ)となると聖女は記す。 またもう一つの希望のことばがある。 「この道を行けば、短い時間で遠くまで行けるでしょう。ちょうど、陸路の旅ならずっと時間がかかるのに、順風に帆をあげた舟に乗って、数日で旅の目的地に着いてしまう旅人と同じように」(完30章163ページ)。 聖女自身が目指し、また他の人びとにも望ませたいと思うこの目的とは、生ける泉、すなわち、観想によってご自分を魂に与えられる神ご自身なのである。そして人は潜心の念祷によってこの観想に準備される。 「この道を行く人は海路を船足もなめらかに進むのに似ています。……その人たちは多くの危険な機会から免れ、たいへん速かに神の愛に燃えあがるのです。炉のすぐ近くにいるので、小さな火の粉でも触れるなら、悟性のほんの一吹きで霊魂全体が燃えあがるのにじゅうぶんです。外的なものから全く離脱し、ただ神とともにただひとりとなった魂は、すぐにも火がつくように、りっぱに準備されているのです」(完30章165ページ)。 |
事実、ご自分を与えることを熱く望み、すべての人をこの生ける泉に呼んでおられる神は、このようにまっすぐに、そして絶えまなく神を求める者に対して、ご自分をお与えにならずにはいられない。これが聖テレジアの考えである。聖女は自分がおしえた潜心の念祷をそのまま実行する人びとは、超自然的念祷の最初のものである静穏の念祷に達すると保証する。 「みあるじは他のどんな方法によるよりも、それ(能動的な潜心の念祷)の中で、ずっと早く教え、また静穏の念祷へと導くことがおできになります。……あなたがたのうちで、自分の霊魂というこの小さな天国──その天も地もお創りになったおかたのお住みになる──の中にとじこもることができ、外の物は何もながめず、気を散らす種を五感が見いだすような所に留らない習慣をつけた人は、すばらしい道を歩んでいると信じてまちがいありません。その人は必ず活ける水を飲むことができるでしょう」(完30章163ページ)。 これほどきっぱりとした保証は私たちに、今ここで問題となっている初歩の念祷をはるかに超える分野をひらく。このことばですでに「観想への招き」というあの困難な問題が解決されているようにさえ思われる。 もう一度、聖女の保証の要点をあげておこう。すなわち、潜心の念祷は神との生きた触れ合いをさせる。それは深い味わいにみちた神との親しさへと導く確かな道である。潜心の念祷のうちに、すでにこの味わいにみちた神との親しさの確かな萌[きざ]しがある。 初歩の人にとって、これ以上、慰めにみちた約束、これ以上に貴重な励ましは望めないであろう。 |
「私はおまえに生きた本を与えよう」
(伝26・5)。
潜心の念祷が生活全体に浸み込んで、それを生かす役割を果たすためには、善意や細々とした工夫があればそれでじゅうぶんだというわけにはいかない。聖テレジアが自分の経験に照らして私たちに教えようとするもう一つの支え、すなわち霊的読書が必要である。 聖女は、フランシスコ会士、オスナのフランシスコが書いた「第三念祷初歩」の中で潜心する方法を学んだと言っている。この本はかの女がオルティゴサ村のおじペトロの家に滞在したとき、このおじが手渡してくれたものであった(伝4・7)。以前、かの女は父の家で見つけた騎士物語を読んで小さいころのよい望みが冷えてしまったことがあったが(伝2・1)、これに反して、その召命を父に打ちあけようという勇気を与えられたのは聖ヒエロニモの書簡によってであった(伝3・7)。またヨブの物語をかの女に教えた聖グレゴリオの「教訓」は、修道生活の間の病気を忍耐強く耐える力を与えてくれた(伝5・8)。 かの女自身、書いている。 「こうした初めのころには、書物と孤独のおかげで、どんな危険も、私がいただいていた大きな宝を奪い取ることはできないように思われました」(伝4・9)。 この確認のことばは、聖女一個人の経験以上のものをふくんでいる。それは、初歩の人が念祷に必要とするものを明確に示しているのである。すなわち、読書と孤独もまたかれらに必要である。孤独は念祷の雰囲気を作り出し、読書は念祷の糧を与える。 T 読書の重要性「真実に知るとき、人は火のように愛する」。 この燃えるようなことばで、フォリーニョの聖アンジェラは一つの法則を言い表わしている。 |
つまり愛は認識から生じるものである。 このことは聖三位の内奥でも同じである。実体的愛、おん父とおん子との共通の愛の息吹きである聖霊の発出は、おん父とおん子の相互の認識からである。神はご自分にかたどって創られた人間の中に、この法則を刻みこまれた。人間は何かの方法で自分が知っているものしか愛することはできないのである。「先ず知られることなしに求められることはない( 神的であると同時に人間的なこの法則は、聖三位一体の生命への参与である恩恵の生命を支配している。すなわち、恩恵の生命を構成する愛徳の発展は、愛に光を提供する信仰の発展と切り離すことができず、そしてまたその信仰自身も、開花するためには教義的真理という糧に養われる必要があるのである。 事実、超自然的行動原型[ハビトゥス]である信徳を、それが接[つ]がれている元木[もとき]の知性から切り離すことはできない。信仰は、“人間のことばで神の真理を表現する教義文”に知性が同意することによってしか、神に密接に結びつかず、又その(信仰の)対象である神的神秘に入ることができない。 信仰の行動原型[ハビトゥス]、または信徳は、たとえどんなに素直に、すべて神が啓示したものを受け入れるとしても、普通の条件のもとに「信じる行為」をするためには、まず、啓示された真理を知ることが必要である。だから聖パウロは、信仰が耳から入るものであることを指摘した後、「説き聞かされなかったら、どうして信じられよう」とつけ加えた。このようにして、かれは、信仰が感覚に深く根差していることを強調したのである。すなわち、感覚は真理の表現を受けとることによって、信仰に糧を与えるのである。 啓示された真理というこの糧は、信仰の発展の全過程を通じて──程度は異なっても──必要である。しかし、初歩のときは必要が特別に大きい(注)。 |
注 以上のことは、この本で問題にしている念祷の初歩にとって大切である。もっと進んで超自然的観想となると、明確な認識は消失してゆく(夜2巻12章)。そのときは愛が先手を打ち、上知の甘美な注入のうちに霊魂を教える。この甘美な上知のおかげで、天啓の真理に頼る必要がなくなるというのではないが、はっきりした光はそれほどいらなくなるのである。 |
初歩のうちは、信仰は、しっかりと神に錨[いかり]をおろすためにはまだあまりにも光が乏しく、神の神秘の暗黒に沈むためには、あまりに弱いため、その確信を裏づける理性的根拠をすえ、また誘惑や疑いを避けるために、学ぶ必要がある。信仰が教義的真理という豊かで実質的な糧によって強められたときには、その強くたくましい根を神秘の深みに投げ込み、教義がそこに投げている光を味わうことができよう。やがて、その暗黒自身が、かえっていっそう甘美なものと思えるようになるまでは……。 それにまた愛は、その愛するものを、しきりに知ろうとする。その知ろうとする望みをみたすために、愛は問いかけてやまず、なしうる限りの手段を用いて探究する。とすれば、神に対する私たちの愛は、神ご自身がすすんで私たちに啓示される事がらを、むさぼるように取り入れるはずである。愛は啓示された真理を深く知るために学び、その真理をわからせ、あるいは説明するあらゆる方法、またそれを明らかにする権威ある注解などを取り入れて、それによって真理そのものの中に、さらに深くわけ入り、信仰と愛とを養う糧を得ようとするのである。それだからこそ、幼きイエズスの聖テレジアは、念祷をするとき、福音書に盛られたことばや、そこに演じられることから「やさしい神さまの性格を知る」ように努めたのであった。認識は愛の基であり、他方、愛がまた、知ろうとする心をかりたてるのである。 このように見れば、特に初歩のころには、啓示された真理がどんなに念祷に必要であるかがわかる。念祷は信仰によってしか神との親しい交わりを生み出すことができないのである。ところで、もし信仰が、ただ啓示の真理のことばにかたく結びつくことによってのみ神に至りえるものであるとすれば、まして念祷のときに私たちを常に神と触れ合ってとどまらせるためには、なおさらのこと、豊かな、そしてさまざまな糧で養われなければならないはずである。霊魂がまだ聖霊のたまものによる神の働きに頼ることができないときに、この啓示された真理にも頼らないとしたら、神との交わりはいったい、どういうことになるだろうか。それはただ、つかみどころのない長い──あるいは重苦しい──倦怠、または、怠惰なものになるよりほかはなく、いずれにせよ、 |
実りのないものである。 これに反して、よい本があれば、聖テレジアのように勇敢に孤独に立ち向かい、そこで神に没頭することができる。潜心の念祷を持ちこたえるために聖女が勧めるいろいろの工夫も、結局、大部分は、どうしても頼らなければならない啓示の真理になんとかよりかかるための、さまざまな形というにすぎない。この真理が霊魂の能力を支え、したがって、神との愛情の交わりを保たせてくれるのである。 ある人びとは潜心することや、神との愛にみちた交わりを保つことが、ある程度たやすくできるいっぽう、読書から取り出す多くの考えがこの親しさを妨げたり乱したりするために、知的な糧は念祷の助けにならないばかりでなく、妨げになると思い込むことがある。そうなると、もう、有益な読書をいっさいやめてしまうか、ほかの仕事のために読書を犠牲にするかの一歩手前である。こうした読書軽視は、人を危険にさらす。しかも、その重大さは後になってみなければわからないのである。当分の間は、そういう人たちの情感的な念祷も結構かもしれない。しかし、普通は、栄養物の不足から次第に念祷は味気ないものとなり、貧血症に落ち、力も光も持たないところから利己的なセンチメンタリズムの中に迷い込み、沈んでしまう危険が大いにある。心が非常に平穏なように思え、だから、まったく神と一致しているつもりでいたものが、いつのまにか、自分自身やいろいろの心配や、いやな感情や、あれこれの想像の中にはまりこんでしまっているのに気がつく。信仰のアンテナの土台が信仰の教義的真理によってじゅうぶんに支えられていなかったために、そういう人たちは、微妙なエゴイズムからかれらを引き離してくれるに違いない神との触れ合いを保ち続けることができず、いつのまにか、そうしたエゴイズムの中に、ずっと埋もれきりになっているように見える(注)。 |
注 ここでいう念祷はただの情感的念祷であり、こういう念祷には真の観想はほとんど──あるいは、全然──ない。この念祷は、神の働きにも、精神の働きにも支えられていないために失敗するのである。 |
たしかに、はっきりした概念の光を必要とする程度は人によって違う。しかし、 |
啓示された真理の知識という糧なしに、その信仰が成長しうるというような人は、ひとりもいない。 人はよく、知的な点では恵まれず、教養も乏しかった大聖人たちの例を挙げて、霊的教養はそれほど必要ではないというが、神から驚くほどの光を与えられたそういう聖人たちは、例外的な存在である。それに、神の助けによって知的な面の欠陥が補われたからといって、かれらは勉強に努力しなくてもよかったというわけではなかったことに、注意しなければならない。アルスの聖司祭は、司祭になる準備として懸命の勉強をやりぬいたし、また、ミサの説教のために、長い時間をかけて準備したのである。後にかれに与えられた異常な光は、かれの聖性のたまものであるばかりでなく、自分の信仰を養い照らすために払った、必死の努力の報いであるとも考えてよいのである。 以上、述べたことから必然的に出てくることは、今日、霊的生活を広く普及させるためにのりこえるべき第一の障害は、宗教的無知であって、この無知は、現代の最も重大な不幸の一つである、と言えるであろう。 宗教的無知のために、闇の中にいるのは、福者の光に照らされていない何億かの異教人だけではない。私たちのすぐそばに、私たちの都会の中に、そして、あらゆる知識の普及を最大の関心事としているところにおいてさえ、やはり何百万という知識人が闇の状態にとどまっているのである。 教養のある人びとにもこの無知を免れていないと私は断言して憚[はば]からない。無信仰者と自称している教養人の大部分は、啓示の真理をほとんど知らない。宗教的な務めはまだ忠実に果たしている人びとはといえば、あまりにもしばしば、かれらが以前受けた養育のうち持ち続けているのは、実際的倫理のいくつかの観念にすぎず、霊的生活を養いうる教義的観念は、ほとんど持っていないか、あるいは全然持ち合わせていないのである。まわりの人たちと同じように、かれらは勉強にも行き、自分なりの務めも果たし、やがて、法律家、実業家、医師、商人、教授、芸術家等々ともなれば、それにふさわしく考え、行動し、生活もする。ときどき、いや、おそらくは規則正しく、宗教の外面的な義務を果たして、キリスト信者らしい態度を示すであろう。しかし、少年時代をすぎてからは、啓示の真理と実際に触れ合ったことなど、決してない |
のである。かれらは、できあがった人間としての知性をもってそれら啓示の真理を考えたことが一度もなく、自分の魂と個人的生活とをキリストの光のもとにてらし合わせたことも、一度もない。こうして、かれらの宗教的教育、キリスト教的生活は、その一般的教養や職業教育に比べて、じつに低い程度に留まっている。その結果、かれらの心の中には自然的なものが入り込み、支配し、超自然的なものが姿を潜めてしまう。もちろん信仰は残っているし、伝統に支えられたキリスト教的習慣も残っているが、深い生命がない。光のない、したがって、力のないかれらのキリスト教は、思想や、人間としての行動に、現実に影響を与えることができない。 信仰が魂のうちにいつも生き生きと脈うち、生活の中で実際に効果をあげているためには、それはじゅうぶんに照らされ、じゅうぶんに強くなければならない。そうであって、はじめて信仰は、信仰をおびやかすあらゆるもの、信仰をおしつぶそうとするあらゆる圧力に対抗することができるのである。信仰を照らす光が、その信仰の持ち主の知的な力や教養に比例するのでなければ、信仰はその人の中で、自分の役割を果たすことはできない。もし信仰がこうした、適当な程度に養われないならば、滅びを免れないだろうし、まして、深い霊的生活の支えになるなどは、とうてい望みえないのである(注)。 |
注 この宗教的無知は、一見、きわめて奇妙な現象を生む。たとえば心のまっすぐで正しい人たちが何かの出来ごとがあったり、心の不安にかられたりして、霊的生活への深い要求をおぼえ、それを満たすために東洋の宗教に赴く、ということである。それは、かれらが長年親しんだ宗教、自分がその洗礼を受けた宗教であるキリスト教の深い生命を全く知らないからである。魅惑的な、しかし濁った泉の水を飲んだあとで、キリストのあふれるばかりの豊かさを見いだすのは、かれらによって、幸いな、しかし、しばしば「あまりにもおそかった」ことをなげく驚きであろう。 |
U 「生きた書物」、イエズス・キリスト本の選択にあたっての基本的な原則を、聖テレジア自身にたずねてみよう。 |
一五五九年、スペイン宗教審問官は、そのころ台頭し始めていた照明説[イルミニズム]を抑えるため、スペイン語で書かれた霊的著書の大部分を読むことを禁じることに決定した。この過激なやりかたは聖テレジアを深く悲しませ、聖女はそれを、やさしく主に訴えた。 「カスチリヤ語で書かれた多くの本を読むことが禁じられましたとき、私はたいへん悲しゅうございました。なぜなら、そのうちのいくつかは私のためによい気晴らしになっておりましたが、許しのある本はみなラテン語のものばかりで、私はもう読むことができませんでしたから。みあるじは『このことを悲しんではならない。私は生きた本をおまえに与えよう』とおっしゃいました。そのとき私は、なぜこういうことが自分に言われたのかわかりませんでした。まだ示現のお恵みをいただいておりませんでしたから」(伝26・5)。 このときから聖女に、キリストの人性のヴィジョン(示現)が始まる。初めは知的な示現で、目には何も見えない。けれども……と聖女は書いた。 「イエズスは私のすぐそばにおられ、お語りになるのは彼であることがわかったように思われました。……いつもイエズスが私のそばについて歩んでおられるように思われましたが、どういうお姿かはわかりませんでした」(伝27・2)。 「何日も、そして、時には一年以上も」(城、住6。8・3)続く主のこの現存は五官では捕らえられないが、「五官によるより、はるかに大きな確かさで」(同上)心にはっきりと、確実に感じとられ、「たまらないほどの恥ずかしさと謙そん、神についての特別な認識、いと高きおん者に対するこよなくやさしい愛を生じさせ、少しも気を散らすことなく、いつも注意して、絶えず心を目覚めさせておく」(同上)のである。 その次に、想像的示現が起こる。それはい’な’ず’ま’のように一瞬で消え去るものであるが、栄光のキリストの、えもいわれぬ美しいみ姿が脳裡に刻みつけられ、聖女は、それが消え去ることは不可能であると考えている。 「知的な示現は、たしかにもっと高いものですが、この示現(想像的示現)のほうが、私たちの弱さにはもっとふさわしいという利益があります。それは記憶にたいへん助けになりますから」(伝28・9)とかの女は記した。 聖テレジアの魂に向かって開かれたこの生きた書物によって、聖女はすばらしい |
教えを受けたのであった。 「みあるじのえもいわれぬ美しさを見るお恵みをいただいて以来、そのみあるじに比べては、私にとって魅力があり、私の精神を奪えるような人は、ひとりもありませんでした……」(伝73・4)。「主を見奉り、これほど絶えまなく主と語り合うお恵みに浴して、私の主に対する愛と信頼は非常に大きくなって行きました。主は神でおありになると同時に、また人でもいらっしゃる、そして人間の弱さに別にお驚きにならないということを私は悟りました」(伝37・5)。 これらの示現は聖テレジアの霊的生活の上にきわめて大きな影響を及ぼした。このとき以来、かの女は念祷のとき、キリスト以外のものを求めようとはしなかった。 十字架の聖ヨハネも、「カルメル山登攀」の中で、それと同じことを教えている。かれは、神に問いかけるのに、ふつうでない方法によるべきでないということを示すために、ヘブライ人への書簡を引用する。「神は、何度も、いろいろな方法で、その昔、預言者を通じて、先祖に語られたが、このおわりの日々には、……その子を通じて語られた」(ヘブライ1・1−2)。 そしてこのことばを、十字架の聖ヨハネは次のように説明している。 「神はそのみことばであるおん子を私たちにお与えになった以上、それ以上に私たちに与えるべきことばをお持ちにならない。神はこのただひとことで、一時に、そして一挙にすべてを私たちに語られた。……あなたの目をただおん子に注げ。そうすれば、そこに、おん子のうちに隠されている最も深い神秘、上知の宝、神のふしぎを見いだすであろう。使徒パウロが『そのうちに神の上知と知識の宝が秘められている』と言っているとおりである」(登第2巻22・2)。 すべての霊的な知識はイエズス・キリストの中におさめられている。かれこそ、永遠のみことばであると同時に、時間の中に発せられたみことばであり、また、この世に来て、すべての知性を照らす光、私たちの暗黒の中に輝き、私たちが迷う恐れなしに従って行くことのできる光であるから。 このように使徒パウロは、キリスト──十字架につけられたキリスト以外のものを知ろうとは思わない(コリント前2・2)。そして、イエズス・キリストを知るということのすぐれた価値に比べれば、すべてのものは損だとさえみなす(フィリッピ3・8)。 |
そして、かれの愛する信者たちのためにも「キリストの計り知れない愛を知り、みちみてる神によってみたされること」(エフェゾ3・19)以上のことを望むことができない。 魂の飛躍によって、神の上知のほうに向かった聖アウグスチヌスは、次のように告白している。 「私はあなたをたのしむために充分な力を得る手段を捜し求めた。しかし、神と人間との仲介者、人間であるキリスト・イエズス(ティモテオ前2・5)をこの腕で抱く日までは、私はそれを見いださなかった」と。 これらのことばも、イエズスご自身の断言の注釈にすぎない。 「永遠の生命とは、[父よ、]唯一のまことの神であるあなたと、あなたがおつかわしになったイエズズ・キリストを知ることであります」(ヨハネ17・3)。 「私は門である。私を通って入[はい]る者は安全に出入[でい]りして牧草を見つけるであろう」(ヨハネ10・9)。 キリストが万人共通の唯一の仲介者であるという教義が、聖テレジアの霊性の中で占める重要な地位を、私たちはすでに見たが、この教えは初歩の人に、きわめてはっきりとした不動の義務を負わせる。つまり、時を移さずキリストに学ぶこと、そして、この生きた本の中に、初歩の人に欠くことのできないあらゆる霊的知識を捜し求めること。 この本を聖テレジアの魂の目の前に開いてみせた示現は、かの女に、復活したキリストの美しさ、受難のイエズスのいたましく、威厳ある姿をありありと示し、キリストの面影を記憶に深く刻み込み、かの女を愛の炎で燃え上がらせ、受肉されたみことばの、人間としての霊魂と神性との神秘の深みについてかの女に教えた。この示現は数週間も、数カ月も続き、それによってイエズスと聖テレジアとの間に、あの畏敬にみちた生き生きとして親密な関係が生まれたのであって、この関係こそ、潜心の念祷とその土台である「イエズスとの単純で絶えまない一致」についての聖女の教えの鍵となるものである。 示現がない場合は、学問がその代わりとなるべきである。しかし、イエズス・キリストについて生きた知識を与えるのでなければ、学問は、こうした役を果たすことは |
できないであろう。潜心の念祷の糧となるもの──つまり、イエズス・キリストとの絶えまない、そしてやさしい愛情のこもった親しさ──が、私たちの日常生活のうちに生み出され、続いてゆくためには、生きたキリストを知り、その生活されたとおりにかれを見、内的外的のどんな状況のもとに、どのようにキリストが行動し、語られたかを知る必要がある。また、感覚から知性の深みに至るまでの私たちのあらゆる能力が、この生き生きとした具体的な知識で満たされていなくてはならない。 それで、啓示と神学が、キリストについて、その神性について、またキリストの人性、および、その人性をみことばのペルソナのうちに生存させた位格的結合、キリストの仲介、その司祭職について、教えることを修めるように努めなければならない。 イエズスがその仲介のわざを果たすのは、「神なる人」としてであるからには、私たちはその聖なる人性に向かってこそ、愛情のこもった探究心を向ける。キリストの身体の完全さ、その美しさ、その感受性。その霊魂の豊かさ。その知性を彩っていた三重の知識、すなわち、直観的、注賦的、体験的、という三つの知識。また、あふれるばかりでありながら、同時に美しい秩序を保っていたその想像力と感覚のこと。キリストの意志の力と、その驚くべき自己支配、またキリストの全存在とその生活に見られる調和ある均衡と、すばらしい完全さ。さらに最後に、キリストの周囲、その住まれた国、キリストの地上での生涯がそこにくりひろげられ、キリストの苦悩と死を通してその決定的な勝利への道となった物的、霊的な状況について知ろうとする。 キリストについて、このように生きた、そして深い知識を得るためには、キリストご自身や、その歴史、ご生涯についての最もすぐれた著書を、ただ思弁的に学ぶだけでは足りないことは、うなずかれるであろう。そのためには、どんな些細なことにも関心を持ち、一見重要でないことばや挙動も採[と]りあげて、そこに深い意味を読みとる手がかりとし、そのようにして、愛するものの姿の、すでによく知っている特色を日ごとに鮮やかなものにしながら、新しい豊かさを見いだし、さらに深い親しさの中にはいって行く愛の「絶えまない心づかい、倦むことをしらぬ堅忍、非凡な洞察力」が必要である。 こうして信仰と愛は一つとなって、神が私たちに啓示しようと望まれるものを、「上知と知識とのあらゆる宝が隠されている」(コロサイ2・3)この生きた書物、 |
キリストから汲みとるのである。 ここでとりあげている初歩の人の場合、愛はまだ、じゅうぶん直観的にとらえる力を持たず、信仰はまだ弱い。それなら、彼はどのようにして、イエズス・キリストから学ぶことができるか。それは良書を読むことによる。──つつましく、完全とはいえない方法ではあるが、初歩の時には不可欠なものである。 V 本の選択本の選択は次の基本的な真理、すなわち、すべての霊的知識はキリストの中に含まれており、キリストにおいて私たちに啓示されているという真理に基づいて行なわれなければならない。霊的な書籍は、ただ、イエズス・キリストを明らかにし、私たちをキリストにまで導くことができるというだけのものであり、また、それだけであるべきである。読書は、キリストについての知識を私たちに与える程度に応じてのみ、有益である。これが本の価値を決めるに当っての、私たちひとりひとりの実際的原則であり、これが本の選択の手引きとなるべきものである。A 聖書イエズス・キリストを見いだそうとする願いは、まず第一に私たちを聖書へと導き、それを、「読み、かつ黙想すべき第一の書物」とする。 聖書の持つ比類ない価値は、その主[おも]な著者が神であるという点にある。聖霊は、その望むところを、望むままに、私たちに語るために、ひとりの霊感著者の、人間としての自由な働きを用いた。みずから誤ることもなく、また私たちを欺くこともありえない神の真実性が、聖書の提出する真理とその表現に誤りがないことを保証する。それで、霊感によることばは、神の真理そのものを、人間のことばで最も確実かつ完全に言い表わして、私たちに与えるのである。光の中で神と一致しようと望む観想者にとっては、聖書は測り知れない価値を持っている。というのは、聖書はかれに、人間のことばという外側をかぶった神のことばそのものを与え、かれを「みことば」と |
一致させ、そのみことばの光の、人を変化させる働きかけにかれをわたすことになるからである。 聖書を神の書物とさせているこうした超越的な価値の上に、聖書にはほかの価値があり、それらはもっと低い段階に属するものではあるが、最初の価値の適切な補いとなっている。 そこに扱われている事がらの興味、役立ち、高さ、多様さの点からも、また、そこにくりひろげられる芸術、詩という点からも、聖書に匹敵しうる本はない。 事実、聖書は人間の起源とその不幸な出発について物語り、真の神の礼拝を守って、救い主の到来の道を備えるために選ばれたヘブライ人たちの、驚異的な歴史を知らせてくれる。広大な歴史のパノラマ、素朴な、あるいは悲壮な個人の伝記、力強いヴィジョン、人間の智恵と神の上知の実際的な教えを集めた格言などとともに、そこには、およそ人間が口にしえた最も真剣で信頼にみち、最も謙虚で崇高な祈りが見いだされる。 けれども、私たちが聖書の中に何よりも求めるものはイエズス・キリストである。すなわち、救い主としてのかれの仲介があらかじめ告げられた人祖堕落のあの瞬間から始まり、神の真理を啓示するみことばとしてのその使命を、使徒たちを通じて完了するその時までのイエズス・キリストを求めるのである。キリストの地上での生活は、福音史家たちの飾り気ないことばを通じて語られているのであるが、かれらはキリストのことばをそのまま私たちに繰りかえし、キリストの行動を語り、かれらが目[ま]のあたり見た多くの事件を通じて、キリストのいろいろな態度まで描写している。かれら福音史家のおかげで、二十世紀をへだてた現代においても、いかに著名な人にしても、キリスト以上にたやすくそのことばやその生き生きした面影を再び見いだすことのできる人はいない。またキリストほど、私たちにとって親しさを容易にし、その親しさを強く望ませる人は他に見られない。 また仲介者、司祭、救い主であるキリスト──その生命は、かれらがその頭である神秘体のすみずみにまで流れ込んでいるキリスト──の神秘については、使徒聖パウロがその比類ない教えの力強い光明を投げ、キリストの神秘の深さと豊かさとを私たちの目に示してくれる。 |
神とキリストについて私たちの知恵を照らし、私たちの黙想に本質的な糧を与え、イエズスとの生き生きとした触れ合いの道をひらき、イエズスとの親しい交わりを生み出すという点で、聖書にならびうるものはない。聖書は初歩の人に適した魂の糧を与える。また完成した人は、聖書以外の本を欲しない。なぜなら、聖書は彼の魂にとって、常に新鮮な光と、常に糧となる味わいとにみちたことばを与える唯一の本だからである。 それゆえ、観想的な人であって、聖書に心から親しまない人はひとりもいない。大聖テレジアは聖書の章句ほど深く潜心させるものは他にないことを認めている。幼きイエズスの聖テレジアは、いつも聖福音書を肌[はだ]身離さずたずさえ、その中に「よき神さま」の性格をさがし求め、偉大な預言者イザヤのうちに、最愛のキリストの悲しみに満ちた面影を見るのであった。沈黙と暗黒の観想の中に生きた三位一体のエリザベト修女は、常に聖パウロがその伴侶であった。 しかし、キリスト者の中で、教養あり信心深い人々であっても、聖書から糧を得ている人はきわめて少ない。 このように聖書をなおざりにすることと、ときには聖書に不信を抱くことを、弁解するのではないにしても、とにかく説明として、かれらは、聖書の物語があまりにも素朴で、私たちの、もっと清いとはいわないが、もっと洗練された生活感覚にはそれが粗野にかんじられることや、また聖書の文章の不同、不完全な翻訳、特に、その構成を支配している東洋的な着想と、西欧の素質との相違から起こる理解のむずかしさをもち出したりする。 しかし聖書の中から霊的生活のための光と糧とだけを求めようとする人にとっては、もし適当な注解書と入門書とを用いるなら、こうした難点は大部分、消えてしまう。現代は、少しの努力で意味がわかるようになる、すぐれた注解書がいろいろある。数カ月も勉強すれば、もう、聖パウロの書簡というくみつくせぬ光の源泉から、じかに汲みとることができるとすれば、それは念祷をする人にとって、なんというすばらしい、そして実り多い報いであろうか。 幸いに数多く出版されて、福音書にすばらしい照明を与えているさまざまの「イエズス伝」を、念祷する人はよく読んで、それで養われなければならない。というのは、 |
そういう本を読むことによってイエズスと親しくなり、霊魂のうちに念祷の生活にふさわしい雰囲気が作り出され、また念祷生活のために特別に効果のある準備ができるからである。 聖書の注解やイエズス伝は、私たちを聖書そのものへと導いてくれるものでなくてはならない。聖書のみが神ご自身のことばを与えるもの、それのみが神的な汲み尽くしがたいものである。聖書を味わう、特に念祷のときに聖書だけで満足できるようになったならば、進歩したしるしである。 B 教理的な本助祭フィリッポが、カンダケの宦官に、かれの今読んでいるイザヤ書の、救い主についての個所がわかるかとたずねたとき、宦官はこう答えた。「だれかが導いてくれなければ、どうしてわかりましょう」と(使徒行録8・31)。 たしかに聖書には注解が必要である。それも、ことばの意味を説明するものばかりではなく、聖書に含まれている「光りなるキリスト」をとり出して見せる、もっと広い深い注釈が必要である。これは啓示された真理を分析、解明、整理、説明する神学の役割である。 教会の誤ることのできない教権はわたしたちの信仰箇条として、最も重要な真理を提示するのに対し、一方、神学者は啓示についてたゆみない研究を続け、啓示された神秘の中から私たちの知性のために新しい光をほとばしらせ、またそれを一段と正確な形へと説明し直そうとするのである。決定的な教義[ドグマ]と、神学的真理は、人間のことばをもって類比的に、みことばの光を言い表わす。私たちの信仰がみことばそれ自体に向かってのぼり、そこに到達するのは、そのようにあらわされた教義と真理とを受け入れることからである。霊的生活の初めのころには特に、この教義を受け入れ、真理を研究することが必要であるということについては、すでに触れた。したがって、ここでは、念祷の見地から教義的な真理の研究をどのように進めるべきかを示せばよいであろう。 A、第一に必要なことは正統性である。教会が保管し分配する真理のみが、霊魂の |
本質的糧となり、神に至るのに必要な堅固な支えとなるのである。これに反し、どんな些細な点についてにせよ、神学的な誤りは、非常にまちがった行動に導くことがある。聖テレジアは、生半可な学者たちの、ある種の誤った証言がかの女にどんな害を与えたかは、口で言いあらわすことができないと言っている。実際、誤った、もしくは、じゅうぶんに照らし導かれなかった霊的経験のために、歴史上にあらわれた多くの霊性の動きが道をふみはずしたのであった。 この点についての心遣いは、細心なまでに行なわれなくてはならない。幼きイエズスの聖テレジアは、ある本の著者が、その教区の司教に従順でなかったということを知ったとき、もうその本を読みつづけることをやめた。 B、霊的な道の初歩の人は、その全般的な、また宗教的な教養がどうであっても、きわめて単純な形の教義書──飾りけのない表現で、真理の光を少しも弱めずにそのまま全部映し出している本、たとえばカトリック要理のようなもの──に向かうのがよい。というのは、事実、信仰はその対象である真理の中に深くつき進んで行くときに進歩するのであって、人間的なことばの美しさに心をとらわれることによってではないから、生き生きした信仰にとっては、文学的修飾や多弁はその飛躍をとめてしまう障害物、その宝を隠してしまうじゃまな外皮となるからである。ふつう、神のみことばの輝きをいちばん清く明るく映すのは、最も単純な表現である(注)。 |
注 ここでいう最も単純な表現とは、最も平凡な、最も生彩に乏しいものという意味ではなく、それが表現しようとする真理を浮き彫りにするために、表現自体は、いわば消ええてしまうようなもののことである。 |
C、しかし、こうして単純さを求め、また深さを追う信仰の歩みは、教義的知識のひろさの展開を限ってしまうものであってはならない。教義の一つ一つは神のみことばから発する光線である。その一つをも無視する権利は私たちにはない。教義の一つ一つが私たちにもたらす豊かな光と恵みのほかに、愛のこもった目は、それらの全体の生きた総合のなかにこそ、みことばそのものの、最も正確な表現を見いだすのであるから。 |
D、ある一つの教義が、ある人にとって特別な恩恵の源となり、それが、神へ赴くための、かれ独得の道として、明るい光線を投げてくれるということは、まれではない。このような光は、たいせつに受け取らなければならない。本人の教養がどんなであっても、深く学んでその心理を掘りさげ、そこから、糧となるあらゆるものを取り出さなくてはならない。 同様に、ある時代の神学者や信者たちを、何か一つの教義、たとえば、今日において、教会についての教義とか、聖母の神母性の特典とかに向かわせている動きに反抗すべきではない。それは教会を導き、教会の歴史のあらゆる時期に教会の要求に即した光を与える聖霊にさからうことになるからである。 E、念祷をする人の、教義についての教養は、広く、かつ深いものでなければならないのは明らかである。その程度を決めるものは、普通は、その人の全般的な教養、あるいはそのひとに与えられた恩恵が特別に求めるものによるのであるが、この要求は、霊的生活の時期によって異なることもありえる。賢明な指導をうけることによって、それを見定めたらよい。忠実な人のためには神が摂理的な状況を通じて、みずからとりはからわれることも、まれではない(注)。 |
注 この摂理の働きは、十字架の聖ヨハネの生涯中に、はっきりと現れている。聖ヨハネはサラマンカの大学できびしい勉強をへた後、デュヴェロに赴いた。ここで観想的カルメル会のきびしい修練を終わり、パストラナに修練院を建て、そののち、アルカラの神学院長として、ふたたび研究にもどった。この間にアビラにおける長い沈黙(一五二七−一五七七)に備えてじゅうぶん光をたくわえたが、この沈黙はトレドの牢獄で終わる。霊的婚姻に達し、体力も回復してバエザの神学院長に任命され、同地の大学教授たちが、しばしば修院にかれを訪れた。こうして教義的真理との新たな触れ合いは、聖ヨハネのすべての大著作を生み出す文学的に豊かなみのりの時代を開くこととなったのである。 |
神学を普及させるための書物は、現代、たくさんあり、それだけに教義的な教養を身につけることはやさしくなっている。これは喜ぶべきことで、私たちはただそれを利用しさえすればよいのであるが、自分の一般的な教養と必要に応じて本を選ぶこと、そしてむやみにいろいろの本に頭[あたま]を突っ込んで、精神を散らさないことが条件である。 |
そして、もし、できることならば、神学の王、聖トマスと取り組むようにするがよい。その充実した、しかも地味なことばは、行間を読みとる者に、深い教義のすぐれた糧を与えてくれるであろう。 最後に教会の教父たちの書物が挙げられる。神学者であり、観想家であるこれらの偉大な師たちの本を読むとき、私たちは聖なる知識とキリスト教的生活との最も純粋なみなもとに触れるのである。 C 霊性の書イエズスは、ご自身を、真理であるとともにおん父に至る唯一の道であると言われた。キリストというこの道は、私たちにとって明るく照らし出される必要がある。そして、この役目は霊的生活の師たちが果してくれるのである。かれらは福音の教えや勧めを説明し、徳をおさめるために必要なことや、徳の実行の方法などをはっきりと示し、キリスト教的完徳の頂上へとつづく小径[こみち]を、神学的な光と体験的な知識とで照らしてくれる。 この小径はたくさんあり、さまざまな霊性が、それについて書いている。私たちとしては、どうしてその中から選べばよいのだろうか。通常、何かはっきりした好み、あるいは摂理的な事情によって導かれるものであるが、時には探求が必要である。 普通の場合、いろいろな霊性の簡単な研究が大いに役にたつ。その一つ一つが何か特殊な点について、たいへん有益な助言を与えてくれる。イグナチオ学派の人びとは、修徳の重要さと、その実践法とを教えてくれるであろう。ベネディクト学派は敬神徳や典礼の霊的価値について教えてくれる。聖テレジアと十字架の聖ヨハネとは、念祷に対する心からの尊敬と愛とを教え、私たちの霊的生活の視野をひろげてくれる。このようにあらゆる霊性を一巡することによって、あまりにも狭く早熟に特殊化してしまうことに伴いがちな、霊的奇型を避けることができる。 一つの学派の長になるような人びとは、あらゆる霊性から汲みとり、そこで学びえたもので豊かにされた後、自分の使命の恩恵によって、かれら独自の霊性をつくり |
あげるのである。聖テレジアもこのように、まずイエズス会士、ドミニコ会士、フランシスコ会士、などに指導され、そこから受け取ったすべてのものを、かの女のカルメル会的な恩恵の上に接[つ]ぎ木して、テレジア的精神という生きた総合を作りあげたのであった。幼きイエズスの聖テレジアも現代のあらゆる霊性に触れたからこそ、カルメル会の太祖エリア、カルメル会の博士十字架の聖ヨハネの娘としての、かの女のうけた伝統的な雄々しい恵みを、現代人の魂に向くように、いわば、詩と香りで包むことができた。 けれども普通は、人はいろいろな霊性との接触によって、自分の道を見いだすことができるものである。 この特別な道が見つかったならば、その霊性の深い研究、ならびに、その長である聖人たちと親しむことが必要である。そして、見いだされた理想は、霊魂の全エネルギーを集中させ、そのエネルギーの力と豊かさとを最大限に発揮させるものでなければならない。 個人の完徳も、教会全体の善も、そこにかかっている。この道においてこそ、人は自分の聖化のために神が準備された恵みを見いだす。自分のものとして示されたその場所で教会に仕えることによってこそ、教会全体の善益のために最も効果的に貢献できるのである。肉体の健全さが、すべての器官が調子よく働くことに依存するのと同じように、教会の完成のためには、信者のひとりひとりが、教会内での自分の位置を守り、自分に与えられた役目を果たすことが必要である。あらゆるものを味わうために、あらゆるものに触れようとする移り気の道楽気分[ディレッタンティスム]は何ものも生み出さない。自分の召命をひとすじに極めることが、仕えるための最も効果的な道である。 しかし、このように一つの召命または一つの霊性を専門としても、各自の個人的な使命や恵みはそのまま残っている。神の恩恵は、一つの光のもとに多くの形をとる。また、聖霊の微妙な注油は、きわめて多様なものであるから、同じ環境、同じ影響のもとにあっても、十字架の聖ヨハネが言うように、ふたりの人が半分でも似ていることさえないのである。それで、自分の道を見いだし、それを歩むために霊性の研究が必要ではあっても、結局、イエズス・キリストというこの道によって私たちを神に導くものは、聖霊ご自身である。 |
D 「私は道、真理、生命である」イエズス・キリストは神的生命の源泉──すなわち、何よりもまずキリストの聖なる人性の中にみなぎり、それを完全に残るくまなく支配し、この人性を「恩恵が絶えまなくほとばしり出る泉」、また「その行ないの一つ一つが、倫理的ならびに霊的秩序における掟を構成し、決定する完全な模範」とさせるところの、神的生命の源泉である。 キリストのこの生命は、歴史のあらゆる時代を通じて教会の中に続けられ、さまざまな活動のうちに表われる。その受けた洗礼によって「不死の教会」の子どもではあっても、地上の生命と、その受けた使命によっては、ある一つの時代の教会に属するキリスト信者にとって、世紀から世紀へと教会の中に伝わるキリストの生命を学び知り、自分の時代においてこの生命を深く生き、この生命の外的な働きや内的な感激、喜びと試練、要求と意向などを知って、それらを自分のものとすることは、義務である。「イエズス・キリストの心を心とせよ」(フィリッピ2・5)。使徒のこのことばは教会のなかのキリストという意味に解さなければならない。 何か定期刊行物や、時事問題をとり扱った本などを読むならば、教会の子としてのキリスト教的視野の中に内的生活を位置づけて、この生活を深めるのに役だつものである。おそらくはメディナの定期市へ来る商人たちがスペインにもたらしたと思われる、フランスの宗教戦争の物語、それよりもさらに、フランシスコ修道会の西インド査察使と話して、同会修道者らが宣教に当っている土民たちの悲惨な精神状態を聞いた聖テレジアが受けた、あの大きな影響を考えてみるとよい。これらの物語は、教会の娘としてのかの女の召命を明らかにさせ、かの女の熱望を燃えあがらせ、その目の前に広大な視野を開いたのであった。 キリストから流れ出る生命は、特に聖人たちにおいて輝かしい勝利をおさめる。この生命は、恩恵の豊かさと力強さとを、聖人たちのうちに誇らかにひろげ示し、私たちも知っている困難に打ち勝ち、私たちにも払わせたい努力をくわしく描き、また、私たちに保証する喜びと勝利とを示して、より身近かな人間的な形のもとに、私たちに |
生き生きと示されるのである。 聖人たちの生活は、福音の教えと、かれらの霊的教説とを説明し、補足し、それを正確にわからせてくれるものである。教説のうちにたてられている諸原則の価値や、さまざまな場合へのその具体的な適用、また全体としてのつり合いなどは、ときとしては「その聖人」の行ないのうちにしか表われない。十字架の聖ヨハネの厳しい論理は、かれがまわりにくりひろげる甘美な愛を知った人には、人間らしいやさしさに包まれて見える。一方、幼きイエズスの聖テレジアのほほえみは、試練に堪えるかの女の忍耐や、修練女に対するかの女のきびしい要求を知るとき、その下に隠されているたくましさを、かいま見せてくれる。 よく知られたことわざ、「ことばは動かし、模範は引き寄せる」に見るとおり、模範は匹敵するもののない魅力で引きずって行く。読書の静かなよろこびを通じて霊魂に注がれる力に加えて、聖人の伝記においては、その聖性によって与えられる超自然的恩恵がある。聖テレジアは、聖アウグスチヌスの「告白録」を読んだことが、かの女の生涯に及ぼした決定的な影響について語っている(伝9・7)。 キリストについて書かれた注釈は、種類も数もたくさんある。もちろん、それらはキリストのうちにある光と上知との宝を汲みつくしてはいまい。けれども人はこういう書物を通じて、だんだんとこの宝を自分のものとしてゆくのであり、特に、生きたキリストという書物を読むようになれるのである。霊的生活の発展の途上では、読書の影響は大きい。したがって、よく注意しながら、信仰の精神と堅忍とをもって読書に努めることが必要である。 |
「この試練は私にたいへん辛いものでしたので、あなたがたに
とっても同じではないかと思い、ここでそれについてお話し
するわけです」(城、住4。1・13)。
潜心の念祷について、聖テレジアは次のことを指摘している。 「悟性の働きなしでするこの方法の特徴は、霊魂はすっかりそこに没入しているか、あるいは反対に、どうしてよいかわからないことです。どうしてよいかわからないとは、つまり、散心のことです」(伝9・5)。 実際、どんなに生命のかよった方法も、きちんと順序だった祈りも、一生懸命する読書と同様、念祷中の散心と無味を防ぐことはできない。 重い試練、しかもそれは、無知のために、さらに苦しみと危険を増すものであることを聖女はまた指摘している。 「この不幸は、私どもがあなた(主)のことを思うことのほかにも、まだ知るべきことがあるということを考えず、学者にそれをたずねてもみず、またたずねる必要があるということさえ、考えないところから起こるのです。私どもは自分をよく知らないために、ひどく苦しみます……。念祷を実行している人の多くが落ちる悲しみの原因はこれです。かれらは憂うつ症になり、健康をそこない、遂には何もかも投げ出してしまうようになります」(城、住4。1・9)。 この非常に重要な問題について知識を得るために、「散心」と「無味」の性質と原因を研究し、これに対処するよい方法を見つけてみよう。 T 「散心」と「無味」とは何か「集まる」と「散らばる」とは、相反する形容詞だと、だれかが言ったのは正しい。心を集中するのは、祈りの一つの条件である。したがって、祈りの中での「散心」とは、ふつう「潜心」と正反対のものを意味している。祈りにおける「潜心」は、何か一つの超自然的現実に私たちの機能の働きが集中することであるのに対し、「散心」 |
とは、機能の一つ、あるいはその全部が、ほかの対象のほうにそれてしまって、そのために潜心がだめになることである。 しかし能力の一つ、あるいは、そのいくつかが、わき道にそれることが、必ずしも、いつも散心だとはかぎらない。この点について聖テレジアは心理分析を勧めているが、それは、「散心」が何であるかを正確にとらえるのに役だつであろう。 聖女は自分の心の中で、いろいろの能力が八方に散るのをひどく心配して学者たちにたずねたところ、散心や、また、霊魂のそれぞれの能力が互いに無関係に自立して働くことについて、経験的に知ったことが正しかったのを確かめられた。 「私は、ときとして考えの騒ぎまわるのにひどく悩まされました。そして、今からようやく四年あまり前に、考え──もっとわかりやすく言えば想像──と知性とは同じものではないということが経験でわかったのです。それで、ある学者のかたにうかがってみましたところ、そうだとお答えくださいましたが、そのお答えは私にとって、小さな喜びではありませんでした」(城、住4。1・8)。 霊魂の能力はそれぞれ独立の働きを持つ。そして、そのうちのあるものが潜心から脱線しても、潜心それ自体はこわされないでいることができる。──これが聖テレジアを慰めた真理である。 では、脱線をしても、ただ、うるさいだけで、心を散らさせることにならないですむ能力とは、どれであろうか。 まず第一に、外部感覚と内部感覚とは、潜心それ自体がこわされることなしに、いろいろな印象を受け取ったり、感じ取ったりすることができる。たとえば、私は田舎を散歩しながら、見なれた景色をながめ、小鳥の歌を聞き、ある種の体[からだ]の痛みや心の悩みを感じつつ、こうした感覚や知覚とは全く別の何か福音の事がらについて念祷を続けることができる。感覚の圏外に出ていることは、潜心においてしばしば起こることである。「霊魂の城」を書きながら、聖テレジアは次のように言っている。 「これを書きながら、私は自分の頭[あたま]の中に起こっていること、つまり、初めのところでお話した、あのやかましい音──それは、書くようにとのご命令の実行を、ほとんど不可能にしたほどのものでしたが──に、じっと注意をこらしています。まるで私の頭の中には、あふれるような川がたくさんあるとしか思えませ |
ん。でも一方また、川の水が激しく流れ落ちるような、あるいは無数の小鳥がジージー叫ぶような音が聞こえます。べつに耳に聞こえるのではなく、頭の上部に聞こえるのです。……でもこの騒音がいくらやかましくても、それは念祷にも、また今ここで言っていることに注意を注ぐのにも、妨げになりません」(城、住4。1・10)。 また、その働きが感覚と密接に結びついている想像力も、霊魂を、超自然的現実の中にとどまらせたままにしておいて、自分だけは、そこを逃げだしてしまうことがある。 この微妙な問題に幸いな光を与えてくれる聖テレジアの経験に耳を傾けよう。 「一方では私の霊魂のすべての能力が神のうちにのみ込まれ、神のうちに集中しているように思われるのに、他方では考えがとりとめもなく、はせまわるのに、私はただ呆然としていたものでした」(城、住4。1・8)。 では、「単純でまっすぐな視線で見透す知性」とは対照的な悟性、つまり「推理する知性」は、どうであろうか。 意志が静穏の念祷のうちに、こころよくとらえられ、神を味わっているとき、悟性は落ちつかないで騒いでいると、聖テレジアは指摘している。 「ほかの二つの能力(悟性と記憶)は意志を助けにきて、このような大きな宝(静けさ)を楽しむよう、これを準備します。けれども、時として意志は神に一致しているときでさえも、この二つの能力が、意志の楽しみを分け与えてもらえるかと行ったり来たりするために、たいへん邪魔されることがあります」(伝14・3)。 霊魂の能力がそれぞれ独自に働くことを証明するために、今まで引用して来た聖テレジアのことばは、すべて、はっきりとした観想状態を言い表わしているのである。実際、観想においては、神はその強い影響によって、一つ、あるいは、いくつかの能力を静め、他のものを落ちつかぬままに放っておかれることがある。そして、そこでは諸能力の区別がずっとはっきり現われ、体験的に感じとられる。 観想の場合、いっそう、はっきり感覚されるとはいえ、この諸機能の区別は、一つの不変の心理的事実であり、したがって霊的生活のすべての段階に存在するものである。しかし神が機能の働きに直接介入して、超自然的観想をつくりだすときは、神のこの直接介入は、この時期における潜心の法則を、目に見えて修正するという |
ことに注意しよう。 観想においては、意志だけが神の甘美な支配に堅く結びついていさえすれば、他のすべての能力が落ちつきを持たなくても、潜心のためにはじゅうぶんであるのに反し、まだ私たちのほうで働く段階では、超自然的現実が体験されるところまで至っていないため、考えるか、または単純な視線を注ぐかして、知性を超自然的現実につないでいないかぎり、意志の注意をそこに向けておくことはできないように思われる。 したがって、今、問題となっているこの能動的段階では、知性が逃げ出せば、注意も潜心も消失してしまうということになる。 それに、この段階では、諸能力の自立性はそれほど容易に知覚されないだけでなく、実際にもまだそれほど独立してもいない。したがって、感覚が何か感じたり、想像が動きまわったりすれば、知性を一つのものに向けることが、すぐ乱され、潜心もだめになる。 知性が故意に、完全に意識しながら、注意を超自然的現実からそらせて、何か他のものに向けるとき、それは「故意の散心」と言われる。しかし、意志によらず、あるいは完全な意識なしに、ふつう、何かの印象とかイメージにひかれて、そうした心の状態になるときには、その散心は意識的ではない。 潜心が念祷中のほんのわずかの間だけのことではなくなり、知性が何か一つのことに結びついていることができなくなり、また動揺しやすく、そのために、散心がほとんど普通の状態になると、それは無味乾燥の状態を構成する。この無味の状態には、ふつう、悲しさ、無気力、熱心の減退、機能の荒[すさ]み、いらだたしさが伴う。 散心は一つの苦しみであるが、無味は慰めの喪失した荒涼[こうりょう]たる状態をつくりだす。それは聖テレジアの心に最も辛[つら]かった試練の一つで、聖女は私たちを励ますため、進んでそのことについて述べている。 念祷の第一段階に当る、バケツで水を汲む「第一の庭の水やり法」について話しな がら、聖女も長い年月の間、いく度かバケツを井戸に降[お]ろしても、空[から]の まま引き上げなくてはならなかった疲れを体験したと言っている。この苦労のため に、 「もう腕をあげることさえできなくなってしまった──つまり、ただ一つのよい考えすら持つことができなかった」のである。「それで私は、ついにこの祝された井戸 |
から一滴の水を引き出すことのできたときは、神のお恵みと思いました。この苦しみはたいへんつらいものです。私はそれをよく知っています。それは、ほかの多くの仕事よりもずっと勇気を必要とするものです」(伝11・11)と聖女はつけ加えている。 私たちが何もできない苦しい状態にいるとき、慰めてくれる聖なる念祷の師の告白がもう一つある。 「私は、できるときは、こういう真理について黙想しておりました。けれども数年間は、たいへんたびたび、有益な考えよりも、早く念祷の時間が終わればいい、時計が鳴ればいいという望みのほうに、ずっと多く気をとられておりました。またたびたび、念祷をするため潜心するよりも、最もきびしいつぐのいを課せられるほうがもっと楽であったことでしょう。祈祷所にはいるとき、あまりにもひどい悲しみに捕らえられ、自分に打ち勝つために私の勇気を全部、奮い起こさなければなりませんでした。私の勇気は小さからぬものであると人にも言われ、事実、女の勇気をはるかに超える勇気を神が私にくださったのを人びとは見ました。でも私はそれを悪用しました」(伝8・7)。 無力の状態や、機能の空[から]まわりにつきまとう倦怠のための悩みは、努力してもむなしいという気持ちと、念祷の道──といえば、霊的生活ということになるわけであるが──において、全く不成功に終わったという感じのために、いっそうつのってくる。そこで、念祷の霊魂は照らされ、強められなくてはならない。そのためには、この、無味の原因と、その救いの手段について説明するのが最も有効であろう。 U 散心と無味の原因ここでは散心や無味をわざわざ招くようなこと、たとえば念祷の間に散心を追い払おうとしない怠慢、あるいは、くだらない考えにふけること、霊的読書や、念祷に糧を与えるべき準備をひどく怠ったり、生活がふわふわとして落ち着きがなかったり、ふだんいつも感覚の抑制を欠いたりすることについて検討するつもりはない。このようなことなら、救済手段を定めるのはやさしい。そしてその実行を怠れば自業自得の失敗に自分を追いやることになるのである。 |
ここでは、ただ散心に対する戦いをいっそう厳しくし、ときにはそれをむだにさえさせるような原因、したがって、人間の意志に直接由来していない原因をいくつか示すだけである。 (一) 超自然的真理というものの性格が、まず、散心と無味の第一の原因である。超自然的現実はその最も完全な人間的表現である教義形式をとって私たちに示される。教義形式は一つの超自然的真理を人間的概念によって類比的に言い表わすものである。ただし、これらの真理そのものは人間の概念よりもさらに高い次元に属するため、相変わらず神秘に包まれてはいるが。 念祷において、愛にみちた信仰は真理自身に──そしてその真理そのものは、知性にとって本質的に暗く、この地上では、ただ後になって聖霊の賜物の準経験のうちにはじめて自らを現わすのであるが──結びつく。この第一の時期では神秘はまったく暗黒のままにとどまる。 それと同時に、知性は教義の表現に結びつき、概念の意味を深くさぐり、考察し、感嘆し、味わう。最も高く、また最も美しい諸真理について、こうした努力は比類ない興味を引き起こしてくれるものである。しかし、知性の洞察には限度があり、それが捕らえることのできる光をかなりはやく汲み干してしまい、そして同じ表現や同じ光の前では、もうそれを味わうこともなく、凍結したようになってしまう。「見なれたものは色褪[あ]せる」( このように、神秘の暗さと、教義の表現に慣れることが、ふつう、無力と無味を生み出すのである。 (二) 霊魂の能力が不安定であることも散心と無味のもう一つの原因となる。 感覚的な能力、および感覚にその働きが密接に結びついている悟性は、不安定で落ちつかない能力である。意志はこうした能力を一つの対象に向かわせることができ、また、そこに結びつけておくこともできるが、意志の束縛が解かれるか、あるいは、ゆるめられるかするや否や、これらの能力はすぐ自分なりになって、それぞれの傾きに従ったり、または、外部に知覚すること、記憶に浮かぶ思い出などに誘われるままに、一見、乱れた働きに入りこんでしまう。 潜心の修行という忍耐強い訓練と努力によって、能力を意志の働きにいっそうすなお |
に従わせ、潜心の沈黙に慣らせることができるが、その性質まで変えてしまうことはできない。「第三の住居」のところで、聖テレジアも次のようにそれを裏書きしている。 「意志が潜心したいという望みを示すと、感覚はすぐそれに従い、霊魂の至聖所にはいります。また外に出はしますが、一度従ったというだけで、もうたいしたものです」(完30章165ページ)。 感覚を精神的に適応させようとする感覚の浄化も、精神の深い浄化さえも──前に引用した聖テレジアの告白がそれを証明しているように──それらの不安定な性格を抑えて決定的に従わせることはできない。 感覚的能力が驚くほど発達しながら、しかも、その溢れるような生命と熱とが完全に意志に従い、その動きのすべてが意志によって整えられているのを見いだすためには、イエズス・キリストのご人性と聖母マリアまでさかのぼらなくてはならない。 かつて人間に与えられて、低次の能力を高次の能力に従わせ、それらを神に向かわせつつ美しい調和をつくっていた特別な賜を私たちから奪って、このような無秩序をつくり出したのは原罪である。その原罪以来、諸能力は私たちのうちにおいて自分勝手な動きを持つようになり、肉と霊という人間本来の二元性がますます痛々しい内的体験のうちに現われ、それは肉の窮極の結論である死において決定的事実となるのである。「罪の払う報酬は死である」(ローマ6・23)。 罪によって傷つけられた私たちの本性につきものの、そして潜心をむずかしくさせているこの無秩序を、聖テレジアは次のように嘆いている。 「私は人祖の罪が私たちにもたらした害を忘れることができません。私たちの機能がこれほど大きな宝を完全に楽しむことができないようにしたのはこの罪のためだと私には思われます。私の個人的な罪もやはりそこに手伝っているでしょう。……ときには私の不健康も大いにそれに関係します」(伝30・16)。 (三) 聖女のこの最後のことばは、病気が念祷を妨げることがあるのを示している。そのほかに病的な性向や、性格または気質の中にくいこんでいる欠陥をつけ加えなくてはならない。 知的活動は、からだの具合のよいことや、あるいはごく軽い不快などの影響をこう |
むるものである。知的労働をする者はそれをよく知っている。これという病気があるわけではないが、一日のうちのある時間、あるいはある期間に、ある一定の知的労働をすることができず、仕事の要求される知的エネルギーの性質に応じて、適宜に仕事を分配しなくてはならないのである。 念祷における知的な働きは、“非常に高く、神秘的な真理”に向けられる。この働きが完全に果たされるためには、からだの調子がよくととのっていなくてはならない。 考えるよりも、より多く愛さなくてはならないというのは真実であるが、感受性は悟性よりもいっそう体[からだ]に密接につながれているため、直接その変化に影響されやすい。だから、聖テレジアがそれについての体験を語るのを聞いても、べつに驚くわけもない。 「このような[能力の]乱れは、非常にたびたび、からだの不調からきます。私はこの点について痛いほどの経験をしました。これは私自身、注意深く観察したことであり、また霊的なかたがたの証言で確かめられたことなのです。この地上での私たちのみじめさとはこうしたものです。私たちのあわれな霊魂、肉体の牢獄にとじこめられたこの気の毒な囚人は、体の弱さを共にしなければならないのです。自身、過[あやま]ちがあるのではないのですが、気候の変化や体液の不順などのために、したいことをなしとげることができず、あらゆる種類の苦しみが出てきます」(伝11・15)。 念祷の時間を変えると、こうした不調からのがれることができるかもしれないと、聖女はすぐに言いそえている。 念祷の道に初心者を導くために、これ以上、健全な現実主義者であり、これ以上、母親らしく心を配ることはできないであろう。 病的性向や気質の欠陥はこうした一時的な不調より、もっと有害である。 聖テレジアは、潜心を不可能にする憂鬱症の傾きや、頭の弱さに触れている(完28章)。からだの弱いため、ほんのちょっとしたショックに気が遠くなるような人たちを、聖女は念祷から遠ざけるようにしている。 現代の精神病学は、おそらく聖テレジアを夢中にしたであろうと思われる鋭い洞察力で、霊的生活の発展に非常に深い影響を及ぼしうる生まれながらの欠陥というもの |
を研究した。 臨床的ケースは殆ど完全に医術の問題である、だが、その境界線にある場合も多い。だれでもがそれぞれ、多少ともかたまった傾きを持っているということができる(注)。 |
注 ここでいう境界線のケースでは、こうした傾きは性格を悪化させるわけではなく、生活の実りを根絶するものでもない。もしこれらの傾きを消滅させることができないのならば、それに適合してゆくということがたいせつである。超自然的従順は一つの傾きから致命的な結果が出ないようにするための最良の調整法の一つである。 |
通常の活動時では、こうした傾きは、かろうじてほんの少し姿を見せるだけであるが、念祷の沈黙の中では、その力をあらわす。そのため、憂鬱症の者は絶えまなく自分を責め、懐疑家はいつも疑いに心を占められ、空想家はかけまわる想像を抑えることができない。その諸機能が始終動いている落ちつかない人は、念祷の間にその傾きをいっそう痛ましく意識し、潜心するのにとくべつな困難を感じる(注)。 |
注 「浄化」は、こうした傾きを遂にはなくしてしまうか、あるいは、少なくともそれをかなり減殺するものであるが、最初はまずそうした傾きを最高度まできわだたせるので、宗教心理のデリケートな問題がそこに生じてくる。 |
(四) 悪魔。──「散心や悟性の乱れが極端にひどくなるときには、その原因は悪魔です」と聖テレジアは言う。 この点についての悪魔の働きかけを何度も聖女は体験した。 「聖週間の間、悪魔の試みは格別のものでした。ほかの場合なら一笑に付[ふ]してしまうような、まったくつまらぬことで、悪魔は私の悟性を攻撃し、自分の望むままにそれを乱します。霊魂はもはや自分の主[あるじ]ではなく、縛られています。かれは悪魔が示すばかげたこと、いわば無益なことしか考えることができません……。ときとして悪魔は私の霊魂をまりのように投げ返して遊んでいるようで、しかもその |
手からのがれることができないように思えました」(伝30・11)。 聖女は特に「不安」ということをあげている。それが悪魔がいるしるしであり、念祷中に心を乱すものである。 「心にひどい無味乾燥が残されるのは別として、そのとき霊魂は原因のわからない不安を感じます。何かわけがわからないまま、霊魂は抵抗し、動揺し、いらだちます。……こうした不安は、ひとつの霊がほかの霊を感じるところからくるのではないかと思います」(伝25・10)。 この不純な霊の現存は、すでに清められた霊でなければ知覚することができない。また悪魔のこうした激しい働きかけは、きわめて稀[まれ]であって、悪魔は自分にとって大いに恐るべきたくましい霊魂のためにだけ、この手を保留しているようにみえる。それにしても、そうしたことについての説明はやはり非常に役にたつであろう。これによって悪魔の常習の戦術、そのやりかたが示されるからである。 悪魔が、自分の力と、これと対照的な念祷初心者たちの弱さとを利用して、神に向かうかれらの歩みを妨げようと、できるだけ無味や散心をつくり出すのは、あたりまえのことと言えよう。初心者に対する働きかけは、まず確実なことであり、それは聖テレジアに対するのより、はるかに軽い仕方であるとはいえ、その効果は恐らくずっと大きいのである。 (五) 神の黙認。──こうした自然の、また自然をこえる原因からの働きかけは、万事を神を愛する人びとの善のために役だてる神の英知の計画の中にはいっている。超自然的光と神の恵みはキリストの苦しみと死の実りであるが、それは人がこの「贖罪的な苦しみと死」にあずかることなしに、その霊魂内に深くしみ込むことはできない。 こうした苦しみは、自己についての光を与え、謙遜のうちにかためるのである。 「聖主が私どもをこの道を通してお導きになるのは、疑いもなく私たちのためなのです。実際、私たちは自分がどんなにつまらない者であるかをよく悟らなければなりません。のちに私たちに与えられるお恵みは、たいへん高い秩序に属するものなので、ルシフェルのようなほろびから私たちを守るため、主はまずそれをお与えになる前に、私たちが自分のみじめさの深淵を経験によってよく知ることをお望みになるのです」(伝11・11)。 |
それは勇敢な者を見分けさせる試練である。 聖女も言う。 「主は初心者に、また、時としては目標に近づいている人たちにも、こういう苦しみや、その他の多くの誘惑をたびたびお送りになると私は確信しております。それは主を愛する人びとをためすためであり、かれらに大いなる宝をお与えになる前に、主の杯を飲むことができるかどうか、主が十字架を担われるのをお助けできるかどうかをごらんになるためです」(伝11・11)。 この聖女のことばは、すべての活動──人間の自由な行為や敵意のある行為までも──を英知をもって支配し、すべてを「選ばれた人たち」の成聖のために役だてられる摂理の計らいを示すものである。 この初歩の無味乾燥においてさえ、「観想的無味」をつくり出す神的光の働きかけが、かなりたびたび、そして一定の間をおいて、見られるように思われる。 それだからこそ、聖テレジアの場合、悟性の無力は、前に受けた一致の恵みから来ていることは確かであるように私には思われる。完全な観想に高められた者は「キリストのご受難やご生涯の秘義について、以前のように考えをめぐらすことは、もうできない」(城、住6。7・7)からである。謙虚な気持ちと悲しみにくだかれていた長い無味乾燥の聖女の念祷は“感覚を精神に順応させ、やがて受けるべきすばらしい恵みに聖女の霊魂を準備させた強い神的光”に照らされた状態であったに違いない。 もちろん、初心者の無味のすべてについて、そう言えるわけではない。とはいえ、熱心な人の大部分にそうした観想的無味が、念祷の道の初めにおいてすら、一定の間をおいて起こりうると考えても、それほど言いすぎではないように思われる。 V その対策(一) 慎重。──散心の原因を調べてみれば、そのうちのいくつかは、激しい努力によってもどうにもならないものであることがわかる。超自然的真理を前にした機能の無力、諸機能の本来の不安定性、病気や悪魔の業などは、それらに勝とうとして無茶なことをするのは非理性的で、傲慢であることがうなずかれる。こうしたことを |
よくのみこむと、この確信は散心に対するすべての戦術を思いつかせ、そこに慎重さを与えてくれるであろう。事実、ただ慎重だけがこれらの妨げに打ち勝つことができるのである。賢明な師のことばに耳を傾けよう。 「それ(散心)を心苦しく感じているのですから、かれら自身の過ちでないこと がわかるでしょう。ですから、決してそのことで心を悩ませてはいけません。そう すればもっと悪い結果になるでしょう。悟性を道理に服させようとしても、その ときはできないのですから無理をして自分を疲らせてはなりません。自分にできる 程度に祈るか、あるいは全然祈らなくてもよいでしょう。霊魂は病気なのですから、 休みをとらせるように努め、何かほかの徳の実行にはげむとよろしい」(完26章144 ページ)。 聖女は他のところで、さらに正確に述べる。 「そんなとき、霊魂を無理強[じ]いすればするほど、その状態を悪化し、それを長びかせることになります。それで、この悪い状態がこういう原因(不調)から来ているときには、それを発見するために慎重にふるまい、かわいそうな霊魂を窒息させてしまわぬようにせねばなりません。こういう人びとは、自分が病気だということをわからなければなりません。念祷の時間を変えるのがよく、そして、数日間つづいてそうしなければならないことがたびたびあるでしょう。そしてこの流謫をまあどうにかがまんすることです。神を愛する者にとって、このような弱さのまん中にある自分を見、体という情けない宿主のおかげで自分の望みを実現できないというのは、まことにつらい十字架です」(伝11・15)。 聖女は以上をまとめて言う。 「そのようなとき、神の愛のために霊魂はからだに奉仕しますように、……他の多くの場合に、こんどはからだが霊魂に奉仕するために。聴罪司祭のお勧めにしたがって、聖なる会話のうちに何か気晴らしを求めてもよく、田舎の空気を吸いにいくのもよいでしょう。こういうすべてのことにおいて、経験は大きな助けになります。それは私たちに何が適するかを教えてくれますから。それに、どんな状態でも神にお仕えすることはできるのです」(伝11・16)。 ここに長い引用をしたのは、散心にどう対処するかの詳細な助言を集めるためというより──それは千差万別であるから──どのような心構えで散心に対する戦いをすべきかを、聖テレジアから学ぶためである。 |
ある種の無力から立ちあがらせるためには、ときには、努力を慎重に控えさせるというより以上に、さらに積極的に慰安を与えて負担を軽くさせ、理解ある手当てをするほうが必要であるということが推察される。ある場合には、指導者と医師の協力が必要となり、それが霊魂の進歩とともに、体の健康に大いに役だつことがある。 (二) 「慎重」は怠慢を助長するべきものではなく、堅忍を可能にするためのものである。 「ここでいちばんたいせつなのは堅忍です」(城、住2。1・3)と聖女は明言する。聖女はそれを倦まず繰り返す。しおりに次のように書いたではないか。「すべては過ぎ去る。忍耐はすべてをかち得る」と。このことは、特に念祷についてそうである。 この堅忍によってこそ、聖女自身、超自然的富をかち得たのであった。 「非常に苦しいか、あるいは、非常に忙しいというのでなければ、念祷に多くの時間を使わずに過ごした日は、実際、わずかしかありませんでした」と聖女はしるしている。 その一生のうちの最大の誘惑は、念祷しないでいるほうが、もっと謙遜なのだと思って、一年間、いやそれ以上も、念祷を怠っていたことであった(伝7・11)。 この堅忍は、ただ念祷の修練そのものについてだけでなく、念祷に伴うべき潜心の修業にもおよぼされなくてはならない。一日中、五官をいましめ、気を散らさせるようなつまらないことを避け、射祷とか、対神徳の行ないによって、できるだけひんぱんに、神にたちもどらなくてはならない。 気の散る念祷、特に無味乾燥の念祷は光を与えてくれるものである。それは霊魂の徹底的な弱さと共に、散心の正確な原因を示してくれるから。それは、ふつう何度も頭に浮かんでくる好感や反感、心を乱すあれこれの印象、しつこくつきまとう心の映像、潜心を妨げる思い出というようなもので、どんなに細かい糾明によるよりも、これらによって人は、自分が潜心の修業の努力を、特にどの点に注ぐべきかを正確に見いだすことができるのである。 たとえ、罪人であろうと、堅忍するならば神は憐れんでくださると聖女は保証する。 「おお、わがつくり主よ、あなたとは全然身分の違う悪者を、あなたはよい者になさいます。 |
かれらはその精神が、かつての私のそれのように、あなたから遠く運び去られ、さまざまの心配や、世間的な考えにかき乱されていても、一日に二時間、あなたがかれらのそばにおとどまりになることを、がまんしさえすればよいのです。このようなよい伴侶ととどまるためにした努力の報いとして、あなたは、私たちが初めのうち、──また時としては、あとになっても──それ以上のことができないことを理解してくださいます」(伝8・6)。 要するに、ただ堅忍だけが念祷における成功を保証しうるということである。 (三) この堅忍には、しんぼう強い、信頼にみちた謙そんが伴わなくてはならない。 「けれども、長い間、働いたあげくの果[はて]に、水を汲むことに、ただ無味乾燥、嫌気、退屈、極度の嫌悪にしか出会わない人は、ここでどうしたらよいのでしょう。もしもかれが、庭の主に喜びと奉仕とをささげていることを思わなければ、また井戸の中にたびたびバケツをおろして、しかも空のまま引き上げるというつらい仕事によって、それまでに得たすべての功徳や、これからもこの努力に期待する報いを失ってはならないと考えなければ、そこで何もかも投げ出してしまうことでしょう。……けれども、繰り返して申しますが、庭師はどうするでしょう。かれは喜ぶでしょう。自ら慰めるでしょう。このように高貴な王様の庭で働くこと自体、すでに非常に大きなお恵みだと考えることでしょう。事実、かれはそれによって王様を喜ばせていることを知っていますし、かれの目的は自分を満足させることではなく、自分の王様のご満足を求めることであるはずです。王様が自分をあてにしてくださることについて、最も熱い感謝をささげますように。……このようにして、十字架をお担いになる主をお助けしますように。おのが王国をこの世に求めず、念祷を決して投げ出しませんように。そして、この無味乾燥が一生続くはずだとしても、キリストをその十字架の重みにお倒れさせしないことを、かたく決心していますように。かれのご奉仕が全部、一度に支払われるときが、いつかくるでしょう」(伝11・10)。 このような、愛と忍耐が深くしみこんだ謙そんな心構えは、すでに無味乾燥の実りである。こうした心構えは、選ばれた人びとの聖化のために無味乾燥の状態という試練をゆるし、またそれを利用される摂理の計画に私たちを一致させるので、すみやかに神から最も高い恵みをかち得るのである。 |
「これらの苦労はみな価値があります。……私ははっきりと見ました。神はすでにこの世からでさえ、必ずじゅうぶんそれに報いてくださることを。実際、そののち、主が私の霊魂にご自分を味わわせてくださったこれらの時間のうちの、ただの一時間でも、私が念祷に堅忍するために長い間忍んだあらゆる苦しみを、支払って余りあることは確かであるように私には思われます」(伝11・11)。 イエズスは謙そんな、愛にみちた忍耐によって勝利を得られた。私たちにとっても、それと同じ心構えが、神との一致において妨げとなる内外の障害に、確実に打ち勝たせてくれるであろう。 「霊魂の城」の中で、聖テレジアはこれについての教えを、次のようにまとめている。 「この試練があまりにも苦しかったので、たぶん、あなたがたにも同じことかと思い、これが避けえられぬことであり、したがって、心配したり、悲しんだりしてはならないということを、いつかおわからせできればと、折りに触れてはお話しているのです。この粉ひき車は(注)勝手にまわらせておき、私どもは私どもで、意志と悟性を休ませず働かせて、自分の粉をひきましょう。 この悩みは健康状態や気候などによって、強かったり弱かったりしますが、あわれな霊魂は自分のがわに少しも過ちもないのに苦しまなければなりません。……このような雑念を気にしてはならないと、読んだり勧められたりするだけでは、知識の低い私どもには足りません。ですから、これについてもっと詳しくお話しして、この点であなたがたをお慰めするために使う時間は、決してむだな時間つぶしとは思いません。とはいえ、この説明も、主が光をくださらなければ、ほとんどお役に立たないでしょうが。とにかく、私どもは自分をよく知り、想像力の弱さや本性や悪魔がすることを霊魂のせいにしたりしないように手段を講じなければなりません。みいず高き神もそれをお望みになります」(城、住4。1・13)。 |
注 粉ひき車は……。原文は |
この謙そんな忍耐と不屈の努力とは、報いを受ける。聖テレジアが、その著「霊魂の城」の中の第三の住居と呼ばれる段階までたどりついた勝利者たちにおくる熱賛のことばに耳を傾けよう。 「神のおん憐れみによって、この勝い[たたかい?−入力者]に勝ち、堅忍して第三の住居にはいった人たちに対しては、なんと言いましょうか。ただ『主を畏[おそ]れる者はしあわせ』としか、言うことばを知りません。……そうです。私どもが、しあわせな人とかれを呼ぶのは、じゅうぶん理由のあることです。もしあともどりをしないならば、かれは、──私どもにわかる限りでは──救霊の確かな道におります」(城、住3。1・1)。 正確は、いくつかのことばで、聖女はこれらの人びとの像を生き生きと描写する。 「その人たちは神にそむくまいという熱い望みをいだき、小罪に対しても用心し、抑制に専念し、潜心の時間を持ち、時を善用し、隣人に対する愛徳のわざを行ない、ことばや身なりもきわめて端正で、もし一家の長ならば、賢明に家を支配したします。たしかにその人たちの状態は羨望に値します」(城、住3。1・5)。 これは、まことによく整えられた霊的住居である。そこではすべてが秩序正しく息づいていて、一つの美しい姿勢を持っている。だが、その全体の展望だけに満足せず、その詳細を調べてみよう。 この美しい秩序は、外面の生活が完全に組みたてられていることによるものと思われる。この人びとは一定の信心業を、きめた時間きちんと果たし、時間の善用から愛徳の行ないをする余裕もある。一つの生活規則を持っている。今日のことばで言えば「信心が堅固で、事業に献身的につくす人」ということである。かといって、その働きや信心のために、家庭や社会での義務を欠くという心配もない。この点においてかれらには怠慢がなく、一身上のことにも、家の取り締りにも、賢明な人たちである。そのりっぱな信仰心が、すべてなすべきことを、まことに幸いに形よく調和させてくれるのである。 |
だがしかし、この美しい表面の背後には何があるだろうか。この、見た目に美しい秩序は、家の内部にもみなぎっているであろうか。そう思える。なぜなら、この人びとは「神には決してそむくまいという熱い望みをいだき、小罪に対しても用心する」のであるから。かれらの心構えといえば、こうしたものである。 今、──ことに第一の住居にいたころの──心の状態を思い起こすならば、その美しい成長を、聖テレジアと共にたたえずにはいられない。なにしろ、そのときには世間的な考えでいっぱいで、好き勝手な心の動きに任せ、まじめに神のことを考えるといえば、やっと月に「何度」というだけであったから。 思えば、危険な機会を避け、気ままな心の傾きを抑え、生活をきちんと整え、決まった信心業を日課に加え、身分上の義務を入念に果たし、前にはつまらない楽しみや無益な娯楽に使っていた時間を愛徳の業に用い、万事において罪を避け、徳を修め、その態度、ことば、動作のすべてをよく整え、そこに内面の心構えがつつましやかににじみ出ているようになるまでに、かれらの払った不屈の努力、自分に対し、そしておそらくは、他人に対してもいどまなければならなかった戦いの激しさが察しやられるのである。 一つの段階は乗り越えられたわけである。さまざまな習慣が身につき、それが日常生活にしみ込んで来ている。そのふだんの生活のしかたも、べつに秘密にしようとは思わないさまざまの心がかりも、人目[ひとめ]を顧[かえり]みない、しかしつつましやかにひろげられるその善業も、すべてよそ目から見て、その人びとは、信心の堅固なこと、心の広くあたたかいことなどで、当然、人から重んぜられ、尊敬される部類に属する。 それは理性に照らされた意志の忍耐強い努力がかち得た一つの勝利である。しかし、私たちにとって特に興味があるのは、念祷における進歩である。 聖テレジアは、第三の住居について語って「そこの人たちは潜心の時を持っています」と簡単に述べ、ただし、ときとして無味乾燥のこともあると付け加えている。「完徳の道」と「自叙伝」は、この人たちの念祷の進歩について、もっとよく説明してくれるであろう。 この領域(念祷の進歩)においても、忍耐強い努力が潜心を容易にならせている。 |
祈り始めるやいなや、まるで蜜蜂が蜜をつくるために蜜房に帰って、その中にはいるように、感覚が一つのところに集中するのを感じるでしょう。そのためになんの努力もいりません。しばらくの間、自分に暴力を加えて努力をしていた間に、こうして意志が支配権をふるえるようになるのを、主はお望みになったのです。潜心したいという意志を示しさえすれば、たちまち感覚はそれに従って、至聖所にはいります。また外に出るでしょうが、一度従ったというだけでも、たいしたものです。ですから、出るとしても、もう、前のように害を加えることのできない家来か虜のようにして出るだけで、もし意志が呼びもどせば、前よりもずっと早く帰ってきます」(完30章164ページ)。 こうして潜心の容易性が獲得されると、それまで神との親しい交わりを支えていた諸能力の働きも単純になってゆく。 以前には主のもとにとどまるためには、長い口祷をしなければならなかったのだが、今では「聖主と共にいるように、しばらくの間、真剣な努力を惜しまず続けるならば、やがて、何かのしるしだけで、わかっていただけるようになります。以前には、わかっていただくために主祷文を何回か唱えなければならなかったのが、ただの一度で聞いていただけるのです。主は私どもに疲れを避けさせたいと、非常に望んでおられます。一時間のうちにたった一度しか主祷文をとなえないとしても、私どもが主と共にいることを悟り、お願いしていることをわきまえ、主はどれほど私どもの願いを聞き入れたいと望まれ、私どもと共にいることをお喜びになるかをわかりさえするならば、それでじゅうぶんなのです。私どもが長いお話を申しあげようとして頭を痛めることを主はお好みになりません」(完31章171-172ページ)。 もしイエズス・キリストを頭のなかに描き出すために想像力を使うとすれば、そのイメージもまた簡単になり、細かいところはぼかされ、輪郭は不鮮明になり、愛すべき現存だけが、もっと生き生きと浮き彫りになって、もっと強く心をとらえる。 知性はといえば、たいていの場合、いろいろと道理を推して考えたりさまざまの題材について頭を働かせて黙想したりといったことに対する好みを失ってしまい、むしろ、心の糧に富んだあれこれの真理、あるいは、すでに知っているいくつかの考えを大きくまとめた総合のほうに、喜んでもどってくる。そして、一見、ばく然とした、 |
しかし、実際には深い洞察力と愛にひたされた単純な目で、それらを見てとり、そこから深く生き生きとした印象をひき出すようになる。 盛りたくさんのことばや、諸機能の騒々しい働きは消えて、そのあとに、いわば暗号での通じ合い、心の動き、単純な視線、主のかたわらにおける平和な憩いが残る。 この沈黙や、この憩いこそ、愛を雄弁に表現する態度であり、愛の交換をじつによく助成するものである。 「こうした霊魂は非常にすばやく神の愛の火に燃えあがります。かまどのすぐそばにいるので、小さな火の粉でも触れるなら、知性のほんのわずかなひと吹きで、たちまち全部燃えあがります」(完30章165ページ)。 働きが単純化されたこの念祷は、どの程度「観想的」ということができるであろうか。今のところ、この複雑な問題には触れないことにしよう。ただ、こうした念祷を、単純化された念祷、さらによく言えば、単純の念祷と呼び、それは「沈黙のうちの注視」と定義しておこう。 何か一つのはっきりした真理、またはキリストの生き生きとした姿に注がれるこの視線は能動的なものであるが、その見つめているものに引き寄せられてゆくうちに、静かに沈黙に入って行く。 したがって、この単純の念祷のうちには二つの要素を区別することができる。すなわ ち、対象に注がれる目と、そこに生じる静けさ、あるいは沈黙である。その二つは前後 して現われるようであるが、その実、同時的なものである。 人は通常、その性質によって、そのうちのどちらかをより強く意識する。ある人は心の静まりということにはあまり注意を向けず、特に、自分が「見ている」ということを意識するであろうし、他の人は静かな甘美な印象のほうに気持ちをゆだねて、対象のほうには印象を常に新鮮に保っておくのに必要な程度に注意を注ぐだけである。前の場合の念祷は文字どおり「単純な注視の念祷」であり、後者の場合は、「単純化された潜心の念祷」ということになる。 単純な注視の念祷は、いわば心の目を開いてなされると言えようし、潜心の念祷は受けとる光のまばゆさのために、目をとじさせられる。熾天使[セラフィム]は永遠者のみ前で顔を覆っていると言われるが、幼きイエズスの聖テレジアは、自分はそのようにはせず、 |
善き神さまの目をみつめようと言う。三位一体のエリザベト修女は、これと反対に、むしろ光のまばゆさに目をとじていたように思われる。こうしたさまざまな態度は、それぞれ特別な名で呼ばなくてはならないようであるが、結局のところ、単純の念祷という、この「沈黙のうちの注視」の、さまざまの形態、あるいは、ただその意識されかたの違いにすぎないように思われる。 では、この「単純の念祷」においては、どのような態度をとるべきであろうか。重要かつ実際的なこの疑問に対する答えは、この念祷の定義それ自身によって与えられている。この念祷は「沈黙における積極的な注視」である。それならば、働きと沈黙とを同時にものにしなくてはならない。憩いは機能の働きが単純化されることから生じるもので、どんな頭の働きよりも、もっと益[かて]になり、糧となるものである。それで、それを尊重し、保つようにすることが必要である。しかし、知性は動くものであるため、いつまでも気を散らさず一つの対象を見つめていることはできないから、この憩いも、長く保つことはできない。したがって、心を静まらせる印象を新たにし、そこから生じる生命を汲みとるためには、思考の対象、あるいはまた、まったく別な考えに機能を集中しなくてはならない。 前にも言ったように、聖テレジアは念祷中、諸機能が神の強い影響に捕らえられてしまっているのでないかぎり、機能を働かせるようにと絶えずくりかえし勧める。しかしこの必要な働きも、霊魂内のある領域を包む実り豊かな沈黙を乱すようなことがあってはならない。これが「城」の第四の住居で聖女が説明している二つの勧告である。すなわち、聖女はそこで、霊魂の能力に活動の自由を残すところの受動的潜心と、意志をとらえる──そしてそれは悟性の働きによって乱されてはならない──静けさとについて、詳しく説明している。 聖女は言う。 「神は私どもがそれを使って働くためにこそ、いろいろな能力をくださいました。そしてその一つ一つが報いを受けるのです。ですから能力を魅力にかけて縛ろうとするまでもありません。そうではなく、神がもっと高い状態にお呼びになるまでは、それぞれ務めを果たさせておきましょう」(城、住4。3・6)。 受動的潜心のために示されたこの原則は、まして単純の念祷では、さらにいっそう |
実行されるべきものである。 とはいえ、この働きは以前より静かになっているであろう。今までになしとげた単純化から霊魂が益を受けるのは当然である。それにまた、むやみに能力を働かすならば、この念祷の価値そのものであり、また恩恵の影響に対して心を開いてくれる沈黙の憩いをこわしてしまう。 この念祷は、論理的な筋をつぎつぎに追ってゆく頭の働きというよりも、むしろいくつかの絵、または景色の前に足をとめながらなされるもので、そこでなすべきことというのは、そうした絵、または景色のそれぞれの前に出ること、足をとめて、一目で全体の美しさをとらえ、それを嘆賞すること、そして心を甘美に静まらせる印象が消え去ったなら、次のながめに移るよう、静かにつとめることである。 いつもきまった継続的な歩みを示す黙想に対し、この単純の念祷は、ゆるゆる立ちどまりながら、飛石[とびいし]づたいに移ってゆく、ゆっくりとした前進と言ってもよいであろう。そこでたいせつなのは、走った距離や、多くの考えではなく、考えが示してくれる現実との触れ合いによって心のうちに残される力である。わきあがる心の平安は、この触れ合いが行なわれたこと、そして霊魂がそこから利益を得ていることを示しているように思われる。だから、この念祷は、もっと行動的な形のあらゆる念祷──たとえどんなに熱烈で光にみちたものであっても──より比較にならないほど実り豊かなものと言うことができる。 こうした単純の念祷は、知的能力の洗練された高次の形の働きによって生み出されるものである。なぜなら、こういう働きは直観に接近しているが、透徹した直観は頭を働かせる考察より、より高いものであるからである。 ちょうど、規則正しい信心の実行、悪い傾きの抑制、身分上の義務の遂行、私たちが感嘆して眺めたあの美しい秩序のすべてが、修徳における、また信心生活をととのえることにおける意志の勝利を示すのと同じ意味で、こうした知的能力の洗練された働きは、念祷における知的な働きの勝利を示しているのである。 人は知的、精神的エネルギーのすべてをあげて、その理想の追求に集中し、完徳の道に打ち込んだ。そして、神の探求における人間の働きの勝利を示すものである。 |
聖テレジアがそれをよろこび、このような成果を大いにたたえている気持ちが、私たちにもわかる。 「主が最初の困難に打ち勝たせてくださったのは、わずかなお恵みどころか、たいへんなお恵みです。……たしかにかれらの状態は、うらやましいほどのもので、最後の住居まで行きつくのに何も妨げがないように見えます。もしかれらが望ならば、主はそこにはいることをお拒みにはならないでしょう。あらゆるお恵みを主からいただくだけの、たいへにんよい心構えを持っていますから」(城、住3。1・5)。 この称賛の中には、励ましと期待がある。それにまた、頂きに行きつくまでには、まだ長い道のりがあることも、言外に示されている……。 |
私たちの念祷 ¥700 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1966年1月24日 発 行 1986年2月15日 3版発行 著 者 幼きイエズスの マリ・エウジェーヌ修父 共 訳 東京女子跣足カルメル会 島 崎 重 松 発行者 ド ン ・ ボ ス コ 社 代表者 ヨゼフ・サンティ 印刷所 ワ カ バ ヤ シ 印 刷 東京都新宿四谷1−9−7 発行所 ド ン ・ボ ス コ 社 電話 351−7041 振替東京5−35271 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ CUM APPR.ECCL (東京 No. 96/95) |