ここに激動の時代に誕生した一台のカメラがある…。
「ダン35」。
国民の誰もが手軽に扱える事を願い焦土と化した戦後の東京で開発された小型カメラだった。
その開発者の息子はやがて日本のお笑い界の頂点に君臨する事となる。
先生どうぞ!先生!昭和41年「コント55号」で鮮烈デビュー。
芸人以外の相手を番組に起用し「笑い」を引き出していく独特のセンス。
その圧倒的な実力と人気はもはや「お笑い界の伝説」となっている。
そんな欽一は父が開発したカメラを長年持ち続けてきた。
カメラ開発で財を成しその後事業に失敗した父萩本団治。
なぜ父は家族を犠牲にしてまでカメラに執念を燃やしたのか?番組では欽一に代わって家族の歴史を取材した。
向かったのは…そこで浮かび上がったのは15代続く萩本家のルーツ。
日本一のまんじゅう作りに心血を注いだ祖父萩本安太郎。
ふざけるな!家業と決別しカメラ業界の風雲児としてのし上がった父団治。
「カメラの力で戦後の日本に笑顔を取り戻したい」。
そこには時代の先を見通し戦争のさなかにもカメラの部品をかき集める父の姿があった!そしてばく大な借金を抱えた家族を救うためコメディアンになった欽一。
そんな息子が許せなかった母トミ。
今回長年伏せられてきた母の秘めた思いが明らかに!取材の結果を伝える日。
萩本欽一は初めて自らのルーツと向き合う。
東京都文京区にある映画会社。
50年以上前の映画の舞台に萩本家の本家が登場していた事が今回の取材で明らかになりました。
昭和37年公開の映画「あすの花嫁」。
原作は小豆島出身の壺井栄。
吉永小百合さん演じるヒロインの実家として登場していたのが実は萩本家でした。
その家業は小豆島で150年以上続くよろず屋です。
現在は建て替えられましたが萩本家は今も同じ場所で暮らしていました。
ご主人の…昌平さんは本家の15代目。
萩本家の家系図をかいて頂きました。
(取材者)そこに欽一さん。
(昌平)そうですね。
ええない。
萩本家の家系図です。
11代目久平の長男興市の流れが萩本家の本家筋。
一方分家筋に当たるのが次男の安太郎。
欽一の祖父に当たります。
実は安太郎は明治の小豆島で商売を興し成功を収めた人物でした。
売っていたのはまんじゅう。
当時小豆島ではまんじゅうが食べたくても島の外に買いに行かなければなりませんでした。
そこに商機を見いだした安太郎はいち早く自宅で開業したのです。
息子たちの中で安太郎が最も期待をかけたのは活発な三男の団治。
後の欽一の父です。
やがてまんじゅうの味が評判となり安太郎は高松へ出店。
昭和初期の高松市の地図に店の名前が載っていました。
こちらが「たかなまんぢう」になります。
「たかな」の意味は「高松の名物」。
「このまんじゅうを名物に育て上げたい」との思いを込めた店名でした。
ところが…。
ふざけるな!18歳に成長した団治は「田舎でまんじゅうを作るよりも東京に出て自分の力で勝負がしたい」と言いだしたのです。
親子は決別。
戻らない覚悟を決めた団治は高松を飛び出しました。
大正9年団治が向かった先は東京上野広小路。
東京でも珍しかったカメラ店に住み込みで働き口を見つけました。
店に飾られていたのは輸入されたばかりのドイツ製カメラ。
カメラが高根の花だったこの時代団治は直感しました。
「この先価格が下がればカメラは世間に広まっていく。
そうすれば庶民が写真を楽しめる時代が必ずやってくる」。
団治の長男欽一の兄である萩本功さんです。
カメラに出会った喜びを後に団治は功さんへ語っていました。
萩本団治この時二十歳。
…と夢を描いた瞬間でした。
大正13年24歳になった団治のもとへ見合い話が飛び込みます。
相手は高松出身の資産家の娘田岡トミ17歳。
女学校を優秀な成績で卒業し専属のお手伝いさんがつくほどの箱入り娘でした。
そんなトミにとって団治は「最先端のカメラを扱う都会の青年」に映ったといいます。
トミの一目ぼれでした。
2人は結婚。
ところが新婚初日から大騒ぎになります。
新居となった東京銀座の長屋。
団治は小さなカメラメーカーに転職していました。
おなかをすかせて帰ってくると夕食の準備は一切なし。
トミは平然と言いました。
トミには「食事を作る」という発想がありませんでした。
両親の新婚秘話を教えてくれたのは長女の萩本玲子さん。
欽一の姉です。
雪崩を打って落ちてきたのは洗っていない大量の靴下やワイシャツ。
トミには「洗濯する」という発想もありませんでした。
昭和2年長男功が誕生しその後も2人は子宝に恵まれました。
更に昭和16年三男欽一が誕生。
父親によく似た垂れ目がチャームポイントでした。
このころ団治は独立を果たします。
上野に萩本商店を開店。
中古カメラやフィルムの販売現像を一手に引き受けました。
やがて太平洋戦争が始まるとほとんどのカメラメーカーは製造を中止。
そんな中団治は一人黙々とごみ同然になったカメラの部品を大量に購入していきました。
借金を重ねても買い続ける団治。
家族の不安は相当なものでした。
東京が焼け野原になる中萩本商店は奇跡的に戦火を免れました。
妻のトミと6人の子供たちも埼玉浦和へ疎開していたため全員無事でした。
団治は「この時」とばかりに動き出します。
借金までしてかき集めたカメラの部品の山。
団治は職人と2人半ば強引に部品を組み合わせカメラを作り上げていったのです。
更には上野の駅前地下鉄ストアビルに店舗を借り受けます。
「焼け野原と化した東京でお世辞にも性能が良いとは言えないカメラを一体誰に売るつもりなのか?」。
不安な家族をよそに団治は予見していました。
店に詰めかけたのはなんと進駐軍。
僅か5坪ほどの店はごった返し団治の作ったカメラを我先に買い求める騒ぎとなりました。
この時店を手伝っていたのは長男功とアルバイトの女性店員たち。
あまりの忙しさに長女の玲子さんも応援に駆り出されました。
アメリカ兵にとって終戦後の日本駐留は「ちょっとした観光気分」もありました。
そのために人気が集中したのが気軽にスナップ写真を撮れるカメラ。
アメリカ本土への土産物に最適でした。
団治の予想はピタリ的中しました。
(取材者)失礼します。
今回の取材で団治に影響を受け戦後カメラ店を始めた人物がいる事が分かりました。
団治とは戦前近くに住む顔見知りでした。
田中さんが進駐軍でにぎわう萩本商店を偶然見つけ団治と再会を果たしたのです。
家族を養うために仕事を探していた田中さんはカメラ業界の事情を団治から教わったといいます。
団治は田中さんの持っていたカメラを10倍の値段で買い当面の資金を提供しました。
田中さんはカメラ店の開業を決意。
以来88歳で店を閉めるまでカメラ一筋の人生を歩んできました。
あ〜…。
何?あの…しょう…島島…。
昭和21年進駐軍相手のカメラ販売が絶好調の団治。
一方浦和で子供たちを育てる欽一の母トミ。
団治のおかげで生活は潤っていました。
「ねえや」「ばあや」と呼ぶ2人のお手伝いさんを雇い何不自由ない暮らしぶりでした。
この時期萩本商店は上野の本店以外に神田日本橋銀座と次々に支店を出していきます。
長野の諏訪に工場も新設し全従業員は100名を超える勢いでした。
ところが…この日GHQは日本のカメラ業界全体を震撼させる決定を下しました。
「写真用のロールフィルムの生産中止」。
GHQは各フィルムメーカーに対し代わりに医療用レントゲンフィルムをもっと増産するよう厳しく指導したのです。
当時国内で広く出回っていた写真用フィルムは「120」や「127」と呼ばれる大きいサイズのフィルムでした。
「このままではカメラを生産しても使えるフィルムがない」。
団治はここが勝負どきと考えました。
団治が目をつけたのはかろうじて生産が許可されていた35ミリフィルム。
中でも「ボルタ判」と呼ばれる低価格のフィルムを使うカメラの開発に取り組みました。
販売価格もギリギリまで下げるためボディーに使う金属を極力削減。
試作機を何度も作りました。
長男の功さんはこの時に団治と交わした会話を今でも覚えています。
5か月に及ぶ試行錯誤を繰り返しついに完成した団治のオリジナルカメラ。
昭和23年に発売された小型の国産カメラです。
驚くべきはその価格。
以前より流通していたドイツ製の35ミリカメラは中古でも10万円以上といわれる代物。
国内の高級カメラはおよそ6万円。
そんな中ダン35は3,000円で売り出したのです。
東京千代田区にある日本カメラ財団。
団治の意気込みが伝わる資料が今も残されていました。
団治は当時珍しいカメラの専門誌も発刊。
表紙には堺正章の父で人気喜劇俳優の堺駿二を起用しました。
その誌面ではダン35を使ったコンテストを開催。
写真を楽しめる場を提供しました。
ところが事態は思わぬ方向へ…。
頼みの綱だった進駐軍にもダン35は不評でした。
当時のアメリカではこのカメラに使用するボルタ判フィルムがほとんど流通していませんでした。
土産物にはならなかったのです。
なぜ3,000円という破格の値段で売り出したダン35が受け入れられなかったのか?カメラの歴史に詳しい日本カメラ財団の谷野啓理事です。
時代を先取りしすぎた小型カメラダン35。
在庫の山を抱えた団治。
膨らんだ借金は現在の金額で5,000万円以上に上りました。
昭和25年団治の会社は倒産したのです。
(取材者)いかがですか?倒産を受け家族の生活は一変します。
膨らんだ借金を前に金策に奔走する団治は家を空けがちに。
お手伝いさんを雇う余裕はなくなりました。
昭和26年一家は台東区の長屋へ引っ越します。
お嬢様育ちだった欽一の母トミ。
覚悟を決め嫁入り道具の高価な着物を質に入れました。
ここから奮闘が始まります。
みんなごはんよ。
ほら!夕食はほぼ毎日半身の焼き魚と米が極端に少ない粥。
しかも自分にはおかずを用意しませんでした。
下膳後の台所で子供たちが残した僅かな魚の身を口にしていたのです。
食べるところがなくなった骨には熱いお湯をかけ汁をすすって空腹をしのぐトミ。
心配する子供たちにはあえて別の理由を言い続けました。
更にトミは夫に対して一切の愚痴をこぼさず子供たちにこう説明したといいます。
はい。
気丈に振る舞う母のおかげで子供たちは卑屈にならず成長できたといいます。
ところが欽一が中学に上がった時事件が起こります。
おい見つけたぞ!見つけたぞこの野郎!金返せよ。
借金取りでした。
返済が滞っていた団治。
借金取りは自宅を捜し回っていたのです。
この時たまたま家にいたのはトミと欽一だけでした。
もう少し待って下さい!必ずお返ししますので。
欽一の思いを悟ったトミは無念の気持ちでいっぱいでした。
トミは何とか家計をやりくりして高校までの学費を捻出。
しかし大学へ進ませる余力はもうありませんでした。
団治が作った借金は一向に減らず萩本家はついに苦渋の決断をします。
萩本家はバラバラに生きる事になったのです。
東京を離れる兄嫁にいく姉アパートを探す弟…。
一日も早く大金を手にしたい欽一は「コメディアン」を志しました。
退路を断つため家族の連絡先は誰一人聞かなかったといいます。
飛び込んだ先は浅草のストリップ劇場。
そこで欽一は人気コメディアンの東八郎を師と仰ぎ芸のいろはを徹底的に学びます。
6年に及ぶ下積み生活。
そして…。
昭和41年劇場の先輩だった坂上二郎と「コント55号」を結成。
欽一はテレビに狙いを定め「画面をはみ出さない」という従来のテレビの常識を逆手にとります。
先生どうぞ!先生!カメラが追いつかないほどの躍動感。
更に先の読めないハラハラドキドキ感。
(笑い)その台本全てを手がける欽一に日本中が注目しました。
音信不通になっていたきょうだいたちは驚き慌ててテレビ局へ連絡を入れたといいます。
更に欽一にはうれしい事が続きます。
母トミが都内のアパートで暮らしていた事が分かったのです。
欽一とトミ10年ぶりの再会でした。
ところがトミは…。
「息子は貧乏のおかげでコメディアンという恥ずかしい職業に就いてしまった」。
10年ぶりに再会した母と子の距離は縮まるどころか逆に離れていってしまったのです。
欽一はこの出来事を振り払うかのように仕事に没頭していきます。
「欽ちゃん」の名を冠した3つの民放番組はそれぞれ視聴率が30%を突破。
欽一の活躍が結果として「お笑いの地位と質」を向上させていきます。
「恥ずかしい職業なんかじゃない」。
それから15年余り。
トミは脳梗塞を患い昭和61年からは四男の悦久さんと同居していました。
実は今回トミの知られざる一面が明らかになりました。
(取材者)これがお母さんの部屋に置いてあった?生前のトミは手紙の下書きを大量に残していたのです。
宛名のほとんどが「欽一」。
欽一と疎遠になっていた時代に書かれたものでした。
(取材者)出さないんですか。
「欽ちゃん今晩は。
私は午後5時半のきんきらきん530は必ずテレビの前に座って見せてもらっています。
面白くてもう大変です」。
「お久しぶりですねお変わりありませんかお元気ですか毎日生放送に出演で大変でしょうねテレビ朝日に10月からお休みする様ですけど体は大丈夫ですか」。
更に欽一の師匠の葬儀に寄せた「感謝の下書き」もありました。
「昭和63年7月23日浅草本願寺にて故東八郎氏の本葬儀があります。
萩本欽一立派に葬儀委員長を務めますように」。
「生前は大変欽一がお世話になりました。
有難うございます」。
一通も出せなかった欽一への手紙。
その内容は「誰よりも息子の身を案じる」母の姿であふれていました。
(取材者)いかがですか?VTRご覧になって。
へぇ〜。
でも…。
いやぁ〜…。
うん。
全然…。
萩本家が解散したあと父の団治さんはどうしていたのか?その消息を香川県高松で見つける事ができました。
萩本豊さんです。
豊さんの祖父は団治さんの兄に当たります。
団治さんは兄が営む店の従業員になっていました。
その店とはカメラ店。
60歳を過ぎても借金を抱えていた団治さんは現像係として働き始めたのです。
テレビをにぎわす欽一さんの事をいつも気にかけていたといいます。
人々が豊かになるとともに手軽に扱える小型カメラが一大ブームを巻き起こしていました。
夢が現実となったうれしさとその主役になりえなかった寂しさ。
日本のカメラ文化をもり立てようとした父団治さん。
昭和48年72歳で亡くなりました。
疎遠だった母と子の距離が縮まるのは平成10年。
欽一さんが長野オリンピック閉会式の司会を務めた事がきっかけでした。
皆さん!司会の萩本欽一です。
(歓声と拍手)トミさんは息子の晴れ舞台をテレビで見て涙を流したといいます。
平成20年101歳で死去。
長寿を全うしました。
今年2月73歳になった欽一さんは駒澤大学に合格。
今月から仏教学部へ通います。
番組が独自に入手した欽一さんの入学願書の下書きです。
どうして?そこには大学へ結局提出しなかったこんな思いがつづられていました。
あの〜大学がねお母ちゃんのお返しができたって気がして…。
母ちゃん行ってくるからね!2015/04/03(金) 22:00〜22:50
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「萩本欽一 〜父のカメラと、母が出さなかった手紙〜」[字]
萩本家のルーツを知らない欽ちゃん。小豆島で始めた意外な商売。そして戦後、父が人生をかけ開発したカメラ。それが、失敗による没落。支えた母の姿に欽ちゃんは号泣する。
詳細情報
番組内容
欽ちゃんは、萩本家のルーツを知らない。それが今回、明らかに。小豆島で始めた意外な商売。そして終戦後、父が開発した小型カメラ。全く売れず、一家は没落していく。苦しい生活を支えたのが母。欽ちゃんは、コメディアンとして成功し、母を楽させたいと誓う。しかし母は、お笑いを嫌い、2人の間には溝ができていく。今回の取材で、母が出さなかった手紙が見つかった。そこには息子への思いがつづられていた。欽ちゃんは号泣する
出演者
【ゲスト】萩本欽一,【語り】余貴美子,大江戸よし々
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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