ファミリーヒストリー 2015.04.03


茨城県立歴史館。
県の文化財として移築・保存されている小学校校舎。
今から134年前明治14年に建てられました。
実はこの校舎を設計し建築した宮大工を先祖に持つ女優がいます。
まあまあようこそ。
ほんまお疲れさんじゃったね。
二十歳で芸能界にデビューして以来映画テレビ舞台で活躍しています。
美智子さんは先祖が小学校を建てた事は知っています。
しかし詳しい事は聞かされていません。
番組では美智子さんに代わり家族の歴史を追いました。
150年前の古文書に記されていた知られざる先祖の存在。
宮大工だった先祖の仕事の数々が明らかになります。
町のシンボルだった3階建ての小学校。
画期的な建築様式として今も高い評価を受けています。
そして海軍の軍人として戦場に向かった祖父。
南洋の島で直面したあまりに過酷な現実とは…。
極限の中で祖父が戦友のためにとった行動が2人の生死を分けました。
この日羽田美智子さんは知られざる家族の歴史と向き合う事になります。
羽田美智子さんのふるさと…江戸時代鬼怒川と利根川を利用した水運で交通の要衝として栄えました。
川沿いには大きな回船問屋などが建ち並んでいました。
と言われたくらい…かつて宮大工をしていた羽田家は戦後たばこや切手を売る商店になりました。
あっ!店を切り盛りする…清さんも自分が通ったあの小学校を先祖が建てた事は知っていますが細かくは知らないといいます。
いや〜…まあ…そんな羽田家に関する資料が県の歴史館にある事が分かりました。
わ〜古そう!こちらが「萬覚帳」になります。
見つかったのは水海道にある寺報国寺の建設に関わる150年前の記録です。
ここに羽田安兵衛という名前があります。
寺を建てた宮大工の棟梁の中に羽田安兵衛という人物がいました。
父清さんに羽田安兵衛という先祖について聞いてみました。
位牌に安兵衛の名前がないか調べてもらいました。
うわ〜古そう。
(取材者)ありました?安兵衛は美智子さんから遡る事5代前の先祖である事が分かりました。
安兵衛が建立に関わった報国寺。
住職の瀬戸さんに羽田美智子さんの先祖が建てたという事を伝えました。
その後安兵衛の跡を継いだのが長男の甚藏でした。
美智子さんから遡る事4代前の高祖父に当たります。
水海道小学校にある歴史の部屋。
地元に残る古い資料を集め保存しています。
この辺りが確か…。
これは当時の建築の専門書。
甚藏も神社や寺院の建築が専門の宮大工でした。
そんな甚藏が33歳の時大きなチャンスが訪れます。
子供が増え手狭になった水海道小学校の改築を依頼されたのです。
地元の豪商たちに寄付を募ると瞬く間に建築に必要な費用5,000円が集まりました。
町から甚藏への注文は当時流行していた……というものでした。
これまで全く経験のない洋風建築。
甚藏は横浜に向かいます。
そして数多く建ち並ぶ洋風建築を見て必死に研究しました。
当時の甚藏の様子を伝え聞いている人がいます。
江戸時代から代々続く薬屋です。
曽祖父吉太郎が甚藏の横浜行きを資金面でサポートしたと聞いています。
そして…水海道小学校が完成します。
開校式典には大勢の住民が集まりその完成を祝いました。
当時の雑誌にその熱狂ぶりが記されています。
それは後に「擬洋風建築」と呼ばれる和風とも洋風ともつかない新しい建築様式でした。
屋根は瓦を使った和風ですがドームやステンドグラスなど洋風の要素を取り入れています。
近代建築史が専門の…当時の大工たちは見よう見まねで洋風建築を建てていたといいます。
甚藏が特にこだわったのは3階の塔の部分でした。
その後甚藏は水海道天満宮の改築や地元の豪商の店舗を数多く手がけています。
「羽田甚」と呼ばれ名工としてその名をとどろかせます。
そんな甚藏の悩みは子供がいない事でした。
そこで跡継ぎとして為次郎を養子に迎えます。
これは為次郎のノート。
父から教え込まれた大工の知識がびっしりとつづられていました。
ところが明治21年為次郎は22歳の若さで突然亡くなります。
為次郎の墓にはその死因が記されています。
馬に乗っていて誤って落馬したというのです。
甚藏は落ち込みます。
江戸時代から脈々と続いてきた宮大工としての羽田家の歴史は終わる事になったのです。
ああいや…そうですね…為次郎が亡くなって17年後の…甚藏は羽田の家を守るため養子を迎える事にしました。
養子として迎えたのは当時25歳の寅吉。
雑貨店で働きながら商売の修業をしていました。
寅吉は羽田家に入ると新たな商売を始めます。
理髪用品の販売でした。
問屋からはさみ椅子鏡などを仕入れ理髪店に納める仕事でした。
店の屋号は「羽田甚」。
大工として知られた義理の父からとりました。
当時の寅吉の帳面です。
商売は順調で得意先は茨城県内だけでなく千葉まで広がりました。
しかしある悩みがありました。
跡取りと期待していた息子3人が相次いで結核で亡くなったのです。
商売を続けるには娘の好子に婿をとるしかありませんでした。
ある日寅吉は知り合いの理髪店の店主から一人の若者を紹介されます。
後に婿養子となる…元海軍の軍人で近所でも評判の好青年でした。
会った事ないおじいちゃんですね。
同じ村に住んでいた岡田久雄さん。
若い頃の三郎の様子を伝え聞いています。
三郎が海軍で任務についたのは…日本初の超弩級巡洋戦艦で第1次世界大戦から太平洋戦争まで活躍しました。
これですね。
はい。
三郎の遺品が残っています。
(取材者)あ大連。
(清)大連ですね。
24歳で海軍を除隊した三郎は農家の三男だった事もあり婿養子になる事に問題はありませんでした。
三郎は義理の父寅吉と共に理髪用品の販売を始めます。
当時の売れ筋はポマードなどの整髪料。
欧米からオールバックなどの髪形が紹介され人気となっていました。
結婚の翌年後に美智子の父となる清が生まれます。
跡継ぎに恵まれ仕事に励む三郎。
ある日配達している途中の事です。
池で子供が溺れているのに遭遇します。
間一髪で男の子の命を救いました。
その時助けられた少年の名は…何でこんな事が…。
清一郎さんは14年前63歳で亡くなっていました。
晩年羽田家をお礼に訪ね羽田美智子さんの実家である事を知ったといいます。
しかしこの後戦争が三郎の人生を翻弄します。
「勝つために理髪も一役」。
太平洋戦争が始まると男性には3つの短い髪型が推奨されます。
この発表でポマードなどの整髪料は売れなくなります。
そして昭和18年4月35歳になった三郎が再び海軍に召集されます。
これは出征の3日前自宅の庭で撮影した記念写真。
家族全員身なりを整えカメラを持っていた親戚に撮ってもらいました。
三郎が配属されたのは海軍第67警備隊。
軍艦の機関士でした。
向かった先は南太平洋にある小さな島ナウル島。
しかしナウル島に着いて3か月後悲劇が訪れます。
食糧や燃料の補給のためナウル島に向かっていた輸送船北昭丸がアメリカ軍の魚雷を受け沈没。
孤島に取り残され栄養失調者が続出します。
当時ナウル島で三郎と同じ部隊にいた…過酷な状況が忘れられません。
三郎たちは少ない食料を分け合い辛うじて生き長らえました。
ところが更なる試練が待っていました。
ナウル島の終戦処理を担当したのはオーストラリア軍。
当時人員が不足していました。
軍事史が専門の…三郎たちはピエズ島という島に移送されます。
そこはマラリアが蔓延する島。
別名「悪魔島」と呼ばれました。
捕虜たちは森林の伐採や道路建設など強制労働を課せられます。
そして次々とマラリアで倒れたのです。
終戦から2年後の昭和22年。
水海道の羽田家に三郎がマラリアで亡くなったという知らせが届きます。
当時12歳だった清さん。
その時遺骨が入っていない骨壺が一緒に届いた事を覚えています。
羽田三郎38年の短い生涯でした。
ところがしばらくたったある日の事です。
一人の男性が羽田家を訪ねてきました。
三郎の戦友が三郎の死の真相を伝えにきたのです。
また父があの…あの〜…ある日羽田家を訪ねてきた一人の男性。
亡くなった三郎の戦友で「ナカザワ」と名乗りました。
ナカザワは妻の好子に打ち明けます。
ピエズ島でマラリアにかかった時三郎が薬を分けてくれたおかげで助かったというのです。
「私は三郎さんのおかげで助かったのに彼を救う事ができなかった。
彼が亡くなる直前写真を預かりました」。
その写真は三郎の長女政子さんが今も大切に持っています。
亡くなった母から渡されました。
三郎は自分で特製のケースを作っていました。
出征の時の家族写真や幼い子供たちの写真。
戦場でも片ときも離さず持ち歩いていました。
そのナカザワという戦友とはその後音信不通になってしまいました。
長男の清さんが覚えているのはその人が横浜方面から来たという事です。
横浜で「市場」が付く駅は「十日市場駅」と「鶴見市場駅」の2つ。
住宅地図を使い2つの駅の周辺を探しました。
すると鶴見市場駅付近で中沢という家を見つけました。
早速家を訪ねてみました。
こんばんは。
あっこんばんは。
すみません私東京のNHKでディレクターをしております…。
どうぞあがって下さい。
あっよろしいでしょうか。
いきなりの訪問にもかかわらず快く取材に応じてくれました。
30年前に亡くなった父垣三さんが海軍に所属していたといいます。
安政さんに羽田三郎さんの事を知っているか尋ねてみました。
安政さんは父が水海道の羽田家に何度か出かけた事を覚えています。
軍歴を照らし合せると羽田三郎と中澤垣三は機雷学校第67警備隊で同期だった事が分かりました。
2人はピエズ島まで共に行動。
そこでマラリアにかかった中澤垣三は羽田三郎に薬をもらい助かったのです。
その後垣三さんは孫にも恵まれ80年の人生を全うしました。
(取材者)そうです。
そうなんだ…。
ねぇ。
一方戦争で大黒柱の三郎を失った水海道の羽田家。
高齢の両親と幼い2人の子供を抱え妻の好子は必死でした。
収入を得るため自宅で駄菓子やたばこを売る事にしました。
店の名前は羽田甚商店。
終戦直後の食糧難の時代さつまいもを潰して焼いた自家製煎餅を売りました。
長男清さんも母を手伝いました。
え〜知らないこんな食べた事ない。
苦労する母の姿を見て育った清は高校を卒業するとすぐに働き始めます。
祖父や戦死した父の理髪用品の販売を継ぐ事にしたのです。
祖父からは常々羽田甚の屋号を継いでほしいと頼まれていました。
各地の理髪店を回り商品を売り歩きます。
終戦後の混乱が収まり理髪店に行く人が増え売り上げは順調でした。
そんな中清は見合いをします。
相手は農家の三女で働き者と評判でした。
この女性こそ後に美智子の母となる…かわいい!美枝子は商売人の家に嫁ぐ事に憧れていました。
全く意味が分からない…。
そして2人は結婚。
美枝子は清から羽田甚という屋号の由来を聞かされました。
地域のシンボルであるあの水海道小学校。
それを建てた先祖甚藏からとった事を知ります。
ところが思わぬ逆風が吹きます。
・「潮来の伊太郎」・「ちょっと見なれば」当時ヒットしていた橋幸夫さんの「潮来笠」。
橋さんの髪型が人気を集めます。
短く刈り上げ整髪料をつけないスタイルは「イタコ刈り」と呼ばれ潮来のある茨城県では特に大流行しました。
そのため主力商品だったポマードが売れなくなったのです。
ポマードの…ポマードの浮き沈みって結構あるんですね。
ひどい事言ってる。
妻美枝子は進んで羽田甚商店の店先に立ちました。
朝は出勤するサラリーマンのために6時から店を開けたばこを売りました。
(ノックする音)夜は閉店したあとでも客に対応しました。
そして昭和39年近くの高校の生徒向けに菓子パンや炭酸飲料を扱い始めます。
当時輸入が自由化され安く売れるようになったコーラが大ブームでした。
高校生たちが羽田甚商店に続々とやって来ました。
そして…そのかわいらしさはすぐに評判になり「羽田甚のみっちゃん」と呼ばれかわいがられました。
かわいがってもらいました。
ところが昭和46年あるニュースが町じゅうを駆け巡ります。
水海道小学校の校舎が老朽化で維持が困難となったため水戸に移築される事になったのです。
羽田甚藏が建ててから90年の歳月が流れていました。
それからしばらくすると羽田甚商店の理髪用品の販売も厳しくなります。
安い商品を扱う同業者が急増したのが原因でした。
苦労する両親の姿を見て育った美智子はある夢を抱きます。
小学5年生の時の作文です。
「有名人になりたい。
そして親孝行したい」。
その後東京の短大に進学する事ができた美智子は夢への第一歩を踏み出します。
二十歳の時旅行会社のキャンペ−ンガールのオーディションに合格。
その後朝の連続ドラマにも出演。
やめてよばかばかしい。
そして平成6年美智子が初めて映画のヒロインに抜てきされた時の事です。
地元の有志が後援会を立ち上げ映画館のない水海道で上映会を開いてくれる事になりました。
「羽田甚のみっちゃんがついに映画でヒロインになった」。
なんと2,500人が詰めかけました。
両親が見守る前で美智子は挨拶に立ちました。
「この町に生まれてよかったです」。
会場は大きな拍手に包まれました。
ひゃ〜。
いや〜なんかこう今…今回取材中にあるフィルムが見つかりました。
昭和26年に作られた教育映画です。
水海道小学校が舞台になっています。
子供たちが運動会の準備をする姿が映し出されていました。
今年は僕たちがやる運動会だからこの委員会でつくるのが本当です。
(一同)はい。
わたくしたちだけじゃできないと思います。
(一同)はい。
はいできます!面白い!美智子さんの高祖父羽田甚藏が建てたこの校舎。
水海道の人たちにとって長年町のシンボルでした。
入学式運動会卒業式。
人生の節目節目にこの学校がありました。
昭和46年に水戸に移築されてからは県内外から見学者が訪れています。
デビューして27年。
美智子さんはこの日母校水海道小学校で講演を行いました。
(拍手)「私将来こうなりたいんだ。
こうなるんだ。
私はこうしたい。
僕はこうしたい」という思いはすっごく大事だから絶対に否定しないでほしいんです。
自分を応援してくれたふるさとへの恩返しを続けています。
そして水海道に根ざして商売を続けてきた羽田甚商店。
去年12月ついに閉店する事になりました。
「羽田甚」という名前も消える事になります。
店が閉まると聞いてかつての高校生たちが次々と挨拶に訪れました。
おつかれさま。
あら〜!うわすごいのね。
どうも。
いろいろお世話になりました。
いやいやとんでもない。
女優羽田美智子さんの「ファミリーヒストリー」。
ふるさとを愛しふるさとに愛された家族の長い歳月がありました。
あ〜感動しました。
2015/04/03(金) 14:05〜14:55
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「羽田美智子〜文化財を建てた宮大工 祖父の戦死の真相〜」[字][再]

羽田さんの高祖父は宮大工。茨城の文化財である小学校を建てた。それが明治の末、大工をやめた。その経緯とは。また南洋で戦死した祖父。死の真相を知る戦友が見つかった。

詳細情報
番組内容
羽田さんの高祖父は宮大工。茨城県の文化財である小学校を建て名工として知られる。それは擬洋風と呼ばれ、明治を代表する建築様式だった。それが突然、大工をやめた。そこには、どんな理由があったのか。また、南洋の島で戦死した祖父。それが終戦後、戦友を名乗る人物が訪ねてきていた。祖父の死の真相を知る人物だった。今回の取材で、その戦友が明らかになる。茨城、水海道で生きてきた羽田家の壮絶な歳月が浮かび上がる。
出演者
【ゲスト】羽田美智子,【語り】谷原章介,大山裕子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

OriginalNetworkID:32080(0x7D50)
TransportStreamID:32080(0x7D50)
ServiceID:43008(0xA800)
EventID:10927(0x2AAF)

カテゴリー: 未分類 | 投稿日: | 投稿者: